ma_人生経営・会社経営 Feed

2021年5月24日 (月)

痴者の戯言「全社一丸となって頑張ろう」

「うちは小さくてもピッリと辛い。D社になんかに負けないぞ」

 

 上記は前職の社長や役員が口癖でよく社員に訓示していた言葉である。「全社一丸となって」とは聞こえはよいが、愚者の遠吠え、痴者の「万歳突撃」の叫びである。泥縄の経営である。それは、指導者の管理能力のなさと智慧のなさを表している。「全社一丸となって」頑張らなくてもよいように、危機管理をするのが賢者の経営者である。

 弱い組織をどうするかが指導者の役目である。織田信長は尾張武士が弱いことを知り尽くしていたから、鉄砲を使った。織田信長は知恵と素早い決断で、天下が取れた。

 

多様性

 画一性には成長性がない。そこには智慧がない。多様性こそ、成長の鍵である。そんなレベルの社長や役員が跋扈した会社は、30年後、競合他社に吸収合併されて市場から消えた。遠い昔、前職の会社はD社と同等レベルであったが、今ではD社ははるか上を行っている。当然の帰着であった。

 日本と大垣が衰退続けている原因は、その多様性を許容する余裕のない政治屋の偏狭さである。すべて役人ファーストの政治が原因である。国民は貧困になり、政治屋が私腹を肥やしている。

 

齟齬のある政策

 少子化にかこつけて、外人労働者導入を強力に推進して儲けている人材派遣業の元政府高官・竹中平蔵がいる。国賊ものである。その分、日本の若者の雇用がなくなる。日本には188万人の完全失業者がいる。それなのに、外人労働者数は127万人である。企業がきちんと労働対価を払わないから、激安の給与の人材派遣業が跋扈するのだ。安い賃金の外人労働者を許すから、日本人の給与がそれにつられて下がる。ますます日本は貧乏になっていく。

 

少子化対策「万歳突撃」

 日本政府も大垣市も「全力で少子化対策をしてます」、「大垣市は子育て日本一です」と掛け声だけは勇ましく、実質は何もしていない。『大垣未来ビジョン』でも「大変だ、テイヘンだ」というだけで、具体的な政策はどこにも記述がない。

 大垣市は、幼児予算だけ目立つようにして、残った金を自分達の利権に使っている。大垣市の役人の給与は岐阜県一の高額である。役人が堕落しているから、少子化が止まらない。日本と大垣の没落が止らない。日本人の年収が下がり続けている。大垣市の公示地価が暴落し続けている。それが、この30年間の政策の答えだ。政治は結果が総てである。

 

真の少子化対策

 少子化対策で必要な対策は、子供が安心して生める環境作りである。それを増税、景気対策の愚策、教育費の削減(先進国中で最低のレベル)、正規社員の削減、派遣社員の増加、外人労働者導入、給与の30年来の減少等、全て政治家の劣化とそれに起因する政策の愚劣さが少子化の原因である。

 日本で子供を産んだら、地獄の苦しみがあるのに、だれが生むものか。一人を育てるのに4千万円がかかるのだ。

 大垣市の学校の教育環境は最悪である。大垣市の児童生徒一人当たりの教育費は県下最低レベルである。3年前は学校にエアコンさえなかった。当時、エアコン設備率は2.1%で県下最低であった。岐阜県の他市はほとんど100%であったのに。大垣市民として恥ずかしい。

 

子育て以前の問題

 子育ては幼児期間だけでなく、子供が就職して独り立ちするまでである。それ以前に大事なのは子供を安心して生める体制づくりである。大垣市が、幼児だけ優遇したとしても、それは春画的対策である。今ではどこの市でもやっている。だから大垣市の施策は智慧がない。大垣市はこの20年間、無為無策無能の政治が続いて、大垣市の没落が続き、子供を安心して産める状態ではなくなった。また児童生徒一人当たりの教育費が県下最低になり、少子化に拍車をかけている。政治は結果が総てである。

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2021-05-24   久志能幾研究所通信 2032 小田泰仙

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2021年5月21日 (金)

老いて知る人生の結論

天網恢恢疎にして漏らさず

 

 いくら年老いても、今からでも遅くない。人生の結論に気が付いた時から、改めればよい。改めたことだけ、確実に残り人生が豊かになる。

 残り人生38年になって(?)やっと人生の結論を得た。

 

