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2017年8月22日 (火)

自然との対話を大切に

 太志塾(大島修冶塾長 2014年10月5日)で、演題「自分を知る事の大切さ」との馬場恵峰先生のお話をまとめた。

 初日(10月4日)の太志塾の講義が終ったあと、恵峰先生が身内の仲間に意味深長に、「明日の講義は年功のある話を聞かせてあげる」と言われた。

 「理屈は通る話だが、ガンガン、バリバリと熱い話を一方的に頭に押し込んでも、相手には受け入れてもらえない。体にビタミンCがいいからと大量に摂っても一定以上は排出されるだけ。それが自然の体の摂理である。頭に入れる情報も同じで、まずその器を大きくしないと、頭に入っていかない。単に消化不良を起こすだけである。講演会も同じで、もっと自然体で優しく話さないと頭に入らないし、ためにならない」が恵峰先生の言いたいことである。自然を愛でて余裕ある生き方をしないと、長生きも良き経営も出来ない。

 人から尊敬される人間になるためには、まず自分が自分を育てないといけない。自分が自分を大事にしないと長生きはできない。恵峰先生が88歳の道を歩いているには、歩くことができるようにした心がけのワケがある。がむしゃらに高度成長で驀進しても、どこかで躓いてしまう。そこから先生は講義の冒頭で「すすき」を持って話すことを思いつかれたようだ。

 

「若いね」

 先生に言わせると、初日の講話を担当された百戦錬磨の講師達は「若いね」であった。88歳の年長者から見た年功の差は、如何ともしがたい大きな差がある。88歳にならないと見えない世界がある。先生の講義を聞いて、他の若い(といっても60歳前後)講師の話との大きな差を感じ、年功と言う財産を羨ましく感じた。もっともそういう年功を感じさせる人生の達人(老人)は、日本はおろか中国でも少ないのが現実である。そういう恵峰先生とご縁が出来たのもありがたいこと。日本では、老人の「老」はマイナスのイメージがあるが、「老」とは中国での本来の意味はプラスのイメージの言葉である。

 自分を深く知らない限り、親から頂いた命は全うできない。生きているのではない、活かされているのだ。それに感謝して人生を全うしたいもの。

 前日の深夜の色紙書きを終え、朝を覚ますと窓の外にすすきが揺れていた。

   太志塾またおいでよとすすき揺れ  恵峰

 その時にならないと頭が回らないのでは、いくら理屈をこね回しても儲からない。ゆかしく楽しく生きること。自然と対話する人間にならないと長生きができない。口先だけで利口なことを言っても人は付いてこない。己の足元を見ていく生きかたが大切である。

 

付加価値を生む環境

 今回(2014年10月)、日本人3名のノーベル賞を受賞したことで中国、韓国は知識層を中心に打ちひしがれているはずです。たとえどんなに経済成長を続け、強大な軍事力を誇っても、その国が世界中の尊敬を集めることはありません。重要なのは、どれだけ人類史上に残す知的財産や文化的財産、すなわち普遍的価値を生み出したかに尽きます。また、それによってのみ、国民に真の自信と誇りが備わるのです。

 ノーベル賞の受賞者が輩出する国には2つの条件があります。

 第一に、幼年期から成長していく過程で、身近に美しいものがなければなりません。豊かな自然や優れた芸術、文学に触れて美的感受性を養うことが必要です。数学や物理学などのサイエンにとって、美的感受性は知能指数や偏差値よりも大事です。

 日本には緑の山々や、繊細な四季の移り変わりがあります。それ自体が世界的にも大変珍しい。加えて素晴らしい文学、絵画、彫刻も多数存在し、美に触れる機会にも恵まれています。

 第二に、精神性を尊ぶ風土も不可欠です。要するに、金儲けや実用性だけを追及せず、役に立たないと思えても精神性の高いものには敬意を払う土壌が肝要と言えます。『万葉集』にしても、日本では1400年も前から一般庶民が腹の足しにもならない歌を詠んでいる。そこに価値を生み出すことが何よりも大切です。多くの科学分野では、100年後に芽が出るか、100年後に実用化するかどうか分からないことも研究しています。それを“単なる無駄”と考えてしまったら人類に進歩はないんですね。

 中国や韓国にも有能な人材はたくさんいますが、残念ながら彼らの多くは金融関係や弁護士、医者といった“金になる”仕事に就いたり、海外へと流失していく。利益だけを優先すると“無駄な”科学に人材が向わなくなるわけです。

      数学者・藤原正彦氏(『週刊新潮』2014年10月23日号)

 

 これは経営にも当てはまる。単に金儲けだけのグローバル経済主義は、1%の人だけの幸せを追求するが、99%の人たちを不幸に陥れる邪悪な思想である。なんのために経営をするのか、自然をめでる余裕がない経営者に、良い経営も長生きも出来ないと恵峰先生はすすきを例に、塾生を諭している。

 

わかっているであろうか

 忘れてはならぬものは     恩義

 捨ててはならぬものは     義気人情

 与えなければならないのは   人情

 繰り返してはならないものは  過ち

 通してはならないものは    我意

 笑ってはいけないものは    人の失敗

 

 人から聞いた話も咀嚼をして自分のものにしてから、部下に話をしないと相手は聴いてくれない。自分のものにしてから、自分の我意を通していくこと。

 

「いのち」とは「胃脳血」

 胃  食材

 脳  考え

 血  全身を巡る

 

