b-佛像彫刻・大佛師松本明慶 Feed

2019年8月16日 (金)

第三の眼を開く

 素晴らしい人生はないかもしれないが、すばらしく楽しむ生き方はある。

 毎日丁寧に生きれば、価値ある人生が生まれる。書道でも、今から頑張っても、うまい字は書けないが、丁寧に書法に則って字を書けば、下手でも読んでもらえる字が書ける。雑に書いた字は、誰も読んでくれない。馬場恵峰先生の教えである。

 雑にこなした人生では、素晴らしい人生は作れない。誰も振り返らない。私は、雑に生きている人とは縁を切っている。そういう人はご縁を大事にしないのだ。感謝をしないのだ。恩を仇で返す人なのだ。

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 馬場恵峰書

 

死との闘い

 還暦を過ぎれば、毎日が死との闘いである。特に癌の手術を受け、余命宣告を受けるとなおさらである。既に会社で一緒に仕事をした仲間24人が、この世を去った。ビジネス戦争の戦死である。朝、生きて目が覚めるだけ、幸せである。それを感謝もせず起きるのは、恩知らずである。私は毎日、目が覚めると、体調が悪いか最悪の状態である。それでも目が覚めるだけ、幸せなのだ。目の覚めない仲間に較べれば。だから毎朝、仏壇に手を合わせ、お勤めをする。

 

 その最悪の状態で己は何ができるのか、己の心に刃を向けて考えることが、「忍」である。今日よりは、明日、何か自分を向上させるため、心に刃を向けて精進をしたい。それが人間の勤めである。人は畜生ではないのだ。その点で、無欲ではなく、貪欲になりたい。

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 馬場恵峰書

 

「市民のために」やることは間違い

 己は世の支配者ではない。己の支配者は己でない。己の支配者は世間である。己は世間から生かされている儚い存在である。己の立場で、己の為にやるから、人生はうまくいかない。世の為、佛の為に、何をやれば喜ばれるかを考えて、世のために事をやるべきである。今まで生かしてもらった人生の恩返しをすべきである。やったことは自分に帰ってくる。

 大餓鬼市長のように、「市民のために」ことを興すから愚政となる。それは実際には、己の利害の為に、目立つ為にやるだけで、市民の為にはならないのだ。リーダーは、やりたいことをやってはならない。リーダーとしてやるべきことをやらねば駄目なのだ。大餓鬼市長は、やるべきことをやらずに、愚政を18年間も続けるから、統治を任された市が衰退した。市民の立場に立って、市民の為になる行政をしなければダメなのだ。

 大餓鬼市長は、やってはいけないことを教えてくれた逆縁の仏様である。人として、そうしてはならないことを教えてくれた。知識があっても知恵がないとダメなのだ。

 自分の為にことを興すからうまくいかない。相手の立場になって、何をやるべきかを考えると、額の真ん中にある心眼(第三の目)が開く。それが文殊菩薩の智慧の眼である。それで世間が求める願いが観えるようになる。

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 文殊菩薩  大仏師松本明慶作

 

2019-08-16   久志能幾研究所通信No.1298  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年7月 7日 (日)

文殊菩薩像、普賢菩薩像 納佛

 2年ほど前に、松本明慶先生に製作をお願いしていた文殊菩薩像、普賢菩薩像が、私の退院後の3月18日、自宅に納佛された。材料(楠)の乾燥に時間がかかったそうで、1年遅れの納佛である。私の手術があり、病気回復を願って、少し慌てて製作が急がれたそうだ。

 今、二尊が自宅の応接間に鎮座している。その横に座って考えていると、心が安らぎ、余命2年と宣告されたことを忘れさせてくれる。応接間で本を読み、エッセイを書いているが、その横で文殊菩薩様、普賢菩薩様が静かに私を見つめていてくれる。心の安らぎを得ている。

 

目に見えないものへ畏敬

 佛像とは何かを考える前に、佛に帰依している自分に安らぎを覚える。これは理屈ではない。佛像は目に見える存在であるが、目に見えないものへの存在を信じて、手を合わせる行為も心に安らぎを与える。我々は目に見ないものによって生かされていると信じたい。そう思うだけ幸せである。

 目に見えるモノだけを追うのは、拝金主義、成果主義、グローバル経済主義狂である。その弊害で、世の中が殺伐としてきた。日本人なら、心の豊かさを追う人生を目指したいと思う。

 そう思えない人が、自宅に引き籠り、最後に人を巻き添えにして凄惨な事件を引き起こす。それこそ、両親が仏壇や神社で手を合わせることを後姿で教えてこなかった因果であると思う。今の世相は、今の親が作り出した現実である。果があれば、必ず因がある。それが因果応報である。

 

