l5_佛が振るチェカーフラグ Feed

2019年4月 1日 (月)

老いてからの心構え

 人生は生老病死。それに逆らって生きるから、過労死する。自然体がよい。行く末を見極めて、人間として生きよ。老いては子に従えは、自然の摂理。権力の座にしがみ付くのは、醜態である。

 

・子供にこうして欲しいと思うな。

 息子には他人の女が付いている。息子には息子の人生がある。息子は昔の己の姿。大目に見て上げよう。

 

・今日は、今日のことを仕上げよ。

 過去は胸にしまえ。今日が最期の日と思え。明日があると思うな。今のうち。一日一生。一瞬一生。人のことを構っている時間はない。

 

・人の長所だけを見よ。

  意識して探さないと、欠点だけが目につく。視野が狭くなると、長所が見えない。

 

・心を健康に保て。

  体が健康でも、心が病めば、生きた屍である。健康でなければ幸福はない。

 

・老いを受け入れよ。

  自然に逆らうとは、神佛に逆らうこと。自然体が一番よい。生あるものは生老病死。今更つっぱっても大人げない。

 

・消費をして日本経済を活性化せよ。

  あの世にお金を持っては逝けない。老人にできることはお金を使うこと。消費は世の為人の為。消費は人の為ならず。お金を使えば自分に帰ってくる。

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Photo_2   馬場恵峰書

2019-04-01  久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月12日 (火)

縁は偶然、別れは必然

 この世は一期一会、偶然手に入った自分の若さも、いつかは別れなければならぬ。永遠の師も、恋人も、友人でもいつかは別れが訪れる。 

 縁ありて花開き、恩ありて実を結ぶ。しかしそれはこの世の一時のこと。その花もいつかは散る。得た実もいつかは無くなる時が来る。散ることを知って、一期一会を全うしたいと思う。今日の己は、昨日の己にあらず。明日の己は、今日とは別の己である。 

 縁にも生老病死がある。いくら自分が成長しても相手が成長しなければ、その人とのご縁は老病死である。いくら仲が良くても、共に同じような成長は難しい。己と成長のペースが同じでない人との付き合いは苦痛となる。それで自然な別れが生じる。それもご縁である。

 5年ほど前に、友のたった一言の使い方が原因で、40年来の友と別れたことがあった。今にして思うと、私は友の成長のなさが我慢できなかったようだ。友人であっても同じように成長し、同じ価値観を共有しないと、友人として成立しない。縁は偶然だが、別れは必然であることを実感している。同じようなことを渡部昇一先生が『95歳』という著書で書いてみえる。

 

 縁は偶然の産物。その縁を掴むか、育てるかは、その人の縁力である。縁力を高めるお心肥をケチる人に、良きご縁は回ってこない。人格の低い人、仏縁の薄い人には縁の育成は難しい。

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  馬場恵峰書『源氏物語より(1)』「桐壺」

 

「限りとて別るる道の悲しきに、いかまほしきは命なりけり」(『源氏物語』)

 どんなご縁にも、どんなに愛しい恋人ともいつかは別れが来る。そのとき「いかまほしきは命なりけり」と望んでも運命は残酷である。だからこそ頂いた命と命の出会いは一期一会、ご縁を大切にすべし。この世で出会う相手は、人生の恋人なのだ。

 

2019-02-12   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

人生の結論

 人生の結論は死である。そこから始めて何を残すか、何をやるかを考えるのが人生設計であり、そこから死計の智慧が生まれる。若い頃は頭で薄々分かっていても実感の無かった死という結論が、あちこちと体に不調を抱える歳になり、お墓作りを通しておぼろげながら見えてきた。

人生の四計(生計、活計、老計、死計)を考えない人は、スリラー小説みたいな人生を無為に送り、上り坂、下り坂、マサカの場面に遭遇して転落する。本を読んだり、スリラー小説、演劇を見るときは、初めから終わりへと頁をめくり、観劇をする。そのストーリーのクライマックスで、どんでん返しを見せられて狼狽する。そうならないように、死計を考えて生きていきたい。

 

クライテリア(CRITERIAとは基本方針である。1994年のミシガン大学テクニカルライティング受講時、出会ったキーワードであり、一番感銘を受けた言葉である。先ず方針ありきで、その基本方針・考えがないと書類作成も仕事でも何事も進まない。会社経営では、終わりの目標から始めて、そこに到達するために、衆知を集めて取り組む。人生経営で、自分はどんなクライテリアの基づき生きてきたのか。残された時間をどのように使うのか。

