ma_極楽運転道 Feed

2020年12月 5日 (土)

車線変更は3秒前、転職は3か月前、死の予告は3年前

 

車線変更

 車の運転では、車線変更や方向変更はその行動の3秒前に方向指示器を出そう。急に曲がるから、後続車が予期せぬ動きに驚いてドキッとさせる。

 車線変更と同時にウィンカーを出してどうするの? ウィンカーの意味がない。

 3秒間は「せんじゅういち、せんじゅうに、せんじゅうさん」と数えればよい。そのようにテストドライバー資格試験訓練で教わった。

 

転職

 転職する場合でも、その3か月前には会社と仲間に知らせよう。急に辞めるから社会の信用を失うのだ。

 人生の方向転換は、3か月前に回りに知らせよう。周りがそれに合わせて支援をしてくれる。自分はどこに行こうとしているかを家族や周りの人に知らせよう。自分の決意を知らせておこう。相手にも心の準備をさせてあげよう。

 

死の準備

 死の3年前にその準備をしよう。その時期は自ずと分かるものだ。それとなく周りの人に知らせよう。突然に死ぬから周りに迷惑をかける。

 私は河村義子先生の死が予見できなかった。だから茫然自失となった。それが察知できなかったことに、悔いが残る。

それが何となくわかっていれば、回りの人は、その人と会ってお別れの覚悟をするのだ。その人が目に見えて段々と衰弱していき、死が避けられないのが納得できれば、静かに見送ってあげられる。取り乱すこともない。だからその人との別れに納得がいくのだ。人の死は必然であるから。

 それが突然の訃報に接するから未練が残る。

 

死の病気の選択

 その点で、死ぬなら癌がお勧めである。脳梗塞、心筋梗塞、認知症では即死も同然で、心と身辺整理の準備ができない。

 それに対して癌は死ぬまで余裕がある。最期の1か月程は動けないが、それまでは健康体と変わらない生活が出来る。それで自分の後始末が出来る。

 延命治療で、体中に管を入れられ、胃瘻をされ、点滴で栄養剤以外に睡眠薬も投入されて、手をベッドに縛られては、死ぬに死ねない。本人には地獄である。

 世には、親を終末医療の施設に放り込こんで、見舞いにも来ず、親の年金を懐に入れる親不孝者もいるようだ。

 

死後の準備

 突然に死ぬから、あの世で立ててもらえるお寺も、無住職のお寺になってしまう。事前に戒名を戴いて、院号を授かれば、そのお寺の住職として赴任が出来る。そこで心置きなく仏道に精進できる。

 戒名の院号とは、導師が故人の為に建てるあの世のお寺名である。そのお寺で仏道に精進をする。

 

2020-12-05 久志能幾研究所通信 1851  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年10月23日 (金)

むやみに車線変更しない

 

 車の運転では、時間節約ため、むやみに車線変更をしないこと。変化には必ず危険が付いて回る。それが時間をロスする。車線変更という動作は、曲がり、速度変化するため、エネルギーロスと摩擦ロスが生じる。

 

運動の第2法則(運動の法則)

 静止していた物体が動き出したり,一定の速度で動いていた物体の速度が増加や減少した場合、運動の第2法則(運動の法則)で、「加速度の大きさは,力の大きさに比例し,質量に反比例する。」

 F=m・α

 一定の力が働いているときには,等加速度直線運動をする。

 

 車線変更をして追い抜いて狂走しても、今の交通事情では、到達時間は数分しか変わらない。

 私は、前の車がよほどのろま運転以外は、車線変更せず、目的地に車を走らせる。それが運命、ご縁だと思って走る。そのうち、前の車は曲がってどっかに「逝って」しまう。人生一本道である。わき道、寄り道、浮気、車線変更をせず、煩悩に惑わされず、真っすぐに走ろう。

 そんなに急いで何処へ行く。行き先は死しかない。人は必ず死ぬ。死までの運転道中が人生だ。その人生を如何にスピーディに、スムースに、安全に自分が運ぶ「目的物」を届けるかが問われる。それが命を全うすることだ。

 自分が人生で運ぶ「大事なモノ」とは何かを自問しよう。

 

テストドライバーの使命

 自動車会社の試験者運転資格(テストドライバー資格)で要求される能力は、早く走ることではない。いかに車をスピーディに、スムースに、安全に走らせるかである。運転中に異音を感じて、いかに素早くその対応が出来るかである。

