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2021年10月

2021年10月31日 (日)

自分を見失なわない、幸せの価値基準と出会うご縁

 

 人の行動は愚かさに満ちている。それは、歳を取り、人生の終わりがおぼろげに見えてくると、やっと分かる。バカなことはバカなことをして、やってはいけないと理解できる。格物致知とは、そのモノに接して、やってみて、知に至るのだ。いくら頭で考えても、やってみないと分からない。それほどに人は愚かである。だから多くの愚かなことして、その誤りに早く気がつくとよい。私の人生は、愚かさで一杯である。それで少し賢くなった。

 お釈迦様だって、多くの誤りをして悟りの境地の達せられた。我々凡人も、多くの誤まりをして悟ればよいのだ。

 

人生の選択

 人生の選択は、その選択で「幸せ」になれるかどうかで選択すべきである。往々に、目の前の選択がバラ色に見えて、その選択を惑わされて、間違った道に進みがちである。それは自分が欲に惑わされて、自分を見失い、真実が見えなくなって間違った道を選択するからだ。自分を第三者の目で、冷静に自分を見るべきだ。

 その選択(モノ、人、道)が、自分の人生で、自分の一部となり、人生を歩くうえで、助けてくれるかを考えて選択すべきなのだ。

 

薫習

 その人と付き合って、自分も相手も社会も幸せになるだろか。それを考えてご縁を結ぶべきだ。

 朱に交われば赤くなる。その朱が、自分の人生を彩ってくれれば良いが、悪い赤なら、毒である。後ろ向きの考えの人と付き合えば、自分も後ろむきになる。それで人生が好転するとは思えない。付き合っている時は、温室のような温かさで気楽ではあるが、刺激がなく、少しずつ人生パワーが削がれていく。まるでゆでガエルのように。

 人は良き人と付き合えば、薫習といって、その教えが体にしみ込んでくる。霧の中を歩めば、自ずと衣が濡れると同じ現象である。孟母三遷の教えも同じ意味である。

 だからこそ「3年かけて、師を探せ」である。私は馬場恵峰先生に15年間の指導とお付き合いをさせていただき、よき薫習を得たと感謝している。

 

モノには精霊が宿る

 そのモノを買って、自分も相手も社会も幸せになるだろか。モノに宿る精霊が人生を変える。

 私も数年前に、血迷ってレクサスLSを買ってしまって、当初は幸せいっぱいであった。しかし暫らくして不幸になっていった。要は、自分を見失い、分不相応なものを買ってしまったのだ。やっていけないことは、やってみないと分からないものだ。それで自分の愚かさレベルを再確認した。

 レクサスLS等の高級車は「二号さん」と一緒で、乗っている時は楽しいが、乗らない時の維持費が大変なのだ。重量税(88,000円)、保険代(88,000円)、駐車場代(年間250,000円)、車検代、ガソリン代等、が重くのしかかってきて耐えきれず、私は2年で手放した(実は別宅を買うことが急に決まり、金が必要になったため)。

出会うべきご縁

 しかし良い経験はできた。2018年、馬場恵峰先生ご夫妻が中部地区に来られた時、ご夫妻を送迎できるご縁ができて幸せであった。「良い車に乗れた」と馬場三根子先生から大喜びされた。あの時、レクサスLSを買うと言う縁を見逃せば、親とも慕う馬場恵峰先生ご夫妻に、良き思いをしてもらうことができなかった。その2年後にお二人共、急に亡くなられたからだ。また不思議なことに、馬場恵峰先生ご夫妻を犬山名鉄ホテルにお送りした数か月後、そのホテルが耐震強度不足とかで、壊されてしまい、この世から消滅してしまった。

 私がレクサスLSを買うと言うご縁は、早からず遅からず、出会うべきご縁であったようだ。

 レクサスLSは、今まで憧れの車であった。それを所有して乗り回してみて、当初は感激したが、しばらくすると麻痺して、ああこんなもんか、で終わってしまった。まるで麻疹のようなものだ。「何時かはクラウンではなく、いつかはレクサス」という夢から覚めた。金はかかったが、良き夢を見れて後悔はしていない。夢をみるのにもお金がかかるのだ。お金とは経験を得るための道具である。もっと分相応のお金持ちになってから、高級車は買えばよいと悟った。正に格物致知である。

 

P1100227s1 この車で馬場恵峰先生ご夫妻を彦根、関ヶ原合戦場跡、大垣、犬山にご案内した。

犬山名鉄ホテル前で。そのホテルもその後、壊されてこの世から消滅した。

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その組織に入って(入社)幸せ?

 その会社に入って、自分とその会社が幸せになるか、その会社で社会に貢献できるかを見極めないと、お互いが不幸になる。その会社がブラック企業なら完全にアウトである。自分の使命は何かを明確にしないと、お互いが幸せになれない。金だけを目的して働けば、自分を見失うことになる。

 私も若い頃のバブル期、金融業の給与の高さに羨望のまなざしを向けたが、今にして、泥臭い技術の道を歩んでよかったと回想している。金は一つの道具であって、目的にはならない。

 

食べ物の毒

 そのモノを食べて、真の幸せになれるかで、それを選択すべきだ。

 それを食べた時、それを嗜んだ時に幸せになれても、後年、その害毒で苦しめられては、騙されたことになる。例えば、煙草、酒、スィーツ等である。これは本能ではなく、理性で考えれば、すぐ正しい選択が出来る。その美味なる毒は、食べた当初は麻薬のように幸せにしてくれるが、20年後には地獄への片道切符に変貌する。

