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2018年8月

2018年8月11日 (土)

第一段 死

生は偶然、死は必然。 

死なくして生はない。

死があるから生が輝く。

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 馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

 

人生の結論

 人生の結論は死である。そこから始めて何を残すか、何をやるかを考えるのが人生設計であり、そこから死計の智慧が生まれる。若い頃は頭で薄々分かっていても実感の無かった死という結論が、あちこちと体に不調を抱える歳になり、お墓作りを通してはっきり見えてきた。

 人生の死計を考えない人は、スリラー小説みたいな人生を無為に送り、上り坂、下り坂、マサカの場面に遭遇して転落する。スリラー小説を読み、演劇を見るときは、初めから終わりへと頁をめくり、観劇をする。そのストーリーのクライマックスで、どんでん返しを見せられて狼狽する。そうならないように、死計を考えて生きていきたい。

 

人生経営

 会社経営では、終わりの目標から始めて、そこに到達するために、英知を尽くしてできる限りのことをする。テクニカルライティング上の文書作成でも、最初に言いたい結論を書くのが基本である。その文章の中身は、クライテリア(基準)に則って記述することが要求される。人生経営も同じである。自分はどんなクライテリアの基づき生きてきたのか。残された時間をどのように使うのか。

 

人生のデザイン

 人生のデザインでは、何のために生きるかというクライテリアがないと、人生設計図が完成しない。それでは死計もありえない。一番素晴らしい人生とは、死に臨んで、死計として従容として死に就くことである。よく働いた日が安らかな眠りを誘うように、計画を完遂した人生は、安らかな死を賜う。それはやるべきことをやり遂げた人への、佛様からのご褒美である。いつ死んでもよいように、今を一生懸命に生き、仕事をして、使命を果たす。

 

一念

 一念とは「今」の迷う「心」を一つにして、背中に我慢を背負い、右手にソロバンと左手に海図(理念・経典)を持って、明日は分からない命を抱えて生きることである。そのためには、命の運搬手段としての体に悪影響を与える事象を遠ざけるのが死計である。

 

余生なき人生

 余生とは、生きながらえている状態である。人生設計図に「余生」などという期間はない。最期まで現役であれば、余生など不要である。この歳まで無事に「歳を頂いた」のだから、そのお返しをご先祖とこの世にしなければなるまい。余生を送っている暇は無い。

2   馬場恵峰書

2018-08-11  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月10日 (金)

第二段 苦

子供に地獄を見させる一番の手は、何不自由ない贅沢な生活をさせること。苦労を知らない子は、将来が地獄である。苦労があるから知恵がつく。

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馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

Photo_2  馬場恵峰書

人生道千曲がりでのご縁

 還暦を迎え、歩いてきた過去を振り返ると、人生道千曲がりの下り道でも、自分の修行としての下り坂で、頂上に上るためには通らなければならない道であったと、今更ながら運命の悪戯に感謝している。悪路を歩いている間は、目先の試練で五里霧中、それどころではない。しかし過去は、考え方を変えれば、その悪い経験が己の修行であったと、過去の見方を変えることができる。そうすれば自分の未来が変わる。過去を肯定せずして、自分の未来はない。

 

人智を超えるご縁

 逆縁の菩薩に出会わなければ、出会えない師とのご縁がある。新しいご縁は、縁あるもの死なくしては、生まれてこない。来る縁が良い縁か悪い縁かは、棺を覆ってからしか分からない。良縁も悪縁も全て己が招いた因縁で、それの因果を解釈する姿勢が重要である。どう対応するかは対処療法で些細なことである。来た縁が良いものにするように向き合うが正しい根本療法である。来る縁に善悪はない。全て選択と解釈の問題である。悪縁と見えても、その後ろの良縁が隠れていることが多く、人智では計り知れない。選択不能の事項なら、受け入れるしかない。それに無駄な抵抗をするから地獄を見る。不幸の時は、不幸を楽しめばよい。死ぬ時は死ぬがよい。それも人生である。還暦でやっと悟れた境地である。

 

欲というフィルター

 「老」には「結ぶ」という意味がある。親子が生物の発展の形である。物事は結ぶことで生成発展する。結婚しかり、合併しかり、異質なものが結び合うことで新しいものが生成される。それを「化成」という。ニンベン「イ」は背の伸びた若者、「ヒ」は腰の曲がった老人の姿である。親子が結ばれて新しい価値が生まれる。それが「化」の意味である。

 己とは異質の人が福を運んでくれる。時に、人の本気度を試すために、福の神が貧乏神の全く逆のコスプレで来るときもある。老心は百面相である。老心は異質なものの昇華体である。だからその衣装に騙されないようにしよう。人間界の投影が神の世界である。神の世界もコスプレが大流行である。神には、裕福も貧乏もない。それを決めるのは人間の欲というフィルターがかかった目である。来る人が貧乏神に見える時は、目が曇っている時。目が曇っていては、真実が見えない。そんな状態では、人生時間も稼げない。

 

心眼の病気「欲内症」

 人が罹る目の病気に白内障、緑内障がある。心の目が罹る病気の一つが「欲内障」である。良くない症状である。これは手術では直らず、火葬で灰にならないと消えない。禍があるから福が光る。人生の禍福の合計は、人生と言う長い尺度では差し引きゼロである。「不遇な時期は、人生の蓄財の時。自己充実を図れ」が佛様のメッセージである。

 

2018-08-06  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 9日 (木)

第三段 病

病は生あるものに、何が悪いか教えてくれる佛さまからのメッセージである。病は命にも限界があることを思い知らせてもくれる。病を頂くのもご縁。佛さまからのメッセージご大切に。

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馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

 

組織の病

 人が老い、病み、死があると同じように、人が作った組織も、老い、病み、死がある。その組織の自己崩壊を防ぐために、組織の長には任期がある。民間企業の社長なら一期2年、二期4年が常識である。行政の長は1期4年である。せいぜい2期で8年が健全な寿命である。 

 それが小川敏大垣市政のように5期20年も居座る状態になると、組織が澱み、腐臭が漂い、組織活力が消滅する。それは、人が老い、病気になるのと同じ自然の理である。結果として、大垣市がガン細胞に侵されるように自然衰退した。それは生命体の細胞が異常分裂・暴走を始め、止まらなくなったと同じ現象である。その組織にガン細胞が生まれたのだ。

