l5_佛が振るチェカーフラグ Feed

2018年5月21日 (月)

自殺は最悪の人殺し

 最近(2018年)、ジェイアールが頻繁に遅れる。その原因が、いたずらによる踏切警報機の発信、電車と人との接触事故等による迷惑行為に起因する。最近のJRの定時運航の乱れ具合が、日本人のモラルの低下を表している。電車と人との接触事故は、表現は穏やかであるが、鉄道飛び込み自殺である。

 自殺とは、自分というこの世で一番大事な人間を殺すこと。人と生まれたら、最低でも、自分だけは幸せにする義務がある。それが己を此の世に遣わせてくれたご先祖に対する恩返しである。

 

鉄道事故に遭遇

 久留米の真島消化器クリニックで診察を受けた翌日、2016年10月15日、知人と会食のため名古屋に向かった。午前10時過ぎに大垣駅に着くと東海道本線が人身事故で上下線とも不通になっていた。10時頃に、岐阜駅と木曽川間で人が列車と接触したとのこと。飛び込み自殺である。人は必ず死ぬ定めであるが、人に迷惑をかけて死んではなるまい。当事者はそれどころの心境ではないだろうが、人として最後の一線として、その掟は守りたいもの。しかしその鉄道自殺が頻発している。現代は人の最低限度のモラルが低下している。

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道ずれ旅客機墜落事故

 2015年、ドイツの機長が乗客を道ずれにして旅客機ごと墜落させたジャーマンウイングス9525便自殺事故があった。ジャーマンウイングス9525便墜落事故は、2015年3月24日、西・バルセロナから独・デュッセルドルフに向けて飛行していたドイツのLCC・ジャーマンウイングスの定期便がフランス南東部に墜落した航空事故である。世界の精神の荒廃を垣間見る。

 

親の因果が子に報い

 鉄道自殺は、遺族に塗炭の苦しみを与える。関係のない鉄道利用者に大迷惑である。鉄道関係者もその遺体の後始末が大変である。また子、孫にもその影響が及ぶ。その昔、親戚の叔父が鉄道自殺をしたが、その日が息子の入社日であった。それで息子の人生が暗転した。さらに40年後に孫が日本の最高学府を卒業しても就職できないという因果をこうむっている。

 

人の道

 道連れ自殺は、犬畜生ではありえない世界である。人間の尊厳にかかわる事象で、人間の精神の荒廃を示す表れだ。動物は死を悟ると、人知れず姿を消して、静かに死を迎え、土に帰る。犬畜生にも劣るふるまいの死は避けたいとの思いを新たにした。

 親として、年長者として、後進に人としての生き方を示して死にたい。人として生まれたのなら、人を幸せにして死にたい。人を不幸にして死ぬのは、人の道に反している。まず自分を幸せにしてから、死ぬべき。

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2018-05-21

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月12日 (月)

死生観 = 「人生の定義」

 「人生とは何であるか」の定義で生き方が決まる。人生とは何であるかの定義をして、人生の価値を測る物差しを決める。そこから人生は始まる。私は、下記で定義した。英英辞典の中から探して一番納得できた表現であった。

「人生とは、生きている間に行動と経験を積ねながら歩く道である」

The way you live your life, and what you do and experience during it.

“Longman Exams Dictionary”

 

狭き門より入れ

 目の前に極楽の平坦な道があり、もう一方に苦難の起伏に富んだ道がある。一方に広き門があり、もう一方に狭き門がある。一方に食べ放題の道があり、他方に節食の道がある。ずる賢い人間は、動物を捕獲するのに極楽の餌を用意する。金に飢えた食品企業は、美味しい餌をぶら下げて意志の弱い人間を捕獲する。理性ある人間なら、餌に釣られて道を誤るのは避けたいもの。

どちらの道を選ぶかでその人の人生が決まる。

 

死生観を持って

「何のために生きるのかの問題意識を持っていない人は、死生観がなく死に向けた準備もない。死生観がない人は、日本人の9割を占め、信仰なしの人は7割弱も存在する。死への準備がある人は覚悟を持っており、その準備のある人の86%は延命治療を望まない。(『週刊ダイヤモンド 2016年8月6日号』)」

 人間として生まれたなら、死生観をもって生き、死に覚悟をもって臨みたい。我々は犬畜生ではないのだ。

 

人は自然の一部と解釈

 人は大地から生まれ、大地からの恵みで成長し、必ず生まれた大地に還る。大地も自然の一部で、四季折々の変化を見せる。それは自然が声なき経を読んでいる姿である。自分の生きる姿が自然の風景なのだ。人生にも春夏秋冬がある。自分もいつかは自然に還る身である。人生を大地と定義したら、それを耕し豊潤な大地にするにはどうするか、その豊かさを測るものは何かを決めてから始めるべきだ。その定義は百人百様で、自分の定義を定めればよい。それは解釈の問題でもある。人生という事実があるのではなく、その人がどのように人生を解釈して生きたかである。それによって死に方も異なる。

 

人生という大地を耕す

 人生は自身の広大な大地を耕す仕事に似ている。広大な大地を汗水たらして毎日、死ぬまで耕し続けるのが人生である。毎日毎日が同じことに繰り返しである。長年耕し続けても、大地の見た目は変わらず、耕した後を振り返って見ても、耕した面積は広大な大地のごく一部分でしかない。死ぬまでに耕せる面積は限られている。それでも耕し続けなければ、農夫(人間)ではなくなる。人生を行動と経験の道と定義すれば、多くの行動と経験が大地を豊かにしてくれることになる。