智慧

 情報とは知ることのできる断片知識である。智慧は、実際に試してみてそれから生まれる人間の営みである。それは知識と行動で体験的に得られる。いくら知識があっても、智慧がないと、目先の利害に目がくらんで、グローバル経済主義狂に陥る。

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  馬場恵峰書 2018年

 

文殊菩薩、梵名マンジュシュリー

 文殊菩薩は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊である。一般に智慧を司る仏とされる。

 『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わったとされる。『維摩経』には、維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記され、智慧の菩薩としての性格を際立たせている。この教説に基づき、維摩居士と相対した場面を表した造形も行われている。

 文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。ここでは釈迦仏に代って般若の「空」を説いている。『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれることなどからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。尚、本来悟りへ到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。(この項、wikipedia より引用、編集)

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普賢菩薩、梵名: サマンタバドラ:

 大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊である。文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多い。法要では四七日の仏とされる。

 梵名のサマンタバドラとは「普く賢い者」の意味であり、彼が世界にあまねく現れ仏の慈悲と理知を顕して、命あるものを救う慈悲を司る菩薩として、人々を救う賢者である事を意味する。

 また、女人成仏を説く法華経に登場するので、特に女性の信仰を集めた。密教では菩提心(真理を究めて悟りを求める心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。そのため普賢菩薩はしばしば金剛薩埵の別名でもある金剛手菩薩とも呼ばれる。「遍吉」という異名があり、滅罪の利益がある。

 文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多い。独尊で祀られる場合もある。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされている。

 女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされている。また、辰・巳年の守り本尊である。

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2019-07-07   久志能幾研究所通信No.1248  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月28日 (火)

両界曼陀羅の佛様との出会い

 人生の短い期間に、出会う佛様(人)の数は限られている。両界曼荼羅では、1,875尊の佛様が描かれている。それは人生で価値ある人との出会いが、物理的に2千名程度しかないとの寓意である。その人からの学びには、正の場合も負の場合もあるが、それは自分の成長次第である。逆縁の菩薩様からも多くの学びがあるはず。その出会いはすべて己の責任である。

 

出逢いの選択

 人の寿命の制限内で、出会う人の数には限りがある。一尊の佛様との出逢いがあれば、もう一尊の佛様とのご縁はこの世ではかなわない。選択とは一方を選べば、もう一方は捨てること。その両方を選ぶから曖昧さを生み、人生の無駄時間を生む。人生では寿命の制限があるからこそ、その出会いに緊張感が生まれる。「人は死ぬ」ということを前提に考えないから、時間と機会を無駄にする。

 

イベントも出会いの佛

 出会いは人だけではない。イベントも一つの出会いである。今回、遠路600キロの旅で、「仙台国際ピアノコンクール」という仏様に出会ってきた。その出会いで、それに関与している佛様達の徳が希薄であることが分かったのが最大の収穫であった。浜松国際ピアノコンクール、高松国際ピアノコンクールの佛様もその徳に高低差があることが分かった。行って会わなければ、それが分からない。分かれば、命を使って会いに行く価値がないので、二度と行かなければ、命(時間)を節約できる。その時間を別の出会いに使えばよい。

 

出逢いの儀式

 ご縁を成就するためには、時間と労力(お金)と情熱が必要である。身を清め、服相を正し、心を整えて、時間を計って、初めて一つのご縁が生まれる。そのご縁が佛様である。だからこそ、出会う人、出合う機会を自分の目で厳選しないと、自分の人生価値が希釈化される。それが選択であり、決断である。

 

仙台国際ピアノコンクールのご縁

 今回の仙台国際ピアノコンクールでも、交通費6万円、宿泊費6万円、時間も5日間を使い、病み上がりで体がまだ辛い時期に、遠路はるばる佛様に会いに行ったのだ。コンクール中は、一日10時間も聴くことに集中しての出会いである。行ってみなければ、それに見合う価値があるか分からない。価値がないことが分かれば、次回から止めればよいのだ。

 

ギブ & テイク

 己がその縁に出会って、相手に与える価値は何か。自分が会うことで、相手の二度と戻らぬ命の時間を奪ってはいないだろうか、自分は相手が期待している成長をしているだろうか。去っていった佛は、自分の未熟さに呆れて、去っていったのではないか。佛が袂を分かち去って行ったのは、全て己の責任である。

 

苦言のギブ

 その佛から不協和音が聞こえれば、身を呈して苦言を捧げるのが、出会った仏様への礼儀である。今回、仙台国際ピアノコンクールでアリーナ席の封鎖という暴挙に出会ったので、責任者に苦言を呈した。しかし佛様からその反応がなかったので、私は、それを別れの啓示と受け止めた。それは無私の佛でなく、無視の鬼であった。愛の反対は憎悪でなく、無視である。音を愛しているから、苦言を呈するのだ。