 先祖、親、師、友のご恩があって今の自分がある。夢夢「自分が」ではないと思うべし。馬鹿になることが大切。利巧ぶるからうまく行かない。馬鹿にならないと100mの巻物は書けない。馬鹿にならないと中国に230回も行けない。近所の暇人が言う「どげんか用があって中国に行くばってん?」 用があるから中国に行くのではない、用を作りに行くのだ。そこから新しいご縁が始まる。馬鹿になって己の道を精進しないと、年老いてから後悔する。人の馬鹿を笑っている者が、最期に笑われる本当の馬鹿になる。

 自分の人生を謳歌するのが仕事ではない。人として後に続く子孫のために仕事をするのだ。「ひと」とは「霊」が「止」まると書く。縁あって人間に生まれたのだ。豚に生まれなかった幸せを考えよう。

 

図1 講演される馬場恵峰先生   2014年10月5日

 

2017-08-22

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年8月21日 (月)

正義は人を鬼にする

 正義を通すと人は鬼にならざるを得ない。お互いが相手の価値観を排除しあうから、戦いとなる。阿修羅ごとき戦う神となると、相手には悪魔のごとき所業を犯すのが常である。お互いに価値観を受け容れて許容する心が仏心である。全て受け容れるから海の如く大きな器ができる。佛教は神仏融合を含めて包容力があるから日本の「和」の精神にあって受け容れられた。一神教は、排他的な思想が濃いため不幸なご縁を作り出す。聖徳太子の憲法17条は和の精神である。

 自佗は時に随うて無窮なり。海の水を辞せざるは同事なり、是の故に能く水聚りて海となるなり。(修證義)

 

お釈迦様、法然上人の非戦

 お釈迦様は2500年前、自分が生まれ育った国を他国に滅ぼされる憂き目を受けている。その際、お釈迦様は他国の軍を前にして3回、座って止めようとした。しかし、4回目は止めることをせず、他国に攻め滅ぼされた。お釈迦様は、武力に対して、武力ではなく対話と行動で止めようとした。

 浄土宗を開いた法然上人は、幼少期に武士であった父親を敵対する者によって殺される経験をしている。父は死の直前に若き法然上人に対し、「敵を恨んではならない。これは前世における行いの報いなのだ。もし、おまえが恨み心をもったならば、その恨みは何世代にもわたって尽きることはないだろう。早く俗世を逃れ、出家して私の菩提を弔ってほしい」と遺した。それにより、法然上人は敵を討つことをやめ、自分や人々が救われる道を求めて、僧侶となった。法然上人は、報復の連鎖を繰り返すことをやめた。

 

幕末の騒乱

 1860年、安政の大獄では、幕府の体制を守り、開国して欧米の植民地侵略から日本を守るため井伊直弼公は鬼となり多くの志士を処罰した。それから幕末の殺伐たる争いが巻き起こった。お互いの思想に凝り固まった者同士の戦いの結末である。

 1868年、西郷隆盛軍は、江戸城明け渡しを求めて、100万人が住む街を焼き討ちすると脅して、勝海舟に降伏を迫った。どんな理由があれ、平和に暮らす民を焼き討ちするという発想が許せない。そこには大儀を掲げ、己の価値観が最高という驕りがある。そんな思想が、西南の役で意に反して、大将として担がれて西郷は非業の死を遂げる。西南の役を断固として鎮圧した大久保利通も、暗殺者により非業の死を遂げる。

 

現代の戦い

 太平洋戦争後のビルマでは、戦勝国の英国兵は現地人をモノ扱いして、人間とは認めていなかった。倉庫の食糧を盗むため侵入した現地人を英国兵が射殺した。英国兵は、動かない死体を足で蹴って「end」と表現したと、会田雄次氏はその著書のアーロン収容所で書いている。「dead」なら人間としてその対応しなければならないが、「end」だから、モノ扱いをすれば良いと考えているようだ。欧米人にとって、有色人種は人間ではない。価値観の隔離した動物扱いの存在である。

 1945年、米国は非戦闘員20万人を原爆で殺した。日本人が白人であれば、決して落とさなかった原爆である。意図せず己の手を女性子供の血に染めたトルーマン大統領は、その罪におののき「原爆が戦争の早期終結を招き、米国人を救った」という誤った言い訳の神話を広げて自分と米国人を洗脳した。

 1940年、ドイツ帝国は、アウシュビッツでユダヤ人を工場生産のように死を大量生産した。ヒットラーがユダヤ人の価値観を認めなかったからである。

 現代でも中共は、チベット弾圧を繰り返し、約120万人の人民を虐殺した。人口の約20%にも及ぶ。日本に換算すると2,000万人の民を殺したことになる。中共が建国以来、自国民の4,000万人を死に追いやったのは歴然たる史実である。共産党にとって、人民は労働力で人という価値を認めていない。

 1946年、ソ連のシベリア抑留では80万人の日本人が強制労働をさせられ、10万人が極寒の異国の土になったといわれる。共産党のソ連にとって、捕虜は人間とは思わず単なる労働力であった。国際法上でも違法であるが、その国際法の価値観を己の価値観に合わせて無視をした。

2 015年、パリISテロでは、ISは己の正義を信じてマシンガンの銃口を無実のキリスト教徒に向けた。宗教の価値観の違いを認めなかった結果である。

ビジネス戦争

 定年を迎えてから、今にして昔を振り返ると、なんと愚かな意地をはり社内での争いをしたことかと、反省のしきりである。全ては、お互いの価値観を認めず、己の自己主張をしたがために起きた争いである。まず相手の全てを受け入れて、それから対応を考えればよかったのに、との心境に至った。その悟りは少し遅かったようだが、気が付かずこの世を去るよりはましである。

 

2017-08-21

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2017年8月15日 (火)

