ma_人生経営・会社経営 Feed

2021年10月31日 (日)

自分を見失なわない、幸せの価値基準と出会うご縁

 

 人の行動は愚かさに満ちている。それは、歳を取り、人生の終わりがおぼろげに見えてくると、やっと分かる。バカなことはバカなことをして、やってはいけないと理解できる。格物致知とは、そのモノに接して、やってみて、知に至るのだ。いくら頭で考えても、やってみないと分からない。それほどに人は愚かである。だから多くの愚かなことして、その誤りに早く気がつくとよい。私の人生は、愚かさで一杯である。それで少し賢くなった。

 お釈迦様だって、多くの誤りをして悟りの境地の達せられた。我々凡人も、多くの誤まりをして悟ればよいのだ。

 

人生の選択

 人生の選択は、その選択で「幸せ」になれるかどうかで選択すべきである。往々に、目の前の選択がバラ色に見えて、その選択を惑わされて、間違った道に進みがちである。それは自分が欲に惑わされて、自分を見失い、真実が見えなくなって間違った道を選択するからだ。自分を第三者の目で、冷静に自分を見るべきだ。

 その選択(モノ、人、道)が、自分の人生で、自分の一部となり、人生を歩くうえで、助けてくれるかを考えて選択すべきなのだ。

 

薫習

 その人と付き合って、自分も相手も社会も幸せになるだろか。それを考えてご縁を結ぶべきだ。

 朱に交われば赤くなる。その朱が、自分の人生を彩ってくれれば良いが、悪い赤なら、毒である。後ろ向きの考えの人と付き合えば、自分も後ろむきになる。それで人生が好転するとは思えない。付き合っている時は、温室のような温かさで気楽ではあるが、刺激がなく、少しずつ人生パワーが削がれていく。まるでゆでガエルのように。

 人は良き人と付き合えば、薫習といって、その教えが体にしみ込んでくる。霧の中を歩めば、自ずと衣が濡れると同じ現象である。孟母三遷の教えも同じ意味である。

 だからこそ「3年かけて、師を探せ」である。私は馬場恵峰先生に15年間の指導とお付き合いをさせていただき、よき薫習を得たと感謝している。

 

モノには精霊が宿る

 そのモノを買って、自分も相手も社会も幸せになるだろか。モノに宿る精霊が人生を変える。

 私も数年前に、血迷ってレクサスLSを買ってしまって、当初は幸せいっぱいであった。しかし暫らくして不幸になっていった。要は、自分を見失い、分不相応なものを買ってしまったのだ。やっていけないことは、やってみないと分からないものだ。それで自分の愚かさレベルを再確認した。

 レクサスLS等の高級車は「二号さん」と一緒で、乗っている時は楽しいが、乗らない時の維持費が大変なのだ。重量税(88,000円)、保険代(88,000円)、駐車場代(年間250,000円)、車検代、ガソリン代等、が重くのしかかってきて耐えきれず、私は2年で手放した(実は別宅を買うことが急に決まり、金が必要になったため)。

出会うべきご縁

 しかし良い経験はできた。2018年、馬場恵峰先生ご夫妻が中部地区に来られた時、ご夫妻を送迎できるご縁ができて幸せであった。「良い車に乗れた」と馬場三根子先生から大喜びされた。あの時、レクサスLSを買うと言う縁を見逃せば、親とも慕う馬場恵峰先生ご夫妻に、良き思いをしてもらうことができなかった。その2年後にお二人共、急に亡くなられたからだ。また不思議なことに、馬場恵峰先生ご夫妻を犬山名鉄ホテルにお送りした数か月後、そのホテルが耐震強度不足とかで、壊されてしまい、この世から消滅してしまった。

 私がレクサスLSを買うと言うご縁は、早からず遅からず、出会うべきご縁であったようだ。

 レクサスLSは、今まで憧れの車であった。それを所有して乗り回してみて、当初は感激したが、しばらくすると麻痺して、ああこんなもんか、で終わってしまった。まるで麻疹のようなものだ。「何時かはクラウンではなく、いつかはレクサス」という夢から覚めた。金はかかったが、良き夢を見れて後悔はしていない。夢をみるのにもお金がかかるのだ。お金とは経験を得るための道具である。もっと分相応のお金持ちになってから、高級車は買えばよいと悟った。正に格物致知である。

 

P1100227s1 この車で馬場恵峰先生ご夫妻を彦根、関ヶ原合戦場跡、大垣、犬山にご案内した。

犬山名鉄ホテル前で。そのホテルもその後、壊されてこの世から消滅した。

.

その組織に入って(入社)幸せ?

