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2021年11月18日 (木)

我家の防災対策、人生の防災対策

 

カセットコンロ

 防災への対策として、今回、カセットコンロを整備した。電気が止まった場合の非常用加熱道具としてカセットコンロとガスボンベを整備した。

 ガスボンベは、一人一日0.5本として7日分を備蓄した。ガスボンベは賞味期限が7年であるので、1年に1本(約200円)を使っていき、その都度補充することにした。

 この情報は防災アドバイザー・髙荷智也氏のYouTubeの動画を参考にした。

 

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以下は準備スミである。

 水1週間分  2ℓ 10本 10日分

 インスタントお粥    3日分

 防災トイレ       3日分

 

他の防災・耐震対策

 自宅は築50年の日本家屋で、当初は耐震強度0.5であった。

  10年かけ耐震補強をして、耐震強度を1まで上げた。

 土付き瓦屋根を、土なし瓦に改築して、上部の重い土を除去した。

 災害時の復旧時間の短さを考え、ガスを止めてオール電化とした。

  また災害時の火の始末も考えてのオール電化である。 

 耐震ブレーカに取り換え

  地震がおさまって、再通電すると火事になる危険性がある。

  これを再通電しない機能付きのブレーカに変えた。

 耐震、防犯上で、ブロック塀を撤去した。

 2階に有った重いもの(本等)を1階に下ろした。

 

緩慢なる熱衝撃対策

 現代日本で人の寿命が延びたのは、暖房器具が進歩して、また気密性の高い家が増え、室温が上がったのが大きな要因である。室温が2度上がると、健康寿命は4歳延びると言われる。

 だから自宅では、全窓を二重ガラスにして、更に二重ガラス内窓を付けて、断熱性のよい家に改築した。

 参考文献 笹井恵里子著『室温が2度上げると健康寿命は4歳のびる』光文社新書

 

人生の防災

 人生での災害時の備えをしよう。人生は山あり、谷ありの波乱万丈である。人生を歩く場合の携帯する考えを軽くしたい。深刻に考えず、自然体で考えよう。物事に囚われると、行動が鈍くなる。囚われず、偏らず、貯めこまず、止まらず、で人生を歩みたい。人生を襲うエイリアンにまともにぶつかると倒れてしまう。柳のように、柔構造でしなやかにやり過ごしたい。人生の激震で自分を見失わないようにしよう。

 人生の戒めの言葉こそ、己の防災準備である。一寸先は闇なのだ。自分自身の燈明を持って、暗夜を行こう。

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 馬場恵峰書

2021-11-18  久志能幾研究所通信 2212  小田泰仙

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著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年11月17日 (水)

社長の後姿、会社の基礎、人生の基礎

 

 先年、一緒にMK経営塾の研修を受けた仲間が、脳内出血で倒れてしまった。下記は、その人をお見舞いに行ったら、人生模様のお経にであった。人間は行動すると、人だけでなく、お経にも出会う。

 「経」とは糸偏に、機織り機の意味のツクリから成る。糸偏は面々と続くご先祖からの歴史の流れである。機織り機は、この世の人生模様を織りなす創造者である。

 そのお経が良いか悪いかは、織りなした基礎の出来不出来に依存する。

 

脳出血の原因

 彼の会社は、大層威勢が良い会社で急成長を遂げていた。彼を研修中に身近に見た感触では、彼が倒れた原因は、食べ過ぎによる高血圧、だらしなさ(不摂生)からくる歯と眼の不調、タバコ、酒等に見られる不健康生活からきたのは明白である。

 社長は全従業員の生活に責任を負っている。そのために社長自身の健康管理は責務なのだ。

 社長がいくら高尚な経営理念を唱えても、己の体の経営さえ出来ない社長では、会社の経営が出来るとは部下は信じない。社員は社長の後姿を見つめている。「己の体の放漫経営のため病気で倒れたあんたに、そんなことは言われたくない」が社員の本音である。

 

己を支える基礎細胞

 だれのお陰で37兆個の細胞が己を還暦まで生かしくれたのか。だれが会社を支えてくれたのか。誰のお陰で今日があると思うのか。その感謝の意識が薄いことが、社長自身が冒頭で発言するイケイケドンドンの社報から伝わってくる。

 後日、山本賞の式典会場で彼の姿を見た。車椅子姿で痛々しいが、病から回復して、威勢は元のように元気になったようだ。しかし彼の会社発行の社長通信から見ると、己を支える基盤(身体、社員、社会)への感謝の意識が薄く、生かされていることに認識不足があるようだ。前のめりで高尚な言葉を会社通信に列挙しているが、足元が固まっていない。土台から崩れるのではと危惧している。

 