 例えれば、テストドライバーの使命は、後部座席に乗せた急病の子供を病院に運ぶ仕事である。早く(スピーディに)早く行かねばならぬ。息子の病状は一刻を争う。乱暴な運転では、後部座席に息子の容態に悪影響が出る。だからスムースに運転である。暴走運転では事故の恐れがある。安全運転最優先である。テストドライバーの検定試験中に急ブレーキをかければ、一発で不合格である。予想運転が出来ていなく、危険運転であるとの評価である。3S運転が、テストドライバーの基本である。人生も同じである。

 

人生道のテストドライバー

 人生道では、己は後部座席に大事な「志」を乗せて疾走している。早くいかねば、命が尽きてしまう。命は日々、尽きていく。傍若無人に走れば、世間と衝突して、志の実現ができない。危機管理をしないと、志が途中で爆発分裂する。

 車の運転の仕方そのものは、己が人生を歩む姿を象徴している。一事が万事で、たかが運転、されど運転である。車の運転の状況を見れば、その人の性格、人生が分かる。車のハンドルを握ると性格が変わる人がいる。そういう人は人生で成功しない。車の運転とは人生である。

4k8a02451s

  馬場恵峰書

 

2020-10-23 久志能幾研究所通信 1797  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年10月21日 (水)

逆走死? どんな死に方をしたいですか?

 

 人は老いれば、自ずと色んな病気を抱える。その時、医師にかかって薬を貰うが、自分の意志で死に方を決めないと、勝手に認知症にされてしまう。

 通常の医師は、高血圧だと降圧剤を処方する。降圧剤は対処療養の薬で、高血圧が治るわけではない。血圧を降圧剤で下げると、必要な血が末端まで行かず、認知症、脳梗塞、心筋梗塞、癌になりやすい。

 降圧剤を飲まないと、脳溢血の恐れがある。でも苦しまず、一瞬であの世に行ける。認知症では5年程、家族に地獄の迷惑をかけて、脳死として死ぬ。また認知症では、交通事故で死ぬ確率も高い。

逆走

 先日も(10月20日)、駅前大規模小売店アピタの駐車場から出ようとしたら、老人の運転する車が出口から逆走で突っ込んできた。私は、思い切りクラクションを鳴らして警告したが、その老人は知らないそぶりで、出口から駐車場にそのまま入って行った。その老人の雰囲気から見て、認知症のようだ。怖ろしか!

202010201b   逆走の車 2020/10/20 12:17  アピタ駐車場の出口

 

 薬を飲んで認知症の脳死で死ぬか、飲まずに脳溢血で死ぬか、選択が必用だ。

 対処療法なら、私は脳溢血を選ぶが、本来の根本療法は、血管に溜まったプラークを減らす食事療法である。しかし、医師はそれでは儲からないので、その治療は「黙秘」である。普通の医師は、だまって降圧剤を処方する。

 

父の死

 高齢の場合でも、癌が見つかれば、手術である。切れば治ると保証してくれる。85歳の父の場合も医師はそう診断して、私に手術を勧めた。私は医師を信じて、父の手術を了承した。結果、手術は成功したが、その後、別の部位に癌が転移をして、父は手術後1年で他界した。2002年のことだ。却って父を苦しめただけであった。手術をしなければ後5年程は生きていたはずである。これも死に方の選択を間違えた事例である。そんな類の話は、後からあちこちで聞いた。しかしその当時は、そこまで頭が回らなかった。悔いである。

 癌になった根本要因を除去せず、手術だけをするから、癌が転移する。そこまで当時の医師は助言をしてくれなかった。

 

自分の死に方を選択

 現在でも、癌の場合、医師は手術をするだけで、その後の再発防止策は、自分で探すしかない。私の癌の場合も、手術後、多方面の調査をして、再発防止の対応をした。医師は標準治療として抗がん剤を勧めたが、私はその薬物治療を拒否した。高齢の私は抗がん剤のために衰弱し、免疫力が低下して、肺炎等で死ぬ危険性が高まる。それよりも、癌の再発防止に取り組み、それでも癌が出来れば諦めようと決断した。お陰で2年後現在、再発防止には成功したようだ。