 その会社に入って、自分とその会社が幸せになるか、その会社で社会に貢献できるかを見極めないと、お互いが不幸になる。その会社がブラック企業なら完全にアウトである。自分の使命は何かを明確にしないと、お互いが幸せになれない。金だけを目的して働けば、自分を見失うことになる。

 私も若い頃のバブル期、金融業の給与の高さに羨望のまなざしを向けたが、今にして、泥臭い技術の道を歩んでよかったと回想している。金は一つの道具であって、目的にはならない。

 

食べ物の毒

 そのモノを食べて、真の幸せになれるかで、それを選択すべきだ。

 それを食べた時、それを嗜んだ時に幸せになれても、後年、その害毒で苦しめられては、騙されたことになる。例えば、煙草、酒、スィーツ等である。これは本能ではなく、理性で考えれば、すぐ正しい選択が出来る。その美味なる毒は、食べた当初は麻薬のように幸せにしてくれるが、20年後には地獄への片道切符に変貌する。

 酒は発癌性物質である。それで日本人の2人に一人ががんになる時代となった。認知症への誘導物質でもある。

 スィーツや清涼飲料水の過剰な糖質は血管内部を傷つけ、糖尿病、心筋梗塞、脳梗塞の遠因となる。

 タバコはがんの最大要因である。タバコで傷つけられた肺の組織は、二度と再生しない。酸素タンクを引きずって、街を歩いている人を見ると、煙草を吸わなくてよかったと思う。

 それも親がタバコを吸わないという「薫習」を私にしてくれたのだ。子供は親の言う事は聞かない。親のやっている通りにやる。親に感謝である。

P10202321s

  馬場恵峰書 日中文化資料館蔵

Img_44121s

 馬場恵峰書  上の巻物を抜粋した板書を恵峰先生にお願いした

2021-10-30  久志能幾研究所通信 2195   小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年10月25日 (月)

住宅メーカ展示場の寝室で、悪夢を見る

 

 家を新たに建てるため、6社の住宅メーカの展示場を連続9日間、ハシゴ見学をした。そこで見た各会社の寝室を比較して、各社の住宅設計の本気度が分かった。元技術者の私の調査方針は、現地現物である。現地現物は、私の人生の哲学である。

 

寝室とは

 寝室とは、人の命を預かる部屋なのだ。人が寝ている時は、完全な無防備状態である。寝室は、家の中で一番大事な部屋である。それを見れば、住宅メーカの姿勢が分かる。

 

現地現物

 現地現物とは、「自分の足で現地に出向き、自分の目で確認して完全に状況を把握する」である。必要があれば、飛行機を使ってでも現地に飛べ、である。

 それをやれば、カタログや、営業マンの言葉には騙されない。その哲学があったから、私は2017年にウィーンに飛び、ベーゼンドルファー工場でピアノ製造工程を見学した。今にして、行って良かったと思う。今ならコロナ禍で、ウィーンに行きたくても行けない。

 

メルパルクでみた悪夢

 2013年頃、国家試験受験のため、自分を追い込むため1週間ほどカンヅメ状態するため、名古屋メルパルクの連泊したことがあった。その時のホテルの状態の悪さで、ホテルの良し悪しがわかった。今後二度と、メルパルクには泊まらないと決めた。

 名古屋メルパルクは睡眠環境が悪かった。朝日への遮光が不十分で、朝日の明るさで嫌でも目が覚めてしまい、熟睡が妨げられた。昼間、勉強で疲れて昼寝をしようにも遮光が不十分で寝られない。またホテルのその後の対応が不誠実であった。所詮、メルパルクはお役所体質のホテルであった。

 ホテルの最大の使命(商品価値)は、宿泊客に安眠・熟睡を提供することである。それはマイホームの寝室でも同じである。

Dsc04575s

 名古屋メルパルク 2014‎年‎8‎月‎7‎日0‏‎6:19 嫌でも目が覚めてしまった

Dsc00280s

名古屋メルパルク 2013‎年‎6‎月‎29‎日13:38 明るすぎてお昼寝ができない。

 

モデルハウス見学

 各社のモデルハウスを見学して分かったことは、各社の寝室モデルは絵に描いた餅の設計が大半であったことだ。実際に睡眠で悩んだことのないサラリーマン設計者が、設計したとしか思えない代物が多かった。それで会社のレベルが分かる。サラリーマン設計者は生の生活が分かっていないようだ。

 私は日本各地と世界各地のホテルで数多く寝てみて、その部屋の設計の差が大きいことに興味を持ち、比較研究してきた。世のホテルには、見栄えだけの部屋も多くある。

 寝室は、人生の3分の1を過ごす場所なのだ。出張でホテルに泊まれば、その部屋の設計思想で、ホテルのおもてなしレベルを直に体験できる。しかし日本の住宅メーカのモデル寝室は、見栄えだけのお飾りのような作りとなっているケースが多い。それを現地現物で発見した。

 

 遮光が不十分な南向きの寝室は、夏の朝はゆっくり寝ていられまい。

 薄い遮光カーテンで、なおかつカーテン上部からの光漏れ対策なしの部屋では、熟睡できまい。

 なんで寝室に、2.5メータ高さで横幅超大の窓がいるのだ?