手抜き工事

 大地震が起こると土台基礎工事の手抜きが発覚する。阪神淡路大震災時に、ビルや市内高速道路が倒れてしまったのは、その基礎が不出来か、もしくは手抜き工事であったためだ。その証拠を消すため、十分な調査もせず、大慌てで残骸を撤去してしまったのは、後世への汚点である。まるで中国の新幹線事故で、早々に事故列車を埋めてしまったと同じだ。我々は中国を笑えない。

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 阪神淡路大震災で傾いたビル

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/9/9c/

 

会社の実態

  この会社から定期的に宣伝メールが届く。以上の経過で、内容が信用できないので、うっとおしく配信停止を連絡した。しかし全くそれが通じず、メール配信は止らない。仕方がないので迷惑メールに自動振り分けすることにした。その一件でも社長の経営方針が分かる。頭隠して尻隠さず、である。

閻魔帳への中間報告

 この社長とは研修時の席が隣り合うご縁もあったので、東京以遠の土地で、駅からも遠い病院へタクシーを飛ばしてお見舞いに行った。しかし元気になっても礼状一つ来ない。再会しても、礼一つ言わない。

 彼が脳出血で倒れた原因を見れば、人間性が分かる。あとは押して知るべし、である。良き人間観察の勉強ができたと思うべきだ。人生の周りでは声なき経が聴こえている。その経を自分に当てはめて考えるかどうかである。

 

 ご縁の貸借対照表に人生の歩みが表われる。縁の残高が少ない経営者が人生で躓く。人は山には躓かないが、小さな蟻塚に躓く。佛様は全てを閻魔帳に記載して、己の体の病気を通して閻魔帳の中間報告をされる。その時が人生の岐路である。多くの人が佛の御心も知らず、地獄への近道へ足を向ける。人生曼荼羅には全てが描かれている。人生経営での学びである。他人様は自分の鏡である。心しよう。

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 馬場恵峰書

 

2021-11-17  久志能幾研究所通信 2211  小田泰仙

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2021年11月16日 (火)

家と人生の設計 基礎がないと砂上の楼閣

 

 いま、私は家を建てる計画をしていて、各ハウスメーカの基礎の考え方を比較研究している。その住宅メーカの基礎への取り組み姿勢で、その会社のレベルが分かる。

 

砂上の楼閣

 基礎のできていない家に住んだら、いくら基礎の上に立つ家が立派な作りでも、住めたものではない。地震が来たらひとたまりもない。それこそ砂上の楼閣である。

 人間でも、人としての基礎のできていないと、人間社会でいくら金儲けをできても、まともには生きていはいけない。また、なにか障害が起きれば、すぐ潰れてしまう。

 この考えは、全ての事象に当てはまる。学校の教育、科学技術の発展、文書の構成、芸事の修行、人間関係、機械の設計、オーディオアンプ等の全てに当てはまる。

 

忖度・不正

 学校の教育でも、基礎教育ができていないのに、上の学校に裏口入学しても、授業についていけない。

 基礎の実力がないのに、忖度で昇進しても実社会では通用しない。忖度が通用しない国家の司法試験は受からない。それをKKの実例で証明されたのは、反面教師の例として価値があった。

 

基礎研究

 技術文明国家では、基礎研究ができていないと、応用技術が発達しない。その成長に限界が出てくる。お隣の国のように。

 基礎がないとノーベル賞が取れない。蓮舫氏の戯言のように、「二番ではだめですか」と言うようではダメなのよ。死に物狂いで一番を目指して、やっと一流の下っ端になれる。

 歴代の政権が、この基礎研究に金をケチるから、科学技術立国の日本が衰退しているのだ。

 

意思表示の基礎

 論文でも、日本語の基礎とテクニカルライティングの基礎知識がないと、まともな論理的な文書はかけない。私が懸賞論文で最優秀賞をもらったのは、このテクニカルライティングの知識があったのが、大きな要素である。欧米の文化が支配する自然科学分野の論文では、日本の阿吽の呼吸や、「後はよろしく」などの曖昧な表現は許されない。インターネットを介した多民族・多価値観社会では、自分の意志をきちんと伝えるための基礎教育が必要だ。

 

芸事と技術

 芸事でも基礎ができていないと、発展はない。「守破離」の守は基礎のことである。宝塚出身の人が芸能界で長く活躍できるのは、宝塚学園で徹底的に、人間として基礎を躾けられるからだ。「宝塚学園で習得したのは精神面だけだ」と小柳ルミ子さんは証言している。人間としての基礎の上に、職能の技術が映える。

 技術の世界で機械設計でも、基礎がしっかりした構成にしないと、加工精度に影響をあたえる。

 