 だから、子供を酷熱の炎天下に放置する行事を開催しても、大垣教育委員会も市議会も商店街実行員会も知らんふりである。行政に忖度の地方紙も見て見ぬふりである。大垣駅前商店街活性化の政策が間違っていても、行政はPDCAを回さない。ヒラメ職員の横行で、市政が澱むばかりである。行政が大垣市制100年記念行事で税金を使い放題にして、条例でその使用用途の公開をマル秘扱いにしても、それが異常であると理解できない。行政のチェック機構である市議会も市長と結託して暴走している。関係者は、誰もそれを異常だと思わない。それこそが異常である。

 

耳順う

 自分で自分の暴走が止められなくなったら、周りが止めるしかない。人は還暦にもなれば、「60にして耳順う」と、人のいうことが素直に聞ける心境になる。それが成長した「老」の状態である。

 それから観察すると68歳の大垣市長はまだまだ幼く、人の諫言など聞く耳を持たず、傲慢の病に侵されている。天は、ドローン墜落人身事故や室村町アンダーパス水没事故、大垣駅前商店街の衰退、高屋町の公示時価下落で警鐘を鳴らすが、小川敏市長は目も向けない。

 還暦とは実社会で辛酸を舐め、世間がわかってくる時である。己の暴走、うぬぼれに諫言する人がいて、はじめて人間になれる。それが、長期政権となり、ヒラメ職員ばかりに取り囲まれ、独裁的に君臨すれば、人は成長できない。

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吾十有五にして学に志す。

三十にして立つ。

四十にして惑はず。

五十にして天命を知る。

六十にして耳順(したが)ふ。

七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

『論語為政扁』

[口語訳]

「私は十五歳のとき学問に志を立てた。

三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。

四十歳になると、心に迷うことがなくなった。

五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。

六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。

七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、 人の道を踏みはずすことがなくなった」と。

 

2018-08-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 8日 (水)

第四段 老

 人生での「老」とは成長という意味である。老には良い意味がある。大老、長老と経験を積んだ大人には「老」という敬称をつける。

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 馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

 

命の開発(かいほつ)

 還暦とは、倒産しそうになった自分株式会社の立て直し、リストラクチャリングの時である。捨てるべき荷物を捨て、必要な資材を選択して積み込む時である。まず自分の体のメンテをしなくては、命の開発はできまい。

 人は37兆個の細胞から作られている(以前は60兆個と言われていたが、最近の研究で改められた)。その全細胞の支配者が自分自身である。人はその細胞から作られる各器官の集合体である。八百万の各器官という仏様の命をどう開発(かいほつ)するかが、自分に課せられた課題である。開発とは、生きとし生けるものが本来持っている特性を開いて開花させる。それが仏教用語の「開発」(かいほつ)である。その細胞一つでさえ、最新の科学技術でも、生み出すことができない。それが37兆個も集まって一人を構成している。神仏の神秘さを感じざるをえない。その神仏が宿る臓器には、個体差があり寿命に差がある。その開発した才能の寿命を認識するのが、統括司令塔として自分の魂の役目である。生まれた才能もいつかは死を迎える。死なくして、新しい命は生まれてこない。それを踏まえて、自分は何を開発するかが問われている。

 

人間の尊厳

 我々は多くの自己の持つ才能を生殺しにしている。その個々の才能も開発さすべき時期の見定めの大事である。肉体的青春の命は若い時だけである。その時の才能は自然発生的に生まれて開発の苦労は少ない。しかし時期を過ぎての開発には苦労が伴う。命の賞味期限は有限であるが、加齢してこそ開花する才能も多くある。青春が終わり、死にゆく器官を認識して、残された才能を開発することに目を向けたい。それを追い求めるのが、人間の尊厳としての義務である。

 

生きる修行

 私の目の水晶体の寿命は終わってしまったが、医学技術の進歩のおかげで、人工の水晶体に入れ替える白内障手術で視力を取り戻すことができた。感謝である。取り戻すことの出来ない器官は、そのことを受け止めて、それでどう生きていくかが、人生の課題である。失ったものを嘆いても返っては来ない。「まだ残る未知なる才能の開発をせよ」が佛様の御心であろう。人生は、死ぬまでが持てる命を育てる修行である。

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 馬場恵峰書

 

2018-08-08  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 7日 (火)

貴船神社(大垣)の例祭に参列

 2018年8月5日、元気ハツラツで本町通りをぶらついていたら、町内の放送で、「本日11時から貴船神社で例祭を行いますので、町内の皆様はご参列ください」とアナウンスがあった。ご縁を感じて参列することにした。

 見れば高校の仲間が、この町内のお役目として、この神事で走り回っていた。当日の例祭で忙しいので、当日の同窓会も欠席とか。大垣に還って8年間で、この神社には数百回もお参りしているが、例祭に参加したのは、初めてである。よきご縁をいただき感謝である。

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貴船神社の宮司の挨拶

 一通り例祭の儀式が終わり、最後に、京都の貴船神社禰宜の三木金房様より、挨拶があった。テレビにも頻繁に顔を出される有名なお方とか。それをまとめると(一部、三木様の解説に私論を補足)下記のようであった。

 

日本人にとって神様

 日本では、水の神様、風の神様、太陽の神様、海の神様、山の神様、と昔から日本人は自然に神が宿るとしてあがめてきた。日本人は自然と一体となって生活をしてきた。

 世界には800の活火山があるが、そのうち1割が日本にある。日本の国土面積は全世界の国土面積中で0.25%の占有率なのに、驚異的な割合である。それだけ日本の土地は生きているといえる。

 日本は、世界の国から見れば、温暖な気候で自然との融和が大事にされてきた。砂漠の極暑の気候や、シベリアのような極寒の地域ではないことに感謝である。日本では太陽は恵みの源と表現されるが、インドでは太陽は灼熱の光を与える悪魔と忌み嫌われる。同じ自然でも地域によって全く感性が異なる。日本人は豊かな自然の恵みを素直に受け止められる、自然と一体となって暮らすことができる幸せな民族なのだ。西洋では、登山に成功したら、自然を征服したなどと、傲慢な表現が多い。日本人はそんな表現はしない。

 

神仏一体

 しかし、自然の神様と人間とは尺度が多少は違うので、程よい自然環境とはなかなかなりがたく、神様の基準とは折り合いが悪かった。それが時として自然災害として人を襲う。しかし自然災害で人が亡くなっても、日本人は自然を恨むでもなく、人生の定めとして、亡くなった人を丁重に弔ってきた。そこに仏教が入ってきて、弔いの仏教儀式を日本人はすんなりと受け入れられた。日本人の神と仏の両方を崇める自然な姿勢が培われた。

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 京都の貴船神社禰宜の三木金房様の挨拶

貴船神社(京都)