 モデルルームの寝室の中には、カーテンさえない場合があった。

 なぜモデルルーム寝室に、二重カーテンが設置されていないのだ。

 

2021-10-25  久志能幾研究所通信 2190   小田泰仙

累計閲覧総数 290,039

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年10月24日 (日)

新型コロナに負けた佛様。人は佛を目指せ、神になってはダメ

 

 私はおだ仏教の佛様になることは目指すが、おだ神教の神になろうとは思わない。それは人間の持つ真理に反するからだ。

 人は誰でも佛になれる。人は誰しも心に佛性をもっている。しかし人の心の中には、鬼も住めば、佛も住む。鬼にならないためには、佛道を学ぶしかない。それが成仏である。

 

新型コロナに負けた佛様

 この10月29日から、長野市の「ながの東急百貨店」で「大仏師松本明慶佛像彫刻展」が開催される。それに行く準備をしていて、合わせて善光寺にお参りすることを思いついた。今年は善光寺の秘仏が7年ぶりの御開帳となる年である。

 ところが、今年はコロナ禍の影響で、その御開帳が中止となったと聞こえてきた。つまり佛様が新型コロナに負けてしまったのだ。

 これは秘佛様が「秘神」であるなら、こんな御開帳中止などにはならないはずである。だって全能の神様であるなら、完全無欠で何事も予定通りにされてしまう。私は、これが佛の存在意味を象徴する出来事であると感じた。

 

神と佛

 「神」は示偏である。「神」とは、漢字の語源でも、目には見えない存在を示している。神とは「人ではない」存在である。つまり人でなし。だから人は、己の欠点を無くして完全無欠な人間を目指してはならない。それは神を目指すことだ。神は絶対の存在で、完全無欠である。

 

 「佛」は人偏である。「佛」は、人間が進化した姿を、漢字でも表現している。佛は人が修行をして成仏した形をしめす存在である。だから人は、修行をしても神を目指してはならない。完全無欠の存在の神を目指しては、「ひとでなし」になってしまう。人間として、欠点を持ったまま成長するのが正しい修行である。大きく成長すれば、それがその人の持つ欠点を覆い隠し、欠点が人間味として、人格に色を添える存在となる。人は欠点を持ったまま(角を持って)成熟すれば、「角熟」として成長する。人は、そんな精神の成長を目指すべきだ。

1

Photo

2021-10-23  久志能幾研究所通信 2188   小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年10月21日 (木)

輸血2回で血の気が戻る。戒名の朱塗り

 

 2年前に墓誌に私の戒名を彫り、それに朱で色を付けた(まだ生きているから)。2年経って祖父の百回忌の折、その色落ち発見した。それで戒名の字に、朱で石屋さんに塗り直していただいた。今回は色落ちを少しでも長く持たせるため2度塗りをしたという。それを今日(2021年10月21日)、確認のため菩提寺に出かけた。

 そこで命の有限性と使命感に思いが至った。

 

再塗装

 墓誌の再塗装で、鮮やかな朱色に戒名が復活して(血の気が戻り)、やれやれである。生あるもの何時かは死(色が落ちる)である。何事も所行無常である。それを墓誌から教えてもらった。死んだ色(ペンキ)なら、半永久的だが、それでは後日、朱色を落せない。だから数年で色落ちすることが明白でも、朱の墨汁を使ってもらった。それを繰り返すことが生きている証である。墓参りごとにそれを確認すればよい。昨年はコロナ禍でそれが叶わなかったために、起きた出来事である。しかしそれを喜ばねばならぬ。死んでしまえば、それが叶わぬ。

 我々も必ず死ぬことが明白なのに、毎日、同じことを繰り返して生きている。それを喜ぶべきなのだ。

P11408841s

 朱が落ちた状態 2021年10月12日 撮影

Dsc092561s

 再塗装後 2021年10月21日 撮影

 

ホテル消滅

 菩提寺からの帰り路で、駅前にあったはずのビジネスホテル・ディークが、跡形もなく消えているのを発見して仰天した。このホテルは過去何度か利用したことがある。通りかかった人に聞けば、数か月前にそのホテルは経営不振で、店を廃業したとか。今は建屋が取り壊されて跡形もなく、更地になっていた。経営不振もコロナ禍が大きく影響したのだと推定される。墓誌の色といい、ホテルの建屋といい、所行無常を痛感した。生あるもの何時かは死である。

 つくづくと、どんな命も無常であること思い知った。自分の命も大事に使わねば、何時かは無に帰してしまう。残り少ないと思われる命を、最大限に使わねばとの思いを新たにした。

 

Dsc09266s 以前はこの場所に6階建てのホテルが存在した。 2021年10月21日撮影

.