センチュリー

 車の設計でも、シャーシがしっかりしていないと、限界速走行時に問題がでる。先年発表された御料車(センチュリー)は、前モデルのレクサスLS460のシャーシがベースとなっている。共通化・軽量化された最新鋭レクサスLS500用シャーシではないのだ。御料車に前モデルのシャーシが採用されたのは、然るべき意味がある。なにせコスト度外視の御料車である。コストパフォーマンスは二の次である。天皇陛下をお守りする車だからだ。超が付くほどの最高が求められるからだ。センチュリーは、一般庶民が乗る(?)レスクスLSとは別格である。トヨタもメンツがかかっている。

 私には本来縁がないはずだったが、2年間の短い間でレクサスLS460とご縁が出来て、馬場恵峰先生ご夫妻の送迎に使えたのは幸せであった。

 

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  レクサスLS460のシャーシ(トヨタ自動車のカタログより) 

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   レクサスLS500のシャーシ(トヨタ自動車のカタログより) 

 

営業マンの基礎

 家を売る営業マンも、人間としての基礎ができていないと、信用されない。家の性能以前の問題である。家だけでなく、全ての営業マンに通用する話である。我々は世のために何を売るのか。自問しよう。

 

2021-11-16  久志能幾研究所通信 2210  小田泰仙

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2021年11月13日 (土)

ん億円の豪邸!? 何故仏壇がないか?

 

 YouTube のお家探索ツアー動画で、多くの家を見て新家建設の研究している。そこで発見した事実が、金持ちの大邸宅には仏壇がない家が多いことだ。大手住宅メーカのモデルルームにも仏間がない、である。

 知人に美術品を商う人がいる。その人の話では、訪問した豪邸でも仏壇のない家が結構あるそうだ。美術品を買うのだから、その家は裕福なはずだが、仏壇がないのだ。

 

 中にはゴルフ練習機械まである豪邸があった。大スクリーンの映画が鑑賞できる部屋は許せるが、リビングルームにバーカウンターまであるのは、やりすぎだ。それでいてご主人の書斎や書棚がないのだ。それでその人の知性が分かる。その人のご先祖様に対する考え考えが分かる。要は成金そのものなのだ。

 

 本来、家の外の娯楽設備を家に持ち込めば、子供の教育上で良くないだろう。そんな家で育った子供が心配だ。子供は親の言う事は聞かない。子供は親の背中を見て育ち、親のやっていることを真似る。金遣いの荒い家からは、金遣いの荒い子供が育つ。金持ちの家が三代続かないのには、理由がある。

 

墓参り

 話題のKK母子のニュースで、KK氏がこの2か月程、日本に一時帰国したが、その間で実父の墓参りに行かなかった。これは母親のKK氏が墓まいりや法事をやっていなかったため、息子のKK氏にそういう発想が起きなかったと思われる。K家にはそういうご先祖や亡くなった親を祀る習慣がないようだ。

 

薫習

 KK氏が母親の日頃の振る舞いに影響を受けないはずがない。30年間、薫習として徳のない振る舞いの影響を受けていたはずだ。そうでないとあれだけの非常識さも生まれない。あれだけのバッシングには、普通の神経では耐えられない。

 霧の中を歩めば、自ずと衣が濡れる。黒い霧の中を歩めば、心身共に黒く染まる。だから、子供を正しく躾けるには、親がしっかりしていなければ、ダメなのよ。今の日本の衰退は親の責任である。

 

不良の家庭環境

 不良になった子や考えがいじけた子供の家には、間違いなく仏壇や神棚がないようだ。見えないものを敬う精神が、人を不幸から遠ざける。此の世はプラスマイナスゼロの世界である。プラスが大きければ、相応したマイナス(見えない世界)がある。富豪の家に潜む見えないサムシングは、普通の家より大きいだろう。それを考えないと、ドツボに嵌る。

 

2021-11-13  久志能幾研究所通信 2207  小田泰仙

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2021年11月12日 (金)

釈迦の教え、オダ仏教の解釈

 

 お釈迦様の教えと曹洞宗道元禅師の教えを、私(オダ仏教)は下記に勝手に解釈した。人生で現れる事象に事実はない。解釈があるだけである(There are no facts, only interpretations. ニーチェ)。目の前の現象や先人の教えをどう解釈するかだけである。その解釈は人によって、みんな違う。みんな違ってみんな良いのだ。

 

原因と結果

 何ごとも因果応報である。原因のない事象はない。自分の存在こそが原因であり、結果である。それを脅迫的に表現したのが「因果応報」で、文学的に表現したのが「天網恢恢疎にして漏らさず」である。それを対処療法でやるから間違える。すべての原因は己である。郵便ポストが赤いのも自分の責任である。自分が郵政大臣になれば、ポストの色だって変えれるのだ。自分が生きているから、自分に問題が起こる。