 現在は神社本庁の別表神社。全国に約450社ある貴船神社の総本社。例祭は6月1日。

概要

 絵馬発祥の杜を表す。貴船神社は、水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされ、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。

 古来より、晴れを願うときには白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されたが、実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあることから絵馬が発祥したとも言われる。

 また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルで賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。

 

大垣貴船神社

 京都・貴船神社の分社である。大垣は水の都といわれるので、一番ご縁の深い神様でもある。主祭神は、高龗大神、家津御子命大神。例祭は8月5日。

由緒

 戸田氏鉄が摂津国尼崎藩藩主の時、京都の貴船神社から分社して祀ったのが始まり。戸田氏鉄が尼崎藩藩主の期間は元和2年(1616年)~寛永12年(1635年)であるので、分社はこの時期と推測される。

 戸田氏が寛永12年(1635年)に美濃国大垣藩に移封された際、当神社も大垣城内に移転した。

 明治4年(1871年)4月頃、大垣城下の本町の住民が旧藩主の戸田氏共に願い出、大垣城内の貴船神社と熊野神社を本町の鎮守として祀る。

              この項、wikipediaより編集

 

2018-08-07  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 6日 (月)

園児をこき使い、金儲けする鬼

 2018年8月5日、10時から大垣「元気ハツラツ市」で、赤坂幼保園の園児による、歌と踊りが予告されていたので、実態調査のため現地に赴いた。当日の天気予報では38度の酷暑と予想されていた。

 前日の「奥の細道結びの地記念館」前での炎天下での園児の踊り・火傷の事件があって、私はその善後策で走り回った。しかし、野党の市会議員にお願いしても動きがなく、その回答もないので、諦めていた。その確認のためもあり、新大橋のステージに出かけた。

 一度決めた行政の行事は、簡単には中止にはならない。危惧した通り、予定通り、赤坂幼保園の園児による踊りの行事が進行していた。私は、前日に動いたが、その結果に無力感を味った。大垣の識者は誰もこの異常事態に気が付かない、動かない、暴走している。この大垣の行政は死病に取りつかれている。

 

 救いは、今回は、新大橋の「元気ハツラツ市」ステージ上には、今まではなかったテントが設置してあったこと。これは初めてのこと。しかし、それならなぜ前日の「奥の細道結びの地記念館」芭蕉楽市の舞台にテントなく、露天であったのだ。なぜ当日38度の猛暑が予想された日に、園児を炎天下で踊らせる行事が中止とならないのか。

 8月5日の新大橋では、午前10時には気温35度であったが、コンクリート上で照り返しがきついのは同じである。体力のない5歳の園児には、小一時間も(9時30分~10時15分ごろ)、この場所に滞在させるのは非人間的である。気温35度で、無抵抗の園児に飛んだり跳ねたりと踊りをさせるのは非道である。己の金儲けのために、園児をこき使う輩を、「鬼!」と私は呼びたい。それに知らん顔をする小川敏市長は鬼の総元締めである。

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  2018年8月5日、09:51  新大橋上

園児を営利活動に動員

 本来、一商店街の販売促進の為の営利活動の催し物で、幼保園の園児を、大垣市長命令(行政からの依頼だから大垣市長名)で、炎天下36度の中で踊りのために駆り出すのは非常識である。当日の予想最高気温は38度である。大垣教育員会の通達で、生徒の35度以上の日の屋外行事は中止となっているはずだ。

 なぜ休日に、園児が商店街の営利活動に駆り出されるのか。大垣教育委員会も、学校関係者も、市会議員も、商店街も、保護者も、マスコミの誰も異議を唱えない。それが異常である。大垣市は異常を感知できない業病、感知しても止まらない死病にかかっている。

 なぜ、園児を休日の酷暑の日にこき使い、一商店街の拡販営業活動である「元気ハツラツ市」が大垣市制100年記念事業の一つなのか。正気の沙汰ではない。

 

異常事態を放置

 園児の踊りが始まって、その中の大勢の園児の中で、一人だけ演技もせず泣き続けている子がいるのに、保母は誰も対応しなかった。何故、保母の先生は対応しないのか。後でその子の顔写真を拡大して確認したら、頬が異常に赤くなっていた。日焼け、つまり火傷である。熱中症で体調が悪かったのかもしれない。5歳の園児が自分の体調不良を大人に訴えられる手段は、泣くしかない。それを付き添いの3人いた保母たちは気が付かない。何のために保母なのか。

 他にも一人の幼児がうつろな表情で踊らされていた。保母二人がかかりっきりで世話をしていた。なぜそんな状態の子まで強制的に踊らせるのか。その考えが異常である。行政命令なので、踊りたくない子まで踊らせないと、幼保園が責任を問われるのか。自分の給与の影響するのか。

 その観客は、親御さんたちだけである。大垣駅前商店街の活性化には全く寄与しない行事である。皆さん、行事が終わればサッサと帰宅である。

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 踊り中、ずっと泣き続ける子。顔が異常に赤い(火傷状態と推定)

03dsc02483  頬や鼻の頭の日焼け状態は火傷である

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 うつろな表情でイヤイヤ。保母が二人で対応して忙しい。

 そうまでして商店街のために金儲けの演技をさせたいか。

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 客は親御さんばかり。商店街の売上には貢献しない。

あえて暑い場所で待機を強いる

 園児たちは、出演前に最初、新大橋の日陰になる東側のアーケードの下で待機していて、そのあと、西側に移動をして10分ほど待機をして、ステージに登場した。その西側には太陽光が直接は当たらないが、道路の照り返しがきつい場所である。その待機で、園児たちは不快そうな顔をして出番を待っていた。

 なぜ東側の涼しい場所から直接ステージに移動しないのか。主催者の「元気ハツラツ市」実行委員会は、子供のことなど全く考えていない。自分たちの金儲けと出世で頭が一杯である。スケジュールを予定通りこなさないと、視察に来る小川敏大垣市長にド叱られる。だからヒラメの市職員は「出世願いの舞い」を園児に対抗して踊っている。

06dsc02281 9時半に集合  9:39     

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東側アーケード下で待機中 940

08dsc02299 炎天下で帽子もかぶらず移動 9:49

09dsc02303 すぐ横の照り返しがキツイ

09dsc02339  直射日光を浴び、不機嫌な子

10dsc02345 不機嫌そうな顔で待機中の園児

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照り返しのキツイ西側歩道で待機中

大垣市の死病

 大垣市行政が、園児をこの異常気象の炎天下に狩り出すという異常行動に、誰も声を上げない。教育委員会の通達を無視しており、その危険を指摘しても誰も動かない。それも子供の命に関係する事態なのに。野党市会議員に通報しても、全く反応がない。市民はどうすればよいのか。これが「子育て日本一」「住むなら大垣市というイメージが定着している」と大垣市が大嘘をぶち上げる都市の実態である。

