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2020年1月

2020年1月20日 (月)

漢詩創作練習 写経展、狂った食

 2016年晩秋、馬場恵峰先生が卒寿記念として波佐見町で写経展を開催した。その時、感想で下記の漢詩を作られた。

 私は漢詩の作成練習として、それを元に次に漢詩を作ってみた。生まれて初めての漢詩作品であるが、ベースがあると意外と簡単で、漢詩の創作は面白いことを発見した。漢字辞典をめくり、漢字の語源や意味を調べるのは楽しい知的な遊びである。

 

九十壽記念写経展終感

 競書展盛写経静

 寂生入滅実在星

 従容弄書冊静泰

 随寓而安完余生

  2016年晩秋17日恵峰詩

 

読み下し

 競書展盛んなり。写経展静なり。

  (技を競う書道展は盛んである。

   それに比較して写経書道展は静かである。)

 寂なり生入滅は実在、星なり。

 従容として弄し書冊を静泰す。

 随寓(気ままな自宅で)而して安じて余生を完す。

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4k8a9031s   馬場恵峰 写経展 波佐見町 2016年12月9日

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最近の食の乱れを見て作る。

 狂食界盛正食静 

 癌死与惨正死清

 従容弄正活静泰

 随寓而安完余生

  2020年1月20日夜 泰仙作詞

 

読み下し

 狂食の界は盛なり。正食は静なり。

 癌死は惨を与え、正死は清なり。

 (老衰日本人の半分が癌になる。癌死は日産である。老衰死、ポックリ死は正しく清らかな死である。老衰死は理想である。しかし日本人は、癌死が50%、認知症が25%、老衰死は3%、ぽっくり死は1%である。)

 従容として弄して正活(正しい生活)は静泰なり。

 随寓、而して余生を完うして安んずる。

 

漢詩の作法

 漢詩の作詞法則として、1,2,4行目の最後の漢字に韻を踏む。恵峰先生の詩では「静、星、生」の3文字である。私の試行漢詩では「静、清、生」である。3行目の最後の漢字は韻を踏まない。

 各行の最初の2文字が主語で、真ん中が動詞、もしくはその行の形容句である。最後の2文字が目的語である。

 

2020-01-20 久志能幾研究所通信 1456  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月19日 (日)

学法実践知己人生道

 生活知法者静温

 命不有物存親恩

 学行省己報恩情

 静黙治道念平穏

 

読み下し

 生かされて活きる法を知る者は、静穏なり。

 命は物に有らず。親の恩に存す。

 学び行い己を省みて温情に報ず。

 静黙し道を治め平穏を念ず。

  平成30年4月20日 馬場恵峰詩出

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 馬場恵峰書

 

 2019年12月12日に馬場恵峰先生宅を訪問したとき、教室内の埋もれた軸の山の中で、「学法実践知己人生道」という軸の箱が目に入った。箱から出してみると、上記の詩と軸が入っていた。馬場恵峰先生作詩の漢詩と軸である。漢詩を見て感じるところがあり、即、この軸を先生から譲ってもらった。

 

使命

 「生かされて活きる法を知る者」とは意味深長である。我々は生きているのではない。生かされているのだ。私は昨年、大病を経験して、なんとかその峠を乗り越えられることができたので、この言葉の重みを実感した。

 生かされている有限な時間内で、誹謗・批難や人の噂に明け暮れていては、人生の大事が達成できない。それを気にしては時間を無駄にする。誹謗・批難する者は、殺時者なのだ。

 

反使命行為

 「狂った食事」を貪り、「狂った生活」に浸ると、自分の「人生の大事」の実現を妨げる病気や時間浪費の地獄に堕ちてしまうのだ。それではこの世に何も残せず、「佛様のお裁き」で早死にしてしまう。

 将棋の故米長邦雄永世名人は、若いこと師匠の家に内弟子として弟子入りした時、いろいろと用事を言いつけられて将棋の勉強ができなかったという。それで考えて、学校から帰宅したら、真っ先に将棋盤に座って将棋の勉強をするようにしたら、雑用を言いつけられなくなったという。

 それと同じで、人生で無意味なことに精を出すから、佛様から、「お前は閑そうだから、こちらに来い」と早めに冥途に呼ばれてしまう。人は人生の大事をわきまえ、脇目も振らず人生の大事に没頭すべきなのだ。

 恵峰先生はわき目も振らず人生の大事に没頭していたので、仏様があの世に呼ぶのを躊躇してしまったようだ。だから93歳で現役である。仏様が力を貸してくれたのだ。

 

使命を知る

 己が何の為に生かされているかを、認識すべきなのだ。それが使命である。命を使って、何をこの世に残すのかである。それを思うと、おちおち死んでなんかいられない。病気になんかに負けられない、という気になる。私は自分の城である体を自分で守らねば、との危機意識をもって日々を送っている。

 

漢詩の作法

 漢詩の作詩ルールとして、1,2,4行目の最後の漢字に韻を踏む。この詩では「温、恩、穏」の3文字である。3行目の最後の漢字は韻を踏まない。

 各行の最初の2文字が主語で、真ん中が動詞、もしくはその行の形容句である。最後の2文字が目的語である。

 現在では北京大学を首席で卒業しても、漢詩を作成できる人はいないという。馬場恵峰先生は、浙江大学で客員教授として中国の学生相手に漢詩の作り方を教えてみえる。だから恵峰先生が中国に行かれると、一目置かれる。

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 馬場恵峰書

 

2020-01-19 久志能幾研究所通信 1455  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年1月18日 (土)

自惚れは持たねばならぬ。しかし自惚れてはならぬ。

 人間は自惚れがあるから生きていられる。自惚れが無くなれば死ぬ。「自分は馬場恵峰だ」との自惚れないと、先に進まない、生きていけない。だから、それに負けない仕事をせねばならない。そこに信用・信頼という財産ができる。

 自惚れは持たねばならない。自惚れは伸ばすべきだ。そうすれば、人から誹謗されても、それを感謝の気持ちに変えられる。

 

自己満足

 この世で自惚れを持たずに生きている人は、一人もいない。人は自分の自惚れを磨くために生まれて生きた。「あの人は自惚れている」と人を非難するのは、己が自惚れているからだ。それは何にもならない。

 自惚れられるのは、自分が努力をして技をみがき、世間がそれを認めるからだ。人間は自己満足して生きることが大切。その自己満足が自惚れである。

 不満足なら、満足するまで、思考して、努力を重ねることだ。学んで自惚れを磨くべきだ。思案だけでは、実にならない。自分の自惚れを育てるのは、自分である。自分が自惚れを勉強して、人からうらやましがられるような自惚れを育てることが大事である。しかしそれを自惚れてしまっては、もう成長はない。

