l4_詞天王が詠う老計・死計 Feed

2017年8月12日 (土)

地蔵菩薩尊に込められた願い

 室村町四丁目地蔵菩薩像の移動後、石屋の石寅さんが、台上の撤去作業に取りかかった。床のコンクリートの除去までに丸1日を要して、夕方に撤去工事が完了した。撤去作業をすると、今まで地蔵尊像の水台と蝋燭台とに隠れていて、見えなかった土台前面に彫られた文字が出てきた。そこに寄進者の名や願文の文字が現れた。その文字が万葉仮名で読めそうで読めないので、2016年4月11日、元大垣市史編纂室室長の清水進先生に解読をお願いしたら、下記のように解読された。お地蔵さん建立当時の暗い社会情勢から、建立した人達の願いが推察できる。

 

日ハく連天           日は暮れて

月いてぬやミちを者       月出でぬ闇路をは

てらしたまへ流         照らしたまえる

御佛□那            御佛かな

        遊行             遊行

 

 この和歌を詠った遊行(ゆぎょう)とは、布教や修行のために各地を巡り歩いた仏教の僧侶を意味する。空海、行基、空也、一遍などの僧がその典型的な例である。遊行は「少欲知足」を主旨とし「解脱」を求めた。過去の有名な僧侶の遊行先には数多くの伝説などが存在する。また当時の僧侶自身が知識人としての位置付けであるため、寺の建立、食文化の普及、農作物の普及、仏教の伝教など地域文化に数多くの影響を与えた。

 

和歌に込められた祈り

 日光菩薩は、仏教における薬師如来の脇侍としての一尊であり、月光菩薩と共に薬師三尊を構成している菩薩である。日光遍照菩薩あるいは日光普照菩薩とも呼ばれ、薬師仏の左脇に侍する。『薬師経』に依れば、日光菩薩は、一千もの光明を発することによって広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされる。

 月光菩薩は、仏教における菩薩の一尊。日光菩薩と共に薬師如来の脇侍を務める。月光菩薩は、月の光を象徴する菩薩であり、日光菩薩と一緒に、薬師如来の教説を守る役割を果たしているとされる。

 地蔵菩薩は、その一千もの光明も月の光も照らさない無明の闇路(夜道とかけている)を照らしてくださるという信仰があった。この和歌は当時の暗い社会情勢を詠んで、お地蔵様に希望と祈りを託した和歌である。地蔵菩薩は観音菩薩が33の姿に変身する一つの姿でもある。その内容をこの和歌に読み込んでおり意味深い和歌である。室村町四丁目地蔵菩薩尊は、105年間も祈りを託されてこの地域を見守っていた。105年前の和歌であるが、誰しも経験する人生の闇地を象徴している。希望と祈りを授けてくれる象徴としての御仏の姿は、今でも通用する。人は絶望の中でも、信ずるものがあれば生きていける。

 

寄進者の意向を配慮

 花代を取り除くと、花台に隠れていた水台の寄進者の名前「伊東ひさ子」が現れた。この105年間、ずっと名を隠していた奇徳なお方である。本体の建立が明治43年8月で、水台の寄進が明治43年9月である。現在の室村町の住人で遺族を探したが、見当たらない。

 当初、この和歌を新地蔵菩薩像の台にも彫ることを計画した。しかし故意に蝋燭台で隠すように彫ってあるとしか思えないので、何かワケありであると考えた。このため知人の仏門関係者にも意見を聞いて、当面、和歌を彫る計画は中断した。

 

図1 土台に彫られた和歌

図2 土台の撤去作業を開始

図3 土台を見つめる石寅の藤井重雄社長

図4 撤去作業

図5 撤去作業

図6 土台を削岩機で取り外し

図7 2016年4月5日16:00 工事完了

 

2017-08-12

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

6

7

8

9

10

11

12

2017年8月11日 (金)