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 音を観る仏様 聖観音菩薩立像 松本明慶師作

 

赤の郵便ポスト責任論

 郵便ポストが赤いのも、全て己の責任である。己があの時、遊ばずに、もっと真剣に受験勉強をしていれば、東大に入り高級官僚になり、郵政次官、郵政大臣に就き、郵便ポストの色を己の意思で変えられたはずと思いたい。

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 仙台国際ピアノコンクール 日立システムズホール 2019年5月25日 09:46

  浜松国際ピアノコンクールに較べると、観客がはるかに少ない。

 

  『吾が人生の師天王』p132より

 2019-05-28   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年5月27日 (月)

仕事のオニに開眼あり

大佛師松本明慶佛像彫刻展(池袋東武百貨店)で展示された「魂(オニ)」(NHKBSプレミアムに登場)と「達磨大師像」の前で、松本明慶先生より示唆に富む話を伺った。

鬼とは魂の本体である。「魂」とは「云」と「鬼」から構成される。自分は自分のやっていることを知っている。人が見てないところで怠けていても、自身の内なる鬼は知っている。鬼は「怠けるな」と叱咤激励を「云」っている。それが魂の叫びである。それに耳を傾けるか、耳を塞ぐかで人生(命)が変わる。

鬼の前に天上界あり。鬼の後に地獄界あり。鬼の前に「云」をつけて魂。「仕事」を前に付ければ「仕事の鬼」。誰のせいでもない。自分の生き様が「鬼婆、鬼爺」を作った。鬼には何の罪もない。全て自分が作り出した世界である。

鬼も真正面から向かい合うと、自分の心の奥が透けて見える。ところがサボっていて、鬼から上から視線で見つめられると、心に鬼の視線が突き刺さる。

 自分が仕事の「死(異動、退職、転職)」を迎えて第一の人生を鬼門に送るとき、前の職場の人から「あの人は仕事の鬼だった」と言われるか、「鬼爺」だったと言われるかは、魂とどれだけ真剣に向き合ったかの差である。

Photo_2 「魂」は明慶先生作  「不動心」は馬場恵峰先生書 

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馬場恵峰先生書

睨めっこ

明慶先生が「達磨大師像と睨めっこしなさい」と言うので、数分間の睨めっこをした。怖い顔の達磨さんの目が自分を見つめていた。次に「ちょっと横を見て」と言われ、隣の吉祥天像に一瞬、目を向けて(浮気をして)、直ぐに達磨大師像の目に戻すと、達磨大師像はもう私を見ていなかった。佛像であるから描かれた目が動くわけはないが、直前まで確かに私を睨んでいた達磨大師像の目は、別の方を見ていた。達磨大師像が私を見ているのではない。自分の心が、観念でそのように映しだしていた。

 

心の反映

目の前の仕事、目の前の人(恋人、顧客、上司)は達磨大師像の目と同じである。自分がどれだけ真剣に向き合っているか、全ては自分の心が映し出している。心の持ち方次第で、仕事の意味、相手の対応が違ってくる。全て自分の心が映し出している。他人のせいではない、自分が作り出した世界である。自分がその対象物に心身を捧げないと見えるものも見えない。自分の心の格を上げないと、仕事の質も相手の人間との関係も向上しない。目の前の人は自分の心を写す鏡である。自分が見るものは、自分の心が映し出している。自分は何を見ているのか、何を見たいのか、自分が思ったままに、目の前の情景として目に映り、自分の描いた人生シナリオに沿って進行する。タイムラグがあってでも、である。それを明慶先生より示唆して頂き、自分が描く人生シナリオに気がついた。感謝です。

私は毎朝の日課で5kmを散歩する。その道中にある神社仏閣で、お祈りと感謝をし、日々の決意を誓う。神社仏閣の扉ガラス戸に写る己の目の中に、佛の眼を見る。


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達磨大師像(松本明慶先生作)

松本明慶佛像彫刻美術館の許可を得て掲載しています


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神社のガラス戸に写る自分の目  

エピソード

2013年末に松本華明さん(松本明慶先生の奥様、学芸員)よりお話があり、私の上記エッセイを松本明慶友の会会報『苦楽吉祥』(2014年新年号)に載せていただけた。それに上図の写真を追加したのだが、白黒印刷のため、私の写真が心霊写真のようになり、写真はボツとなった。それでも馬場恵峰先生書「魂」を引用させて頂けたのは幸いであった。その書は、3年ほど前に、入手した板書の一コマである。御縁という花は種を蒔いておけばこそ花開く。

 

2019-05-24   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月26日 (日)