米国ビジネス社会では「読みにくく、内容不明瞭な文書を、受取手(上司、同僚)が読まなくてもなんら責任がない」とのスチーブンソン教授の見解は、論理構成の重要性を再認識させられた。読んでもらうために、真剣に書類の「クライテリア」を明確にして「デザイン」をしなくてはならない。

 

文書デザインは、ビジネス社会で情報を伝えるツールとしての書類に、命を与える。書類を「設計」するには、その基本概念の明確化と書類の戦略と戦術が要求される。それは製品を作るためプロセスと同じである。

人生デザイン、何のために生きるかというクライテリアを盛り込んだ人生設計図である。それなくして死計もありえない。一番素晴らしい人生とは、死に臨んで死計として従容として死に就くことである。よく働いた日が安らかな眠りを誘うように、計画を完遂した人生は安らかな死を賜う。それはやるべきことをやり遂げた人への佛様からのご褒美である。いつ死んでもよいように、今を一生懸命に生き、仕事をして、使命を果たす。一念とは「今」の迷う「心」を一つにして、背中に我慢を背負い、右手にソロバンと左手に海図(理念・経典)を持って、明日は分からない命を抱えて生きることである。そのためには、命の運搬手段としての体に悪い影響を与える事象を遠ざけるのが死計である。

 

 余生とは、生きながらえている状態である。人生設計図に余生などはない。最期まで現役であれば、余生は不要である。この歳まで無事に「歳を頂いた」のだから、ご先祖とこの世にお返しをしなければなるまい。

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 馬場恵峰書 『恵峰人生書画詩文旅日記』 日中文化資料館蔵

 上図は『報恩道書写凝集』(久志能幾研究所)に収録

 

    『佛が振るチェッカーフラグ』p68より

2019-02-12   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年11月26日 (月)

裸で生まれて 裸で死んでいく

 今夜2018年11月26日、町内の方のお通夜があり急遽、参列をした。厳粛な式の中、日頃、忘れていた死を思い出した。通夜式の最後に、故人の生前の写真を時系列にプロジェクターで映し、個人を偲ぶ趣向があった。元気だったころの仕事中の姿から、退職してから皆とゴルフ、旅行をして元気だったころ、老いてお爺さんになり、孫を見て顔をほころばせている時までを映し出していた。その映像を見て、日頃忘れていた現実、人は老い、死んでいく現実に、引き戻された。

 

人の一生

 人は、寝て一畳、立って半畳、食べて一合、飲んで一升。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。足るを知る生活には、一衣一鉢の黒衣で足りる。今は、物があり過ぎるから、争いが起こる。余計に金を持つから、更に金に執着心が起きる。今回の日産のゴーン氏の強欲ぶりの醜態をマスコミで知って、更にその思いを新たにした。

 持たない生活、食べない生活、一人でいても寂しくない生活を目指すべきだ。知足の生活に幸せがある。かのソロモン王でさえ、己ほど着飾ってはいなかった。今の己の生活を振り返る機会を頂いた。

 

五蘊

 蘊とは、仏教用語で、「集まり」の意味である。五蘊として人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示した。仏教では、この五蘊が集合して仮設された存在が人間であるとして、五蘊仮和合と説く。これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした。古くは阿含経の中に言及されている。五蘊は次の5種である。

 「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示す。人間の心身の機構を羅列的に挙げ、それによって人間の生存およびその環境の全てを表そうとした。

 

色蘊 :人間の肉体を意味する。

            後には全ての物質も含む意味になった。(例:桜そのもの)

受蘊 :感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じる行為)

想蘊 :表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべる行為)

行蘊 :意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らす行為)

識蘊 :認識作用(例:「桜」と認識する行為)

 

下記の書画は、馬場恵峰先生に揮毫をお願いしたら、我々が先生の書を撮影している間に、直接、軸に揮毫をして完成させてしまわれた。脱帽です。

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    2016928日 揮毫

2018-11-26 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2018年11月19日 (月)

組織のかかる死病

 会社とは、社員を支え育成に限りない援助を与えてくれる親的な存在である。会社も長く存続すると、それ相応に成熟し安定成長に入る。自然現象として、大事な情報がトップに伝わらない現象である「情報の動脈硬化病」、「組織の硬直化病」という死病がじわりじわりと迫りくる。企業の寿命は30年といわれる。入ったときは若かった会社もいつかは老いる。社会を見渡しても、2000年の雪印乳業の食中毒事件、2001年の三菱自動車のリコール隠し、2002年のみずほ銀行のシステムダウン等、この病気に起因する不祥事が続いている。発病後のトップの発言は不思議と同じで、「そんなことは聞いてなかった」である。情報が流れない情報ルートの詰まり、組織の硬直化といった死病に罹った企業の症状である。そして倒産の危機に面する。

