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2019年5月27日 (月)

仕事のオニに開眼あり

大佛師松本明慶佛像彫刻展(池袋東武百貨店)で展示された「魂(オニ)」(NHKBSプレミアムに登場)と「達磨大師像」の前で、松本明慶先生より示唆に富む話を伺った。

鬼とは魂の本体である。「魂」とは「云」と「鬼」から構成される。自分は自分のやっていることを知っている。人が見てないところで怠けていても、自身の内なる鬼は知っている。鬼は「怠けるな」と叱咤激励を「云」っている。それが魂の叫びである。それに耳を傾けるか、耳を塞ぐかで人生(命)が変わる。

鬼の前に天上界あり。鬼の後に地獄界あり。鬼の前に「云」をつけて魂。「仕事」を前に付ければ「仕事の鬼」。誰のせいでもない。自分の生き様が「鬼婆、鬼爺」を作った。鬼には何の罪もない。全て自分が作り出した世界である。

鬼も真正面から向かい合うと、自分の心の奥が透けて見える。ところがサボっていて、鬼から上から視線で見つめられると、心に鬼の視線が突き刺さる。

 自分が仕事の「死(異動、退職、転職)」を迎えて第一の人生を鬼門に送るとき、前の職場の人から「あの人は仕事の鬼だった」と言われるか、「鬼爺」だったと言われるかは、魂とどれだけ真剣に向き合ったかの差である。

Photo_2 「魂」は明慶先生作  「不動心」は馬場恵峰先生書 

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馬場恵峰先生書

睨めっこ

明慶先生が「達磨大師像と睨めっこしなさい」と言うので、数分間の睨めっこをした。怖い顔の達磨さんの目が自分を見つめていた。次に「ちょっと横を見て」と言われ、隣の吉祥天像に一瞬、目を向けて(浮気をして)、直ぐに達磨大師像の目に戻すと、達磨大師像はもう私を見ていなかった。佛像であるから描かれた目が動くわけはないが、直前まで確かに私を睨んでいた達磨大師像の目は、別の方を見ていた。達磨大師像が私を見ているのではない。自分の心が、観念でそのように映しだしていた。

 

心の反映

目の前の仕事、目の前の人(恋人、顧客、上司)は達磨大師像の目と同じである。自分がどれだけ真剣に向き合っているか、全ては自分の心が映し出している。心の持ち方次第で、仕事の意味、相手の対応が違ってくる。全て自分の心が映し出している。他人のせいではない、自分が作り出した世界である。自分がその対象物に心身を捧げないと見えるものも見えない。自分の心の格を上げないと、仕事の質も相手の人間との関係も向上しない。目の前の人は自分の心を写す鏡である。自分が見るものは、自分の心が映し出している。自分は何を見ているのか、何を見たいのか、自分が思ったままに、目の前の情景として目に映り、自分の描いた人生シナリオに沿って進行する。タイムラグがあってでも、である。それを明慶先生より示唆して頂き、自分が描く人生シナリオに気がついた。感謝です。

私は毎朝の日課で5kmを散歩する。その道中にある神社仏閣で、お祈りと感謝をし、日々の決意を誓う。神社仏閣の扉ガラス戸に写る己の目の中に、佛の眼を見る。


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達磨大師像(松本明慶先生作)

松本明慶佛像彫刻美術館の許可を得て掲載しています


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神社のガラス戸に写る自分の目  

エピソード

2013年末に松本華明さん(松本明慶先生の奥様、学芸員)よりお話があり、私の上記エッセイを松本明慶友の会会報『苦楽吉祥』(2014年新年号)に載せていただけた。それに上図の写真を追加したのだが、白黒印刷のため、私の写真が心霊写真のようになり、写真はボツとなった。それでも馬場恵峰先生書「魂」を引用させて頂けたのは幸いであった。その書は、3年ほど前に、入手した板書の一コマである。御縁という花は種を蒔いておけばこそ花開く。

 

2019-05-24   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

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