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人からうらやましがられよ

 「書道を書くなら、人からうらやましがられるような字を書きなさい。自分の自惚れを大切に育てなさい。あなた方は、書道をすることで素晴らしい人生を歩んでいる。書道をしていない人に比べて、素晴らしい自惚れの道を歩んでいる。」と私(恵峰)はお弟子さんに伝えている。

 

人に学び、己に活かす。

それが自惚れの大切な道。我この道をおいて、我を活かす道無し。一事一心一念道。これが自惚れを活かす根本の方法である。日々精進して、自己満足を学んで、誇りを持て。自己満足は、人生最高の妙薬である。

 

佳気満高堂

 気を佳くして満足して己を高めていく。「高堂」とは自分の体のこと。

 

心足身常閑

 「心足」とは自己満足のこと。そうなれば、のどかである。人から何か言われたら、私が認められたと思えばよい。人から非難誹謗され、何か言われたら、感謝である。

 

 陰口が耳に入るようになったら、相当、自惚れている状態である。感謝せねばならぬ。人がそう認めてくれたのだから。そう思わないと、人の言葉で殺される。発想の転換が必用である。

 自分が出来ないから、非難誹謗する人が多い。それは逆に言うと羨ましがられている。だから人から羨ましがられるように、自分の自惚れを磨きなさい。そうなれば腹を立てないですむ。人からの「自惚れている」という誹謗に負けてはならない。

 

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佛の裁き

 努力もせず自分が自惚れていると、人が妬ましくなる。だから人を非難することに精力を使う。その鬱積した感情が、命を削る。

 人を誹謗する人間は、非難するだけで努力をしない。だから非難だけで時間を使い、世の中に何も残せない。だから私(馬場恵峰)を非難誹謗した人間は早く死んだ。自惚れを精進して努力する人を、仏様は助けてくれる。人を非難誹謗した人が墓穴を掘る。それを仏の裁きという。

 非難され誹謗された自分(恵峰)は、それをバネに黙って人の2倍も3倍も努力をして、見返し、実績を世に残した。だから長生きできた。人さまが誹謗してくれたので、その力で元気をもらった。人様のお陰である。

 自惚れを持つ人間は、努力をしている。その自惚れを常に磨いている。だから世に仕事を残す。

 

私(恵峰)の成長

 私(恵峰)は師からくさされ、叩かれ、罵られて「己の自惚れ」を鍛えられた。だから私は師よりも10年も長生きしている。それを天が味方したという。しかし自惚れてしまえば、おしまいだ。自惚れを磨く、それが人生を伸ばす道である。人から「うぬぼれている」と言われるくらいに上手になりなさい。それが天の言葉である。

覚えて書く

 手本を見ていくら書いても上手にならない。それは猿真似である。中国の自惚れた書家の作品を学んで、自分に繋げていきなさい。「学んで書く、覚えて書く」のと「真似して書く」のは違う。

 

本物の自惚れ

  それを書展に出すと恥ずかしいと出さないから、上手になれない。それこそが、本物の自惚れである。自分が恥をかきたくないのだ。

 安い半紙にだけ書いて、己の腕を世の問わず、書展に出さないから、何時までも上達しない。半紙の練習ではなく、高い紙で真剣に作品を作らないと成長しない。

 仕事でも多くの場数を踏み、失敗して恥をかくから能力が向上する。その職位が人を育てるのだ。私(小田)もやり過ぎて多くの失敗をした。非難もされた。それが私の肥やしとなった。

 過保護で育てられたエリ―ト経営者は、修羅場を経験していないので、経営を誤り、会社をつぶす。私(小田)の前職の会社も、エリート経営者が決断をせず、事なかれ主義で経営をしたから、消滅した。

 

書道での自惚れ

 書を書く場合でも、私(恵峰)は間違えるはずがないと「自惚れ」を持っているから、間違えずに書を書ける。皆さんは間違えるかもしれないと思って字を書くから、間違える。

 私(恵峰)は、表装された軸に直接書く。だから表装代が節約できて、安く皆さんに分けてあげられる。

 

元手がかかっている

 皆さんは安い半紙に書いているから、上達しない。私(惠峰)は高い軸や高級な紙を使うから、真剣に、頭を使って書く。紙にカネがかかっている。人様が作ったもので上手にしてもらっている。

 上手に書くのでなく、感性を養うために書を書く。作品に仕上げることを頭に置かないと成長しない。お弟子さんは、他流試合をせず、練習ばかりしているから成長しない。私は、高い紙に失敗は許されないと思って書く。だから上達する。

 

無駄の効用

 無駄をしないように、しないようにとするから成長できない。無駄なことに成長の肥やしがある。私(小田)も相当な無駄なことをした人生である。仕事でも写真も文書も芸術品の収集でも、である。人様よりも多くの失敗をした。だから成長した。まずやって見る、買ってみる、書いてみる。失敗と分かったら、止めればよい。間違った道と分かったら、引き返せばよい。間違った経験が智慧となった。痛い目を経験しないと智慧にならない。

 

真剣勝負

 木刀で練習するのと真剣で練習するのとは格段の差がある。江戸時代の地方の道場の名人と言われる人は、江戸の名人に一撃で倒される。それは、江戸の名人は、多くの人と他流試合をして鍛えているからである。

 それは書道でも同じで、真剣に多くの紙に書き、書展で世の批判を浴びないと上手くなれない。批判を浴びて恥をかくから上達する。仕事でも真剣勝負で渡り合わないから、成長しない。

 

 上記は、2020年1月9日の恵峰塾での講義内容を基に、自分の経験に照らし、加筆、編集して記載しました。

  

2020-01-18 久志能幾研究所通信 1454  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月17日 (金)

「法人にあらずんば人にあらず病」 悪縁ディーラからの遁走記(6)

初めての車

 40年前に初めて愛知トヨタ店でカリーナを買った。買った時、車を大事にしたかったので、営業マンに貸しガレージを探してくれるようにお願いした。その営業マンは「愛知トヨタは、ネットワークが広いので、必ず探してご連絡します」と約束をした。しかしその後の連絡は全くなかった。そのうち、その営業マンは転勤でいなくなってしまった。

 

クラウンの検討

 2018年、乗っている車が20年になり、クラウンへの買い替えを検討した。それでクラウンの購入のため、岐阜トヨタの担当営業マンとは5,6回も打ち合わせをしたが、デザイン的に前クラウンは、好きでなく買う決断が付かなかった。そうしている間に新クラウンの発表があった。その営業マンから「新クラウンが発表され、実際に新車が店頭に置かれたら連絡をします」の約束があった。しかし、その時期になってもその営業マンから連絡はなかった。

