2018年2月19日 (月)

佛は寿司を回さない

 時間と命を惜しむなら「回転寿司屋」には行かないこと。回転寿司屋では、食べている間に次の皿が回ってくるのに気を取られ、思考が散漫になり、落ち着いて食事が出来かねる。待っている間が時間の無駄である。思考が飛んでしまう。回っていた皿の寿司は、一定時間食べられなければ、廃棄される。食べるという他の命を頂くという行為が、金儲けと遊びに堕落している。

それより、普通のすし屋で1半の寿司を食べたほうが合理的である。その方が安いし、時間節約である。自分が惨めにならなくて済む。

 

ブロイラーの鶏の如き

 回転寿司のテーブルに座っていると、餌が回ってくるのを窓越しに待っているブロイラーの鶏のようで惨めである。それを感じない人は幸せである。

 家族で回転すしに食事に来ても、子供は回ってくる皿に目が走り、家族団らんの会話など消え失せる。ブロイラーの鶏のように食べるのに必死である。情けない飽食の日本の姿である。

 

「猿の惑星」なら

 たまたま人間が霊長類の頂点として地球上に君臨するからよいが、映画「猿の惑星」のように猿が支配する惑星だと、大変だ。人間が回転すしのネタにされて、白人か黒人か黄色人種か、どの人種が美味しいかと舌なずりされるやも知れない。猿もクマもライオンもラクダもパンダ(熊科)でさえ、人間を襲って食べる習性がある。たまたま人間に佛様が知性を与えてくれたので、人間様の支配する世界があるだけである。人と猿のDNAは大して違わない。すべて仏様のさじ加減で今の世界が出来上がっている。

 

畜生に戻る訓練

 生物は他の命を頂かないと生きていけない。人間も同じである。徳性ある人間だからその命を食べる前に「いただきます」と手を合わす。その代わり知性のないライオンは、満腹になれば、目の前にウサギが通っても手を出さない。人間様だけが、満腹でも目の前のサラに手を出して飽食を繰り返す。満腹でも食い物に手を出すのは畜生に劣る。満腹でも食い物に手を出すのは、畜生に戻る訓練をしているようだ。

 それも回転寿司のように見世物のようにして食べるのは、命への冒涜ではないか。猿が地球を支配して、白人、黒人、黄色人種の肉がネタの回転すし屋で猿が舌なずりをしている様を想像するとぞっとする。猿が地球を支配すれば、そういう世界が実現する。

 

戦前の植民地は回転すし

 太平洋戦争前のアジア・アフリカは、欧米列強にとって、美味しい回転すし如き状況で、大半の国が欧米列強の餌食になり、美味しい国から手当たり次第に植民地にされた。列強諸国は、植民地の人間を人間扱いせず、その生き血を啜り、母国で優雅な飽食の生活を送った。アジアで唯一といっていい日本だけが、刀という護身の武器と武士道と教育レベルの高さで、その毒牙から逃れることができた。その欧米列強は、今、移民の洪水という洗礼を受けている。全て先祖が撒いた悪の種が、花咲いているだけである。それを因果応報という。今の欧米の繁栄は、植民地の人々の死屍累々たる土壌の栄養を吸って咲いたあだ花である。

 当時、護身の刀と武士道で身を守った日本なのに、今は、自堕落な飽食に明け暮れて、内部から衰退・崩壊しようとしている。飽食の果てが、肥満の増加と日本の総医療費40兆円超えであり、認知症の氾濫である。

 

食の安全と懐の安全

 一皿オール100円の回転すしでは、何を食わされているか不安で行けない。安いものにはワケがある。なおかつ普通の回転すし屋では、大抵2000円くらいは食べてしまう。我慢して安い皿だけを選んで食べていても、たまに高い皿が回ってくると、一つくらいいいかと食べると、それが2つになり3つにもなる。大抵それで2000円の大台が簡単のオーバーである。また、どうしても好きなネタばかりを選んで食べるので栄養バランスも悪い。「回転寿司屋」は過剰な食欲を起こさせる細工がテンコ盛りである。普通のすし屋では、バランスよく盛り付けられている。それでも1500円も出せば十分である。過食もない。

 

2018-02-19

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月17日 (土)

衰退を「発展」と詭弁する大垣市

人口推移データで衰退を発展と詭弁

 2018年2月15日付「広報おおがき」は、人口推移グラフに騙し絵のような技法で大垣の衰退の現象を「統計でみるまちの発展」と誇示していた。これは詐欺的な表現で、市民に誤解を与える図である。小川敏氏になってから大垣市の人口は、上石津町が編入されて増えたにも関わらず減少し、人口密度が半減(過疎化率が倍増)した。大垣は、小川敏氏が大垣市長に就任してから衰退が始まった。

 