 酒は発癌性物質である。それで日本人の2人に一人ががんになる時代となった。認知症への誘導物質でもある。

 スィーツや清涼飲料水の過剰な糖質は血管内部を傷つけ、糖尿病、心筋梗塞、脳梗塞の遠因となる。

 タバコはがんの最大要因である。タバコで傷つけられた肺の組織は、二度と再生しない。酸素タンクを引きずって、街を歩いている人を見ると、煙草を吸わなくてよかったと思う。

 それも親がタバコを吸わないという「薫習」を私にしてくれたのだ。子供は親の言う事は聞かない。親のやっている通りにやる。親に感謝である。

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  馬場恵峰書 日中文化資料館蔵

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 馬場恵峰書  上の巻物を抜粋した板書を恵峰先生にお願いした

2021-10-30  久志能幾研究所通信 2195   小田泰仙

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2021年10月30日 (土)

大垣市は士農工商、補助金欲しければ土下座

 

 大垣市は、各自治体にその街の街路灯代に補助金を出している。しかし毎年、9月の電気代の明細を添付して、大垣市に申請しないと補助金が下賜されない。申請を1日でも遅れると、補助金不要とみなされ、下賜されない。大垣役人は下々の都合など知ったことではないのだ。大垣市は士農工商で、役人様はえらいのだ。

 皆さんの市では、どうなっているか、確認されることをお勧めします。

 

自腹を切る

 私は自治会の会計担当として、その申請時に、癌の闘病生活のためドタバタしていて、申請を忘れてしまった。それで補助金が下賜されなかった。申請忘れに気が付き、あわてて市役所に行ったが、市の若い役人は冷たく「申請期限切れ、脚下。大垣市には、自治会が500もあり、いちいち対応などできん。」である。この若造は、誰のおかげで生活できていると思うのか。こちらはボランティアで自治会役員をやっているのに。傲慢な役人に言っても無駄だから、怒り心頭で黙って引き下がった。

 なぜ予算の齟齬処理がないのだ? 自治会役員は神ではないのだ。病気もすれば、間違いもするのだ。それに対して、役人は絶対に間違いを犯さないのか?

 しかし担当役人は「このバカが何をいまさら騒いでいるのだ。大垣市には、自治会が500もあり、いちいち対応などできん。俺は20年間も君臨する独裁市長様の顔色を見るが忙しいのだ。殿様に逆らと左遷なのだ」が本心であるようだ。私はサムライとして自腹を切って、自治会予算に穴埋めした。約3万円。

 こんなことでは、自治会役員をやる人がいなくなる。

 

本末転灯?(本末転倒)

 そもそも、なぜ街の街路灯の電気代を自治会が負担せねばならぬのか。大垣市の方針が「明るく住みやすい街づくり」であるなら、街路灯代は、市の税金がから出すべきだ。そのための税金である。

 

補助金処理の無駄

 補助金を出すなら、申請を出さなくても、街路灯の数も、使用電気料金も、毎年決まっているから、各自治会に、街路灯数に見合った一定額の補助金を出せば済む話である。毎年、500の自治会が、その処理をするのは大垣市として大いなる無駄である。

 補助金を受け取るため、自治会の担当者が、申請書を書き、それを市役所に持って行って、担当者の確認を受けたうえで、受理される。

自治会会計担当者一人の手間とガソリンと、役所の役人の手間を計算すると

(1+0.3人工)×1時間×500団体×5000円/H=325万円/年

それ前市長の在任期間20年間で計算すれば合計で6,500万円である。

 

大垣市役人が大垣市の付加価値を削ぐ

 つまり大垣市の生産付加価値が、役人の怠慢で毎年325万円も無駄に使われている。さらに脱炭素に反して、ガソリンを使って市役所に出向かねばならぬ。何が、偉そうに「大垣市は脱炭素宣言」だ!

 その分、大垣市の発展のために労力が削がれている。だから大垣市の衰退が止まらない。すべては、大垣が士農工商の世界で、役人がふんぞり返っているために起こっている現象である。それが何十年も続いている。

 次回の選挙では、のほほんと脱炭素宣言を踏襲する現市長に反対投票をすべきである。現市長は、そんな体制を改革することに反対のようだ。なにせ現在の大垣市の行政は無駄ばかりである。それを変える気はさらさらないようだ。利権が大事としか思えない。

 

大垣行政で無駄のこと

市役所前駐車場の警備員

更に追加の市庁舎前に駐車場増設 

市役所内案内ロボット(幼児並みの知能)

 その保守費の無駄

市役所内ロボットの横に支援する役人

電子市役所と言いながら、各自治会担当者に金を持参させる

無駄な寄付金集め(大垣は寄付金依存度が県下一)

それに対して、集めた団体に7%のキャッシュバック

県下で一番豪華な市庁舎

他市よりも高い市民税

 

2021-10-29  久志能幾研究所通信 2194   小田泰仙

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2021年10月28日 (木)

家を愛しみ、家の柱に釘一本打たず

 

 私は今までに12回引っ越しをした。累計で10の家に住んだ。その間、故郷の生まれた家、育った家、大垣の父の勤めた会社の社宅、新築の社宅、父が新築した実家、寮、アパート、賃貸マンションに住んできた。

 しかし私は今だかって住んだ家で、釘一本打ったことがない。釘を打てば、家が痛かろう、悲しむだろうと思うからだ。家だって精霊が籠っていると思うからだ。家の身になって考えよう。家は人生で自分を支えてくれるかけがいのない存在なのだ。人生で自分を包み込んで守ってくれる存在なのだ。

 

 私は釘やフックやピクチャーレール等を壁に付ける場合は、プロの大工さんに作業をしてもらって、自分ではしないようにしている。

 あえて自分でする場合は、万力やクランプ等で板を柱に固定して、それに備品をねじ止めして、直接、家の柱にねじ止めしないようにしている。

 