 そのうち私は新クラウンに興味が無くなり、その営業マンとは疎遠になった。でも一度、実際の新クラウンを見に行こうとそのお店に出かけた。その時、お店にその営業マンは不在で、別の営業マンが出てきて、対応された。その営業マンは、「私が来たことを担当営業に、伝えておきます」といった。しかしその担当営業マンから、ついぞ連絡はなかった。常識的には、お店に見込み客がわざわざ来店したなら、担当営業マンが電話ででもお礼の連絡なり事務連絡をするものだ。

 そのお店は、私が来店すると、私の車のナンバーが登録してあり、フロントが担当営業マンに私の名前が「通報」されるシステムになっていた。私が営業マンを呼ばなくても、担当営業マンが出てくるシステムになっていた。これはネッツトヨタ南国で運営されているサービスである。しかし、この岐阜トヨタ店では、形を作っても魂入れずのシステムになっていた。単なるネッツトヨタ南国の形式的な物まねシステムになっていたようだ。

 

諸悪の根源

 これはクラウンという商品を売ることで罹患した業病のようだと納得した。クラウンは買う80%が法人客であるようだ。個人でクラウンを買う客は少ない。法人は、定期的に車を買い替えてくれる。クラウンは黙っていても法人車として売れる車である。だから営業マンは法人の方を向いて、そのご機嫌伺をしていれば、営業マンの成績は維持される。個人の客は大事にしなくても商売が成り立つのだ。

 

40年前の対応

 だから40年前に私が愛知トヨタ店でカリーナを買っても、営業マンの対応が冷たかったのも納得できる。当時、若造の私を真面目に相手にしなかったのだと今になって納得した。

 

2018年、岐阜トヨタの対応

 私に対応した岐阜トヨタの営業マンは、若い主任クラスであった。現在の私みたいに酸いも甘いも経験している初老のユーザーの相手に、主任クラスの若造では、話が合わなくて困るのだ。

 以前のビスタ店、ネッツ店では、私の担当営業マンには店長クラスの人が対応した。それから見ても岐阜トヨタ店は、法人に目が向いていた。

 

京都トヨタの対応

 知人で私と同じ世代の人がクラウンを乗っているが、法人でなく個人であるので、その京都トヨタ店の対応が事務的だという。なおかつ、そのクラウンはその人が買ったのではないので、それの扱いが露骨のようだ。定期点検のダイレクトメールが来て、出向いても、その担当者が決まっていなくて毎年変わるという。

 その京都トヨタ店でも、個人客は大事にされていないようだ。多分、全国のトヨタ店でも同じような扱いだろう。それこそが、法人相手のクラウン商売という特性に起因するのだろう。

 

淘汰の時代

 そんな殿様商売では、全トヨタ店で全車種が買えるようになると、そんなお店は淘汰されるだろう。トヨタは、系列ディーラでの全店舗全車種扱いの開始を2020年5月に前倒しすることを発表した。

 お店で殿様商売の匂いを嗅いだら、さっさと遁走である。だから私はクラウンを買うのを止めた。現在の愛車を乗り続けることを決めた。自分の足として21年目の車歴である。

 

クラウンの裏話

 中小企業の社長はクラウンを買うのが夢である。クラウンに乗ると人生観が変わるという。周りが己を見る目が一変するという。要はステータスなのだ。なおかつ車の経費は、会社の経費で落とせる。儲かって税金で持っていかれるより、クラウンを買おうである。

 ところが三河の中小企業の社長たちは、儲かってもクラウンには乗らない。そんな車を乗っていると、親会社から「だいぶ儲かっているようだから」と仕事で値引きのネタにされてしまうからだ。それを避けるため、高級車には乗らないという。堅実なのだ。

 

クラウンの顔が嫌い

 私はクラウンのいかつい「顔」が嫌いである。それでも売れるから不思議と思っていたら、社用車として乗るなら、その顔で代表されるデザインは二の次なのだ。要は中小企業の社長は「クラウン」であればよいのだ。それで周りの人が評価してくれる。それが中小企業の社長の実態である。

 

業病

 クラウンは国内向けだけの特殊な車である。だからトヨタ店の営業が、苦労しなくても売れる車なので「安易な営業姿勢病。法人だけが客で症。法人にあらずんば客にあらず病」という業病にかかっている。傲慢な病人に近寄ると、己も病を得る。そんな病気は伝染するので、君子危うきに近寄らず、遁走に限る。

 それよりカローラ店、ネッツ店のほうが、一般客に気持ちよく対応してくれる。ネッツトヨタ南国の真摯な営業内容には学ぶ点が多いが、一般的にトヨタ店からは学ぶ点が少ないようだ。

 安易に売れる商品を持つことは、努力をすることを忘れさせる。未来の衰退があるだけだ。

 

誰にも負けない努力

 親から財産や才能を与えられることは、努力をすることを放棄させる。結果として、自分の将来の成長の障壁となる。自分に財産や才能がないことを喜ぼう。それが奮起のエネルギーとなり、人よりも2倍、3倍の努力をするモチベーションとなる。自分で獲得した能力は、誰にも負けない力を与えてくれる。

 稲盛和夫氏は「誰にも負けない努力」をして、有名大学出でもなく、世間の支援もなく、売れる商品もない状態から、京セラを世界の京セラに育てた。その根源は利他の心である。

 ディーラから買うのは、車ではない。営業マンを買っているのだ。彼の利他心とその営業行為に共鳴して、車を買うのだ。私はいろんな商品をその観点で購入している。安いから買うわけではない。自分の命を大事にするために、担当営業マンを「耳を洗い、目を拭い」その本性を見極めよう。

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 馬場恵峰書

 

2020-01-17 久志能幾研究所通信 1453  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年1月16日 (木)

悪縁ディーラからの遁走記(5)「売ってやる」営業

 1999年、先代のクレスタを10年間乗ったので、新車に更新しようと三河地方のトヨペット店に商談に行った。目当ては当時のベストセラー車マークⅡである。当時は月生産台数も3兄弟車で3万台を超えていたトヨタのドル箱商品であった。道を走ると右も左もマークⅡばかりという時代である。

 そのトヨペット店で見積もりを取ったら、その営業マンが超強気で「マークⅡは名車ですから。売れているのですよ」「売ってやる」のだという上から視線の口調が嫌になった。マークⅡが黙っても売れるので、営業は得意になって客を馬鹿にしていた。それで値引きもあまりない。そんな営業姿勢では、購入後のフォローも誠意が無かろうと早々に遁走した。

 

誰のお陰で売れた?