 これも自分で死に方を選択した成果だと思う。まだまだやるべきことが残っている。そんなに早く死ぬわけにはいかない。残り少ないあと38年(?)を頑張らねばと精進している。

 

2020-10-21 久志能幾研究所通信 1795  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月18日 (火)

マーク・レビンソンの媚音に迷わない

 安全運転上で、運転中の音楽鑑賞は禁止である。音楽に聞きほれると注意散漫となって、事故の危険性が増える。

 前のレクサスLSに乗っていた時も、高級オーディオを装備してあったが、ついぞ音楽をかけたことはなかった。今の足として使っている車も、私は運転中もそうでないときも音楽は決してかけない。私はいつも緊張状態で、テストドライバーの意識で運転に集中している。

 その昔、車で通勤していた時は、講演テープなどは聞いていたが、音楽はかけなかった。あんな狭い空間で、音楽を楽しんでも致し方あるまい。

 私が1993年、初めて試験車運転資格を取る訓練を受けた時、指導教官は真っ先に私の車のラジオの電源を切った。「運転に集中しなさい」である。それよりも周りの音、自車のエンジン音に注意を向けよ、である。

 

 車を運転するとは、一億円相当の自分の命を運んでいるのだ。家族が同乗していれば4億円相当の金塊を運んでいると同じなのだ。構えて運転をせよ、である。ちょっとした油断で、事故が起き、それがフイになる。

 

2020-08-18 久志能幾研究所通信 1711  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月 3日 (金)

妾とレクサスは囲うものではない

骨董と妾は囲うものではない

骨董品と妾は成仏させよ

 なにせ骨董品は、その保守が大変である。特に書画は陰干しも必要だし、経年変化する膠の保全が大変でお金がかかる。妾とレクサス等の高級車は、乗らないときの維持費が大変である。

 

骨董品の叫びと祟り

 また骨董品には作者の魂が籠っている。それが恨みとして祟るかもしれない。名古屋ボストン美術館はその祟りで潰れたようだ。

 ボストン美術館に拉致された日本の国宝級の仏像や仏画、古美術品は、拉致されて150年が経つ。それらに使われた膠の寿命は100年である。その保守をボストン美術館が、正しくやっているかは保証の限りではない。なにせ拉致された美術品の実態さえ、正確に分からないのだ。北朝鮮の拉致問題と同じである。ボストン美術館の倉庫で膠の寿命がきた美術品が助けて欲しいとの叫び、その積もった怨念が、名古屋ボストン美術館の経営不振と閉館の原因ではないのか。

 日本政府も、海外に流失した美術品の回収事業を始めるべきだ。それでこそ文化国家である。

 

レクサスの祟り

 私も「レクサス欲しい症候群」にかかっていたが、偶然、2年ほど前にレクサスの最高グレードの車種を手にいれることになった。それでレクサスを2年程乗り回して極楽気分になっていた。ある日、祟りで目が覚めた。それは、お金の減り方が半端でないことで気が付いた。

 本妻としての愛車の駐車場代とは別に、二号さんとしてのレクサスの駐車場代が月に22,000円、本妻の税金の55,000円以外にレクサスの税金が年に88,000円、自動車保険が本妻で51000円、レクサスに年88,000円である。お手当としてのガソリン代も高い。他に色々と経費が掛かる。

 レクサスも置いておくだけというわけにもいかず、たまには乗って可愛がってあげねばならぬ。少し間をおくとバッテリーが弱り、バッテリー交換である。これが普通の車よりもはるかに高い。前回、癌の手術をして入院したので暫らく乗らなかったら、バッテリーが上がり、バッテリー交換である。

 やはり二号さんでも定期的に懇ろに乗ってあげねば、すねてしまう。妾の嫉妬は高くつく。本妻を諦めて二号さん一本にすればよいが、それも未練が残る。レクサスのバカでかい車体で、市内の狭い駐車場のお店に行くのが大変だ。それは本妻の足としての車の方が使い勝手がよい。だから結局、レクサスを買っても、しばらくは2台持ちになってしまった。未練があり、なかなか本妻とは別れられなかった。でもそれは分不相応であった。

 しかしこのレクサスがあったから、大垣を訪問された馬場恵峰先生三根子先生ご夫妻をこの車で送迎できて、三根子先生にも喜んでもらえてよかったと思う。それでレクサスが成仏である。