親類はあてにならない。

 長年の友もあてにならない。

 長年の友も経年変化をする。無常である。

 勿論、国なんかあてにならない。

 頼るのは自分だけ。そう思えば強くなれる。

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 終活で断捨離なんて大間違い

 記憶こそ人生だ。その記録を捨てるとは、人生を捨てること。

 断捨離は死後、カネさえ出せば、業者がやってくれる。

 想い出の品で人生を振り返り、反省して今から新しい人生を創るのだ。

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嫌な上司や陰険な年寄りは気にするな

 必ず、先に死んでいく。上司など一過性の付き合いだ。

 

失敗、左遷、孤独になった時が成長の時期である。

 置かれた場所で咲けばよい。

 長い人生で、たかが一過性の事象である。

 挫折を知らない奴ほど、上の仕事ができない。

 学校の成績など、50年前の記憶力テストだけのこと。

 記憶力だけ良くても、実の仕事ができるわけがない。

 東大出だからといって、仕事が出来るわけではない。

 そいつが20年間も市を君臨して故郷が没落した。

 知識は陳腐化する。知恵は熟成する。

 

師の偉さは取り巻き次第

 以前に師と仰いだ人の死後、取り巻きに煮え湯を飲まされた。

 それで師に幻滅したことが数知れず。

 師が後進や取り巻きまでを教育できてこそ、真の師である。

 それは師の死後にしか判明しない。

 

定年後、やることがない奴ほど、付き合えない。

 そういう人間は、日々、陳腐化していく。

 老いても日々成長している人と付き合いたい。

 心が青春の人と付き合うべし

 

人生は思った通りになる。日頃の口癖が人生を創る。

 どうせ俺の人生なんて、と言っていると、その通りになる。

 後ろ向きの言葉を吐く人を避けよ。副悪縁流の被害を受ける。

 

若い時に流さなかった涙は、老海で後悔の涙になる。

老いても心を若くして、世のために苦労をしよう。それが人の華。

 

3歩前進、3歩後退でよい

 結果が伴わなくてもよい。どうせ死が目的地だ。

 動けば経験知、智慧は増えている。決してゼロではない。

 

若さにかまけた暴走のツケは、老いて病気というツケを払う。

 暴飲暴食、タバコ、夜更かし、

 タバコによる肺の損傷は、老いてからくる。肺の組織は再生しない。

 狂った生活、食生活はガン、認知症の最大原因である。

 

降りかかる事象に対処療法で胡麻化していると、後日、痛い目にあう。

 何故なぜを5回繰り返して、真因を探せ。

 病気も悪縁も同じである。なぜそんな悪縁に巡り合うか考えよう。

 

見えない世界に目を向けよう

 この世は正の世界と負の世界で成り立っている。

 とかくエリートは目に見える世界ばかりに力を入れる。

 だから見えない世界の精霊に足をすくわれる。

039a34431s  馬場恵峰書

 

2021-05-21 久志能幾研究所 2026   小田泰仙

累計閲覧総数  264,349

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2021年5月16日 (日)

森羅万象を師としよう (磨墨知408)

 

 自然現象を含めて時間の師は回りにいっぱいある。自然は声なき経を読経している。

 

 雨が降っても何時かは上がる。雨が降ったら傘をさせばよい。

 夜がいくら暗い状態でも、何時かは日が昇る。昇った太陽も何時かは沈む。自然は春夏秋冬、生老病死のサイクルを繰り返している。焦らず、奢らず自分を見つめて、自己充実させればよい。

 欠けたお月様も何時かは満月になり、まんまるのお月さまも次第に欠けてくる。無常の世界である。勝者必滅の定理でもある。失敗や左遷も、人の評価や噂は三月三日。じたばたせず達観すればよい。

 いくら新型コロナウイルスが猛威を奮っても、何時かは収束する。今まで人類が科学技術を武器に金儲けで暴走しすぎたので、自然が待ったをかけただけだ。長い人類の歴史で100年に一度はお休みが必要だ。しばし休息して人生を振り返ればよい。

 

風が吹くまで

 不遇の時には、あがいても無駄なエネルギーを使うだけ。風が吹かない時は自分を充電する時間にしよう。次の風が吹いた時、充電したエネルギーが時間を圧倒する。

 首相を務める能力のある広田弘毅が左遷をさせられ、閑職としてオランダ公使に飛ばされた。彼もその時期は辛かったようだ。彼はオランダ公使赴任中、本を読みまくっていたという。そこで詠んだ句が

 風車 風が吹くまで 昼寝かな

 