 マークⅡが売れている要因は、血の滲む開発をした開発陣とそれを支えた営業企画、生産体制のお陰である。その開発の陰では、徹夜もあっただろう。各部門の担当者が上司から叱られて泣いたこともあっただろう。試験がうまくいかず途方に暮れたこともあるだろう。親会社から無理なコストダウン要求で泣かされた協力会社もあるだろう。

 それをディーラの営業マンが売ったと威張るのは傲慢である。謙虚さがない。

 

人生の定年

 それで真摯に対応してくれたトヨタビスタ店で兄弟車を買うことにした。

 当時名車としてドル箱であったマークⅡも、マークχとして2019年で生産が終わった。一時は3万台を超えた生産も、最後は月700台程度に落ちていた。勝者必滅の掟である。どんなベストセラー車でも、定年あり、死がある。

 人生は好調の時にどう振舞うかで、その後の人生が変わる。人生にも商売にも謙虚さが必用だ。

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  馬場恵峰書

2020-01-16 久志能幾研究所通信 1452  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月15日 (水)

鬼の目、普賢菩薩の目  悪縁ディーラからの遁走記 4/6

某自動車整備会社の例

 定年後、故郷に帰郷して某経営研究会に入会した。そこで紹介された某自動車整備会社の社長のお店に、車検をお願いするご縁となった。

 そこで悪事が露見した。その整備会社に車検に出した車が、車検から帰ってきたら、車のガソリンタンクが、ほとんど空になっていた。おかしいと思い調べたら、その社長が車検の間、私の車を営業車代わりに乗り回していた。その履歴がドライブレコーダーに記録されていた。運転中に彼が営業の携帯電話をかけまくっていた状況も録音されていた。当時、まだドライブレコーダーはそんなにも普及していなかったので、その社長はドライブレコーダーの装備に気が付かなかったようだ。

 その社長との過去の付き合いでは、違和感を覚えることが度々あった。今回それで合点がいった。今回の不祥事を機に、その社長とは縁を切った。

 

経緯

 三好眼科(福山市)の三好輝行先生を訪問した2013年10月25日に、自車の車検を依頼した。納車日の翌日に車に乗って、ガソリンがほとんど無いことに気がついた。3割ほどはガソリンが残っているはずだが、その社長は何も言わない。記録から見ると納車までにかなり走行している。車検指定工場なら、陸運局まで行くまでもないはず。

 

1 携帯電話の無礼

 自宅での納車説明中にその社長の携帯に電話がかかってきて、彼は私に断りも無く話しを始めた。彼は、私の目の前で携帯電話をするのが今回で4回目である。以前にきつく注意をしたが、その悪癖が直らない。目の前の私よりも他の客が大事であるとのメッセージを、私に伝えている。侮辱であり、時間泥棒である。命(=時間)の泥棒である。時間を大事にする私には許せない行為である。

 

2 諦め

 本来なら、この無断乗り回しを詰問すべきだが、やめた。以前に、きつく叱ったこともあったが効果がなかった。自分も叱るのが空しく感じる。言っても仕方のない人には誰も注意をしない。それが、彼が今までの人生で積み上げてきたマイナスの積善である。佛の顔も三度まで。それを過ぎると佛が閻魔大王に変身する。

 

3 鬼の教え

 人を紹介するとは、自分の信用金庫のまた貸しの行為である。反面教師としての鬼の教えであった。私も彼の会社の車検の紹介活動を知人達にしており、赤面の至りである。

 それ以降、その確信犯の社長には何も言わず、縁を切った。確信犯にクレームを言っても無意味である。それでカーショップでの車検、別の正規ディーラでの車検と色々とお店を変えることで、お店を見る目が付いた。

 

鬼とは

 「魂」とは、心の「鬼」が「云う」と書く。この事件は、己の内に住む鬼に叱責されたと感じた。鬼は己の未熟さを見透かし「人を見る目をもっと養え」と言っていた。この事件の直前に、松本明慶先生の「魂(オニ)」が納佛されたばかりであった。

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 松本明慶先生作の「魂(オニ)」

 

エンスト事件

 この社長と知り合って、数年後、大垣市街地走行中に、自車が立て続けに2回もエンストする事件が起きた。エンストなど40年近く車に乗ってきて初めてのことである。これが高速道路上なら、大事故・死亡事故につながる恐れもあった。

 当時、その社長から勧められて、自車にバッテリーの簡易電源切断装置を装着した。長期に車に乗らないとき、バッテリー放電防止のため、バッテリーのプラグから配線を簡単に外すことができる装置である。

 早々にディーラに持ち込んで調べたら、エンストの原因は、その装置のバッテリー取り付けネジの緩みであった。バッテリーはエンジン関係の基幹部品である。そのネジの締め付けが不良であったようで、それを取り付けた整備マンの腕が疑われる。また信頼性の低い装置を勧めるのは、その会社の信用問題である。その時は、その社長とは縁を切っていたので、苦情を言う機会はなかった。

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 バッテリー部の緑のキャップが切替ノブ

 

悪事の露見

 どういうはずみか、その数年前、あるОB会の幹事役をその社長と一緒にする羽目になった。幹事会の打ち合わせがあり、そこで彼の車に同乗する羽目になった。その車はいつも乗ってくる外車でなく、軽自動車であった。その車こそ、顧客から預かっている車検中の車であった。彼は私の家に来る時、毎回、車が違うので不思議であった。彼は外車で来る時も多かった。これでワケが氷解した。彼はそうやって預かっている顧客の車を乗り回していたのだ。その時の彼の言いわけは「今日は、この車しかなくて」である。

 この時も、私を含めて3人も乗せているのに、この社長はかかってきた携帯電話に出て長電話をしながら運転をした。それも交差点を曲がりながら、携帯電話の応対である。私は呆れて注意もできなかった。早く目的地について欲しいと願うだけであった

 

ホテル宴会ドタキャンの不祥事

 私は彼と縁を切って正解であった。そのОB会の他の2人の幹事たちにも非常識さと腐敗の匂いを感じたので、そのОB会の幹事役も辞退することにした。ОB会の幹事会の後、その幹事たちは、勝手に計画を変更して、当初の超一流ホテルを別のホテルに変更した。