おみくじは一回で

 私は占い好きで、以前は必ず年2回、お宮さんに初詣に出掛けて、それぞれでおみくじを引いていた。一回目は元旦に実家のある大垣の八幡宮大社で、もう一回は、1月初旬の熱田神宮である。でも最近、おみくじを2回引くとは、ご神託に不信感を抱くことと気がついた。とりもなおさず、おみくじの神様を信じていないことに。最初に大吉なら、もう一回出れば間違いないはずと思い、2回目を引いてしまう。最初が凶なら、今度こそは大吉をとの思いで引く。それでは何のためにおみくじを引くのか? まるでポーカ遊びである。最近は、この世に起こることは全て必然だ、と感じている。大吉が出るのも、大凶が出るのも必然だと。

 

過去果、現在果、未来果

 仏教用語に「過去果、現在果、未来果」という三世の言葉がある。今の結果は過去に幾多の連綿とした選択の結果である。今の行動・決断・考えが、未来の結果になるという意味である。おみくじはその結果の象徴です。その現在の状況をどう判断するかが問われているのだ。要は、その出た卦をどう認識するか、だ。

 

 今が好調でおみくじが「大吉」なら、その有り難さを感謝して、反省はないか、確認して進めとのお告げである。おみくじが「大凶」なら、自身の行動を反省する。このままだと大凶になるぞとのお告げ。

 今が不調でおみくじが「大吉」なら、自身の行動を反省して、自信を持って決断前進せよとのお告げなのだ。おみくじが「大凶」なら、神様はお見通しなので、ご指示に従って行動せよとのお告げだ。

 神様も知恵者でいたずら好きです。最初が「大凶」で、もう一回おみくじを引く不届き者には、「大吉」を提示して安心させるかもしれない。そして本人は油断して、危機に陥る。でもそれは失敗の練習をさせて、成功への階段を一段上がる練習をさせるとの神様の深慮遠謀なのだ。神様株式会社は各出先で、品質保証をした商品「おみくじ」を配付している。2回もおみくじを引くのは、神様に不敬もはなはだしい。一回目で出たご神託を謙虚に受け止め、それに対して、この一年、どうするかが神様から問われている。神様は助けてはくれない。見守るだけだ。助けるのは自分自身なのだ。

 

組織としてのおみくじ

 日頃のリーダーの行動に問われる問題です。1回、2回とある事象が起こり、「凶」との信号が出るのだが、それを「吉」との都合のいいデータが出るまで、その信号を棚上げすることがよくある。都合のいいデータが出て、安心して「凶」のデータを忘れる。リーダーとして悪い情報は信じたくないのだ。そしてしばらくしてから組織が危機状態に陥る。まず謙虚に悪いデータを検討し、過剰でもいいから対策を考える。そうすれば、雪印乳業食中毒事件、三菱リコール隠し、タカタのエアバック事件は起こらなかった。

 

裸の王様

 社長の貴方は、良いデータだけを待っていませんか。それでは裸の王様である。そういうリーダーの元には「吉」のデータだけを報告する部下が集まる。そういう風に、部下を日頃の自分の言動で暗黙の教育したのだから。それこそ因果因縁である。そして、記者会見の場で、「凶」の報告が飛び出し、「その話は本当か?」と部下に聞く失態を見せるのだ。食中毒事件での雪印乳業社長のように。裸の王様を笑える人は幸せである。リーダーになれば、多かれ少なかれ、裸の王様になってしまう。そうならないことがいかに難しいか、それに気づくかどうかである。

 我々は、回りから多くの情報を「おみくじ」として受け取っている。それが己に対する上司、部下、同僚のからのお告げなのだ。自分の行動、部下の行動は正しいのか、間違っているのか、相手の些細な語調、しぐさから、それをおみくじ(情報)として、素直に受け取れる人が真のリーダーなのだ。

 

トヨタのおみくじ  前工程は神様  

 トヨタ生産方式の言葉として、「前工程は神様、後工程はお客様」がある。人のことより、自分ができることをお客様(後工程)のために全力を尽くせ、だ。自分の気づかない点を、指摘してくれる方が、神様なのだ。神様に対して、文句をいうのは不遜だ。自分のできることを精一杯する。それがお客様(後工程)に対する貢献となる。貢献に対するご褒美が、会社の利益、個人の給与なのだ。どうせ神様には逆らえない。そうやって、謙虚にカイゼンにカイゼンを重ねて、トヨタは勝ち組みになった。前工程(お客様)の要求が理不尽だ、横暴だ、無理だ、と言っていた会社が、負け組みになっていった。そしてそんな会社は、環境が悪い、時期が悪い、従業員が悪い、いや社長が悪いと、己のことは棚上げして言い訳だけを言う。そして市場から淘汰されていく。

 

天のおみくじ

 ダーウイン曰く「環境変化に対して最も素早く対応できた種だけが生き延びる」。日本にはもっと美しい言葉がある。「落葉一枚天下の秋を知る」。これもおみくじと同じだ。そのように解釈できる人が感性のある人である。環境変化こそが、社会からの「おみくじ」なのだ。神様(前工程)からの一言が「おみくじ」なのである。その一言にビジネスチャンスが埋まっている。その一言やささやきを聞き逃す人に、神様は冷淡である。運命の女神には前髪しかない。「おみくじ」が来ても、運命の女神の前髪を、一回目で掴まないと、通り過ぎた後では遅いのである。女神の後頭部ははげている。

神様代行に昇格

 今年(2003年)から、私は年初のおみくじを1回だけにした。今(2017年)は、おみくじを引かない。その年が「大吉」になるように、何をやるべきか、何を止めるかを年初に決めて、その年を驀進する。神様の代行を務めるつもりで働いている。

 