お地蔵様の佛事異動

 2016年3月24日、室村町四丁目地蔵尊の閉眼法要が終わり、日柄のよい4月5日9時より、お地蔵様の引越し工事が行われた。当初、お地蔵さんを台から降ろすとき崩れてしまうかもしれないと危惧していたが、手際よく無事に仕事が終った。台から降ろす前に、お地蔵さんの体にビニールテープを何重にも巻きつけてから、太いロープを巻いて、クレーンで釣り下げる段取りで、工事が進められた。体に幅広のビニールテープを巻きつけられているので、風化した石像が崩れることは無かった。業者はお地蔵さんの「おくり人」である。トラックに載せられた後、お地蔵さんはお墓や地蔵菩薩像の永代供養で保管されるお寺に運ばれていった。お体が壊されず、永代供養されるので安心した。

 

105年間の永年勤続

 この105年間、お地蔵さんは氷点下にも及ぶ気候、風雪、洪水に耐え、昭和20年の大垣空襲でのナパーム弾で真っ赤になりながらも耐え、お賽銭泥棒にも何回も遇いながら、室村町を通る通学児童と住民を見守っていた。人が出会うご縁を象徴する105年間であった。お地蔵様を載せたトラックが視界から去るとき手を合わせた。ご苦労様でした。合掌。

 

地蔵尊が見つめた歴史

 木と紙で出来た当時の日本の都市に、ナパーム弾を投下するのは死鬼衆の業である。非戦闘員への残酷な殺戮で、国際法違反である。当時、植民地の奪い合いで、遅れをとった米国が日本に仕掛けた戦争である。資源の無い日本に対して、石油等の資源封鎖することは、米国からの明白な戦争行為である。日本の戦いは防衛戦争であった。これはマッカーサーが戦後、議会で証言している。なぜかマスコミはこれを報道しない。植民地という金のなる木に欲の目が眩んだ米国の仕業であった。その子孫がグルーバル経済主義を受け継ぎ、1%の特権階級が99%の人民から99%の富を知能犯的に奪う遺伝子を受け継いだ。昔は列強諸国が、アジアの植民地から生血を吸い上げていたが、今は自国民から生血を吸っている。結果として欧米は、格差社会の病に犯され、昔の怨霊が難民、テロとして乗り移り欧米社会を襲っている。因果応報である。

 白人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。最終的に推定1,000万人いたインディアンは直接・間接虐殺により実に95%が抹殺された。米国は先住民の950万人のインディアンを虐殺した。米国はフィリピンの植民地政策で現地人を61万人虐殺した。英国はインド植民地政策でインド人の2,000万人を餓死させた。その掠め取った富で、英国は大英帝国となった。英国はアヘンを中国人に売りつけ、因縁をつけてアヘン戦争を起こし、中国の領土を割愛した。そのニュースが幕末の日本の知識層に衝撃として伝わり、桜田門外の変、幕末争乱、明治維新、富国強兵策へとつながっていく。

 すべては白人の強欲さに起因する。白人の有色人蔑視は、白人だけが神から祝福された人間で、有色人種は人間ではないとの妄信からの行動である。当時のローマ法王でも「キリスト教に帰依しない原住民は人ではない」と言っている。その免罪符があるから残虐な殺略行為を平然と行えた。人は宗教で死鬼衆となる。

 

戦いを嫌う教え

 世界の三大宗教で、戦争を嫌う教えは仏教が突出している。また唯一排他的な考えが薄い教えである。「足るを知る」、「利他の心」、「全て受け容れる」は仏教の教えの象徴の言葉である。お地蔵様は、閻魔大王の前で当人が生前の善行を弁護する。またお地蔵様が地獄界に転勤になれば、閻魔大王に変身する。それゆえ、弁護人と裁判官が同じであるので、救済されるという地蔵菩薩信仰が生まれた。お地蔵様に手を合わせることでお地蔵様とご縁ができるとの信仰が広まった。お地蔵様は人を差別しない。

 

図1 雪が積もった冬の日 2014年12月18日

図2 お地蔵さんのお体に保護用のビニールテープを巻きつける

   2016年4月5日09:02

図3 お地蔵さんの搬出作業を見守る町内関係者

図4 慎重にクレーンで持ち上げる

図5 去っていくお地蔵様 2016年4月5日09:21 

 

2017-08-11

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

1

2

3

4

5

2017年8月 8日 (火)