目にもスイートスポットがある

 仏師の彩色師が佛様の目を描くときは、彫られた目の頂点を探し、佛師が意図して彫った目の位置を探し出して目の位置決めをする。「どんぴしゃに目の位置が決まると、佛様がニコッとするのが分かる」と岩田明彩師はいう。それが目のスイートスポットである。目の位置が決まればあとは佛様と対話をしながら、佛様の表情にあう最適な目に仕上げていく。それが彩色師の仕事である。

 

決めどころ

 テニスのラケットでボールを打つときも、ボールがテニスラケットのスウィートスポットに当たると、極めて気持ちがよい打撃感が手に伝わる。どんな仕事でも決め所がある。それがうまく決まると、仕事の醍醐味を味わえる。仕事が楽しくなる。仕事の魂と己の魂の邂逅である。そんな出逢いを得るには魂の修行が必要だ。真摯な仕事への取り組みがないと出逢えないご縁である。そんなときは、自分が仕事の鬼となっている。己が鬼にならなければ、仕事の新しい目は探せない。鬼とは己の魂の叫びである。

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2tonnbo    高野山納佛 増長天 松本明慶大仏師作、岩田明彩師目入れ(2014年)

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4  高野山納佛 広目天 松本明慶大仏師作、岩田明彩師目入れ(2014年)


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  虚空蔵菩薩座像、桧 5寸 明慶先生作、岩田明彩師目入れ(2014年)


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 聖観音菩薩像、楠 1尺 明慶先生作、岩田明彩師目入れ(2011年)

 

2019-05-25   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月25日 (土)

「命の目」を創造

どんな仕事も一人では出来ない。多くの人の手を介して一つのプロジェクトが完成する。その時、己が担当する部分が全体でどういう位置づけにあるかを理解しないと、付加価値のある仕事は生み出せない。またその仕事が歴史のなかで、伝統を受け継ぎ、それに新たな付加価値を創造していく。新しい取り組みをして伝統を変えていくから伝統が継続する。現状維持だけの伝統技能は廃れていく。その伝統継承の一部を自分が担っているという意識があるかないかで、そこに賭ける命の重みが変わる。

 

目の付加価値

今回、四天王の広目天と増長天(2014年に高野山に納佛)を足元で支える邪鬼の目にも、松本明慶先生と岩田彩色師が創り出した付加価値がある。平成の邪鬼の目には、江戸時代の邪鬼にはない新しい「命の目」が創造されている。命がある目は、何かを観るものに語っている。

その道を極めないと「新しい目」は開眼しない。開眼しない限り、目の前に宝の山があっても見えない。今までの人生という旅で、数多くのご縁の宝を見過ごしてきたのかと思うと、後悔の山である。これからは「命ある目」で巡り来るご縁と接したい。

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    開眼作業中の岩田明彩師

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0_4    高野山に納佛した広目天と増長天を支える邪鬼(松本明慶大佛師作)2014

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2019-05-25   久志能幾研究所通信 小田泰仙

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2019年5月22日 (水)

地蔵菩薩が持つ大きな器を目指して

 お地蔵様は、正式には地蔵菩薩という偉い方である。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となるため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救うお役目の仏とされる。現世では、お地蔵様として子供の守り神として祭られている。地獄に出張したときは、お役目として閻魔大王の役も務めるとされる。

 菩薩とは仏教において成仏を求める(如来を目指す)修行者のことを指す。菩薩は修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くことで、庶民の信仰の対象にもなっている。

 

地獄論

 地獄は、天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道で最悪の所である。地獄に堕ちるのは、生前中に善を積まなかった不心得者で、多くの積善を心がけた方は、閤魔大王に呼び出され閤魔帳を覗いて判決を受けることもなく浄土に赴かれる。

 地獄に堕ちてしまえば、救いようがない。地獄の向かう亡者を裟婆と地獄の境界で「地獄の十王」が亡者の生存中の業の履歴が記された閤魔帳と照合して、どの地獄に送るかを評定して判決する。その裁判で被告の弁護をするのが地蔵菩薩である。

 

裁判員裁判制度の愚

 先人が考えた地獄論は、現代の裁判員裁判制度に比べれば、はるかに人間的で救いがある。最近の裁判員裁判制度での死刑判決の多さが異常である。その死刑判決のお役目を一般市民に押し付ける制度はいかがなものか。死刑を判決せざるを得ない一般市民には地獄である。死刑の投票を裁判員制度の裁判官としてしたら、一生トラウマとして残ってしまうだろう。

 

