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2021年4月

2021年4月30日 (金)

肺がん疑い、Go To 地獄

 

 人生の回数券を大事にしよう。老いた親、老いた師、老いた友、老いた己と、あと何回会えるかを考えよう。老いた己の歳と健康状態を見定め、除夜の鐘を聞ける回数を計算しよう。それがそんなに多くないことを確認しよう。

 

回数券が無効

 還暦を過ぎれば、その回数券が無効になる確率はみんな同じである。還暦後に使える回数券の数は限られている。当方がその回数券を使える元気さがあっても、老いた親や老いた師が死の直前になれば、残りの回数券が無効になる。一回の回数券を使えば、使える機会は一回減る。「Go Toトラベル」とは、人生回数券の「Go To 取ら減る」。

 

最後の面会

 今回の面会が最後の利用かもしれない。そう思って昨年末に馬場恵峰先生に1泊2日で4回、計8回お見舞いに行った。歳月は人を待ってはくれない。

 恵峰先生の最後の言葉が「縁あって花開き、恩有って実を結ぶ」であった。恵峰先生は病床で、何度もその言葉を口に出された。私は良き師とのご縁があり、幸せであった。

 人の明日は分からない。だから一期一会として、今回の出会いがこの世の最後と覚悟して、全力で向き合うべきなのだ。日の暮れぬうち、生きているうちである。

 

師は年上、必ず先に逝く

 相手どころか、自分が交通事故、心筋梗塞や新型コロナで、明日死ぬかもしれぬ。そうなれば所有の回数券は全て無効となる。

 この2年間で、私は師を5人も突然に失ってそれを痛感した。人の明日は分からない。それをこれほど痛感したことはない。

 

肺がんの疑い

 そうしているうち、この2021年2月12日、愛知県がんセンターの定期検診でCTを受けたら、非喫煙者の私が「肺がんの疑いがあり」と診断された。現代は非喫煙者の肺がんが増えているようだ。特に夫の喫煙で、妻が副煙流で肺がんや乳がんになるケースである。私も昔の職場での副煙流被害を思い起こした。それで肺がん手術の準備や心の準備で落ち着かない日が続いた。

 一度がんを罹患している身には、「肺がんの疑いがあり」は死刑宣告みたいなものである。地獄行きの宣告である。幸い、2か月間の経過観察の後、4月27日に肺がんの疑いは消えた。

 

 最近の検査では医師が過剰に反応するので、グレーでも肺がんの疑いありと診断されてしまう。見落としで手遅れになるよりはまし、と思わねばならぬ。医師も見落とせば、誤診で訴えられてしまう時代である。

 今回の誤診で再度、命の回数券の限度を再確認させられた。「時間は命」を再確認した。

 

回数券入手は不可

 師や友と10年の出会いがあれば、10年の縁が生まれる。多くの人は、日頃の回数券は無限にあると思って使っているが、ある日に突然、医師から余命宣告されれば、その回数券は大金を積んでも手に入らなくなる。

 だからこそ、師や友との出会いは、悔いのない出会いにしなければならぬ。そこまでやってくれるのかと、師や友を感激させてこそ、真の師事である。私はそうやって、悔いのないようにしてきたつもりだが、現実は悔いばかり。

 

最期の教え

 孝行したいときに親はなし。いつまでもあると思うな、親とカネ。同じように己の命も日々尽きていく。だからこそ今を精一杯生きよう。親と師の最期の教えが「あんたも何時か死ぬのだよ。悔いのない人生を送れ」である。 

039a15511s  馬場恵峰書 

2021-04-30 久志能幾研究所通信 2004  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2021年4月29日 (木)

スィーツ行列に並び、10分1000円加算で命を削る

 

 2021年2月の愛知県がんセンターの検査で、肺がんの疑いが指摘されたので、4月22日に再検査、4月27日、その再検査の結果を聞きにがんセンターに出向いた。その途中の名古屋駅コンコースにある売店で長蛇の列に出くわした。見れば、行列人はスィーツの販売店の外側に沿って並んでいる。看板を見れば、私から見て、何で並んでまでして買わねばならないのか、そんな希少価値があるとは思えない商品であった。

