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2017年8月

2017年8月21日 (月)

正義は人を鬼にする

 正義を通すと人は鬼にならざるを得ない。お互いが相手の価値観を排除しあうから、戦いとなる。阿修羅ごとき戦う神となると、相手には悪魔のごとき所業を犯すのが常である。お互いに価値観を受け容れて許容する心が仏心である。全て受け容れるから海の如く大きな器ができる。佛教は神仏融合を含めて包容力があるから日本の「和」の精神にあって受け容れられた。一神教は、排他的な思想が濃いため不幸なご縁を作り出す。聖徳太子の憲法17条は和の精神である。

 自佗は時に随うて無窮なり。海の水を辞せざるは同事なり、是の故に能く水聚りて海となるなり。(修證義)

 

お釈迦様、法然上人の非戦

 お釈迦様は2500年前、自分が生まれ育った国を他国に滅ぼされる憂き目を受けている。その際、お釈迦様は他国の軍を前にして3回、座って止めようとした。しかし、4回目は止めることをせず、他国に攻め滅ぼされた。お釈迦様は、武力に対して、武力ではなく対話と行動で止めようとした。

 浄土宗を開いた法然上人は、幼少期に武士であった父親を敵対する者によって殺される経験をしている。父は死の直前に若き法然上人に対し、「敵を恨んではならない。これは前世における行いの報いなのだ。もし、おまえが恨み心をもったならば、その恨みは何世代にもわたって尽きることはないだろう。早く俗世を逃れ、出家して私の菩提を弔ってほしい」と遺した。それにより、法然上人は敵を討つことをやめ、自分や人々が救われる道を求めて、僧侶となった。法然上人は、報復の連鎖を繰り返すことをやめた。

 

幕末の騒乱

 1860年、安政の大獄では、幕府の体制を守り、開国して欧米の植民地侵略から日本を守るため井伊直弼公は鬼となり多くの志士を処罰した。それから幕末の殺伐たる争いが巻き起こった。お互いの思想に凝り固まった者同士の戦いの結末である。

 1868年、西郷隆盛軍は、江戸城明け渡しを求めて、100万人が住む街を焼き討ちすると脅して、勝海舟に降伏を迫った。どんな理由があれ、平和に暮らす民を焼き討ちするという発想が許せない。そこには大儀を掲げ、己の価値観が最高という驕りがある。そんな思想が、西南の役で意に反して、大将として担がれて西郷は非業の死を遂げる。西南の役を断固として鎮圧した大久保利通も、暗殺者により非業の死を遂げる。

 

現代の戦い

 太平洋戦争後のビルマでは、戦勝国の英国兵は現地人をモノ扱いして、人間とは認めていなかった。倉庫の食糧を盗むため侵入した現地人を英国兵が射殺した。英国兵は、動かない死体を足で蹴って「end」と表現したと、会田雄次氏はその著書のアーロン収容所で書いている。「dead」なら人間としてその対応しなければならないが、「end」だから、モノ扱いをすれば良いと考えているようだ。欧米人にとって、有色人種は人間ではない。価値観の隔離した動物扱いの存在である。

 1945年、米国は非戦闘員20万人を原爆で殺した。日本人が白人であれば、決して落とさなかった原爆である。意図せず己の手を女性子供の血に染めたトルーマン大統領は、その罪におののき「原爆が戦争の早期終結を招き、米国人を救った」という誤った言い訳の神話を広げて自分と米国人を洗脳した。

 1940年、ドイツ帝国は、アウシュビッツでユダヤ人を工場生産のように死を大量生産した。ヒットラーがユダヤ人の価値観を認めなかったからである。

 現代でも中共は、チベット弾圧を繰り返し、約120万人の人民を虐殺した。人口の約20%にも及ぶ。日本に換算すると2,000万人の民を殺したことになる。中共が建国以来、自国民の4,000万人を死に追いやったのは歴然たる史実である。共産党にとって、人民は労働力で人という価値を認めていない。

 1946年、ソ連のシベリア抑留では80万人の日本人が強制労働をさせられ、10万人が極寒の異国の土になったといわれる。共産党のソ連にとって、捕虜は人間とは思わず単なる労働力であった。国際法上でも違法であるが、その国際法の価値観を己の価値観に合わせて無視をした。

2 015年、パリISテロでは、ISは己の正義を信じてマシンガンの銃口を無実のキリスト教徒に向けた。宗教の価値観の違いを認めなかった結果である。

ビジネス戦争

 定年を迎えてから、今にして昔を振り返ると、なんと愚かな意地をはり社内での争いをしたことかと、反省のしきりである。全ては、お互いの価値観を認めず、己の自己主張をしたがために起きた争いである。まず相手の全てを受け入れて、それから対応を考えればよかったのに、との心境に至った。その悟りは少し遅かったようだが、気が付かずこの世を去るよりはましである。

 

2017-08-21

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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「100mの巻物」という人生(2/2)

百m巻物の再撮影

  2014年4月に百m巻物を2回撮影して、百m巻物の写真集としては形にはなったが、当時は製本まではいかず、クリアファイルに各頁を納めて完成とした。その後2年余が経過して、恵峰先生の書の写真集を30冊余も製本化して作成していく過程で、カメラが世代交代し、撮影スキルも編集技術も向上した。今の目で見ると当時の撮影の拙さが目についてきた。それでカメラを最新鋭に更新して、2016年11月28日に再度撮影する決断をして撮影に臨んだ。

 