  大垣市という船が沈没しつつあるのに、「大丈夫、船は快調です(人口が増えて発展中)。客室で安眠していてください。今年は出航100年の大宴会を開催します」と真実の事(衰退)は乗客に告げず、船を脱出した韓国セウォル号の船長如きではないか。大雨が降れば基幹道路が頻繁に水没する。その治水行政を放棄をして、朝夕の道路渋滞の解消の道路行政の政策も立案せず、大垣市長は、間もなく多大な退職金をもらって船長の座を去る。大垣市が衰退したのは、大垣現市長が、船が沈没する方向に舵を急旋回(投資をせず節約ばかり、トンチンカンな政策)したために起きた事故である。市民や商店主は、大垣市の悪政に壁壁して大垣市から逃げ出したので、人口が減少したのだ。墨俣町、上石津町(約11,000人)を合併したのにも関わらず、人口減少である。

 下記は人口と単位面積当たりの人口密度の推移データである。国政調査のない年は、補完法で推定した。墨俣町、上石津町(約11,000人)の人口を除けば、大垣市の基幹部分は、2015年の国勢調査で、約12,000人(約10%)の人口減である。これを発展といえるか。

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グラフで発展していると見せかける細工

 大垣市が作成した下図のグラフでは、横の目盛り幅が途中で変えられている。大正7年から昭和60年迄が10年単位、それ以降が5年単位の目盛りで作図されて、この細工で、この百年でいかにも急成長しているように見せている。

 上石津町と墨俣町の編入を無視して統計されている。

 大正7年から平成7年迄の高度成長の有様が大きく図示され、小川市長が市政を担当した平成12年から平成27年迄が、印象が薄くなるように図示されている。現実は、小川敏市長になって人口増加に急ブレーキである。

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  2018年2月15日付「広報おおがき」より

 

大垣市長のモルヒネ的な経済政策

 大垣市長は、この人口減が分かっているから駅前商店街を潰してマンション建設、工場跡地を住宅地にして人口増の政策を推進しているのだ。人口を増やすためだけのため、周りの弱者連合でもよいから、町村の合併を推進している。農業が主体の過疎地の町村のエリアを増やしても、大垣の経済発展への寄与は少ない。これは麻薬のようなもので、一時的には人口が増えるが、商店街にマンションが侵入して、長期的には経済都市としての大垣の体力を衰退させる。市として金をつかう人だけ増やして、金を稼ぐ人を減らす政策なのだ。

 

主要産業の推移話題で肝心な話を逸らす

 大垣経済は、この5年で商業・工業に従事する人口は減少している(年率1%の減少)。それを主要産業の変貌の解説で真実を隠して、繊維産業から電子産業に変貌しましたと誤魔化している。どれだけ全体が衰退したかは、記述を避けている。

 この5年で大垣市の就業者で、介護・医療の従業員は40%の急増である。現実は、工業に対するインフラ(道路整備、駐車場整備、治水行政)の整備を怠っているので、工業も衰退しているのだ。

 

大垣市の未来

 このままでは、大垣の未来は年金生活者の要介護人ばかりになってしまう。人口が増えても、産業は衰退し、名古屋のベットタウンに成り下がってしまう。街の賑わいが消え活性化がなくなる。

 

デフレ時代はトップの頭が勝負 

 高度成長期はどの街も成長したのだ。大垣市だけが成長したのではない。平成になりデフレ経済になって、市長の経営手腕の差で、伸びる市と衰退する市に差が大きくなった。他の市は、アベノミッックスで経済が活性化しているが、大垣市は不況の嵐が舞っている。市長の頭の使い方の差が原因である。

 大垣市は周辺の町村を合併して、いかにも成長しているようだが、単位面積当たりの成長で言えば、衰退している。弱者の企業を吸収して図体ばかり大きくなった企業に似ている。売り上げは伸びても、一人当たりの収益性が落ちた衰退企業と同じである。収益体質が益々落ちている。

 デフレ経済でも才覚ある市長を頂く都市は成長し、必死に努力する市や企業がやっと現状維持で、並みにしか努力しない企業や才覚が無い企業が衰退していった。問題は、デフレ期にどれだけ成長したかである。知識はあっても智慧の無い市長が舵をとると都市は衰退する。大垣市がその例である。

 

大垣経済衰退の象徴

 つい最近、大垣駅前商店街に新しいお店が2店開店したが、両方とも飲み屋で、夜しか営業しないのだ。昼間のシャター通り化が益々促進された。飲み屋なら、メイン通りの表に店を構えなくても、一本裏の通りにすればよい。駅前の表通りの一等地に飲み屋が相次いで出来るようでは、その街は終わっている。次に開店するのはピンクサロンである。これが街の衰退の定石である。大垣経済衰退の象徴の現象である。

 

リーダーの使命

 リーダーは未来に種を蒔くのが使命である。大垣市の現リーダーは未来に負の種を蒔き続け、現在の衰退が始まった。それなのに、リーダーは百年の宴に酔い痴れている。

 

2018-02-17

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月16日 (金)