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行列コスト

 私の時間コスト感覚は1分100円である。行列を見ると、約10分間の行列である。それで10分×100円でスィーツの価格に1000円が上乗せされる計算になる。

 今日、がんセンターで肺がん宣告さるやも知れぬ身には、俗世間のあほみたいな行列に見えた。たかがスィーツ1個を買うのに10分も使うとは、命の無駄遣いである。

 知人に聞くと、希少価値のあるお土産なら、30分も並んでも平気だという。価値観の差に愕然とした。

 

癌細胞もスィーツは大好物

 癌細胞は、スィーツ等の糖分が大好きである。癌細胞は、主に糖分を使った代謝で生きている。糖分は人間が生きるために必要な栄養素であるが、取り過ぎると、癌細胞にどんどんと栄養が流れ込む。

 若い女性の癌がこの40年間で4倍に増えたのは、スィーツの消費が増えたのと無関係ではあるまい。

20160208scan01751    日経ビジネス2016年-02月08号-

 

時間は命

 いつまでもあると思うな、親と金。己の命も同じである。命は一刻一刻と尽きていく。「時間は命」である。スィーツを買うために、行列までして時間を殺すのは愚劣である

 

2021-04-29 久志能幾研究所通信 2003 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年4月28日 (水)

脱炭素・脱智慧の小泉進次郎政策をブッ壊せ

 世間はやれ「脱炭素」、「脱ガソリンエンジン」、「EV化」と騒々しい。環境大臣の小泉進次郎は「脱炭素目標は46%減」とぶち上げた。その根拠は「おぼろげに頭にうかんできた数字だ」とまるで新興宗教教祖のような言いぐさである。

 脱炭素とは、地球環境が壊されるのを防ぐために手段であるが、あまりに中国・欧米の一部の利権業者の都合に合わせた対策である。自然の理に反した政策である。必要なのは、自然と共存の政策である。

 私は電気自動車を買う気が全くない。それは自然界の環境に反するからだ。電気自動車は最適用途に使えばよい。

 

「脱炭素」は自然の理に反する

 私は、この脱炭素政策が、まるで食事療法の「糖質ゼロ」ダイエットのように思えてしまう。今までやりたい放題、食べたい放題をしてきて、病気になって(地球環境が悪化して)、慌てて「糖質ゼロ」ダイエットを始めたみたいなものだ。EV化は、極上のトロを主食の座に格上げするようなものに思える。要は極端な偏食である。

 我々人類は、ある意味で地球資源を「食べて」生かされている。それを血迷って電池や再生エネルギーだけの生活に急旋回しようとしている。しかしそれでは資源の偏食である。限りある資源を満遍なく無駄なく使わないと、地球からしっぺ返しを受けるだろう。石油を全く使わない生活は、まるで「糖質ゼロ」の食事だけで生きていくようなものだ。何事もバランス、満遍なく摂取が自然の理である。

 

各国のCO2排出

中国の強欲

 中国共産党は、今までCO2が多量に出る石炭を燃やし、公害を垂れ流し、反炭素社会を邁進してきたのに、急に脱炭素、脱ガソリンエンジン、EV化である。それは現ガソリンエンジンシステムでは、公害対策や、すり合わせ技術で日本や欧米に勝てないので、EV化で自分の土俵に引きずり込もうとしているからだ。そうすれば、中国がレアメタルの供給で世界を牛耳れるからだ。中国がレアメタルの産出量で世界一である。

 太陽光発電でもそのパネルの原材料の半分は中国が握っている。これも中共の戦略物資で脱炭素の脅迫材料である。

 現在の中国は世界最大の、CO2排出国である。第2位米国の2倍の93億トンのCO2を排出している。EV化以前にやることがあるだろうと言いたい。

 

ドイツの偏食

 ドイツも環境に優しいと偽ってジーゼルエンジンで多量の有害排ガスを出してきた。その悪事が露見したので、慌てて脱炭素、脱ガソリンエンジン、EV化を掲げたにすぎない。

 ドイツは再生エネルギーに舵を切り、再生エネルギーを政府が買い取る。そのため、2030年にはその費用が4.7兆円に膨れあがる。それは2016年の2.3兆円から倍増である。その費用はドイツ国民が税金として払う。だからドイツの電気代はフランスの2倍となっている。

