l4_詞天王が詠う老計・死計 Feed

2017年8月21日 (月)

「100mの巻物」という人生(2/2)

百m巻物の再撮影

  2014年4月に百m巻物を2回撮影して、百m巻物の写真集としては形にはなったが、当時は製本まではいかず、クリアファイルに各頁を納めて完成とした。その後2年余が経過して、恵峰先生の書の写真集を30冊余も製本化して作成していく過程で、カメラが世代交代し、撮影スキルも編集技術も向上した。今の目で見ると当時の撮影の拙さが目についてきた。それでカメラを最新鋭に更新して、2016年11月28日に再度撮影する決断をして撮影に臨んだ。

 

撮影の改善

 前回からカメラ、三脚を更新して、照明装置を追加して、カメラに高精度水準器を設置した。撮影技術、編集技術が回数を重ねることで向上して、現時点ではほぼ満足で来る仕上がりとなった。やはり経験を積まないと何事も向上しない。また良い機材は、良い結果をもたらしてくれることを再確認した。高いものにはわけがある。この100m巻物の撮影は、これで3年越しの3回目の撮影である。何事も一回ではうまくいかないもの。良いものを作るには3度くらいの手間が必要だと納得した。

 

出版の目的

 この巻物は、後世に残すお手本として書かれたと恵峰師はいう。この巻物をみようとすると数人係りでないと見えない。またどこに何が書いてあるか、書かれた恵峰師もうろおぼえである。製本化することで、A4版で索引として目次を追加したので、探せるし、書道のお手本としても価値がある。この100m巻物の試し刷りを見たお弟子さんたちにも好評であった。私の目的が達成されそうである。この100m巻物を、馬場恵峰先生の第二の公式出版書籍として、現在準備中です。10月出版を目途にしています。

 

当日の撮影状況

 当日は、我々6名が100m巻物撮影を先生の教室の南側で進める中、恵峰先生は机の上で黙々と墓誌の揮毫に集中された。揮毫されている先生を垣間見て、我々はその集中ぶりに感嘆した。普通の書は下書きもせずそのまま書かれるが、墓誌に刻印するためか、寸法を測りながら慎重に揮毫を進められた。

 撮影の合間に昼食になって、お手伝いに参加された自称「熟女」・「一応主婦」(?)の皆さんが手作りに昼食を持ってみえた。九州の家庭料理の美味しさと温かさに舌鼓を打って、疲れが取れた思いである。事前の皆さんからの手紙では「熟女5人が勢揃いしてお待ちしております。」との連絡があり、どうなることかとビクビクしながら(?)赴いた撮影現場である。

 

図1 撮影風景 照明器具の追加と三脚が更新された。

図2,3 私の家の墓誌の揮毫をされる馬場恵峰先生

 

2017-08-21

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年8月20日 (日)

「100mの巻物」という人生(1/2)

一回目の撮影

 馬場恵峰先生が100mの白紙の巻物を中国から買ってきて、今からこれに揮毫するという話を聞いたのが、2012年の知己塾の時である。恵峰先生は今まで10mを20本、30m、50mの巻物を書かれてきたが、今回、日本人も中国人も書いたことの無い100mの巻物に挑戦され、2年がかりで、2014年初春に完成された。この話を先生から聞き、こういう御縁は生涯でも滅多にないと感じ、また弟子としても記録に残さねばと思い、2014年4月10日、写真を撮らせて頂くために長崎に飛んだ。写真撮影で100m巻物を扱うのに、一人では無理なので助っ人として福田琢磨さんに応援を頼んだ。

 なにせ100m巻物なので、まだ誰もこの作品を全部鑑賞した人はいない。たまたま写真撮影の前日に、知己塾の日程を1日間違えて、お弟子さんの一人が先生宅を訪れるという御縁があり、私の写真撮影の話を聞いて、それなら、私もお手伝いをさせてもらうと、仲間を誘って田添さん、兼俵さん、黒川さんが写真撮影の応援に来ていただけた。撮影を開始すると2人ではとても無理なことが分かり、応援に来て頂いた皆さんに感謝をし、日程を間違えてもらい写真撮影の縁があった不思議さを感じた。

 当日200枚ほどの撮影をしたが、大垣に帰宅後、詳細に確認するとピントが甘く、不出来な写真があったので、再度、取り直す決断をして、1週間後に再度、長崎に飛んだ。前回お手伝いをして頂いた4名の方も、再度の撮影の応援に快く応じていただくことになり大感謝でした。当日は4時半起床、6時32分発の電車に乗り7時50分発のANAでセントレアから長崎に飛び、3時間ほどかけて400枚前後の写真撮影(安全をみて各2枚撮影)をして、19時50分発のANAでトンボ帰りをして22時30分に帰宅した。さすがに疲れが2,3日残ってしまったが、心地よい疲労感のある経験であった。1週間に2回も大垣からの先生宅訪問だったので、三根子先生も呆れ顔であった。

 

一字一生

 この100 m巻物に人生を感じてしまう。100 mの巻物に、一字、一字、文字に心を込めて埋めていく作業は、人生に似ている。間違ってはいけない。焦ってもしかたがない。無駄な文字を書いてはならない。書いて来た痕跡が人生だ。意味ある言葉、自分が歩んできて学んだ言葉やその時、感じた所感を文字に移していく。途中で止めては、巻物は完成しない。自分の人生という巻物に、何を書くかは自由であるが、そこの己の人生観と成長の過程の証が表れる。人生に感じている美学も根性も露見する。

 100 mの巻物において、素人目で見て、先生は3文字のミスをされているが、それをきちんと修正をされている。100 mの巻物を書いて、一文字も間違いがないのが理想であるが、それでは、人間の所業ではない。人ではない所業である。人でなしである。神業の筆力を持つ先生にも間違いがあって、むしろ安心をした。そこに人間の温かさがあった。