 私は母の躾で、歩く時は畳の縁や敷居を踏まないようにしている。後年、それは茶道の作法であることを知った。母は若いころ、花道の師範であった。

 今、来客があり、その人が家の中を歩く時を観察すれば、敷居を踏むか踏まないかで、その人の育ちが分かる。

 

自分の体に釘を打つ

 大病を経験して気が付いたことは、家が自分の人生を温かく支えてくれる存在であるように、自分の体こそが、自分の人生を全力で支えてくれている存在なのだ、である。

 今にして思うのは、その大事な体に幾度となく釘を打っていたのではないかと反省している。たとえば、酒を飲めば、肝臓の細胞がアルコールの分解をするため、細胞が自分の身を殺して無毒化する。肝臓の細胞が、分裂・再生を繰り返して、アルコールを無害の物質に分解する。食物は胃で消化だが、アルコールは肝臓で毒物と同じ分解工程を踏まないと体外に出て行かない。それで肝臓の細胞は痛んでくる。それを繰り返すと、細胞の分裂限界数を超え、肝硬変や癌に変化する。肝臓病になるのは、要は肝臓に「釘」を打ち続けたためだ。

 同じように、美味しいものには「毒」があり、それを食べれば、自分の体を痛めつけている。スィーツの糖は、血管内部の細胞を傷つける。それが糖尿病や認知症を起こす。脂ののった美味しいお魚は、その脂分が血管内部に付着して、血流を妨げる。そのため白血球等の免疫酵素の流れも悪くなり、病気の遠因となる。

 要は毒を食べ続けると、体の毒素分解能力が限界値を超えて、病気(癌、糖尿病、認知症)になるのだ。

 自分の体を愛しもう。「ご自愛を」とは自分に言うべき言葉である。

 観音菩薩様の目は慈しみの目で衆生を見守っている。自分が観音菩薩となって、自分を見守ろう。自分こそが佛様だ。菩薩とは仏道を修行する仏様である。

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 松本明慶大仏師作 聖観音菩薩像

2021-10-28  久志能幾研究所通信 2193   小田泰仙

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2021年10月27日 (水)

がん診察費の請求額75円に衝撃を受ける

 

 今日(10月27日)、先週に受けたがん検査(CT)の結果を聞くため、愛知県がんセンターに出向いた。診察が終わって会計の窓口で示された金額が、2つの診療科を受けて合計150円である。つまり一医師の診察費がたった75円で、絶句である。

 1週間前のがん検査(CT)では、1万円前後の検査費を支払った。それは納得できるが、今回は安すぎて絶句なのだ。

 検査結果は、がんの再発がなく、安心はしたが、診察費150円に心が乱れた。

 

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医師のノウハウ代が激安

 衝撃を受けたのは、経験が豊かなガン専門医が検査のCT画像のデータをみて判断する技術料(がんの判別)が、たったの75円であること。それは経験豊かな医師への冒涜である。

 医師はCTの画像を見て、がんの有無を調べる。いくら機械の性能が良くても、医師がCTの画像で、小さながんを見逃せば、アウトなのだ。その結果は、医師の眼力にかかっている。それが75円なのだ。おかしいではないか。

 

病院の収入源

 だから医師は診察だけでは利益が出せないので、医療現場は、手術、高額機械での検査や薬投薬に、利益を求める。しかしCT装置やMRI等の設備費には、高い減価償却費がかかるので、結果として高い検診費となる。

 現代医療の代金は、薬代や手術代、検査費でそれが賄われており、医者の経験智の対価にはお金が払われていない。そのため病院経営を成り立たせるため、過剰な検診や投薬が行われている。それが今回の75円の診察費で明らかになった。

 本来の医療は、過剰な薬投入、過剰な検査、過剰な手術が施行されているようだ。まじめに未病を治す治療はできなくなっているようだ。

 現代の病院は高額の治療をするが、病気は治さない。そうしないと病院経営が成り立たない。過剰な医療をして、病気になれば、更に高額な医療を施す。医療費はうなぎのぼりである。悪魔のサイクルである。だから医療費が43兆円を超えた。

 この根本原因は、厚生省が医師の診察ノウハウを軽視していることだ。それが日本の社会が頭脳労働の価値を軽視している証しである。それが日本が米国のGAFAに負けて、成長できない根本原因である。だからこの30年間、日本人の給与は上がらなかった。欧米のそれは全て上昇しているにも関わらず、である。

 

医療がライン作業化で劣化

 だから癌の再発防止策を医師は患者に教えない。教えたくても医師もがんの本質が分かっていないのが現実だ。

 医師も、私は検査をする人、私は手術をする人、私は抗がん剤を投薬する人、と分業で仕事が進められ、他の科のことは関知しないようだ。だから検査をして、がんが見つかれば、手術をして、抗がん剤を投与して、後は定期的に検査をするという体制に縛り付けられる。それががんセンターの「標準コース」である。

 医師は患者が「標準コース」から外れることを嫌がる。だから患者が「標準コース」を拒否すると、「命の保証はしない」と脅す。私も実際に脅された。私は薬剤医師とけんか別れをして、抗がん剤治療から逃げた。

 医学の分業化、細分化の究極の姿が、病気は治りました。しかし患者は死にました、である。物事を細分化すればするほど、本質がみえなくなる。西洋の科学とは、物事を細分化して研究する学問である。それに対して東洋の学問は、俯瞰的に統合して考えるである。

 だから病院は、どうすれば癌が再発を防げるかの指導はしない。だから私は自分で癌再発防止の手段を必死に探し、日本全国(東京、名古屋、養老町、九州)を走り回って、その解決策を見つけた。

 