撮影の改善

 前回からカメラ、三脚を更新して、照明装置を追加して、カメラに高精度水準器を設置した。撮影技術、編集技術が回数を重ねることで向上して、現時点ではほぼ満足で来る仕上がりとなった。やはり経験を積まないと何事も向上しない。また良い機材は、良い結果をもたらしてくれることを再確認した。高いものにはわけがある。この100m巻物の撮影は、これで3年越しの3回目の撮影である。何事も一回ではうまくいかないもの。良いものを作るには3度くらいの手間が必要だと納得した。

 

出版の目的

 この巻物は、後世に残すお手本として書かれたと恵峰師はいう。この巻物をみようとすると数人係りでないと見えない。またどこに何が書いてあるか、書かれた恵峰師もうろおぼえである。製本化することで、A4版で索引として目次を追加したので、探せるし、書道のお手本としても価値がある。この100m巻物の試し刷りを見たお弟子さんたちにも好評であった。私の目的が達成されそうである。この100m巻物を、馬場恵峰先生の第二の公式出版書籍として、現在準備中です。10月出版を目途にしています。

 

当日の撮影状況

 当日は、我々6名が100m巻物撮影を先生の教室の南側で進める中、恵峰先生は机の上で黙々と墓誌の揮毫に集中された。揮毫されている先生を垣間見て、我々はその集中ぶりに感嘆した。普通の書は下書きもせずそのまま書かれるが、墓誌に刻印するためか、寸法を測りながら慎重に揮毫を進められた。

 撮影の合間に昼食になって、お手伝いに参加された自称「熟女」・「一応主婦」(?)の皆さんが手作りに昼食を持ってみえた。九州の家庭料理の美味しさと温かさに舌鼓を打って、疲れが取れた思いである。事前の皆さんからの手紙では「熟女5人が勢揃いしてお待ちしております。」との連絡があり、どうなることかとビクビクしながら(?)赴いた撮影現場である。

 

図1 撮影風景 照明器具の追加と三脚が更新された。

図2,3 私の家の墓誌の揮毫をされる馬場恵峰先生

 

2017-08-21

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2017年8月20日 (日)

「100mの巻物」という人生(1/2)

一回目の撮影

 馬場恵峰先生が100mの白紙の巻物を中国から買ってきて、今からこれに揮毫するという話を聞いたのが、2012年の知己塾の時である。恵峰先生は今まで10mを20本、30m、50mの巻物を書かれてきたが、今回、日本人も中国人も書いたことの無い100mの巻物に挑戦され、2年がかりで、2014年初春に完成された。この話を先生から聞き、こういう御縁は生涯でも滅多にないと感じ、また弟子としても記録に残さねばと思い、2014年4月10日、写真を撮らせて頂くために長崎に飛んだ。写真撮影で100m巻物を扱うのに、一人では無理なので助っ人として福田琢磨さんに応援を頼んだ。

 なにせ100m巻物なので、まだ誰もこの作品を全部鑑賞した人はいない。たまたま写真撮影の前日に、知己塾の日程を1日間違えて、お弟子さんの一人が先生宅を訪れるという御縁があり、私の写真撮影の話を聞いて、それなら、私もお手伝いをさせてもらうと、仲間を誘って田添さん、兼俵さん、黒川さんが写真撮影の応援に来ていただけた。撮影を開始すると2人ではとても無理なことが分かり、応援に来て頂いた皆さんに感謝をし、日程を間違えてもらい写真撮影の縁があった不思議さを感じた。

 当日200枚ほどの撮影をしたが、大垣に帰宅後、詳細に確認するとピントが甘く、不出来な写真があったので、再度、取り直す決断をして、1週間後に再度、長崎に飛んだ。前回お手伝いをして頂いた4名の方も、再度の撮影の応援に快く応じていただくことになり大感謝でした。当日は4時半起床、6時32分発の電車に乗り7時50分発のANAでセントレアから長崎に飛び、3時間ほどかけて400枚前後の写真撮影(安全をみて各2枚撮影)をして、19時50分発のANAでトンボ帰りをして22時30分に帰宅した。さすがに疲れが2,3日残ってしまったが、心地よい疲労感のある経験であった。1週間に2回も大垣からの先生宅訪問だったので、三根子先生も呆れ顔であった。

 

一字一生

 この100 m巻物に人生を感じてしまう。100 mの巻物に、一字、一字、文字に心を込めて埋めていく作業は、人生に似ている。間違ってはいけない。焦ってもしかたがない。無駄な文字を書いてはならない。書いて来た痕跡が人生だ。意味ある言葉、自分が歩んできて学んだ言葉やその時、感じた所感を文字に移していく。途中で止めては、巻物は完成しない。自分の人生という巻物に、何を書くかは自由であるが、そこの己の人生観と成長の過程の証が表れる。人生に感じている美学も根性も露見する。

 100 mの巻物において、素人目で見て、先生は3文字のミスをされているが、それをきちんと修正をされている。100 mの巻物を書いて、一文字も間違いがないのが理想であるが、それでは、人間の所業ではない。人ではない所業である。人でなしである。神業の筆力を持つ先生にも間違いがあって、むしろ安心をした。そこに人間の温かさがあった。

 人生のやり直しはできない。しかし、間違いを正すことはできる。出直しもできる。間違いに気づいたら修正すればよい。出直しをして、新たな巻物に、第二の人生を書き始めればよい。それをせず、うやむやに第二の人生を中途半端に過ごすから、第一の人生の巻物をくしゃくしゃにする。自分が半生を歩んだ足跡を人生巻物に残し、その事実を直視して、新しい人生巻物に挑戦をしたいもの。

 