使命

 「使命」とは、命を使うことだ。頂いた自分の命を使って、人生で何をするかが、人に課せられた最大の課題である。毎日、同じことの繰り返しであっても、少しでも世のためになることを為し、無為に過ごすことのないように、と自分を戒めた。戒名とは、自分に対する戒めの名である。生前に戒名を頂く意味を改めて感じた。

4k8a99231s

 書は馬場恵峰先生、文責は著者

 

2021-10-21  久志能幾研究所通信 2186   小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年10月15日 (金)

百回忌、血の気が失せ、墨汁を輸血

 

 祖父の百回忌法要(2021年10月12日)で、お墓前に行って、私の戒名を彫ってある墓誌を見て、驚いた。2年前に、墓誌に私の戒名を刻んで、朱を入れた。生前に墓誌に戒名を刻む場合は、まだ生きて血が巡っている意味で、朱の色を付ける。その朱がほとんど剥離していたためだ。それでは死んだ人の意味になってしまう。慌てて、「輸血」として再塗装を石屋さんにお願いした。

 

赤ペンキは不可

 この場合は、耐久性のある赤ペンキではダメである。ペンキでは、いざという場合(死亡時)に、その赤塗料が簡単に取れないので、朱の墨汁で色を付ける。だだしその耐用年数は少ない。色が落ちる度ごとに塗るしかない。今回はコロナ禍と私の病気のため墓参りが長期間出来ず、時間が経ってしまったための事態である。

 その耐用年数が分かっただけ、一つの知見である。生あるものは必ず死である。生ある「朱の戒名」の色付けも、何時かは薄くなる(死)である。再生が必要だ。諸行無常である。

 

戒名を授戒

 葬式の時に戒名を授かるのは、死亡後の応急処置である。やはり生前に、きちんと来世の名前を授かるのが正式手順である。皆さんも生前に戒名をいただくことを勧めます。それこそが終活の大事な一項目である。その他の終活の事務は、残った人がやってくれる。一番大事な戒名は、自分の意志で決めよう。

P11408841s

 墓誌に刻んで朱を入れた私の戒名。「泰観院」は私の院号である。

 書は馬場恵峰先生の揮毫

 うっすらと一部に朱が残っている。

 

2021-10-15  久志能幾旧研究所通信 2180   小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年10月14日 (木)

祖父の百回忌法要での学び

 

 先日(2021年10月12日)、私の祖父の百回忌の法要を菩提寺で執り行った。この法要で、古希を超えてもまだまだ知らないことばかりであることを思い知った。今までに参列した50回忌は、母方の祖父の法要だけで、百回忌は人生で初めての経験である。

 菩提寺の住職さんでも、今まで百回忌の法要を執り行ったのは、この20年間でたった3回、五十回忌の法要でも10回だそうだ。良き功徳ができたと思う。本来、この法要は今年2月に執り行う予定であったが、コロナでの緊急事態宣言と私の体調不良で、この10月に延期せざると得なかった。それが12日に無事に執り行うことができてほっとした。

 

P1140881s

 本殿に供えた祖父の塔婆 

 法要の後、お墓に供えた  2021年10月12日

.

ご縁のめぐり合わせ

 めぐり合わせで祖父の百回忌を執り行えることを喜びたい。やりたくても、ご縁がないとできないのだ。まず健康でないとやれない。健康でもその気がないとやらない。健康でも金が無いとやれない。百回忌をやる意味を認識しないとやらない。

 私はご縁が結べば、それに全力で向き合う。それが私の人生哲学である。

 2年後には、祖母の50回忌である。法事をされる身になるより、する方にまわるが幸せである。報恩感謝として、人生でお世話になった人達を見送ってから来世に赴く?のが私の希望である。それまで死んでたまるか、である。

 

 

祖父の死因

 祖父は大津警察署の署長であった。祖父はその才能をねたまれて、二人の小官吏に暴行を受け、それが原因で1年後に亡くなった。暴行相手の2人は、部下の警官である。今でも不祥事の多い大津警察の100年前の事件である。