 人生のやり直しはできない。しかし、間違いを正すことはできる。出直しもできる。間違いに気づいたら修正すればよい。出直しをして、新たな巻物に、第二の人生を書き始めればよい。それをせず、うやむやに第二の人生を中途半端に過ごすから、第一の人生の巻物をくしゃくしゃにする。自分が半生を歩んだ足跡を人生巻物に残し、その事実を直視して、新しい人生巻物に挑戦をしたいもの。

 

鬼美濃

 武田家の武田四天王といわれた馬場信春公は、馬場恵峰先生のご先祖である。武田三代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかった。このため「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。

 長篠の戦いの中、織田・徳川連合軍との決戦で、武田軍は敵の鉄砲隊との攻防で有能な人材を次々と失い大敗を喫した。武田勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた馬場信春公は、反転して追撃の織田軍と壮絶な戦いをして戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。享年61。人生50年といわれた時代の61歳で、現役の将として桁外れの奮闘には驚嘆する。

 大阪夏の陣(慶長20年・1615年)に参戦した子孫が戦いに破れて、九州の山奥に落ち延び、焼き物の窯元として身を隠したという。

 100mの巻物の挑戦を下書きなしの一発勝負で、たった3文字しかミスがなく、揃った字体、どんぴしゃの文末配置、素晴らしい書体を見ると、鬼美濃と呼ばれた馬場信春公の先祖がえりで、剣を筆に持ち替えただけと理解すると、先生の天分の由来が理解できる。表の顔の馬場恵峰先生は仏のような方だが、筆を持たせると書道の鬼となる。鬼にならなければ、後進を指導できないし、後世に残る作品は生まれない。

 

図1 100m巻物を前に馬場恵峰先生

図2 100mの巻物の撮影風景

 100mの巻物の取り扱いは4人かかり。巻き取るにもその重量と巻き癖の修正で大変。その間、思わず手を止め巻物の書体に見とれる黒川さん

図3 欠

図4 100m巻物の思い出深いワンショット

 勢い余ってお手付き? 撮影した600枚中の1枚。良き思い出の記念写真。手の位置も「雅の趣が残る」とは、偶然にしては出来すぎのご縁です。人生という巻物で見えない四隅で巻物を押さえて頂いている手がある。それに気が付くかどうかが、人生の幸せを決める。

図5 中友好書画交流展 大村市 2012年12月14日

 10m、30m、50mの巻物を書き上げてきた実績があって、100m巻物が完成する。ローマは一日にしてならず。

 

2017-08-20

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2017年8月18日 (金)

写経書展写真集の出版

 馬場恵峰先生書を出版するため、今までの撮影分の中から、先生にその選定をお願いしていた。しかし先生も忙しく(写経書展の準備や講演会)で忙しく、その決定が延び延びになっていた。私はそれと並行して出版の事前検討で、地元の印刷会社と2年越しの打ち合わせを何回も重ねてきた。しかし選定が決まらないのでこの半年ほど、担当営業マンとご無沙汰になっていた。ところが写経書展の写真集(オンデマンド印刷)をまとめたら、それを恵峰先生が見て、「これだけは先に出版したい」と急に言いだして私も慌てた。

 

信用金庫崩壊

 急遽、今まで打ち合わせをしてきた若い営業マンに携帯に連絡を取ったら、数カ月前に別の営業所に転勤になっていて担当できないと言う。引継ぎの担当者から後日連絡をさせるとのこと、私はむくれてしまった(2017年1月25日)。やりかけの営業懸案があって、転勤になるならその旨の連絡を顧客にするのが常識である。それがなかった。翌日、その営業マンの上司から電話があったが、「貴社は信用できないので、仕事を出すのをお断りする」と電話を切った。営業マンの仕事は会社の信用を創ること。彼の上司の指導に疑問を感じた。信用を大事にしない会社とは、付き合いたくない。

 なぜ、たった一言、「転勤になりました、後は〇〇に連絡ください」が言えないのか。2年も待たされて、仕事はもらえないと見切ったのか。恵峰先生は、写真集用の書の選別の納期を延ばすことで、面白い縁を発生させてくれた。これが縁起である。今までの付き合いで若い彼の言動を見て、違和感ある匂いを感じて納得できる結末ではあった。そんな縁しか結べなかったことが哀しい。人生は全てご縁の繋がりなのに。私はその会社の未来を見極め、悪縁を切った。

 私なら、まず客先に謝りに行く。まずその行動がないと後が続かない。その年配の上司と当人に、その後始末の行動がないのが情けない。その上司は最初に会った時、名刺を切らしたとかで名刺をくれなかった。ビジネスマナーでは、後日、送付するのが常識だと思う。もともとそういうレベルの上司、会社であったようだ。佛様は時間という加減乗除で、悪縁を排除してくれる。浄土に行くときは、自分信用金庫に不良債権を残さないようにしたいもの。

 

「ビジネスは壊れやすい花瓶に似ている。無傷であればこそ美しいが、一度割れると二度と元の形には戻らない。」

 Business is like a fragile vase - beautiful in one piece, but once broken, damn hard to put back together again to its original form.