 自分が死んでも、自分は何も困らない。困るのは自分の周りの人たちである。私に仕事を依頼した人が、私の突然の死で困るだけである。本人は死んで、知ったことではない。

 どうせあと50年も経てば、関係者はみんな死んで全ては解決である。そう思えば何事も大した問題ではない。大した問題ではないからこそ、全力でやれば、来世で良いことがある。因果応報である。

 真因を見ないから迷う。対処療法でやるから袋小路に入る。真因を探せば全ては解決する。全ては空。空は色である。それを目に見える事象だけで右往左往するから、道に迷う。

 

ものは要素からなる。

 道元禅師が中国で学んだ最大のことは、「ものは一二三」である。その一つ一つの要素を押さえれば、人生は大往生である。

 人には生があり、老があり、死がある。一二三である。

 人生は前世があり、現世があり、来世がある。全て因果因縁で繋がっている。一二三である。風が吹けば桶屋が儲かるのだ。

 学校も、一年生、二年生、三年生と一二三である。

 家は基礎土台があり、家屋本体があり、屋根がある。一二三である。

 物語は、序論があり、本論があり、結論がある。一二三である。

 オーディオアンプでも、シャーシがあり、内臓回路があり、外装がある。一二三である。

 

悩みは無くならない

 生きているから、悩みが生まれる。「他人と比較しない」がお釈迦様の教えである。比較するから悩みが生まれる。

 仏さまでも悩んでいる。それを悩みのないような仏の顔になるのが修行である。観音菩薩様でも真の佛になるために、仏道を修行している。人生も死後の世も全て、修行である。だから修行で苦労話をしてはならない。

 おだ仏教(自分教)を信じよ。唯我独尊、そう思えば優雅独尊、優雅に人生を独尊で過ごせる? 他人に振り回されるから、悩みが出る。自分だけの世界を創れば、悩みは消える。自分は教祖様なのだ。教祖様は悩みがないようなフリをせねばならぬ。自分を騙せば、自分も周りの人も幸せになれる。自分が幸せな顔をすれば、回りの人も幸せにできる。仏頂面に、幸せはやって来ない。

 

今を生きよ

 あの世も、明日のことも考えてはならぬ。今を生きよ。明日があると思うな。明日は明日の風が吹く。明日の朝、目が覚める保証はない。

 あの世が有ると思うな。あると思ったほうが幸せなら、思えばよい。お釈迦様でもあの世のことは、何もおっしゃられなかった。ただ「精進せよ」とだけ言い残されて寂滅された。

 どう思おうと、今を精進して生きればよい。それが前後裁断。

 利己で生きても幸せにはなれない。利他で生きよ。

 

日々に生きる作務が修行である  

 料理を作るのも、掃除をするのも全て修行である。これは曹洞宗の教えである。

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 馬場恵峰書

2021-11-12  久志能幾研究所通信 2206  小田泰仙

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2021年11月 9日 (火)

人生舞台道具 腕時計占い、ちょん髷占い

 

人生劇場

 持ち物にその人の人格が総て現われる。人生舞台で、自分はその主人公である。その舞台道具で、家の家具も、家の造りも、買い物も、食事も、名刺も、自己紹介の資料も、身だしなみも、車も、すべてその人の演技を際立たせる舞台道具である。

 その演技の結果は、子供や親や奥さんを見れば、その人の育ちと人格が透けて見える。

 人を観るなら、目を見開いて、耳をほじくって人生劇場の役者とその舞台道具を観察しよう。それをみれば危険信号が見える。観察力が自分の身を守る。

 

大きな腕時計

 家を建てるため、住宅メーカの展示場を回っていた時、そこで会ったある若い営業マンの腕に、大きな腕時計が目を引いた。人生は何ごともバランスである。分不相応で、バランスの取れた身だしなみから見て、その時計の大きさは異常に見えた。

 私はその事象を、営業マンの一点豪華主義の誇示だと判定した。そうしないと自己表現ができないのか。何か薄っぺらな印象を受けた。人は第一印象である。それで人格の8割が現れる。そう思って大きな間違いはない。

 それで実際と違っていれば、その人とはご縁が無かったのだと思えばよい。実際にどうかは別にして、そう思われたら営業マン失格である。自分がどう思うかではなく、相手がどう思うかである。あくまで決定権は相手にある。

 

家を見れば人生が分かる

 知人の多くの家を見せてもらって、その人の人生が見えた。その家に書斎があるかを見れば、その人の生き方が分かる。その家で、一番偉いご主人の書斎がない家が多くあった。それでその人の限界が見えた。書棚を見れば、その人の考えが分かる。その人は自宅の生活から醸し出した生き方を世間に晒して、人生を歩いているのだ。

 