 ある時期、私も閑職に飛ばされて仕事のない悲哀を体験させられた。鬱症状もでて自殺も考えたこともある。でも意思を持って病気を治し、復帰をした。それで今の自分がある。負けていたら、今はない。

 その経験があるから仕事をする意味が理解できる。お金があっても仕事がない状態は地獄である。人は失ってみて始めてその価値に気づくもの。

 仕事のない死んだ時間を、次のチャンスのための準備時間にしょう。明けない夜はない。それは神様が与えてくれた黄金の時間。勉強し放題である。

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2021-05-16 久志能幾研究所 2021 小田泰仙

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2021年5月 8日 (土)

飽食は死場腐の匂い

隣の死場腐はアホく見える(隣の芝生は青く見える)。

隣の客はよく喰う客だ

 

 先日、某カレーチェーン店でカレーを注文した。注文した商品が来るまで、私の隣のカウンターに座った若い女性客を見るとはなしに、観察して呆れてしまった。

 まず私と食べる量が違う。食べる種類が違う。食べるスタイルが違う。体格が違う(彼女は太り気味。だから必要エネルギーが違う)。

 これでは、彼女は加齢なる肥満神に恋されて、早晩、死場に送られる。肥満は万病の元である。現代人は飽食で、食べ過ぎである。彼女は飽食に魅せられた子羊であった。

 

死神の攻勢

 食品業界は、もっともっと食べろと、あの手この手で攻めてくる。敵の担当者も成果主義に攻められて、真地目にやらないと担当者はクビになる。だから敵も必死である。

 飲食店は、お客の健康など知ったことではなく、一番儲かる売り方で、客に食品を提供する。儲かるなら、客の健康を度外視して、必要以上の分量を標準分量として設定する。

 そうすれば客の体が大食漢になって、より多く食べてもらえるようになる。それが敵の付け目である。

 その昔、味の素が利益を上げる方法を社内で募集したところ、瓶の注ぎ穴の大きさを大きくするという案が採用されたという噂があった。それが食品メーカの体質を象徴した寓話である。

 

自分の城は自分で守る

 それ故、自分の城は自分で守らないと、食の業界から病気にさせられる。最大の自分の城とは己の体である。私が癌になったのも、この40年で日本人の癌が4倍に増えたのも、医療費が4倍になったのも飽食が一因である。

 飽食は肥満に繋がり、高血圧、糖尿病、癌、認知症等の多くの病気を招く。食べ足りなくて病気になった人はいないが、食べ過ぎで命を落とした人は多くいる。

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 馬場恵峰書

 

 それでも利益第一主義の業界は、その暴走が止まらない。それを止めるのは、己の自制心である。私は癌になって死線をさまよい、やっと目が覚めた。人は痛い目に会わないと、目が覚めない。

 

彼女との差 分量

 そのカレー屋では、標準のお米の分量は300gである。私が食べるお米の量は通常100gである。そのカレー屋では最低の分量が150gなので、仕方なく150gのスモールサイズで注文している。

 お米は糖質の塊である。それが300gもあるカレーは、食べ過ぎである。温かいご飯は食が進む。だから私は家では、なるべく「冷やし飯(冷めたご飯)」で100gに限定している。そうすれば摂取カロリーも20%も減る。

 

 私は癌の手術をしてから食事量が約4割減った。体重は25キロ減である。それからいくら食べても体重が増えず、この1年間ほど平衡状態である。それでも普通に生活ができているので、今までが食べ過ぎなのだ。

 

食べる種類

 彼女の選択は、トンカツと唐揚げをトッピングしたカレーであった。

 私の選択は、海の幸と野菜のトッピングのカレーである。私はドクターストップで油分の塊であるトンカツはご法度である。唐揚げもご法度である。

 この食生活では彼女は将来、高血圧、癌、心筋梗塞になる恐れがある。

 

食べ方

 彼女はスマホで動画を見ながらイヤホンで音を聞いて、黙々と食べていた。ゆっくりと咀嚼するのではなく、食べ物を流し込んでいるようであった。それではどれだけ食べたかが、自覚なく大食いしてしまう。体から満腹のサインが出る前に、完食してしまうからである。それが肥満の原因となる。現在の太った体が、日頃の生活ぶりを表していた。

 私は食べることに専念して、ゆっくりとよく咀嚼して食べた。意識しないと、カレーは流動食のように早く食べれてしまう。よく噛まないと、頭への刺激がなく、認知症になりやすい。