 祖父は学校を出て、丹後の地で大工の見習いに2,3年ほど通ったようだが、性格的に合わなかったようで、上の学業に進んだという。その後の学業は、当時としては素晴らしい学歴である。努力家でもあった。42歳の若さで大津市警察署長に昇進したのも納得できる履歴である。事故にあわなければ、かなりの地位まで昇進した人物と推定される。自分のご先祖として誇らしくなる。

 一見、田舎出しか見えない男が頭角を現せば、ねたむ人も出てくるのが世の常である。祖父はその辺の処世がうまく行かなかったのだろう。

 今太閤と囃された田中角栄元総理は、その妬みを一身に浴びた人だ。最後はある筋の陰謀で消された。私は、日本のために全力を尽くした角栄氏の言葉に共感を持っている。

 

 角栄氏曰く

「総理はなりたくてもなれるものではない。そういう立場になったご縁に全力で向き合うべきだ。」

 「人は努力すれば必ず成功する。しかしその成功をねたむ人が必ず出てくる。その対応に心せねばならぬ。間違ってもねたむ側になってはならない。」

 

 私も前職では、向上心から頑張り過ぎて、ねたまれ、毛嫌いもした人もいたようだ。当時は、私はその処世術が未熟であり、辛い思いを何度もしたので、その心境が痛いほどわかる。

 

お供え

 当初、大垣駅前の金蝶園でお供えを買う予定であった。しかし数か月前に不愉快な不祥事を受け、駅前の金蝶園では二度と買うまいと決めていた(後日報告予定)。その経緯で、菩提寺の近くにある「たねや」でお供えを買う予定にしていた。ところが当日の往路の鉄路で、京都方面のJR線で人身事故が起こり、電車が止まってしまった。私は米原駅で30分ほど、缶詰になった。それで予定の時間に間に合わなくなったため、急遽、お供えは現金に変更した。それがかえって良かったようだ。

 お菓子をお供えすれば、そのお下がりで私もそのお菓子を食べねばならぬ。つい多く食べてしまう。病気の原因である。

 聞けば、お寺さんでも多くのお菓子が集まり過ぎて処理に困り、学校等へ進呈しているようだ。またお菓子を食べ過ぎれば糖尿病にもなってしまう。

 今後は、お供えは現金を包むことにした。お菓子のお供えは止めである。

 

焼香

 曹洞宗では、本殿での焼香は2回である。一回目はつまみ、目の高さまで持ち上げて焼香して、2回目は摘み上げそのまま焼香する。

 火葬場とお墓の前での焼香は1回である。それは昔、遺体を火葬する時、藁1本を火葬に供えて火をつける意味があったからだという。それと同じ意味で、お墓の前でも一回の焼香である。

 

父親の背中

 ある親戚が法事をおこなったが、その時の塔婆を立てなかった。その親戚の人は信心深くないようだ。親からの背中の教育を受けていないようだ。今までの法事や寄進の状況をみても、それを感じた。だから他の親戚筋にも百回忌の参列の声掛けをすべきだったが、声をかけるのを躊躇させられる状況だった。声をかけるのも、声をかけられるのもご縁である。声をかけられないご縁さえある。そういうめぐり合わせである。

 私は父に連れられて墓参りに何度も菩提寺に来ている。それが父からの背中の教育である。そういうふうに教育された幸せを、親戚の塔婆がないことで、再確認した。子供は親のいう事など聞きはしない。親のやっている通りにするのだ。

 

親戚問題

 今まで頭の痛かった3つの親戚問題が、この法事で少し光が見えてきた。百回忌を執り行って、ご先祖様が助け船を出してくれたようだ。やはり何か具体的に動けば、何らかの具体的な回答が天から降ってくる。今まで何度も経験している知見である。

 

2021-10-14  久志能幾研究所通信 2179   小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年10月 9日 (土)

😿 わが愛娘が洗脳されて、脳死となった 

 

 あるお父さんの悲劇のお話しです。「ロ身汚とジュリェット」の現代版である。自分がその立場に置かれたら、どうしただろうか。それを自分がその父親の立場であるとして模擬検証をした。明日は我が身かもしれない。

 

状況説明

 あるハンサムな宗教教祖が、金目当てでわが愛娘を洗脳してしまった。父親は彼を出入り禁止にしたが、娘はスカイプで隠れて連絡を取り合って、長い間に少しずつ洗脳されてしまったようだ。恋は人を盲目にする筋書きである。彼の宗教とは拝金主義教の一種である。洗脳されると親の言いうことなど全く聞かなくなる。娘は彼にクレジットの「家族カード」まで作らされて、彼の家族に数千万円も使われてしまった。世間一般の目から見て、相手の行動は非常識きわまりなく、明確に違法でもあるが、娘はそれさえ判別できない。娘の人生経験が少ないため、相手に洗脳され現実を認識できなくなる「認知症」になった。認知症になるとは、脳死である。愛娘が死んだのだ。 