 ドイツの極端なエネルギー「偏食」政策が、国民に負担を強いる。それでいて環境保護になっていない。まるでナチスのユダヤ排斥運動を思い起こさせる。そう、ドイツは何かあると極端に突っ走る。なにか間違っているようだ。歴史がそれを証明するだろう。だれが儲けているのか、見極めるべきだ。

 

EV化の大嘘

 電気自動車は環境に優しいというのは大嘘である。電気自動車を作るまでの資源、運転資源、廃棄資源を計算すると、ガソリンエンジンのそれと同じか、それ以上の資源を使う。メーカの謳い文句に騙されてはならない。此の世で、そんなうまい話があるわけがない。

 

 日本は省エネ、公害対策で地道に取り組んできたので、CO2の排出量は先進国中で最低レベルである。だから電気自動車の普及が進まず、設備が老朽化しても設備更新せず、EV充電施設の撤去が進んでいる。今の日本ではEVだけは不便なのだ。ガソリンエンジンと電気自動車を使い分ければ良いのに、それをEV一辺倒に政策を急変するから、世間がおかしくなる。

 

レジ袋の有料化の愚

 レジ袋の有料化で海に捨てられる廃プラの削減になると言うが、その公害の大半は、中国、韓国から流れ着いた廃プラである。それを日本国民に負担を強いる政策は脱智慧の政策としか言いようがない。レジ袋の有料化でかえって害が増えている。レジ袋の有料化は小泉進次郎の売名行為である。

 

小泉劇場に騙されるな

 当時、首相の小泉純一郎が「自民党をぶっ潰せ」のキャッチコピーで華々しく小泉劇を演じたが、結果として、日本が壊れてしまった。小泉純一郎以降に、日本企業のグローバル化が激増し、日本の自殺者も激増し3万人超えが続いた。派遣社員が増え、郵政民営化を旗印に、多くの企業が米国のハゲタカファンドに売られた。それから日本の失われた30年が始まった。

 同じ轍を小泉進次郎が進めないかを、我々は観察しなければ、我々の生活が壊される。

 

各国のCO2排出量

 国名   排出量   国民一人当たりで

 中国   93.20億トン  6.66トン

 米国   47.61     14.5

 インド  21.61      1.58

 ロシア  15.36     10.66

 日本   11.36      8.96

 ドイツ       7.18      8.64

 韓国          6.00     11.60

 

2021-04-28 久志能幾研究所通信 2002 小田泰仙

累計閲覧総数  260,011

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2021年4月27日 (火)

古新聞ガミをお宝に変える

 

 やっと時間の余裕ができてきたので、10年前に溜まっていたゴミ扱いの新聞ガミを整理して、「お宝」に変えた。

 新聞ガミとは、2006年~2014年の英字新聞(”International Herald Tribune” (週刊版), ”New York Times”(週刊版)である。読売新聞社や朝日新聞社発行の英字新聞でないところがミソである。

 英語を学ぶのに英字新聞を読めとよく言われるが、日本語を英訳した新聞ではダメである。日本の新聞社が発行する英字新聞は、日本人が書いた原稿を英訳した版で、日本語臭さがプンプンで、表現が英語らしくない。考え方も日本人の論点で記載されている。おかしな英語(日本語の候文のような)もよく使われている。

 だから私の英語の師である後藤悦夫先生からは、欧米で発行された英字新聞を読めと指導されてきた。その中でも、”International Herald Tribune” (週刊版), ”New York Times”(週刊版)がよいと推奨されていた。両紙は、印刷は両紙と提携している朝日新聞社が、日本で印刷するが、原稿はフランス、ニューヨークで書かれている。

 

英字新聞の利点

 後藤悦夫先生がこの新聞を推奨するワケは、英語の文体がテクニカルライティングの手法に則って書かれていて、英語の論理的な表現の勉強になるからだ。

 

 また欧米の新聞は、日本の新聞とは視点が全く違って、同じ事件でも記事内容が全く異なる。欧米社会の観点を学ぶだけで価値がある。欧米人は何方かというと、大局観から記事を書いている。日本の新聞は視野が狭い感じがする。

 日本の記事と比較すると、いかに日本のマスコミが偏向しているかが分かる。

 15年前の事件を今の眼で、当時の記事の論旨を俯瞰することは、ものの見方の勉強にもなる。

 