世間の目

 マスコミを騒がしているKK氏問題でも、ポニーテール髪型が、世間にどう思われるか、それだけの問題である。たかが髪型、されど髪型である。その人は、その価値判断が、自分ファースト、自分基準なのだ。それがどういうインパクトを相手に与えるかを考えれば、営業マンの大きな腕時計の異常さが分かるはずだ。日本社会は閉鎖的で保守的なので、極端を避けるのが、密集した社会を生きる知恵なのだ。日本は欧米とは違うのだ。郷に入っては郷に従え、である。

 

オーディエンス

 テクニカルライティング技法でも、読み手がどう受けるかを考えて、文書構成と論理構成を組み立てる。決して、自分中心ではない。テクニカルライティングでは、読者をオーディエンスという。文書を書いて、オーディエンスに分かってもらわねば、書き手が非常識、伝達能力なしとみなさる。

 

がんの演技

 がんも同じである。自分が欲望のまま生きれば、体が悲鳴を上げて、体はがんに助けを求めて、その狂った生活を阻止するために、自分の体はガンを発症させる。人生はあくまで体ファーストである。たまには体のことを考えて暴飲暴食を見直そう。ご先祖から頂いた体を大事にしよう。

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馬場恵峰書

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2021-11-09  久志能幾研究所通信 2203  小田泰仙

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2021年11月 8日 (月)

愛癌千日回峰行  死を見据えて

 

 先日、愛知県がんセンター(愛癌山)で癌の定期検診を受けた。その結果で前立腺癌が疑われ、再検査でMRIと血液検査を受けさせられた。今日(11月8日)、その結果を聞きに、愛知県がんセンターに行ってきた。結果は、異常なしでほっとした。

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 生前に葬儀の段取り

 2019年2月12日、私は愛知県がんセンターで癌の手術をした。私のがんはステージⅢで、5年後の生存率51%であった。つまり5年後には同じ病気の人の半分が死ぬのだ。私は覚悟を決め、葬儀の段取りとその費用を払い、戒名の手配、死後50年間の法要の費用を払ってから手術を受けた。

 その後、馬場恵峰先生に戒名を揮毫してもらい、それを墓誌に刻んだ。

 司法書士に死後の財産の贈り先の遺言状を作成してもらった。

 大峯千日回峰行では、行に入る前に生前葬儀が行われる。回峰行では死に装束で大峯山を歩く。

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私の行

 今日(11月8日)で、手術後丁度1,000日が経過した。今、その計算して、数値が千日ピッタリであったのでビックリである。私にとってこの1,000日間は、毎日が癌再発防止との闘いで、それは千日回峰行と同じ修行であった。毎日、目が覚めると愛癌山に登り、誘惑の多い怠惰な生活を断つ修行の日々を送り、修行の愛癌山から下りて眠りにつく。この千日間は、それとの闘いの繰り返しであった。

 

 大峯千日回峰行では、毎朝、滝行として滝で水を打たれてから出発する。

 私は、南雲吉則先生から助言を受けて、毎朝、毎夜、お風呂で水を浴びることを再開した。これは皮膚に刺激を与えて、自律神経の活性化を図る意味がある。自律神経の活性化は、免疫力の向上につながる。現在で2年くらい、水浴びを継続している。

 大峯千日回峰行では、その修行を途中でやめるには、持っている短刀で切腹するか紐で首を吊って、皆さまに死をもってお詫びをするしか、その行を終えことができない。

 癌患者は、癌再発防止の生活の掟を破ると、切腹(開腹手術)である。毎日が死との闘いである。すこし油断をすると癌が再発する。

 この千日間、愛癌山への長い坂(地下鉄自由が丘駅から愛知県がんセンターまでは長い坂道)を何度も上って、下りてきた。幸い、神仏のご加護で現在まで生き延びさせていただいた。同じ病の河村義子先生は、その途中で亡くなられてしまった。それを思うと自分の幸せを感じる。

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  晴れた朝、がんセンターまでの長い坂を上る。 2021年10月19日、9時

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 愛癌山からの帰路で、後は雨となった。

 時には涙(雨)に濡れて長い坂を下ることもある。

 回峰行では、途中で挫折(死)もあるだろう。2021年10月19日、13時

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癌との闘いに勝てた理由

 私が癌を再発させず、3年間を生き延びられた最大の要因は、がんと闘わなかったためだと思う。塩沼亮潤大阿闍梨が著書『人生生涯 小僧のこころ』(致知出版社)で言われているように、「大峯山を征服して千日回峰行を達成するのだ」と、山を征服するつもりで、山道を蹴って闘うが如く歩くのでは、千日回峰行を達成できなかったという。それでは山からしっぺ返しを受ける。そうでなく、一歩一歩を「感謝、感謝」と念じながら歩いたから達成できたという。