 病気にかかれば治療する。事前予防をする。当たり前のことを当たり前にするのが自然の理にかなった経営である。その治療が業務改革である。(2003年7月31日記)

 

13年後の真実

 以上を13年経った今の目で見直しても、問題企業の体質は何ら変わらない。最近の燃費偽装問題で、三菱自動車の隠ぺい体質は、13年経っても変わらないことが露見した。人も企業も変わらない。なぜそうなったかの真因を追求せず、表面的な対処療法で済ませるからである。よき反面教師の教えを頂いた。(2016年9月23日記)

 

行政のかかる死病

 大垣市のように独善的な市長が18年間の長きにわたり君臨すると、市役所はヒラメの職員ばかりになり、正論、諫言が通らなくなる。言えば唇寒しの状態が蔓延して、情報の流れが止り、腐敗の原因となる。情報は現代組織の血液である。自分達で行事の使用用途を非公開のマル秘にする条例を作り、やりたい放題に金を使えば、不正が起きない方がおかしい。それが民主主義社会で如何に異常なのかが、分からないほど大垣市長は病が進んだのだ。

 2017年11月5日の大垣市ドローン墜落傷害事件を起こしても、行政の責任者は、業者に責任を押し付けて遁走した。大垣市制100周年記念行事の大判振舞いで、大垣さん大臭合、水饅頭偽ネス記録造成、ミッキーパレード等の予算には疑惑点が多いが、小川市長は条例を楯に使途用途の公開を拒否して何も言わない。

 それでいて、エアコン設備率が県下最低水準で、小学校の子供たちが夏の酷暑に泣く声は、市長の耳に届かない。市民の声は聞かざる市長である。

 大垣駅前商店街の61%がシャッターを下ろしても、それが市長の目には入らない。小川敏市長は、見ざる聞かざる言わざる。これは死病に罹った状態である。

 

身内というカス

 名経営者と言われた人でも、企業が公器であることを忘れて、身内の人間には甘くなることが多い。その身内の人間が経営者として失格でも、身内ゆえ、切るに切れず、経営の中枢部が侵食されてゆく。そうすると本体の経営がおかしくなる。血管のプラークのように経営の中枢の障害物となって経営情報の流れを阻害する。経営の血の流れに付いた不純物は、身内というカスなのだ。身内ゆえに切るに切れない。経営情報という血が正常に流れないので、じわじわと企業の生命力を削いでいく。業病である。

 

松下電器の過ち

 かの松下幸之助翁も娘婿の経営者を切れなかった。そのため娘婿を辞めさせる汚れ役を後進の社長に任せたが、反撃され返り討ちにあって消えてしまった。そして松下電器はおかしくなっていった。それは企業が公器であることを忘れた罰なのだ。

 地元の企業でも名経営者と呼ばれた方も、身内におかしな娘婿を入れたがため、経営がおかしくなった。そんな娘婿を選ぶような娘の男を見る眼が問題で、娘の育て方を間違えたのだ。

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     2016年9月28日 揮毫

 

情報  今夕、本ブログの累積閲覧数が49,000回を超えました。

2018-11-19 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

二番じゃダメなんです

 自分の心の中には、4尊の佛様が葛藤している。四流佛は、いくら助言をしても全く動かない不動迷王である。「そんなことは分かっているわい」と、助言をすると怒るので、不動明王様もお手上げで、もうホットけ、である。

 三流佛は、雑事に追われて「忙しい、忙しい」と日々を送り、一歩前進二歩後退を繰り返す不賢忙殺である。自分の悩みを忘れる為に、現実から目を背け、諫言に耳を塞ぎ、雑用に取り組むことで悩みから逃れる佛である「急ぎ事ではないが、人生でもっと大事なことは何かを考えよ」と普賢菩薩様は嘆く。

 二流佛は、物事を遅れずに早からずソツなく過ごし、その場で足踏みをする高見見佛である。分かっていてもつい傍観者の立場になってしまう仏様である。ブツぶつと仏にぼやきはするが動かない「傍観ではなく、その本質の音を観よ、もっと動け」と観音菩薩様は諭す。

 一流佛は、一歩前進、障害に出くわし半歩後退はするが踏み止まり、決して諦めない極道菩薩である。道を極めるのに労を惜しまない極道者の佛様である。

 