 大垣行政は暴走している。異常を異常と感じない組織となり、自己チェック機能を殺して暴走中である。大垣市行政・財界は死病の症状である。

 

小川市長の怠応

 小川敏市長は、園児たちが35度の高温の中、無理やり演技をして、疲れ果て親に連れられて帰宅をした後の午前10時30分ごろ、黒の公用車で会場の新大橋に乗り付けて、お忍びで登場した。周りの目を避けるように、元気ハツラツ市実行委員長の案内で県外の露天商の出店にあいさつ回りをした。誰も市長とは気がつかない。ご丁寧に「偽理」がたく、いちいちそのお店で買い物までして、である。しかし地元の商店街などは全く無視して、あいさつ回りなどはしない。そのあと、すぐお供を連れて会場を去っていった。11時から次の行事・貴船神社例祭があるのだ。だからスーツの礼服である。

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12dsc02567_11  あいさつ回りで忙しい大垣市長

 

 「元気ハツラツ市」に出店をする県外店の売り上げは、地元の商店の売り上げを減らす。露天商の多くは、県外・市外の店で、大垣駅前商店街の売り上げを減らす元凶である。元気ハツラツ市」は、大垣駅前商店街の活性化とは真逆の政策である。小川敏市長は誰の味方なのか、どの街の市長なのか。

 

死の街並み

 炎天下38度の気温で、駅前通りは、人出は閑散としていた。毎月の「元気ハツラツ市」の賑わいに比べれば、幽霊通りである。こんな暑い日の炎天下で行事をやるからだ。露店商の店員も、営業的にも生理的にも、路上の照り返しのきつい場所での営業は、命の危険に影響する。気象庁が「命に影響がある暑さ」という非常事態に、例年はやらない行事を追加、強行する大垣市行政は狂っている。この暑さでは、人がくるわけがない。狂うだけである。

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人影が薄い「元気ハツラツ市」会場

賢者の諫言

 晦に処る者は能く顕を見 顕に拠る者は晦を見ず

  佐藤一斎 言志四録 後録64  

 現代訳

  陽の当る場所にいる人は、日影のいる人にいつも見られている。

  陽の当る場所にいる人は、日影にいる人など眼中にない。

  陽の当る場所にいる人は、気をつけねばなるまい。 

 

 「その昔、自分はテントの中にいて、炎天下の中、行進、運動をする生徒達を無意識に見ていた。最近の若者は弱いと言って、己は生徒の苦しみが分かっていたのだろうか。」とある見識者が先日のブログ「36度の灼熱地獄で園児を踊らせる鬼の小川市長」を見て反省していた。大垣市長、教育長、市会議員、財界のお偉方は、大垣市の寒々とした実態が眼中にないのだ。大垣市は死病に罹っている。それは自覚症状のない病気である。

 こういう大垣の死導者達が、大垣市制百年記念事業を、会計報告なしで、やりたい放題で実施して、水まんじゅうギネスに酔い痴れている。大垣の子供達は、エアコン普及率2.1%の酷暑の小学校教室の中に放置されている。

 

2018-08-06  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 5日 (日)

私の生前葬50回忌を欠席

 今日、2018年8月5日は私の生前葬50回忌のパーティがあった。私が高校を卒業して、今年が50年目である。50年前、1969年の東京大学安田講堂事件で東大入試が中止になり、その余波で散々な目にあい、もみくちゃにされて大学に滑り込んで、わが純真な青春が葬られた。会社に入り現実に目覚め、会社に人生を支配され、仕事に没頭して、定年を迎えた。そしていつの間にか50年間が過ぎた。

 今振り返ると50年前に夢多き己の青春の亡骸を、自分の手で葬ったのだ。50年前に、純真に夢見た未来のビジョンが、今、どれだけ実現したかを振り返ると忸怩たる思いである。

 同窓会の幹事から連絡があり、今夏、同窓会で卒業50年の祝賀式典と祝賀パーティを開催するとの案内状が届いた。同窓会会長が「最大規模の総会としたい」とあり、一度は出席の回答をしたが、冷静に考えて、アホらしくなって欠席連絡を出した。

 

耳なし芳一の壇ノ浦の怪談

 過去に参加した多くの同窓会を振り返っても、その場の話題は自分の病気自慢、過去の自慢話、親の介護、嫁さん悪口、家庭菜園、孫の話、趣味の話、仲間の死である。話題が後ろ向き、過去の思い出ばかりで、未来への展望の話がなく、創造的でなく、時間の無駄なのだ。

 まるで平家物語の耳なし芳一が語る、壇之浦怪談話である。壇之浦に沈んだ平家の落人が過去の栄華の語る姿である。手を下向きにして「昔は良かった、恨めしや」である。私は、昔の仲間と話をするなら、手は上向けてウェルカム、前向き、未来の話に花を咲かせたい。

 

会社のOB会の怪談話

 会社のOB会の宴会はさらに酷い。会社を離れて数年たっているのに、今だ、当時の上司を「〇〇部長、◇◇専務」と当時の役職でゴマすり如くに呼んでいる人が多い。昔の仲間に、その姿を見ると情けなくなる。その宴会の余興も、趣味の世界が全開なのだ。そんな余興よりも、仲間と語りたいと思うが、幹事が手配をした余興の大騒音で話もままならぬ。

 昔の仲間に「今なにをやっている?」と聞いてもだらけた服装に無精ひげで「別に何もやっていない」と返事をされると寒気がする。その目は死んでいた。昔の上司が、私に卑屈な言葉遣いで話されると不快である。それでOB会に出て後悔をした。今も仕事に燃えている人は、会社OB会などは、出るものではない。私は一回出ただけで、それ以来、参加を止めた。

 

同窓会の無為な計画

 今回の同窓会の計画を見ると、合同同窓会総会、懇親会、同期だけの同窓会の3部構成で、14時から19時までの5時間の行事である。私は昨年、その合同同窓会に駆り出されて実情を見ており、今回の計画を見てアホらしくなり、欠席を決めた。

 昨年は延々と来賓の議員の祝辞、現高校校長の挨拶、現状の進学状況、現と次期の会長の挨拶、現役生徒の校歌の披露が続き、大宴会では聞きたくもないバンドの演奏で、盛沢山(無理だくさん)であった。