対処療法の末路

 「病気は元を断たなきゃだめなのよ」だが、医療現場の実態では、永遠にそれの実現が難しい状況である。医療現場は、対処療法オンリーである。だから医療費がこの40年間で4倍に増え、昨年度に43兆円を超えた。しかし患者も4倍に増えた。それなのに税収は60兆円しかない。何かが狂っている。これは医療の問題ではなく、政治の問題である。

 

危機管理

 自分の城である「体」は、自分で守るしかない。誰も助けてくれない。

 トヨタの鉄則「自分の城は自分で守れ」

 トヨタの鉄則は、キリスト様の言葉と同じである。

 「天は自ら助くる者を助ける」

 ベートーヴェンでさえ、

 「神に頼るとはなんたることか、自分で助けよ」という。

 私はトヨタの掟を守っているので、今も生きている。

 生き延びるためには賢くなければならぬ。

 知識だけでは生きていけない。

 

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 松本明慶大仏師作 普賢菩薩像

 

2021-10-27  久志能幾研究所通信 2192   小田泰仙

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2021年10月26日 (火)

大垣市の恥さらし、焼香順序が無知と同然

 

 葬儀で焼香者の順序を間違えると、極道の極みのように親戚から非難される。それと同じで、大垣市庁舎の上に掲げる垂れ幕の掲示順序を間違えると、世間から笑われる。それで特定企業への忖度を疑われる。

 今日(10月26日)、大垣市役所に所用があり、その非道さを掲示垂れ幕で発見した。その垂れ幕は上から下へ次のように並んでいた。

 西濃運輸

   ↓

 衆議員議員総選挙

   ↓

 人権尊重をめざす

 明らかに異常な並べ順序である。大垣市は、「西濃運輸様様、万歳。下々よ、この垂れ幕が目に入らぬか。ついでに衆議院議員総選挙もある、見ておけ」である。なぜ総選挙公示の垂れ幕が、西濃運輸宣伝より下なのだ? 世の常識として、一番大事なことは一番上に掲示なのだ。国政を馬鹿にすな!

 どこの世界に、市役所の役人が、その市の一番高い一等場所に、一企業の名を宣伝・誇示する看板を掲げるのか。狂っている。

 付け足しのように「人権を尊重するまちづくりすすめます」と垂れ幕を掲げるとは、「現在、大垣市は人権尊重がされていません」と、告白していること。人権尊重がなされていれば、こんな掲示などするはずがない。

 さらに言えば、やることはまりづくりではなく、人づくりである。これは役人の責任転嫁の言い回しである。大垣市は、元気ハツラツ市行事で児童生徒を36度の炎天下のコンクリート上演台で強制的に踊らせていたではないか。豊田市の児童が、課外授業で熱中症のため死亡したばかりの時である。大垣市の教育委員会の怠慢である。人権無視である。

 2020年1月の大垣市主催の無料餅つき大会で、老人が誤嚥で死んでも、主催者も大垣市も、知らんふりをしたではないか。命が最大の人権である。

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大垣市役所 垂れ幕 2021年10月26日

 横に経費が高い無用な駐車場警備員が1名立っている(写真外に1名)

 駐車場はがら空きで、駐車場警備員が2名である。

 

 この掲示順序を見て思ったのは、「西濃運輸関係の宣伝が、総選挙より大事だと大垣市の役人は思っている。大垣市の役人は西濃運輸にヨイショ(忖度)をしている」だ。

 大垣市は、西濃運輸の子会社から多くの土地を借り、その金が西濃運輸に流れている。現市長は、前回の選挙で西濃運輸に世話になったようだ。その昔、大垣市の役所の制服は、西濃運輸の制服そっくりであった。大垣市は西濃運輸にべったりなのだ。

 

前市長の恥

 同じ過ちを、前市長が、天皇陛下からの叙勲者を差し置いて、堂々とまるで自分が叙勲されたが如く中央に座して、岐阜新聞紙上の写真に納まっていて、世間に恥を晒した。大垣市の役人には、焼香順序のような順序の大事さも知らないという伝統があるようだ。

 

 

説明の順序、掲示の順序

 文章の記述順序や項目の説明順序には決まりがある。どんなものにも序列があり,それを間違えると社会的に非難されるのは,文章中の記述順序にも当てはまる。マニュアル,論文等で内容,装置等を説明する場合,下記順序で説明する。

 

・重要なものから

  役所として総選挙が一番大事な事項である。西濃運輸の項ではない。

・大きな物から

・ABC順,あいうえの順

・上から下へ

・右回り

・北から南,東から西

  北が上位。平安時代の「北面の武士」の起源は、武士の雇い主の貴族が北側にいて、用心棒の武士が南より北に面して貴族に接見していることから来たのが語源である。

 神社の神様は南向き。我々は北を向いて拝む。

 東が上位(東の正横綱,西の張出横綱)

 隋の陽が聖徳太子の「日出ずる国の太子,日沈むる国の王に・・・・」の手紙を読んで怒ったのも訳あり。

 

・年代順,歳の順

・既知の事実から未知の事柄へ

・確定した事例から未確定の事柄へ

 

 川端康成著『伊豆の踊り子』では,主人公の描写が上から下へ順序良く説明されている。説明が,袴から肩のカバンに飛んでいるのは、アクセントを付けたかったためと推定される。川端康成は英語に堪能であった。当時の文学者は英語が堪能であった。芥川龍之介、夏目漱石も英語が堪能であった。英語には論理性が求められる。彼らの各文学作品にも、その論理性が現れている。

 

文例)『伊豆の踊り子』       川端康成

 道がつづら折りになって,いよいよ天城峠に近づいたと思う頃,雨脚が杉の密林を白く染めながら,すさまじい速さで麓から私を追ってきた。

 私は二十歳,高等学校の制帽をかぶり,紺飛白の着物をはき,学生カバンをにかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり,湯ケ島温泉に二夜泊まり,そしてほお歯の高下駄で天城を登ってきたのだった。重なりあった・・・・・・・