己の心で四佛が乱舞

 四尊は全て自分の心中におわします佛様である。日々、場面によって主役となる佛が違う。ある時はアクセルのお役目をするし、ブレーキのお役目もする佛様である。全ての仏が、己の心の状態に合わせて、神出鬼没で人生ステージに乱舞する。人生演出家としての己に根性がなく、その配役決めで迷うと、役者の佛様は右往左往で、波瀾万丈の人生劇場となる。

 

似番菩薩

 「二番じゃダメなんですか?」と耳元で囁く妖怪がいる。この妖怪は、二重国籍問題はひとごとのようにして、ブラーメンで人を攻めるのが得意である。「耳を洗い目を拭って相手を見て、己の魂の叫びを聴け」が、魂の真の声である。「魂」とは自分の内なる「鬼」が本心を「云う」と書いて魂である。親切がましく助言をする佛の本心を見極めたい。本心を隠し、言行が振れ、自分の経歴詐称をする妖怪の本質を見極めないと、ニセモノ人生を掴まされ、自分の人生も日本の政治もダメにしてしまう。一流の佛でなければダメなんです。一番を狙っても入賞さえ難しいのに。二番とは限りなくビリに近い順位である。

 

極道菩薩

 手を合わせれば、観音菩薩の化身である極道菩薩が、救いの手を差し伸べ、己の背中を押してくれる。手を合わせるとは、自分を静かに内観して、その内なる声を聞くことである。人生での戦う相手は、自分の内なる四体の佛である。

 どの佛が浄土に導いてくれるか考えてみよう。人生の第4コーナに突入したのなら、二番じゃぁ駄目なんです。ゴールまで、もう時間がないのです。閻魔大王がゴールで、待ち構えている。

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衆生の救いを求める声を聞き、救いのため足を踏み出し、手を差し伸べているお姿。救いの手のため、人の腕の長さに比べて長い。 大仏師松本明慶作 聖観音菩薩像

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2018-11-19 久志能幾研究所 小田泰仙

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2018年5月21日 (月)

自殺は最悪の人殺し

 最近(2018年)、ジェイアールが頻繁に遅れる。その原因が、いたずらによる踏切警報機の発信、電車と人との接触事故等による迷惑行為に起因する。最近のJRの定時運航の乱れ具合が、日本人のモラルの低下を表している。電車と人との接触事故は、表現は穏やかであるが、鉄道飛び込み自殺である。

 自殺とは、自分というこの世で一番大事な人間を殺すこと。人と生まれたら、最低でも、自分だけは幸せにする義務がある。それが己を此の世に遣わせてくれたご先祖に対する恩返しである。

 

鉄道事故に遭遇

 久留米の真島消化器クリニックで診察を受けた翌日、2016年10月15日、知人と会食のため名古屋に向かった。午前10時過ぎに大垣駅に着くと東海道本線が人身事故で上下線とも不通になっていた。10時頃に、岐阜駅と木曽川間で人が列車と接触したとのこと。飛び込み自殺である。人は必ず死ぬ定めであるが、人に迷惑をかけて死んではなるまい。当事者はそれどころの心境ではないだろうが、人として最後の一線として、その掟は守りたいもの。しかしその鉄道自殺が頻発している。現代は人の最低限度のモラルが低下している。

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道ずれ旅客機墜落事故

 2015年、ドイツの機長が乗客を道ずれにして旅客機ごと墜落させたジャーマンウイングス9525便自殺事故があった。ジャーマンウイングス9525便墜落事故は、2015年3月24日、西・バルセロナから独・デュッセルドルフに向けて飛行していたドイツのLCC・ジャーマンウイングスの定期便がフランス南東部に墜落した航空事故である。世界の精神の荒廃を垣間見る。

 

親の因果が子に報い

 鉄道自殺は、遺族に塗炭の苦しみを与える。関係のない鉄道利用者に大迷惑である。鉄道関係者もその遺体の後始末が大変である。また子、孫にもその影響が及ぶ。その昔、親戚の叔父が鉄道自殺をしたが、その日が息子の入社日であった。それで息子の人生が暗転した。さらに40年後に孫が日本の最高学府を卒業しても就職できないという因果をこうむっている。

 

人の道

 道連れ自殺は、犬畜生ではありえない世界である。人間の尊厳にかかわる事象で、人間の精神の荒廃を示す表れだ。動物は死を悟ると、人知れず姿を消して、静かに死を迎え、土に帰る。犬畜生にも劣るふるまいの死は避けたいとの思いを新たにした。

 親として、年長者として、後進に人としての生き方を示して死にたい。人として生まれたのなら、人を幸せにして死にたい。人を不幸にして死ぬのは、人の道に反している。まず自分を幸せにしてから、死ぬべき。

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2018-05-21

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月12日 (月)

死生観 = 「人生の定義」

 「人生とは何であるか」の定義で生き方が決まる。人生とは何であるかの定義をして、人生の価値を測る物差しを決める。そこから人生は始まる。私は、下記で定義した。英英辞典の中から探して一番納得できた表現であった。

「人生とは、生きている間に行動と経験を積ねながら歩く道である」

The way you live your life, and what you do and experience during it.