案内 馬場恵峰先生の岐阜講演会

馬場恵峰先生が来る4月14日に、明徳塾の同窓会のため岐阜市に来られます。午後に先生の講演、書の実演をされます。夜は塾生同士で懇親会ですが、午後の部の講演会は一般の方も参加を歓迎します。懇親会への参加は個別にご相談ください。

講演では、人生とは、経営者とは、人生の経営者の己の生き方とは、についてユーモアも交えた含蓄ある深いお話しがあるかと思います。参加希望者はメールにて小田まで連絡下さい。

 

日時  2018年4月14日(土) 13:00~17:00 

場所  長良川温泉 十八楼

    〒500-8009 岐阜市湊町10番地 電話:0582-262-1551

費用  2,000円

 

小田泰仙   e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

 

馬場恵峰師 新潟講演会 要旨

 2017年4月8日、明徳塾同窓会として、新潟市で馬場恵峰師による講演会が開催された。その要約を記します。このレベルのお話が、今度の岐阜の講演会でされます。

 

人生の4つの目標

下記の4つの目標を定めないと人生の道に迷う。

・宗教を知る

 信が生まれる。宗教とは人を信じる勉強。仏に手を合わすことではない。

・文化を知る     

   智慧が生まれ、物事を正しく観られる。

   知識では正しく観れない。社会の流れをみて、顧客の顔を見て、商品を開発せねば、モノは売れない。それは智慧の世界で、知識だけでは商品開発も経営もできない。

・道徳を知る     

    掟を知り、命を正しくする。

・社会を知る

   定(おきて)を知り、定を正しく運用する。

 

人生での自己表現

 自分が長生きをすること。「あなたがいなくては困る」という人間になること。一番大事な経営とは、人としての経営である。人は裸で生まれた裸で死んでいく。 恵峰先生はよく人から「何でそげん、元気ばってん?」と聞かれるという。それは「私にはまだやることがあるから」と思うからだという。市長、議員、社長のバッチが外れた後が大切である。バッチが外れた後は、多くの人は国立病院が待っている。だから早く死ぬ。やることがないのだ。己がバッチを外して風呂の入る姿で、どれだけの人が付いてくるか。その姿で人を引っ張っていくのだ。それが本当の指導者である。市長のバッチでは、人はついてこない。

 頭で学ぶから成功しない。「無理、無理」、俺には関係ない」という人が多い。体で学ぶから、頭に入る。馬場恵峰師は230回も中国に自費で行っている。一回の旅費30万円として7千万円近い金が消えた。その金は、今はポケットにはない。しかしその経験の知恵が頭に入っている。それは誰も盗めない。

 身を殺さず、盗まず、犯さず。物真似では出はダメ、自分のものにしないから、身に付かない。規則を破るからうまくいかない。自然の法則を守ること。

 口を偽らず、飾らず、二枚舌を使わず。心をむさぼらず、そねまず、過たず。人生で自分を磨き、最善を尽くすとは、「忙中に閑あり」である。

 文学は感情の表現で、心情の輝きを表す。詞は和、詩は漢文である。工学は数値での感情表現で、技の輝きを表す。音楽は観性の物理的表現で、心の振幅を表す。政治は人の差配の技で、人々に安堵を与える。

 「身口意」を三業という。その三業を晴らすために人間に生まれたのだ、と阿含経に書いてある。

 

知恵の光

身口意が全て出来るのが知恵

 身  殺さず、盗まず、おかさず

 口  偽らず、飾らず、二枚舌を使わない

 心  貪らず、そねまず、過たず

 

 そうして身口心を、全て完遂するのが「智慧」である。体で分かったことが知恵である。それは智慧の光。本を読んだだけで料理はうまくならない。体で覚えないと料理はうまくならない。人生も同じである。

 

人生の基本姿勢

以下の3つが出来てこそ生命の責任が生まれる

1.なりきれる

 しっかりと自分を見つめる。

 男になりきる、女になりきる。 結合されたあり方。

 志、夢を持ち実現者になりきる。

2.やりきれる

3.捨てきれる

   自我没却

 

 小事を侮らず、大事を畏れず。気配り、見配り、心配り、で人生を送りたい。

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馬場恵峰師 90歳  2017年4月8日 新潟での講演会

 

予告  2018年4月14日(土)13時~17時、岐阜市観光旅館「十八楼」にて、第三回同窓会で馬場恵峰師の講演会を開催します。一般の方の聴講も可能です。別途、その案内をブログでします。

 

2018-02-15

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2018年2月15日 (木)

今からでも遅くない

 2015年11月29日、堂島の「大村藩蔵屋敷跡の碑」と「雙松岡塾の碑」を見学した後、馬場恵峰先生ご夫妻を川添様の車で伊丹空港までお送りした。恵峰先生が19時10発の飛行機への出発ゲートと通られたのを見送って、新幹線で20時40分ごろ、自車を駐車してある彦根のお寺に戻り、大垣に22時頃帰宅をした。