2017-08-15

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お金で智慧を買う

 お金を使って手に入れるのは智慧である。そのお金を使えるのが幸せである。お金を使えるのは、健康であることが前提である。その上で、体力も気力も夢もないと使えない。余命1年と宣告された病身では、お金は使えないし使う気にもなれない。お金を使える幸せを大事にしよう。そのうち使えなくなる日がやってくる。

 単にモノを買うのでは、お金を使ったことにならない。それは単に、お金がモノに変わっただけである。価値あるモノを売れば、同じ金額が返ってくる。安いものではそうは行かない。安もの買いの銭失いである。

 美味いものを食っても限度がある。立って半畳、寝て1畳、死ぬまで飲んでも1升、食べて丼1杯である。人間の体では知れたもの。それではお金を使い切れない。食べ過ぎ飲みすぎれば、病気になり、早死にである。

 

経験を買う

 お金を使うとは、体験への出費である。体験で智慧が湧く。それには時間も体力も必要だ。智慧を得うるための出費が、お金を使う行動である。学ぶ費用、師に会うための交通費、受講料、稀少価値の品の購入に智慧を費やす行動、出費が相当する。その過程で智慧を出す訓練が出来る。お金を賢く使うために、受け入れる器を大きくすることだ。貯めるばかりの人生は、小さな器の人生。入ってきたお金を世間に旅ださせて、そのおこぼれをあずかる気持ちで丁度よい。それを自分の所で止めて、貯めるからお金が腐ってくる。お金は生鮮食品である。気持ちよく旅出させてあげれば、お友達をつれて帰ってくる。目先に囚われて、出し渋りをすれば、相手も嫌気がさして去っていく。損をして得を取れである。

 高いものにはワケがある。高いものには創った人の魂がこもっている。お金を使うとは、自分の夢の実現のための投資行動である。20年後を夢見て、今の自分に投資をする。そのためには学びの器を大きくすること。学びに限度はない。学んで成長すれば、器も自然と大きくなる。不健康な器では、何も入らない。

 

智慧の披露

 学んで一杯になった器は、世間に披露しないといけない。日々、その舞台で自分の学んだ智慧が試される。会社での各場面が能舞台であり、仲間が観客である。果物屋の店頭が人生舞台で、来客がご祝儀である。そこでどんな演技をするのか、そこに自分の器に入れてある智慧が試される。商売では、その演技に失敗すると客は二度と来てはくれない。

 智慧は出し惜しみしてはダメである。どうせ持ってはあの世に行けない。智慧は出せば出すほど、自分にご褒美として帰ってくる。智慧を出す能力が磨かれる。

 

人生舞台で被る仮面

 人生では人が仮面を被って人生劇場の役者を演じている。ある人は教師を、ある人は警察官の仮面を被って演じている。その仮面をペルソナという。ペルソナとはラテン語で仮面と言う意味である。この語源でパーソナリティ(個性)と言う言葉が生まれた。個性とは、人が被る仮面のキャラクターである。人はその仮面を見て、その人の役割を期待する。その仮面を被ったら、その役割を演じなければ人の期待を裏切る「裏切り者」である。師の仮面をかぶったら、人よりも多く精進をして、お役に徹して舞台を演じねばならない。泥棒の仮面をかぶったら、真面目に泥棒をしなくてはなるまい。それが反面教師として、世の中に役立つ。ああいうことをしてはいけないのだと世間に教えるのだ。世の中が全て善人ばかりでは、世間の理に合わない。泥棒にも三分の理があるというように、統計解析的にも3σ(99.7%)外が三分である。その中にあって、危機意識を持って対処する。それでこそ、己の善が映える。

 

人生能舞台

 人生の舞台とは、幕が上がっている間だけが舞台ではない。幕が上がるまでの血みどろな練習時間、舞台の段を上がる時の挙動、舞台を下りるときの挙動も全て人生劇場の演技時間である。観客に見せる舞台での演技は、人生の一コマに過ぎない。一刻たりとも気を抜けない。観客は見ていなくても、神様仏様そして内なる己という仏が見つめている。

 一局を舞い、舞台を下りて初めて「人生織物」での横糸の一本が完成する。人生とはその連綿とした行動の積み重ねである。観客が見ている時だけが、舞台ではない。

 お盆に墓参りに行き、ご先祖様にこの1年間で己が舞った人生舞台の報告をする。それが胸を張ってできるかである。お墓参りもできないようでは、人生も終わりである。誰のお陰でこの世に生を受けたのか。手を合わせて、人生舞台でのお役を頂いたことに感謝をしよう。

 

2017-08-15

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2017年8月 2日 (水)

洗脳教育の恐怖

 少しずつ、言葉巧みに毒を頭の中に沁みこませて行く。新興宗教団体が行う信徒獲得の手段である。それに染まると、長期間に亘ってもその洗脳教育が解けない。オウム真理教のサリン事件から17年たっても、その洗脳が解けなかった信徒が2014年に逮捕された。その洗脳の恐ろしさが再認識された。子供の幼年期における親の教育の大事さと、ブラック企業での洗脳教育、新興宗教での洗脳教育の恐ろしさを対比して考えたい。

テレビでの洗脳教育

 日頃でもテレビの痴呆番組、グルメ番組、ファーストフード・医薬品の広告の氾濫で、知らず知らずに頭が洗脳され汚染されている。ポテトチップをつまみ清涼飲料水を飲みながら、テレビを見続けるとテレビ痴呆信徒にされる。それが認知症の予備軍となる。昼から刑事ドラマで、毎日人殺しのテレビドラマが氾濫している。これでは凶悪犯罪が頻発するのも当然である。くだらない芸能人のよろめきゴシップで、日本人の品格が落ちるのも故あること。無料でテレビが見えるのは、健康を無視した金儲けという企業の悪魔が裏に潜んでいる。タダほど高いものはない。

