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2017年12月

2017年12月 3日 (日)

地獄界を作る鬼

 地獄界はあの世ではなく、この世で己の内なる鬼が創る世界である。他人に対する優越感が暗転した時に受ける絶望感が鬼となり己を苦しめる。他人から見ればなんでもない状況を、己が己を地獄に突き落とす。全て己が作り出した因果の世界である。

 生老病死は世の定めである。人は生まれ老い病気になって死んでいく。それを苦にして地獄の苦しみを味わうのは、己の傲慢である。人に不老長寿はありえない。人は必ず死ぬことを前提に生きていれば、己の体を大事にするし、他人にもむごいことはできない。他人を敬えば地獄は見ない。己の劣等感、傲慢さ、体の酷使が地獄の鬼を作り己を苦しめる。

 組織の頂点を極めても、何時かはその座を去らねばならない。どんなに売れる製品でもいつかは売れなくなる。その栄光を背負っていると、己の鬼の虚栄心が己を苦しめる。

 

地獄に堕ちた元上司

 私の元上司で、飛ぶ鳥を落とす勢いのやり手の人がいた。それ故、敵も多かった。ある不祥事でその座を追われたが、年老いてもその自信過剰の意識は抜けなかったようだ。女もあちこちに作り、奥さんを苦しめたという。初老になり脳出血で倒れて、車椅子の生活になり、奥さんの介護なしには生きていけない体になった。毎日、リハビリが必要な体であるが、外を歩いて己の惨めな姿を近所の敵に見せたくないという。女で泣かされた奥さんが、夫の体を治そうと無理やり外のリハビリに連れ出すのだが、本人は地獄の苦しみであるという。自分は笑われていると思い込み、結局そんな惨めな姿は見せたくないと、自宅を売り引き払って、市内ではあるが別の場所に移転をしたという。老いれば、病気になるもの自然である。それを自分の過去の栄光を背負い、己を地獄の世界に追い込んでいる。そんな過去のしがらみを捨てれば、もっと楽になれるのにと思う。

 

仕事の鬼

 地獄とは己が作り出す心の世界である。鬼は己の心の鏡である。鬼でも「仕事の鬼」には地獄はない。仕事に仕えて命を捧げるのは、本望であり本人にとって天国である。己の見栄や欲望だけで生きてきた鬼畜が、年老いて地獄を見る。己の心に住む鬼と対話して己の欲望を第三の目で見つめるべし。鬼に責任はない、己の心が今の世を地獄か天国かに引導する。「仕事の鬼」と笑われようとも、来世で、積年の功徳を地蔵菩薩が閻魔大王に変身して、自分を審判してくれる。

 「魂(オニ)」に目入れをした岩田明彩絵仏師は仏さまみたいに優しい方である。ところが「目入れの作業にかかると仕事の鬼になる。怖くて近寄れない」とは「仕事の鬼」の松本明慶先生の言葉である。私もそんな褒め言葉をもらいたいもの。

 

「仕事の鬼」明彩師の言葉

 岩田明彩絵仏師は、松本工房彩色部智彩堂に入門時、松本明慶師から「三年で十年分の修行をすること」と約束させられた。その後、岩田明彩師が、仕事で悩み焦りといら立ちで苦境に立って悩んでいたとき、鬼の仮面を被った仏の明慶師が言った言葉、「何を一人でもがいているんや、みんなそばにいるぞ。みんなを信じてもっとたよりなさい」。どんな仕事も一人では成し遂げられないのだ。一人で全てを成し遂げようと思うのは傲慢である。

 岩田さんは、7年前に「明彩」という雅号を拝命して、若い弟子を育てる身になった。岩田明彩師は、それが人を育てる修行であり、心の鍛錬であると己を戒めている。人を育てる為には、鬼にならねばならぬ。一番最初に育てねばならぬのは、己である。

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 魂(オニ) 白檀

 松本明慶先生作、岩田明彩先生の目入れ

 

2017-12-03

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

 

クリスマスコンサート2017

 今日は、大垣フォーラムホテルで、朝9時から表記のリハーサルが3時間半あり、その後、約2時間の本番のクリスマスコンサートであった。私は河村義子先生の依頼で、写真撮影とビデオ撮影を担当した。3つの舞台があり、撮影枚数は1,600枚を超えた。ビデオの録画時間は5時間を超えた。内容が、第一部が音楽、第二部が「子と音cotoneKIDS」の演奏、第三部がバレエのクリスマスファンタジーであった。バレリーナの動きが速く、また舞台が暗いのでカメラマン泣かせでもあった。

 出演は安立優美(ソプラノ)、天野千恵(ヴァイオリン)、天野世理(ハープ)、子と音cotoneKIDS、林葉子バレイアカデミーによる「くるみ割り人形」のバレエである。観客約270名で、お茶とケーキが出て、大変盛り上がった演奏会であった。観客の約半数は子供たちである。大変、アットホームのほのぼのとした演奏会で、肩はこらないが、私は写真とビデオ担当で、これの仕事は疲れた。

 帰宅してカメラデータのPCへの取り込みが20時ごろに終了した。コンサート内容については、後日、ブログに上げます。

 

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2017-12-03

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2017年12月 2日 (土)

胸を張って浄土に行こう

 自分は、いつ死んでも胸を張って浄土に行ける覚悟があるかを自問したい。死は時を待たずに訪れる。佛様は、こちらの心の準備の整わないときを見計らって御呼びをかける。最近の天災・テロ・事故・犯罪を思うと、何時死に直面するか分からない。何時死んでもよいように、心を洗っておきたい。