 総勢500人の大宴会など、大都会の雑踏の中で孤独を感じる様である。参加者は卒業期が違う見知らぬ卒業生が大多数のため、興ざめである。同窓会に参加するにしても、せめて3時間である。会いたければ個別の人と会食をすればよい。ホテルを儲けさせるためのバンド演奏など不要である。幹事の見識が疑われる。

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価値観の共有

 高校卒業以来50年間も社会で揉まれ、辛酸を舐め自分の価値観が明確になった。今更、己の価値観と異なる人と話を合わせるために、己を殺し、我慢して時間を過ごすのは苦痛である。今は宮仕えの時代ではない。50年前の仲間で、己と価値観を共有できる仲間に出会うのは稀である。だから過去のしがらみで縛られて5時間(前後を入れると7時間)も、価値なき時間を拘束されるのは、拷問に近い。そう思わない人がノー天気で出席する。だから価値観が違うのだ。

 

生前葬90回忌に向けて

 しがらみの同窓会に出ても、今後の人生に新しい付加価値は生まれないと結論付けた。同窓会に出て、聞けるのは同窓会会長の自慢話だけである。今から自分の創造的活動で、価値観を生み出し、新しい世界を作りたい人間には、時間の無駄使いである。その時間を自分の創造活動に向けたい。自分にはまだ、己の生前葬90回忌に向けて、やることが山積みである。

 

2018-08-05  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 4日 (土)

36度の灼熱地獄で園児を踊らせる「鬼の小川敏市長」

園児に火傷

 

 201884日、午前9時54分から約22分間(予定は30分間)奥の細道むすびの地記念館前で、36度の炎天下の灼熱地獄さながらの「おおがき芭蕉楽市」演台で、みつづかこども園の園児が、大垣市行政命令で、「大垣の歌と踊り」を強制的に踊らせられた。園児たちは顔を赤くし(火傷状態)、疲労でいやいやしながら歌って踊っていた。他の園児たちが踊っていた時、控えていた園児の中に、座り込んでへばっていた園児もいた。しかし、この演技は、先生や親が見ているので園児は拒否もできない。歌ったり飛んだり跳ねたりといやいや演技をして、終わった後、園児たちは汗だくである。誰も倒れなかったのが、不幸中の幸いである。 

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02dsc02208  2018‎年‎8‎月‎4‎日、0‏‎9:54

03dsc02216_2  大人たちはテントの下、園児は炎天下。

04dsc02234  園児は飛んだり跳ねたりと汗だく

04dsc02232  体がだるくていやいやの演技。楽しそうではない。顔が死んでいる

子供の悲鳴

 子供は自分の不調を言語で明快に説明できないので、熱中症の症状に罹っている子もいるはずだ。時間がたてば自然治癒するので、わからないだけである。まかり間違えば7月17日の豊田市の生徒が熱中症で死亡した事故の二の舞になる。

 演技が終わった後、たまたま帰り道で園児の母親と並行して歩いたとき、その母親は、「子供の顔が赤くなって心配をした。予定の30分間よりも早く終わってほっとした」と言っていた。

 

直射日光と輻射熱で火傷状態に

 園児たちは背が低いので、地面からの輻射熱を大人より4倍も多く浴びる。輻射熱のエネルギーは距離の二乗に反比例するからだ。だから園児の体温は大人より1度も高いのは生理学的に証明されている。36度の炎天下で、コンクリートの照り返しのきつい舞台で、大人よりはるかに耐力の弱い園児を踊らせるのは、園児を灼熱地獄に追い込むと同じである。傷害罪にも相当する。熱中症で死亡事故にもなれば確信犯の傷害罪か、過失致死罪である。直前の7月17に豊田市小学校生が熱中症で亡くなる事故があったのに、である。危機管理が全くできていない。これは非人道的な行事である。それが拒否できない小川市長行政命令なら、なおさらのこと。命令した当人の小川市長は現地には来ない。エアコンの効いた涼しい場所で快適に過ごしているのだろう。

 園児の皮膚の耐力は、大人とは桁違いに弱い。この時撮った写真を検証すると園児の顔の多くが、赤くなっているので、かなりの園児が火傷状態になったと推定される。僅か20分間の炎天下の踊りである。園児の体は正直で、赤くなった頬と不機嫌な顔や汗だくの顔がそれを示している。

 汗をかく子はまだましだが、汗腺が未発達だと、熱が体に籠り余計に危険な状態に陥る。再度、写真で確認すると、汗をあまりかいていない子も多い。しかし顔は赤い火傷状態なのだ。

05dsc02219  体調不良でへばった子 

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暑さで不機嫌な子

07dsc02252 疲労困憊の子、汗が流れ落ちる 

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 目が助けてと訴えている

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 火傷で赤くなった頬が痛々しい

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 疲労困憊の子、火傷の頬が痛々しい

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15dsc02267  茫然自失のうつろな目

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17dsc02271  火傷の頬が痛々しい

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 行事が終わってほっと。頬の火傷跡が痛々しい

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 行事が終わって茫然自失状態。完全に火傷状態の頬

 

園児は拒否権なし

 幼稚園・小学校の子供達は体が成長途上のため、体温調節機能が未熟で、気温の上昇に対し、汗をかいて体温を下げる機能が追いつかないことがある。自分の体調の悪さを言葉で大人に伝え難い場合もある。特に園児では、自分の身に起きている状況を言語化できないので、周りの大人の注意が必要だ。子供では降りかかった危機に対して無力なのだ。

 2018年7月17日、愛知県豊田市で、小学校1年生の男児が校外学習の後に教室で倒れ、救急搬送されたが熱中症で死亡した。途中で「疲れた」と訴えていたという。自分では危機状態を正確に大人に訴えることができなかったのだ。

 大垣の「芭蕉楽市」のステージで気温が36度を超えて、大半の園児たちがぐったりして、顔が赤くやけどのようになっている姿が、天の声である。子供の体が悲鳴を上げている。小川敏市長にはその悲鳴が聞こえない。その場には、いないのだ。

 

行政の狂気

 大垣教育委員会の通達で35度以上の生徒の課外行事は中止となっているはずだが、教育委員会と大垣市行政は、この「おおがき芭蕉楽市」は大垣市長肝いりの「大垣市制百年記念行事」の一環なので、見て見ぬふりのようだ。日本中の夏の行事の多くがこの災害と言える猛暑で、中止になっている。それなのに、大垣市は園児を命の危険に晒して、自己満足・予算消化として行事を強行している。

 例年は、8月の元気ハツラツ市も芭蕉楽市も暑さで開催しないが、今年は市長の肝いりで、市制百年記念行事として追加で開催された。災害と言うべき猛暑の中で、本来中止すべき行事を別途追加するなど、大垣市長は狂っているとしか思えない。全ては、小川敏将軍様の御指示である。

 園長先生も先生達も、市の職員なので、大垣市長に人事権生活権生存権を握られている。だから、行政命令で出演依頼が来れば、拒否はできない。可哀そうなのは園児である。園児たちはふらふらになりながら、汗だくで不機嫌な顔で踊っていた。

 親たちは、炎天下を避けるテントの下で、子供が炎天下で踊っているのをビデオ、スマホでのんきに撮影に熱中していて、この子供の置かれた非常事態に気が回っていない。それでも親か! なぜ止めさせないのか?