 それと同じで、我々凡人も毎日の歩みを感謝で生きることだ。癌になったのも感謝である。癌になった運命を恨んだり、嘆くだけではガンは治らない。対処療法だけでも治らない。この世は因果応報である。癌になったのには原因がある。また癌にならなければ、狂った生活を続け、早晩に心筋梗塞、脳梗塞等で死んでいただろう。私は癌になった原因の狂った生活を見直し、健全な生き方に変えた。

 がんは外からきたウイルス等ではない。自分の内なる細胞が、自分の狂った生活でガン化しただけである。今までなんと間違った生活をしてきたかを、がんになって気が付かされた。毎日を正しい生き方で、日々の出来事に感謝して生きれば、がんは再発しないと確信した。

 

残り人生、生老病死

 そうは言っても、後50年も生きられる訳ではない。生あるものに、死は必然である。此の世は生老病死、輪廻転生である。今生きていることを喜び、感謝して与えられた使命を全うしたいと思う。後世の残す仕事をして旅立ちたいと、毎回、愛知がんセンターのロビーに展示されている「生生流転」の像を見る度に思う。自分は何のために生れたのか、自分の使命は何か、と。自分は生きているのではない、生かされているのだ、と。

 この像は、私が愛知県がんセンターに入院中、何度も何度も見続けた像である。この像をみて生老病死、輪廻転生を考え続けた。

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 2019年1月28日 撮影 愛知県がんセンター ロビーにて

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2021‎年‎11‎月‎1‎日、‏‎10:20    撮影

がんセンターの入り口に、3年前はなかった「入口専用」「出口専用」の表示ができた。新型コロナ対策の一環である。

人生でも生を受ければ、死をもってこの世を出ていかねばならぬ。その表示に人生を感じた。

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大峯千日回峰行

 千日回峰行 (大峯)は、奈良県大峰山において金峯山修験本宗で行われる、回峰行の1つ。吉野山金峯山寺蔵王堂から大峯山山上ヶ岳頂上までの片道24kmを往復(48km、標高差1,355m)する。それを千日続ける。雨が降ろうが、台風が来ようが、24km先の大峰山に行かねばならぬ。行かなければ、その時点で終わる。

 

 金峯山修験本宗の1400年間で、大峯千日回峰行を満行したのは、2人のみ。その一人が1991年に大峯千日回峰行を満行した塩沼亮潤大阿闍梨である。

 比叡山での千日回峰行では、51人の満行者がおられる。

 

 1日で一往復する。往復する期間は、戸開けの5月3日から9月23日の戸閉めまでの山開きの間で行う。決して途中で止めることはできない。止める場合は死出 紐や短刀で自害する。

 

毎日の行動

 蔵王堂の地獄谷の宿坊に寝起きする

 前日の午後11時25分に起床し、滝行を行う。

 参籠所で死出装束を整える

 0時半頃出発し、山中118箇所の祠で般若心経を称える

 金峯神社、新茶屋跡、百丁茶屋跡、五番関、泥辻茶屋を経て8時半頃に大峰山頂に到着

 

参考文献

塩沼亮潤・板橋興宗著『大峯山千日回峰行』春秋社

塩沼亮潤著『執らわれない心』PHP

塩沼亮潤著『人生生涯小僧のこころ』致知出版社

塩沼亮潤著『毎日が小さな修行』致知出版社

塩沼亮潤著『人生の歩き方』致知出版社

 

2021-11-08  久志能幾研究所通信 2202  小田泰仙

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2021年11月 4日 (木)

見学記 長野県立美術館で盗みたくなる絵?

 

 2021年10月29日、長野市の東急百貨店で開催されている「大仏師松本明慶仏像彫刻展」に行った。その足で、長野美術館を見学した。本来、善光寺に行く予定が、新型コロナ騒動で、7年ぶりの秘仏の御開帳が来年に延期になったので、参拝は来年に変更して、長野美術館に行った次第である。

 

 長野美術館は近代的なデザインの建屋である。3つの建屋からなり、本館と企画展部と東山魁夷館からなる。東山魁夷館とは本館から、透明なガラスの回廊でつながれていて、わくわくするような雰囲気が漂う。

 ただし中身は期待外れであった。

 

東山魁夷館

 初期から晩年までの歴史記念的な作品が多く展示されているが、私が名画と定義できる作品は無かった。所蔵している絵画で、今回の企画展(東山魁夷館コレクション展 第Ⅳ期)では、あまり見るべき絵は少なかった。このコレクションは、東山魁夷が54歳から69歳までの作品だが、欧州のスケッチ絵が多くて、中途半端な絵(私の感想)が多かった。