 人間が動物ではない証が、人生に価値を求めて生きることである。できることは限られていると、諦めたら負けだ。勝負では先に諦めたほうが負けなのだ。

 

人生とは仕事

 人生とは仕事であると定義すれば、それにあった人生が展開される。人生で一番多くの時間を費やすのは仕事である。それを「人生は苦行である」と定義すれば、行く先は苦行ばかりである。それは奴隷の人生である。その大地を小作人として年貢を納めるために耕せば、奴隷の人生である。地主として豊かな実りを夢見て耕せば、大地主の人生となる。定義の如何によって働き方、生き方が異なる。良く生きることは良き死生観ともなる。

 より広く開拓して耕すのか、より深く自分の地所を耕すのか。方法は千差万別ではあるが、耕し続けた人は幸せである。その大地が豊かになったかどうかは、植えた木が大きくなる20年後でしか分からない。分からなくても、ひたすら耕し続けるのが人生である。その実りを子孫が受けるのも人生の定めである。自分もご先祖の植えた木の恩恵を受けて育ってきたのだ。

 

西洋の労働観

 欧米の労働観では、労働は神がアダムとイブの過ちの罰として与えた苦役であるとされる。そのため欧米人は金が出来たらさっさと引退して悠々自適の生活を送る。労働を苦役とするから奴隷制度が生まれ、戦争して勝てば敗者を奴隷としてこき使うという思想が生まれる。それに対して、日本では労働を神聖なものとして考えるので、日本には奴隷文化は生まれなかった。世界でも稀有でありがたい思想である。それが現在は欧米の拝金主義で汚染されつつある。ホリエモンのように、金が全てという考えの人間が出現する有様である。それは金の奴隷になること。

 

会社の存在意味

 自分が何のために存在しているか、それを現すのが志であり、家族の一員なら家訓である。そこに生きるための指針が示されている。同じように企業は何のために存在するかを示すのが経営フィロソフィー、経営理念である。Toyota way、pasonic way といった道で示した例も多い。己の会社が何のために存在するかを忘れたとき、企業は存亡の危機を迎える。会社の寿命は30年である。創業者が築いた企業基盤を、後継者がその会社の存在理由を忘れて、ゴルフ、酒の放蕩におぼれたとき、金儲け至上主義に陥った時、天は会社の存在理由がないとして倒産を宣告する。有名一流企業でも、後継の社長が利益追求や権力闘争に明け暮れ、創業者の会社理念を忘れて会社を没落させる例が頻発している。JAL、ソニー、東芝、松下、三菱、日産……..。

 企業は社会に貢献してそのお礼としての利益を国と従業員に配分する。赤字会社は、国が税金で用意したインフラをキセル行為で利用している。それでは使用済み核燃料と同じで、赤字企業は社会の利益に貢献しない使用済み企業である。さっさと潰れるのが社会の為である。存続は税金の無駄遣いである。

 

自分の存在意味

 世に役立ってこそ、自分の存在意義がある。企業の不祥事を他山の石として己の存在意義を考えたい。この世でお世話になるのなら、死ぬまで世の役に立つ仕事をして生きよう。

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2018-03-12

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2018年3月 9日 (金)

命をケチる

 大垣藩の最後の藩主であった戸田共氏の戸田伯爵夫人の極子は、岩倉具視の三女である。その岩倉具視の件の調査の関係で、2016年9月20日頃、京都の知人に電話をしたら、彼の27歳のご子息が自殺をされたとの話を聞かされた。そのためとても、聞きたいことも聞けなかった。これも戸田伯爵夫人の調査がなければ接せることのなかった事件である。自殺という重たいテーマのご縁をいただいた。

 

多くのご恩のお陰

 人は一人では生きてはいけない。今の生まれた命や支えて頂いている多くの人たちのことを思えば、自殺はありえない。自分一人で、自力で生きていると思い詰めるから自殺になってしまう。先祖、親、師、隣人、友人の恩があって生きていると悟れば、自殺はありえない。絶望の時、相談する師がいないと、路頭に迷う。所詮、人間界で起きた事象は、人間界で解決できる。思い詰めるとあの世に行っても解決はできない。家族や師との会話があれば、自殺は防げるはず。家族、師とのコミュニケーションを大事にしたい。

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馬場恵峰書 2016年9月27日 揮毫

同級生の自殺

 1973年4月1日、入社日の夜、同級生が自殺をした。クラスで成績2番の秀才である。夜の就寝前に電気コードを体に巻き、タイマーをかけての自殺である。原因は不明だが、45年経った今でも、頭の隅から消えない事件である。

 

叔父の自殺

 1988年4月2日、親戚の叔父が鉄道飛び込み自殺をした。当日は一人息子の入社日である。それが遠因で息子の人生が暗転した。しばらくして、彼は会社を辞め、その後も数回の転職を繰り返すことになった。なにも息子の入社日に自殺をしなくてもとは思うが、本人はそれさえ考えが及ばないほど追い詰められていたのだろう。その為だと思うが、彼の孫は3人とも日本の最高学府を卒業しながら、10年間も就職浪人である。なにか考えさせられる。

 