 しかし最後の場面でミスをしてしまった。お寺に置いた車を出すとき、境内が暗かったためと疲れのためか、境内にある大きな石に後部バンパーをぶつけてしまった。翌日確認をすると、結構大きな傷であり、気持ちがよくないし何かの啓示だと思い、修理することにした。その費用42,000円。僅か1ヶ月に2度のバンパー修理である。

 

バックカメラを追加装備

 その原因は過労もあるが、運動神経の劣化と注意力に低下が大きな原因である。老化すればその補助として老眼鏡が必要なように、車の後ろにも目が必要であると判断して、バックカメラを追加することにした。約33,000円。

 最近の車ならバックカメラは当たり前であるが、車歴15年の老兵にも「新しい目」を導入して、若返えらせた。今からでも遅くない。気がついたときに、打てる手を打つのが私の信条である。

 

佛様からの啓示

 この物損事故を佛様からの啓示と受け止めた。すべては因果応報である。車の設備更新をして、今後の事故防止に備えることが出来るなら安いものかも知れない。バンパーをぶつけるというご縁から、新しい「目」が手に入ったと解釈した。世の中の出来事は、全て解釈のしかたで人生が変わる。

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今からでも遅くない

 2015年9月11日、墓面の字を揮毫してもらった日、恵峰先生宅で「今からでも遅くない」という題名の色紙(下書き)を見つけて写真を撮らせてもらった。2016年9月に先生宅を訪問したら、この文面の書が軸と色紙に正式に揮毫されていて、気に入り直ぐ両方とも入手した。人生で、何事でも遅すぎることはない、気が付いた時が、それを始めるのに一番よい時期なのだ。

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人生の最大の過ちとは

 何事もその第一歩を踏み出さないことが、人生最大の過ちである。まず一歩を踏み出さないと、何事も始まらない。やってダメなら引き返せばよい。己の背後に死期がせまる。明日は分からないのが、人間の人生だ。やって失敗する後悔よりも、やらないで死期を迎える方が、後悔は大きい。失敗の後悔は、人生の知恵となるが、やらない後悔は、死の床で己を鞭うつことになる。

 問題が見つかれば、まず一声上げないと、何も改善されない。声を上げるのに遅すぎることはない。行政は、市民のことではなく、自分達に都合で物事を運ぶ。声なき声では、現市政に、現状のやり方を認めていると勘違いをさせることになる。それは現状の大垣行政を見て、悟った。それでも、言えば何かが変わる。

 政治の世界でも、先の太平洋戦争の発生は、市民が疑問の声を上げるに躊躇している間に、新聞社が戦争をあおり、突撃ラッパを鳴らしたのだ。戦争の方が新聞社は儲かるからだ。

 私も64歳でグランドピアノを買い、ピアノを習い始めた。67歳で出版の事業を始めた。後悔は、もう少し早く始めればよかったという思いだけである。わが師の馬場恵峰師は現役の92歳。日々、深夜まで書を書きまくり、お呼びがかかれば、中国、ベトナム、ハワイ、日本中を駆け巡っている。中国には240回余も行かれている。それから見れば、私は、鼻たれ小僧。

 少年よ、大志を抱け。老年よ、大始を抱け。その小さな始まりの一歩が、大きな人生の始まりだ。その一歩は小さいが、我が人生には大きな一歩だ。アームストロング船長の気分で)

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2018-02-15

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2018年2月14日 (水)

障子を開けてみよ、石の世界は広いぞ

 「雙松岡塾跡の碑」の石は、庵冶石という銘石で、当時の日本では最高で高価な石である。庵冶石は硬く表面が滑らかで、文字を刻んでも400年は風化しないという(業者の言い分で、実際はこんなには持たない)。昭和18年という太平洋戦争の戦争真っ最中で、物資も欠乏してきた大変な時期に、この碑を庵冶石を使って建立した楠本著卯三郎氏(元大阪大学総長)の意気込みが感じられる。

 その碑の存在を調べ、大阪の倉庫に眠っていたこの碑を発見して、その再建に尽力された大村高校同窓会「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を保存する会」の皆様に敬意を表します。

 

世界という視野

 日本の国土は、全世界の陸地面積のうち0.25%の占有率でしかない。その中で採れる最高の石であると誇っても、残りの99.75%の全世界から産出される良品の石と比較すると、確率的にも見劣りがする。我々は井の中の蛙であってはならない。世界にはもっと良い石が存在する。当時としては輸送手段や、採掘技術が未発達であった事情があるが、国産の石というブランド信仰だけで、石材を選定しては不可である。しかし日本の石材店は、国産というだけで割高の石を売っているお店が多いようだ。

 私は自家の墓の再建に当たり墓石の選定では、インド産で一番硬く、吸水率ゼロの石を選択した。日本の最高級の石材よりも固く(比重、圧縮強度)、比較的安価である。吸水率が高いと冬季では、雪や雨で石が吸った水が凍り、その水分が膨張して石を痛める。降雪が多い土地では吸水率の低い石の選定が必要である。