裁判官と弁護人が同一

 十王の中の裁判長が「闇魔大王」であり、闇魔大王は地蔵菩薩の化身であると言われる所以である。それ故、判決を下す裁判長と被告の弁護人が同一人物となるので、無罪が期待され、もう一度裟婆に戻れる可能性があることから地蔵菩薩信仰が生まれたといわれる。この信仰は民衆の地獄に対する恐怖観念が貴賎を問わずあったことも一因とされる。

 

先人の智慧

 こういう仏の組織体系を創造する先人の智慧には驚嘆する。今の新興宗教教祖の浅智慧では、足元にも及ばない。仏教の体系図は、会社組織の概念の創作と同じである。日本の地獄絵は、8世紀ごろに東大寺の線刻画に登場している。地獄は全て人間が作り出したものだが、その恐怖心をうまく活用して道徳心を子供に植えつけたのは智慧者である。私も幼いころ、祖母から地獄絵をお寺で見せられて、恐怖心を味わった思い出がある。

 

新興宗教団体のお笑い

 地獄論ができて1300年も経って、今の新興宗教界で、「脱会すると地獄に堕ちるぞ」と脅す教団があるのが、お笑いである。地獄に堕ちるには、それ相応の罪を犯さないとその資格が無い。原始宗教では、それが詳細に決まっている。原始宗教は、今よりも緻密である。現代新興宗教の教義は、金儲けに迷って、ガサツな体系となっている。それを信じる方は、もっと愚かである。

 

祈りの器

 仏像は、皆さんの祈りを受け止める小さな器である。拝むにしろお願いするにしろ、空気の前では手を合わせづらいもの。その祈る対象を具現化した一つの例がお地蔵様の像である。私は毎朝の散歩道の途中にある地蔵菩薩像の前で、「子供たちを守っていただきありがとうございます。守っていただいた子供たちを私もお守りします」と手を合わせている。

 

器が写す鏡 = 己は地蔵菩薩

 その地蔵菩薩の姿を思いめぐらせば、それは己の心が鏡に投影された姿ではないかとの思いに至った。人は自分の世界観の中でしか物事を考え出せない。先人が考えだした地蔵菩薩とは、人間の姿の反映である。己の心には厳しい裁判官の姿もあれば、相手の罪を弁護してあげる優しい心もある。その内なる心の面が、時に応じて葛藤して百面相のように変化する。すべて己の心の迷いがなす業である。それを如何に仏の心の眼で世の中を観るかで、成仏の程度がわかる。地蔵菩薩はその両方の清濁を併せ持つ。自分もそんな大きな器になりたいと思い精進している。

 子供たちが日本の未来を背負ってくれる。地蔵菩薩はその守り佛である。子供を害する大人へは、己が地蔵菩薩になりきって、厳しい裁判官の眼で、接するのが年長者の義務である。

039a21501s  松本明慶先生作 童地蔵菩薩像  高さ13センチ

 

 この子は、東京の展示会にお友達の200人と一緒に上京した。その中からお見合いをして、この子に決めて大垣の自宅に来てもらった。200体のお地蔵さんは、同じように見えても微妙に一人ひとり違い、この子と決めるのに苦労をした。(2013年10月)

 松本華明さんのお話しでは、年々この童地蔵菩薩像の作りにこだわりが出て、明慶さんも日々レベル向上だそうです。

 

 『命の器で創る夢の道』

2019-05-22   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年5月18日 (土)

花屋の信用という佛花が散った

 私の町内でも住民の高齢化が進み、町内でお守りしているお地蔵様像のお花のお守りに負担がかかるという話が聞こえてきた。お世話の当番が、花を買いにいくのも負担だという。

 2018年初、それで近所のK花店のEさんに話したら、「毎月、うちでお花を買ってくれれば、私(E)がお花を配達して、お地蔵様の花活けに花を活けてあげる」という話になった。それなら、町内会の費用も増えず、お互いにメリットがある。今まで、お花当番はこの花屋以外でも買ってきているので、K花店にもメリットがある話である。このEさんは、毎年の地蔵盆祭りの時、お花を段取りして供えてくれていた。

 お花を準備して、それを花立に入れるだけをK花店が担当して、そのお花の水やりと廃棄処分だけ、当番の班長さんが行えば、お花を買いに行く手間が省けて、お花当番の班長さんの負荷が減る。そういう段取りを、担当者のEさんと半年ほどかけて、事前打ち合わせをしていた。

 

裏切り

 ところが2018年の春、この話しを正式にK花店に持っていったら、別の店員が出てきて、この話は社長に話さないと受けられないという。後日、社長から断りの電話があった。

社長曰く「お地蔵様のお花の段取りは、特別の信仰心ある人でないと出来ない。うちの店には、そんな人はいないので、この話は受けられない」である。

 では今まで、8月の地蔵盆祭りでお花を活けてくれたK花店のEさんは何なんだ、である。お店の言葉と思っていたEさんと私との約束は、何だったんだ、である。

 