    “Letters of a businessman to his son" by G.KINGSLEY WARD

印刷方式の変更

 急遽、別の印刷会社数社に相見積もりを取ったが、印刷部数が少ないので、オフセット印刷をしても単価が1万円を遥かに超えて、困ったものと頭を抱えた。先生とも相談をして、現行のオンデマンド印刷でいくことで妥協することにした。オンデマンド印刷も最近は質が上がり、書の写真ならオフセット印刷とそうは見劣りしなくなった。オンデマンド印刷なら、版を作らなくても済み、オフセット印刷の半分以下の費用ですむ。オフセット印刷は部数が増えると急激に単価が下がるが、オンデマンド印刷は何部印刷しても単価は同じである。今まで付き合いのあるコピー会社から、営業努力で格安の見積もりの提示を受けた。フルカラーの完全な美術書ではなく、書の美術書であるので、それが落としどころだと納得した。先生の名がもっと広まり、印刷部数が稼げるようになってからオフセット印刷に切り替えればよい。まず少部数でも出版をして、第一歩を踏み出して世に問うてから次のことを考えればよいとした。

 

公式書籍として発刊

 恵峰先生は、今まで4冊の自費出版をされているが、多くは売れず大赤字である。特殊な世界で部数が少ない書の出版では、儲からない。今回は儲けるために出版をするのではない。皆さんへのご恩返しとして、また後世に残すためにとの意味で出版をするのだ。

 前4冊は自費出版でもISBN 番号を取ってないので、国会図書館にも入らず、公にもなっていない。今回は、公式な書籍として世に問いたいと思い、ISBN 番号を取る算段をすることにした。国会図書館にも入れば、後世には記録として残る。後日、雑誌社に出向いて書評等で、紹介してもらう計画をしている。

 

2017-08-18

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2017年8月17日 (木)

賽の河原に立つ地蔵菩薩

 三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる。「賽の河原」と呼ばれる場所も、恐山を筆頭に、日本各地に存在する。賽の河原は、親に先立って死亡した子供が、その親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが、賽の河原で親の供養のために積み石の塔を完成させるが、完成する前に鬼が来て、塔を壊わしてしまう。何度、塔を築いてもその繰り返しになるという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済される。これらは民間信仰による俗信であり、仏教とは関係がない。

 賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もある。それは仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したというのが通説である。中世後期から民間に信じられるようになった。

この項wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9Dより編集

 

 賽の河原の石積とは、親の供養のための童子の願行ではない。それは己が成仏させられなかった己の願行である。「禁煙、禁酒をしよう、毎日散歩をしよう、勉強をしよう」と願をかけ、最初の数日間だけは実行するが、己の内なる鬼が、「そんなしんどいことは止めて、もっと気楽にしなはれ」と天使の声の如く耳元に囁きかける。今まで積み上げてきた禁煙、禁酒、散歩、勉強の継続という名の「石積の供養塔」を壊すのは鬼ではなく、怠惰な己である。成就させられず、途中で投げ出した供養塔の数を顧みると、我ながら情けない。幼くして死んだ子は、己が投げ出した三日坊主の象徴である。賽の河原の石積はあの世ではなく、己の「人生という大河」の両岸にある。挑戦しては、途中で投げ出した死屍累々たる山に手を合わせたい。

 石積を壊す鬼を止めるのが己の内なる地蔵菩薩である。佛像は己の心を現す鏡である。己の心には鬼も住めば佛も宿る。心の鏡の中に、鬼と佛が交互に現れる。堕落に誘う鬼の時もあれば、救いの佛様の時もある。全て、己の心が決める。

 自分の心に住むのは「魂(オニ)」である。己の心の「鬼」が、「云う」と書いて「魂」である。賽の石積みをしながら、それを壊すのは己の「魂」である。そんな魂を誰が育てたのか、自省したい。賽の河原の積み石の「地蔵和讃」は、子供に対する寓話ではなく、怠惰な大人への説法である。「三途川の河原の石積」はあの世ではなく、己の怠惰な心が作る現世の己の姿である。地獄に堕ちる前に、自分を救ってくれるのは、地蔵菩薩という名の自分である。菩薩とはひたすら修行道を歩く佛様である。残りの人生を精進して歩みたい。

 

図1 「鬼(オニ)」 松本明慶大仏師作

 

2017-08-17

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仏像の著作権は松本明慶大仏師にあります。

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人生の「いろは歌」

 鴨長明も『方丈記』(1212年 建暦2年作)で、河の流れを人生に見立てて、世を詠っている。水門川を毎日横目で見ながら歩いていると、自分の人生と重なる。儚く移ろいゆく人生は、危機感をもって生きるべし、である。

 「行く河の流れは絶えずしてしかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは且消え且むすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと又格の如し。」『方丈記』

 

人生の秋

 散歩道「ミニ奥の細道」を最初の5年ほどは、チンタラと歩いていたため、人生での思い出が色々と浮かんでは消えていった。しかし最近は、高血圧の治療を目的に、汗ばむほどの速度で大垣の「ミニ奥の細道」を駆け巡るので、頭に浮かんでくる事項が建設的になった。やはり人生は目的を持って精力的に歩かねばならない。

 人生の旅は時間制限があり、いつかは終わりが来る。「いろは歌」は人生の旅を象徴している。いくら栄華を誇っても何時かは散る運命である。『平家物語』からも人生の哀愁が伝わってくる。どちらも同じことを詠っている。その中でどうやって生きていくか、歩き続けても答えは出てこない。「いろは歌」は仏教の経典の中の言葉を元にしたといわれている。

いろは歌

 色は匂へど 散りぬるを・・・諸行無常

 我が世誰ぞ 常ならむ・・・・是生滅法

 有為の奥山 今日越えて・・・生滅滅已

 浅き夢見じ 酔ひもせず・・・寂滅為楽

 

 花はどんなに美しく咲き誇っていても、やがて必ず散ってしまう。この世で永遠に生き続けることができる人がいるのだろうか。全ての人は、現世と別れて一人で死んでいかねばならない。種々の因縁の和合により作られた無常の現世から、今日、目が覚めて抜け出して、この世を夢とは見ず、覚めた目で見つめていく。

 

 「いろは歌」には、色即是空、空即是色の般若心経で言う人生観「この世の栄華栄達も無常である」が込められているようだ。「いろは歌」の解釈はさまざま存在して、確定した解釈はない。だから自分が納得できるように解釈をすればよい。そこに自分の人生が映し出される。

 

There is no facts, only interpretation.