 しかし、最初のホテルをキャンセルすることを忘れるという失態を犯した。結果として先のホテルからは25名の団体のドタキャン扱いになった。その挙句、その幹事は、無責任にも「金がない」とホテルに泣きつき、その数十万円のキャンセル料を値切り倒して、1万円にしたというお粗末さを曝け出した。ホテルの担当者が泣いていた。

 私は、その件を聞いて、会の名誉のためにその尻ぬぐいで走り回った。その顛末を幹事に連絡しても、音沙汰なしである。それは経営者の恥晒しである。カネがないと言い訳をしたセレブ幹事は、ベンツを乗り回していた。幹事はみんな中小企業の社長たちである。

 

新興宗教の危険な匂い

 私はその某経営研究会も危険な匂いを嗅いだので、2年目で退会した。幹部連中が新興宗教に関係し、会員にその新興宗教を勧誘していた。元会長や幹部が新人を勧誘するので、新入会員が困惑していた。元会長や幹部から勧誘されれば、断りにくい。

 私もその経営研究会に入会後、元会長から入信を勧誘された。一時は、試しとして受諾したのだが、ネットでその怖しい実態を知り、慌てて入信を断った。

 その新興宗教に入ると、秘密の儀式を受けさせられて、搦手で何時しか数百万円を貢がされるようだ。その宗教法人は、数百億円の豪華な本殿を建設していた。その新興宗教団体から退会しようとすると、信者が自宅に大勢で押しかけてきて、「退会すると地獄に堕ちるぞ」と大声で喚き、脅迫するという。

 信者の葬儀の時は、葬式を信者達が取り仕切り、集まった香典は全てもっていってしまうという。

 この宗教法人は、『週刊新潮』でも怪しい事業で取り上げられていた。その宗教団体にはweb担当部隊がいて、都合の悪い情報は削除するという。Wikipediaでのその団体の情報も改竄してしまう。だから検索しても、悪い情報はあまり出てこない。

 だから私はこの某経営研究に危険な宗教の匂いを嗅いで、この経営研究会を退会した。

 

退会後の顛末

 驚いたことに、私の某経営研究会からの退会を、会の誰も引き留めなかった。会員入会の勧誘は熱心だが、退会には無関心であった。会社に例えれば、その会から1年目の新入社員が退社するのだ。その某経営研究会では、「経営で社員が大事、経営理念が大事」と広報しているが、実際の行動がお笑いである。

 その後の経過を見て、退会は正解であった。その後、関係者に聞くと、その某経営研究会は、会員の入れ替わりが激しいそうだ。

 

女々しく正道を歩む

 私が某自動車整備会社、某経営研究会、某経営塾ОB会幹事役から遁走したことは、正解であった。危機の匂いを感じれば、さっさと遁走する。それが危機管理である。危機管理の正道を歩むと「女々しく」なるのだ。誹謗されても、地獄に堕ちるよりましである。「女々しく」と誹謗した輩こそが地獄に堕ちる。人生は臆病さと大胆さが必要だ。それを智慧という。

 

第三の目は智慧の目

 人生道の正道の横は、ガードレールがない断崖絶壁の暗路である。右に踏み外せば、灼熱の炎地獄、左へ踏み外せば極寒地獄へ真っ逆さまである。眉間の第三の目を開いて、暗夜を見極め、人生道の正道を歩むべし。第三の目を開き、賢く歩むためには、精進して智慧を付けるしかない。人生、一生修行である。私はまだ修行中だが、今回は危険から仏様が守ってくれたようだ。

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 普賢菩薩座像 松本明慶先生作

 

2020-01-15 久志能幾研究所通信 1451  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月14日 (火)

人生美学の海外逃亡

 カルロス・ゴーン(軽ロス・御恩)被告が海外逃亡したと世間は騒々しい。それは人生の終末を迎えて、今までの「ご恩を軽んじた」罪に起因する醜態である。それに対して、馬場恵峰先生は海外に逃亡して人生美学を創造した。

 日本習字の創業者は原田観峰師である。馬場恵峰師は、原田観峰師に見込まれ、後継者として3年間に亘り京都の本部で寝食を共にして、厳しく鍛えられた。原田観峰師が、日本書道の全国18,000支部の先生の中から恵峰師の才能を認めて、たった一人だけを選抜した。

 

修行時代

 恵峰師は日本習字京都本部で、週に2回の徹夜、残業手当なし、休日なし、給与6万円、ボーナスなしで3年間を過ごされた。その6万円から2万円が食費として天引きされる。その給与では、旅費が高くて九州にも帰れない。それで3年を過ごし、体調を崩されて九州に戻られた。

 ほぼ同じ時期、私は新入社員としてトヨタ系の企業に入社して、それ以上の給与とボーナスと残業手当で「裕福?」に暮らしていた。先生と比べると少々恥ずかしい。

 

讒言

 ところが恵峰師をねたみ、偏根し根性で、陰口、讒言、あらぬことを観峰師に告げ口する輩が出てきた。曰く、「恵峰は天狗になっている」、「馬場恵峰は、原田観峰師に対抗して新しい書派を立ち上げるつもりだ」とかで、恵峰師が思ってもいないことをでっち上げて、観峰師に告げ口をした。観峰師もそれを真に受けて、恵峰師に激怒したという。

 観峰師は書の才能は素晴らしいが、それ以外の才能(画、文学、宗教学、医学、学歴、漢詩、家庭生活)の全てで、恵峰師に負けていた。原田観峰師の子弟は、誰も後を継がなかった。観峰師の私生活が荒れていたためである。観峰師は恵峰師の才能に対する僻みが根底にあり、恵峰師に関する讒言を信じたようだ。

 

中国へ逃亡

 恵峰師は言い訳をするのも馬鹿らしく、書の本場の中国に活路を求めて、中国に行くようになった。つまり言っても分からない下劣な人間を相手にせず、中国に黙って「海外逃亡した」。以後43年間にわたり、華麗(加齢)なる海外逃亡旅行が続いた。恵峰師は「クレーマー行為」をせず、「女々しく」中国に新天地を求めたのだ。うぬぼれた人間と争うのは時間の無駄である。師は下界の人間を相手にせず、天を相手にしたのだ。人を誹謗するのは、己がうぬぼれているためである。「なんであいつが」である。

 人を誹謗する人間は、自分の徳を地獄の河に投げ入れているのだ。誹謗された方は、それに言い訳もせず、じっと耐えて努力することで、能力と徳を高めていく。誹謗する人間は、努力をしない。人は誹謗されることで、他人様が自分の能力と徳を高めてくれる。だから恵峰師は技が上達して、長生きである。

 