室村町四丁目地蔵菩薩尊の閉眼法要

 2016年3月24日10時、室村町四丁目地蔵菩薩像(明治43年(1910)建立)の改建のため閉眼法要が行われた。昨年、このお地蔵さんを守っていた大倉さんが亡くなられた。その遺族の大倉家と山田家が、戦火も浴び風雪にも耐えて傷んだお地蔵さんを全面的再建として寄進していただけることになった。

 

室村町四丁目地蔵尊建立の経緯

 明治43年は日韓併合があり、その前年に伊藤博文元首相が暗殺され、世情が不安定で不幸な事件も数多くあった時代である。その年に鐘紡が、社員と地区の平安と幸福を祈願してこの地蔵菩薩像を建立した。当時は地区の公民館(同志館)前の広い境内に、この地蔵菩薩像が安置されていた。

 この地蔵菩薩像の功徳は、室村町を襲った大垣空襲に顕われた。昭和20年(1945年)7月29日夜半、米軍B-29爆撃機90機による無差別殺戮爆撃で、100ポンド焼夷弾3,000発、4ポンド焼夷弾17,000発が投下され、罹災戸数は市街地の約6割にも及ぶ4,900戸、罹災人口30,000人、死者50人、重軽傷者100余人の惨事となり大垣市街地の大半は焼失した。大垣城(国宝)や(大垣別院)開闡寺なども焼失し、建物等は僅かに大垣駅などが残ったに過ぎない。室村町も火の海の灼熱地獄となり、地蔵菩薩像の土台石垣と御身体が真赤になりながらも(焼夷弾の油を浴びて)、立ち続けてこの地域を見守り続けたという。火災から逃げまどう中で、灼熱の炎で真赤になっても立ち続けるお地蔵様のお姿が眼に写りこみ上げてくるものがあったと元自治会役員(当時9歳)が回想する(歴代自治会役員の証言、『通史編近現代』大垣市編による)。

 その時の炎で焼かれた痕跡が残り、石衣も一部が剥がれ落ちて痛々しい。戦後から今まで、この地蔵菩薩像は、本地域在住者の幸福と安全を祈願し、町内を通学で歩む児童・生徒の健やかな成長と交通安全を願い、優しいお顔で見守っていて頂いていた。

 

地蔵菩薩像の生老病死

 お地蔵さんの像にも命があり生老病死がある。105年が経過し、戦災で傷んだお体を晒したままにするのは忍びない。お体は仮に姿で、そのご精魂は不滅であり、新しいお体にご精魂が移るのが自然である。戦争の証人が消えるのは残念だが、お地蔵様のことを思えばそのほうが良い。それは今回のお墓の改建で認識した智慧で、更に今回の地蔵菩薩像の改建でその思いを新たにした。当初、地蔵尊に屋根を付ける案も見積もったが、建屋としての法規制もあり、借地の件や建築許可等の問題で足踏みとなっていた。今回、お地蔵さんが傷んだ真因を考える機会となった。

 

地蔵尊を再撮影

 今回の閉眼法要を機に、地蔵尊の写真を撮り直した。それを見てこの数年での石の劣化が顕著であることに気がついた。今回、書の撮影のために購入したCCDフルサイズの一眼レフに100~400mmF4.5、70~200mmF2.8望遠レンズを装着して、強い陰影がつかないように天候を見ながら撮影したため、今まであまり気にならなかったひび割れの酷さが、写真上で鮮明に浮かび上がった。お地蔵さんの首の前掛けを取り替えたため、前掛けで隠れていた傷みと変色状況が目に付いた。それは50年前のナパーム弾の痕跡であろう。地蔵尊は戦争の残酷さの証人として存在しておられた。その証を通り過ぎる人たちが気づかないのに、寂しさを感じていたはずだ。

 お地蔵さんの後姿も含めて熟視して、改めて戦争の禍を感じた。戦争になった真因を見極めないと、平和惚けの空論反戦論者になってしまう。EUに押し寄せる難民の問題も、植民地政策、グローバル経済主義の展開で中東・アフリカの人民を搾取した咎が、ブラーメンのように欧州に返ってきているだけである。だれが戦争で儲けているかの真因を見極めないと、問題は解決しない。