 ニーチェは「目の前に存在するのは事実ではない、どう解釈するかだけだ」と言った。仏教の世界では、その事実があるかどうかも夢うつつの物語だという。その中でどう生きていくか、それが人生の「いろは」として問われる。

 

図1 水門川沿いの「四季の路」

図2 自然に四季があるように、灯台にも四季の風景がある。人生の四季を終え、次の旅立ちの場所は、灯台である。俳聖松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅を大垣で結び、式年遷宮の伊勢神宮に参拝をするため、ここ大垣船町の港から舟で桑名に向けて旅立った。旅の終わりは、次の旅への出発(departure)である。

図3 大垣市船町港跡の川辺に立つ芭蕉像。

 

2017-08-17

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2017年8月16日 (水)

72年目の佛の目

 広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、2003年から米首都近郊のダレス国際空港脇にあるスミソニアン航空宇宙博物館の関連施設に、ピカピカの状態で展示されている。反核運動で知られるアメリカン大のカズニック教授は、共同通信に「20万人の命を奪った飛行機を展示する厚かましい国が他にあるか。抗議のため開館時に一緒に訪れた被爆者の落胆が忘れられない」と語った。長崎に原爆を投下したB29「ボックスカー」は、中西部オハイオ州の博物館で展示されている。(産経ニュース2016-05-22より)

 

戦後の歴史

 戦後72年が経って当事者が殆ど没したにも関わらず、米国ではいまだ白人優位、植民地拡大主義を封じ込めていない。太平洋戦争という歴史の結果に反省がない。トルーマン大統領が、言い訳の為に作った「原爆が戦争終結を早め、米国人を救った」のプロパガンダに米国民は洗脳されたままになっている。多くの女性子供を含め21万人以上を殺した罪の大きさを考えると、戦争責任など考えたくもないのだ。日本の戦争責任がいまだ言われるが、誰が戦争をせざるを得ない状況に追い込んだのか。「こんな私に誰がした?」。戦争になった結果があれば、その原因がある。結果の責任ばかりに話が行き、その真因の責任には誰も言及しない。トヨタ生産方式の「なぜ戦争になった? 何故、何故を5回繰り返す」べきなのだ。それがないから、戦後も世界で紛争が絶えない。真因を突き止め再発防止をしないから、今も巨悪が生き延びて生き血を吸い跋扈している。

 江戸末期、明治時代には、アジアで日本とタイ以外の国が、欧米の植民地にされ、それが戦後解放された事には、マスコミは口を閉ざす。当時の欧米列強も、植民地の犯罪に口を閉ざし、責任を認めない。アジア諸国が平和に暮らしていたのに、列強諸国が強盗のように乗り込んで、植民地にして民衆から搾取をした。英国がインドの植民地統治で、現地人を2,000万人も餓死させた。米国は、植民地のフィリピンで61万人を虐殺した。だれが責任を取ったのか。戦勝国だから、自国民もマスコミも追及しない。

 ドイツ国民が、ユダヤ人にしたホロコースト犯罪をすべてナチスに押し付けて、反省をしないのに似ている。だれがナチス党に選挙で票を入れたのか、ドイツの誰もが口をつぐんでいる。それを、日本を責めることで、自国に火の粉が舞わないようにしている。攻撃は最大の防御である。ドイツは日本の経済での競争相手としての躍進に面白くなく、反目しているのが見え見えである。

 現在の中共の民族虐殺のことに目をつぶり、過去の植民地政策の責任にも背を向け、金儲けのためAIBBに駆け参じる欧州列強の姿が現実である。

 米国、ドイツ等の欧米社会を見ていると、この72年間で全く、人として進化をしていない。あくまで金もうけが先行して政治が動いている。白人以外は人ではないとの考えが、戦前と変わっていない。中国では共産党員以外は人ではない。結果が、貧富の差の拡大である。

 世界最大の覇権国となった米国は、産軍複合体の維持のため、10年に1度は戦争をしなければならない体質となっている。兵器の在庫処分のためである。戦後、米国は、自作自演のトンキン湾事件を機に宣戦布告もせずベトナム戦争に突入する。ありもしない大量殺戮兵器所有を理由として、フセイン政府に宣戦布告もなしに湾岸戦争を始め、フセインを絞首刑にした。その目的は中東の石油の利権確保であった。いくら探しても大量殺戮兵器は見つからなかった。フセインの独裁政治のため何とかバランスの取れていた中東情勢が、この破壊を機に混乱し、現在の中東のテロの横行をもたした状況となっている。

 そんな傍若無人の米国の繁栄も100年を迎え、衰退の時期になったようだ。トランプ、クリントンの下劣な大統領選挙戦を見ると、米国の衰退を肌で感じる。国の繁栄も100年は続かない。それは墓石の寿命と同じである。スペイン・ポルトガル・オランダの世界征服を目指して船出した時代、日の沈まない大英国帝国の植民地拡大時代を経て、各国の繁栄はせいぜい100年であった。

 近隣諸国がぐちゃぐちゃと難癖の言いがかりを吠えてくるが、なにが真実か、なにが正しいのか自分の頭で考えたい。世の中では、まともでない人ほど、声が大きく非常識である。世の中の事象の真偽判別は、単純明快である。泥棒行為をして、声が大きければ、その非常識がまかり通る世界に住んでいる鬼たちとは付き合い方を考えよう。竹島問題、尖閣諸島、シベリア強制抑留、北朝鮮の日本人拉致問題、知的財産横領、靖国参拝問題、…… 冷静に歴史を振り返りたい。