鬼美濃

 武田家の武田四天王といわれた馬場信春公は、馬場恵峰先生のご先祖である。武田三代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかった。このため「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。

 長篠の戦いの中、織田・徳川連合軍との決戦で、武田軍は敵の鉄砲隊との攻防で有能な人材を次々と失い大敗を喫した。武田勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた馬場信春公は、反転して追撃の織田軍と壮絶な戦いをして戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。享年61。人生50年といわれた時代の61歳で、現役の将として桁外れの奮闘には驚嘆する。

 大阪夏の陣(慶長20年・1615年)に参戦した子孫が戦いに破れて、九州の山奥に落ち延び、焼き物の窯元として身を隠したという。

 100mの巻物の挑戦を下書きなしの一発勝負で、たった3文字しかミスがなく、揃った字体、どんぴしゃの文末配置、素晴らしい書体を見ると、鬼美濃と呼ばれた馬場信春公の先祖がえりで、剣を筆に持ち替えただけと理解すると、先生の天分の由来が理解できる。表の顔の馬場恵峰先生は仏のような方だが、筆を持たせると書道の鬼となる。鬼にならなければ、後進を指導できないし、後世に残る作品は生まれない。

 

図1 100m巻物を前に馬場恵峰先生

図2 100mの巻物の撮影風景

 100mの巻物の取り扱いは4人かかり。巻き取るにもその重量と巻き癖の修正で大変。その間、思わず手を止め巻物の書体に見とれる黒川さん

図3 欠

図4 100m巻物の思い出深いワンショット

 勢い余ってお手付き? 撮影した600枚中の1枚。良き思い出の記念写真。手の位置も「雅の趣が残る」とは、偶然にしては出来すぎのご縁です。人生という巻物で見えない四隅で巻物を押さえて頂いている手がある。それに気が付くかどうかが、人生の幸せを決める。

図5 中友好書画交流展 大村市 2012年12月14日

 10m、30m、50mの巻物を書き上げてきた実績があって、100m巻物が完成する。ローマは一日にしてならず。

 

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2017年8月19日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (12/25)明治の墓標

石黒太郎の墓標

 井伊直弼大老が開国の決断・実行をして、勝海舟や福沢諭吉らを米国に派遣して種まいたことが、のちに石黒太郎という若者を米国で最新技術を学ばせる機会を与えた。才能ある若者を選抜しての派遣である。しかし、才能があるからといって、業績を残せるわけではない。明治に初期に若くして選抜されて、米国に留学したエリートでも、病に冒されれば、黄泉の国に不本意ながら行かねばならぬ。その前の幕末の時代は、国のためと命を懸けて戦って、挙句に賊軍にされた有為の若者が多くいる。その流された血のお陰で今の日本の繁栄がある。そういう日本のご先祖のためにこそ、我々は精進せねばなるまい。

 石黒太郎は井伊直憲公(井伊直弼公の跡継ぎ)の学友として、井伊藩の名誉と日本の名誉を背負って選ばれて、米国の大学に派遣され学んで、鉄道技師として働いた。当時の侍の気質として、主君のためとして命がけで、業務に取り組んだのだろう。素晴らしい業績を若くして出したが、無理をした咎が、彼の体を蝕ばみ、24歳で彼岸に旅発った。明治の国造りのために戦った若人の戦死である。哀しい当時の若者の姿である。石黒太郎を筆頭にして、米国で学んだ鉄道技師達や他の分野での若者の頑張りがあったから、後年、英国から鉄道技術を導入できて、日本の鉄道技術が発達した。今の新幹線技術はそのお陰である。他の分野でも、同じような頑張りがあり、急速に欧米列強に追いつくことができた。当時の若者には列強から侵略されるとの危機感と、建国への情熱があり、国造りに邁進した。それが出来なかった近隣アジア諸国は植民地にされた。

 

勝海舟の弔文

 石黒太郎のための勝海舟の弔文には、明治初期の若者の姿が浮き彫りにされている。このお墓は天寧寺境内に建てられたが、その後、天寧寺の山上の無縁墓地に移築されて、今は訪ねる人もいない。後面の弔辞文も、置かれた場所が坂壁の際のため、良く見えない状況にある。彼が生きた証が、勝海舟の弔辞の文とそれを碑文に書した鳴鶴の碑文に残る。そのお墓の大きさから推定して、当時の井伊家の代表としての期待の大きさが偲ばれる。

 

馬場恵峰先生を石黒太郎の墓へ案内

 ご縁があり、松居石材商店の松居保行店主に、この石黒太郎のお墓の存在を教えてもらった。私も私のお墓の開眼法要で、馬場恵峰先生を彦根にお招きした時(2015年11月28日)、石黒太郎氏のお墓に案内をした。ご縁の巡りあわせに感謝です。石黒太郎の墓石の彫られた日下部鳴鶴の書体の彫り方を見て、恵峰師はその彫り方の解説をされた。石の彫り方にも高度な技法がある。石黒太郎の墓は無縁の墓として、墓地の山奥のほうに置かれており、訪ねるものもない。石黒太郎の墓の裏面には、勝海舟の弔辞を日下部鳴鶴が揮毫して彫ってある。この墓石は文化財としても貴重であるが、今は捨てられたように置かれている。

 馬場恵峰先生ご夫妻が、石黒太郎の墓石に彫られた鳴鶴の端正で美しい字体をなでるように慈しまれたのには驚きであった。先生の師である原田観峰師は、日下部鳴鶴の字をお手本に日本習字を創業した。日下部鳴鶴は馬場恵峰先生の宗家にあたる。

 