 

地下鉄サリン事件

 最高学府を出ても、学校もまともに出てない男に洗脳されて、サリンを撒いた若者達もいた。オウム真理教も法律的には、正規に登録された宗教法人である。サリンを撒いて人が死ねば、重犯罪になるのに、その状況が判断できず、教祖の命令のままで地下鉄サリン事件を起こした。それと同じ症状に愛娘が陥ってしまった。常識を認知できない状態で、「人には結婚の自由がある」とは、その主張をする前提が間違っている。

 

ユダヤ人虐殺

 正常な人間でも洗脳されると、人殺しでも実行する。ナチスは合法的に選挙で選ばれた政党であった。平凡なドイツ市民がヒトラーに心酔して洗脳された。ナチスに心酔して、ユダヤ人迫害に喜んで手を貸した。普通のドイツ人が、アウシュビッツで400万人のユダヤを殺した。虐殺に手を下した男達は、狂人でもなく、家族を愛する普通の一般市民であった。日曜日になれば、教会で賛美歌を歌う真摯なキリスト教徒だった。ナチスに心酔したとは、洗脳されたのだ。洗脳は人を狂人にする。

 今でもドイツは、あの虐殺はヒトラーの狂人がやったとひとごとにするが、彼を選挙で選んだのは、ドイツ国民なのだ。

 

民主党を選んだのは国民

 2009年9月の総選挙で、民主党が政権を取った。その2年後、2011年3月11日、東日本大震災対策と福島原発事故対策を迷走させたのは民主党である。当時の鳩山党首の演説に国民が洗脳されて、民主党に投票したのが、その遠因である。誰の責任でもない。国民が洗脳されて民主党を選んだのだ。かように人は簡単に騙される。一人を騙すのは難しいが、多人数を騙すのは簡単である。純粋培養された貴人を騙すのはもっと簡単である。

 

私も新興宗教団体に洗脳される寸前だった

 2011年当時、私も洗脳される状況になりかけた。私がG経営研究会(全国組織)に入会して、そこの元会長から某新興宗教団体に入会を誘われた。入会金は38万円で、京都で教祖直々に入会の秘儀が3日間あるという。試しに入会して、ダメならやめれば良いと安易な気持ちで入会を承諾した。

 元会長から誘われれば、新人なら信用してしまう。その宗教団体は、正規に登録された宗教法人である。それがオウム真理教と同じ手段で、信徒を洗脳する団体であった(信徒数は数十万人)。その宗教団体は今でも健在で、時折、週刊誌に大きな広告が掲載される。疑惑問題で週刊誌にも頻繁に話題にもされる怪しい宗教団体である。

 私が入会承諾後、ネット上でその団体の実態を知り、大慌てで入会を断り、死地を脱出した。直前に気が付けたのは、普賢菩薩様のお陰だ。ある宗教に入会しようとした目的は、知識を増やしたい欲のなせること。世の中には多くの文殊の知恵があり、玉石混合の状態である。だから知識を得るより、その選択が重要なのだ。知識の量より選択の賢さである。

 その宗教に入ると、なにかと寄進が強制され、最終的に平均一千万円程の財産を貢がされることになる。その金額は、その教団が建てた本殿建物費用と信徒数から算出した。オウム真理教でも、信徒は出家して全財産を貢いで入会しなければならぬ。だから簡単には後戻りできない。 

 

洗脳は新型コロナウイルスより怖しい

 さように洗脳とは恐ろしい伝染病だ。新型コロナウイルスより怖しい。洗脳されるとは、その人がその人ではなくなる症状である。人間の死である。人間社会で、人間として正常な状態では暮らせないことである。

 一度洗脳されると、簡単には洗脳は融けない。教祖もそれが融けないような細工を連続して施す。私が誘われた宗教団体では、退会の意志を示すと「退会すると、無間地獄に落ちるぞ」と大勢の信徒が家に押しかけて大声で騒ぐという。「ご奉仕活動へ参加」という名目で強制労働があり、信徒間の相互監視体制が凄い。中国共産党以上である。

 事件後、20年間、指名手配から逃亡して逮捕されたオウム信徒も、まだ麻原教祖からの洗脳が融けていなかった。かように洗脳されるとは、怖しいこと。新型コロナなどかわいいもの。

 

論理の積み上げ

 愛娘の結婚問題も、その要点は洗脳問題であると私は考える。私は医師でもないから、娘の病気はよく分からないが、状況を観察するとそれが原因ではないようだ。専門家もそれを指摘している。その病気なら、仕事も私的行動もできなくなるはずだ。その病気の公表は、皆の非難を防ぐためのようだ。