  2017年8月7日「磨墨智 435b.ことな親を鞭打て」の最後で記載したお地蔵さんは、上記の地蔵尊のことです。

 図1 2013年6月撮影               

図2 2016年4月3日撮影

図3 背面の衣の傷みがはなはだしい。また焼け焦げた跡が生々しい。

図4 地蔵菩薩尊の横を通学路とする児童達

   雨の日も風の日も児童約200名の通学を見守る(2013年6月)

図5、6 閉眼法要 2016年3月24日10時

 

2017-08-08

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

12013

2039a2029

3039a1914

4dsc00142

59l4a8614

69l4a8621

2017年8月 5日 (土)

増長天の教え

 静の広目天に対して、増長天は動の佛として造られている。増長天は、四天王の一体で、南方を護る守護神として造像される場合が多い。仏堂ではご本尊に向かって左手前に安置するのが原則である。その姿には様々な表現があり、日本では一般に、革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。

 佛の世界も、この世の中が全て善人であるとは定めていない。襲ってくる邪悪の存在も認め、それからご本尊の佛を守る四天王が考えられた。非武装中立などこの世にはありえない。あの世では存在するかもしれないが、此岸では自分の身は自分で守らねば、生きていけない。「自分の城は自分で守れ(石田退三)」。一番恐ろしい敵は、己の怠慢心、傲慢心である。己を滅ぼすのは己である。

 

 170年ぶりの中門の再興というご縁、高野山開山1200年という節目、佛師の技が最高に上り詰めたときに四天王造佛を依頼されたというご縁、年齢的なご縁(10年早くても、遅くても縁が結ばない)、全ての条件が整って松本明慶先生が造佛できるご縁となった。私もその縁の一端に接するご縁を頂いたことに感謝している。この世は全て縁起で回っていることを確認した四天王にまつわるご縁である。

 2015年10月8日、三度目の撮影でベストの写真ができた。何事も三度くらいの試行は必要である。

 

2017-08-05

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

仏像の著作権は松本明慶師にあります。

Photo_3

2017年8月 4日 (金)

書天王の教え

 高野山中門に立つ四天王像は、邪悪が聖地へ侵入するのを防ぐ守り佛である。その門をくぐると、上から睨む四天王の目に己の邪心を見透かされそうである。霊界入山前に、身体検査として睨んでもらうのも一修行である。自分の魂という聖地に入り込もうとする邪鬼を、四天王の目で精査しよう。

 四方向の一角を守る広目天は筆と巻物を持ち、入門するものを睨む。私は広目天を「書天王」と勝手に呼んでいる。人は書くことで、刀以上の武器を手に入れる。書かなければ身に付かない、覚えられない、人に伝えられない。筆で一文字一文字を写経として書いていくことで、般若心経が皮膚を通して体に沁み込んでいくのを感じる。腕力なき人でも、文書は自分を守り攻める武器となる。広い目で古今東西の世界を見て、人心物事の本質を見極める。その力が生きていく能力となる。

 動の姿で槍を持ち南方を護る増長天の守護神に対して、広目天は巻物(書類)で西方を護る守護神として造像されることが多い。仏堂内では、ご本尊に向かって左後方に安置するのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。筆と巻物を持った姿で作られる。

 

図1 松本明慶先生作  広目天  高野山  2015年10月8日撮影

 

2017-08-04

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

仏像の著作権は松本明慶師にあります。

Photo

2017年7月29日 (土)

地蔵菩薩尊の慈愛

 私は地蔵尊が男性の仏さまだと思っていたが、違っていた。本来「仏さま」に性別はない。お釈迦様の入滅後、弟子達が表した教典の教え(仏性)を、概念として表現したものが「仏」であり、それを具体的に形に表したものが「仏像」である。「菩薩」とは、悟りを開くべく修行の道を歩いている仏の姿で、お釈迦様の若い頃の修行の姿を現している。「菩薩」とは、母性の悲愛、慈愛、母の優しさを現している。観世音菩薩や地蔵菩薩は、「母性」を現す佛様なので女性として扱われる。子安観音菩薩や子安地蔵菩薩のように幼子を抱いた仏像として表現される例が多い。