 

2021-10-26  久志能幾研究所通信 2191   小田泰仙

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2021年10月25日 (月)

住宅メーカ展示場の寝室で、悪夢を見る

 

 家を新たに建てるため、6社の住宅メーカの展示場を連続9日間、ハシゴ見学をした。そこで見た各会社の寝室を比較して、各社の住宅設計の本気度が分かった。元技術者の私の調査方針は、現地現物である。現地現物は、私の人生の哲学である。

 

寝室とは

 寝室とは、人の命を預かる部屋なのだ。人が寝ている時は、完全な無防備状態である。寝室は、家の中で一番大事な部屋である。それを見れば、住宅メーカの姿勢が分かる。

 

現地現物

 現地現物とは、「自分の足で現地に出向き、自分の目で確認して完全に状況を把握する」である。必要があれば、飛行機を使ってでも現地に飛べ、である。

 それをやれば、カタログや、営業マンの言葉には騙されない。その哲学があったから、私は2017年にウィーンに飛び、ベーゼンドルファー工場でピアノ製造工程を見学した。今にして、行って良かったと思う。今ならコロナ禍で、ウィーンに行きたくても行けない。

 

メルパルクでみた悪夢

 2013年頃、国家試験受験のため、自分を追い込むため1週間ほどカンヅメ状態するため、名古屋メルパルクの連泊したことがあった。その時のホテルの状態の悪さで、ホテルの良し悪しがわかった。今後二度と、メルパルクには泊まらないと決めた。

 名古屋メルパルクは睡眠環境が悪かった。朝日への遮光が不十分で、朝日の明るさで嫌でも目が覚めてしまい、熟睡が妨げられた。昼間、勉強で疲れて昼寝をしようにも遮光が不十分で寝られない。またホテルのその後の対応が不誠実であった。所詮、メルパルクはお役所体質のホテルであった。

 ホテルの最大の使命(商品価値)は、宿泊客に安眠・熟睡を提供することである。それはマイホームの寝室でも同じである。

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 名古屋メルパルク 2014‎年‎8‎月‎7‎日0‏‎6:19 嫌でも目が覚めてしまった

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名古屋メルパルク 2013‎年‎6‎月‎29‎日13:38 明るすぎてお昼寝ができない。

 

モデルハウス見学

 各社のモデルハウスを見学して分かったことは、各社の寝室モデルは絵に描いた餅の設計が大半であったことだ。実際に睡眠で悩んだことのないサラリーマン設計者が、設計したとしか思えない代物が多かった。それで会社のレベルが分かる。サラリーマン設計者は生の生活が分かっていないようだ。

 私は日本各地と世界各地のホテルで数多く寝てみて、その部屋の設計の差が大きいことに興味を持ち、比較研究してきた。世のホテルには、見栄えだけの部屋も多くある。

 寝室は、人生の3分の1を過ごす場所なのだ。出張でホテルに泊まれば、その部屋の設計思想で、ホテルのおもてなしレベルを直に体験できる。しかし日本の住宅メーカのモデル寝室は、見栄えだけのお飾りのような作りとなっているケースが多い。それを現地現物で発見した。

 

 遮光が不十分な南向きの寝室は、夏の朝はゆっくり寝ていられまい。

 薄い遮光カーテンで、なおかつカーテン上部からの光漏れ対策なしの部屋では、熟睡できまい。

 なんで寝室に、2.5メータ高さで横幅超大の窓がいるのだ?

 モデルルームの寝室の中には、カーテンさえない場合があった。

 なぜモデルルーム寝室に、二重カーテンが設置されていないのだ。

 

2021-10-25  久志能幾研究所通信 2190   小田泰仙

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2021年10月24日 (日)

永眠のための寝室作り、よく死ぬための準備

 

 く眠るための環境作りこそ、家作りの最大の目的である。

 よく働いた一日は良き眠りを誘う。同じように良く生きた人生は、やすらかな死を賜る。(ゲーテ)

 

 私は毎日、永眠する練習のために床に入る。幸いなことに、この70年間、翌朝目が覚めている。翌朝、まだ生きていれば、この世でやるべきことが残っているとの神仏の啓示である。目が覚めたら、働くために喜んで起床する。

 しかし一生の内、一回だけ目が覚めない時が来る。それが死である。それまでは、永眠のための練習である。

 

寝室を真っ暗にして眠る

 死んでから、あの世に行くまでの間は、真っ暗である。その長い暗いトンネルを抜けると、雪国(逝国)に出たように明るい未来が到来する。此の世の行いが悪いと、もっと暗い地獄が待っているかもしれない。

 良質な睡眠のために照明を全て消して眠る。目の網膜が光を感知しなくなると、睡眠を促すメラトニンというホルモンが出る。

 

 しかし、小さな常夜灯を点けておくと、網膜はかすかな光にも反応してしまうため、メラトニンが分泌されず、睡眠の質が落ちる。

 そのメラトニンの分泌を妨げるのが、就寝前の液晶の光である。就寝前のパソコン、スマホは禁止である。寝室にはスマホは置かないこと。

 

 エアコンのパイロットランプも、真っ暗な寝室では、異常に明るく光るので、対策が必要だ。私はガムテープでランプを覆っている。

 ホテルでも、明るい時計が設備してある場合があるが、その時はその時計をカバーで覆ってから寝ている。

 

 時計のLEDの光も真っ暗中では、明るすぎるので、寝るときはカバーで覆って光が漏れないようにしている。寝室では、光を出さない液晶表示の時計を使っている。

 睡眠の途中で目が覚め、時間を見るため電灯をつけては、覚醒してしまうので、ボタンを押せば、音声で時刻を知らせる時計にしている。これは便利である。現在、二世代目の音声時計である。