 

親の教え

 食事は真面目に、食べさせていただく命に感謝して、ゆっくりとしっかり咀嚼をして食べよう。

 2年ほど前、恵峰先生宅で食事をして、私はいつものようなペースで食べたら、恵峰先生から「小田さんは、食べるのが早すぎる。一口一口、感謝して、ゆっくりと食べなさい」と叱られてしまった。我々は他の命を食べないと生きていけない。そのため、他の命を頂くことに感謝が必要だ。そんなことで叱ってくれる人は親も同然である。恵峰先生のよき思い出である。

 

2021-05-08  久志能幾研究所通信 2013 小田泰仙

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2021年5月 7日 (金)

友、縁報より来る。亦楽しからずや

生は偶然、死は必然

 友がご縁の報いとして来たら、全力で向き合おう。それが礼儀である。夢ゆめ、対談中にスマホをいじるなかれ。友との出逢いは一期一会。明日の命は分からない。

 ご縁が生まれるのも偶然である。その別れは必然である。だからこそご縁を大事にしよう。

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馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集「報恩道書写行集」より

 

雨友、晴友

 晴の時に歓談する友より、雨の日に声をかけてくれる友こそ、真の友である。

 前職で閑職に追いやられたとき、声をかけてくれた友が真の友であった。

 入院した時、見舞いに来てくれる友が真の友である。わずか10分ほどの距離でも見舞いにこないとは、….情けない思いをした。それは晴友であった。

 

静友、動友

 静かに部屋で、将来の夢を語り合うのが静友。

 車でどこかに動き回らないと、間が持てないのが動友。

 

悪友、善友

 やってはいけない悪事例を、身を挺して示してくれる師である。それを他山の石という。

 善友とは…….

 

登友、下友

 人生は生老病死である。人生の山を登る時期が春夏の時。何時しか秋になり冬がくる。冬になれば、山を下らねばならぬ。それを忘れるから冬山で遭難する。無事に下山して死ぬことが人生だ。還暦後、62,63歳で亡くなった仲間が多くいた。何のために働いてきたのか、残念だ。還暦後の人生が黄金の収穫期なのに。

 登山する成長期で、勢いがある時の友が登友である。定年になり、人生の山を下る時の友が下友。静かにこれからの後始末を語ろう。

 定年後、人生80年としても7,300日もある。毎日が日曜日ではいけない。一日8時間としても58,400時間もある。その道のプロになるためには、その道に5,000時間もかければよい。一緒にそれを励ましながらプロを目指せば、下友が登友に変わる。

 

燃友、消友

 人生に燃え、仕事に燃え、ご縁に燃える。そんな人が燃友である。さあ、友と炎遊会に行こう。

 生き方が強欲で生臭いと、水分が多くてなかなか燃えない。中途半端にやるから、疲れずに夜に眠れない。欲望を枯らして、よく燃え、よく働いた一日が、安らかな眠りを誘う。人生を完全燃焼で謳歌して、燃え尽きよう。それが安らかな永眠をさそう。 

 それを消す友となってはならない。燃えない生木ほど、扱いにくいものはない。死ぬときに、生木を割くような苦しみを味わう。死ぬときは、枯木のように自然に倒れれば、苦しみもない。

 

師友、死友

 いつもは師と仰ぎ、時には友として諫言もする。そんな仲が師友である。

 生は偶然だが、死は必然である。師友も何時かは必ず死ぬ。その師の志を継ぐのが死友である。死ぬ命を抱えて使命を全うするために生きるのが、死友である。

 何のために生物は死ぬのか。劣化した生命体を殺して、その遺伝子を新しい生につなげて、その遺伝子を継続させるためである。その生命体がいつまでも死ななければ、成長がない。

 カマキリのオスは、生殖が終わると、メスに頭から喰われてしまう。それも喜んで喰われている。喰われたオスの体がメスに宿った子の栄養となり、子孫が繁栄する。その時、脳内に麻薬成分が分泌されて、痛みはないようだ。それが自然界の仕組みである。生命体が「継続」をする姿である。我々も、喜んで子孫のために、為すべきことをして死のう。

 

2021-05-07   久志能幾研究所通信 2012   小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月 6日 (木)

語感で洗脳 「ご苦労様」は上から視線?