文化財保存の責務

 この石黒太郎氏のお墓は、松居石材商店の三代目、松居六三郎氏が制作された。墓石は和泉石である。このお墓は傘が付けられているので、材質は砂岩ではあるが、森の中に設置されたこともあり保存状態は良い。この墓は当初、松居石材商店の家のお墓の近くに位置していた。この記事は、その裏面の文面を松居保行店主が見て、その拓本を取り、彦根市市史編纂室で解読してもらったことに起因する。石黒家は現在、絶家となっているので、お参りする人もいないので、現在に無縁墓の集積場に集められて、無造作に置かれている。日本の夜明けの時代に、建国に貢献された方のお墓が打ち捨てられているのは嘆かわしい。いわば建国に汗を流したご先祖にあたる方を祭らずして、日本の未来はない。このお墓は歴史の証としても、文化財としても、彦根市の責任で、きちんとした形で保存をしていただきたい。文化財をないがしろにしては、文化国家の看板が泣く。 

 

図1 日下部鳴鶴からの手紙  松居石材商店の松居保行氏蔵

 日下部鳴鶴は、「「知己中の知己」である親友の石黒氏の墓標の仕事で、「謝礼を受け取る気持ちは全くなく、石黒氏の遺族に対してもそのような心配はやめて欲しい」と訴えた手紙である。

図2 石黒太郎の墓石(天寧寺)

図3 石黒太郎の墓石。無縁のお墓が集められた場所にある。

図5 石黒太郎の墓石の撮影準備

  墓石の裏面を撮影するために、松居店主さんに携帯発電機を用意していただき、ライトで照らして撮影した。2015年9月30日

図6 石黒太郎の裏面の弔文

  この弔文を書いた勝安芳とは勝海舟である。学友として名前がある原田要・松永正芳・平岡煕はいずれも鉄道技師である。石黒太郎の鉄道局時代の同僚と思われる。

図6 石黒太郎の裏面の弔文 部分

   日下部鳴鶴の端正で美しい字が彫られている。恵峰先生の字体とそっくりである。

図7 石黒太郎の墓を見る馬場恵峰先生ご夫妻  2015年11月28日

図7 石黒太郎の墓の弔文 原文

図8、9 石黒太郎の墓の弔文 現代語訳   彦根市市史編纂室作成

 

2017-08-19

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インプラント 33(経営スタイル)

3.33 経営スタイルから判断

PS経営(president satisfaction)と CS経営・ES経営

  この医院の経営はPS経営(=ワンマン経営)ではないかと思う。従業員(歯科医師)は院長の方ばかりを見ていて、患者(顧客)を見ていない。それは、院長の言動、今回の歯垢取り処置での苦情、院長写真、 デンタルガイドブックからの分析である。トップの言動、思考が組織の行動を決める。その背景には、利益率の高いインプラント手術を手がけるので、実際に儲かり、経営が甘くなり、天狗になっていると思われる(市内の某社長も天狗との表現で批判をした)。

 

顧客不満足度100%

 顧客の商品に対する不満足は商品そのもの質の問題ではなく、客として人間性無視の扱いをされた場合の影響が極めて高い。それがその組織のトップがする行為は、その組織の全体を象徴している。

 歯垢を取る処置で4本目の歯にかかった時、向こう側の席にいた院長が「○○くーん、ちょっと来てくれ~」との声が聞こえ、その男性歯科医は今の処置をおっぽり出し、その院長のところへ飛んでいった。処置中の患者には一言の断りもなく、である。院長は直前に私を診察して、部下の医師に歯垢を取る処置を任せたのだから状況を知っているはずなのに、である。私の人間性無視の行動である。院長は、処置中の患者のことは全く考えていない。

その後、女性の歯科医が引き継いで歯垢を取る処置にかかったが、彼女からも一言の挨拶も説明もなかったし、医師同士での何処まで終わったかの引継ぎの基本的な会話も聞こえなかった。不安になったが、弱い立場の患者の身ではいかんともしようがない。患者はまな板の上の鯉の立場である。慌てて引き継いだためか、女性の歯科医は男性の歯科医よりも技量が低いのか、いつもより数多くの痛い思いをさせられて歯垢取りの処置が終わった。まるで工場のコンベア作業のようで、この医院にとって患者とは養鶏所のお金の卵を産む鶏と同じであると悟った。その時は不快感を抱きながらもそのまま黙って帰宅したが、今は思い出すたびに怒りがこみ上げてくる。

 

 後述の「経営理念」の項目でも内容を検証したが、理念が不完全であるので、こんなことが起こるのだろう。企業経営の貴重な研究事例となった。理念では歯の恒久的維持は謳っているが、そのために患者の人間性は無視されている。歯の恒久的維持とはインプラントを念頭に置いた概念のようだ。それが経営理念に反映しているようだ。

 

従業員満足(ES)

 医療部門での経営だから、一般の経営とは違うが、最近従来の顧客満足(CS)に対して従業員満足(ES)の側面の価値を問う経営が注目されている。例としてネッツトヨタ南国の経営目的は、顧客の満足度を高めての車販売数増大ではなく、従業員の幸福度の向上である。その過程で、従業員が自主的に会社をよくする改善・活動を展開し、結果として顧客満足度が上がり、車の販売が最高になるという新しい経営価値を創造した。その成果を評価して「日本経営品質賞」を受賞している。ネッツトヨタ南国の経営は、モノ余りの時代に対応した車販売での新しい経営方式である。歯科医院が乱立している時代には、それに対応した新しい経営方式が求められる。PS経営では破綻を迎える恐れがある。

 