 

 自宅の2階の部屋を寝室専用に変えたので、窓は完全閉鎖とした。以前は二重の厚いカーテンで遮光していたが、それでも朝日の光がカーテンを通して部屋を明るくしてしまう。夏の朝は、時間まで寝ていたいのに、嫌でもその光で4時ごろに目が覚めてしまう。それでは睡眠不足に陥る。そのために、窓に特注のベニヤ板を取り付けて、完全遮光の状態にした。

 イタリアの5つ星ホテルでは、窓は開閉式の木の扉付の窓になっていた。

 

電動ベッド、羽毛布団の導入

 私が癌を患い、愛知がんセンターに入院し、電動ベッドの良さを体験して、退院後、すぐ電動ベッドと羽毛布団を購入した。費用は100万円ほどかかったが、余命宣告された身では、そんな金のことは言っていられない。導入して正解であった。気持ちよく熟睡できる。あの世も此の世も、安眠は金次第?

 電気椅子で死刑になるより、電気ベッド上で死んだ方がましである。

 

21時になったら食べない

 良質の睡眠を取るため、21時のシンデレラボーイになる。時間が来たら、食べ物とはさようなら、である。飲食は翌朝まで我慢。寝るときに食べた物が胃の中の残っていると、熟睡を妨げる。また胃の中の食べ物がインシュリンの働きで炭水化物もタンパク質も全て脂肪に変わってしまう。肥満の元である。肥満体では良質な睡眠は得られない。だから肥満体の人は短命である。

(お相撲さんは太るため朝の猛稽古の後、沢山食べて、太るために寝ます)

 疲れていても、我慢して、いつもの就寝時間まで起きていることが必要だ。

 疲れたら、運動を兼ねて、散歩に出かけること。アドレナリンが分泌されて、疲れが取れる。

 どうしても食べたいなら、果物にする。果物は30分で腸に達する。

 仕事の関係で、どうしても遅く夕食を食べる時は、量を減らして軽くする。

 

成長ホルモン、良質な睡眠の環境整備

 良質な睡眠がダイエットと安らかな死の基本である。

 成長ホルモンは、子供の背を伸ばすだけではない。成人の体では、日中動いて傷んだ筋肉の修復を促している。また、成長ホルモンは、脂肪の分解やたんばく質の合成を促し、炭水化物、骨、水分や電解質などさまざまな代謝を調節し、体のバランスを一定に保つ役割を果たしている。成長ホルモンは脂肪の分解を促すので、これが不足すると太ることになり、また老化を加速させる。老化が睡眠の質を低下させる。

 成長ホルモンは夜、入眠した30分後くらいから始まる深い眠りに入ってから約2時間の間に分泌される。だから、成長ホルモンを分泌させるには、質の良い眠りを得ることが必要である。

 加齢とともに成長ホルモンは減るので、意識して分泌を良くする対応が必要です。「寝る子が育つ(縦に成長)」のは思春期の若者だけのこと。成人は食べて寝ると太る(横と前に拡張)。

 

「寝る子が良い死を賜る」。熟睡できる体力があれば、よく働き、良い死を賜る。寝るにも体力が必要だ。体力がないと、良質な睡眠は得られない。老いると寝たくても熟睡できなくなる。それが老いを感じる時だ。

 成長ホルモンの分泌を良くするためは、体をよく動かす、食事面では夕食時に良質な蛋白質を摂取し、炭水化物は、活動する朝と昼で取り、夜は少なめにする。

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 出典:鈴木 博夫(薬学博士)(㈱クラウディアのHPより)

 

 

体温を上げる

 良質な睡眠のためには体温を上げるのが有効なため、寝る前の入浴が効果的である。

 体温を上げるのに、寝る15分前に腹筋や腕立て伏せの軽い運動も効果的だ。基本は昼間によく体を動かすことだ。

 仕事で座りぱなしは、煙草を吸うと同じくらい体に悪い。それで私の仕事部屋には立ち机を導入した。

 

体を動かす

 眠られないのは、体が疲れていなからだ。眠られない時は、軽い疲れとカロリーを消化するためにも、腹筋等の軽い運動を少しする。

 体温管理は、良く死ぬための準備に欠かせない。私はこの10年間、毎朝、体温を測り、記録している。同時に体重、体脂肪率、前日に歩いた歩数を記録して、視える化している。

 

睡眠薬は禁止

 眠られないなら、睡眠薬を飲むより、起きて働けばよい。そのうち眠たくなり、嫌でも寝てしまう。要は、その一日、体を動かしておらず、疲れていないので、寝られないだけである。仏様が、もっと体を使えと言っている。体内に宿る仏様の声を聞こう。

 父は長年、睡眠薬を飲んでいた。それも病気になった遠因と思う。睡眠薬は絶対に飲んではならない。薬は基本的に毒である。

 

2021-10-24  久志能幾研究所通信 2189   小田泰仙

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新型コロナに負けた佛様。人は佛を目指せ、神になってはダメ

 

 私はおだ仏教の佛様になることは目指すが、おだ神教の神になろうとは思わない。それは人間の持つ真理に反するからだ。

 人は誰でも佛になれる。人は誰しも心に佛性をもっている。しかし人の心の中には、鬼も住めば、佛も住む。鬼にならないためには、佛道を学ぶしかない。それが成仏である。

 

新型コロナに負けた佛様

 この10月29日から、長野市の「ながの東急百貨店」で「大仏師松本明慶佛像彫刻展」が開催される。それに行く準備をしていて、合わせて善光寺にお参りすることを思いついた。今年は善光寺の秘仏が7年ぶりの御開帳となる年である。