 

強欲主義の跋扈

 仏教の思想では、自分の民族以外を民族抹殺、大量殺戮してでも目的達成という恐ろしい考えはない。ライオンでも満腹になれば、目の前のウサギも無視である。それに対して、白人の仮面を被った死鬼衆には、目的達成のための手段に限度がない。人の財産を総取りして、打ち負かした地の人間を皆殺しにするか、奴隷にする習性は、日本とは異質である。今のパナマ文書問題が象徴しているように、グローバル経済主義教は、欲望が人間の時間的、許容的な限度を天文学的に超えるまでに及ぶ。一人で何兆円もの金を隠してどうするのか。我々は、人類全体を何十回、何百回も皆殺しにできる核兵器を備えるまで行きついた。世界終焉の世界がまじかである。その元となる考えは、物欲からくる総取り思想である。

 現代は、世界の強欲に迎合するマスコミが跋扈する。そのマスコミは、大資本に迎合しないと売り上げが伸びないので、偏向した報道に徹している。そんな思想に染まらないように、自分の頭で考えて、日本の精神文化を広めて、日本は世界に範を示すべきだ。

 

日本精神文化の責任

 お釈迦様は2500年前、自分が生まれ育った国を他国に滅ぼされる憂き目を受けている。その際、お釈迦様は他国の軍を前にして3回、座って止めようとした。しかし、4回目は止めることをせず、他国に攻め滅ぼされた。お釈迦様は、武力に対して、武力ではなく対話と行動で止めようとした。今はその敵国は消滅したが、お釈迦様の思想は生き延びて輝いている。悟りを拓いた人は強い。無力な我々であるが、先祖から受け継いだ日本の非戦という精神文化を、後世に伝えるのが、我々の勤めである。

 

2017-08-16

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2017年8月15日 (火)

外の常識は内の非常識

 「足るを知る」、「生きとし生きるものを慈しむ」という仏教の教えは、日本国内だけに通用する。日本外の世界は魑魅魍魎、弱肉強食の世界である。それは昔の植民地強奪競争時代ではなく、現代でもまかり通っている。周辺の国は危機に陥ったときを虎視眈々と狙っている。日本国内の常識とは別に、外の世界は別に価値観で回っていると認識しないと、国が滅びる。非武装中立は机上の空論である。武力を持たない仏教国のチベットは、中共に侵略され国体が破壊され、人口の20%(日本の人口に換算すると2,000万人)が虐殺された。ダマイ・ラマ師は亡命を余儀なくされた。過去70年間で、180以上の国が消滅した。話せば分かる衆生が住む日本にいると、道理が通じない金に飢えた野獣が跋扈する世界を忘れてしまう。時に身を炎に包まれながらも、105年間、目の前に展開する事実を見てきた室村町四丁目地蔵菩薩尊のように、冷酷な世界を冷静に見つめたい。助けると見せかけて、将来の侵略の作戦を密かに練っている外敵がいたし、今も虎視眈々と日本を狙っている鬼がいる

 下記の産経ニュース「湯浅博の世界読解」に考えさせられた。関東大震災(1923年)から20年後、米国は救援時に収集したデータから、1944年から本格化した日本本土空襲作戦の焼夷弾使用を立案した。

 

湯浅博の世界読解:

 2011年3月、東日本大震災の際に米軍はいち早く2万人動員の「トモダチ作戦」を展開した。中国は15人の救援隊を送ってきたが、1週間して帰国した。入れ替わりに軍艦を尖閣諸島に送りつけてきた。

 菅直人内閣の動きにロシアは「日本は御しやすい」と判断した。ロシアの空軍機は、「放射能測定」を理由に日本の領空ぎりぎりを飛び、中国の艦載ヘリは尖閣沖の海自艦に異常接近して、復旧の邪魔をした。

 香港の「東方日報」は地震発生の1週間後、尖閣を奪取すべきだと指摘した。「日本が大災害で混乱しているこの機会が絶好の機会である」と本音を吐いた。

 内紛や天災で国が乱れると、そのスキを突いて敵対勢力がなだれ込むのは国際政治の過酷な現実である。腹に一物ある周辺国は、危機に陥った時の日本の危機管理能力をじっと見ている。それが有事にも直結するからだ。

 関東大震災(1923年)の際、救援の外国勢と裏では虚々実々の駆け引きをしていた。日本海軍は地震発生とともに、国内3つの鎮守府から艦艇が急行した。連合艦隊が東京湾に向かった。このとき黄海にいた米太平洋艦隊も震災4日後に8隻が東京湾入りして、その早さに海軍当局者は度肝を抜かれた。

 米軍の救援部隊の中には情報要員が紛れ込んでいた。驚いたことに、この時の震災と火災の関連調査が、後の日本本土空襲作戦の立案の際、焼夷(しょうい)弾使用の参考にされた(防衛研究所ニュース通算86号)。

 上記は産経ニュース【湯浅博の世界読解:震災の弱みにつけ込む国々 国際政治の過酷な現実 2016/4/25】を編集しました。

 

2017-08-15

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2017年8月14日 (月)

原爆投下を見つめた地蔵菩薩尊

 1945年7月29日のB-29爆撃機90機による大垣無差別爆撃で、室村四丁目地蔵菩薩尊が炎に包まれた。5日前の7月24日、東向きに建つ地蔵菩薩尊の目の前640mの場所に、米軍は広島に投下予定の原爆模擬爆弾を投下した。