ビジネスの原理原則

 店員はその店の社長の代理として働いている。客もそう信じてモノを買っている。それが店員と社長の意見が違うのなら、客は店員の言う事は信用できなくなる。それでは、お店としてビジネスが成り立たない。

 普通の会社でも、一社員が一歩外に出れば、会社の代表として、仕事の発言をする。相手も会社の代表の言葉として受け止める。それがビジネス社会である。その原則を、K花店は裏切ったのである。

 私は信用を裏切った人と取引をしない。その後、このお店は信用できないとして、私はこのお店と縁を切った。今まで自家の仏壇のお花をこのお店で買っていたが、大規模小売Aでお花を買うことに変更した。お陰で、今までより安く入手している。

 

信用金庫は私の信念

「ビジネスは壊れやすい花瓶に似ている。

無傷であればこそ美しいが、一度割れると二度と元の形には戻らない。」

    Business is like a fragile vase - beautiful in one piece, but once broken, damn hard to put back together again to its original form.

     “Letters of a businessman to his son" by G.KINGSLEY WARD

 

 この「ビジネス」という言葉は、「人間関係」すなわち「信用」の意に置き直すことができる。また、茶道の「一期一会」にも通ずる言葉である。人との付き合いは大きな財産である、その価値を高めるためには、信用を守ることが最優先だ。そのためには、小さな約束を確実に果たすことが最優先である。なにせ、大きな約束は嫌でも守らざるを得ないはずである。

 私は小さな約束でも、守らない人とは付き合わない。それが信条である。

 己はお地蔵様が見つめる眼に堪えられるだろうか。お地蔵様は、閻魔大王の化身である。お地蔵様の懐には閻魔帳がしまわれている。

039a21501s 松本明慶作 童地蔵

 

2019-05-18   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年4月10日 (水)

一人では成佛できない

 2011年4月6日に第50回京都佛像彫刻展に出かけたら、偶然、松本明慶先生にお会いでき、展示されている佛像を説明して頂いた。そこには若い佛師の作品が展示されていて、中には松本工房から独立して、佛像を作っている佛師の作品も展示されていた。素人目から見て、松本工房の佛師の作品に比べて、出来が落ちるのがわかる。明慶先生によると、独立したくらいだから腕はいいのだが、独立当時から作品のレベルが変わっていないという。つまり時間が止まっている。

 それから毎年、この京都佛像彫刻展に通って各人の成長ぶりを観察している。2019年4月7日、第58回京都佛像彫刻展を訪れた時、その仏師の作品を見て、愕然とした。今回は前よりも格段にレベルが落ちている。素人目にもわかるほどである。

 これは、自分の世界に閉じこもってしまい、松本工房で大勢の仲間との切磋琢磨する機会がなくなったので、成長が出来ないのが原因である。

 剣道の世界でも、ド田舎で一番の名門の道場師範は、江戸のどこにでもいる町の師範に負けるという。田舎の剣の道場主は、他流試合をする機会が少なく、井の蛙になっているためである。

 自分の世界と比較して、身につまされるお話である。人は、批判、指導により人間として成長し、その作品の出来に影響するのだと。仕事での作品がその人自身を冷酷に表す。

 

師の存在

 その点で、師はだれにも代えがたい有難い存在である。師は忌憚のない批評をしてくれる。師だから、己の全てを理解してくれる。師の諫言なら、素直にその声を聴くことが出来る。師と仰げる人を持つ幸せを感じたい。

 

成佛

 菩薩とは如来になるべく修行中の佛様をいう。菩薩様は修行をしながら衆生を救う佛様として拝まれている。一人では成佛できない。回りの仲間がいてこそ、自分が成佛する修行ができるのだ。批判してくれる仲間に手を合わせて感謝しよう。

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 松本明慶先生と    201146

 第50回京都佛像彫刻展(京都伝統産業ふれあい館)

 後ろは千手観音菩薩(松本明慶先生作) 京都市長賞受賞(お寺に納仏予定作品)

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2019-04-10  久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年4月 9日 (火)

広目天が、発ガン性物質を拒否

 高野山の中門の四方に、四天王が中門を通る悪鬼を防ぐため、守りの姿勢で睨みを聞かせている。中門の中の御本尊を守るためである。佛の世界にも、悪鬼が跋扈している。それと同じように、高野山の中門に相当する目、鼻、耳、口、舌で、己の体に入る毒の食品の侵入を防がねばならぬ。それなのに、人間の贅沢で怠惰な本性が、毒の情報を得ず、美味なら毒でも平然と取り入れている。だから病気が絶えない。ガン死が激増しているのだ。