 涙堪えて悲しみに耐える時、

 愚痴を言わず、苦しみに耐える時、

 言いわけしないで、ただ批判に耐える時、

 怒りを抑えて、ただ屈辱に耐える時、

 あなたの命の根は深くなる。

   相田みつを作詞 『にんげんだもの』詩「いのちの根」

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 馬場恵峰書 日中文化資料館蔵

 

仏様のお裁き

 原田観峰師は今の馬場恵峰師よりも、10歳も早い時期の83歳で亡くなられた。そんなに早く死んではならぬ才能なのに、仏様が彼岸に呼び寄せてしまった。それに対して恵峰師は93歳の現在でも現役である。

 馬場恵峰師を非難、誹謗、貶めるために讒言をして回った書家仲間は、現在全員がこの世を去っている。誹謗ばかりした人間は、この世に何も残せなかった。書家仲間は、「恵峰は、偉そうに中国に頻繁に行っている」、「天狗になっている」、「中国にどげんか用ば、あるばってん」と恵峰先生の罵詈雑言ばかりである。

 恵峰師は用があるから中国に行ったのではない。用を作りに行ったのだ。馬場恵峰師はその讒言を糧に、93歳の今も現役で書を書き続けている。仏様が助けてくれた。

 

逃亡の利子

 馬場恵峰師は中国に240回以上も行って、中国の書家と友好を結んだ。金は7000万円ほどつかって消えたが、それがご縁と智慧の宝を生んだ。その利子が健康である。

 

誹謗の負債

 人を誹謗するしか能のない人は、早く死ぬ。人を誹謗することに忙しい。誹謗する暇があれば努力をすればよいのに、その努力をしない。だから仏様が長生きを許さないのだ。それは世のためにならない輩なのだ。だから仏様がお裁きをされる。それは利己心への罰である。

 仏教は利他の心と感謝の念が基本の教えである。要は自己中心主義を止めよである。讒言は、自己中心主義、己の自惚れの発露である。利己心の発揮は、社会のためには反した行いである。仏様が許すはずがない。そんな輩は、早く死ぬのが世のため、人のためである。だから恵峰師を誹謗した人間は、早く死んでいる。「なんであいつが」と鬱積した気持ちで過ごせば病気にもなるだろう。

 恵峰師は、書家仲間のあらぬ誹謗に対して、「なにクソ」と負けじ魂を出して仕事に精進したから、元気をもらった。それが徳である。

 

目指す姿

 馬場恵峰師の生きざまが私の目指す姿である。師の姿を見ていると、おちおち死んでなんかおられない。自分を非難する人を相手にする時間が勿体ない。どうせ人を非難する人間は、世に何も残せず、早く死ぬのだ。

 

2020-01-14 久志能幾研究所通信 1450  小田泰仙

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2020年1月13日 (月)

窒素ガスに死びれる 悪縁ディーラからの遁走記 3/6 

悪縁ディーラから遁走2

 

1 窒素ガスの不手際

 大垣に帰郷後、あるトヨペット店で車の定期点検を受けたら、窒素ガスの入ったタイヤに、普通の空気を補充させられた。その失態にそのディーラのサービスマンは平然としていた。詫びも弁償もなかった。私は技術力と倫理観のレベルの低さを見て、そのディーラから黙って遁走した。

 窒素が入っているタイヤのキャップは、普通の空気入りのタイヤと区別がつくように変えてある。トヨタカローラ店では、私がその件の説明を忘れていても、キチンと対応してくれた。そのトヨペット店とは大違いである。その店の整備マンは、業界で常識の知識がなかったのだ。その程度の差別化スキルがない店は、淘汰されても致し方あるまい。

 

クレーマーだったら幸せだろう

 私がクレーマーだったら因縁をつけて、ガッポリとせしめれたかもしれない。クレーマーは貧乏人のやることである。人を一方的にクレーマーと誹謗するのは、心の貧乏人である。誹謗者は視野が狭く、物事を論理的に考えられない。私は言っても無駄と悟って、黙ってそのお店を去って、クレーマー行為はしていない。後で愛知県の知人の元店長に聞くと、そのディーラの悪評は愛知県の業界にも伝わっていた。

 私をクレーマーだと非難するコメント者は、悪意のブログ妨害である。匿名で悪意あるコメントをするのは卑怯である。その人間は、IPアドレスから特定された。その人間はディーラか大垣市長の利害関係者と推定される。

 

2 無神経な営業センス

 その後、車検は別のディーラに変更したが、そのトヨペット店は6年間も車検と定期点検のダイレクトメールを寄こすのであった。ダイレクトメールがこればゴミとして処理せねばならぬ。迷惑も甚だしい。智慧ある営業なら、顧客が急に車検や1年点検に来なくなったのだから、その異変に気付くべきである。その営業センスがなければ、営業マン失格である。

 つまりそのお店は、仕事をルーチンワークとしてしかやっていない。単なる作業をしているのだ。車検連絡をノルマ数だけ発送すれば、それで成績が評価され体制のようだ。

 店長や社長が、社員を考える人間として扱いをしていない。仕事とは何たるかを店長が知らないのだ。店長はやりたいことだけをやって、店長としてやるべきことをやっていない。だから営業成績が上がらない。

 人こそが、創造的に無から付加価値を生み出すお宝である。それをこの店はないがしろにしている。

 

3 新人の練習相手にさせられた

 あまつさえ昨年春には、女性新入社員の電話応答実習の相手先にされた。自宅の留守電にその営業電話が録音されていた。新入社員は、ノルマでリストの名簿に電話をかけるだけのようだ。6年間もお店に来ない幽霊顧客にまで、電話攻勢をする営業である。一定の数の電話をするというノルマさえ達成すればよく、売れかどうかはどうでもいいのだ。

 「お留守のようですから後日また電話をします」とあったが、その後に連絡はない。新人教育の電話マニュアルに記載されたままの外交辞令のセールス電話である。

 私も留守電があれば聞かねばならぬ。1分100円として年間300円の損害である。留守電は文書と違って、最期まで聞かないと要件が分からない。セールス電話は、時間泥棒である。今時、車販売の営業で電話商売をするのは、前近代的な商売手法である。

 

4 店長の就任挨拶

 さらに6月に新店長が赴任したとの挨拶状が舞い込んだ。ご丁寧に、その1週間ほど後に、店長から直々の電話が来た「新しく店長として赴任したのでよろしく」である。40年間も車に乗ってきて、ディーラからのこんな暇な電話挨拶は初めてである。

 私は今までの経緯に憤っていたので、「お宅には不愉快に思いをさせられたので、二度と行かない」と怒って電話を切った。

 