 

格物致知

 名古屋ボストン美術館は、古美術品の祟りに20年間耐えて、没した。私は2年間、祟りに耐えて、耐えきれずレクサスを手放した。

 欲しいというモノは、一度手に入ると、こんなものかと達観になる。だから再度欲しいという気にはなれない。それはどんな品物やイベントでも同じであるとやっと達観できた。だから後悔してもいいから、欲しいと思ったものは、入手して、やりたいことを体験するのが人生だ。それをやらないから未練が残り、死の間際でやらなかったことを後悔する。何事も、実際にやってみないと、その旨さも不味さも分からない。だから、なんでもやってみる事だ。ダメなら引き返せがすむ話である。そういう意味で、レクサスを買ったことは後悔していない。よい経験であった。

 愚かなことは、愚かだとやって見て初めて実感するのだ。実際に体験して、それが知に致るという。「格物致知」である。それは本を読むだけでは体得できない。

P10500021s   馬場恵峰書   2008年

2020-07-03 久志能幾研究所通信 1653 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年6月24日 (水)

人生道でも呼称運転が大事

 自動車会社の試験車運転資格試験(テストドライバー試験)では、呼称運転が要求される。「右ヨシ」「左ヨシ」等の安全確認の呼称である。これをやらないと試験では減点である。

 試験車運転資格試験で、いくら正しく呼称運転をしても、他の項目が満点でも、急ブレーキをかければ、一発で不合格である。それでは安全確認運転、事前予想運転ができていなかったとみなされるからだ。試験車運転資格の最大の目的は、安全運転の遂行である。車は命を運ぶ道具である。それが他の工業製品と違うところである。その意識が高いから、トヨタは生き延びている。GМ、VW、日産、三菱自動車はそれを疎かにしたので、会社が左前になった。

 だから試験車運転資格では、スピーディに、スムースに、セイフティに運転することが求められる。速く走れればよいわけではない。

 私がこの試験を受けてテストドライバー資格を取ってから、もう30年近くになり、仕事や生活では縁が切れた資格であるが、今でも私は日常生活の運転でも呼称運転を続けている。安全運転上は効果があり、継続している。

 

人生の呼称運転

 人生の岐路では「右ヨシ、左ヨシ、ご縁の相手ヨシ、」の呼称をして、その選択が正しいか冷静に判断して、前に進む習慣が大事だと思う。人生とは、己の命を運ぶ車(人間の体)に乗って人生道を走っているのだ。だから人生の安全運転、危機管理が必用である。事故に会ったり、病気になるのは、人生の安全運転の心掛けを怠ったのだ。人生道の大事な決断は、一呼吸置いて、果断に決めることだ。

 

特急電車の呼称運転

 2020年6月24日、検診を受けるため大垣から名古屋の愛知県がんセンターに出向いた。その時、3密を避けるため、JRのホームライナー(名古屋から「特急しらさぎ」として運転)のグリーン車を利用した。年に数回の病院通いなので、780円を奮発してグリーン車を利用した。ホームライナーは普通車扱いなので、指定席券330円かグリーン車券780円で乗れる。

 グリーン車は先頭車両で、私を含めて2名しか乗っていなかった。この時、指定の席は前から3列目であった。ところがいつもと違うことが、運転席から呼称運転の声が聞こえてきたこと。それが頻繁である。窺うと、どうも新人の教育として指導教官が同乗して、その指導をしているようだ(後で確認したら、正解であった)。

 「〇〇オーライ、進行」「減速 速度75」「減速」「〇〇通過」「信号通過」「枇杷島通過」「信号通過」「〇〇注意」と、その声が客席に丸聞こえであった。列車運転で、どういう呼称をするか、大変勉強にはなった。

 

私の訓練時

 私は当時の試験者運転資格試験の訓練で、横の助手席に指導教官が同乗して訓練をした時のことを懐かしく思い出した。自分の経験から分かるが、横に指導教官が同乗していると、意識してつい呼称の声が大きくなるものだ。JRさんも安全には最大の取り組みをしていると感心した。

 

JRへのお願い

 特急電車の運転席のドアの防音性は薄く、すぐ後ろ乗客室に運転席の声が丸聞こえになる。そのことを認識して、呼称運転の指導をして欲しい。事情を知らない乗客には不快であろう。

