我家の御本尊様
虚空蔵菩薩
2014年9月21日、1年弱待った虚空蔵菩薩座像(桧、5寸)が自宅に納佛された。明慶先生に製作をお願いした時、「いま大事な仕事にかかっているので、彼岸過ぎまで待って欲しい」と言われた。
虚空蔵菩薩は寅年生まれの守り佛である。今まで無事に生きてこられたのを感謝するのと、今後の守り佛として見守ってもらうため、製作をお願いした。明慶先生の大事な仕事とは、高野山に納める四天王の製作であった。
虚空蔵菩薩とは、広大な宇宙の無限の智慧と慈悲を持った菩薩という意味である。そのため智慧や知識、記憶といった面でのご利益をもたらす菩薩として信仰されている。
「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるという修行を修した行者は、あらゆる経典を記憶し理解して忘れることが無くなるという。しかし、忘れることは人間の徳性である。忘れない人とは、神であり、人でなし。
松本明慶大仏師作 虚空蔵菩薩像
.
人の愚かさ
1979年頃、私も仕事で悩み、人生に迷っていた。ある新興宗教の教祖著の『密教入門(求聞持聡明法)』を読み、それに嵌りかけた。しかし物理的に凡人が、真言を百日間かけて百万回唱えるという修行が出来るわけがない。冷静に考えると、記憶を絶対に忘れないとは、人間でなくなることである。過去の嫌な失敗談を何時までも覚えていては、地獄である。今まで何回、嫌なことで死にたいと思ったことか。それが人間の特性として、忘れるから良いのであって、何時までも覚えていることは決して善ではない。
当時は天中殺も流行した時代である。この新興宗教の手法を盗用して、オウム真理教が勢力を拡大して、地下鉄サリン事件を起こした。有名大学出の若者が堕ちていった。頭が良い人は、楽をして成功を手に入れたがる。人とは愚かな存在で、歳を取らないと己の愚かさに気がつかない。人は愚かな事をしてみて、初めて愚かな事をしてはダメと気づく。
文殊菩薩
文殊菩薩は、衆知を集めて知恵を出せと教えている。三人寄れば文殊の知恵である。自分だけの考えでは駄目なのだ。文殊菩薩は、迷いや煩悩を断ち切る宝刀を右手に掲げ、左手に経典(佛の教え)を持ち、迷える衆生を導いている。
しかし三人寄っても、それが正しいとは限らない。個人ではなく集団になると、集団浅慮で、かえって短絡的に意思決定をしてしまう時もある。そこには賢さが無くなっている。
知識と知恵
知識とは議論において相手をねじ伏せるための武器である。時としてその知識が己の行動を縛る。智慧とは議論をしなくても問題を解決する佛智見である。知識で論理的に戦うことは、理でしか戦えない偏った戦いである。理だけでは感情を理解できない。だから「感動」はあっても「理動」はない。智慧とは理知をもって俯瞰的に物事を導く佛力である。お釈迦様はこの佛智見を衆生に教示するため現れた。
知識過剰
しかし、どんなモノでも過剰にあると毒になる。モノが過剰にあると探す時間と保管の時間を取られ、人生の時間(命)が蝕まれる。人生経営指標の無形資産回転率が低下する。モノには精霊が籠もっていて、使われない悲しみの表われである。知識もありすぎると、どれが有用なのかが分からなくなる。1テラの知識量よりも一つの智慧が勝る。
智慧の経営
浄土とは智慧で悟る世界である。穢土とは知識に振り回される煩悩が溢れる世界である。普賢菩薩と文殊菩薩は浄土から穢土に、理知を運ばれる。
知識は時代と共に正誤が変わるが、智慧は不変である。知識を武器に相手を論破する競争よりも、黙々と下に根を伸ばす精進で智慧を育むことが大事である。不毛な議論は時間の無駄で、議論の正誤は歴史が正してくれる。多くの人が嫌がることは正しいことではない。人に喜ばれてこそ功徳である。不毛の議論は犬も食わぬ。
賢くあれ
Appleのジョブズは新しいことを創造した人間として、母校のスタンフォード大学の講演で「愚かであれ」と唱えた。目的を達成するために、愚かもののように邁進するのは必要だが、知恵は必要だ。
凡人の私は、ホモサピエンスとして「賢くあれ」と唱えたい。ジョブズは世界一の金持ちになったが、間違った健康知識で癌を悪化させた。彼は癌に勝てず56歳で世を去った。世界一の財力でも、金と知識だけでは病気には勝てない。
人生を生きていくために貯めなければならないのは、金でなく智慧である。賢さである。病気になって金の力や知識の力で治すのではなく、智慧と賢さで病気にならないことだ。知識があっても、意思が強くないと、実行できず、免疫力を強くできず病気に負ける。
普賢菩薩
今の混迷の時代、我々に必要なことは、賢くなることだ。政府は当にならない。自分の身は自分で守る。知識がいくらあっても、意味がない。あまねく賢く振舞わないと、現世では負ける。政府もマスコミも賢くなく、烏合の衆である。
私は、毎日、普賢菩薩様に手を合わせている。賢く物事に対処したいと、誓っている。普賢菩薩は合掌して私に向き合っている。合掌して祈るとは、心を無にして、謙虚に反省して今後の自分の行動を誓うことだ。それがサムライの心得である。普賢菩薩は釈迦如来を守る脇侍である。
私が2019年に大病を患い、その病気の快癒を願って、文殊菩薩と普賢菩薩は、2019年7月に納佛された。
我家の御本尊
御本尊とは、信仰の大切な対象である。2015年、我が家のお墓を改建したご縁で、仏壇にはご先祖の為に釈迦如来を祀った。如来とはかくの如く来たりしものという意味である。佛として理想の姿である。
私は現世の自分の守り佛として、虚空蔵菩薩と文殊菩薩と普賢菩薩を居間に祀った。自分の守り本尊として、釈迦如来様では畏れ多いと思ったからである。
集団指導体制?
一般的には、釈迦如来とその脇侍として文殊菩薩と普賢菩薩が祀られる。釈迦如来像は一般的に文殊菩薩と普賢菩薩の倍の大きさで作られるが、我が家は集団指導体制(?)として、大きさがほぼ同じである。例えれば一般の会社組織と同じで、社長も役員も同じ立場という体制とした。
菩薩とは如来を目指し仏道を修行している仏様である。みんな同じ菩薩様なのだ。その身分に差はない。まとめ役として虚空蔵菩薩を中心に祀った。
文殊菩薩は、衆知を集めて知恵を出せ、宝剣で煩悩を断ち切れと教えている。普賢菩薩は合掌して、佛を信じる衆生を、あまねく賢くあれと導いている。その二佛の菩薩を統括するのが、虚空蔵菩薩である。私は毎日、智慧があり、普く賢くありたいと虚空蔵菩薩と文殊菩薩と普賢菩薩に手を合わせている。
2021-05-25 久志能幾研究所通信 2034 小田泰仙
著作権の関係で、無断引用を禁止します。
コメント