地域、国の洗脳教育

 米国の銃の乱射事件が起きると、立て続けに同じような事件が頻発するのも、洗脳教育と同じ作用がある。犯罪が頻発するハーレムに育った子供が、犯罪に走るのに抵抗がないのも、同じ洗脳教育である。2015年12月の韓国人の靖国神社爆弾事件も、韓国政府が50年間の反日教育をしてきた「成果」である。柔軟な脳の発達期に反日教育で洗脳すれば、畜生の仕業をしても、国中で賞賛の声が満ちる国と成り下がる。反面狂師として興味深い狂育成果物である。人は、数多く見た通り、教えられた通りの人間になる。良きことを多く見ればよき人生が、悪いことばかりに取り囲まれて育てば悪しき人生が創り出される。

墓石の汚れ

 墓石でも同じことが言える。一度染みこんだ鉄分は、高圧高温洗浄でもその汚れは落ちにくい。特に柔らかい石を墓石に使っていると、水が長年内部にしみこんでいるので、その汚れを落とすのは大変である。その水垢が落とすにはシュウ酸を入れた温水が必要となる。雨が降った後に水の染みこんだ墓石を見ていると、己の自我が確立していない状態で、洗脳教育を知らずに受けて地獄に堕ちる人たちの姿が墓石に重ねて見えてしまう

言葉の毒と佛様の言霊

 日々使っている言葉が人を傷つけ、自分自身を傷つける。自分が吐く言葉の影響を一番受けるのは自分である。言葉に含まれる何気ない小さな毒が、長年に亘って心に蓄積すると、毒薬をあおるような被害を受ける。母の励ましが子供を育て、子供の心を傷つける言葉が子供を殺す。言葉とは「こと魂」である。汚い言葉を吐く人、人を傷つける言葉を言う人とは、距離を置いたほうがよい。近づいてくる縁が全て善ではない。毒ある縁を避け、良き縁に接せるのが、佛の智慧であるし、佛縁を大事にする心である。

 

図1 雨の後で水を吸い込んだ墓石。

 石が柔らかいと水を吸う。寒冷地だと、吸い込んだ水分が凍結して、その繰り返しで墓石がボロボロになる。建立50年余にして傷みが目に付いてきたので、ご縁があった機に、吸水率の少ない石を選定して改建した。

 

2017-08-02

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2017年7月31日 (月)

人を支える土台

 人間とは、何なのかを考えるのが人間観で、何のために仕事をするかが、職業観で、己の存在とは何かを考えるのが宗教観である。その各々の価値観を明確にしない限り、高い人間性は育たない。人生を揺るがす激震にも耐える人格を育てるには、強靭な土台が必要である。

 いくら頭が良くても、その能力が何のために己に与えられたのかが分からないと、その能力を原爆製造やサリン製造、人殺し兵器を開発するのに使ったり、コンピュータウイルス作成に使ったりする。その天才的能力をゲームソフト作成で使い、未来を背負う若者の貴重な時間をゲームのような非生産的な時間浪費に走らせる。麻薬と同じで、何の付加価値を生まないゲームソフトで、業績の建て直しを計ろうとするソニーに未来はない。ソニーの創業精神が変質している。ソニーは既に50%以上が外資である同社は、既に日本企業ではなく、グローバル企業であり、どちらかと言えば米国の価値観をもった会社なのだ。欧米の拝金主義に染まると個人的には大金持ちが生まれても、社会全体にはプラスマイナスゼロの付加価値無き結果となる。それは所詮、マネーゲームである。

人間観

 この人間観の価値観が出来ていないと、夢のある人生は送れず、心は狭く気持ちはギスギスで思いやり欠如の人間が出来上がる。それで金が出来ても幸せであろうか。

職業観

 職業観が明確でないと、カネだけのために働き、金ができたら早くリタイヤしてのんびりと暮らそうという考えに陥る。そのための金儲けには手段を選ばず、人を押し退けてでも金儲けとの浅ましい行動となる。それが拝金主義・成果主義・グローバル経済主義である。

宗教観

 宗教観が明確でないと、どうせ人間は必ず死ぬのだから、自堕落な生き方を恥ずかしいと思わない。御天道様ご先祖様が見ているとう縛りがある生き様とは対極の姿である。人間としての価値観・生命観・死生観を与え、命の尊さを教えるのが宗教観である。どこの宗教でも目指す姿は同じである。己の命が大事なら、他人の命も同じく大事である。宗教によっては、異教徒は人ではないという時代もあったのが、人類の悲しい歴史である。

 

2017-07-31

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2017年7月25日 (火)

首を吊らんと分からん人ですか?

 某情報システム会社が、その会社としてあるまじき情報漏洩という不祥事を起こした。その原因には深刻な病巣を含んでいたので、私は再発防止を求めた。それに対して、「全幹部を集めて、再発防止の対策を協議しています。第一歩として社員教育を推進しており、次回にその結果を報告します」と承認者不明のお詫び書類と、矛盾に満ちた再発防止書を持参した。事後処置の一連のお粗末さに呆れていた私は、「報告していだく必要はない。どうするかは、あなたの会社の問題なのですから」と言い渡した。その言葉を鵜呑みにして安心したのか、その後、その会社から、その後の改善の経過報告は無い。また、その後も仕事ぶりに目に見えた改善も見られなかった。最近になって、過去に蒔いた悪い種があちこちで芽を出しつつあり、その火消しにおおわらわとなっている。