P1130794s

2020-06-24 久志能幾研究所通信 1643 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年6月23日 (火)

持永天の教え 「右大回り、左小回り」

 日本の道路の交差点で曲がる時は「右大回り、左小回り」を徹底する。それが安全運転の鉄則である。

 これは自動車会社の試験車運転訓練(テストドライバー訓練)で指導される事項である。また乗客の安全が第一のタクシーの運転手の訓練でも、この指導がされる。しかし普通のドライバーはこの件で、無頓着である。

 

右大回りの理由

 交差点の右回りで大回りをすれば、もし信号無視の車が右から車が突っ込んできても、少しでも衝突までの時間を稼げるからである。その場合、左側よりも無防備な運転席側に相手は突っ込んでくる。だから身を守るために「右大回り」である。

 左回りで大回りをすると、対向車線には入ってしまい危険である。だから左小回りである。

 

私の運転

 私が買い物等で市内を走る場合、左回りで所用を済ませるようにルートを選ぶ。また近道ではなく、なるべく曲がる回数の少ない道を選ぶ。曲がるとか、止まるとか、事態が変わった時、事故が起きやすい。それを避けるために、できるだけ曲がらずに真っすぐに走る。

 市内走行なら、燃費など無視である。それより安全第一である。私の車の燃費は一ℓ当たり5kmである。エンジンが温まるまでに、その日の所用が終わってしまうから。

 

人生道の方向転換

 人生の岐路に差しかかり、右に回る(手間のかかる方向転換)場合、準備周到にして、曲がることが危機管理である。例えば転職、事業転換、人事異動等でトラブルが予想されることは、それが回避させる手段を周到に講じてから、方向転換をするべきだ。止ると思っていた相手が暴走してきたら、右小回りでは衝突である。

 最も良い方法は、できる限り曲がらない人生道を走ること。曲がれば、摩擦が生じてロスが生まれる。

 

四天王、持永天

 仏の世界でも魔物からご本尊を守るため、中門に四天王が四方向に立ち、本堂を守っている。邪悪な輩が跋扈する人間界なら、自分の命を永らえるため、自分自身が「持永天」として、広い目を持ち、知識という武器を持ち、法を日に何度も聞き、高い視野で世間を観なければ、自分の城は守れない

 「自分の城は自分で守れ」トヨタ生産方式を作った大野耐一の言葉)。

 己は自分を守って持永天になり切って、自分を守れ。行動せよ。此の世で一番大事なのは、己の体である。自分を大事にするから、他人様も大事にできる。テロリストは、自分を大事にしないから、自爆テロで、他人を巻き込んで自殺する。

 なお、持永天とは、私が四天王を総合した力を持つ天として創作した仏様である。命を永らえさせ、それを維持する天の佛様である。自衛隊を意識して、持永天とした。

039a0677s  松本明慶大仏師作 広目天 高野山中門   _2015年04月25日撮影

039a0680s  松本明慶大仏師作 持国天 高野山中門 2015年04月25日撮影

P10203471s  松本明慶大仏師作 多聞天 三好輝行先生蔵

2020-06-23 久志能幾研究所通信 1642 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年4月13日 (月)

運転が一番難しい車を、辛抱して乗りこなす

 朝起きて、生きているとは、何と素晴らしいことか。

 この世には、朝になっても、起きてこない人もいる。明日、事故・天災に襲われるかも知れぬ。人生、明日は分からない。

 その素晴らしい人生でも、生きていれば、壁にもぶち当たろう。壁にぶち当ったら、焦らず小休止すればよい。

 その壁を乗り越えるためには、自分が変わらなければならない。自分が変わろうとしない限り、何も変わらない。その小さな壁さえも乗り越えられない。幾らボヤいても、立ちはだかっている壁は、永遠に変らない。

 どんな車よりも構造が複雑で、運転が難しい車とは、「自分という名の車」。その車の一生の運転手は自分である。

 その車は、正しく運転すれば、高い壁さえ乗り越えて天馬のように飛躍する。正しい狂気を持てば、飛ぶ車にも変身させられる。

 しかし、自省と堪忍がないと暴走する車でもある。暴走したら、ブレーキも効かず、皆を道連れに地獄に直行である。小川敏の大垣市長車のように。

  馬場恵峰師の言葉(編集、加筆)  2006年5月28日 明徳塾3で

S

    馬場恵峰書  平成11年(1999年)