 私は毎日の散歩の帰路にある大垣の被爆地の慰霊碑に手を合わす。ここに来ると日本の歴史と現代の状況を感じる。犠牲の方のご冥福を祈り「二度と日本がこんな目に遇わせられないように、我が国力を上げるべく貧者の一灯として精進します」と祈っている。この被爆の慰霊碑は、水門川沿いの大垣藩の藩校敬教堂跡に建つ孔子像の南側に、ひっそりと建てられている。昭和20年7月24日、米軍が広島に原爆を落とす前、原爆投下訓練のため、大垣市の県農業会大安支所に模擬原子爆弾を投下した。建屋は一瞬に吹っ飛び、職員は肉飛び骨散して10名が悲惨な最期を遂げた。その慰霊碑の真横に、母校の大垣北高「発祥地の碑」が建っている。その鎮魂の地蔵尊が新町浄園寺に祭られている(昭和51年7月建立)。

 

模擬原爆150回の投下訓練

 模擬原子爆弾は、広島と長崎への原爆投下訓練のため、米軍が作った重量4.5トンの爆弾で、長崎に投下されたプルトニウム原爆と同形で“パンプキン爆弾”である。昭和20年7月20日~8月14日の間、全国各地に約50発が投下され400人以上が犠牲になった。平成3年、愛知県の市民グループが、機密解除された米軍資料からこの事実を発見した。原爆開発のアメリカの現場では、日本で実験する前に、100回もその投下実験を繰り返して、完成に近づけていた。緻密な大量殺戮計画である。ナチス以上に緻密である。

 

広島と長崎への原爆投下は爆発実験

 原爆は、日本人が白人なら絶対に落とされなかった。国際法上でも原爆投下はジェノサイド(皆殺し)であり、その後ろめたさが故、米国の戦後の支援がある。ジェノサイドを認めたくないがため、米国内では下手にこの問題を掘り起こすと旧軍人会からヒステリーじみた感情で袋叩きにされる。1997年、エノラゲイ展を企画したスミソニアン博物館長は、辞任に追い込まれた。その経緯を米国スミソニアン博物館で目の当たりにした(1997年夏)。原爆開発は、巨額の政府予算に目が眩んだ拝金主義の鬼子であった。

 原爆の効果を検証するため、戦略爆撃から除外されていた広島と長崎に、米軍は二種類の原爆を投下した。ウラン型とプルトニウム型の原爆を比較するためである。米エネルギー省の出版物中では、広島と長崎への原爆投下は「爆発実験」の項に分類されている。

 

原爆開発の目的は金儲け

 この原爆開発の真の目的は、金儲けである。今のグロ-バル経済主義(拝金主義)を生んだ鬼子の親でもある。モルガン、デュポン、GEがこの原爆開発を担当して、ウラン型原爆は先に完成していた。プルトニウム型原爆の完成を待って、2つの原爆を爆発実験として投下した。万全を期すため、訓練として米国で100発、日本に模擬原子爆弾を50発も投下した。戦争を早期に終結する目的なら、プルトニウム型原爆の完成を待つ必要もなく、2種類もの原爆の爆発実験をする必要もなく、50発もの日本での投下訓練も不要である。当時、日本は戦争続行には資源が枯渇して、遅くとも昭和20年11月には降伏することが明白であり、それは日米両政府の周知の事実であった。原爆投下に反対であったルーズベルト大統領は、巨悪の都合に合わせるが如く、直前に愛人宅で怪死した。その死の状況は不自然である。

 

科学という呪縛

 原爆開発の科学者達は、徹底して情報が管理された。自分の研究以外は、何をしているのか全く分からないように、グローブスは科学者に与える情報を遮断させた。科学者は、自分に与えられたテーマだけを追い求めた。それが全体の中で、どんな意味を持つかは、聞いてはならない事項となった。科学者は自分のテーマに没頭して成果を出した。気が付くと、自分の手が女性子供の殺戮で血まみれになっていたことに、戦後、気が付くのであった。

 科学とは細部にどんどん分類していく学問である。全体像がどうなっているかは、問われない。今の現代の学問が抱える問題である。東洋の思想はそれを統合して考えるスタイルである。

 

出されなかった大統領の原爆投下命令

 そして後任の操り人形であるトルーマン大統領が、原爆投下の直接の原爆投下命令を出さないのに、軍部と政治の葛藤の合間のはざまで、いつの間にか原爆投下が実現した。ルーズベルト大統領の突然の死去で、大統領になったトルーマンは原爆開発の詳細は知らされていなかった。急遽、原爆計画責任者のグローブスから説明を受けたが、具体的な指示は何もしなかった。グローブスはそれで大統領から承認されたして、原爆開発を進めた。「準備が出来次第、順次、日本に原爆を投下せよ」と現場に指示を出した。トルーマン大統領は、ヤルタ会談からの帰路の船上で、広島原爆投下を報告され、自分が決断したとしてラジオ放送をせざるを得なかった。完全なる軍部の操り人形であった。1発目の広島は、軍事都市であるとの虚偽の報告書で、第一目標地にされた。その軍部の機械的なスケジュールに乗って、大統領の命令なしに原爆は広島に投下された。当初の第一目標地は京都であった。知日派の文官が強固に反対して、それが広島に変わった。自ら決断していない8月6日の原爆投下の結果に、狼狽えている間に、3日後の8月9日、2発目の原爆が長崎に落とされた。やっと目が覚めたトルーマン大統領が、以後の原爆投下中止命令を出した。そうでなければ、「準備出来次第、原爆を日本に落とせと」の原爆計画責任者のグローブスの軍事命令で、17発の原爆が投下の用意がされつつあった。トルーマン大統領が、正式に原爆投下を指示した書類は存在しない。それは米国を代表する7名の歴史学者が調査をして証言している。

 