初期消火の失敗

 人間だから、仕事をすれば誰しもミスや間違いは起こす。そんなことは問題ではない。仕事を多くする人ほど、失敗を多くする。それ故、失敗は多くすれば良いと思う。要は、その不祥事に対して、いかに早く火を消し、再発防止をするかである。失敗を経験してそれを糧に人間は成長する。その失敗から、どれだけ多く学ぶかが問われている。お客さまが怒っている、という事実に対して、まず速やかに、お詫びと事後処理を講じる必要がある。問題を起こした相手先に対して、その対応を間違えると更にこじれる元となる。不祥事が起きたのなら、相手と状況に合わせてそれ相応の職位の人間が速やかに出向かないと、火に油を注ぐ結果となる。トラブルは人間の感性、感情の問題であり、実務上の被害は意外と低い。今回が正にそうであった。不祥事に対して謝りに来たのは、若いマネージャーだけであった。当社としては、過去の経緯と後処理のお粗末さもあり、何か侮られた気分となり、ますます私の心証を害し、問題がこじれてしまった。「当社や私は、そんな程度にしか見られていなかったのか。確かに相手にとって当社からよりも、儲かる大手取引先があるわい」と邪推をしてしまう。そう相手に思わせたら、思わせた方が悪い。そう思わせるような状況を過去の対応で作り出している。

 問題がこじれたまま、1カ月以上も経ってから、その上位職制の部長が謝りに来た。そのマネージャーの対応が問題になっているから、その上位職制が速やかに火を消しに出向かないと、問題は解決しない。これは再発防止と両輪をなす初期消火の鉄則である。しかし、問題がこじれてしまった時点で、責任は部長の上位職制に移行した。それは誰の問題か、である。問題になるのは、事故そのものではなく、当事者間の信頼関係の問題である。結果して、会社の誠意が疑われる問題に発展していった。

雪印乳業食中毒事件、タカタエアバック事故

 それと同じ経過でボヤが大火になったのが、2000年の雪印乳業食中毒事件である。食中毒被害事態は生死に関わる事態にはならなかったが、世間に対する信頼関係が破綻して、会社の信用は地に落ちた。社長の「私は寝てないんだ」との発言が、会社の存続が問われる事態に発展した。

 エアバック事故のタカタの問題でも、二代目重一郎社長が事故への認識が甘く経営破綻に至った。タカタは祖父にあたる武三氏が、1933年に彦根市で創業した。2代目の重一郎氏がシートベルトやエアバッグなどの新規事業に参入して業容を拡大した。高田家が事実上、株式の半数以上を保有して時価総額で2000億円以上に達していた。国内有数の富豪だった一族の資産もほぼすべてが消失した。

 この種の問題は、いかに初期の処理、事後処理が大切かを示している。社長がその事象を作り出している。これは会社の経営責任、経営理念の問題である。子供が不祥事を起こしたら、管理監督責任上、親が謝りに来るもの。それと同じで、状況判断もできず、不祥事の対応をしたことに、経営に対するあなどりがあった。

自動車部品業界の再発防止

 自動車部品業界では、問題が発生すれば、客先から言われなくても、きちんとその再発防止をして、お客様に報告するのが不文律である。大きな品質問題を起こせば、客先の品質保証部が乗り込んできて、ラインの工程監査が始まる。そうやって、自動車部品業界は品質を死守するため日々戦っている。この業界では、起こした不具合の再発防止を打たず、経過を報告しない場合は、お客さまからの仕事がなくなるとの単純明快な掟がある。報告がないのは、対策をしていないこと。当たり前の処置を当たり前にしないと、グループ会社全体が危機状態に陥る。自動車部品の品質問題は、人の命に直結し、リコールにも発展する。

学校文法と伝達文法の違い

 ノーテンキなその会社は、「報告の必要はない」の言葉どおりに受けとって、その後の報告はない。「私には他社にその再発防止を報告させる権利はない。しかし報告しないと、貴方の会社の仕事が無くなるよ」との言外の意味を解釈する能力がなかった。つまり、「日本語」の意思伝達能力がない。その会社は、仕事がなくなる事実を突きつけられないと、「分からん」会社のようである。その会社の幹部は、言葉を「学校文法」で理解しただけであった。高度な社会では「伝達文法」で情報が伝達される。そしてその後は、何もなかったかのようにノーテンキに仕事の提案をしてくるが、見切りを付けた私は、別の会社へ切り替える段取りを静かに開始した。そうしないと、私の首と私の会社が危ないからだ。責任者の役割は、「組織の成果を出し、部下を幸せにする」である。

業界のDNAの格差

 会社にはもって生まれたDNAがある。自動車部品メーカはそのDNAで動いている。今回の事象でコンピュータ屋と自動車部品メーカのそれとは大きな違いがあることを再認識した。コンピュータ業界はコンピュータ画面だけで仕事をする体質が影響するのか、汗をかいて製品の品質を死守するとの姿勢が製造業に比べて希薄だと感じた。コンピュータは自動車と同じで、人類が初めて自分の思いのままに操れる快感を得ることができた初めての機械であった。人はその性能ゆえに人との関与を忘れて、そのご主人様の特権に酔いしれる事もあるようだ。それが遠因で、コンピュータを使えば全て何でもできるとの思い込みが、人とのコミュニケーションを希薄にしたようだ。その体質から来るせいか、生のユーザーの声を聞こうとしない体質になっているようだ。DNAは会社の危機状態の時、その本質が浮かび上がる。

首を吊らんと分からん人

 ある経営者が経営に行き詰まり、その事情を察知した友人の社長が何とか助けようと手を尽くしたが、力及ばずで、その経営者は首を吊って全てを精算した。その社長は援助の手の力及ばずを悔やんで、師と仰ぐ禅僧に、その事を懺悔したら、「その人は、首を吊らんと分からん人であったのです。あなたが、そこまで悔やむ必要はない」と慰められたという。

