釈迦の教え、オダ仏教の解釈
お釈迦様の教えと曹洞宗道元禅師の教えを、私(オダ仏教)は下記に勝手に解釈した。人生で現れる事象に事実はない。解釈があるだけである(There are no facts, only interpretations. ニーチェ)。目の前の現象や先人の教えをどう解釈するかだけである。その解釈は人によって、みんな違う。みんな違ってみんな良いのだ。
原因と結果
何ごとも因果応報である。原因のない事象はない。自分の存在こそが原因であり、結果である。それを脅迫的に表現したのが「因果応報」で、文学的に表現したのが「天網恢恢疎にして漏らさず」である。それを対処療法でやるから間違える。すべての原因は己である。郵便ポストが赤いのも自分の責任である。自分が郵政大臣になれば、ポストの色だって変えれるのだ。自分が生きているから、自分に問題が起こる。
自分が死んでも、自分は何も困らない。困るのは自分の周りの人たちである。私に仕事を依頼した人が、私の突然の死で困るだけである。本人は死んで、知ったことではない。
どうせあと50年も経てば、関係者はみんな死んで全ては解決である。そう思えば何事も大した問題ではない。大した問題ではないからこそ、全力でやれば、来世で良いことがある。因果応報である。
真因を見ないから迷う。対処療法でやるから袋小路に入る。真因を探せば全ては解決する。全ては空。空は色である。それを目に見える事象だけで右往左往するから、道に迷う。
ものは要素からなる。
道元禅師が中国で学んだ最大のことは、「ものは一二三」である。その一つ一つの要素を押さえれば、人生は大往生である。
人には生があり、老があり、死がある。一二三である。
人生は前世があり、現世があり、来世がある。全て因果因縁で繋がっている。一二三である。風が吹けば桶屋が儲かるのだ。
学校も、一年生、二年生、三年生と一二三である。
家は基礎土台があり、家屋本体があり、屋根がある。一二三である。
物語は、序論があり、本論があり、結論がある。一二三である。
オーディオアンプでも、シャーシがあり、内臓回路があり、外装がある。一二三である。
悩みは無くならない
生きているから、悩みが生まれる。「他人と比較しない」がお釈迦様の教えである。比較するから悩みが生まれる。
仏さまでも悩んでいる。それを悩みのないような仏の顔になるのが修行である。観音菩薩様でも真の佛になるために、仏道を修行している。人生も死後の世も全て、修行である。だから修行で苦労話をしてはならない。
おだ仏教(自分教)を信じよ。唯我独尊、そう思えば優雅独尊、優雅に人生を独尊で過ごせる? 他人に振り回されるから、悩みが出る。自分だけの世界を創れば、悩みは消える。自分は教祖様なのだ。教祖様は悩みがないようなフリをせねばならぬ。自分を騙せば、自分も周りの人も幸せになれる。自分が幸せな顔をすれば、回りの人も幸せにできる。仏頂面に、幸せはやって来ない。
今を生きよ
あの世も、明日のことも考えてはならぬ。今を生きよ。明日があると思うな。明日は明日の風が吹く。明日の朝、目が覚める保証はない。
あの世が有ると思うな。あると思ったほうが幸せなら、思えばよい。お釈迦様でもあの世のことは、何もおっしゃられなかった。ただ「精進せよ」とだけ言い残されて寂滅された。
どう思おうと、今を精進して生きればよい。それが前後裁断。
利己で生きても幸せにはなれない。利他で生きよ。
日々に生きる作務が修行である
料理を作るのも、掃除をするのも全て修行である。これは曹洞宗の教えである。
馬場恵峰書
2021-11-12 久志能幾研究所通信 2206 小田泰仙
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