参考 ネッツトヨタ南国の経営目的

 ネッツトヨタ南国の経営目的は、顧客の満足度を高めての車販売数増大ではない。経営目的は、従業員の幸福度の向上である。その過程で従業員が自主的に会社をよくする改善・活動を展開し、結果として顧客満足度が上がり、車の販売が最高になるという新しい経営価値を創造した。車が最高に販売できたのは、目的ではなく、結果である。お客様は満足(CS)しただけでは商品を買ってくれない。モノ余りの現代では、お客様に感動を与えないと、購買意欲は起こらない。自動車業界また地方企業としては初めて、顧客本位の経営に贈られる「日本経営品質賞」も受賞している(2002年)。あくまで社員満足度が最優先で、その根本が価値観の追求である。その結果が顧客満足度の向上で、その結果として業績が上がる。

 

日本経営品質賞:

日本企業の競争力向上を目的として、お客さま視点に立った企業改革を実現し、卓越した業績を生み出す「経営の仕組み」を持つ企業を表彰する制度・同賞は、米国の競争力回復の因となった「マルコム・ボルドリッジ国家品質賞」を範として、(財)社会経済生産性本部が主体となり1995年に創設された。

 

2017-08-19

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2017年8月18日 (金)

写経書展写真集の出版

 馬場恵峰先生書を出版するため、今までの撮影分の中から、先生にその選定をお願いしていた。しかし先生も忙しく(写経書展の準備や講演会)で忙しく、その決定が延び延びになっていた。私はそれと並行して出版の事前検討で、地元の印刷会社と2年越しの打ち合わせを何回も重ねてきた。しかし選定が決まらないのでこの半年ほど、担当営業マンとご無沙汰になっていた。ところが写経書展の写真集(オンデマンド印刷)をまとめたら、それを恵峰先生が見て、「これだけは先に出版したい」と急に言いだして私も慌てた。

 

信用金庫崩壊

 急遽、今まで打ち合わせをしてきた若い営業マンに携帯に連絡を取ったら、数カ月前に別の営業所に転勤になっていて担当できないと言う。引継ぎの担当者から後日連絡をさせるとのこと、私はむくれてしまった(2017年1月25日)。やりかけの営業懸案があって、転勤になるならその旨の連絡を顧客にするのが常識である。それがなかった。翌日、その営業マンの上司から電話があったが、「貴社は信用できないので、仕事を出すのをお断りする」と電話を切った。営業マンの仕事は会社の信用を創ること。彼の上司の指導に疑問を感じた。信用を大事にしない会社とは、付き合いたくない。

 なぜ、たった一言、「転勤になりました、後は〇〇に連絡ください」が言えないのか。2年も待たされて、仕事はもらえないと見切ったのか。恵峰先生は、写真集用の書の選別の納期を延ばすことで、面白い縁を発生させてくれた。これが縁起である。今までの付き合いで若い彼の言動を見て、違和感ある匂いを感じて納得できる結末ではあった。そんな縁しか結べなかったことが哀しい。人生は全てご縁の繋がりなのに。私はその会社の未来を見極め、悪縁を切った。

 私なら、まず客先に謝りに行く。まずその行動がないと後が続かない。その年配の上司と当人に、その後始末の行動がないのが情けない。その上司は最初に会った時、名刺を切らしたとかで名刺をくれなかった。ビジネスマナーでは、後日、送付するのが常識だと思う。もともとそういうレベルの上司、会社であったようだ。佛様は時間という加減乗除で、悪縁を排除してくれる。浄土に行くときは、自分信用金庫に不良債権を残さないようにしたいもの。

 

「ビジネスは壊れやすい花瓶に似ている。無傷であればこそ美しいが、一度割れると二度と元の形には戻らない。」

 Business is like a fragile vase - beautiful in one piece, but once broken, damn hard to put back together again to its original form.

    “Letters of a businessman to his son" by G.KINGSLEY WARD

印刷方式の変更

 急遽、別の印刷会社数社に相見積もりを取ったが、印刷部数が少ないので、オフセット印刷をしても単価が1万円を遥かに超えて、困ったものと頭を抱えた。先生とも相談をして、現行のオンデマンド印刷でいくことで妥協することにした。オンデマンド印刷も最近は質が上がり、書の写真ならオフセット印刷とそうは見劣りしなくなった。オンデマンド印刷なら、版を作らなくても済み、オフセット印刷の半分以下の費用ですむ。オフセット印刷は部数が増えると急激に単価が下がるが、オンデマンド印刷は何部印刷しても単価は同じである。今まで付き合いのあるコピー会社から、営業努力で格安の見積もりの提示を受けた。フルカラーの完全な美術書ではなく、書の美術書であるので、それが落としどころだと納得した。先生の名がもっと広まり、印刷部数が稼げるようになってからオフセット印刷に切り替えればよい。まず少部数でも出版をして、第一歩を踏み出して世に問うてから次のことを考えればよいとした。

 

公式書籍として発刊

 恵峰先生は、今まで4冊の自費出版をされているが、多くは売れず大赤字である。特殊な世界で部数が少ない書の出版では、儲からない。今回は儲けるために出版をするのではない。皆さんへのご恩返しとして、また後世に残すためにとの意味で出版をするのだ。

 前4冊は自費出版でもISBN 番号を取ってないので、国会図書館にも入らず、公にもなっていない。今回は、公式な書籍として世に問いたいと思い、ISBN 番号を取る算段をすることにした。国会図書館にも入れば、後世には記録として残る。後日、雑誌社に出向いて書評等で、紹介してもらう計画をしている。

 

