お金で智慧を買う
お金を使って手に入れるのは智慧である。そのお金を使えるのが幸せである。お金を使えるのは、健康であることが前提である。その上で、体力も気力も夢もないと使えない。余命1年と宣告された病身では、お金は使えないし使う気にもなれない。お金を使える幸せを大事にしよう。そのうち使えなくなる日がやってくる。
単にモノを買うのでは、お金を使ったことにならない。それは単に、お金がモノに変わっただけである。価値あるモノを売れば、同じ金額が返ってくる。安いものではそうは行かない。安もの買いの銭失いである。
美味いものを食っても限度がある。立って半畳、寝て1畳、死ぬまで飲んでも1升、食べて丼1杯である。人間の体では知れたもの。それではお金を使い切れない。食べ過ぎ飲みすぎれば、病気になり、早死にである。
経験を買う
お金を使うとは、体験への出費である。体験で智慧が湧く。それには時間も体力も必要だ。智慧を得うるための出費が、お金を使う行動である。学ぶ費用、師に会うための交通費、受講料、稀少価値の品の購入に智慧を費やす行動、出費が相当する。その過程で智慧を出す訓練が出来る。お金を賢く使うために、受け入れる器を大きくすることだ。貯めるばかりの人生は、小さな器の人生。入ってきたお金を世間に旅ださせて、そのおこぼれをあずかる気持ちで丁度よい。それを自分の所で止めて、貯めるからお金が腐ってくる。お金は生鮮食品である。気持ちよく旅出させてあげれば、お友達をつれて帰ってくる。目先に囚われて、出し渋りをすれば、相手も嫌気がさして去っていく。損をして得を取れである。
高いものにはワケがある。高いものには創った人の魂がこもっている。お金を使うとは、自分の夢の実現のための投資行動である。20年後を夢見て、今の自分に投資をする。そのためには学びの器を大きくすること。学びに限度はない。学んで成長すれば、器も自然と大きくなる。不健康な器では、何も入らない。
智慧の披露
学んで一杯になった器は、世間に披露しないといけない。日々、その舞台で自分の学んだ智慧が試される。会社での各場面が能舞台であり、仲間が観客である。果物屋の店頭が人生舞台で、来客がご祝儀である。そこでどんな演技をするのか、そこに自分の器に入れてある智慧が試される。商売では、その演技に失敗すると客は二度と来てはくれない。
智慧は出し惜しみしてはダメである。どうせ持ってはあの世に行けない。智慧は出せば出すほど、自分にご褒美として帰ってくる。智慧を出す能力が磨かれる。
人生舞台で被る仮面
人生では人が仮面を被って人生劇場の役者を演じている。ある人は教師を、ある人は警察官の仮面を被って演じている。その仮面をペルソナという。ペルソナとはラテン語で仮面と言う意味である。この語源でパーソナリティ(個性)と言う言葉が生まれた。個性とは、人が被る仮面のキャラクターである。人はその仮面を見て、その人の役割を期待する。その仮面を被ったら、その役割を演じなければ人の期待を裏切る「裏切り者」である。師の仮面をかぶったら、人よりも多く精進をして、お役に徹して舞台を演じねばならない。泥棒の仮面をかぶったら、真面目に泥棒をしなくてはなるまい。それが反面教師として、世の中に役立つ。ああいうことをしてはいけないのだと世間に教えるのだ。世の中が全て善人ばかりでは、世間の理に合わない。泥棒にも三分の理があるというように、統計解析的にも3σ(99.7%)外が三分である。その中にあって、危機意識を持って対処する。それでこそ、己の善が映える。
人生能舞台
人生の舞台とは、幕が上がっている間だけが舞台ではない。幕が上がるまでの血みどろな練習時間、舞台の段を上がる時の挙動、舞台を下りるときの挙動も全て人生劇場の演技時間である。観客に見せる舞台での演技は、人生の一コマに過ぎない。一刻たりとも気を抜けない。観客は見ていなくても、神様仏様そして内なる己という仏が見つめている。
一局を舞い、舞台を下りて初めて「人生織物」での横糸の一本が完成する。人生とはその連綿とした行動の積み重ねである。観客が見ている時だけが、舞台ではない。
お盆に墓参りに行き、ご先祖様にこの1年間で己が舞った人生舞台の報告をする。それが胸を張ってできるかである。お墓参りもできないようでは、人生も終わりである。誰のお陰でこの世に生を受けたのか。手を合わせて、人生舞台でのお役を頂いたことに感謝をしよう。
2017-08-15
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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