 また発行も1週間に1度なので、継続がしやすい、と当時は思った。しかし1週間に1度のことなのに、すぐ読んでない新聞が溜まってしまったことが度々であった。当時の己の仕事の進め方の不手際が、情けない有様であった。読んでない新聞が山積みに溜まっても、購読を中止せず8年間も続けたのは、我ながらエライ、と褒めてやりたい。当時、奈良のK市(人口12万人)に居住したが、その都市で、”International Herald Tribune”を購読していたのは、新聞販売店の話では、私だけだったという。

 

認知症防止

 今は時間がある。タイムカプセルのような記事が満載された昔の紙面は刺激的である。当時の新聞紙面には、オバマ大統領、湾岸戦争、シリア問題等が掲載されている。まさにタイムカプセルである。

 己のボケ防止に、英語の再勉強は良いと思う。バイリンガルは認知症になりにくいというデータもある近い将来、英語の本を出すのが私の夢である。そのための第一歩でもある。「千里の道も一歩から」を実行する。

 

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2021-04-27 久志能幾研究所通信 2001 小田泰仙

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2021年4月26日 (月)

自分が教祖になり「自分へ洗脳教育」

 

 「私は出来る」との思い込みこそ、自分への洗脳工作である。そうやって多くの偉人が偉大なる仕事を成し遂げてきた。

 成功の秘訣は、出来ない理由を考えないこと。失敗してもそれを「10,000の方法のうち、この方法はダメが分かった」と思えばよい。できるまでやるという考えを持つことだ。

 頭がいい人は、最初にできない理由を出して、それを解決する方策を考えない。それが失敗者と認知症患者への一歩である。

 頭が良すぎるのは、却って失敗につながる。私はほどほどにバカなので、愚直に取り組みを継続したのが、今にしてよかったと思う。頭の良い人はすぐ、先が見えて(見えたと勘違い)諦める。

 

躾という名の洗脳教育

 人は一番多く見たこと、教えられたことが人生で影響する。親の子供への躾も洗脳教育である。親が子供に対して7歳までに、直接間接で51,100回ものダメというと、真っ白な子供の脳は、それをしてならないと潜在意識に植え付けてしまう。それが性格形成と、潜在意識の形成になる。

 子供は1日に20回、選択の決断をするという。つまり脳の97%が完成する7歳までに、20回×365日×7年=51,100回の洗脳教育を受ける。

 

自己啓発セミナーという名の洗脳教育

 1990年代の後半、私は仕事でも、人生でも悩み、その解決策を探し求めていた。ある時、部下があるセミナーに行って良かったいう話を聞き、彼から紹介されて、あるセミナーを受講した。それが自己啓発セミナーであった。それが洗脳教育セミナーであった。当時はそんなことは考えず、受講して「素直に洗脳」された。結果としては、私には良き洗脳教育で、人生に目覚めることが出来たと思う。しかしその反応は人さまざまで、賛否両論である。

 この手法は、ベトナム戦争で精神を病んだ患者を治療するために開発された治療法で、米軍で効果を上げていた。自己啓発セミナーは、その手法を応用したセミナーである。だから良き目的で使えば効果が高いし、有益である。

 

悪用セミナー

 それを悪用したのが、オウム真理教を始めとする新興宗教団体である。その影響は1990年頃に洗脳されたオウム真理教徒の犯人が、30年経った今でも、その洗脳が融けず、麻原彰晃教祖を今でも崇めている。その恐ろしさが分かる。

 この手法は劇薬である。うまく使えば、効果満点だが、逆にすれば、人を殺人鬼にもしてしまう。幸い、私はこの「洗脳教育」で人生を謳歌する活力を得た。

 

教祖の化けの皮

 洗脳教育の講師はまるで教祖のようである。一時は私も騙されて講師を人生の師と仰いだが、実態は教祖の仮面を被った拝金主義者であった。その本質は20年経って化けの皮が剥がれた。教祖から洗脳教育をされると、本質が見えなくなってしまう。私はオウム真理教の信徒を笑えない。

 

マスコミという狂祖

 身の回りは洗脳したいという教祖がはびこっている。マスコミも洗脳教祖である。偏向した報道内容を繰り返し繰り返し報道すれば、読者は騙されてしまう。拝金主義企業の広告が欲しいマスコミは、中国の悪口は決して報道しない。それも逆の洗脳教育である。