5 クレームは商売のお宝

 相手は私の剣幕に驚いたが、不味い客に電話をしたくらいしか思わなかったようだ。本来なら、クレームは営業のお宝である。そのクレームから自社の弱点や問題点の改善のネタが出せるのだ。自分の営業成績向上のネタが埋まっているのだ。

 その店長から電話があってから数か月も経つが、全く音沙汰がない。知人の元店長や百貨店でその昔、営業をしていた人に意見を聞いても、常識としてその場合は顧客に顔を出して謝り、状況を聞き込み調査するという。それこそ絶好の営業のチャンスなのだ。店長として、今までのお店の問題点を把握できる機会なのだ。それがその新任店長にはなかった。他人事ながら情けない。知人も呆れていた。この会社の退廃の匂いを嗅いだ。

 

6 社内で横の情報なし

 もっと情けないのは、その後、私が新任店長を怒鳴り付けても、その情報が営業マンに伝わっておらず、また車検の案内状が届いたこと。つまりこのお店では、店長も営業マンも、車検受付も、顧客の情報を共有していない体制なのだ。それでは良い仕事はできまい。

 私はこのディーラから逃げたのだが、相手は逃げても逃げても追いかけてくる。成果主義に染まった悪女の深情けである。相手は、金に飢えた守銭奴のようだ。

 6年前に、タイヤの窒素ガス補充で不愉快な思いをして、そのお店の腐敗の匂いを嗅いで、縁を切るため遁走したことが正解であったことが証明された。

 

7 ネッツトヨタ南国の岐阜講演会

 2011年5月、私は経営研究会の運営スタッフとして、表記の講演会の案内をこの店の店長に勧めた。しかし店長は、この講演会に全く興味を示さなかった。当日は、この会社の社長も参加したが、ネッツトヨタ南国の経営手法を自社に取り入れる経営能力はなかったようだ。

 この参加者約600人中で、私は50枚弱のチケットを売りさばいた。経営研究会の中では、断トツの販売成績であった。参加者に喜んでもらえて幸せであった。その中で、この店の店長に講演会の紹介をしたときの店長の素っ気なさは異常であった。説明を迷惑そうに聞いて、店舗の売上向上には気がないように見えた。

 その講演会場に、その販売店の新入社員も参加していたが、社長が参加していることが分かると、慌てて身を隠した。それでこの会社の社風が露見した。本来、この講演会への参加は、自慢こそすれ隠れることはないはずである。

 ネッツトヨタ南国は、デフレ経済で全ディーラの売り上げが下がっている中、売上が伸びているのだ。その経営の秘密を知りたいとも思わない店長では、お先真っ暗である。

 この時から、このお店の異常さは気にはなっていた。

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「顧客幸福」で不況でも売る 日経ビジネス 2010.1.25号

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ネッツトヨタ南国 大原社長の講演 じゅうろくプラザ 2011年5月12日

  

7 挨拶なしの転勤

 大垣に帰郷してから、このお店のフロントマンの助言で、自車の再整備でかなりの金を使った。ヘッドライト部の一式交換、ETCの追加、ドライブレコーダーの追加、イオン発生装置等の整備である。それでフロントマンとかなり親しくなって、好意で自著や情報を多く提供した。

 ある日、遊びにお店に行ったら、そのフロントマンがいない。聞くと別のお店に転勤になったという。転勤はともかく、何故、懇意の顧客に一言の挨拶がないのかと、その会社の営業方針に不快感を覚えた。一見の客ならともかく、私は普通以上の金を使った客である。転勤の挨拶なしでも、営業方針には反しないが、過去の経緯から私には非常識に映った。

 

情報は利他の心

 以上の不愉快な事象が連続したので、皆さんが被害にあわない為の情報として記載した。グローバル経済主義・金儲け主義が蔓延する中、弱い立場の客として、真実の情報を共有して身を守るのが、「専守防衛」である。

 「知りたることを教えざるは、カネを借りて返さざるが如し」と経典にも書かれている。価値ある情報を他人に教えないのは罪である。その利他の行為を匿名で誹謗するのは、敵対行為である。

 

2020-01-13 久志能幾研究所通信 1449  小田泰仙

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2020年1月12日 (日)

悪縁ディーラからの遁走記 2/6 命の危険

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面会をすっぽかされる

 数年前、父の知人の某会長から、自社の車販売店の経営分析をして欲しいとの依頼を受けた。それで、その会長経由で、その車販売店の社長と面会の約束を取り付けた。しかし約束した時間に会社に行ったら、社長は外出して不在で、面会約束をすっぽかされた。その件を会長に報告したら、会長は怒って社長を叱責したそうだが、その社長は蛙の面に水の様子であったそうだ。私にも、すっぽかしの謝罪などなかった。この件で、社長がまともでないことが露見した。

 その会社の社員からの伝聞では、その社長は以前に本社で不正が露見して、この販売店に左遷させられたという。

 

損益分岐点を計算

 私は仕方がないので、公開データで経営分析を試みた。売上、利益、経費の数字から、損益分岐点を計算する公式を使っての経営分析である。その結果は、経費の割合が異常に大きく、辻褄が合わないことが判明した。それで不正が疑われた。その件は会長に報告した。会長は部下の経理部長に、私に会社の経理データを提供しろと命令したが、何時まで経ってもそのデータは私には届かなかった。そのデータを見せれば不正が露見すると危惧したのだろう。

 

脅迫を受ける

 それで数店あるお店で、個別の聞き込み調査をした。それが早々にその会社のお客様相談室室長に通報されて、その室長から「二度とお店に近寄るな」と脅迫をされた。「会長がお前に用があるときは、こちらから連絡する」と通告された。それ以降、全く連絡はない。このため会長とは、その前の面談が此の世でのお別れとなった。

 

命の危険

 またその室長は、「うちは銀行から経営診断をしてもらっているので、その必要はない」という。知人のその銀行元支店長は、「当銀行は会社の経営診断などしない」と断言した。

 その銀行元支店長はその件で「その室長は元警察関係者で、闇の世界と通じているようだ。今のまま深入りすると、貴方の命の危険があるので身を引いた方がよい。相手も不正の露見を防ぐために必死になるだろう。無名の貴方を夜道で襲い、此の世から消しても、警察も犯人を捜さないだろう」と助言された。だから私は早々にその会社の調査から遁走した。

 

此の世の別れ

 数年後、その会長が他界されたので、経営分析依頼された時の面会が、此の世の最後のお別れとなった。会長にもう一度、会いたかったが、周辺のガードが固く、面会は叶わなかった。此の世では、そういうご縁であったと納得して身を引いた。