 豊田佐吉翁の言葉「障子を開けてみよ、世界は広いぞ」とは、石碑の石材の選択にも言える。

Photo 上記のデータは石材業者のカタログ値による。公的機関の測定データではありません。

 下図は某記念碑であるが、雪の多い土地なのに予算上で安いという理由だけで、ある銘柄の御影石を使ったが、築15年で表面にヒビが入ってしまい、予算をケチった恥を多くの市民の前を晒している。後世の残る記念碑の石材の選定にはコストだけで決めてはならない。

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   築15年でヒビが入った御影石(某記念碑)

碑の拓本

 馬場恵峰先生が「雙松岡塾の碑」の拓本を取ることを川添会長さんに勧められた。そうすれば記録にも残り、後世の人の勉強の糧になるという。師も昔の名筆といわれた石碑も拓本を取って、拓本から昔の名筆を学んだという。

私も今回の墓の改建で、風化して読めなかった墓石の文字を、恵峰先生より拓本のアドバイスしていただいた。大垣拓本同好会に協力を仰ぎ、墓石から拓本を取った。そのお陰で墓に刻まれたが、風雪で読めなくなっていた「黄鶴」の文字が判定できた。それが今回のお墓の建立のご縁となった。拓本を取るという知恵を教えて頂いた恵峰先生に感謝です。

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  2015年6月1日

 

2018-02-14

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2018年2月13日 (火)

累積閲覧回数 20,000回 突破

本日の16時25分、本ブログの累積閲覧回数が20,000回を超えました。

記事総数は551件です。

閲覧ありがとうございます。執筆者には一番の励みです。

 添付ファイルにて、記事検索用にカテゴリー『大垣を良くする階』記事一覧表を添付します。

このカテゴリーの記事は91件で、A4(40文字、40行)換算で約270頁分の記事となります。

添付ファイル 『大垣を良くする階』記事一覧表 _20180213.pdfをダウンロード

2018-02-13

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「雙松岡塾の碑」に歴史を学ぶ

 2015年11月29日、大村高等学校関西同窓会の皆さんの案内で、「大村藩蔵屋敷跡」碑を見学後、100mほど離れた大阪検察局の敷地内にある「雙松岡塾の碑」を見学した。この碑は大村藩蔵屋敷跡の碑と同じく、大村高等学校関西同窓会の皆さんが「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を保存する会」として再建した。雙松岡塾は、文久元(1861)年に創立された漢学塾で、尊王攘夷を鼓舞して、後の明治維新の原動力の一つになった。尊王攘夷を鼓舞した塾であったので、幕府に睨まれ僅か半年で閉鎖の憂き目を見た。

 この碑は、大阪市教育委員会より大阪市顕彰史跡第194号に指定されている。史跡の紹介は大阪市のホームページ www.city.osaka.lg.jpで閲覧できる。

 

雙松岡塾の碑の文字

(正 面)雙松岡

(背 面)下記が現代語訳。原文は漢文読み下しで紙面の都合で省略

「雙松岡は松林飯山、松本奎堂、岡鹿門の塾である。三人は皆 昌平黌の秀才であった。文久元年(1861年)11月、玉江橋と田蓑橋の二橋の間にあって堂島川の川面に面して建っていた一軒家でこの塾を開き、尊王攘夷を鼓吹し名声が大いに上がった。しかし最後は幕府の役人から危険視され、圧迫を受けたため翌年五月解散し大坂の地を去った。その後模写して碑表に刻み、併せてこの文を碑裏に記すこととする。」(大村高等学校関西同窓会で現代語訳)

 

 松林飯山(22歳)は、井伊直弼大老が1860年3月3日、桜田門外で討たれたことを急脚便で知り、3月20日付の岡鹿門宛の手紙で快哉を叫び、「井伊大老の十の大罪」を列挙して糾弾している。和親条約を朝廷、列藩と議することなく結んだこと、徳川将軍家後継で多くは一橋公を望んだのに13歳の紀州公を迎えたこと、水戸老公は忠義の人なのに蟄居、幽閉したこと、などなどを挙げている。飯山は大村藩に帰り藩校の五教館で教授(校長)として正論(勤王思想・藩政改革)を説いていたが、大村上小路の自宅近くで凶刃に倒れた。享年29才。

 

 松林飯山は幕末の大村藩士、儒学者、勤王志士である。天保10年2月(1839)生れ、慶応3年1月(1867)暗殺された。29歳。父は医者で松林杏哲。飯山は筑前早良郡羽根戸村に生れ、幼名は駒次郎、後に漸之進、更に廉之助と改めた。飯山は号。

 幼少のころから神童の誉れ高く、3歳で字を書き、唐詩百首を暗誦し、4歳で『大学』を、5歳で『論語』を、6歳で『孟子』を、7歳で『詩経』を読み終えた。その原本も残されている。4歳のときの書「松梅」もあり、5歳で松、菊、桃の漢詩を詠んでいる。