2017-08-18

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笑顔は出世のパスポート

佛頂面

 佛頂面とは(佛の頭頂に宿る広大無辺の功徳を佛格化した尊の恐ろしい相に例えた語)無愛想な顔を言う。佛とは、純真無垢な赤子のような存在である。佛頂面とは、心の様をそのまま外に出てしまう赤子のような心の表れである。成長した大人なら、品ある笑顔で己の心の醜さをお化粧として隠すもの。それが出来ないのは小人の証。そうしないと、未成熟の人たちで構成される人間関係がギスギスする。未成長の己を人様の前に出す行為である。佛頂面は裸で人様に会うのと同じである。そんな人に幸せのご縁が訪れるはずがない。

 

他部へ応援に出てのご縁

 1982年ごろ、新研削盤の開発途中で、別部署の組立て機開発プロジェクトへ数ヶ月間、応援で出されることになった。新研削盤の開発後、多くの引き合いでテスト研削をするのだが、なかなかお客さんが買ってくれず、課内で一番余裕があると思われた結果もようである。

 プロジェクトは当社製品の全自動組立てラインの開発である。私はポンプの弁のフィルター自動組みつけ機の設計を任された。網状のフィルターを打ち抜き部品に圧着する組立て機である。研削盤設計とは勝手が違い、過剰な強度の機械を設計して、課長に笑われて苦労をした。今では良い思い出である。

 当時、その部に新入社員が二人配属されていて、その面倒を見るかたちとなり、気持ちよい環境であった。二人の新入社員は、非常に対照的な姿、性格であり絶妙のコンビでもあった。二人とも仲がよく、仕事は良くやってくれた。性格的に几帳面な子と豪快な子であり、小柄と大柄の体格で、よくこんな絶妙のコンビができたものと微笑ましかった。当時は、前の部署では一番下っ端であったが、ここでは二人の上であり、人を指導する体験となった。

 

30年後の因果

 その後30年が経ち、設計にはあわなかったような豪快な子が、現在は営業の部長に出世している。明るい性格の子は得をするのを目のあたりにした。この子(50も過ぎた元部下をつい「この子」と言ってしまう関係)は、それ以来、毎年、年賀状を送ってくれる。会社生活で一番長い付き合いの部下でもある。私が、定年を迎えた後、名古屋の料亭でご馳走をしてあげた。明るい子とは話をしていても楽しいものである。私がクソ真面目で、あまり明るくない性格であったため、羨ましくなる。部下は自分の鏡である。

 当時、夏の課の旅行行事があったが、前の職場の研究開発部ではこんな行事はなかった。上司が変わるとこうも職場雰囲気が違うものと感心した。応援期間が終わり、惜しまれながら(?)元の職場に引き戻された。二人の新入社員は残念がってくれた。

 

笑顔の価値

 ガガーリンが宇宙飛行士に採用された理由の一つが「笑顔」であった。宇宙から帰還した飛行士の笑顔が魅了的なほうが、国民は誇らしく思うだろう。アメリカを含めた世界に向け、その映像は送られた。(P135)(岡野宏著『一流の顔』幻冬舎 2005年)

 

 「人の顔色は、いわば家の門口のようなものだ。広く人に交わって自由に客を招き寄せるには、まず門口を開放して、玄関を掃除し、ともかくも人をきやすくさせることが肝要であろう。人と交わるのに、顔色を和らげようとせず、かえって偽善者の風を学んで、わざとむつかしい顔つきを見せるのは、家の入口に骸骨をぶら下げ、門の前に棺桶をすえつけるようなものだ」・・福沢諭吉『学問のすすめ』第17編「人望論」

 

 上記の件は、頭では分かっていても、現実に笑顔もままで過ごすのは難しい。実際に実行できる人が教養人である。母からは、「家を出たら7人の敵がいると思え」と教えられた。弱い人間が壁を作り、自己防御で難しい顔をするのだ。今まで自分は弱かったのだ。還暦を迎えてやっと顔に笑顔が出てきたようだ。自分の成長が遅いことは、2013年に自分史を書いて思い知らされた。

 当時、元の部署のT係長がやって来て、機械関係の雑誌の原稿を書いてくれと言ってきた。人を応援に出しておいて原稿書きはないだろうと、むくれたが、皆が忙しく対応できないのでと懇願された。上司の依頼なので、しぶしぶ書くことになる。結果として、自分のやってきた記録を公式記事に残せてよかったと今にして思う。来た縁は断ってはダメである。

 

図1 夏の課の旅行で(上高地)

 笑顔の中込さん(左端)と腕組して苦み走った顔をしている私(左から4人目)。これではダメですね。

 

2017-08-18

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「桜田門外ノ変」の検証 (11/25)DNAの伝承

豊田佐吉翁に受け継がれたDNA 

 江戸時代の鎖国から開国への転換は、井伊直弼大老の決断に起因する。時代は幕末の騒動を経て、明治維新を迎える。開国して西洋の文化が入ってきて心をときめかせた若者が、三河の片田舎の豊田佐吉である。佐吉はスマイルズ著『自助論』(中村正直訳『西国立志編』)に啓発された。同書には、紡績機械や動力織機などの繊維機械を考案した発明家についての記述があり、彼の向学心を高めた。自助論は、当時のベストセラー福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並び、明治時代の人気書籍であった。1885年4月には「専売特許条例」が公布され、発明の奨励とその保護が打ち出された。佐吉は、これに強い関心を持ち、織機の発明を志すきっかけになった。佐吉の母が内職で夜遅くまで手織りの織機に苦労をしている姿に発奮し、母を助けようと、自動で機織機の矢を動かす発明に没頭した。それが豊田式自動織機の始まりである。その特許を英国に売却した資金で、トヨタ自動車が生まれる。