軍部の成果主義

 トルーマンは、「原爆投下は軍事施設に限る」と日記に書いているが、原爆開発責任者のグローブスは、その逆に原爆の効果が最大になる都市を探していた。彼には女性子供が殺戮されることは、眼中になく、あくまで原爆の効果が最大になる場所が選定理由であった。広島は5キロ四方の先に山がそびえ、原爆の効果が最大になるから京都に代わって選ばれた。最初は京都が第一目標地で、軍部は5回も上申をしたが、政府に拒否されて、広島になった経緯がある。それも広島が軍事都市であると報告書をねつ造しての決定である。その頃になって、やっとトルーマン大統領は軍部の暴走に気が付いて、軍部を牽制しはじめたが、動き出したプロジェクトは大統領でも止めれなかった。組織の暴走の恐ろしさである。将来、ナチスを上回る無差別殺戮の責任を問われることを恐れたトルーマン大統領は、原爆が戦争を早期に終わらせ、米国人、日本人の命を救ったという嘘の「神話」を作りだし広報して、自分の道義的責任を放棄した。それを何千回も自分に言い聞かせて、1972年12月26日、27年間の「悪魔の神話」を胸に秘めて生涯を閉じた。自分で自分に洗脳教育をして、その罪を逃れたのだ。そうでもして自分を騙さないと、悪魔の己に慄いて、生きてはおられまい。その最大の被害者は米国人である。それがあるから、戦後、原爆水爆の開発が国民の意図に反して、人類を何度でも皆殺しにできる量の原爆が生産され続けた。産軍複合体に逆らったケネディ大統領は暗殺された。それ以来、歴代大統領は軍にモノが言えなくなった。米国の不幸である。

 

成果主義の強迫観念

 原爆計画責任者のグローブスが上司の許可を得ないまま原爆投下を急いだのは、単に22億ドルもの巨額の費用をかけたのに、その効果を実証しないと、戦後、その責任が問われると恐れたためである。だからその効果が最大になる都市を狙い、女性子供がいようが、彼にはそんなことは眼中になかった。その理由だけで、原爆投下の昭和20年だけでも、21万人が死亡した。成果主義による効果の金メダルである。(2017年放映 NHK広島製作 「原爆投下 知られざる作戦を追う」より作成)

 

だれが儲けたか

 原爆や原子力関係の商売は儲かる。それは福島第一原発事故の報道で明らかになった。原爆開発には日本の国家予算の3倍の金が使われた。その金は何所につぎ込まれ、誰が潤ったのか。金に目が眩むと人は死鬼衆になるのか。金儲けのためには、民族抹殺などは厭わないアーリア人のDNA が脈々と続いていた。彼らにとって、非白人は人間ではないと認識し、残虐の限りを尽くすることは歴史が示している。民族皆殺しなどの業は日本人には無縁の世界であるが、そんな鬼が身近に存在することを認識しないのでは身の破滅である。歴史に学ばない民族は滅ぶ。それを認識して人生を歩むべきである。きれいごとばかりでは殺される。日本の外側は鬼の住む世界である。

 

血のりのついたコンピュータ

 スミソニアン航空宇宙博物館にあるFAT MANのパネル説明は、素っ気無い。

「“My God,it worked. この開発が政府、大学、科学者、民間企業の総合力で遂行され、この開発のために膨大な計算がされ、その必要からコンピュータが開発された。そしてこの原爆はメキシコで実験され、長崎に投下され7万人の犠牲者を出した。第2次世界大戦はこの原爆とコンピュータの2つのブレークスルーを生み出した」

コンピュータとは原爆開発のために開発された血糊がついた武器でもある。

 

米軍の無差別空襲

 米軍による無差別空襲は、戦争法違反であり、死鬼衆としての非戦闘員皆殺し作戦である。日本人が非白人であるがゆえ、米軍が行った非道である。米軍による日本本土空襲は、1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われた。空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死傷者数は各説あり100万とするものもある。被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した。

 都市部に対しては3月10日の東京大空襲を初めに夜間に低高度(高度2000m程度)から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃を開始した。焼夷弾空襲は耐火性の低い日本の家屋に対して高い威力を発揮し、なかでも東京大空襲では市民10万人が殺された。それも周辺を火の海にして逃げ道を塞いでから、中心部に焼夷弾を落とした死鬼衆である。

 

人殺しに勲一等旭日大綬章

 カーチス・ルメイは、原爆投下(広島・長崎)などは戦争犯罪ではないかと主張されるが、米国が戦勝国であるため裁かれたことはない。無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイ自身が「もし米国が戦争に負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」と語っているとも言われる。1964年12月7日、彼は日本の航空自衛隊育成の功として勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。勲一等は天皇が直接手渡す親綬が通例であるが、昭和天皇は親綬を拒否された。

 

パナマ文書を見届けて

 室村町四丁目地蔵菩薩尊の閉眼法要の10日後の2015年4月3日、パナマ文書が報道され149件の文書とともに発表された。パナマ文書で富裕層の租税回避が公開され世界中の政治問題となってきた。これの問題点は、全世界のGDP総額5,000兆円のなかで、富裕層の脱税行為として2,400兆円ものお金が租税回避地に隠匿されたことである。武器の死の商人の金集め、グローバル経済教の名目で、特権階級が集めたカネは世界GDP総額の半分近くに達する。富裕層が払うべき税金も払わないため、貧富の差が拡大していく。グローバル経済教とは、以前の植民地政策が金儲けを前面に出して、金儲けは良いことだと経典に刷り込んだ新興宗教である。このグローバル経済教は、仏教の「利他の心」とは対極の「利己主義」の教えである。グローバル経済教の布教の結果、貧困の拡大、貧富の格差拡大、金儲けだけの不健康な添加物まみれの食物の氾濫、戦争の拡大、難民問題が頻出している。心眼を開いて事実を観つめたい。何が真因なのかと。