 それに対して「如来」はお釈迦様が悟りを開いた後の姿で、慈愛、父親の厳しさを表している。奈良の大仏は毘盧遮那仏=大日如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来で、共に性別はないが、上記のように如来は「父性」を表しているため、男性的な表現が一般的である。

 ちなみに、インド仏教から組み込まれた「天」には性別があり、帝釈天、梵天、四天王、十二神将、金剛力士などは男神。吉祥天、弁財天、技芸天、鬼子母神などは女神となる。

ピエタ

 慈愛とはラテン語でpietaである。ピエタはミケランジェロが終生、追い求めたテーマでもある。宗教上での慈愛は、宗教派を問わず、普遍的な人間性のテーマでもある。理不尽な理由で、我が子キリストを殺されたマリアができることは、黙って慈愛の目を差し向けることだけである。それは目の前で、無差別爆撃から逃げまどい、焼死する庶民を見つめた地蔵尊と同じである。この慈愛は無償の無限の愛である。

「慈」とは「心」と「茲」から成る。「茲」は、「増える(子を増やして育てる)」=「愛」と「心」で「母」の意味を持つ。「慈」の反対語は「厳」である。旧字体は「嚴」で、冠の「□□」と「嚴」の下部(音)から構成される。「□□」は、「厳しく辻褄を合わせる」の意味で、「父」の意味を持つ。自然界は陰陽で出来ている。優しい母がいて、その背後に厳しい父がいて子供は育つ。

ミケランジェロ作のピエタ像

 バチカン大聖堂のミケランジェロ作のピエタ像には、私が定年退職記念にローマ旅行した時(2010年11月10日)に出会い、衝撃を受けた彫刻であった。次元の違う彫刻に遭遇したような思いである。10日間のローマ滞在中、3回もこのピエタ像を見るためバチカンを訪れるほど引きつけられるものがあった。本物は10m先の防弾ガラス越しでしか鑑賞できないが、宗派を超越してキリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も世界各地から訪れた老若男女が長時間、ピエタ像を見つめていた。宗派を超越した慈愛の姿であった。

 後で隣接したバチカン美術館に、この精巧なレプリカが展示してあるのを発見して、至近距離1mから長時間、お顔を拝ませて頂いたのは幸いであった。同じレプリカが岐阜県立美術館に設置されているが、バチカン大聖堂に比べると周りの雰囲気が明るすぎて荘厳でないので、なにか違った作品に見えてしまうのが残念だ。

 

図1、2 ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂) 2010年11月10日 著者撮影 

     見学者用柵から10m先に防弾ガラスで覆われて安置

 

2017-07-29

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

Photo_2

Photo_3

2017年7月27日 (木)

ご先祖様人質作戦

 津軽藩は、ご先祖を人質にして統治するというユニークな戦略でこの地を治めた。なかなかに知恵者の所業である。こういう例は他では皆無である。世界でも例がない所業である。

 津軽藩は藩内の曹洞宗の33ものお寺を、弘前城下町の一カ所に集めた。それが新寺町寺院街(図1、図2-詳細)である。全国でも、これだけの曹洞宗のお寺が集まった地区はない。この目的は、藩内の家臣の菩提寺を弘前市内に集めて、そのご先祖様が入ったお墓を人質にして、謀反を防ぐことにあった。当時、信仰が厚く、ご先祖を大事にすることが当たり前であったことが前提の戦術である。今の時代や他の国では、成立しない戦術である。それがどれほど不幸かをわからないほど、現代人は不幸の鬼に取りつかれている。ご先祖あっての自分である。

 

昔と比べて、現代の我々は本当に人間としての進化を遂げたのだろうかと考えてしまう。昔のようにご先祖を敬うのではなく、拝金主義者となって、グローバル経済という美しい名の御旗の元、人の不幸を顧みず、自分だけの幸せを願い、利己主義の鬼のような考えで、財の総取りを目指し動いている。その結果が移民問題、貧富の差の拡大、テロの横行、政治経済社会の腐敗である。

 

2017-07-27

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

1039a28431

2039a27691

 

2017年7月21日 (金)