 新型コロナウイルス騒動も過剰に洗脳報道をして、国民の恐怖を煽っている。現実は、日本の感染者数も死者数も欧米の1/50~1/100である。例年のインフルエンザでの死者数の半分以下である。欧米なら封鎖解除するレベルである。日本のマスゴミは、新型コロナ禍の洗脳教育に余念がない。狙いは、視聴率確保とワクチン接種での金儲けの支援と推定した。しっかりと目を見開いて報道の意図を確認しよう。

 政府も財政赤字だ、国民の借金が膨大だ、大赤字だと間違った財政状況を説明すれば、国民は騙されて、増税に導かれてしまう。これも増税したい財務省の陰謀である。

 

ソフト洗脳

 私のベッドの横には、馬場恵峰先生の軸「道」が掛けてある。これは「あせって」の「せ」の文字の形に惚れて先生から分けてもらった。私の宝物になっている。

 毎朝、目が覚めると1m先に掲げた文字が飛び込んでくる。毎日、朝晩に、「千厘の道も1歩から」の文字がやさしく何回も頭に叩き込まれる。辛いことがあっても、目標に向かて、今日は心機一転でその一歩を歩もうという気にさせてくれる。これはよき洗脳教育である。

 一番良い洗脳教育は、自分が教祖になって、自分を良き方向に洗脳することだ。

 

本物の師

 人は棺を覆って初めてその真価が判明する。馬場恵峰師は本物の師であった。セミナーでガンガンとできもしないことを絶叫する講師が本物の師ではない。静かにユーモアを交え、さりげなく人生の真言を教えて頂いたのが馬場恵峰先生であった。

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 馬場恵峰書

 

2021-04-26 久志能幾研究所通信 2000 小田泰仙

累計閲覧総数 259,534

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2021年4月25日 (日)

馬場恵峰遺作展、恵峰先生を偲ぶ会(1)

 

 2021年4月24日、大村市で「馬場恵峰遺作展」、4月25日は恵峰先生を偲ぶ会」が開催された。私はビデオ撮影とバズーカ砲と機関銃を振り回して5時間の撮影に没頭した。

 偲ぶ会では恵峰先生にご縁のあった人達のお話しを聞き、改めて馬場恵峰師とのご縁があったことに感謝である。

 久しぶりに70~200mmの大口径望遠レンズと28~105mmの望遠レンズ装着のフルサイズ機2丁拳銃で、重たいカメラを振り回して、広いホールの端の通路を上から下へと、最後部の通路を横切って側面の通路を上下して、撮影を繰り返して疲れはてた。ホールの中央通路は観客の邪魔になるので、端の通路を使う。結果として約400枚の撮影、約1万歩弱の歩行数となった。

 長崎からその帰路は鉄路で7時間、約30キロ近いカメラ用品(カメラ・ビデオが5台とPC、着替え)の装備品を運び、深夜23時、自宅にたどり着き疲労困憊。昨日と今日は正規のブログをお休みさせていただきます。詳細は後日報告します。

 

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2021-04-25 久志能幾研究所通信 1999 小田泰仙

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2021年4月23日 (金)

皇女の結婚問題、匂いを嗅ぐ

 

 臭いものにはワケがある。「胡散臭い」とは、よく言ったものである。これこそ先人の智慧である。常識として異臭を感じれば、その対象を避けるのが動物としての人間の危機管理である。賞味期限も関係ない。見ればわかる。嗅げば分かる。付き合えばわかる。喰えばわかる。喰えん人間とは付き合うべからず。

 

仁義礼智信

 人の基本は「仁義礼智信」である。頭が良いとか悪いとかは関係ない。当たり前を当たり前に自然にこなす。その過程で、人には守るべき一線がある。それに超えれば、アウトである。

 私は、一度でも裏切られたら、その人とは疎遠にする。それが危機管理である。一度あることは2度、3度と続く。だから自分でも人を裏切らないように細心の注意を払っている。

 

 かの家庭騒動から伝わってくる悪い情報は一件だけでも、破談になるレベルである。どうも状況証拠から見て、かの皇女は洗脳されたようだ。洗脳から発生する匂いは、カネが腐る匂いである。皇族は下賤な金のトラブルに関わってはならない。それだけで腐臭である。

 