講師の自殺未遂

 2000年頃、私は地獄の研修を受けた。その研修講師のKさんから自殺未遂の話を聞かされた。Kさんは元会社経営の社長で、会社経営に行き詰まり、絶望して車ごと崖から飛び降りるつもりでアクセルを踏んだが、家族の顔を浮かび、崖の直前で思いとどまったという。自分を支えてくれている家族が、自殺を引き留めてくれた。

 

師としての信用自殺

 自分が思い詰めて、師と仰ぐ人に相談に行っても、その師が「忙しい」とかの言い訳で逃げられると、百年の恋にも似た師への尊敬の念が雲散する。何時でも何でも何処ででも相談に乗ってくれるのが、真の師である。それは現世の人とは限らない。本の中にも真の師は存在する。私は師と崇めていた人の本質が露見してから、その人は単なる人生の水先案内人であると悟り、距離を置いた。講師が師としての信頼を自分で殺したのだ。

 

緩慢なる自殺

 自分を支える一番の御恩ある御本尊が自分の体である。命が短くなるのが分かっていてなぜ、不摂生、煙草、暴飲暴食に走るのか。己の体を痛めつける生活習慣、食生活(飽食)、悪い食べ物の多食は緩慢なる自殺である。過労死も、仕事と命を天秤かけて値踏みして、仕事の方が大事とする誤った判断の結果の自殺行為である。過労死をして誰が喜ぶのか。仕事とは、人に喜ばれてナンボである

 

他人の命(時間)の軽視

 2018年3月8日、ある会合に出かけて、その人の軽自動車(顧客からの預り車)に乗せられた。その零細企業の社長は、運転中にかかってきた顧客の電話の応対で忙殺されていた。社長クラスの人を3人も乗せて、安全面で問題がある軽自動車で携帯電話を掛けながら運転するのは、自殺行為である。その社長は会合中も、会議に途中で皆がイベントの打ち合わせをしている中、妨害するように、何度も携帯電話をしまくっていた。会合に関係ない電話の時は、席を外して会議室の外で電話をすべきである。その社長は会議に参加した人の時間(命)と自分の仕事の忙しさを天秤にかけて、自分の仕事を優先したのだ。人のことは知ったことではないのだ。命や人の時間を粗末にする人を計値(ケチ)という。

 

ケチとは

 計値(ケチ)とは、命と快楽・仕事を天秤にかけ、値踏みをする愚行である。食欲の快楽に身をゆだねるのが情けない。その仕事をしてくれる人は他にもいる。世の為になる仕事は皆で行ずればよい。仕事を自分一人でやろうとするから、無理が出る。偉大な仕事は多くの人が協力して成し遂げられる。人を悲しませては、その仕事に傷がつく。己の命の代わりはない。多くの御恩に支えられて、自分が生かされている。自力ではない。

 

ケチの行く末

 ケチとは己の狭い視野で値踏みをすること。ケチな人は目先に囚われて、短絡的・短期的な視野でしかものが見えないため、10年後に損をする判断をする。佛様の差配は人智を超える。回り道にお宝が埋まっている。佛様も元は人の子、陰徳を積めば佛様も恩義を感じて、10年後に利子をつけて倍返しの報恩をされる。

 ケチの究極の姿が、植民地獲得の侵略戦争、民族虐殺、利己主義、成果主義、グローバル経済主義である。一時的には儲かったように見えるが、結末は妬みの文化の氾濫、冨の偏在、格差の拡大、移民が原因の暴動頻発、1%の人だけが富み、99%が不幸になる社会への転落である。

 人は、ものが見えているようで、実際はその本質の10%しか見えていない。残りの90%は人智を超えたベールに覆われている。人は狭い視野でものを見て、全て分かったと自己満足の値踏みをしている。それがケチの根性である。人は実態の10%しか見えないのに、あたかも全て分かっているかのような顔をして経済学者は学問を振り回す。もしそれが正しいのなら、経済学者は全て大金持ちや成功者になれるはず。学者とは単なる知識を切り売りする者である。学者は本質を凡人には難しい表現で煙に巻く。得た知識から知恵を生み出す人が人生で儲ける。得た知識を死蔵では、情報センタの門番でしかない。知識は実社会で知恵を付加して活用してこそ、付加価値が生みだせる。

 先に生まれた人から浄土へ逝く。何も焦って追い越さなくとも、お迎えは来てくれる。人生道では追い越し禁止である。頂いた命をお大事に。生きるとは祈りである。

 

 割り込みは 許されないよ 浄土道    (馬場恵峰作)

 文句なし 今のままでは 極楽素通り地獄行き (馬場恵峰作)

 狭き門 極楽寺坂 すべり落ちるな   (馬場恵峰作)

 

2018-03-08

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2018年3月 8日 (木)

あの世は有りや無しや?