日本の自殺者

 日本では年間34,000人弱が自ら命を絶つ(2003年当時、2015年は24,025人)。その内、35%は自営業者である。実に12,000人弱である。また全自殺者中、管理職は6%(約2,000人)にも達する。中小企業の経営者や大手企業の管理職は、命懸けでビジネスス戦争を戦っている。特に自営業の経営者は孤独である。孤独であるからこそ、自分の能力を高めないと生き延びられない。危ない事象は全て事前に表れている。それをどう解釈し、どう行動に結びつけられるかが問われる。それが知恵である。知識がいくらあってもダメなのだ。人が過去の記憶の全ては、脳の中にしまわれている。死の直前に、過去の全ての記憶が走馬灯を見るかのように、一瞬のうちに記憶の撮影フィルムが超高速で、目の前を横切るという。首の肉に縄が食い込む時、薄らぎゆく意識の中で、全てを理解するのだ。しかし、その時では遅い。あなたは、首を吊らんと分からん人ですか?    (2003-08-24 初稿)

 

2017-07-25

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2017年7月24日 (月)

仕事の報酬とは何か(改定)

 仕事の報酬はお金ではない。仕事の報酬は仕事である。仕事をすればそれに応じて、己を支える根が伸びる。自ずと幹が育つ。それが報酬である。それに対して、遊びの報酬は、非生産的な空しさである。遊びはお金と時間を浪費する。遊びはやればやるほどに、世の中の誰にも貢献していないことに気づき、空しさが襲ってくる。その反対にいくらやっても尽きなのが仕事である。良い仕事をすれば、更に高いレベルの仕事が回ってくる。仕事の疲れは仕事でとれる。世の為に貢献しているのを実感する。後世に千年も作品が残るならなお更である。それが仕事の真の報酬となる。お金と地位は、その後から静々とやってくる。

 その逆は、仕事が回ってこなくなる窓際族の逆報酬である。人は仕事を通して成長をし、魂を成長させる。自分の作った作品が千年も世の中で役立つなら、 最高の報酬となる。仕事とは祈りである。祈りが未来を創る。人生の最大の仕事は、自分探し、自分創りである。志を天命と信じ、人事を尽くそう。

 

 そのスマホのゲームは、社会にどんな貢献を与えているのか? ゲームのために子供にスマホを買い与えるなど、親としての責任放棄である。その天罰は20年後に巡ってくる。

 

図1 成長モデル

図2 仕事の報酬

 

2017-07-24

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2017年7月22日 (土)

裸の権現様が、小さな蟻塚に躓く(改題・改定)

「吾」とは

神のお告げの意味と神具で使う器具の象形からなる文字で、「われ」を意味する。吾の「口」とは神のおつげの意味。音符の「五」は、棒を交差させて組み立てる器具の象形である。神のおつげを汚れから守るための器具のさまから、「ふせぐ」の意を表す。そのさまを借りて、「われ」の意味を表す。漢字を創った古代人は、人間には佛性があることを知っていた。

 修証義に曰く「佛祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は佛祖ならん(釈尊および歴代の祖師のその昔は我々であった。我々の将来は祖師である)」。佛はどこにもいない。己の内に存在すると道元禅師は言う。己の内なる佛の声は聞こえるが、それに耳を塞ぎ、欲に負けて、やってはいけないことを犯し、食べすぎ、飲みすぎ、集めすぎ、貯めすぎの強欲に走る人間の弱さから来る業を、罪という。「足る知る」を理解しながら、それが自制出来ない弱さの鬼性と、神の御告げに耳を傾ける佛性の両方を持つのが人間である。

「権現」とは、

佛菩薩が衆生を救うために仮の姿をとって現れるさまを言う佛語である。己が社長なら、その身は会社の「権現」でもある。社長が佛の代理の権現様として、社員のために口でいくら立派な訓語を社員に垂れても、その後姿に綻びがあると、化けの皮が剝がれる。社員は社長の後姿にきつねの尻尾を見る。知らぬは社長ばかりなり。社長が、佛様より預かった大事な体を社長権限で酷使して、結果として顧客軽視、肥満、高血圧、アル中、虫歯に堕ちる。全ては己の強欲のためである。怠惰な心がしてはならないことをする。社員は騙せても、60億人の人間と、60歳になった60兆個の細胞はその履歴を知っていて、限度を超えると反乱を起こす。それが病気の発症である。その反乱に遭遇して、命を永らえても佛の働きに感謝しない社長が世に氾濫している。同じ過ちを何度繰り返しても眼が覚めない。

危機管理から逃げた社長

 己の佛性に目覚めない限り、いくら高いカネを払って論語や経営学を学んでも馬に念仏である。それを会社の経費で落とすから真剣に学ぶ気が起きない。かの社長も年に100万円の塾費を払い、高名な論語の先生の某社長塾に通っている。それを数年続けているのに、その不祥事(車検時に私の車を私用で乗り回し、ガソリンを空にして返車。ドライブレコーダが全てを記録した)が情けない。何も高い金をかけなくても、論語読みの論語知らずの行動を観察すれば、論語が示す実例を学べる。同じ経営塾で机を並べて学んだ仲間を信じて裏切られるのは、己の人を目の見る眼の未熟さである。この社長は今までは頻繁にダイレクトメールを寄こしていたが、その不祥事後は、音信不通である。不祥事の露見の場合は、真っ先に飛んで行き謝り、火消しをするという基本行動さえできない。人は危機状態の時に、佛様がその本性を露見させる。己の持つ明徳を明かにしないと、人生は開花しない。明徳の「明」とは日が月を照らして、その暗部を明かにして、己の徳のレベルを明らかにすること。