カンとは

 情報とは、「情」けの「報」せである。人に「報」せるにも、やり方の「道」がある。それなのに、トラブル解決のために発表された28頁の裁判用書類のような一方的な糾弾書、自己弁護書では、「報道」という「道」から外れている。人間性が疑われる。テクニカルライティング的に考察して、修身の観点から見て、危機管理の観点から考えて、人の道の観点から考慮しても、異様な匂いがプンプンである。

 カンには、数十年間を生きてきた自分の経験智がバックにある。こりゃダメだと感じたら、エイャ!で決めても、大きな間違いはない。問題がこじれても、家長や責任者がダメと言えば済む話である。

 今、世間を騒がしている皇女結婚問題も、簡単に考えれば、上記の話である。

 

前例を破る

 一度裁可を出したら覆すことはないのが皇室の前例という。そういう前例を破ってきて、皇室を変えてきたのは、平成天皇であった。問題が露見すれば、前例を変えて、現天皇が婚約を不裁可とすれば済む話である。官僚の悪いところは、問題が起きないように起きないように小手先で対応することだ。だから問題が余計にこじれてしまう。

 

習近平の悪例

 2009年に来日した習近平が、半年前に申請しなければ拝謁できない前例を、強引に破って平成天皇と拝謁を果たした。「前例を重んじる」から言えば、不敬である。今回は他人の習近平より大事な孫のことである。どしどし前例を破ればよい。

 歴史は前例を破って、新しい時代を作ってきた。前例破り、皇女の結婚問題でそれが変われば、大歓迎である。

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2021-04-23 久志能幾研究所通信 1998    小田泰仙

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2021年4月22日 (木)

初めに言葉あり。煩悩ありて病気あり (磨墨智152)

 

 『新訳聖書』の『ヨハネによる福音』の最初の文字が「初めに言葉ありき」。

 言葉は言霊というように、魂が籠っている。その言葉が時間を創る。時間とは命である。言葉が人生を創り、人を育てる。

 私は馬場恵峰先生の書かれた、古今の名言の揮毫の書を眺めて、その謦咳に触れた気がする。それが私の成長の肥やしとなった。

 人との出会いがご縁である。言葉との出逢いもご縁である。しかしよき出会いがあっても、欲望に惑わされ、煩悩に迷い、その言葉に背く生き方をするから、人生で躓き、病気にもなる。

 

病気というご縁

 病気との出会いもご縁である。病気にであい、日本中の名医の戸を叩き、自分の非を知ることになった。病気に出会わなければ、自分の非に気がつかなかった。また同時に、現代の日本医療の実情を知ることができたのも、仏様の慈観の目から出た賜物である。

 病気は誰のせいでのない、己の不摂生が病気を招いた。その長年の不摂生で体が悲鳴を上げ、37兆個の細胞が力を合わせて病気を発症させた。37兆個の細胞が早く間違いに気づいてくれ、その不摂生を止めてくれ、と行動を起こしたのが病気である。

 それを傲慢にも「病気と闘う」と言っては、対応が間違ってしまう。それで薬を飲み、手術をして誤魔化そうとするから、病気が再発する。それは対処療法である。医療関係者だけが儲かる。それでは一時的にしか治らない。

 人生では最高の事しか、起こらない。病気になるような生活を送ってきたから、最高の因果応報の結果として、病気になったのだ。それに気が付かず、俺は運が悪いと多くの人は間違った処置をする。

 

癌を睨む不動明王

 癌(他の病気も同じ)の発生も同じである。己が癌になるような、狂った生活習慣、狂った食生活を送ってきたのが真因である。それを医者任せ、手術任せだけで治そうとするから、治らない。医者は治療をするが、病気は治さない。治すのは己の力である。仏様は、狂った生活習慣、狂った食生活を直せと、迫っている。

 不動明王は、怒りで病気に迫る。己の煩悩(狂った生活習慣、狂った食生活)を宝刀で断ち切ろうと迫る。その悪癖を直せば、左手でもった羂索で、癌の地獄界から救ってくださる。生活を改め行いを正し、怒りの不動明王の懐に飛び込めば、慈悲に満ちた眼で衆生を見つめてくださる。

 