“Longman Exams Dictionary”

 

狭き門より入れ

 目の前に極楽の平坦な道があり、もう一方に苦難の起伏に富んだ道がある。一方に広き門があり、もう一方に狭き門がある。一方に食べ放題の道があり、他方に節食の道がある。ずる賢い人間は、動物を捕獲するのに極楽の餌を用意する。金に飢えた食品企業は、美味しい餌をぶら下げて意志の弱い人間を捕獲する。理性ある人間なら、餌に釣られて道を誤るのは避けたいもの。

どちらの道を選ぶかでその人の人生が決まる。

 

死生観を持って

「何のために生きるのかの問題意識を持っていない人は、死生観がなく死に向けた準備もない。死生観がない人は、日本人の9割を占め、信仰なしの人は7割弱も存在する。死への準備がある人は覚悟を持っており、その準備のある人の86%は延命治療を望まない。(『週刊ダイヤモンド 2016年8月6日号』)」

 人間として生まれたなら、死生観をもって生き、死に覚悟をもって臨みたい。我々は犬畜生ではないのだ。

 

人は自然の一部と解釈

 人は大地から生まれ、大地からの恵みで成長し、必ず生まれた大地に還る。大地も自然の一部で、四季折々の変化を見せる。それは自然が声なき経を読んでいる姿である。自分の生きる姿が自然の風景なのだ。人生にも春夏秋冬がある。自分もいつかは自然に還る身である。人生を大地と定義したら、それを耕し豊潤な大地にするにはどうするか、その豊かさを測るものは何かを決めてから始めるべきだ。その定義は百人百様で、自分の定義を定めればよい。それは解釈の問題でもある。人生という事実があるのではなく、その人がどのように人生を解釈して生きたかである。それによって死に方も異なる。

 

人生という大地を耕す

 人生は自身の広大な大地を耕す仕事に似ている。広大な大地を汗水たらして毎日、死ぬまで耕し続けるのが人生である。毎日毎日が同じことに繰り返しである。長年耕し続けても、大地の見た目は変わらず、耕した後を振り返って見ても、耕した面積は広大な大地のごく一部分でしかない。死ぬまでに耕せる面積は限られている。それでも耕し続けなければ、農夫(人間)ではなくなる。人生を行動と経験の道と定義すれば、多くの行動と経験が大地を豊かにしてくれることになる。

 人間が動物ではない証が、人生に価値を求めて生きることである。できることは限られていると、諦めたら負けだ。勝負では先に諦めたほうが負けなのだ。

 

人生とは仕事

 人生とは仕事であると定義すれば、それにあった人生が展開される。人生で一番多くの時間を費やすのは仕事である。それを「人生は苦行である」と定義すれば、行く先は苦行ばかりである。それは奴隷の人生である。その大地を小作人として年貢を納めるために耕せば、奴隷の人生である。地主として豊かな実りを夢見て耕せば、大地主の人生となる。定義の如何によって働き方、生き方が異なる。良く生きることは良き死生観ともなる。

 より広く開拓して耕すのか、より深く自分の地所を耕すのか。方法は千差万別ではあるが、耕し続けた人は幸せである。その大地が豊かになったかどうかは、植えた木が大きくなる20年後でしか分からない。分からなくても、ひたすら耕し続けるのが人生である。その実りを子孫が受けるのも人生の定めである。自分もご先祖の植えた木の恩恵を受けて育ってきたのだ。

 

西洋の労働観

 欧米の労働観では、労働は神がアダムとイブの過ちの罰として与えた苦役であるとされる。そのため欧米人は金が出来たらさっさと引退して悠々自適の生活を送る。労働を苦役とするから奴隷制度が生まれ、戦争して勝てば敗者を奴隷としてこき使うという思想が生まれる。それに対して、日本では労働を神聖なものとして考えるので、日本には奴隷文化は生まれなかった。世界でも稀有でありがたい思想である。それが現在は欧米の拝金主義で汚染されつつある。ホリエモンのように、金が全てという考えの人間が出現する有様である。それは金の奴隷になること。

 

