大垣空襲の生き証佛
105年間、地域を見守って頂いた室村町四丁目地蔵菩薩尊像は、石寅の初代藤井寅吉氏が彫り上げた。当時45歳である。図1の写真は地蔵尊が彫られた明治43年の前年の情景を現している。右後方に国宝の大垣城が写っている。貴重な写真である。米軍の無差別空襲がなければ、国宝の大垣城も燃えることはなかった。戦争は人間を死鬼衆に変える。戦争の原因は、全て人間の欲から生まれる。
当時はまだ若かった石寅の叔母さんが、「大垣空襲当時、お堀(当時はまだお堀があった)の壁から首を出して、目の前で自分の家が燃えていくのをなす術もなく見ていて、情けなかった」と回想されていた。非戦闘員や庶民の家屋に焼夷弾を落とし、非戦闘員を殺し、家屋を焼き尽くすのは戦争犯罪である。戦勝国のアメリカが、その罪の問われることはなかった。戦争になれば、戦争犯罪の区別などの綺麗ごとなどは知ったことではない状況に陥る。そういう歴史を見据えて、今後の日本の歩むべき道を考えたい。サヨクの妄言に迷わされては国が滅ぶ。
谷汲山観世音菩薩像
室村町四丁目地蔵菩薩像が「引退」されて、大垣空襲の生き証人(生き佛?)は、大垣市内では、大悲禅寺の谷汲山観世音菩薩像だけになってしまった。あとは常盤神社の神殿前の狛犬と獅子だけである。寂しい限りである。歴史の証拠は我々人類の戒めとして保存せねばならないと思う。大悲禅寺は大垣城の鬼門の方角の護り寺である。
2017年8月14日、改めて谷汲山観世音菩薩像を撮影した。谷汲山観世音様のお顔を望遠レンズで、遠方より水平に近い角度で撮影して詳細に見てみた。いつもの下から見上げて拝顔する時とは、印象の違う優しい素朴なお顔が現れた。初代藤井寅吉氏の心が表れているようだ。室村町四丁目地蔵菩薩尊のお顔と相通ずる趣がある。お体に焼夷弾の跡が残り痛々しい。大正15年建立で、御歳91歳、寅年生れである。石寅の初代藤井寅吉氏(寅年生)の製作である。
図1 明治42年当時の石寅
左から2人目、初代藤井寅吉(慶応2年生(1866))、
右から5人目、二代目藤井寅吉(藤井惣兵衛 明治35年生)
右後ろに国宝の大垣城(昭和20年の大垣空襲で焼失)が写っている貴重な写真。
その横は濃飛護国神社
図2 106年後の石寅で図1の写真と同じ方向から撮影
図3 大悲禅院(大垣市寺内町)
図4 大悲禅院の谷汲山観世音像 (下から見上げて)
図5 大悲禅院の谷汲山観世音像 (望遠レンズで)
CANON 100-400mm f4.5 IS Ⅱ
お体に焼夷弾の跡が残り痛々しい。
大正15年建立石寅の初代藤井寅吉氏(寅年生)の製作。
2017年8月14日撮影
2017-08-14
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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