 佐藤一斎著『言志晩録』の「三学戒」に接し、あの世を考えた。2015年末に縁あって三基のお墓を改健したが、あの世のことが明確に頭にあったわけではない。墓の完成後、冷静に考えてみてお墓の目的を考えてみた。

 少にして学べば 壯にして為すことあり

 壯にして学べば 老いて衰えず

 老いて学べば 死して朽ちず   『言志晩録』の「三学戒」

 

1.ご先祖の思い出としてのお墓

 あの世の有無に関わらず、ご先祖へのご恩返しがお墓参りであり、お墓の建立であると思う。お墓はご先祖のご恩を思い出させてくれる碑である。ご先祖があって、自分はこの世に存在している。

 最近、死刑になりたいとかで無差別殺人や、人を道連れの自殺事件が多発している。これらの事件の背景に道徳、宗教観の希薄化があると思う。先祖を敬わない、自分だけよければよいという思想が蔓延している。現世だけの世界、ご先祖の恩に思い至らない利己主義的な思想の氾濫の結果ではないか。

 私は小さいころ、祖母に地獄絵を見せられて、子供心に震え上がったことを懐かしく思い出す。子供心に、悪いことをしまいと心に誓ったものだ。それがよき人生の戒めの教育として生きている。今はそれがないようだ。死んだ後は無であると思うと現世ではやりたい放題である。戦争ゲームとして人を殺しても、リセットボタンを押せば、全てチャラ。TVでは人殺しのドラマが横行。これではまともな精神が育つわけがない。

 

2.子孫への教えとして遺すもの

 親がご先祖のお墓参りをする後姿を子孫に見せることが、今あるのはご先祖のお陰との教育をすることになる。私も父の墓参りに随行して、墓参りをするのが当たり前との考えになった。そのお墓がないと、空中に手を合わせることになり、何か実感が湧かない気がする。やはり形あるものに手を合わせたいもの。

 そういう点で、海への散骨等は日本人には違和感がある。将来、子供達が親に手を合わせたくても、墓が無く、海上に出向いて手を合わせさせるのは、子供を不幸にする。2世代後には、ご先祖を考えなくなるだろう。私は海への散骨はイヤだ。分からないことを理性で考えると、後で後悔する。

 元旦の行事、春夏秋冬の日本の行事の中に、お盆、彼岸の墓参りが日本文化に溶け込んでいる。善悪の問題ではなく、それが日本の文化なのだ。

 

3.あの世はあるとして、為すべきこと

 あの世があるかないか、誰にも分からない。それに類する論を数学者パスカルが『パンセ』の中で「神は存在するか否か」というテーマで理論的に展開している。それを元に渡部昇一師は、あの世の存在の有無を、『95歳へ!』(飛鳥新社)の中で展開している。その結論からいくと、あの世があると信じてこの世で、お墓を作るのは危機管理的に理にあっている。

 その著書の中で、佐藤一斎の「三学戒」(「少にして学べば…」)の言葉があり、また2018年3月4日に佐藤一斎の故郷の恵那市岩村を訪問したおり、佐藤一斎像の横の石碑に、「三学戒」を見て、以前に「あの世は有りや無しや?」を考えたことと、馬場恵峰先生に、この言葉を揮毫して頂いたことも思い出した。

 佐藤一斎作「三学戒」は、言志晩録の中では最も輝いている言霊である。この言葉が人間の人格を高める。あの世はあるとして、人格を高めてから、あの世に旅立ちたいと思う。その為には老いても「志」を大事にすべく精進すべし。

 

 江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎の著書『言志晩録』に「少にして学べば即ち壮にして為すあり。壮にして学べば即ち老いて衰えず。老いて学べば則ち死して朽ちず」という言葉があります。

 一斎の言う「壮にして学ぶ」とは、仕事以外のプラス・アルファを勉強することです。現職の時に頑張って働くのは当然のこと、それは別に何かプラス・アルファの勉強をしていると、「老いて衰えず」になると言っているのです。

ここで「死後も霊魂の世界がある」と信じるかどうかが問題になります。これは死後のことですから、私たち生きている者には「わからないこと」です。したがって、俗な言い方をすれば「どちらに賭けるか」ということになります。

 もし「死後の世界はない」ほうに賭けたら、どうでしょうか。死んでみて、これがアタリだったら場合、「当たった。よかった」ということはありません。死後の世界はなかったのですから、死んだらそれまで、あとは何もなしです。

 では、ハズレで、死後の世界が存在した場合はどうでしょう。ないと思っていた世界があって、そこで生きなければならないとすると、準備不足で困ったことにならないでしょうか。つまり「死後の世界はない」ほうに賭けた人はアタリで何もよいことはないし、ハズレで困ったことになるのです。

「死後の世界はある」ほうに賭けた人はどうでしょうか。ハズレで、死後の世界がなかったら、それまでです。何もなし。アタリで死後の世界があったら万歳でしょう。するとハズレで何もなし、アタリで万歳ということになります。

 どちらに賭けたほうが得か、明々白々です。これは数学者パスカルが『パンセ』の中で説いた考え方です(パスカルは「神は存在するか否か」というテーマでこの論を展開しました)。 この項、渡部昇一著『95歳へ!』(飛鳥新社 2007  p136)より

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 馬場恵峰書 陶板に揮毫 2016年

 陶板への揮毫は誤魔化しがきかず、書いた跡がそのまま浮かび上がる。

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 岩村歴史資料館の佐藤一斎像(2018年3月4日撮影)

 1p1040529  岩村歴史資料館にて(2018年3月4日撮影)

2018-03-08

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2017年8月31日 (木)

飽食という名の認知症

 その昔、学校で悪さをすると、罰として水の入ったバケツ2杯(約10kg)を持たされ廊下に立たされた。それが今は、長年の飽食の罰として、肥満になると天の罰として、バケツの水と同重量・脂肪の塊(10kg)が身につけさせられ、働かされる。肥満になれば、高血圧、糖尿病、脳梗塞、ガン、通風等の病気になるのは自然の理である。飽食が万病の元である。その結果、医療費も高騰の一途をたどり、40年前に総額10兆円であった日本の医療費は、現在、40兆円を超えている。医学が発達しても患者は増えている。これは人の食生活が贅沢になり、本能のまま旨いものばかりを求め、心の修養を怠った結果である。その罪悪の履歴(閻魔帳の記録)が体に付いた脂肪の重さで「情報公開」される。誰でも閲覧可能な情報である。見れば分かる。閻魔帳はあの世に無い。今の己の体が閻魔帳である。