P10600161s

  馬場恵峰書  平成29年(2017年)

2020-04-13 久志能幾研究所通信 1533 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月25日 (火)

新型コロナウイルスより怖しい徘徊老人

危機一髪、人を轢かずに済んだ 💛

 

 私は、夜間の車の運転は控えるようにしていた。しかし、昨夜、2020年2月24日、少し気が緩んで夕方に出かけた。帰路時は日が暮れ、自宅近辺で人を轢く寸前のヒヤリ事例に遭遇した。相手は痴呆症の徘徊老人のようだ。人を轢いて死亡事故でもなれば、私の人生が終わってしまう。死亡事故でなくても、老人のため怪我で要介護の状態になったら、相手の家族がまた大変だ。その保証も大変だ。それこそ生殺しの地獄に堕ちる。

 今、日本は認知症患者の増加とその徘徊の増大である。それを受けてオダ仏教団極楽交通省「戒厳令」を発令した(?)。認知症の氾濫は、新型コロナウイルスより危険である。私は「車での夜間外出禁止令」を自分自身に課した。

 

事故防止策

 事故防止には、夜間の運転は控えることを徹底するしかない。夜の遊びの徘徊(?)禁止である。特に、生活道路では、要注意である。

 

 事故の発生数=走行距離×事故率

 

 事故率は、夜間はその事故の発生確率が跳ね上がる。また生活道路でも、その発生確率が跳ね上がる。走行距離がゼロなら、事故はゼロである。だから夜は車で出かけてはダメなのだ。

 

ヒヤリ事例状況

 昨夜、2020年2月24日、18:25、日没直後、暗くなっていたので、私は慎重に運転をしていた。基幹道路から生活道路に入り50mも走ったところで、直前を横切る老人を発見した。私がその老人をハイビームで照らしても平然と後ろに手を組んで、悠然として歩き、そのまま道を横切って道横の自宅に入って行った。老人は私の車を全く認識していなかった。それで認知症の老人と断定した。

 最近はそういう徘徊老人が多い。昼間ならよほど早く発見できるが、夜間に闇に溶け込んで直前に車の前を横断されると、直前にならないと発見できない。

 以前に同じような状況で、この近くで人身事故を起こしたことがある。その時は、相手は黒い服装で、ヘッドフォンで音楽を聞きながら下を向いて歩いていた。相手は私が止まると思っていたようだ。私は相手が背景の暗い壁に溶け込んで、発見できなかった。

 そのため今日は夜の運転だからと、慎重に予測運転をしていたため、ヒヤリとはしたが、大事には至らなかった。

 

徘徊老人と断定

 その状況をドライブレコーダーの記録で確認してみた。相手の老人は、ヘッドライトに照らされても当方を全く認識していない行動ぶりである。まるで、さあ轢いてくれと言わんばかりである。今は、そんな老人が大手を振って徘徊している。

 日本では65歳以上の15%が認知症である。75歳以上は25%が認知症である。怖ろしい時代である。その数、602万人(2019年)。年々増加の一途である。2025年には700万人になると厚生労働省は予測している。この数値は、コロナウイルス罹患者数どころではない。

1

 2020年2月25日、18:25  

 右手から横断する老人が闇に溶け込んでいる。

2

 2020年2月25日、18:25  上図から1秒後

 前方に老人が道を横切っている。はっきりとは見えない。

3

 2020年2月25日、18:25  上の状態から2秒後

 ヘッドライトをハイビームにして、老人が浮かび上がった。

 老人は我関せずで、後ろに手を結んで悠然と横断。

 

発見の法則

 今回のヒヤリが人身事故にならずに済んだのは、私が「極楽運転道」(『交通安全の科学』自著)「発見の確率」の法則を知っており、注意して走行したからだ。無意識に走れば、事故になったかもれない。

 

「発見の確率」

 事故防止には、事故を起こす要因・物体を、いかに早く発見するかに尽きる。そのためには「発見する確率」と「発見される確率」の向上をすればよい。なにせ、事故原因の55%が「認知の遅れ」である(1967年自動車技術会の調査データ)。このことから、事故の要因(障害物等)の認知(発見)をいかに早くするかで、事故に合う確率は激減する。認知の向上には、「発見しやすさ」と「発見されやすさ」を向上させればよい。