 以上は事実から導いた論理的な結論である。事実を積み上げて、結論を出す。それが私の技術者としての思考方法である。国民の意見まで封じたら、独裁共産主義の恐怖政治国家となってしまう。

 

間違った対応

 ところが多くの俗人は、優柔不断で、まず世間体を考え、問題が起きても場当たり的に対処療法的な行動を取るから、ますます泥沼に入り込んでいく。職を賭けてでも娘をお守りしようとする気概ある人がいないから、こうなってしまった。泣いて馬謖を斬る決断をするしかない。それが愛娘のためである。臭いものは元を断たなきゃだめなのよ。

 愛娘にどれだけ嫌われても、娘がどれだけ傷ついても、最悪のことを避けるため、決断するしかない。娘が意図的に「洗脳」という精神の病気に犯されたのだから、強権を発動するしかない。大きな観点で決断するしかない。

 

陰謀?

 このドタバタの陰には、巨大な裏組織の影が見え隠れするという情報さえもある。それを考えると今までの騒動が納得される。普通の神経の若者なら、あれだけ世間からバッシングを受ければ引くものだ。彼も闇の巨大組織から脅迫されているのかもしれない。もう後には引けないのだろう。彼もその闇組織から洗脳されているのだろう。そう考えれば、すべてが納得できる。

 

親、社長、リーダの使命

 リーダはどれだけ嫌われても、結果をだすのが使命である。敵に好かれて組織を滅ぼしては意味がない。ヒトラーは演説という洗脳技術で、(一時的には)、凄い結果を出した。それほどに、彼の演説技術は素晴らしかった。しかし美味しいものには毒がある。素晴らしすぎるものには、猛毒がある。

 

自衛戦争

 なにかおかしいと感じる感性を大事にしよう。置かれた場所で全力を出そう。私はそうやって受験戦争、ビジネス戦争、詐欺商売防衛戦争、新興宗教防衛戦争を生き延びてきた。戦争で最大の敵は、甘言という洗脳に騙されやすい自分自身である。

 

Img_64201s

      馬場恵峰書

2021-10-09  久志能幾研究所通信 2174   小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

積水至夢 一期一会の出逢い

 

生と死

 その番組、その本、その雑誌、そのネット記事、そのビデオディスク、その人の話との出会いは一期一会である。それと向き合うことで、それが自分の血となり肉となって、自分の人生を豊かにしてくれるか。それを考えて、自分の有限の時間を投入しよう。

 その人という対象物(ご縁)に自分の時間を割けば、もう一つの「本」や「人とのご縁」という対象物とのご縁が「亡くなる」のだ。両方を得ることは時間制約的にできない。人間には限られた時間しかないからだ。それがご縁の生と死である。

 

有限なご縁の生

 人生が残り10年とすると、読める本や会える人の数は限られている。1年に12冊読むとして、死までに120冊しか読めないのだ。新しい出会いも、毎月、新しい出会いは1人としても、残り人生で120人としか出会えない。一人と出会えば、もう一人とは出会えない。一つ一つが大事な出会いなのだ。

 その残り人生時間を拡大する手段が、健康である。だから死んでもいいから健康である。私は通常は残り10年の余命を、なんとか37年まで延ばす取り組みをしている。それには、家を新築すると良いと信じている。

 

縁慮

 その大事な出会いの最中に、割り込んできた電話に出れば、今のご縁の生が死に向かう。それでは相手が怒って当然である。「今、来客中、あとで電話する」と縁慮させればよい。それが時間の有限さを大事にすること。

 

挑戦

 残りが限られた人生で、達成できないはずの夢に挑戦するのも、人生の活性化には良い刺激だと思う。夢なき人生を無為に送るのは避けたい。私は、「一生叶えられない夢をもつ」ことが大事だと学んだ。棒ほど願って針ほど叶う、それでよいではないか。

 今日(2021年10月8日)、夢の実現のための「小さな」一歩として、昨夜友人との電話でヒントを得て、積水ハウスのモデルルームに行ってきて、良き刺激を受けた。頑張って第3の家を建てようと決意した。

 

積水至夢 

 夢の実現とは、流れる水の上に字を書き続けるような行為である。流れても流れても字を書き続ける。具体的に動けば、具体的な答えが人生で返ってくる。その水が積み重なれば(積水)、何時かは夢の実現となる(至夢)。千里の道も一歩より。

4k8a0254s

 馬場恵峰書

2021-10-08  久志能幾研究所通信 2173   小田泰仙

 「久志能」で ↖ 検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2021年10月 6日 (水)

