家と人生の設計 基礎がないと砂上の楼閣
いま、私は家を建てる計画をしていて、各ハウスメーカの基礎の考え方を比較研究している。その住宅メーカの基礎への取り組み姿勢で、その会社のレベルが分かる。
砂上の楼閣
基礎のできていない家に住んだら、いくら基礎の上に立つ家が立派な作りでも、住めたものではない。地震が来たらひとたまりもない。それこそ砂上の楼閣である。
人間でも、人としての基礎のできていないと、人間社会でいくら金儲けをできても、まともには生きていはいけない。また、なにか障害が起きれば、すぐ潰れてしまう。
この考えは、全ての事象に当てはまる。学校の教育、科学技術の発展、文書の構成、芸事の修行、人間関係、機械の設計、オーディオアンプ等の全てに当てはまる。
忖度・不正
学校の教育でも、基礎教育ができていないのに、上の学校に裏口入学しても、授業についていけない。
基礎の実力がないのに、忖度で昇進しても実社会では通用しない。忖度が通用しない国家の司法試験は受からない。それをKKの実例で証明されたのは、反面教師の例として価値があった。
基礎研究
技術文明国家では、基礎研究ができていないと、応用技術が発達しない。その成長に限界が出てくる。お隣の国のように。
基礎がないとノーベル賞が取れない。蓮舫氏の戯言のように、「二番ではだめですか」と言うようではダメなのよ。死に物狂いで一番を目指して、やっと一流の下っ端になれる。
歴代の政権が、この基礎研究に金をケチるから、科学技術立国の日本が衰退しているのだ。
意思表示の基礎
論文でも、日本語の基礎とテクニカルライティングの基礎知識がないと、まともな論理的な文書はかけない。私が懸賞論文で最優秀賞をもらったのは、このテクニカルライティングの知識があったのが、大きな要素である。欧米の文化が支配する自然科学分野の論文では、日本の阿吽の呼吸や、「後はよろしく」などの曖昧な表現は許されない。インターネットを介した多民族・多価値観社会では、自分の意志をきちんと伝えるための基礎教育が必要だ。
芸事と技術
芸事でも基礎ができていないと、発展はない。「守破離」の守は基礎のことである。宝塚出身の人が芸能界で長く活躍できるのは、宝塚学園で徹底的に、人間として基礎を躾けられるからだ。「宝塚学園で習得したのは精神面だけだ」と小柳ルミ子さんは証言している。人間としての基礎の上に、職能の技術が映える。
技術の世界で機械設計でも、基礎がしっかりした構成にしないと、加工精度に影響をあたえる。
センチュリー
車の設計でも、シャーシがしっかりしていないと、限界速走行時に問題がでる。先年発表された御料車(センチュリー)は、前モデルのレクサスLS460のシャーシがベースとなっている。共通化・軽量化された最新鋭レクサスLS500用シャーシではないのだ。御料車に前モデルのシャーシが採用されたのは、然るべき意味がある。なにせコスト度外視の御料車である。コストパフォーマンスは二の次である。天皇陛下をお守りする車だからだ。超が付くほどの最高が求められるからだ。センチュリーは、一般庶民が乗る(?)レスクスLSとは別格である。トヨタもメンツがかかっている。
私には本来縁がないはずだったが、2年間の短い間でレクサスLS460とご縁が出来て、馬場恵峰先生ご夫妻の送迎に使えたのは幸せであった。
レクサスLS460のシャーシ(トヨタ自動車のカタログより)
質実剛健な造り
レクサスLS500のシャーシ(トヨタ自動車のカタログより)
営業マンの基礎
家を売る営業マンも、人間としての基礎ができていないと、信用されない。家の性能以前の問題である。家だけでなく、全ての営業マンに通用する話である。我々は世のために何を売るのか。自問しよう。
2021-11-16 久志能幾研究所通信 2210 小田泰仙
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