 

飽食の連鎖(food slave chain)

 テレビでは連日、グルメの番組、料理番組、行列のできる飲食店の特集、絶品食品の宣伝、スイーツ・ジャンクフードのCMが目に付く。締めくくりとして胃腸薬の宣伝を大々的に展開する。ここに「飽食の連鎖」で食い物の奴隷に成り下がった現代人を垣間見る。食い物を食い物にして、金儲けに走る企業の戦略が透けて見える。

 図1の製薬メーカの広告ページを見ると、情けなくなる。日本の恥さらしである。この広告ページは、日本人の心の鏡なのだ。食い意地のはった醜い己の姿が写っている。こんな下品な広告ページを他国の雑誌でも見たことがない。製薬メーカにとって、飽食の我々はカモなのだ。それに気が付かず、嬉々としてこんな広告ページを見ているのが情けない。この広告ページを作るにもお金がかかっている。全て商品に上乗せされている、雑誌の値段に上乗せされている。餌に飼いならされた日本人は、それさえ気が付かない。

 

痴呆的グルメ番組の氾濫

 現在のテレビは痴呆的グルメ番組がオンパレードである(図2)。それを見る人がいること自体が情けない。己の子孫が、後年この出演者を見たら先祖を軽蔑するだろう。これこそ河原こじきの仕事である。その昔、芸人は河原こじきと呼ばれた。神が創造した生物の命を粗末に扱うのは、神への冒涜である。

 

肥満者が30%を超え

 その結果が、日本の男性の40代~50代で肥満者が30%を超えている。20年前に比べると3割も増加である。肥満は病気である。この結果が、医療費40年間で、4倍への肥満化である。現代社会は病気製造の片棒を金儲け主義の企業が担いでいるといえる。更に製薬会社と医療産業まで金儲けで目の色が変わっている。人の命をネタに金を稼ぐのは、吸血鬼ビジネスである。その誘惑に負けた食い意地の履歴が、己の肥満として閻魔帳に記録される。美味しいものには毒がある。何のために生かされた命かを自問しよう。

 

足るを知る

 満腹したライオンは、目の前をウサギが通っても襲わない。それが自然の摂理である。ライオンでも本能として「足るを知る」のである。ところが現代人は、満腹でもあるだけ食べてしまう。テレビも食べろ食べろとグルメ番組の氾濫である。これでは、人間様も犬畜生にも劣る存在に落ちぶれる。その罰を糖尿病、高血圧、ガン、認知症として受けている。世の中では最高のことしか起こらない。ガンでさえ、己の細胞の「火事」を最小限に防ぐために命が起こす自衛活動である。病気になるのも、み佛からのメッセージである。それに聞く耳を持たないのが現代人である。

 「足るを知る」を忘れ、自然との共生を忘れ、己の利益だけを追求するグローバル経済主義の影響で、食品業界が人の健康は無視して、少しでも多く食べさせて売上を高めることに奔走する。飽食と食品CMの氾濫に踊らされている現代から見ると、中世の貴族の食事を笑えない。人間は恵まれ過ぎると不幸になる。金持ちになり、美食を漁り、食べ過ぎ、生活習慣病になる。グルメと飽食を追求した結果は、毎日が辛い・・・とまるで悪魔のサイクルである。それなら生活信条を「足るを知る」に変えると、我慢もいらないし、生活習慣病にもかからない。毎日を楽しく過ごし、認知症にも罹らず長生きすることができる。現代の医療費の異常な膨張は、天からの警告である。認知症に罹った身内を見て反省しない人間が、同じように認知症の道を歩む。

 

 飽食は 足るを忘れた 認知症

 病院通い 通える幸せ 胸に秘め

  突然死、下流老人、寝たきりでは、皆で仲良く病院通いもままならぬ。

 認知症 貸した金だけは 忘れない

   受けた恩まで忘れたら、犬畜生以下の存在である。

 クラス会 病気の話に 花が咲き

 

図1 製薬メーカの広告

図2 グルメ番組

 己の子孫が、後年この出演者を見たら先祖を軽蔑するだろう。これこそ河原こじきの仕事である。その昔、芸人は河原こじきと呼ばれた。人が食べているところを見て何が楽しいの?

 

2017-08-31

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年8月30日 (水)

親の死の予兆  自分の死の予感

 私が42歳の時、母を1992年に亡くした。享年69歳。死因は脳梗塞である。脳溢血になり、手術をして幸運にも退院でき、一時は歩き回るほど元気になったのであるが、それが遠因となって半年後に69歳の若さで亡くなった。親がかかるであろう深刻な病気に対して、その前兆の知識を得ておくことは、子供の務めである。私にはそれができなかった。

 最初は頭が痛いとかで寝ていた。病院ぎらいの母である。普段も高血圧気味で、肥満気味の傾向にあった。私が口を酸っぱくして、「もっと痩せなくては」と言っていたのだが、母は、「無理な生活や、食べたいものが食べられない我慢までをして長生きはしたくない」と、生活態度を変えてくれなかった。そんなある時に、頭が痛いと言って寝ていた。病院嫌いの母は、寝ていれば直るとかで、なかなか病院に行ってくれなかった。それが脳溢血の前兆であった。