 

店頭雑誌で会社のレベルが分かる

 その会社の店舗の待合室に置いてある雑誌や週刊誌は、芸能人のスキャンダルが満載の下品なものばかりであった。それでその会社のレベルが推察された。良識ある店長なら、雑誌一つでも精選して店舗に置くのだ。

 愛知県の知人の店長は、展示雑誌を自ら選定していた。当然、上品な雑誌を選定している。

 

休業案内に見る傲慢さ

 その店舗のお盆や年末の長期休業案内の掲示のやり方が、顧客を馬鹿にした表示方法であった。店舗の入り口の柵にその掲示物がぶら下げてあるが、当方が地面に身をかがめて見ないと字が読めない。こちらが地面に平つくばって、掲示を見ろ、である。それがその会社が表す顧客に対する姿勢である。

 私がそれを会長に指摘すると、会長もそれには気が付いておられて、「今度、部下に言う」と言っておられた。しかし、それも叶わず会長は他界された。

 社長・店長と店舗の状況を見れば、その会社のレベルは分かる。

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お盆の長期連休表示    「休日日のご案内」 2015‎年‎8‎月‎14‎日

 

その会社の末路

 それ以降、そのディーラとは縁が無くなった。その後、その会社は人員整理に追い込まれて倒産寸前となった。その後、別会社の資本が入り、経営権が人手に渡った。

 私も下手に深入りすると、身が危なかった。君子危うきに近寄らず、で正解であった。身の危険を感知して、遁走して正解であった。危ない会社は、危ない顔をしている。

 

2020-01-12 久志能幾研究所通信 1448  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

悪縁ディーラからの遁走記 1/6

悪縁から脱兎の如く逃げ、女々しくとも正道を歩む

 

人生時間は有限

 60歳の人が、毎日1人とご縁を結んでも、死までに7,300人しか知り合いになれない(平均寿命80歳として)。日本の人口が1億2千万人でも、知り合えるのはたった7,300人である。還暦後では実際、週に一人とでも新しい知遇を得るのが難しかろう。20年間で1,000人も新しいご縁を結べまい。

 人生の時間は有限である。その一人とご縁があるとは、もう一人とのご縁が、此の世では無くなる。だからこそ、価値ある人とのご縁を選ばねば、人生が墓場になる。それは命を預けるディーラ選択でも同じである。

 

孟母三遷

 孟母三遷は、その戒めの教えである。孟子の母は偉かった。孟母三遷の母の庇護もなく、悪縁の仲間に付き合わされて寒い川原で、裸で泳がされ、殺された中学生がいた。極悪の師に縁が出来て、サリン事件を起こした人もいた。新興宗教に誘われて、全財産を貢がされて、家族離散の憂き目にあった人もいる。人を見る眼が無く、保証人になって破産した人もいる。すり寄ってきた悪縁の真贋が区別できず、その悪縁から逃げなかったのが原因である。

 

会社は公器

 会社は社員を雇い、社会の利益のために存在するので公器である。公器である以上、社会に迷惑をかけるのは罪である。自分達の利益のため、電話セールスで、関係ない人の時間を奪っては時間泥棒である。会社として利益を上げなければ、公共インフラの無賃使用で税金泥棒である。

 会社として、社会の誰かを幸せにする仕事をしなければ、その会社の存在意味がない。その会社が誰かに不幸の種を撒くなら、そんな会社はつぶれた方が、社会のためである。

 社員に無意味な時間を使わせるのは、社会のインフラを無駄遣いしているのだ。日本の繁栄の足を引っ張っている。

 社員に無意味なルーチンワークをさせ、創造的な仕事をさせないのは、その人の持つ大事な人間性を殺している。社員の花開くべき能力を殺している。

 

ハインリッヒの法則

 一件の重大災害の裏には、29件のかすり傷程度の軽微な災害があり、さらにその後ろには、冷や汗が流れるような事例が300件潜んでいる。

 (1941年、アメリカの損害保険会社に勤める安全技師、W・H・ハインリッヒが確定した法則)

 

 組織で、新聞沙汰になるような大きな失敗が露見すると、その背後には、顧客からのクレームなどの失敗が29件あり、さらにその背後には、失敗という形にはならなくても、社員が「ヒヤリ」とした事例が300件ある。

 ということは、小さな失敗を見過ごす会社は、重大な事故を起こす確率が高い。小さな事象を、きちんと対応しないと会社存亡の危機を迎える。だから、私はディーラに危険を感じると、さっさと遁走する。危ないディーラは、うっかりミスで車の整備に不具合が出て、死亡事故を起こす恐れがある。君子危うきに近寄らず。危険を感じたら脱兎のごとく逃げろ、である。そんな会社で、利己的にクレーマーで立ち回っていると、身に危険が及ぶ。

 

逃走方針

 私はそのご縁に腐敗と危険の匂いが感じられれば、そのご縁から必死に遁走する。「女々しい」と誹謗されようが、わが身が大事である。わが身は両親から頂いた大事な命なのだ。

 お釈迦様は自分のことを「天上天下唯我独尊」と言われた。この世で、私はこの世で一人しかいない、誰とも代わることのできない大事な体である。自分が大事だから、他の人も同じように大事な命であるという意味である。だから人を傷つけてはならない。

 それを「女々しい」と人を匿名で誹謗する人は、人の心を傷つけても平気な暴力者だ「幼稚園落ちた日本死ね」という匿名でしか意見を言えない卑怯者と同じである。卑怯で軽薄で客観性ある見方の出来ない人がはびこるから、日本社会が劣化する。犯罪や汚職がはびこる。イジメが絶えない。

 

ディーラとのご縁

 普通の人が、一生の間でディーラとのご縁があるのは精々数店だろう。私も転勤がなければ、一生で精々3店舗ほどのディーラとのご縁しかなかったはずであった。しかし私の場合、遠方に転勤があり、定年後、大垣に帰郷したこともあり、某経営研究会に入ってご縁ができたことも重なり、その結果としてディーラや自動車整備店と接した数が12店舗になった。そのご縁のお陰で、各地の正規ディーラ、カーショップ、街の整備工場等で、車整備の多くの「顔」を観察できた。

 そのごく数少ない付き合いのディーラ中で、悪縁・悪徳のお店に関わると人生が不幸になる。車は自分の「天上天下唯我独尊」の命を運ぶ道具である。いわば自分の分身である。その整備が不備だと、己の命に影響する。だからこそ信頼できるお店を選ばないと、人生で難破する。

 

2020-01-11 久志能幾研究所通信 1447  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。