 弘化4年(1847)9歳の時に父に従い大村藩領の蠣の浦に移った。

 嘉永3年(1850)12歳の時に藩の役人にその才能を見いだされ、藩主大村純煕の前で唐詩選の購読を命じられ、一字も誤りなく進講したので、一座のものは驚いた。これにより藩士に取り立てられ、俸一口を賜り、藩校・五教館で学ぶことを命じられた。

 この五教館では一年年長の渡辺昇も学んでいて、飯山に何としても追いつき、追い越そうと「一十百千」と大きく書いて勉学に励んだが叶わなかったという話が残っている。

 嘉永5年(1852)14歳になると、江戸に出て勉学することを命じられ、安積艮斎の塾に入門した。やがて頭角を現し塾生の首席となった。

 安政3年(1856)18歳で幕府の学問所、昌平坂学問所(昌平黌)に入った。ここでもその才能を認められ、20歳にして異例の若さで助教(詩文掛)に任じられた。

 安政6年(1859)21歳で昌平黌を退黌、7年間の江戸での学問修行を終え、3月に大村に帰った。藩主は飯山を上士 (馬廻)に列し、祿60石を給した。更に藩校五教館の祭酒(教授、校長)に任じようとしたが、これは固辞して次席の学頭(助教授)となった。

 万延元年(1860)8月22歳の時、暇乞いをして、大阪への遊学を許された。このあと文久元年(1861)23歳、文久2年(1862)24歳の6月までは京阪の儒学者、勤王志士たちとの交流を密にした。文久元年11月から2年5月までは堂島に塾を開いた。昌平黌の時の親友、三河の松本奎堂、仙台の岡鹿門と3人の共同塾である。塾名を雙松岡(そうしょうこう)とした。3人の名字を一字ずつとって名付けたもの。この塾には多くの若者が集まり学んでいたが、勤王思想の拠点として危険視され、奉行所から閉鎖を命じられ6ヶ月で閉じて文久2年7月に飯山は大村に帰った。同年8月五教館学頭を任じられた。

 文久3年(1863)25歳、1月大阪への出張を命じられた京都の政情探索のためである。6月大村に帰った。10月には五教館祭酒(教授、校長)に任じられた。この頃から学問だけでなく、藩政へも参画するようになった。藩を勤王側にもっていこうと同志を集め勤王三十七士同盟を結成し、その中心人物となった。

 元治元年(1864)26歳、10月藩政改革のため建白書を藩主に上書。賞罰を厳にすること、賄賂を禁ずること、奢侈を禁ずること、礼節を重んずることを進言。11月 用人に。

 慶応元年(1865)27歳、鹿島藩、佐賀藩、島原藩に特使として赴き勤王を説く

 慶応2年(1866)28歳、五教館では「正気百首」「照顔録」等で勤王思想を鼓舞。

 慶応3年(1867)29歳、1月3日 夜 城での謡初式からの帰路自宅前で佐幕派の一味に襲われ暗殺された。家老も重傷を負った。藩主は激怒し、大掛かりな犯人捜索が行われ、佐幕派数十名が捕らえられ、26人が斬首された。この大事件のあと大村藩は勤王倒幕派として纏まり、戊辰戦争では官軍として大津、江戸、会津、秋田まで転戦し、新体制樹立に貢献した。大村藩は明治2年の論功行賞で薩長土に次ぐ3万石を賜った。(松林飯山の項、吉本信之氏著 2015年12月4日)

 

 松本奎堂は、彼は尊皇攘夷の強烈な信奉者であった。彼は頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていた。彼はそれを生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていった。

 松本の出身地三河国刈谷は、徳川家にゆかりの地で、藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であった。しかし松本は早くから尊王の志に目覚め、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾さを憎み、「志を得た暁には墓を暴き、骨を鞭打ってやる」と罵ったという話が伝わる。彼は譜代藩出身で昌平坂学問所の舎長(塾頭)まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であった。それが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも過激な志士の一人であった。

 松本は文久3(1863)年、天誅組の挙兵をして弾を受け戦死した。享年33。辞世の句は「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風」。法名は天誅院殿忠誉義烈奎堂居士。明治24年(1891年)、従四位が追贈された。(この項、wikipediaより編集)

 岡鹿門は、仙台に帰り、鹿門だけが天寿を全うした。享年82才。

 

明治維新を成就させた小さな波

 勝てば官軍で、明治になり松本奎堂は名誉を回復した。人柄を彷彿とさせる院殿まで付いた立派な戒名である。多くの志士達の血が、明治維新の後ろ盾になった。一つのエネルギーは小さいが、そのエネルギーが集り徳川幕府に無言の圧力をかけ、徳川慶喜の大政奉還になった。一人の力は小さく、幕府により粉砕されてしまったが、繰り返し繰り返し押し寄せる波の如く、幕府に圧力をかけたのだ。雙松岡塾の存在は決して無駄ではなかった。