 

『自助論』

 『自助論』 は、300人以上の欧米人の成功談を集めた成功哲学書である。私も、本書を佐吉の歴史も知らずに、訳者竹内均氏の生き方に感銘を受けて、竹内氏の訳本だからと読んだ。本書は「桜田門外の変」の前年1859年に刊行された。そして明治になり開国で、豊田佐吉が手にする縁が生じた。その100年後、私もその本を手にした。

 訳者の中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれ、昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英して、帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)に、『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版して、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉著『学問のすゝめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。

 

『学問のすゝめ』

 咸臨丸で渡米した福沢諭吉は、見聞した知識で『学問のすゝめ』を著し、1872年(明治5年2月)初編が出版された。当時の若者を鼓舞して、新しい国造りに貢献した。共に井伊直弼大老のDNAを受け継いだと言える。明治維新直後の日本国民は、封建社会と儒教思想しか知らなかった。本書は欧米の近代政治思想、民主主義、市民国家の概念を説明し、儒教思想を否定して、封建支配下の無知蒙昧な民衆から、近代民主主義国家の主権者へと意識改革することを意図した。また日本の独立維持と明治国家の発展は知識人の双肩にかかっていることを説き、福澤自身がその先頭に立つ決意を表明している。本書は、明治維新の動乱を経て、新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を明治の知識人に問い、日本国民に広く受容された。近代の啓発書で最も売れた書籍である。最終的に300万部以上も売れ、当時の日本人口は3000万人程だから、国民の10人に1人が買った計算になる。

 

トヨタ自動車とのご縁

 そのトヨタ自動車が今あるのは、明治時代初期に豊田佐吉翁が自動織機の発明に没頭し、豊田式自動織機の特許の売却資金で、新事業への展開したことにある。豊田佐吉翁は、トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎氏に、「俺は織機で御国に尽くした。お前は自動車で御国に尽くせ」と言い残した。企業・産業を起こすものは、志が必要である。単なる金儲けが目的では、目指す次元に差がでる。御国(公共)に尽くすためには、材料、設計、工作機械、生産技術の全てを自前で国産化しないと、当初の理念が達成できないとの考えから、車作り、人作り、会社のしくみ作りを始めた。そこに今のトヨタ自動車の礎がある。

 国の産業の発展を目的に、全て自分達の手で開発したことから、トヨタ生産方式、カンバン方式、現地現物といった日本のモノづくりの原点、手法が生まれてきた。実際に手を汚し、苦労をしないとモノつくりの技は手に入らない。日産からはそんな開発の苦労話から生まれたノウハウの伝承は聞こえてこない。企業DNAの影響の恐ろしさは、50年後、100年後に影響する。

 

日産との薄縁

 1933年に日産の鮎川義介氏は、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。設備も図面も設計者も無償で譲り受けた。鮎川義介氏は、車で金を儲けるため、一千万円を持って渡米して、図面、中古の工作機械、生産技術の全てを輸入し、アメリカの技術者をも連れて帰り、車の生産を始めた。豊田喜一郎氏の志とは対照的である。そして半世紀が経って、その志の差が表れて、日産がルノーに乗っ取られる因果となった。

 トヨタと日産の二つの初代乗用車を並べてみると、技術は未熟ながら純日本文化の繊細な造りこみをした車と、欧米式のがさつな車つくりの差が一目瞭然である。(図2、図3)

 その結果が、主力車であった「青い鳥(ブルーバード)」を籠から放ち(2001年製造中止)、蓄えてきた信用と財産を切り売りし、短期で利益が出たように見せかけ、自社のみが儲かる体制つくりに専念する。そして二人で育てた「愛のスカイライン」はメタボ化して、昔の熱烈な「愛」は冷めてしまった。30年前の私も、ケンとメリーのスカイラインには憧れていた。そこには開発者である桜井眞一郎リーダーの情熱があった。ルノーの拝金主義経営に染まった日産からは、その情熱は消え、魅力的な車が生まれなくなった。それでいて日産のゴーン社長の年俸は10億円に迫り、平均役員報酬は1億円を超え、トヨタのそれの数倍もある。それに対して一般社員の平均給与は、トヨタよりも低い。ゴーン氏はそれを「恥じることはない」と恥さらしに豪語する。何かおかしい。

 

拝金主義の腐臭

 一部の人だけが富を独占して幸せになり(本当に幸せか?)、99%の人が不幸になる社会を、我々は目指してきたのだろうか。この構図は共産中国の党幹部だけが、富を独占している姿に似ている。グローバル経済主義=拝金主義社会である。豊田佐吉翁、豊田喜一郎の顔と鮎川義介氏、ゴーン氏の顔を比較すると、人相学的に興味深い。ゴーン氏の顔は典型的な狩猟民族の顔である。鮎川氏の人相は前者に比較して人徳に薄いように見える。著作権の関係で顔写真を掲載できないので、画像検索で顔を比較して考えてください。

 

DNAの断絶

 2001年から8年間、自分は技術者教育に携わり、新人・中堅技術者の教育の一環として、トヨタグループの産業技術記念館の見学を引率した。この技術記念館は、豊田佐吉が明治44年に自動織機の研究開発のために創設した試験工場の場所と建物を利用して建設された。この記念館は、展示機械が全て動く状態で展示されている世界最大の動態博物館である。