 筆と巻物を持った広目天は、世の毒の知識を得て、悪魔侵入を防ぐため中門を守っている。己も広目天になりきって、世の毒物(発がん性物質)の記載された巻物を読み、自分の食生活を記録して、自分の体を俯瞰して、自分の城(体)を守らねば、ガン・マフィアに殺される。

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高野山 中門 広目天  大仏師松本明慶先生作

 

河村義子先生の訃報

 2018年12月25日に河村義子先生がガンで亡くなられて、師を殺した原因への怒りから、そのガンを発病する原因を調査している。下記はその途中結果である。

 太古の昔は、ガンで死ぬ人はなかった。1830年の産業革命当時でもガン死は2%である。アメリカの1900年代でも4%である。ところが、現在の日本では30%の人がガンで死ぬ。それだけ食事が贅沢になり、知らないうちに毒が盛られたことになった。特に日本は戦後、食生活が欧米化で大変貌を遂げた。それが、日本でガンが増加した最大の要因であると推定される。

 

ガンの本質と間違った治療

 ガンとは、血液の浄化装置である。悪い食生活や生活習慣で出来た「体毒」を一カ所に集めて血液を浄化し、最悪の敗血症を避けるためにできた自己防衛の装置である。それを食生活や生活習慣を改めず、患部だけを手術等で除去すれば、体は自己防衛として、別の場所のガンを作るのは自然の理である。

 ガンは、体の外からきたウイルス等ではなく、自分自身の細胞が変身した存在なのだ。「ガンが突然変異でどんどん増殖していく」という説では、寄生先(己の体)を殺しては、ガン自体も死んでしまうことになり、自然界の法則に反する。ガン患者が死ぬのは、ガン自体で死ぬのではなく、抗がん剤や放射線治療、手術等で体の免疫力が弱まり、肺炎や合併症等で死ぬ割合が80%である。だから、ガンを治すのは、食事と生活習慣を直さねば治らない。

 だから、抗がん剤や放射線療法、手術ではがんは治らない。それは厚生省・抗がん剤の担当技官が「抗がん剤でガンを治せないのは常識です」と断言している。

 厚生省保険局の医療課長・麦谷眞里氏が「・・・抗がん剤について、(健康)保険で支払う必要はない! なぜなら、いくら使っても効果がないからです」2005年10月20日、『医療経済フォーラム』にて)

 

抗がん剤の原料

 抗がん剤が効かないことが分かっていながら、業界(製薬会社、医療機器メーカ、医療機関)の利権保護の為、現在もガン治療として使われ続けている。なにせ莫大な利益を生む金の卵だから。抗がん剤は、第一次、二次大戦で大量に使用された大量殺戮兵器のマスタードガスを原料とし、作られている。大戦後、平和になって毒ガス兵器が大量に余ってしまった。その在庫処理として使われたのが、抗がん剤の原料である。戦争の狂気は、戦後、医療の狂気に変身した。これはブラックジョークではなく、悪魔の本音である。それで金を稼いでいる業界が存在する。それがガン・マフィアである。彼らは、ガン患者が増えれば、喜ばしいのだ。だから、日本のガン死が減らない。

 

日米の差

だから日本は1970年以降、ガン患者が急増している。なにせがん患者を減らそうとは、日本政府の官僚も製薬会社も医療機関も思っていないのだ。アメリカの政府は、正しいがん撲滅の取り組みをして、ガン患者は年々3000人ずつ減ってきている。日本の比例的急増と対照的である。すべて政府の方針の差である。

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発がん性食品を調査

 その発がん性食品を、船瀬俊介著『あぶない抗がん剤』を元に下記にまとめた。食品の発がん性が明白でも、国もマスコミもそれには目を背け、利権団体を守るが如く、臭いモノには蓋をするが如く、積極的には啓蒙活動をしない。明らかに業界と癒着して、業界の利益を損なわないようにしている。それこそが現代社会のガン組織である。

 

肉と腐乱

 肉は最強の発がん性物質である。お肉を常食する人間の大腸がん死亡リスクは、5倍に跳ね上がる。

 「五臓六腑にしみわたる」という言葉があるように、六腑とは内部が空白の臓器のことで、つまり消化器である。「腐」という漢字は、消化器に肉が入ると腐ると警告をしている。

 その臓器の中で一番腐敗しやすい場所が大腸で、そこには善玉菌、悪玉菌、日見菌が大繁殖している。悪玉菌は動物性食品を好んで食べて大繁殖する。そのとき、インドール、スカトール等の有害物質を排出する。これが強力な発がん性物質で、それが腸膜を刺激して、大腸がんが5倍も多発する。肉自体に毒があるわけではないが、腸内に入ると、強烈な発がん性物質に変身する。