 文殊菩薩は、同じように右手の宝刀で、迷える煩悩を断ち切る。不動明王は怒りで衆生を導くが、文殊菩薩は智慧で衆生を導く。

 迷える煩悩とは、間違った健康知識である。人生を運ぶ運搬車(体)の正しい取り扱い説明書を読まねばならぬ。その運搬車に過度に負荷をかけるから、壊れてしまう。正しい取り扱い方法、健康知識こそ、煩悩(病気、破損)を遠ざける知恵である。知らないことほど、罪の大きいことはない。無知は人生に壁を作る。文殊菩薩様は、左手に経典の巻物(データベース)を持ち、衆生を教え導く。衆生は導かれるより、自分で学ばねばならぬ。それが仏教の教えである。

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 松本明慶大仏師作 不動明王

 本写真は松本明慶仏像彫刻美術館の掲載許可を得ています。

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 松本明慶大仏師作 文殊菩薩

 

039a15511s  馬場恵峰書

2021-04-22   久志能幾研究所通信 1997 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年4月21日 (水)

寄付とは人生の造金活動(磨墨知152-3)

確信師になろう、出来心ではダメ

 

 ユダヤ人は貧乏のときでも、収入の10%を必ず寄付する。ユダヤ教の教えである。寄付をするとは「私は富んでいます。皆さんに寄付をするだけの富があるのだ」と自身に言い聞かせることになる。それが確信師(確信犯?)の行動である。

 それにより稼ぐことを正当化し、稼いだお金で他者を助けるため、多く稼ぐことが大義名分となる。それ故、富んでいる人間のような行動を取り、富んだ人間になる確率が高くなる。

 この教義のためユダヤ人の富裕層の割合は高く、ロスチャイルドや投資家のジョージ・ソロス、映画監督のスティーブン・スピルバーグなど世界的な成功者が数多く存在する。

 私は寄付した分を、「生活VA」で生活の中の無駄な部分を見付け、改善してその金を捻出している。寄付分を賞償却すれば、後はその分が毎年、資金として残る。

 「生活VA」とは、日々使う項目を見直し、節約することで、1年間での節約金額を出し、それが10年間で積み立てる事である。

 

寄付は献血と同じ

 寄付とはある意味で、献血のようなものだ。献血すると体の血が少なくなり、体の造血作用が活発になり、健康増進に貢献する。私も過去は、健康のために献血を積極的にしていた。しかし高血圧になり降圧剤を服用するようになったので、献血が出来なくなった。

 寄付は身上から金が流れるので、その分を稼ごう、節約しようと、却って経済的には好循環の環境になる。出すから入ってくる。貯めこむばかりでは、限界がある。

 

教義に背く行為

 寄付をしないと「自分は貧乏だ、金が無い」と何回も自分の潜在意識に言い続ける。潜在意識に沁みこんだ考えは、日頃の行動に反映され、貧乏人の行動を取り続ける。その行動が、富裕層になれるご縁から日々離れていく。

 (だから是非、オダブツ教にご寄進を。少なくともそれで教祖は幸せになれる。寄付をした方が幸せになるかどうかは、本人の責任?)

 

豊かな心

 自分は豊かであると確信しよう。出来心で寄付するようではダメ。確信犯(?)として寄付をしよう。きっと豊かな心と時間を得ることができる。どうせあの世にはお金をもっていけない。自分で稼いだカネは自分で使おう。それが自己責任である。

 

稼ぐより使うのが難しい

 金を使うには智慧がいる。「金を稼ぎ、貯めるのは簡単だが、使うのが難しい」とは豊田英二トヨタ社長(当時)の言葉。トヨタは稼いだカネを研究開発と設備投資に回した。それで今のトヨタがある。

 下手に金を残すと子孫が堕落する。それより自分で使って、お足(金)を世間に回した方がよい。きっとお足が友達を連れて帰ってくる。

 今、世間が不景気なのは、金を持っている高齢者が金を使わないからだ。若者は不景気で給与が少なく、金を使えない。高齢者よ、金を使え。

 

 二人以上の世帯の内、高齢者世帯(世帯主が65歳以上の世帯)の1世帯当たりの純資産額は5816万円(平成16年11月末)である。(総務省統計局調べ)

 

2021-04-21  久志能幾研究所通信 1996 小田泰仙

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2021年4月20日 (火)

己の道は手のうちに。己が教祖様

 

己を拝め

 キリスト教で「天にまします我らの神よ」と祈っても、仏教で「南無阿弥陀仏」と手を合わせても、神も仏も己を助けてはくれない。ただ見守っているだけだ。己を助けるのは己である。己が人生の運命を握っているのに、その努力をしないで、「神も仏もないないのか」と運命を嘆いても、それはお門違いである。