 図6は新会社の新入社員を引率して、遠路3時間の産業技術記念館にバスで行った時の記念写真である。自分にとって若手技術者の成長を祈念した最後の引率研修となった「余分な事は教えるな。技術だけを教えればよい」という成果主義に染まった上司の役員・部長と教育方針が合わず、ある理不尽な事件を機に、私は閑職に飛ばされた。後任者の怠慢で、この講座は消滅した。教育の成果は10年後であるが、拝金主義者の目は、そこまで見ていない。近年は、日産、三菱自動車、タカタ、VWと、自動車業界は創業者の志に復讐されている企業が続出している。

 この産業技術記念館は、全ての人に開放されており、近隣諸国からも多くの人が団体で見学に訪れている。ここに見学に来て学んでいる若者の企業に、前職の会社が段々取り残されていくようで、寂しく情けない限りである。

 

図1 『西国立志篇』  トヨタ自動車75年史HPより

図2 トヨタ初の純国産乗用車トヨダAA型 1936年 (復元車)トヨタ自動車HPより 

図3 日産初の乗用車ダットサン12型 1933年(日産HPより)

図4 豊田佐吉翁の伝記ビデオを鑑賞 (産業技術記念館)

図5 豊田式自動織機の実演に見入る中堅技術者

   美人説明者に見とれている?(産業技術記念館)

図6 最後の見学会

 

2017-08-18

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2017年8月17日 (木)

賽の河原に立つ地蔵菩薩

 三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる。「賽の河原」と呼ばれる場所も、恐山を筆頭に、日本各地に存在する。賽の河原は、親に先立って死亡した子供が、その親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが、賽の河原で親の供養のために積み石の塔を完成させるが、完成する前に鬼が来て、塔を壊わしてしまう。何度、塔を築いてもその繰り返しになるという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済される。これらは民間信仰による俗信であり、仏教とは関係がない。

 賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もある。それは仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したというのが通説である。中世後期から民間に信じられるようになった。

この項wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9Dより編集

 

 賽の河原の石積とは、親の供養のための童子の願行ではない。それは己が成仏させられなかった己の願行である。「禁煙、禁酒をしよう、毎日散歩をしよう、勉強をしよう」と願をかけ、最初の数日間だけは実行するが、己の内なる鬼が、「そんなしんどいことは止めて、もっと気楽にしなはれ」と天使の声の如く耳元に囁きかける。今まで積み上げてきた禁煙、禁酒、散歩、勉強の継続という名の「石積の供養塔」を壊すのは鬼ではなく、怠惰な己である。成就させられず、途中で投げ出した供養塔の数を顧みると、我ながら情けない。幼くして死んだ子は、己が投げ出した三日坊主の象徴である。賽の河原の石積はあの世ではなく、己の「人生という大河」の両岸にある。挑戦しては、途中で投げ出した死屍累々たる山に手を合わせたい。

 石積を壊す鬼を止めるのが己の内なる地蔵菩薩である。佛像は己の心を現す鏡である。己の心には鬼も住めば佛も宿る。心の鏡の中に、鬼と佛が交互に現れる。堕落に誘う鬼の時もあれば、救いの佛様の時もある。全て、己の心が決める。

 自分の心に住むのは「魂(オニ)」である。己の心の「鬼」が、「云う」と書いて「魂」である。賽の石積みをしながら、それを壊すのは己の「魂」である。そんな魂を誰が育てたのか、自省したい。賽の河原の積み石の「地蔵和讃」は、子供に対する寓話ではなく、怠惰な大人への説法である。「三途川の河原の石積」はあの世ではなく、己の怠惰な心が作る現世の己の姿である。地獄に堕ちる前に、自分を救ってくれるのは、地蔵菩薩という名の自分である。菩薩とはひたすら修行道を歩く佛様である。残りの人生を精進して歩みたい。

 

図1 「鬼(オニ)」 松本明慶大仏師作

 

2017-08-17

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仏像の著作権は松本明慶大仏師にあります。

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インプラント 32(分際)

3.32 分際をわきまえているか

  「自分」という言葉は、禅の言葉である。全体の中の「自ら」の「分」が自分である。社会の一員としての存在を表している。その分け前を越えているのが「分際をわきまえない」である。つまり社会の常識を超えている利己主義行動であるとの意味である。それに対して「私」は個人主義の人間の存在を表している。

 対象の歯科医院を観察すると、経験年数、技量、人格、異様な設備の所有等視点から見て分際をわきまえない経営をしている。常識的に見て、この医院に親から頂いた大事な体の手術を任せるわけにはいかない。

 

分際という観点で真偽の見分ける

 そんな目で社会を見ると、ヒトの真偽の判別が容易である。たかが芸人の分際で社会批評や、事件のコメンテイターとしてワイドナショーで、出しゃばっているのを見ると、かたが芸人の分際で何をほざくの?である。芸の分野では達人であっても、政治問題や社会問題の専門家ではあるまい。顔を見ても、知性も品もない人の言動が信用できるわけがない。単に喋りが面白いだけの存在である。日頃、愚劣な番組を垂れ流すテレビ局に、そんな「高尚な」番組を見せられたいは思わない。それこそ、テレビ局が社会の分際をわきまえていない。問題は、そんな番組を痴呆のように、見続ける国民側に責任がある。それを見なければ、そのスポンサー企業の製品を買わなければ、社会はもっと良くなるのだが。最近、高齢者がテレビにかじりついているそうだ。それしかやることがないとか。

 たかが二重国籍者の分際で、なおかつその言い訳が二転三転する党首とその党を信用できるワケがない。民進党は、その日本という政党という全体の中で、己の分際という位置付けを間違えている。

 

2017-08-17

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