 今、大垣市も愚政のため衰退の危機に直面している。手遅れになる前に、市民一人一人が、目覚めて行動を起こすべきなのだ。小さな声が集れば、政治を動かせるのだ。大垣市に平成の維新が必要である。

 

佛様の智慧

 松本奎堂の佛になった墓を暴き骨に鞭打つという思想は中国や韓国の思想である。日本の和と寛容を尊び佛の前では全て平等との思想とは相容れないがゆえ、非業の死になったようだ。中国や韓国の死んでも恨みを忘れないという思想には辟易である。彼の国とは距離を置いたほうが争いごとは避けられる。日本人同士でも、非常識な縁なき人と無理につきあうと、身に害が及ぶのを身近に見てきて、今回でその感を強くした。加齢を重ね多少は智慧がついたようだ。

 もし時代の歯車が同調すれば、松本奎堂も吉田松陰神社で吉田松陰の墓の隣に、頼三樹三郎と並んでお墓が建てられたかもしれない。そして大村藩も長州藩のように井伊直弼公を親の敵として憎んだかもしれにない。

 

十念寺を訪問

 彼は刈谷藩の出身で、刈谷市十念寺に墓があり、市内に彼の碑も建立されている。刈谷市は私も前職の会社のときに32年間も過ごした街であるが、今日までこのご縁には気がつかなかった。今回のお墓作りから展開されるご縁のつながりの広がりに驚いている。

 2017年12月7日、刈谷市通学路の調査に行った時、この十念寺を訊ねたが、名鉄刈谷市駅前の案内看板地図にこの十念寺が表示されておらず、迷ってしまって、墓参が叶わなかった。後でお寺さんに聞けば、案内看板地図に載せるにはお金がかかるので表示していないとのこと。十念寺は刈谷藩主の菩提寺である。そんなご恩あるお寺の場所を、刈谷市駅前の観光案内看板地図に載せないことに、最近の歴史を大事にしない風潮に情けない思いがした。刈谷市の教育委員会は何をしているのか。職務怠慢である。私は、この2018年2月末に再度、訪問する予定である。

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 碑の前で雙松岡塾跡の碑を見る馬場恵峰先生

 説明者は保存会代表の川添純雄氏(左側)、吉本信之氏(右側)

      2015年11月29日

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2018-02-13

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月12日 (月)

「大村藩蔵屋敷跡」碑の見学でのご縁

 2015年10月8日、私は松本明慶師の造佛された四天王像の写真撮影のため、高野山に行った。その帰りに梅田のNTTテレパーク堂島ビルに寄って、馬場恵峰先生が揮毫した「大村藩蔵屋敷の跡」の碑を事前調査した。肝心の馬場恵峰先生がまだ完成したこの碑を見ていないので、お墓建立の開眼法要の後、九州への帰路の伊丹空港に行く途中で、寄り道をしてこの碑の見学する予定を立てた。

 2015年11月29日、彦根での墓改建の開眼法要が終り、その後の会席を彦根キャッスルホテルで終えてから、15:24米原発の新幹線で梅田の大村藩蔵屋敷跡の碑の見学に向った。新大阪駅まで代表の川添純雄様に車で迎えに来ていただき、現地に向った。前回に来たときは道に迷ってしまったので、現地への案内をお願いした。現地では大村高等学校関西同窓会の4名の方が対応して頂いた。恵峰先生もこの碑を見るのは今回が初めてで、大層喜ばれた。案内をした甲斐があった。

 同じ場所に建つ他の2つの碑と比較しても、恵峰先生揮毫の碑は、伸びやかな優雅な書体で、長く後世に残る碑となった。この建立に携った長崎県立大村高校OBの皆さんも喜んでおられるのが、碑の書体から伝わってきた。

 恵峰先生が自家の墓の字を揮毫するとき、「大きな碑文では、上に位置する字は大きく書く」と言われたのを思い出した。確かに、「大村藩蔵屋敷の跡」の字の「大」のが他の文字よりも大きく書かれている。その文字を下から仰ぎ見ると全体のバランスが良く見えるだ。

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 馬場恵峰先生、三根子先生  2015年11月29日撮影

Edsc_1903t  20151129日撮影 笠野氏撮影 

2018-02-12

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2018年2月11日 (日)

人生の譜面をめくる佛様

 2018年2月1日、ご縁があり誘われてある大学の卒業演奏発表会に行ってきた。譜面をめくる人を「譜めくり」という。この演奏発表会で「譜面めくり人養成科」の学生が、同じ仲間のピアノ演奏者の譜面をめくる人の姿を見て、人生を感じた。この卒業演奏会で、多様な「譜めくり」の姿勢を見て考えてしまった。なお「譜面めくり人養成科」などは存在しない。勝手な命名で、ジョークです。

 