 ところが、今年はコロナ禍の影響で、その御開帳が中止となったと聞こえてきた。つまり佛様が新型コロナに負けてしまったのだ。

 これは秘佛様が「秘神」であるなら、こんな御開帳中止などにはならないはずである。だって全能の神様であるなら、完全無欠で何事も予定通りにされてしまう。私は、これが佛の存在意味を象徴する出来事であると感じた。

 

神と佛

 「神」は示偏である。「神」とは、漢字の語源でも、目には見えない存在を示している。神とは「人ではない」存在である。つまり人でなし。だから人は、己の欠点を無くして完全無欠な人間を目指してはならない。それは神を目指すことだ。神は絶対の存在で、完全無欠である。

 

 「佛」は人偏である。「佛」は、人間が進化した姿を、漢字でも表現している。佛は人が修行をして成仏した形をしめす存在である。だから人は、修行をしても神を目指してはならない。完全無欠の存在の神を目指しては、「ひとでなし」になってしまう。人間として、欠点を持ったまま成長するのが正しい修行である。大きく成長すれば、それがその人の持つ欠点を覆い隠し、欠点が人間味として、人格に色を添える存在となる。人は欠点を持ったまま(角を持って)成熟すれば、「角熟」として成長する。人は、そんな精神の成長を目指すべきだ。

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2021-10-23  久志能幾研究所通信 2188   小田泰仙

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2021年10月22日 (金)

ピアノ騒音殺人事件 1/11  (改定)

 

 私の家作りで、一番大きな影響を与えた事件は「ピアノ騒音殺人事件」である。それにより私がピアノを始めるのが40年間も遅れてしまった。家作りでも、防音対策で1千万円以上をつぎこむことになった。その因縁の事件がピアノ殺人事件である。

 

 この事件が明らかにしたのは、日本人の精神の劣化である。敗戦により、マッカーサー進駐軍の命令で、日本人の精神を破壊する政策が次々となされた。マッカーサーが日本人の精神を破壊したい目的は、二度と米国にはむかうことなくすることである。それだけアメリカは、日本の滅私奉公や特攻、玉砕という米国人には理解不能な精神構造を恐れた。その対策政策の一つが「修身」教育の廃止である。それと家制度の廃止である。進駐軍は、旧日本軍再来の恐怖心から、徹底的にその根絶を図った。それにより日本人古来の他人を慮る美しい心や利他の精神が破壊され、欧米の個人主義、権利意識の拡大、利己主義の教育が蔓延した。

 

 その精神の破壊工作の結果、起きたのがこのピアノ殺人事件だと思う。日本人は自分の欲望だけ満足できれば、他人のことは知ったことではないという精神構造になってしまった。また欲望として見せびらかし精神が氾濫して、ウサギ小屋にピアノを入れて、自慢げに娘にピアノを弾かせる精神にまで落ちぶれたのが遠因である。

 

 その流れで、携帯電話やスマホを回りの迷惑を考えず、傍若無人に使う現象は、1974年に起きたピアノ殺人事件と本質は同じである。

 

殺人事件

 1974年8月28日朝、神奈川県平塚市でピアノの騒音を理由として、母子3人が殺害された。3日後、逮捕されたのは一家の上の階に住む無職の男(当時46歳)だった。階下から聞こえてくる子供のピアノの音に悩まされての犯行だった。事件の前から何度も相手先とやり合っていたが、被害者宅が犯人をおかしな人として、まともに相手にしなかったのが遠因となった。事件の数日前、被害者の室のドアに「子供が寝ていますので静かにしてください」という張り紙が貼ってあるのを犯人は見かけ、「なんと自分勝手な!」と改めて殺害を決意し、刃渡り20.5センチの刺身包丁を購入した。

 

 この事件以降、騒音などによる事件や訴訟が頻発しており、多くの専門家はこの事件を「日本人の騒音に対する考え方が劇的に変化した事件」としている。ピアノ製造・販売店にも大いなる危機意識を与え、音量の抑制可能なピアノや防音材などの研究が進み、防音設備やサイレント楽器が開発された。

 

 このピアノ事件により、騒音問題が浮き彫りにされた。この事件について多くの音楽関係者が沈黙する中、作曲家・團伊玖磨はエッセイの中で日本の住宅事情内にピアノを持ち込む行為を「根本的誤り」として、次のように断じている。

 「日本の小さな部屋でピアノを弾いている情景は、正直判りやすく言えば、バスの中で大相撲を、銭湯の浴場でプロ野球を興行しようとする程の無茶で無理なことなのである」(「アサヒグラフ 1974年10月25日号」)

 

私のピアノ騒音被害体験

 私も中高校生の時代(1965年ごろ)、会社の社宅の団地暮らしの中、隣のピアノ騒音に苦しめられたことがあるので、犯人の心境がよく分かる。住んでいた団地は、事件のあった団地の構造とほぼ同じである。昔の建築構造では、どうしても上下左右の部屋の音が聞こえる。会社の社宅のため、普通以上に気を使っての生活が強いられる。この事件と同じように上の階の住民が、娘のためピアノを入れた後、ピアノの練習音が聞こえてきて、私の受験勉強の妨げになったことがある。私の受験勉強姿を見守っている母が、怒って上の階に聞こえるように襖を大きな音を立てて閉めるのを繰り返したのを今も覚えている。社宅内の人間関係では、せいぜいやれるのはこの程度の抗議である。そんな構造のアパートにピアノを持ち込むのはどう考えても異常であると今でも思う。

 

音には暴力性があることの証明

この殺人事件のあと、似たような殺人事件が頼発する。

1976年5月2目 鳥取市 『ステレオの音を注意されて』

1976年7月21日 東京大田区 『印刷機の騒音』

1977年4月27日 大阪市 『子供の走り回る音を叱責されて』

1981年2月26日 東京目黒区『老人ホームで同室者のいびきの音を腹を立てて』

1981隼7月17日 兵庫県・龍野市 『オルガシの音がうるさかったから』

1981年9月12目 川崎市 『ステレオの音』

1982年9月8日 兵庫県・加西市 『カラオケの音』

1985隼7月5日 和歌山市 『バイタの騒音』

1997年11月10日 浜松市 『バイクの騒音」

 