 

悔い

 親が高齢になり、高血圧、肥満気味といった状況下で、親の死を想定し、その危機状態に陥る前の兆しとその対応を考えておくべきである。家族の健康管理を認識することこそ家庭の主としての勤めである。何事にも前兆がある。それを早い時点で処置すれば、最悪の事態は避けられる。あの時に、もし、あと1週間でも、あと1日でも早く病院に連れて行っていれば、との悔いが今でもある。それによる延命は僅かであったかもしれないが、最善の対応を出来なかったのは事実である。たまたま親戚にもそんな事例がなく、私に予備知識がなかったのが災いした。

 見舞いに行っても意識なく反応のない母を見るのは辛い。そばで看護をしていた父はもっと辛かったと思う。子供にとっても、親を早く亡くすというのは悲しいもの。食生活を注意してそれが防げるなら、子どもや多くのファンに対する思いやりとして、健康管理が責務である。世にはお金では買えないものがある。そんな大事な対象に対しては、最大の危機管理をすべきである。

 

親の最期の教え

 人間として理想的な死に方は老衰である。しかし、そんな幸せな死に方を迎えることができる人は、たったの2.4 %(22,809人/1999年度)である。ガン、脳卒中、心臓病、生活習慣病が原因の死亡者は、年間 600,000人にも達する。これは全死亡者数( 900,000人)の66%である。だから、その兆しが想定される病気に対してだけでも、予備知識を持つのが親孝行である。それよりも、それを防ぐ生活姿勢、食生活が必要である。

 母の死は25年前のことであるが、今は自分がその当事者になっていることに気づき愕然とした。親の最期の子供への教えが「あんたも何時かは死ぬのだよ」である。子供は、親と共に暮らして、親と同じ生活姿勢、食生活が、沁み込んでいるため、親と同じような病気になる確率が高い。親の病気と死因を、親の最期の教えてとして学び、それを防ぐ生活姿勢を取り入れたい。

 

親の老い 己の行く末 教えられ

妖精と 呼ばれた妻が 妖怪に

妻肥満 介護になったら 俺悲惨

ほれ込んだ えくぼも今や 皺の中 

 

2017-08-30

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さようなら僕らの「赤頭巾ちゃん」

ご縁とカネと血液は流さなければ腐る

  悪い食生活を続けると血管内部にコレステロールのカスや外部にプラークが発生して、血流の流れを阻害する。それが高血圧(結果)という症状になる。血液がうまく流れないため、血の巡りが悪く認知症になる。血液の流れが阻害されるから高血圧になり、結果としてガン、脳梗塞や心筋梗塞、加齢黄斑変性症に罹る。高血圧は現象であって、病気の真因ではない。

 現代医学は、対処療法が主流である。高血圧だからと降圧剤を処方するのは対処療法である。世界一の神の手による手術を受けても、画期的新薬を飲んでも、真因を取り除かないと、病状は良くならないし、再発する。現代医学は、往々にして細分化された分野で極到の医療技術を誇る場合があるが、その病気の根本原因には目を向けない傾向がある。木を見て森を見ていない。科学の原則とは、細分化である。「科」とは禾遍に秤の意味のつくり(斗)で構成された漢字である。科学とは物事を細部の分解をして、その根本を究明する学問である。分解しすぎて本質を見失ったのが、現代科学、現代医学ではないか。

 血液には自己防衛機能としての白血球や免疫要素が含まれている。肥満になり、それに比例して血管内部にコレステロールのカスやプラークが発生して、血液がうまく流れないと、がん細胞が増殖しやすくなる。大腸がんなどのがん細胞の発生は、その免疫力が低下した証であると推定される。

 

ピアニスト中村紘子さんの訃報

 ピアニストの中村紘子さんが大腸がんで亡くなられた(2016年7月26日)。その追悼番組で中村紘子さんのピアノリサイタルを視聴して真っ先に目がいったのは、肥満した体であった。それを視て肥満と洋風の食生活が大腸がんの遠因だと確信した。その映像に、記憶にある妖精のような中村紘子さんの姿はない。中村紘子さんは最期までピアノの弾ける状態を最優先にした闘病生活をされた。ファンとしては、理想のアイドルとして健康管理にもピアノと同じような情熱を注ぎ込んで、老いてもそのスタイルを保って欲しかった。さようなら僕らの永遠の『赤頭巾ちゃん 気をつけて』。ご冥福をお祈りします。

 中村紘子さんのように、多くのファンを持ち宝石のような才能に恵まれたのなら、多くのファンを泣かせないために、自身の健康管理は責務であった。『赤頭巾ちゃん気をつけて』の主人公は東大紛争で東大入試中止(1969年)の被害を被った受験生で、私と同じ境遇であった。中村紘子さんに何かご縁を感じた。

 

フードトラップ

 「赤頭巾ちゃん」を食べたのは、拝金至上主義の食品業界の狼達である。その狼達は、消費者の健康は眼中になく、美味しすぎる毒餌で、フードトラップ(至福の罠)を仕掛け、油断した獲物を捉えて喰っている。獲物は至福のまま死んでいく。

 