 

 言葉は言霊といって、人の魂が籠っている。言葉が人を元気し、言葉が元気をなくさせる。ヒトラーは演説で同じ言葉を何回も使い、ドイツ国民を洗脳した。だから使い方次第で、言葉は凶器にもなる。ご注意を。

 

「潜友」

 その言葉を一番多く浴びるのは、自分自身である。だから後向きの言葉は、決して使ってはならない。後ろ向きの言葉を常用する友は、「潜友」だ。「後友」だ。付き合うと人生を潜水させてしまう。後ろ向きの言葉で後ろ髪を引かれ、チャンスを逃す。

 できなくても、できると言って、自分の脳を洗脳しよう。

 

洗脳

 仕事をしてもらった相手に「ご苦労様」は、上司が部下に言うように感じる。上から視線を感じる。

 また「ご苦労様」では、簡単な仕事でも、「俺は苦労をした」と洗脳されてしまう。「そんなレベルの仕事は苦労にも入らない」と自己暗示をすべきなのだ。そうすれば能力が向上する。

 

 「お疲れ様」と言うと、それは相手への洗脳教育のように見える。「貴方は疲れている 貴方は疲れている」と暗示をかけているように感じる。俺は元気だ、それを「貴方は疲れている」と決めつけるように言われるのは不愉快と感じる人もいる。

 

 「お元気様です」は少し構えた表現で、少し違和感がある。

 この場合「ありがとうございます」が一番無難のようだ。

 

冒頭の挨拶

 手紙やメールの冒頭で、「いつもお世話になっております」とは、私は滅多に書かない。末尾に「よろしくお願いします。」とも書かない。それは無意味な言葉で、時間の無駄だからだ。

 それを書いてくる手紙やメールを見ると、「俺はあんたの世話などしていない。それは嫌味かよ!」と勘ぐってしまう。で、要件は何だ?と言いたくなる。

 一行の文を読むのにも、命の時間を使っている。だから私の手紙は単刀直入に要件を冒頭に書く。私は、手紙に伝えたい要件だけを、簡潔に無駄なく全精力をかけて書く。そのための推敲に時間をかける。相手に時間を使わせないことが、最大の誠意である。それがご縁のあった相手への感謝の伝達である。

 感謝の念こそ、運命の扉を開く鍵である。運命の女神はしずしずと現れる。感謝の念がないと、通り過ぎていく女神の心を射ることはできぬ。感動したことに「感謝」とは、「感」じたことを「言」葉で「射」るのだ。

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         馬場恵峰書

戦争と平和

 毛筆の礼状では話が別である。それは和の道である。和の道では、心を伝えるのでも道草をすればよい。それが情緒である。私はビジネス戦争では、電子メール銃を撃ちまくる。私はそれから転戦して、別世界の芸術界では、パソコン機関銃を毛筆銃に持ち代えて、毛筆の手紙で相手の心を撃つ。

 

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心筆

 私はこの10年間、馬場恵峰先生への手紙をすべて毛筆で書いた。緊張して心を込めて手紙を書いた。ワープロで文面を作り、それから清書である。なにせ相手は書道の先生である。先生曰く「書は、下手でも丁寧に心を込めて書けば、誠意が伝わる」。

 しかし敵は私より上手で、恵峰先生の巻物の毛筆礼状と三根子奥様の毎回違うカラフルな和紙の毛筆手紙が交互にやってくる。返信にも恵峰先生ご夫婦の役割分担があるようで、毛筆の銃撃戦では当方の完敗である。

 その文面に「いつもお世話になっております」等の軽薄な言葉はない。文面に相手を思う心が溢れている。美辞麗句を並べなくても、毛筆で書いてあるだけで、私の心を撃ちぬく。

 恵峰先生の巻物の礼状は我家のお宝である。

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 馬場恵峰先生からのお見舞いの巻物手紙  

 

2021-05-06  久志能幾研究所通信 2011 小田泰仙

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2021年5月 2日 (日)

ホテルの「おもてなし」ナシ

 

 私はビジネスホテルを、「仕事の前夜、ビジネスマンが仕事の準備をする場所」と考えていた。ところが、「馬場恵峰先生を偲ぶ会」に参加するため、某ホテルに宿泊したら、その部屋の「おもてなし」無し状態に呆れた。部屋の机の上が、備品で溢れていて、ノートパソコンや書類を出して仕事をするスペースがない! これはビジネスホテル失格である。