「自分史」で老計・死計を視える化

 図1は還暦の時にまとめた「自分史」である。「自分史」の中で、60歳から95歳までの計画表は「老計・死計の設計図」である。この表を仏壇のある座敷に掲示して、この5年ほど、毎日眺めていた。今は別の部屋(増築した書庫)に移して、毎日眺めている。眺めるほどに、人生を考えさせられる。

「自分史」の内容

 「自分史」では、高校卒業から還暦までの実績を、そして95歳までの計画をA1サイズにまとめた。横の目盛りに年号、年齢をとり、縦の項目に社会の事件、会社での部署歴、職位歴、取得資格歴、業務内容、著作、師との出会い、IT機器歴、受けた研修歴、旅行歴、体調状況、車歴、住まい歴を並べた。入手した美術品や思い出の写真を貼り付けて表現した。人生を1枚の表にすると、自分の足跡が「視える化」され、今後の自分のやるべきことが見えてくる。私の昔の部下や友人にも本図を見せて、自分の将来のために、今からこのような図表を作成することを勧めている。

人生を俯瞰

 人生95年を1日24時間に換算して人生を俯瞰すると、

60歳はまだ15時で、終業時刻の17時までまだ時間がある。

65歳は、これから残業時間で、まだ一仕事ができる時間である。

75歳は、19時でこれから自分だけの時間が持てる黄金の時間である。

85歳で深夜に近く、仕事をしながら就寝の準備をする時間である。

人生を95年で計算すると、やれること多々あり目移りするほどである。

人生の視える化

 現在、国家試験に挑戦中で、その受験勉強の方法として過去問を何度も解いている。その対策として、覚えるべき項目をマトリックスにして「視える化」をして、その記憶の穴埋め作業をしている。同じ問題を何度も間違えては悔しい思いをして、記憶の再確認をすることで課題を覚えている。そのマトリックスと自分史の表が重なり合う。人生でも同じような間違いを何度も繰り返し、痛い目を遭いながら少しずつ人間としての成長をしてきたことが自分史に刻まれている。人生とは、佛様からの合格通知をもらうための受験戦争なのだ。その結果を、自分で自分史に書き込んでいる。足跡を「視える化」することは、人生の反省となり、次の人生の一歩を踏み出すための学びとなる。自分の成長が完成したら、それで人生が終わりである。それでは面白くない。未完成で終わることを前提に、少しでも成長をして、その継続中で倒れたい。

 受験科目の項目別過去問の取り組み履歴を自分史と重ねると、自分が間違った過去の足跡が、自分の成長の過程として見えてくる。人は間違わなければ成長しない。自転車の習得でも、できるだけ軽微な転び方を多くして、自転車に乗れるようになる。痛い目に遭ってどれだけ学べるかが、人生である。

人格のレベル

 人生で人間として習得すべき項目をマトリックスにしたとき、どれだけの穴を埋めることができるか、それが人格のレベルである。フランクリンは13項目の守るべき徳目を毎日1項目ずつチェックして、それを守るように繰り返し反省・自律していたという。受験勉強でも、自分の穴の開いた記憶箇所を一つ一つ根気よく埋めていく、しばらく経つと前に埋めたはずの場所に穴が開いていることに気が付き、慌ててその穴を再度埋めていく。その繰り返しが受験勉強であり、自分の持つ器の穴を辛抱強く埋めていく作業が人生修行である。自分はその穴の開いた人生の器で、巡り合ったご縁をすくうのが、人生の旅である。いくら良きご縁があっても穴が開いていればこぼれてしまう。できるだけ穴の少ないのが理想ではあるが、到底かなわない夢ではある。その穴の開いた器でどれだけすくえるかが、問われる

自分の老いの発見

 この還暦後の受験勉強で得た最大の学びは、自分の老いの発見である。昔はすぐに覚えられたことがなかなか覚えられない。脳の劣化、目の劣化、連続で長時間机に向かう体力が喪失しているという冷酷な現実である。いつまでも若い時のようには行かないことを痛感させられた佛様からの通告でもあった。