譜めくりの服装

 譜めくりは、黒子である。多くの譜めくりは、黒い服装をしている。しかし今回の譜めくりでは、白の服装の人が多く、それでいて主役のピアニストが黒の服装であったので、黒子のはずの譜めくりが目だってしまって、違和感を覚えた。音楽は視覚でもメロディーが流れている。それまで気を使って、ピアニストと協議して服装を整えて欲しかった。

 

譜面のめくり方

 この最近、演奏家の写真撮影をしてきて、譜面めくりのやり方に人さまざまであることに気が付いた。一番美しい姿は、そのぺージの演奏が終わる少し前に構えて、少し次のページをめくり、そのページの演奏が終わったら一気にめくる、である。それが今回は、そうではない事例が目に付いた。ピアニストにとって、基本は暗譜である。

 人によっては、ピアニストと目で合図をしあって、お互いに、うなずいて譜面をめくっていた例もあった。そんな暇があったら、演奏に集中せよ、と言いたかった。急遽、譜めくりを仲間にお願いしたために、致し方ないのかもしれない。

 大垣での音楽堂でのチェリストTIMMと河村先生の協奏、クインテッサホテルでのドレスデントリオと河村先生の協奏では、小林朱音さんが譜めくりを担当した。二人には師弟関係で、深い信頼関係があるために、そんなお互いの合図もなく、小林さんは、しかるべき時に、スーッと横に立って構え、次のページを少しめくり、そのページの演奏が終わったら一気に音もたてずめくる。河村先生は、譜面を小林さんに任せっきりで演奏に集中である。

 今回の卒業演奏会の譜めくりでは、直前に急ぎ譜面に近づき手を伸ばし、観客席にまで頁をめくる音が聞こえるようなめくり方をする人もいた。頁をめくる甲高い紙音が、美しいピアノの演奏を興ざめにした。

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24k8a3363   2017年9月29日 TIMMと河村義子コンサート リハーサルで

 譜めくりは小林朱音さん

3p1020351  2017年9月29日 TIMMと河村義子コンサート

4dsc04336  2018年1月13日 ドレスデントリオと河村義子

譜めくりが舞台から去る時

 演奏が終わると、ほとんどの譜めくりは、演奏者が観客に礼をしている間に舞台から、黒子のように静かに去っていく。これが正式のマナーのようではあるが、私は違和感を覚えた。譜めくりも演奏者と共に、演奏というプロジェクトを一緒に成し遂げたのだ。去るときは、観客に少し礼をして去って欲しいと思った。西洋の考えと日本の考えの差のように思う。

 小林さんは、二人が観客の拍手に礼をしている時、小さく拍手をして、譜面を片付けて静かに舞台を去っていった。まるで黒子の佛様のような姿であった。

 

人生の譜面をめくる佛様

 人の人生では、時が来ると人生の頁が自ずとめくれていき、その頁の内容に合わせて、両親や祖父祖母がランドセルの準備や学校への入学の手続きをしてくれた。当時は、それに対して感謝の念もお礼もあったものではない。それでも時が流れて、学校卒業までは、両親や恩師が人生の頁を黙ってめくってくれた。まるで佛様が我が人生の本の頁を捲ってくれたようだ。その佛様も、いつの間にか私の前から去っていった。「私の亡きあと、一人で人生を頑張れ」と拍手をしながら逝ってしまったのだ。合掌。

 会社生活では、必死に人生の頁を自分でめくってきたと思うが、振り返るとその歩みの頁は、佛様が事前に書いた曲を、なぞって弾いてきたように思う。自分の力ではない。周りの仲間が己の曲を演奏させてくれた。感謝。

 会社生活38年間終えて、これからは自分の意思で、新しい第二の人生の頁をめくる時なのだ。そのぺージを自分でめくれずに、一日中、テレビの前に座っているのでは、白紙の譜面を眺めて、ピアノの前で座っているが如きである。

 

人生は暗譜演奏

 人生の人生という曲を演奏する原則は、暗譜演奏である。自分で、自分の人生の曲を描いて自分で弾く。その曲は自分が作曲した楽譜に書いてある。誰に頼るのでもなく、自分で作曲して、曲を弾かねば良き人生は創れまい。そして今は、自分が黒子として、後進の譜面をめくってあげる番なのだ。

 生きている以上は、自分独自の人生の音色を出さねばならぬ。観音菩薩様がその音を観ている。そうでないと、見守ってくれている観音菩薩様やご先祖様に申訳がない。

 

最期の譜面をめくる

 一日中、テレビの前に座っているのでは、バックグランドに無伴奏葬礼行進曲が流れなか、白紙の譜面を眺めて、無為に過ごしているようなものだ。その葬礼行進曲を演奏しているのは、一日中、何もやることのない己なのだ。「おくり人」とは、自分自身である。

 日暮れて道遠し、フィナーレは近い。演奏会と違い、人生にアンコールはない。人生二度なし。全ては一期一会だ。うかうかしていると、指の下にある次のページには、葬礼の曲が書かれているやも。人生の道を急げ。

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6039a34461  馬場恵峰書

2018-02-11

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