 ビジネスホテルの「おもてなし」とは、仕事環境を提供する、である。

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ホテルへの不満

 なぜヘアドライヤーが机の上にあるのか。なぜバスルームに置かないのか。

 なぜテレビのリモコンが机の上にあるのか。

 そもそも机の上にテレビが大きな顔をして鎮座しているのが気に食わない。

 私はテレビの電源は滅多には入れない。ニュースは新聞かPCで確認する。今のテレビはロクな番組を放映していないからだ。ビジネスでホテルに泊まる仕事人は、ホテルでテレビなど見ない。ビジネスマンは、ニュース等はパソコンで見る。テレビなど撤去しても良いと思う。

  なぜ湯沸かしポットが机の上にあるのか。なぜサイドテーブルに置かないのだ。

 カップもティーバッグも同様である。今時、ホテルの部屋でお茶など飲まない。置くなら、コーヒーパックを置くべきだ。

 なにせ、このホテルは、無料のペットボトル水を置いていない。以前は無料のペットボトルが置いてあったが、経費削減でなくなってしまった。情けないホテルだ。

 なぜティシュボックスが机の上にあるのか。ティシュボックスは今までは、ベッドの横に置いてあった。

 ホテルの案内ファイルは机の引き出しに入れておけばよい。

 常識でわかる。

 

それで机の上を大整理した。その状態が下図。

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  机上をかたづけた後の状態

 

 整理整頓するにも、時間と手間がかかる。その分、私の命の時間が無駄になる。時間は命なのだ。ビジネスホテルの部屋内は5S(整理整頓清潔清掃)でありたい。そういうホテルを選択したい。

 

2021-05-02 久志能幾研究所通信 2006 小田泰仙

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2021年5月 1日 (土)

恵峰先生はバカ、私はその上を行く大バカ

 

 馬場恵峰先生は、「巻物にいくら書いても売れない。こんなに書を書く私はバカなのだ。それをわざわざ大垣から来て、写真撮影する小田さんは大バカなのだ。お互いにバカだから道友である」とよく言われた。それは馬場恵峰先生の私への最大の賛辞であった。

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 馬場恵峰遺作展 「シーハットおおむら」さくらホームで

 100メートル巻物と50メートル巻物   2021年4月24日 

  100メートル巻物は恵峰先生が2年がかりで書かれた。

P1000088s1  100メートル巻物の撮影風景      2016‎年‎11‎月‎29‎日

  5人がかりで撮影。一人では100メートル巻物を取り扱えない。

  それも撮影に失敗があり3回訪問して撮影し直した。

      その撮り直しも、2回目は1回目の1週間後に飛んで行ったので、三根子奥様が呆れていた。

P1080226s  「奥の細道 全集」の撮影風景  先生の図書館にて     2016‎年‎5‎月‎24‎日

 

 2006年から2012年まで明徳塾で大阪の箕面市に月一で出かけ、2011年頃から、月に一度、長崎の先生宅に写真撮影に出向くようになり、この約10年間で計120回ほど先生宅に行った計算だ。一回の費用が、交通費、宿泊費、お土産等で7万円ほどかかる。それでこの10年間で交通費だけで800万円ほど使ったことになる。明徳塾の費用を入れれば優に一千万円を超える。決して後悔をしていない。今にして良かったと思う。

 苦労して撮影して、本として出版しても、売れたのはせいぜい50部とか100部である。だから出版では大赤字である。それでも写真撮影と出版を止めないのは、儲ける為ではなく、出版してデータベース日本書籍目録に登録し、国会図書館に納品して、馬場恵峰の書を記録として後世に残すためである。

 

 恵峰先生は中国に260回以上も旅行されている。全て自費である。一回30万円の旅費としても7800万円が消えている。金は消えても、形あるモノは残っていない。しかしご縁と智慧が残ったと言われる。それから見れば、私は先生のご縁と智慧の1/100くらいを習得できたのかもしれない。

 

 その間に私が収集した恵峰先生の掛け軸が57本である。色紙や額書や板書を入れるともっと膨大な数になる。個人収集では、大村市の日中文化資料館以外で、私の家が日本最大の馬場恵峰書資料館になったようだ。格上の男に惚れると金がかかる。こんな超ハイレベルの師には二度と会えないと思う。私は良き師に出会えて幸せであった。

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  座敷に掲示の掛け軸、屏風の書は全て馬場恵峰書

 