 その事実が公表されたことに安堵するが如く、翌々日の4月5日、室村町四丁目地蔵菩薩尊は静かに室村町を去っていった。天網恢恢疎にして漏らさず。室村四丁目地蔵菩薩尊や「被爆地の碑」は、人間の強欲に起因する禍の歴史を教えてくれた。その証人のお役目は、大垣大悲禅院の谷汲観音菩薩に引き継がれた。

 

図1 被爆の碑と大垣北校発祥の地記念碑、向うに敬教堂跡と孔子像

図2、3 被爆の碑

図4 エノラ・ゲイ号展(スミソニアン博物館 1997年筆者撮影)

図5 リトルボーイ 広島に投下した原爆

図6 ファトマン 長崎に投下した原爆  1994年筆者撮影

 

2017-08-14

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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大垣空襲の生き証佛

 105年間、地域を見守って頂いた室村町四丁目地蔵菩薩尊像は、石寅の初代藤井寅吉氏が彫り上げた。当時45歳である。図1の写真は地蔵尊が彫られた明治43年の前年の情景を現している。右後方に国宝の大垣城が写っている。貴重な写真である。米軍の無差別空襲がなければ、国宝の大垣城も燃えることはなかった。戦争は人間を死鬼衆に変える。戦争の原因は、全て人間の欲から生まれる。

 当時はまだ若かった石寅の叔母さんが、「大垣空襲当時、お堀(当時はまだお堀があった)の壁から首を出して、目の前で自分の家が燃えていくのをなす術もなく見ていて、情けなかった」と回想されていた。非戦闘員や庶民の家屋に焼夷弾を落とし、非戦闘員を殺し、家屋を焼き尽くすのは戦争犯罪である。戦勝国のアメリカが、その罪の問われることはなかった。戦争になれば、戦争犯罪の区別などの綺麗ごとなどは知ったことではない状況に陥る。そういう歴史を見据えて、今後の日本の歩むべき道を考えたい。サヨクの妄言に迷わされては国が滅ぶ。

 

谷汲山観世音菩薩像

 室村町四丁目地蔵菩薩像が「引退」されて、大垣空襲の生き証人(生き佛?)は、大垣市内では、大悲禅寺の谷汲山観世音菩薩像だけになってしまった。あとは常盤神社の神殿前の狛犬と獅子だけである。寂しい限りである。歴史の証拠は我々人類の戒めとして保存せねばならないと思う。大悲禅寺は大垣城の鬼門の方角の護り寺である。

 2017年8月14日、改めて谷汲山観世音菩薩像を撮影した。谷汲山観世音様のお顔を望遠レンズで、遠方より水平に近い角度で撮影して詳細に見てみた。いつもの下から見上げて拝顔する時とは、印象の違う優しい素朴なお顔が現れた。初代藤井寅吉氏の心が表れているようだ。室村町四丁目地蔵菩薩尊のお顔と相通ずる趣がある。お体に焼夷弾の跡が残り痛々しい。大正15年建立で、御歳91歳、寅年生れである。石寅の初代藤井寅吉氏(寅年生)の製作である。

 

図1 明治42年当時の石寅

  左から2人目、初代藤井寅吉(慶応2年生(1866))、

  右から5人目、二代目藤井寅吉(藤井惣兵衛 明治35年生)

  右後ろに国宝の大垣城(昭和20年の大垣空襲で焼失)が写っている貴重な写真。

  その横は濃飛護国神社

図2 106年後の石寅で図1の写真と同じ方向から撮影

図3 大悲禅院(大垣市寺内町)

図4 大悲禅院の谷汲山観世音像 (下から見上げて)

図5 大悲禅院の谷汲山観世音像 (望遠レンズで)

  CANON 100-400mm f4.5 IS Ⅱ

  お体に焼夷弾の跡が残り痛々しい。

  大正15年建立石寅の初代藤井寅吉氏(寅年生)の製作。

  2017年8月14日撮影

 

2017-08-14

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2017年8月12日 (土)

人生深山の峠を降る

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で旅の峠を迎えた。芭蕉は、山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689年)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み、浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に、宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂までの8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。

 

行尊僧正の歌の哀れも爰に思い出て猶まさりて党ゆ惣て此山中の微細行者の法式として他言する事を禁ず。よって筆をとどめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて三山巡礼の句々短冊に書く。(松尾芭蕉『奥の細道』)

 

 『奥の細道』の作風は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。芭蕉三百年恩忌(1994年)で『奥の細道全集』(上下巻)を揮毫された馬場恵峰師も、この峠の記述を境に巻を分けて構成された。

 

吾が人生の深山

 小さな人生にもドラマがあり人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が身近で10名余にも及ぶ。私も還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。還暦を迎えてからも仕事仲間の5名の訃報に接した。還暦は人生の峠である。

 人には、語れぬ人生の深山がある。人生で、いつかは足を踏み入れねばならぬ深山である。芭蕉は死者としての白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、山に入った。人は経帷子に身を包み、人には見せられぬ醜い自分を見るために、山を登る。人生で一度は越えねばならぬ峠である。その峠で、過去の自分の臨終を見送る。

 死者として深山を上り、新しく生まれた赤子になって、上ってきた山道を下る。「他言を禁ず」の戒律は、人には語れぬ醜い己の臨終への佛の経なのだ。峠を下れるだけ幸せである。峠を下れずに、山腹で骨を埋める仲間も数多い。自然が唱える不易流行の経の声を聴き、己が神仏に生かされていることに感謝を捧げる。

 

 

図1 馬場恵峰師と『奥の細道全集』 2011年4月2日撮影

  『奥の細道全集』の撮影のため、初めて先生宅を訪問した。

 

2017-08-12

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