会社の存在意味

 自分が何のために存在しているか、それを現すのが志であり、家族の一員なら家訓である。そこに生きるための指針が示されている。同じように企業は何のために存在するかを示すのが経営フィロソフィー、経営理念である。Toyota way、pasonic way といった道で示した例も多い。己の会社が何のために存在するかを忘れたとき、企業は存亡の危機を迎える。会社の寿命は30年である。創業者が築いた企業基盤を、後継者がその会社の存在理由を忘れて、ゴルフ、酒の放蕩におぼれたとき、金儲け至上主義に陥った時、天は会社の存在理由がないとして倒産を宣告する。有名一流企業でも、後継の社長が利益追求や権力闘争に明け暮れ、創業者の会社理念を忘れて会社を没落させる例が頻発している。JAL、ソニー、東芝、松下、三菱、日産……..。

 企業は社会に貢献してそのお礼としての利益を国と従業員に配分する。赤字会社は、国が税金で用意したインフラをキセル行為で利用している。それでは使用済み核燃料と同じで、赤字企業は社会の利益に貢献しない使用済み企業である。さっさと潰れるのが社会の為である。存続は税金の無駄遣いである。

 

自分の存在意味

 世に役立ってこそ、自分の存在意義がある。企業の不祥事を他山の石として己の存在意義を考えたい。この世でお世話になるのなら、死ぬまで世の役に立つ仕事をして生きよう。

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2018-03-12

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月 9日 (金)

命をケチる

 大垣藩の最後の藩主であった戸田共氏の戸田伯爵夫人の極子は、岩倉具視の三女である。その岩倉具視の件の調査の関係で、2016年9月20日頃、京都の知人に電話をしたら、彼の27歳のご子息が自殺をされたとの話を聞かされた。そのためとても、聞きたいことも聞けなかった。これも戸田伯爵夫人の調査がなければ接せることのなかった事件である。自殺という重たいテーマのご縁をいただいた。

 

多くのご恩のお陰

 人は一人では生きてはいけない。今の生まれた命や支えて頂いている多くの人たちのことを思えば、自殺はありえない。自分一人で、自力で生きていると思い詰めるから自殺になってしまう。先祖、親、師、隣人、友人の恩があって生きていると悟れば、自殺はありえない。絶望の時、相談する師がいないと、路頭に迷う。所詮、人間界で起きた事象は、人間界で解決できる。思い詰めるとあの世に行っても解決はできない。家族や師との会話があれば、自殺は防げるはず。家族、師とのコミュニケーションを大事にしたい。

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馬場恵峰書 2016年9月27日 揮毫

同級生の自殺

 1973年4月1日、入社日の夜、同級生が自殺をした。クラスで成績2番の秀才である。夜の就寝前に電気コードを体に巻き、タイマーをかけての自殺である。原因は不明だが、45年経った今でも、頭の隅から消えない事件である。

 

叔父の自殺

 1988年4月2日、親戚の叔父が鉄道飛び込み自殺をした。当日は一人息子の入社日である。それが遠因で息子の人生が暗転した。しばらくして、彼は会社を辞め、その後も数回の転職を繰り返すことになった。なにも息子の入社日に自殺をしなくてもとは思うが、本人はそれさえ考えが及ばないほど追い詰められていたのだろう。その為だと思うが、彼の孫は3人とも日本の最高学府を卒業しながら、10年間も就職浪人である。なにか考えさせられる。

 

講師の自殺未遂

 2000年頃、私は地獄の研修を受けた。その研修講師のKさんから自殺未遂の話を聞かされた。Kさんは元会社経営の社長で、会社経営に行き詰まり、絶望して車ごと崖から飛び降りるつもりでアクセルを踏んだが、家族の顔を浮かび、崖の直前で思いとどまったという。自分を支えてくれている家族が、自殺を引き留めてくれた。

 

師としての信用自殺

 自分が思い詰めて、師と仰ぐ人に相談に行っても、その師が「忙しい」とかの言い訳で逃げられると、百年の恋にも似た師への尊敬の念が雲散する。何時でも何でも何処ででも相談に乗ってくれるのが、真の師である。それは現世の人とは限らない。本の中にも真の師は存在する。私は師と崇めていた人の本質が露見してから、その人は単なる人生の水先案内人であると悟り、距離を置いた。講師が師としての信頼を自分で殺したのだ。

 

緩慢なる自殺

 自分を支える一番の御恩ある御本尊が自分の体である。命が短くなるのが分かっていてなぜ、不摂生、煙草、暴飲暴食に走るのか。己の体を痛めつける生活習慣、食生活(飽食)、悪い食べ物の多食は緩慢なる自殺である。過労死も、仕事と命を天秤かけて値踏みして、仕事の方が大事とする誤った判断の結果の自殺行為である。過労死をして誰が喜ぶのか。仕事とは、人に喜ばれてナンボである