己の体を放漫経営して破綻

 2012年、一緒に某経営塾の研修を受けた社長が、脳出血で倒れた。大層威勢が良い会社で急成長を遂げていた。彼を身近に見た感触では、単に健康管理に対する放漫経営から来た病気である。高血圧、歯と眼の不摂生、タバコ、肥満が原因の因果である。社長がいくら高尚な経営理念を唱えても、己の体の経営が出来なくて、会社の経営が出来るはずがない。社員は社長の後姿を見て、「己の体の放漫経営のため病気で倒れたあんたに、そんなことは言われたくない」が本音である。誰のお陰で60兆個の細胞が己を還暦まで生かしくれて、誰が会社を支えてくれて、今日があると思うのか。その感謝の意識の希薄さが、社長自身が冒頭で発言するイケイケドンドンの社報から透けて見える。回復して威勢は元のように元気になって喜ばしいが、己を支える基盤(体、社員、社会)への感謝の念が薄く、生かされていることへの認識が薄い。前のめりで高尚な言葉を列挙するが、足元が軟弱なので、土台から崩れるのではと危惧している。事件が起こると基礎工事の手抜きや白蟻の侵食が露見する。

人生の貸借対照表

 この社長とは経営塾で席が隣りとのご縁もあり、遠方の土地へ駅からも遠い病院へタクシーを飛ばして見舞いに行った。しかし元気になっても礼状一つ来ない。あとは押して知るべしだ。ご縁の貸借対照表に人生の歩みが表われる。縁の残高が少ない経営者が人生で躓く。人は山には躓かないが、小さな蟻塚に躓く。佛様は全てを閻魔帳に記載して、己の体の病気を通して閻魔帳の中間報告をされる。その時が人生の岐路である。多くの人が佛の御心も知らず、地獄への近道へ足を向ける。人生経営道での学びである。

 

図1 「吾」の象形文字

図2、3 白蟻に食われた柱(自宅リフォーム工事で発覚)

図4 ドライブレコーダーの記録

 

2017-07-22

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人生飛行の着陸

 飛行機の着陸の姿は、優美で美しい。速度を落とし、フラップを開き、ギアを降ろし、しずしずと空から降りてくる姿には、いつも引かれる。飛行機の着陸の写真撮影は、50年前の高校生の頃からの私の趣味である。その着陸は、離陸に比較してはるかに難しい。飛行機事故の大半が着陸時に起きている。飛び立つときは、しゃにむにエンジンを全開して空に向って上昇すればよい。着陸は広大な大地の中の決められた一点に着陸しなければならぬ。己は何処を目指して飛行をしてきたのか。計画なき飛行では、着陸もままならぬ。燃料が乏しくなってから着陸態勢を取っては遅い。人生飛行では、全て初めての着陸である。着陸はソフトランディングでありたい。ハードランディングでは辛い。最期には如来ポイントに着地できるようにしたい。如来とは、「かくの如くに来れしもの」という意味で、人のあるべき姿の理想像として創造された。宇宙の真理を象徴しての存在が大日如来である。如来になる理想を求めて歩き続けてこそ人間の一生である。

宇宙の真理

 宇宙の真理は、単純明快である。何のためもなく、天地自然界はただひたすら与えられた命を全うする。太陽は照らし、風は吹き、雨は大地を潤し、植物は上にただひたすらに伸びていく。その中で人は自然界の一つの存在でしかない。しかし動植物とは違い、人間は魂を持った存在であるから、世と調和を図り世に付加価値を与えて生きるべきだ。金品を過剰に集め強欲を出すようでは、全体の調和を乱し周りを不幸にする。

人生の失速・着陸失敗

 現代、定年後にやることが無く、一日中、テレビを見て無為に過ごしたり、パチンコに興じたり、ショッピングモールを一日ぶらついて、時間を潰す人達が多い日本社会の現実である。過去の大垣藩の状況を比較すると歯がゆくなる。ここに日本の閉塞状況の一因がある。子供はやかましく言った通りには育たない。親がしているように育つ。親の後姿を見て育つ。高度成長期、経済価値だけを重視して、家庭教育を放棄して、教育を学校任せに経済成長を盲進した咎が今現れている。現代日本を覆っている鬱積した気は、大人が正気にならないと良くはならない。

 日本がこんな情けない状況になった本当の原因は、日本占領時代に米国が日本の古来の価値観を破壊する教育システムを構築して、日本弱体化の施策を仕掛けたことにある。残念なことにその害毒は現代になって効き始めている。我々は、日本の後世のために、この欠陥ある教育システムを改革すべきである。

人生飛行の着陸

 人生での着陸時とは、前の界を去り新しい界に突入する時期である。人生の総決算期で、収支決算が求められる。人生の真価が定まるときである。年老いて会社を去り、新しい世界で余命を過ごすとき、容色は衰え、嬌飾は廃れ、頭は惚け、その人間の真実が覆うところなく現れてくる。『菜根譚』にも「人を看るには只後半截を看よ」という。年老いて醜態を晒す人もいれば、益々意気盛んな人もいる。年老いて、人が寄ってくるのか、避けていくのか。仕事があるのか、ないのか。自ずと人生の収支決算書が出来上がる。人生貸借対照表で、恩を借りっ放しの赤字決算では人間恥ずかしい。「起きたけど寝るまで特に用もなし(詠み人恵峰)」という晩年では哀しい。自分という人生プロジェクトの幕引きこそ、最後の大仕事である。心して死にたい。そのためには良く生きねばなるまい。

 

図1 平日の早朝、大垣駅前のパチンコ店前で開店を待つ人達。子供には見せられない。  2011年4月7日(木) 08:58

図2~6 着陸

 

2017-07-22

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