 “パッケージは子供が喜ぶようにデザインされている。広告には、買わないという我々の理由づけを覆すべく、あらゆる心理トリックが使われている。味も強力だ。売り場を通りかかって、つい手に取ったが最後、我々は次回もその味をしっかり覚えている。そして何より、加工食品の原材料とその配合は、熟練の科学者や技術者たちが計算しつくしたものだ。知っておくべき最も重要なポイントは、食料品店の店頭に偶然の要素は一つもないということである。”

(マイケル・モス著『フードトラップ』(日経BP社)の「エピローグ」より)

 

 健康を保つには、何を食べるかではなく、何を食べないかである。よき人生を送るには、良き縁を探す前に、悪い縁を避けるようにするのが原則である。世の中は悪手、悪食、悪縁が満ちている。お金も水も、溜め込むと腐ってくる。お金、ご縁、血液を流さないから、病気や不運になる。お金はお足である。足止めされれば、お金もお友達を連れては来られない。気持ちよく感謝を込めてお金を送り出すと、お金はお友達のお金を連れて帰って来てくれる。それがお金の本性である。ご縁も同じである。良きご縁が更なる良きご縁を招く。

 

2017-08-30

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年8月29日 (火)

命の確認

 自分の命を一番身近で確認できるのは、自分の目である。目の老化を認識すると、また目の病気をすると、つくづくと命の限度を認識させられる。動物では、目が見えなくなったら、餌を捕れなくなるため、それは即、死を意味する。私のエサは本やPCからの情報である。目からそのエサが得られないことは、私にとって死を意味する。幸いなことに、人間はまだ助かる機会が与えられている。現代は医学が進歩してそれを支援してくれる。本来それに感謝をすべきだが、そうでない人は、人としての驕りがある。

 

我々の役目

 芸術家としての人間が、自分の命の限界を感じるとき、そこに表す作品は極めて精神的なものとなる。人の寿命はせいぜい百年だが、仏像や大理石の像の寿命は千年、二千年にも及ぶ。己の作品を千年、二千年後まで残そうと芸術家のDNAが、永遠に続く作品(子)として残そうと意識するのはごく自然である。我々の役目は「生き続けること」ではない。「自分のDNAを残す」、「後進を育てる」、「後生を育てるための作品を残す」ことである。生物の生きる目的が、「生き続けること」ではないのは、地上に出てから7日間しか生きられないセミの姿を見ると良く分かる。

  91歳の馬場恵峰師が、今だ現役で、毎日、深夜まで作品を書き続けているのも、後生を育てるためのお手本の作品を残すためであるという。師を見ていると「どげんして、そげん元気かばってん?」と思うが、その気力が師を長生きさせているようだ。

 

ロンダニーニのピエタ

 人が自分の寿命を意識するのは、人生も後半になり体のあちこちに支障が出てきて、目も見えにくくなってからである。今まで意識が薄かった死が現実に見えるときである。ミケランジェロも死の6日前まで、目がほとんど見えなくなった状態でも手探りで「ロンダニーニのピエタ」を彫り進めた。ミケランジェロは1554年2月18日永眠、89歳。生涯、ピエタを彫り続けた一生であった。このピエタの仕上がりの姿から彼の精神的な高揚の鬼気迫る姿が伝わってくる。天性の能力が全開した時(34歳)に彫ったピエタ(サン・ピエトロ大聖堂に展示・1499年製作)と、「ロンダニーニのピエタ」(1554年)の姿を比べると、あまりの差に驚ろかさせられる。

 ミケランジェロは老人性白内障に罹患して目が見えなくなっていたと推定される。それでも89歳まで現役で彫り続けたのは、当時の平均寿命から見て驚異である。神が与えた長寿と言う才能である。現代は白内障手術で人工の水晶体を入れることで、元の視力を回復することができる。医学の進歩の恩恵を私も頂き、感謝している。

 

人の使命

 認知症になれば、自分の目の衰えも認識できない。命に相当する「見えること」が分からなくなるとは、その症状が脳死である。頂いた命を、後世に何を残すかが問われている。どんな人には老いは迫りくる。生き永らえているだけの状態になるまでに、やらねばならぬことをやろう。それが、動物ではなく、人として生まれたものの「命の使い方」である。

 

 以上は、NHKBSプレミアム「旅のチカラ ミケランジェロの街で仏を刻む~松本明慶・イタリア~」を見ての感想です。著作権の関係で、画像の掲載が不可なので、オンデマンドでご覧になるか、「ロンダニーニのピエタ」でネット検索をしてください。

 

2017-08-29

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2017年8月21日 (月)

冥途駅手前で悟る師の諫言

 昔、シナのある国で繁盛している居酒屋があった。そこに来た客が食事をしたおり、その台所で火事になる危険個所に気づき、その店の主人に忠告をした。商売繁盛で接客に忙しい主人は、分かった、わかったと迷惑そうにまともに聞いてはいなかった。そんなやり取りが数回あった後に、本当に火事が起きた。店にいた客たちが火事に気づき大騒ぎをして、皆で火を消し止めることができた。主人は感激して、火事を消してくれた客たちに大盤振る舞いの料理でお礼をした。しかしその主人は、何度も火事の危険を忠告した客には、礼一つしなかった。

 

師の諫言

 病気になり、日本の名医と言われる医師を探し歩き、手術、治療をしてもらい、大感激して多大の礼をするのが人の常である。それは自宅が火事になり、消火活動に尽力をしてくれた消防士にお礼を言うようなもの。「そんな食事では病気になる。そんな間食は体に良くない。生活習慣を直せ」と真にその人のことを心配して諫言した師を忘れているのと同じである。昔のシナでも、病気を治す医師は下で、食事を指導して病気を予防する医師のほうが上とされていた。病気になってから、治療をするのは泥縄式の対処療法である。病気になる前に治せ、である。医食同源は真言である。