 

他人の命(時間)の軽視

 2018年3月8日、ある会合に出かけて、その人の軽自動車(顧客からの預り車)に乗せられた。その零細企業の社長は、運転中にかかってきた顧客の電話の応対で忙殺されていた。社長クラスの人を3人も乗せて、安全面で問題がある軽自動車で携帯電話を掛けながら運転するのは、自殺行為である。その社長は会合中も、会議に途中で皆がイベントの打ち合わせをしている中、妨害するように、何度も携帯電話をしまくっていた。会合に関係ない電話の時は、席を外して会議室の外で電話をすべきである。その社長は会議に参加した人の時間(命)と自分の仕事の忙しさを天秤にかけて、自分の仕事を優先したのだ。人のことは知ったことではないのだ。命や人の時間を粗末にする人を計値(ケチ)という。

 

ケチとは

 計値(ケチ)とは、命と快楽・仕事を天秤にかけ、値踏みをする愚行である。食欲の快楽に身をゆだねるのが情けない。その仕事をしてくれる人は他にもいる。世の為になる仕事は皆で行ずればよい。仕事を自分一人でやろうとするから、無理が出る。偉大な仕事は多くの人が協力して成し遂げられる。人を悲しませては、その仕事に傷がつく。己の命の代わりはない。多くの御恩に支えられて、自分が生かされている。自力ではない。

 

ケチの行く末

 ケチとは己の狭い視野で値踏みをすること。ケチな人は目先に囚われて、短絡的・短期的な視野でしかものが見えないため、10年後に損をする判断をする。佛様の差配は人智を超える。回り道にお宝が埋まっている。佛様も元は人の子、陰徳を積めば佛様も恩義を感じて、10年後に利子をつけて倍返しの報恩をされる。

 ケチの究極の姿が、植民地獲得の侵略戦争、民族虐殺、利己主義、成果主義、グローバル経済主義である。一時的には儲かったように見えるが、結末は妬みの文化の氾濫、冨の偏在、格差の拡大、移民が原因の暴動頻発、1%の人だけが富み、99%が不幸になる社会への転落である。

 人は、ものが見えているようで、実際はその本質の10%しか見えていない。残りの90%は人智を超えたベールに覆われている。人は狭い視野でものを見て、全て分かったと自己満足の値踏みをしている。それがケチの根性である。人は実態の10%しか見えないのに、あたかも全て分かっているかのような顔をして経済学者は学問を振り回す。もしそれが正しいのなら、経済学者は全て大金持ちや成功者になれるはず。学者とは単なる知識を切り売りする者である。学者は本質を凡人には難しい表現で煙に巻く。得た知識から知恵を生み出す人が人生で儲ける。得た知識を死蔵では、情報センタの門番でしかない。知識は実社会で知恵を付加して活用してこそ、付加価値が生みだせる。

 先に生まれた人から浄土へ逝く。何も焦って追い越さなくとも、お迎えは来てくれる。人生道では追い越し禁止である。頂いた命をお大事に。生きるとは祈りである。

 

 割り込みは 許されないよ 浄土道    (馬場恵峰作)

 文句なし 今のままでは 極楽素通り地獄行き (馬場恵峰作)

 狭き門 極楽寺坂 すべり落ちるな   (馬場恵峰作)

 

2018-03-08

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月 8日 (木)

あの世は有りや無しや?

 佐藤一斎著『言志晩録』の「三学戒」に接し、あの世を考えた。2015年末に縁あって三基のお墓を改健したが、あの世のことが明確に頭にあったわけではない。墓の完成後、冷静に考えてみてお墓の目的を考えてみた。

 少にして学べば 壯にして為すことあり

 壯にして学べば 老いて衰えず

 老いて学べば 死して朽ちず   『言志晩録』の「三学戒」

 

1.ご先祖の思い出としてのお墓

 あの世の有無に関わらず、ご先祖へのご恩返しがお墓参りであり、お墓の建立であると思う。お墓はご先祖のご恩を思い出させてくれる碑である。ご先祖があって、自分はこの世に存在している。

 最近、死刑になりたいとかで無差別殺人や、人を道連れの自殺事件が多発している。これらの事件の背景に道徳、宗教観の希薄化があると思う。先祖を敬わない、自分だけよければよいという思想が蔓延している。現世だけの世界、ご先祖の恩に思い至らない利己主義的な思想の氾濫の結果ではないか。