師の遍歴

 自分史を振り返ると、師と仰いだ先生方の履歴が一目瞭然である。誰を師として目指したかを振り返ると、自分の成長が分かる。自分の成長は、師の後ろ姿を追っての人生である。人生は師を探す旅の歩みと言える。当初、師と信じていた人が、単なる水先案内人であったこともある。人生の悩み事で相談に行っても、「今忙しい」とかで逃げられると、その師としての信頼が一挙に消失する。戦争のとき助けてくれない国が味方ではないように、自分の人生の修羅場の時、相談に乗ってくれない人は、師ではない。師とは、月も照らさぬ夜道で、行先を照らしてくれる灯台のような存在である。その灯台が、近寄ってみたらカゲロウであったときの怒りは大きい。そんな痛い学びもした60年の歩みが「自分史」に刻まれている。人生は師を求めての旅である。本物の師は3年をかけてでも探すべきだ。求めない人に、師との巡り会いはない。

 

図1 自分史

 

2017-07-21

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

P1090013

2017年7月18日 (火)

人生は千曲がりの山道(改定)

人生とは、千曲がりの山道を、頂上を目指して真っ直ぐに登るが如し。

 高い山ほど、真っ直ぐな道はなく、千曲がりも万曲がりにも道中は紆余曲折である。その分だけ、大きな経験という財産が手に入る。時には下り坂のときもある、誰も見ていない谷道を一人歩くときもある。誰も見ていなくても、佛様が見ている、己が見ている、お天道様が見ている。己の歩いた軌跡から10年後にその因果が回ってくる。その時目指すのは頂上で、谷ではない。頂上が見えていなくてもいい。その方向が頂上であれば、曲がりながらもその方向に真っ直ぐに歩めばよい。

瀧の上に水現れて落ちにけり    後藤夜半(神戸の俳人 ホトトギス派)

 瀧の水を人生に例え、瀧の上に水が現れては、上から落ちて瀧つぼに消えていく。人生のようにアッという間である。永い自然の時間の中では、人間が生まれて死ぬまでは、僅かな時間でしかない。瀧の水を見つめていると、人生を感じる。その瀧も四季の変化がある。自分の人生にも四季がある。それに合わせて生きないと自然の理に反する。冬になれば、必ず来る春に向けて、下へ下へと根を伸ばせ、である。

人生道千曲がりでのご縁

 馬場恵峰師には2006年に出会い、箕面の滝道の途中に立地した館で、約7年間(途中2年休止)、毎月1回、人生道と書道の教えを受けた。2005年末、創業以来65年続いた企業が合併で消滅した。30年間、私を育ててくれた会社である。名目は対等合併であったが実質は吸収合併で、会社風土が下品な状況に侵食された。その後、逆縁の菩薩の日々が続き、合併により想定外の三河から奈良への転勤となり、恵峰先生とのご縁が生まれた。逆縁の菩薩に出会わなければ、出会えなかった師とのご縁である。新しいご縁は、縁ある会社の死から生まれた。奈良に転居して、新しい研修があることを知り、住まいから1時間の距離ならと受講を申し込んだ。三河からの転居がなければ、生まれなかったご縁である。ご縁も意図をもって出かけないと、手には入らない。この逆縁の菩薩の出会いがあったため、5年後の定年延長をせず、大垣の地で新しい人生を開くご縁を手に入れた。千曲がりの道でなければ、ご縁の出会いもなく学びもなく、真っ直ぐに冥土行きである。まるで新幹線で、途中の風光明媚なご縁をすっ飛ばしていくが如し。早く行ってもゆっくりと行っても、到着する場所は死で、同じである。

 

図1、2 箕面の瀧道   登るためには下らないといけない道もある

(箕面の瀧を目指し、この山道を早朝、月に1回、7年間歩いた 2006年~2012年)

図3 箕面の瀧 2011年3月27日    

図4 箕面の瀧 2010年10月27日

 

2017-07-18

久志能幾研究所  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

Photo_6

Photo_7

Photo_8

Photo_9

カテゴリー「詞天王が詠う老計・死計」を追加

ご先祖探し・お墓つくりで、死天王の掌上で踊っている自分を発見した。踊りにも終わりがある。自分の残り時間を考えると、日暮れて道遠しである。死を見据えて老計・死計を立てて、一本道を歩む決意を新たにした。よく死ぬとは良く生きること。死を見つめてこそ、生が鮮明になる。

2017-07-18

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

20170718