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度胸智

 今まで恵峰先生の掛け軸を躊躇なく入手したのは、今までに「高価な」絵画を買って「買う度胸」を積んできた経験智があるからだ。「高価な」とは、私にとって高価であって、市場ではごみみたいなものだ。10万円の絵でも私には高価である。デパートでの絵画販売を数多く見てきた目には、恵峰先生の掛け軸は安く感じる。それは恵峰先生が金儲けの為ではなく、後世の子弟の為の教育資材として書き残しているからだ。それも「小田さん価格」で激安で分けてもらっている。

 

人生経営も芸術

 芸術との出会いは一期一会である。その時、買う決断をしないと、二度とは手に入らない。経営も芸術である。何処にもない独創的な経営は芸術である。その人生経営をする師は芸術家である。その師との出会いも一期一会である。

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 馬場恵峰書  2013年頃の作品

 書はワープロではないので、決して同じ書体では書かない。同じ「一」でも書き方を変えて書く。

 

2021-05-01 久志能幾研究所通信 2005 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年4月30日 (金)

肺がん疑い、Go To 地獄

 

 人生の回数券を大事にしよう。老いた親、老いた師、老いた友、老いた己と、あと何回会えるかを考えよう。老いた己の歳と健康状態を見定め、除夜の鐘を聞ける回数を計算しよう。それがそんなに多くないことを確認しよう。

 

回数券が無効

 還暦を過ぎれば、その回数券が無効になる確率はみんな同じである。還暦後に使える回数券の数は限られている。当方がその回数券を使える元気さがあっても、老いた親や老いた師が死の直前になれば、残りの回数券が無効になる。一回の回数券を使えば、使える機会は一回減る。「Go Toトラベル」とは、人生回数券の「Go To 取ら減る」。

 

最後の面会

 今回の面会が最後の利用かもしれない。そう思って昨年末に馬場恵峰先生に1泊2日で4回、計8回お見舞いに行った。歳月は人を待ってはくれない。

 恵峰先生の最後の言葉が「縁あって花開き、恩有って実を結ぶ」であった。恵峰先生は病床で、何度もその言葉を口に出された。私は良き師とのご縁があり、幸せであった。

 人の明日は分からない。だから一期一会として、今回の出会いがこの世の最後と覚悟して、全力で向き合うべきなのだ。日の暮れぬうち、生きているうちである。

 

師は年上、必ず先に逝く

 相手どころか、自分が交通事故、心筋梗塞や新型コロナで、明日死ぬかもしれぬ。そうなれば所有の回数券は全て無効となる。

 この2年間で、私は師を5人も突然に失ってそれを痛感した。人の明日は分からない。それをこれほど痛感したことはない。

 

肺がんの疑い

 そうしているうち、この2021年2月12日、愛知県がんセンターの定期検診でCTを受けたら、非喫煙者の私が「肺がんの疑いがあり」と診断された。現代は非喫煙者の肺がんが増えているようだ。特に夫の喫煙で、妻が副煙流で肺がんや乳がんになるケースである。私も昔の職場での副煙流被害を思い起こした。それで肺がん手術の準備や心の準備で落ち着かない日が続いた。

 一度がんを罹患している身には、「肺がんの疑いがあり」は死刑宣告みたいなものである。地獄行きの宣告である。幸い、2か月間の経過観察の後、4月27日に肺がんの疑いは消えた。

 

 最近の検査では医師が過剰に反応するので、グレーでも肺がんの疑いありと診断されてしまう。見落としで手遅れになるよりはまし、と思わねばならぬ。医師も見落とせば、誤診で訴えられてしまう時代である。

 今回の誤診で再度、命の回数券の限度を再確認させられた。「時間は命」を再確認した。

 

回数券入手は不可

 師や友と10年の出会いがあれば、10年の縁が生まれる。多くの人は、日頃の回数券は無限にあると思って使っているが、ある日に突然、医師から余命宣告されれば、その回数券は大金を積んでも手に入らなくなる。

 だからこそ、師や友との出会いは、悔いのない出会いにしなければならぬ。そこまでやってくれるのかと、師や友を感激させてこそ、真の師事である。私はそうやって、悔いのないようにしてきたつもりだが、現実は悔いばかり。

 

最期の教え

 孝行したいときに親はなし。いつまでもあると思うな、親とカネ。同じように己の命も日々尽きていく。だからこそ今を精一杯生きよう。親と師の最期の教えが「あんたも何時か死ぬのだよ。悔いのない人生を送れ」である。 

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2021-04-30 久志能幾研究所通信 2004  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2021年4月20日 (火)

己の道は手のうちに。己が教祖様

 