 肉の多食によるガン発病の問題の以前の問題として、アメリカ男性の心臓発作による死亡率は、中国人の17倍、アメリカ女性の乳がん死亡率は中国女性の5倍である。つまり動物性たんぱく質は、ガンを誘発し、心臓発作等の死病を作る。日本では、この40年間で、ガン死2倍、乳がん死が4.7倍である。この異常値は、明確な原因があることを示している。

 

加工肉は最強の発がん性物質

 WHОは2015年にハム、ソーセージ等の加工肉は、5段階評価で最強の発がん性物質であると発表した。それでもマスコミはその扱いを、大スポンサーに遠慮して、大きくは扱わない。マスコミは、ガンマフィアに気兼ねをして、偏向して報道しているのが明白である。マスコミは、国民の命を守らない。

 

牛乳も強力な発がん飲料

 牛乳タンパク(カイゼン)は、小麦タンパクのグルテンに比べると8倍の発がん性を持つ。

 牛乳を4倍飲むと20倍の発がん性が現われる。全食品中に占める牛乳タンパクの割合を、10%から20%に増やした場合のガン細胞の増加率を見た実験で、ガンは11倍に激増した(コリン・キャンベル博士)。

 実験動物ラットに強力な発がん性物質アフラトキシンを投入して、さらに牛乳タンパク、カイゼンを5%から20%と4倍に増加させて、ガンの増加率を調査した。カイゼンを5%では発がん性物質の投与にも関わらず、ガンは横ばいで増加しない。ところが、カイゼン摂取を4倍にすると、ガンは20倍に激増した。牛乳は史上最悪レベルの発ガン飲料であった。

 

 お酒は少量でも発がん性物質である。先年、英国の学会がそのことを研究成果として発表した。「酒は百薬の長」は嘘である。食物は胃で「消化」されるが、お酒のアルコールは、肝臓で薬物と同じ工程でしか「分解」されない。その過程でアセトアルデヒドが作られるが、これが発がん性物質である。WHОは、お酒を「薬物」と認定している。だから普通の宴会は、薬物パーティである。だから私は、2年前に完全禁酒とした。

 その昔、私も歓迎会で無理やり酒を飲まされて、嘔吐したことが度々ある。それこそ、野蛮な殺人リンチである。今、思い起こすと怒りが湧き起こる。

 新聞、テレビ等でお酒の宣伝が大氾濫である。いかにマスコミが視聴者、国民の健康に気を使わず、スポンサーに顔ばかり向けているかの証明である。だから私はマスコミを信用しない。

 

タバコ

 説明するまでもなく、発癌性物質である。それを知っていて煙草を吸う人を私は信用しない。私の付き合う人で喫煙者は、一人の例外以外に居ない。それが私の一番尊敬する師なので、悩みが尽きない。

 

砂糖

 ガン細胞は糖分が大好物なのだ。だからガン治療で断糖療法がある。

 ガンになりたくなければ、スィーツ等の砂糖たっぷりのお菓子は避けるべきだ。

 

ストレス

 現在の成果主義、拝金主義、グローバル経済主義狂の氾濫で、サラリーマンは過激なストレスに晒されている。100%完璧主義の人が自律神経が侵されて、免疫力が低下して、ガンになると推定される。もっと人間らしい生活を送るべきなのだ。成果主義で金を稼いで、ガンになって早死にしたら、ブラックジョークである。

 締め切りがあると2日も3日も徹夜をしてやり遂げる「真面目な」人がガンなる。NHKの「プロジェクトX」中でも一番の頂点に立つ人が、ガンで死んでいる。100%完璧主義の仕事ぶりでは、過酷な条件に体の自律神経が耐えられないのだ。

 

抗がん剤

 抗がん剤は、強力な発がん物質で、ガンの増進剤である。抗がん剤では、ガンは治せない。それは厚生省・抗がん剤の担当技官が「抗がん剤でガンを治せないのは常識です」と断言している。

厚生省保険局の医療課長・麦谷眞里氏が「・・・抗がん剤について、(健康)保険で支払う必要はない! なぜなら、いくら使っても効果がないからです」2005年10月20日、『医療経済フォーラム』にて)

 

治療用放射線

 放射線も、ガンの増進剤である。放射線では、ガンは治せない。

 検査用の放射線もガンを発生させる。CT検査では、その10%は、浴びた放射線が原因でガンになったと推定される。

 CT検査は、通常のレントゲン撮影の600倍の放射線を患者に浴びせる。それを年間2回受けると、年間許容放射線容量を超えてしまう。医師はそんなことは、一言も言わない。

 

 本記事のデータは船瀬俊介著『あぶない抗がん剤』(共栄書房)から引用・編集した

 

2019-04-09   久志能幾研究所 小田泰仙

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