 行事の進行司会の市職員も、テントの中の涼しい中で、園児たちに歌を強制していた。鬼!

 

関係者の無関心

 某県会議員がこの「芭蕉楽市」に顔を出していたが、園児のステージには近寄らず、一瞥しただけで去っていった。スイカの屋台を見て、別の屋台に行きその業者と「私は〇〇理事と知り合いです」と挨拶を交わして去っていった。アホ!

 大垣財界の有力者である某社長も回ってきたが、園児の演技の時は姿がなかった。そんな気配りしかできなくて、会社が経営できるのか。

 

事後の危機管理

 演技が終わった後、私は園長先生と先生達に「子供の命をなんと考えてるんだ」と怒鳴りつけたが、大垣市から行政命令で出演依頼がくれば拒否できない弱い立場だと思うと気の毒になった。しかし、言うべきことは言うべきとして園長に噛みついた。園長は恐縮して、「貴重なご意見ありがとうございます」で終わりである。次回、不合理で非人道的な小川市長の行政命令が来たら、園児のために抗議・拒否をして欲しいと願うだけだ。

 そのあと、帰宅して地元の元校長先生に相談して、市会議員にその場で電話をして、明日の「元気ハツラツ市」での同様の行事で、その対策に動いてくれるように依頼をした。保守系の市会議員は市長とグルなので頼んでも意味がない。その市会議員は動いてくれるという。

 小川敏市長は、明日の高校同窓会では卒業50年記念総会で、同窓会会長を務めるので、気もそぞろであるようだ。子供の命が、危険に晒されていることなど知ったことではないのだ。

 

2018-08-04  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年8月 3日 (金)

天上界で聞いた地獄のいい話

 現在、私は境野勝梧先生の「源氏物語に学ぶ人間学」(全6回コース・主催 致知出版社)を受講している。2018年7月31日に第2回目の講座が、京王プラザホテル44階の広間で開催された。休憩時間中に眺めたホテル47階からの新宿高層ビル群の展望は素晴らしかった。酷暑の地上は地獄のようで、47階は別世界の天上界のようであった。天上界のような静かなロビーで酷暑と世間の雑事を忘れ、しばし物思いにふける贅沢をした。東京の雑踏が嘘のようである。

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 7月31日の講義で、境野先生が少し脱線をして地獄の話をされ、それが受講生の皆さんに大うけであったので、少し脚色(?)をしてお伝えしたい。下記の話は、境野先生が老人ホームから講演を依頼され、そこでお話をされた内容である。地獄の解釈は人さまざまである。下記は境野先生の解釈された地獄観である。

 

老人ホームで講話された「地獄のお話」

 地獄とは罪人が行く所である。一生で一度でも嘘を言うと、地獄行きである。それを閻魔さまが審判されるのでごまかせない。だから皆さん、全員が地獄行きだから、安心(?)して欲しい。極楽に行っても、誰もいないからつまらないし、寂しいよ。極楽にいる人は品行方正・くそ真面目で、会話もつまらない。極楽では、楽園に花が咲き、美しい音楽が流れ、フワフワしてすることがなくボケるしかない。話して楽しい人は、全員、地獄に行っている。

 昔の現代医療技術がない時代は、病気になれば針・お灸で患部を治した。だから昔の人が地獄を考えたとき、現世で心の病気が原因で悪事を働いたら、地獄での霊魂の治療には、その魂を針の山、火の山に追い込んで、突き刺し、焼いて治すとの発想になった。どうせ死んでいるから、死なないので安心だ(?)。

 皆さんは全員、地獄行きだが、安心してほしい。閻魔様は地獄に堕ちた人が全員、善人に生まれ変わり、極楽に転生するまで、最後まで地獄に留まって皆さんを見守り続ける。閻魔様の前身は地蔵菩薩様で、天事異動で地獄に転勤になった菩薩様である。そんな情け深い方が閻魔大王様である。閻魔大王様は魂治療地獄病院の院長先生なのだ。だから安心して地獄に逝ってください。(爆笑)

 

老人ホームの住人の幸せ

 この話を老人ホームですると、大絶賛、大爆笑である。施設の皆さんは感激して「こんないい話は初めて聞いた。是非、来年も来て話をして欲しい」と境野先生に懇願されるという。しかし境野先生は、この話を毎年、この老人ホームでしているとか。老人ホームのおじいちゃん、おばあちゃんは惚けており、1年前の話をすっかり忘れてしまい、毎年同じ話をしても大うけである。だから老人ホームの講演は楽で仕方がないという。(大爆笑)

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 境野勝梧先生 2018年7月31日

 

忘却の恩恵

 人は忘れるから良いのであって、苦しい辛い話をいつまでも覚えていれば、この世は地獄である。毎回、嫌なことが鮮明に思い出されては、その度に死んでしまいたいと思ってしまう。あの世の地獄どころではない。生きているからこそ、苦しみがある。生きていることを喜ばなくては、産んでくれた親に申し訳ない。

 歳をとれば仏様の恵みで忘却の能力が高まるのだ。それが幸せなのだ。定年になり諸般の雑事を忘れて、自分の世界に遊ぶのは極楽である。脳の記憶容量は決まっている。新しいことを覚えるには、昔のことは忘れること。それが自然の理である。

 私も最近は加齢のせいか物覚えが悪く、人から借りた金をすぐ忘れる。貸した金は忘れないのだが………。

 

地獄の恩恵

 人は地獄の試練を受けて成長する。痛みのない訓練・修行では成長できない。だから地獄の世界とは、人が、各人の価値観で作り出したものだ。同じ地獄の苦しみも、そこに意味を見出した人が、人生で価値を生み出す。アウシュビッツ収容所や、シベリア抑留で、そこに生きる意味を見出した人だけが、生きて帰れた。そこにその人の人生観が現れる。