 マラソン選手の有森裕子さんの名言「自分で自分を誉めてやりたい」というくらいの「誰にも負けない努力」が必要だ。

 人は自分を拝む勉強をしない。自分が行動を起こさなければ、人生は変わらない。

 

背中を観よ

 自分の背中を観よ。しかし己は己の背中を見ないし、多くの人は観ようともしない。しかし己を支えてくれるのは背中である。その背中は他人の視線が鏡として、背中を見てくれる。だから人皆わが師である。

 

自灯明

 仏様が与えてくれた機会を他人の為に、人のために話をしなければ、自分は幸せになれない。いいことや、良いことは人に話さねばならない。黙っている人こそ、くせ者である。保身者である。

 人がしないから、させてもらっている。面倒くさいから、やらせてもらっている。自分が幸せを作っていくのだ。実力の裏が教養である。早く勉強した人が、早く実力をつける

 自らが人生の暗夜を自らの灯で灯せ。だから仏様は「自灯明」を説かれる。

 自らが灯なら、暗い顔ではダメだ。周りを照らすように明るい顔を示せ。暗い顔は、玄関に髑髏を飾るようなものだ。

 

己の死を見つめよ

 死はグラデーションだ。死はある日、突然にやってくるものではない。人間も生物だから、急に全ての組織が死ぬわけでも、全て新しく生まれるわけでもない。死んだような生き方では、段々と死んでいく。

 心も新陳代謝である。朝日が昇れば、昨日の自分は死んだのだ。今日は新しい考えを頂いて、新しい自分が新しい一日を作る。昨日の失敗を糧に、新しい自分が生まれる。だから失敗を恐れることなかれ。失敗から、新しい自分が生まれる。死なくして、生はない。

 自分の死は決まっている。死は必然だが、生は偶然である。生きている間に、何を後世に遺すかが大事なのだ。生物で一番大事なことは、自分のDNAを残すことだ。

 馬場恵峰師は、お弟子さんを残し、作品を残し、足跡を残して、天寿を全うし、使命をやり遂げて旅立たれた。生が有限であることを知っていたから、できたこと。

 

師の死を活かすことは、自分が師を超える事

 人間は先代の功績をベースにその上に知恵を積み重ねてきた。師からDNAを受け継いだのなら、それを上回る業績を残すべきだ。それがその道を歩む後継者の使命である。その道の教祖になるように努力をすべきなのだ。

 

実践あるのみ

 手本ばかり見て、書を書くからうまく書けない。自分で考えて書けば、うまくなる。人の真似をするな。自分で考えて書け、覚えて書け。

 習字をするからうまくならない。作品を書きなさい。下手でもいいから高い紙に高い墨で、丁寧に書きなさい。そうすれば残るし、うまくなる。

 人生でも高い金を払って、高い、価値ある仕事をしなされ。安い仕事では実力はつかない。

 だから師の行動を真似するな。自分で考えて、師を超える行動をしなされ。師の行動は、師の人格の表れである。それを真似しても意味がない。自分で考えて、自分の人格が現われる行動をすべきである。それが学びの成果である。

 

我以外皆師

 書の教室に来ても、自分だけ先生から添削をしてもらったら、後は知らんふりでは成長できない。他のお弟子さんが先生から添削を受けている状況を見て学べ。それが「我以外皆師」である。人生二度なしで、一生勉強である。

 字書き恥かきで、実際に恥をかいて体験しないと成長できない。恥をかくことを避けるのは、自分が可愛くて、自分を守り過ぎである。それは自惚れである。これでは成長できない。

 これは全ての道(武道、芸道、学道)で、いくら秘伝書でノウハウを伝えても、血の滲む鍛錬を繰り返さないと名人にはなれない。鍛錬とは、鍛を1000日、錬を万日として修行することだ。今はノウハウ書がオンパレードであるが、それでは薄っぺらな人生しか送れまい。それは本当の勉強していないことである。

 

 本稿は、馬場恵峰師の知己塾の講義を元に、私の想いを加筆しました。

4k8a02411s  馬場恵峰書

2021-04-20   久志能幾研究所通信 1995   小田泰仙

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