 私が名画と定義できるのは、「捕まってもいいから、盗んで家に飾りたくなる作品」である。残念ながら、この東山魁夷館では、それが無かった。お陰で逮捕されずに帰宅した。

 

常設展の会場

 常設展の会場では、畳数枚分もの大きな作品が多く展示されているが、常識的に「美術作品とは何か、その付加価値は何か」を考えてしまった。大きな作品は、美術館ではなんとか展示できるが、その多くが見入ってしまい、家に持ち帰りたいと思う作品は皆無である。自分がウサギ小屋の小さな家に住んでいることが原因ではある。絵があまりに大きすぎて、作品の価値が見いだせないからだ。

 今まで、大きな絵で感動した絵は、ルーブルの「ナポレオンの戴冠式」、オランダ美術館のレンブラントの「夜警団」の絵ぐらいである。それでも、感動はしたが、それを盗んで家で飾りたくなる気持ちにはならなかった。そんな絵を自宅に飾ったら、家が雰囲気的に死んでしまう。

 

 画家も展覧会に出品するには、大きな絵を出さねばならぬ。その絵が、美術館に買って貰えればよいが、そうでないとその絵の保管が大変なのだ。その保管のため、マンション一室を借りている画家も多い。画家も大変なのだ。

 

名画無し?

 常設展では、美術の教科書によく掲載されている作品が多く展示されてる。教科書に載る典型的な歴史的な作品が多いから、美術の勉強にはなる。しかし「盗みたくなるような魅力ある作品」は少ない。やはり美術館が買い入れる無難な作品である。

 今回は、山路先生とご一緒したから、山路先生から作品の解説を聞きながらの鑑賞となり、贅沢な訪問となった。山路先生は、元高校の美術の先生であった。定年退職後の今でも現役の芸術家である。

 

経営とは

 芸術は人生を豊かにしてくれる。人生を経営するとは、芸術活動である。どこにもない芸術作品を創り、世に貢献しよう。経営とは、今、自分が持てる資源を最大限に活用して、世のために付加価値を創造することだ。自分の才能の発掘こそ経営の基本である。

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 長野県立美術館 正面の外観

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 東山魁夷館への通路

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東山魁夷館への通路の外の風景

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 長野県立美術館での課外授業(小学生の見学)

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長野県立美術館のすぐ隣が善光寺

 

2021-11-03  久志能幾研究所通信 2197   小田泰仙

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2021年11月 2日 (火)

人の生きる目的は、大佛になること

 

人は動物として生まれて、躾と教育で人間に成長する。

人間に成長したら、次の目的は佛になることだ。

佛になるなら、もっと大きな大佛を目指すことだ。

小さな佛で満足してはならぬ。

 

海は水を辞せざるが故に、大海となった。

(自侘は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同時なり(修証義))

人は大海のように、人生の清濁を併せ飲む大佛になることだ。

そうすれば小さな欠点は見えなくなる。

神ではない。大神でもない。大佛になることだ。

佛こそは、人間が精進した後、昇華してなれる存在である。

しかし人がいくら頑張っても神にはなれない。

神になったら、「人でなし」だ。

己が仏師として、己の中にある佛を彫り出すことだ。

自分には、自分さえ知らない大きな能力が潜んでいる。

 

それを覆う無知や傲慢さを削ぎ落すには、己に傷がつく必要がある。

それが自分の中にある佛を創造することだ。

「創」とは絆創膏の「きず」「刂」(砥石)の象形文字である。

武士は刀で傷を受けても、なにクソと血が吹きあがる傷口に焼酎を吹き付ける。

その傷口から新しく強靭な細胞が再生される。

 

大佛大器を目指せ。大佛は全てを受け入れる大きな器である。

その器には大智大賢慈悲が入っている。

大佛は悲しみも喜びも総てを受け入れる大きな器である。

 

私はそれを目指して精進している。

大佛を納めるオダ仏教本殿を建てよう。

棒ほど願って針ほど叶う。

大仏を目指して、結果が小佛でもいいではないか。

小さな童地蔵が精進をして、大佛に変身する。

仏道を歩むプロセスが大事なのだ。

千里の道も一歩から。

大仏を目指さないと、小佛にさえなれない。

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西国二番札所・紀三井寺の佛頭(2m40cm)を製作中の松本明慶大仏師

 『大佛師 松本明慶 作品集』小学館より

 本図は大仏師松本明慶仏像彫刻美術館の掲載許可を得ています。

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  童地蔵  松本工房

 

4k8a02371s  馬場恵峰書

2021-11-02  久志能幾研究所通信 2197  小田泰仙

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2021年11月 1日 (月)

人生200年、あの世500年、輪廻転生を信じて家作り

 

無神論者はテロリスト?