 日本刀も真っ赤に燃えた炭の中で焼かれ、冷水につけて焼きを入れる。それで名刀が生まれる。それで硬さと靭性が備わる。何物も、この世に地獄がないと成長しないのだ。それが現世か来世かは関係あるまい。子供を蝶よ花よと甘やかして育てれば、子供は大人になって地獄に堕ちる。甘やかされて育つと人生の靭性がなく、すぐポキッといってしまう。人の成長に地獄は必要だ。

 

子供の地獄

 世の有名芸人には、金に飽かして子供に多大な金を与え、それが子供のためになると思っている愚人もいる。最近の芸人の子供に、不祥事が絶えないのには訳がある。子供が捕まって、母親が警察に怒鳴り込みに行き「うちの子には毎月50万円の小遣いを与えているから、うちの子に限って不良なんかになるわけがない」と。子供は親の無知で地獄に堕ちたのだ。

 

地獄が描く世界観

 地獄とは所詮、人が考え出した世界。そんなのがあるわけがない。すべて己の心が作り出す世界である。だから地獄は千差万別、人の解釈次第、その土地の文化の違いで、様々な地獄が存在する。日本の地獄と西洋の地獄とは違った様相を見せる。

 幸いなことに、日本仏教は輪廻転生の思想が根底にあるので、地獄の話も怖ろしいようで、なぜか救いがある。日本ではどんな極悪非道の人間でも、死んでしまえば仏様である。日本では地獄にも刑期があって終身刑ではないのだ。一説では、500年周期で転生するという。魂の浄化が終わると転生できるという考えに救いがある。

 ところが西洋の地獄は、最後の審判といわれるように、一度地獄に堕ちると、永久に地獄である。西洋の神の審判は絶対なのだ。東洋の仏教思想は寛容があり、どこか救いがある。しかし中国では、死者の墓をも暴いて鞭打つという怨恨の強さがある。思想の違いで、どちらが幸せか、自問されたい。

 日本の地獄は魂の治療所だが、西洋では魂の懲罰所のようだ。地獄を研究するとその国民性がわかる。同じ人間だからと、その深層心理にある地獄観をわきまえないと国際政治で失敗をする。

 

AIとITが奏でる地獄狂騒曲

 近未来は、周りにサイボーグのような人間に取り囲まれ、会話はスマホ経由、用をするにも瞬時にAIで損得勘定が計算され、無駄なことは一切しない生活となる。ご縁も、瞬時に相手や事象の運勢鑑定、人相鑑定、将来の年収推定、人生履歴の鑑定、で付き合うに値する人かどうかを判定されて、失敗のない人だけとしか付き合わない人生が生まれる。

 それでいいの? 付き合ってはいけない人と付き合って、地獄の苦しみを味わい、なるほど付き合ってはダメだと体得する。やってはいけないことをやって痛い目にあって、やってはいけないことを学ぶ。

 縁とは、用があるから付き合うのではない。用を作りに出かけるからご縁が生まれる。それが極楽の始まり。何もない人生は地獄である。「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」の生活は地獄である。だから私は、馬場恵峰先生の考えに共感して、用もないのに用を作るため世間を走り回っている。少なくともボケ防止にはなる。

 

「源氏物語」とのご縁

 馬場恵峰先生が、源氏物語の誕生千年遠忌で、源氏物語に登場する和歌千首を色紙に揮毫された。私はその写真集を出す計画を進めている。試刷版は完成して、最終版の校正中である。その折、境野勝梧先生の「源氏物語に学ぶ人間学」のセミナーを知り、ご縁を感じて参加した。この講座で、この本に色を添えられる話題が得られれば幸いである。下図は馬場恵峰先生の書展での原本の展示である。色紙はすべて違う絵柄である。

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 2012年12月14日撮影

 

2018-08-03  久志能幾研究所 小田泰仙  

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大垣の子供たちの未来は悲惨(5/5)天の声

 「雨が降れば傘をさす(暑くなれば冷房を入れる)。宇宙根源の法則に則って経営をする。正直なほど素直にものを見る。理にあった経営をする。理に合わない経営は、理がある。」これは私が松下幸之助経営塾で学んだ一番大事な要点である。

 経営の神様と言われた松下幸之助翁は言う「人間が一人前になると、自然の法理が見えてくる。それは世の中の春夏秋冬が分かりかけてからだ。経営なんて難しくない。雨が降れば傘をさす。それだけだ。真夏にオーバー着て走ったらどうなるか。冬にランニング一枚で過ごしたらどうなるか。自然と一緒に人間のリズムにも春夏秋冬がある。僕が正直なほど素直にものをみなさい、というのはそれです。目が曇ってたら、真冬にランニング着ることになりかねない。」

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 その昔、この座敷でこういうスタイルで松下幸之助翁は塾生に講義をした。松下幸之助経営塾ではPHP社長の塾長が講話。 2013年5月18日 PHP京都本社にて

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 2013年5月17日 PHP京都本社にて   松下幸之助塾の会場

 その昔、当時の京都財界人が集ってここで会議をしたおり、松下幸之助翁は、写真の下の椅子に腰かけて会議に耳を傾けたという。

文殊菩薩

 経営の神様の松下幸之助翁は、仏様に例えると文殊菩薩様といえる。学歴があるわけでない、知識が豊富にあるわけではない。腕力があるわけではない。生きる智慧の権現といえるのが文殊菩薩である。松下幸之助翁は文殊菩薩の化身ではないか。

 松下幸之助翁の学歴は尋常小学校4年中退である。天の理を観る力があり、世間の声を神の声として、素直な心と目で聴いたから、松下電器を世界的な企業に育てられた。東大卒であったからではない。

 

声なき声、天の声

 小学校の子供達は体が成長途上のため、体温調節機能が未熟で、気温の上昇に対し、汗をかいて体温を下げる機能が追いつかないことがある。自分の体調の悪さを言葉で大人に伝え難しい場合もある。特に小さな子どもの場合、自分の身に起きている状況を言語化しにくいので、周りの大人の注意が必要だ。子供では降りかかった危機に対して無力なのだ。

 2018年7月17日、愛知県豊田市で、小学校1年生の男児が校外学習の後に教室で倒れ、救急搬送されたが熱中症で死亡した。途中で「疲れた」と訴えていたという。自分では危機状態を正確に大人に訴えることができなかったのだ。

 大垣の小学校の教室温度が34度を超えて、子供たちがぐったりしている姿が、天の声である。子供の体が悲鳴を上げている。なぜ小川敏市長にはその悲鳴が聞こえないのか。子供を見殺しにする市長なんか辞めてしまえ。

 