 上の挙げた殺人事件は氷山の一角に過ぎず、80年代に入ると近隣とのトラブルでの暴行・傷害・器物破損は年間250件にも達している。いかに人は騒音を暴力とみなしているかの証である。この事件が音は暴力であることを教えた意義は大きい。今までは音の暴力に対して泣き寝入りであった。

 

芸術の名を借りた暴力

 音楽は聴く人にとっては芸術でも、音楽に興味の無い人には騒音の暴力でしかない。いくら世界的な名ピアニストが弾いても、興味がなければ騒音の暴力である。犯人は美しい音楽も、興味ない人には騒音の拷問と感じることを日本社会に知らした役目を果たしたことになる。犯人は控訴もせず死刑を希望し最高裁でも死刑が確定したが、なぜか事件から40年以上経った2017年現在、死刑を執行されていない。死刑待機の最年長者でもある。それを考えると、犯人は仏様の使命を帯びた鬼の化身ではないかとも思ってしまう。

 

 厚さ12㎝の床を挟んで、下から聞こえてくる乱暴な子供のピアノ音は騒音の拷問である。本来、ピアノは30畳位の部屋で鳴らす前提で作られている。それを当時の防音を考慮されていない団地の3畳間に入れ、うちにもピアノが入ったと誇らしげに鳴らすこと事態、異常な状況にあった。子供もそんな親の顔色を伺って自慢げに弾いたのであろう。それが日本の高度成長期が軌道に乗って豊かになったという驕りが生んだ悲劇である。豊かになったと思い込んでいたのが当時に日本社会である。ピアノの騒音が直接響かない家庭は救いがあるが、そうでなく直接、ピアノ騒音が薄い壁を通して突き刺さる家には、悲劇である。貧しいとどうしても一点豪華主義となる。貧乏なため回りの備品や環境造りには金が行かない。いかなくても他人に迷惑を掛けなければ良いのであるが、ピアノは騒音暴力として猛威を振るう。豊かさとは一点豪華主義ではない。分相応の豊かさに満足して、全体バランスを考えて豊かさを一歩一歩実現していけば悲劇は生まれない。しかし、当時の高度成長時代は、国民全体が背伸びをしていた。そこから生まれた悲劇である。昔あった日本人の他人を慮る心が破壊されていたために起きた悲劇である。 

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事件を報道する新聞(朝日新聞)

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 当時、私が住んでいた社宅(事件の団地とほぼ同じ構造)

   取り壊される直前。新築当時は、人もうらやむピカピカの住宅でした。

   今は新興住宅地に変貌している。

 

2017-07-05 初稿

2021-10-23改定  久志能幾研究所 2187  小田泰仙

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2021年10月21日 (木)

輸血2回で血の気が戻る。戒名の朱塗り

 

 2年前に墓誌に私の戒名を彫り、それに朱で色を付けた(まだ生きているから)。2年経って祖父の百回忌の折、その色落ち発見した。それで戒名の字に、朱で石屋さんに塗り直していただいた。今回は色落ちを少しでも長く持たせるため2度塗りをしたという。それを今日(2021年10月21日)、確認のため菩提寺に出かけた。

 そこで命の有限性と使命感に思いが至った。

 

再塗装

 墓誌の再塗装で、鮮やかな朱色に戒名が復活して(血の気が戻り)、やれやれである。生あるもの何時かは死(色が落ちる)である。何事も所行無常である。それを墓誌から教えてもらった。死んだ色(ペンキ)なら、半永久的だが、それでは後日、朱色を落せない。だから数年で色落ちすることが明白でも、朱の墨汁を使ってもらった。それを繰り返すことが生きている証である。墓参りごとにそれを確認すればよい。昨年はコロナ禍でそれが叶わなかったために、起きた出来事である。しかしそれを喜ばねばならぬ。死んでしまえば、それが叶わぬ。

 我々も必ず死ぬことが明白なのに、毎日、同じことを繰り返して生きている。それを喜ぶべきなのだ。

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 朱が落ちた状態 2021年10月12日 撮影

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 再塗装後 2021年10月21日 撮影

 

ホテル消滅

 菩提寺からの帰り路で、駅前にあったはずのビジネスホテル・ディークが、跡形もなく消えているのを発見して仰天した。このホテルは過去何度か利用したことがある。通りかかった人に聞けば、数か月前にそのホテルは経営不振で、店を廃業したとか。今は建屋が取り壊されて跡形もなく、更地になっていた。経営不振もコロナ禍が大きく影響したのだと推定される。墓誌の色といい、ホテルの建屋といい、所行無常を痛感した。生あるもの何時かは死である。

 つくづくと、どんな命も無常であること思い知った。自分の命も大事に使わねば、何時かは無に帰してしまう。残り少ないと思われる命を、最大限に使わねばとの思いを新たにした。

 

Dsc09266s 以前はこの場所に6階建てのホテルが存在した。 2021年10月21日撮影

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使命

 「使命」とは、命を使うことだ。頂いた自分の命を使って、人生で何をするかが、人に課せられた最大の課題である。毎日、同じことの繰り返しであっても、少しでも世のためになることを為し、無為に過ごすことのないように、と自分を戒めた。戒名とは、自分に対する戒めの名である。生前に戒名を頂く意味を改めて感じた。

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 書は馬場恵峰先生、文責は著者

 

2021-10-21  久志能幾研究所通信 2186   小田泰仙

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