佐藤一斎著『言志晩録』の「三学戒」に接し、あの世を考えた。2015年末に縁あって三基のお墓を改健したが、あの世のことが明確に頭にあったわけではない。墓の完成後、冷静に考えてみてお墓の目的を考えてみた。
少にして学べば 壯にして為すことあり
壯にして学べば 老いて衰えず
老いて学べば 死して朽ちず 『言志晩録』の「三学戒」
1.ご先祖の思い出としてのお墓
あの世の有無に関わらず、ご先祖へのご恩返しがお墓参りであり、お墓の建立であると思う。お墓はご先祖のご恩を思い出させてくれる碑である。ご先祖があって、自分はこの世に存在している。
最近、死刑になりたいとかで無差別殺人や、人を道連れの自殺事件が多発している。これらの事件の背景に道徳、宗教観の希薄化があると思う。先祖を敬わない、自分だけよければよいという思想が蔓延している。現世だけの世界、ご先祖の恩に思い至らない利己主義的な思想の氾濫の結果ではないか。
私は小さいころ、祖母に地獄絵を見せられて、子供心に震え上がったことを懐かしく思い出す。子供心に、悪いことをしまいと心に誓ったものだ。それがよき人生の戒めの教育として生きている。今はそれがないようだ。死んだ後は無であると思うと現世ではやりたい放題である。戦争ゲームとして人を殺しても、リセットボタンを押せば、全てチャラ。TVでは人殺しのドラマが横行。これではまともな精神が育つわけがない。
2.子孫への教えとして遺すもの
親がご先祖のお墓参りをする後姿を子孫に見せることが、今あるのはご先祖のお陰との教育をすることになる。私も父の墓参りに随行して、墓参りをするのが当たり前との考えになった。そのお墓がないと、空中に手を合わせることになり、何か実感が湧かない気がする。やはり形あるものに手を合わせたいもの。
そういう点で、海への散骨等は日本人には違和感がある。将来、子供達が親に手を合わせたくても、墓が無く、海上に出向いて手を合わせさせるのは、子供を不幸にする。2世代後には、ご先祖を考えなくなるだろう。私は海への散骨はイヤだ。分からないことを理性で考えると、後で後悔する。
元旦の行事、春夏秋冬の日本の行事の中に、お盆、彼岸の墓参りが日本文化に溶け込んでいる。善悪の問題ではなく、それが日本の文化なのだ。
3.あの世はあるとして、為すべきこと
あの世があるかないか、誰にも分からない。それに類する論を数学者パスカルが『パンセ』の中で「神は存在するか否か」というテーマで理論的に展開している。それを元に渡部昇一師は、あの世の存在の有無を、『95歳へ!』(飛鳥新社)の中で展開している。その結論からいくと、あの世があると信じてこの世で、お墓を作るのは危機管理的に理にあっている。
その著書の中で、佐藤一斎の「三学戒」(「少にして学べば…」)の言葉があり、また2018年3月4日に佐藤一斎の故郷の恵那市岩村を訪問したおり、佐藤一斎像の横の石碑に、「三学戒」を見て、以前に「あの世は有りや無しや?」を考えたことと、馬場恵峰先生に、この言葉を揮毫して頂いたことも思い出した。
佐藤一斎作「三学戒」は、言志晩録の中では最も輝いている言霊である。この言葉が人間の人格を高める。あの世はあるとして、人格を高めてから、あの世に旅立ちたいと思う。その為には老いても「志」を大事にすべく精進すべし。
江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎の著書『言志晩録』に「少にして学べば即ち壮にして為すあり。壮にして学べば即ち老いて衰えず。老いて学べば則ち死して朽ちず」という言葉があります。
一斎の言う「壮にして学ぶ」とは、仕事以外のプラス・アルファを勉強することです。現職の時に頑張って働くのは当然のこと、それは別に何かプラス・アルファの勉強をしていると、「老いて衰えず」になると言っているのです。
ここで「死後も霊魂の世界がある」と信じるかどうかが問題になります。これは死後のことですから、私たち生きている者には「わからないこと」です。したがって、俗な言い方をすれば「どちらに賭けるか」ということになります。
もし「死後の世界はない」ほうに賭けたら、どうでしょうか。死んでみて、これがアタリだったら場合、「当たった。よかった」ということはありません。死後の世界はなかったのですから、死んだらそれまで、あとは何もなしです。
では、ハズレで、死後の世界が存在した場合はどうでしょう。ないと思っていた世界があって、そこで生きなければならないとすると、準備不足で困ったことにならないでしょうか。つまり「死後の世界はない」ほうに賭けた人はアタリで何もよいことはないし、ハズレで困ったことになるのです。
「死後の世界はある」ほうに賭けた人はどうでしょうか。ハズレで、死後の世界がなかったら、それまでです。何もなし。アタリで死後の世界があったら万歳でしょう。するとハズレで何もなし、アタリで万歳ということになります。
どちらに賭けたほうが得か、明々白々です。これは数学者パスカルが『パンセ』の中で説いた考え方です(パスカルは「神は存在するか否か」というテーマでこの論を展開しました)。 この項、渡部昇一著『95歳へ!』(飛鳥新社 2007 p136)より
馬場恵峰書 陶板に揮毫 2016年
陶板への揮毫は誤魔化しがきかず、書いた跡がそのまま浮かび上がる。
岩村歴史資料館の佐藤一斎像(2018年3月4日撮影)
岩村歴史資料館にて(2018年3月4日撮影)
2018-03-08
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
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