帰らぬ青春時代の後悔、老いて観えてきたもの

 

 最近、あの世の世界がうっすらと見えてきた。加齢現象で目が悪くなり、現世が見えにくくなったが、逆に過去のことがはっきり見えてきた。

 私も学生時代や若い頃は、サイコのサスペンス映画、コロンボ探偵もの、シャーロックホームズの探偵もの、アガサ・クリスティーの探偵もの、エリラー・クイーンの「Xの悲劇」「Yの悲劇」の世界にハマって熱中したこともあった。面白くてつい読みふけってしまった。

 この類の小説や映画を見て、今にして振り返ると、心に刻んで自分の成長に役立ったと言えるものがないのだ。それに没頭して、今にして何が残ったのか? 大事な青春の時間を無駄遣いしたとの後悔だけが、はっきり見えてきた。

 

 死が見えてくると、また癌の手術を経験し、死の最前線に身を置かれると、そんな作りごとの探偵ものなど全く興味がなくなる。それを読んで、鑑賞して、一体何が私の人格形成に残ったのだ。残るのは虚しさだけである。

 

人殺し、隠蔽工作の習得?

 問題は、その探偵ものに費やした時間に対して得られた価値は何かである。人殺しとその隠蔽工作を智慧として得ても、その後の人生の糧になったとは思えない。要はいっときの快楽であったにすぎない。それは50年経たないと「愚かであった」と覚醒しない快楽であった。

 

野獣より怖しいワイドショー

 そういう目で見ると、いかにくだらない情報や、作り物が周りに溢れているかが怖しくなる。2000年前のローマ時代には、ローマ市民はコロッセオでの闘士と野獣・罪人たちが殺し合いをして、それの血が飛ぶのを見て熱狂した。

 我々はそのローマ市民に対して、どれだけ進歩したのか。今はワイドショーという野獣が、芸能人のスキャンダルを血祭りにしている。コメンテーターを呼ばれる下人がテレビで叫んで盛り上がっている。時には皇室までを血祭りにしている。コロナウイルスさえ食いものにしている。一番大きな獲物は、我々の時間を食いものにしている。野獣は満腹になれば、人を襲わないが、ワイドナショーという怪物は、限度がない。

 

洗脳教育?

 ひょっとすると、それは目の前の真実から目を逸らすための情報操作ではないかとも疑いたい。ローマ時代にコロッセオでの戦いショーも、本当に意図は、時の政治家が市民の不満を逸らすための手段であったのだ。コロッセオでの戦いの見世物は、現代のテレビワイドショーである。

 せめて、人間として、奴隷の殺し合いショーに熱狂したローマ市民よりは進歩したい。自分よりはるかに下品な芸人やコメンテーターの言動に左右されることは避けたい。

 この状況では2000年前に活躍した師を、我々が超えるのは難しかろう。だから2000年前の書(論語、聖書、仏典等)が、今でも通用するのにはワケがある。

 人生の残り少ない時間を大事にしたいと思う。時間は命なのだ。

Img_2380s

Img_2283s

Img_2311s

Img_2328s

Img_2368s

 コロッセオ  2010年 著者撮影

2021-10-06  久志能幾研究所通信 2171   小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年10月 1日 (金)

秩序ある「散らかし」を許容しよう

                                                       

 家の中が断捨離で整然と整理されていると、創造性が無くなると本に書いてあり、我が意を得たりと嬉しくなった。恥ずかしながら、私の家の中は雑然としている。

 フランシス・ベーコン、アインシュタイン、アップルのジョブズ、鈴木健司アナウンサーの机の上は雑然としていた。特に一世代を風靡したNHKの鈴木健司アナウンサーの机の上は、書類が山積みで「危険、触ると崩れます」との注意書きまであった。その環境で、彼らは多くの創造的な仕事をして歴史に名を残した。それは混乱の中から生まれた。だから、凡人の我々も正々堂々と秩序ある「散らかし」を実行しよう。

 

 整然と整理された事務所は、ルーチンワークの事務処理をするには、適している。だからトヨタでは、5S(整理整頓清潔清掃)を徹底して生産性を上げ、成功した。それは工業品の生産体制である。金儲けの為なら、機械の如く必死に頑張ろう。

 しかし創造的な仕事は、そうではないようだ。ミネソタ大学の心理学者キャサリーン・ヴォース氏による実験では、散らかったオフィスの方が、創造的な仕事では、成果が大きかったという。

 芸術の世界ならもっと、自由に振舞うのも許されよう(私はそう勝手に言い訳をしている)。

 

2021-10-01  久志能幾研究所通信 2166   小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。