 私は小さいころ、祖母に地獄絵を見せられて、子供心に震え上がったことを懐かしく思い出す。子供心に、悪いことをしまいと心に誓ったものだ。それがよき人生の戒めの教育として生きている。今はそれがないようだ。死んだ後は無であると思うと現世ではやりたい放題である。戦争ゲームとして人を殺しても、リセットボタンを押せば、全てチャラ。TVでは人殺しのドラマが横行。これではまともな精神が育つわけがない。

 

2.子孫への教えとして遺すもの

 親がご先祖のお墓参りをする後姿を子孫に見せることが、今あるのはご先祖のお陰との教育をすることになる。私も父の墓参りに随行して、墓参りをするのが当たり前との考えになった。そのお墓がないと、空中に手を合わせることになり、何か実感が湧かない気がする。やはり形あるものに手を合わせたいもの。

 そういう点で、海への散骨等は日本人には違和感がある。将来、子供達が親に手を合わせたくても、墓が無く、海上に出向いて手を合わせさせるのは、子供を不幸にする。2世代後には、ご先祖を考えなくなるだろう。私は海への散骨はイヤだ。分からないことを理性で考えると、後で後悔する。

 元旦の行事、春夏秋冬の日本の行事の中に、お盆、彼岸の墓参りが日本文化に溶け込んでいる。善悪の問題ではなく、それが日本の文化なのだ。

 

3.あの世はあるとして、為すべきこと

 あの世があるかないか、誰にも分からない。それに類する論を数学者パスカルが『パンセ』の中で「神は存在するか否か」というテーマで理論的に展開している。それを元に渡部昇一師は、あの世の存在の有無を、『95歳へ!』(飛鳥新社)の中で展開している。その結論からいくと、あの世があると信じてこの世で、お墓を作るのは危機管理的に理にあっている。

 その著書の中で、佐藤一斎の「三学戒」(「少にして学べば…」)の言葉があり、また2018年3月4日に佐藤一斎の故郷の恵那市岩村を訪問したおり、佐藤一斎像の横の石碑に、「三学戒」を見て、以前に「あの世は有りや無しや?」を考えたことと、馬場恵峰先生に、この言葉を揮毫して頂いたことも思い出した。

 佐藤一斎作「三学戒」は、言志晩録の中では最も輝いている言霊である。この言葉が人間の人格を高める。あの世はあるとして、人格を高めてから、あの世に旅立ちたいと思う。その為には老いても「志」を大事にすべく精進すべし。

 

 江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎の著書『言志晩録』に「少にして学べば即ち壮にして為すあり。壮にして学べば即ち老いて衰えず。老いて学べば則ち死して朽ちず」という言葉があります。

 一斎の言う「壮にして学ぶ」とは、仕事以外のプラス・アルファを勉強することです。現職の時に頑張って働くのは当然のこと、それは別に何かプラス・アルファの勉強をしていると、「老いて衰えず」になると言っているのです。

ここで「死後も霊魂の世界がある」と信じるかどうかが問題になります。これは死後のことですから、私たち生きている者には「わからないこと」です。したがって、俗な言い方をすれば「どちらに賭けるか」ということになります。

 もし「死後の世界はない」ほうに賭けたら、どうでしょうか。死んでみて、これがアタリだったら場合、「当たった。よかった」ということはありません。死後の世界はなかったのですから、死んだらそれまで、あとは何もなしです。

 では、ハズレで、死後の世界が存在した場合はどうでしょう。ないと思っていた世界があって、そこで生きなければならないとすると、準備不足で困ったことにならないでしょうか。つまり「死後の世界はない」ほうに賭けた人はアタリで何もよいことはないし、ハズレで困ったことになるのです。

「死後の世界はある」ほうに賭けた人はどうでしょうか。ハズレで、死後の世界がなかったら、それまでです。何もなし。アタリで死後の世界があったら万歳でしょう。するとハズレで何もなし、アタリで万歳ということになります。

 どちらに賭けたほうが得か、明々白々です。これは数学者パスカルが『パンセ』の中で説いた考え方です(パスカルは「神は存在するか否か」というテーマでこの論を展開しました)。 この項、渡部昇一著『95歳へ!』(飛鳥新社 2007  p136)より

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 馬場恵峰書 陶板に揮毫 2016年

 陶板への揮毫は誤魔化しがきかず、書いた跡がそのまま浮かび上がる。

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 岩村歴史資料館の佐藤一斎像(2018年3月4日撮影)

 1p1040529  岩村歴史資料館にて(2018年3月4日撮影)

2018-03-08

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