 「発見しやすさ」と「発見されやすさ」の確率を、1938年にローパーとハワードがドライバーの直前にダミー歩行者を飛び出させて実験してデータを得ている。実験では、何が起こるかを全く予知していない被験者が運転する車の直前に、ダミー歩行者を飛び出させて、ドライバーがそれに気づいてアクセルベダルから足を離す時点でのダミーから車までの距離を測定した。予知していれば当然視認した距離をLn 、実際にドライバーがダミー歩行者を視認した距離をNa として、〔Na /Ln 〕を横軸に、縦軸にダミー発見ドライバー数の累積頻度を図・7に図示する。これから下記のことが分かる。

 

・ダミー歩行者を予知せぬドライバーは、予知しているドライバーには見える視認距離の70%まで近づくまでは、一人もその存在に気づかない。

・50%の距離に近づくと、半分の人が気がつく。  

 予知しないドライバーが妨害物を発見する確率が50%になるのは、予知している

   ドライバーの視認距離の1/2になってから。

   つまり、意識して見れば人の2倍は見える 

・25%の距離まで近づいて、初めて全員が気がつく。

 

 予知を意識した運転とそうでない場合では、事故を起こす確率が異なるのをこのデータは証明している。

Photo

ドライバーの妨害物発見確率曲線 (V.J.ローバーTrans,IES" 1938.05

 

 また事故の大半は「衝突する相手の車を発見しなったため」に起きている。

 事故件数を違反別に分類したデータ(図⒏2)から、「安全不確認」、「脇見運転」、「一時不停止」、「動静不注視」、「漫然運転」のワースト5の合計は54.4%に達する。このワースト5こそが「不発見型」の事故である*3。

 

5

  図8.3   運転者の内容別事故件数

 

2020-02-25 久志能幾研究所通信 1491 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月15日 (土)

磨墨智33 タイマツ(心の霊光)を掲げよう

 早朝の薄暗い時には相手に認識してもらうため、ヘッドライトを点燈して走行しよう。夕刻で暗くなったら、早めに点灯しよう。雨が降り出して見通しが悪くなったら、点灯しよう。1985年当時でも、スウェーデンでは昼間でも車走行時はヘッドライトの点灯が義務付けられていた。

 それは自分の車の前方を見るためではない。相手に自車の認識率を高めるためで、それが事故防止になる。事故を起こさないのは重要な時間節約である。

 

周知徹底

 自分が何をやろうとしているかの志を掲げるのが、周りに知らせるのが効率アップである。そうすればみんなからの援助がある。一人では小さな力だが、皆が力を合わせれば、大きな力となる。リーダが組織のベクトルを合わせるため、スローガンを立てるのが、そのスローガンも松明の一種である。

 暗夜に一燈を灯そう。

 自由の女神は、自由のタイマツを灯して、アメリカへの移民を迎えた。欧州を追われたやっと米国にたどり着いた移民は、それでどれだけ勇気づけられたことか。私も1994年にニューヨークを旅行した時、その自由の女神像を見て、感銘を受けた。私も一旗揚げようという気になった。

Photo

 フェリーから眺める自由の女神(左側)とウォール街のビル群(右側)

 一番高いビルが国際貿易センタービル(2001年9月11日、テロで崩壊)

   1994年5月3日 著者撮影

Photo_2

 フェリーから望むウォール街

 一番高い2つのビルが国際貿易センタービル

   1994年5月3日 著者撮影

Photo_3

 国際貿易センタービル106階からの眺め

 手前の移民局と自由の女神の位置関係がよく分かる。

   1994年5月3日 著者撮影

 

大垣の燈火

 大垣を良くするためにタイマツを掲げよう。現状の小川敏の独裁政治の問題点を照らし、大垣を良くするための皆の認識を共通化するのも、タイマツを掲げるのは、大垣を良くする手段である。

 だからこのブログは言葉の灯台である。灯台には妨害の嵐も吹けば雨も降る。だからこのブログを誹謗するコメントも襲来する。それは小川敏軍団にまつわりつく利権集団の手先である。

Dsc004751s

 馬場恵峰書

 

2020-02-15 久志能幾研究所通信 1481 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。