小川敏市長の呪い

 体温調整機能が完成した成人の小川敏大垣市長と大垣市会議員が、エアコンの効いた部屋で仕事をして、その機能が未発達の大垣の子供が酷暑の教室に放置されている。その宇宙根源の声と現実を聴き観るのが大人の役目である。それをできないのを小人(ことな)という。大垣市長や市会議員は、その声を聴く耳を持たぬ。小川敏市長は、己の退任後の4年後(平成36年)にしかエアコンの設備導入を開始しないという呪いをかけた。今、大垣市民は立ち上がらねば、子供の命が危ない。

 大垣駅前商店街でシャッター通り化の衰退が止まらない。「小川敏大垣市長の政策が間違っている」の天の声である。その声に耳をふさぎ、政策を変えず、エアコンを導入しないのは、小川敏市長の呪いである。小川市長が天の声を聴かないのは、聞く耳がないからだ。それを現代経営学でいえば、「経営のPDCAが回す能力がない」。天の理は単純明快である。天は市長を変えよと言っている。耳に痛いことを聞くのが指導者の務めである。それを聞かないのは職務放棄である。

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眉唾の「大垣市未来ビジョン」 

 大垣市は、現在の子供の教育や環境整備は後回しにして、口先だけでその「大垣市未来ビジョン」に「子育て日本一、子育てなら大垣市、が浸透している」と大嘘を書いている。まるで新興宗教のお題目である。

 現実の姿は、エアコン普及率が岐阜県下最低レベルの2.1%である。エアコン導入の開始は6年後である。岐阜市を含め岐阜県の他の主要な7市は100%である。騙されてオウム真理教に入会して、真実を見て後悔すると同じである。大垣市の宣伝に騙されて大垣市に転居したら大変だ。子育て中に、子供が熱中症で死ぬかもしれない。

 今できないことが、千語万語の言葉で語っても、誰も信用しない。それを言うなら、今やるがいい。今できるのに今やらないことは、明日になってもできるわけがない。それを6年後の話しにしたら鬼が笑う。その時は、小川市長は市庁舎にいないので、責任を取らない。

 教育が大事というなら、なぜ、大垣市制百周年記念行事の予算を見直して、一教室だけでもエアコンを導入する予算をねん出しないのか。水饅頭を900万円も食べて、ギネスで浮かれている場合ではない。

 金がないのではない。市長に智慧がないのだ。3人寄れば文殊の知恵というように、市民の智慧を借り、大垣債を発行してお金を作ればよいだけだ。

 

教育冷遇・お笑いの「大垣市未来ビジョン」

 全143ページの「大垣市未来ビジョン 2018~2022」の冊子で、大垣の未来の子供たちに対する教育に対する記述は、第三章の第三節の第5項(最後から2番目)でしかない。要するに教育は冷遇である。

 

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   表紙    これは何処の未来都市かいな? 表紙がお笑いである。2047年(30年後)の大垣市がこうなるわけがない。

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 第二章の基本構想の6項目中で、人づくりは5番にやっと登場で、冷や飯食いの扱いである。あくまで街づくりが前提の「人づくり」で、そこに学校教育の話しは皆無である。

 その学校教育の具体的ビジョンの頁も、全117頁中で(118頁以降は資料編)、やっと最後の最後に近い103頁目に登場するお粗末さで、形式的な文章がお遊びで並ぶだけである。あくまで抽象的な言葉だけで、目標値はお遊びである。

 

お笑いの目標値

 その目標値の冒頭に、「授業がよく分かる子供の比率」の2022年度の目標値を挙げている。それがビジョン? 常識で考えてもお笑いである。次がまたお笑いで、「体力調査結果の合計値」である。それなら学力調査はどうしてくれるのか? 大垣市の小学校にはエアコンがないから学力が他市よりも低いはずである。だから目標値を掲載できないのか。これはビジョンではない、悪夢である。親が学校に期待するのは、体力より学力を重要視する。だから一事が万事で、お笑いの列挙である。

 

トドメの4行

 ビジョンの最後の最後に「教育施設・設備の整備や、育英資金制度の充実等により、ハード・ソフトの両面から、安心して教育を受けられる環境づくりを推進します。主な取り組み:学校施設及び設備の整備、育英資金制度の充実」と4行の記述があるだけ。6年後の「未来」のエアコン設備のことには全く記載がなく、市民を馬鹿にした文章である。なにが安心なのか。

 現在、育英資金制度がないのか。現実にあるではないか。何を充実するのか、そんなことは枝葉末節の話である。エアコン整備の放置をごまかすための記述でしかない。

 

言うだけ番長

 教育のビジョンは、計画の最後に記載があるので、いかに教育・人づくりを重要視していないかの証しである。小川敏市長は、言うだけ番長である。

 「みんなが成長するまち(人づくり)」と未来ビジョンで言いながら、現実は大垣市小学校へのエアコン導入等の環境整備の記述が皆無で、それが2年後の大垣新市庁舎完成の4年後で、今から6年後なのだ。だれが大垣市長の教育重要との宣言を信じるだろうか。

 

慇懃無礼な言い回し

 この文章は修辞的に、「環境づくり」「推進する」と動詞が二重に冗長に使われており、人を馬鹿にした慇懃無礼な言い回しとなっている。なぜ、「環境をつくります」、と断言できないのか。余分の文字が入れば、その分の印刷代に無駄な税金が使われる。

 皆さんも添付の資料を「鑑賞」してください。これで実施されれば、大垣の未来はない。

 

添付ファイル「大垣市未来ビジョン 2018~2022」

基本構想 P20p20-.jpgをダウンロード

学校教育 p104p104-.jpgをダウンロード

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人への設備投資

 人こそが、大垣の未来を創ってくれる。人を雇い、その人に一千万円を払うのは、その人が一千万円の付加価値を創造してくれるからだ。人こそが、ゼロのものを無限大の価値を創造する存在なのだ。その人材に成長する子供たちを大事にしなくては、大垣の未来はない。

子供への教育投資は、大垣未来創造玉手箱というお宝への設備投資なのだ。それをケチる市長に、大垣市の市長の資格はない。

 

経営者の小賢しさ

 世の経営者はみんな、教育は大事だという。私も前の会社でも、役員から耳にタコができるほど聞かされた。しかし、それを実際に実行に移す経営者は皆無に近い。不景気になれば、真っ先に教育予算を削減するのだ。私は中間管理職として、その悲哀を何度も味わってきた。口先だけで教育が大事だといっていた昔の私の会社は、競合会社に吸収合併されて消えた。それが宇宙根源の理である。小川敏氏の運命は如何?

 

2018-08-02  久志能幾研究所 小田泰仙  

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