己を拝め

 キリスト教で「天にまします我らの神よ」と祈っても、仏教で「南無阿弥陀仏」と手を合わせても、神も仏も己を助けてはくれない。ただ見守っているだけだ。己を助けるのは己である。己が人生の運命を握っているのに、その努力をしないで、「神も仏もないないのか」と運命を嘆いても、それはお門違いである。

 マラソン選手の有森裕子さんの名言「自分で自分を誉めてやりたい」というくらいの「誰にも負けない努力」が必要だ。

 人は自分を拝む勉強をしない。自分が行動を起こさなければ、人生は変わらない。

 

背中を観よ

 自分の背中を観よ。しかし己は己の背中を見ないし、多くの人は観ようともしない。しかし己を支えてくれるのは背中である。その背中は他人の視線が鏡として、背中を見てくれる。だから人皆わが師である。

 

自灯明

 仏様が与えてくれた機会を他人の為に、人のために話をしなければ、自分は幸せになれない。いいことや、良いことは人に話さねばならない。黙っている人こそ、くせ者である。保身者である。

 人がしないから、させてもらっている。面倒くさいから、やらせてもらっている。自分が幸せを作っていくのだ。実力の裏が教養である。早く勉強した人が、早く実力をつける

 自らが人生の暗夜を自らの灯で灯せ。だから仏様は「自灯明」を説かれる。

 自らが灯なら、暗い顔ではダメだ。周りを照らすように明るい顔を示せ。暗い顔は、玄関に髑髏を飾るようなものだ。

 

己の死を見つめよ

 死はグラデーションだ。死はある日、突然にやってくるものではない。人間も生物だから、急に全ての組織が死ぬわけでも、全て新しく生まれるわけでもない。死んだような生き方では、段々と死んでいく。

 心も新陳代謝である。朝日が昇れば、昨日の自分は死んだのだ。今日は新しい考えを頂いて、新しい自分が新しい一日を作る。昨日の失敗を糧に、新しい自分が生まれる。だから失敗を恐れることなかれ。失敗から、新しい自分が生まれる。死なくして、生はない。

 自分の死は決まっている。死は必然だが、生は偶然である。生きている間に、何を後世に遺すかが大事なのだ。生物で一番大事なことは、自分のDNAを残すことだ。

 馬場恵峰師は、お弟子さんを残し、作品を残し、足跡を残して、天寿を全うし、使命をやり遂げて旅立たれた。生が有限であることを知っていたから、できたこと。

 

師の死を活かすことは、自分が師を超える事

 人間は先代の功績をベースにその上に知恵を積み重ねてきた。師からDNAを受け継いだのなら、それを上回る業績を残すべきだ。それがその道を歩む後継者の使命である。その道の教祖になるように努力をすべきなのだ。

 

実践あるのみ

 手本ばかり見て、書を書くからうまく書けない。自分で考えて書けば、うまくなる。人の真似をするな。自分で考えて書け、覚えて書け。

 習字をするからうまくならない。作品を書きなさい。下手でもいいから高い紙に高い墨で、丁寧に書きなさい。そうすれば残るし、うまくなる。

 人生でも高い金を払って、高い、価値ある仕事をしなされ。安い仕事では実力はつかない。

 だから師の行動を真似するな。自分で考えて、師を超える行動をしなされ。師の行動は、師の人格の表れである。それを真似しても意味がない。自分で考えて、自分の人格が現われる行動をすべきである。それが学びの成果である。

 

我以外皆師

 書の教室に来ても、自分だけ先生から添削をしてもらったら、後は知らんふりでは成長できない。他のお弟子さんが先生から添削を受けている状況を見て学べ。それが「我以外皆師」である。人生二度なしで、一生勉強である。

 字書き恥かきで、実際に恥をかいて体験しないと成長できない。恥をかくことを避けるのは、自分が可愛くて、自分を守り過ぎである。それは自惚れである。これでは成長できない。

 これは全ての道(武道、芸道、学道)で、いくら秘伝書でノウハウを伝えても、血の滲む鍛錬を繰り返さないと名人にはなれない。鍛錬とは、鍛を1000日、錬を万日として修行することだ。今はノウハウ書がオンパレードであるが、それでは薄っぺらな人生しか送れまい。それは本当の勉強していないことである。

 

 本稿は、馬場恵峰師の知己塾の講義を元に、私の想いを加筆しました。

4k8a02411s  馬場恵峰書

2021-04-20   久志能幾研究所通信 1995   小田泰仙

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