 欧米ビジネスマンと話すとき、自分は無神論者だと言っては、軽蔑される。下手をすればテロリストと間違えられる。文明人と野蛮人を分けるのが、宗教の有無だと彼らは信じている。実際に人間とサルを分けるのが、宗教があるかないかである。だからキリスト教徒の彼らから見れば、無神論者は狂人である。人間的にも信じてもらえない。彼らと話すときは、自信をもって自分は仏教徒だと言おう。

 無神論者でテロリストは家など作らない。教養ある知識人として、この世の中に付加価値を創る生産工場としての家を建てよう。家は人生を闘うための要塞である。人生航路を行く空母でもある。

 

人生200年

 此の世の人生は200年である。動に生きて100年、静でお墓の中で過ごして100年である。お骨は微生物が100年かけて分解してくれる。それでお骨は土に還る。人はそれで物理的にこの世から消える。お墓とは、骨を土に還す装置である。だからお墓とは、此の世の最後の家である。

 

 私は土に還るまでの100年間を、安らかに過ごすため、6年前に耐震も考えた構造のお墓にした。またメンテナンスフリーであるお墓にした。墓誌に戒名まで彫って、準備万端である。あとは死ぬだけ(?)だが、なかなか死ねなくて往生(?)している。そう簡単に死んでたまるかと、精進している。

 それゆえ、人生200年を俯瞰して、動の時間を良く生きるために、良い家を建てたい。良い家は、人生を豊かにしてくれる。今、次の家を建てる夢をいだいて計画をしている。

 

24時間換気システム

 現世の最新式の高気密高断熱の家は、24時間換気システムが法律で必須である。それに準じて建設したお墓の納骨室には、通気孔を儲けて、湿気を除く仕組みを取り入れた。これは石屋さんの家のお墓のアイデアを借用した。だからたまには、霊として暗い納骨室の通気口から抜け出し、娑婆に遊びに行けば(?)よいのだ。未練が残れば、化けて出ればよいのだ。

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 納骨室の横の通気口

 

あの世の期間

 あの世の期間は500年である、と私は信じている。仏典では天の寿命は500年と言われている。天女も四天王も寿命は500年である。関ヶ原合戦場では、数十万人が戦いで亡くなったと言われる。その亡霊がこの500年間、さ迷っていて関ヶ原合戦場跡に度々出てきたそうだが、最近、それが全く出なくなったという。それから推察して、あの世の期間は500年と私は推定した。

 

 だから、日本の仏教の教えでは、どんな極道非道で地獄に落ちても、500年の「刑期」を勤めれば、輪廻転生で生まれ変わる。そこに日本の仏教は救いがある。キリスト教では、地獄に落ちると、永遠に地獄暮らしであり、救いがない。

 その後、輪廻転生で、何に生まれ変わるかは、現世の積善次第というのが仏教の教えのようだ。先人は賢い脅迫システムを作った。私も幼少の頃、祖母に連れられてお寺で地獄絵を見せられ、震え上がった。それで悪いことをしないと誓ったものだ。子供には効果抜群の教えである。

 

あの世が有りや無しや

 お釈迦様は、あの世が有るともないとも言われず、「ただ精進せよ」とだけ言い残されて寂滅された。あの世のことは、後世の弟子の作り話(?)である。私はその作り話を信じている。そう信じた方が、心安らかに生きていけると思う。誰もそれを証明できないなら、それを信じた方が、精神的に楽だと思う。それが人生の生き方を左右すると思う。

 神仏を信じない輩が、「死刑になりたい」と無差別殺人を起こす。今日(11月1日)も、狂人が京王線で死傷放火事件を起こし、ハロウィンの日が騒然となった。荒んだ事件の多発は、そういう幼児期の宗教教育が無くなったためだと思う。あの世が有ると信じて、善人として生きた方が、世のためだろう。嘘も方便である。あの世があるかどうかは、誰にも分らない。

 

70年後の世界

 おだ仏教の教えでは、33回忌で閻魔大王から、極楽に行くか、地獄に落ちるかの審判が下されるとしている。その時、私の守り佛の虚空蔵菩薩様が、私の弁護人となって、助けて頂けるそうだ。それが今から70年後(?)の審判である。いろんな説があり、それが17回忌という説もあるようだ。

 

 だから私は松本明慶先生に、虚空蔵菩薩像の製作をお願いした。毎日、虚空蔵菩薩に手を合わせると安らかな気持ちになる。荒んだ気持ちのまま、過ごしたくはない。守ってくれる仏さまを信じることは、精神衛生上で良いことだ。勇気もって生きていける。前向きの考えからは、前向きの人生が送れる。

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 松本明慶大仏師作 虚空蔵菩薩

 

2021-11-01  久志能幾研究所通信 2196   小田泰仙

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