 

若き日の愚行

 人生で、当たり前の生き方を教えてくれる親や教師が真の師である。それを己の生き方が間違っているに、人生に迷い、街の占い師に道を訊ねる愚か者が多い。その昔(1979年頃)、自分もその愚か者の一人となって、当時流行した天中殺の占い師の二人に、上京してまでして占ってもらいに行った。今になって情けなく、また自分の成長の足跡の一つとして思い出される。当時、半年の予約待ちで30分間2万円の占い料金であった。よほど自分も占い師に転職しようかとも思ったほど儲かる職業であった。

 老いの身になり、人生の修羅場を経験し、甘いも酸いも経験した後になって、真の師の姿が観えてくる。だれが本当の師であったかと。それを冥途駅に到着直前になって気が付く。それでは遅いのだ。

 

冥途駅 全て悟って 乗り遅れ

  「天国行き」は発車しました。「地獄行き」が待ってくれています。

 

図1 大垣市桐ケ崎町の火事

 隣人が何度も可燃物の取扱いを注意したが、無視をして煙草を吸い引火した。近年稀なる大火となった。手前の消化器で、私も初期消火の手助けをしたが、火勢が強く無力であった。火の出る前に、真因を消さないと大火となる教訓である。

撮影筆者 2013年10月27日

 

2017-08-21

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蜘蛛の糸が切れた

 お釈迦様はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。犍陀多は殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。彼は、林の中で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けた。それを思い出したお釈迦様は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸を犍陀多めがけて下ろした。

 暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見た犍陀多は「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れるだろう。犍陀多は「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はオレのものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚いた。その途端に、蜘蛛の糸が犍陀多の真上の所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちていった。

 無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまった犍陀多を浅ましく思ったのか、それを見ていたお釈迦様は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

 

 以上は芥川龍之介作『蜘蛛の糸』のあらすじである。この小説は勧善懲悪のお話ではない。犍陀多が振り落とそうとした罪人達は、自分の分身である。自分の魂には仏の心も宿れば、鬼の心も宿る。すべて包含して自分である。美しい自分だけが、抜け駆けをして極楽に行こうとするのは許されまい。悪の部分を切り捨てては、自分が自分でなくなってしまう。自分自身が罪の償いをしないと、地獄からは抜け出せないという寓話である。

 

癌とは自身の分身

 人は地獄を見ると、天から降りてくる助け(蜘蛛の糸)が全てだと思いこみ、他は振り捨ててそれにすがろうとする。その捨てるものの中に因果の原因ある。その部分を改善しないと助からない。父の癌宣告に対して、今なら治るとの医師の言葉を仏の言葉と信じて、勧められるまま胃の全摘手術を受け入れた。しかし、蜘蛛の糸は切れた。癌は自身の分身である。悪い個所を防御しようと自身の細胞が細胞分裂を始めて、それが止まらなくなったのが癌である。癌とは悪いものを一部に集め、他に広がらないようにする自己防衛機能である。癌は結果であり、そうなった原因が別にある。結果の癌だけを取り除いても、他臓器に転移をしてしまうことが多い。父が他界してから10年が経って、物事の真理が見えてきた。今は高齢の父の手術を受け入れたことに後悔している。でも、もう遅いのだ。せめてこれを父の最期の教えとして自分の人生に反映したいと思う。

 私は今までの人生でも多くの地獄を見てきたが、その場しのぎで済ませて、暫くたつとまた新しい地獄に直面することが多々あった。地獄に遭遇するのは、地獄に会う因果を自分が作ってきたからだ。その原因をなくさない限り、極楽には行けない。極楽には行けなくてもよいから、せめて地獄に行かないようにしたい。

 

自分の敵は自分

 減量に取り組み、極楽ポイントの体重〇〇㎏の数値を達成して、メタボから脱却直前になると、内なる悪魔が「お饅頭の一つくらいなら?」、「最後のご褒美で食べ放題は?」と囁いて、極楽寸前で地獄に引き戻される。その悪魔は、あくまで自分の分身なのだ。誰の責任でもない。自分が自分の弱さに負けたのだ。同じことが人生一般、ご縁のつながりにみられる。

 一匹のゴキブリを見つけたら、家には百匹のゴキブリが住むといわれる。一つの病気がでれば、陰には百の病気が隠れている。ハインリッヒの法則「1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」は、自分の体の病状にも当てはまる。

 体の細胞は、肥満になると免疫力が低下して、外敵からの防衛戦争で悲惨な戦いを強いられる。それでも我慢強い体の臓器は、最後まで音を上げない。音を上げた時は、手遅れの病状である。体の悲鳴を無視して食べまくれば、地獄に引き戻されても、因果応報である。お釈迦様も悲しそうな顔をするしかない。お釈迦様を悲しませては罪が重い。少しぐらいの賄賂ならと、ずるずると地獄の淵に引きずられていく強欲のお役人どもも多い。世間を騒がす汚職事件は一向に減らない。因果応報とは仏語で、どの世界にも通用する原則である。地獄はあの世にはない。自身の強欲心と自制心の闘いで、自制心が負けた時が、地獄へ足を踏み入れる時なのだ。

 

2017-08-21

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