 それには日々、精一杯の生を味わって生きる、やりたいことを先の伸ばしせずやり切る、佛様に後ろめたい生き方をしない、悩まない、こだわりを持たない、感謝をして生きる、人として当たり前に生きる、である。それは二千年前の賢人の教えでもある。後悔しない日々であれば、悟りの世界は近い。

 

未練

 若くして死ぬと未練が残る。練習不足で本番を迎えると、未練と後悔が湧く。若くして死ぬとは、生木を引き裂くように苦しんで死ぬことになる。やるべきことをやり切って、枯れるように倒れると苦しまないで死ねる。それは命を全うしたことへの佛様からのご褒美である。プロジェクトの命を全うしてこそ、仕事のやりがいが生まれる。佛様に顔向けできないような状態で、浄土に行っては、胸を張れない。

 

成仏

 どんなプロジェクトにも、生があり死があり、浄土がある。どんな演奏会でも2時間が経てば、その演奏会の終幕(死)を迎える。中途半端に取り組むから、未練を残して、その結末を迎える羽目になる。やるべきことをやり尽くしてこそ、納得して浄土に行ける。能の舞台でも、演奏会の舞台でも、任せられたプロジェクトでも、その幕が開いている間だけが舞台ではない。舞台に上がる1歩、1歩が演技の一部なのだ。幕が上がるまでの必死のリハーサルや準備活動が、本番舞台の前哨戦なのだ。その過程を全力で取り組んでこそ、本番でよき演技、演奏、仕事が成し遂げられて、成仏できる。その過程が、全て己の人生修行なのだ。それでこそ、次の界に行ける。中途半端に取り組むから、地獄界に突き落とされる。

 

安らかな眠り

 『幸福論』の著者として有名な法学者のヒルティは、77歳で死ぬ直前まで毎朝、早く起きて、著述活動をしていた。その日の朝も、朝の執筆活動をして朝の散歩にいった後、珍しく疲れたといってソファーに横たわって、そのまま眠るがごとくに息を引き取った。当時の77歳とは、今の97歳に相当する。

 ゲーテ曰く「よく働いた一日が、健やかな眠りを誘うように、よく働いた一生は安らかな死を迎える」。

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馬場恵峰師の明徳塾での講義でこの件の話を聞き、色紙を書いて頂いた。2012年9月

 

2017-12-02

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局を共闘で弾く

小坂井聖仁 完全帰国記念コンサートでの闘い

出会い

 私は小坂井聖仁さんとは2017年10月8日、名古屋・八事のTIMMコンサートで、出会った。私がTIMMの写真を撮るために来て、その前の食事会のおり、彼と名刺交換をしたら、珍しい名刺であったので、何様ですかと聞いたら、ヴァイオリニストです、であった。そのご縁で今回の彼のヴァイオリン・リサイタルに招待された。それならと写真撮影の許可をお願いして、快諾頂いたご縁である。まさに袖すり合うご縁で写真撮影が決まった。魚心あれば、である。私も高校生の時から、一眼レフに200mmの望遠レンズを付けて飛行機の離着陸写真を撮っていた。今思えばなんと贅沢な遊びをさせてもらったことか。今は亡き両親に感謝です。だから私は50年来のカメラマニア・飛行機マニアである。今の主の撮影対象は、馬場恵峰師の書である。音楽家の撮影を始めたのは、グランドピアノを購入して、ピアニスト河村義子先生に就いて習い始めた3年程前からであり、修行として場数を踏みたいという魚心があった。

 小坂井聖仁さんは、会場の最後部席の私の席のすぐ横で、TIMMのチェロ演奏に聞き入り、しきりに感心していた。私はチェロには素人で、その良さがまだ分からない。ヴァイオリンとチェロは、共通する事項が多く、弾き方に共感をされたようだ。この時の演奏は、小ホールでアットホーム的であり、至近距離で演奏が聞けたのが良かった。

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小坂井聖仁 ヴァイオリン・リサイタル

 2017年11月27日、名古屋市民芸術祭一環の「小坂井聖仁 ヴァイオリン・リサイタル ドイツより完全帰国の記念に」の写真撮影のため、14時30分に名古屋・伏見・電気文化会館のザ・コンサートホールに到着した。開演は19時であるが、リハーサル風景の撮影を中心にするため、この時間の到着である。来年1月13日のドレスデンフィルハーモニー弦楽三重奏団ニューイヤーコンサート用に手配したフルサイズの無音シャッタの一眼レフSONYα9と100~400mmズームレンズの入荷(納期2週間)が、この日に間に合った。当日がこのカメラのデビュー戦となった。これもご縁です。

 

 攻めと受けの闘う姿勢

 今回、初めてヴァイオリニストとピアノの協奏を撮影して、その演奏時の体の姿勢の変化に驚いた。その動きが音楽なのだ。ピアニストの動きとは、全く違う雰囲気を伝えてくれる。カメラの被写体としては、ピアニストより魅力的である。ピアニストが不動明王様なら、ヴァイオリニストは阿修羅様である。

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Page-turnerとの信頼関係

 譜面をめくる人(Page-turner)に全面的な信頼を寄せて、優しい眼差しで譜面を見つめて演奏をする田村響さん。それに応えるべく頁をめくるPage-turnerの真剣な眼差しが厳しい。本番と何も変わらない。

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音を観る観音菩薩様

 リハーサル時の大ホールでの観客は、小坂井聖仁さんの母親と調律師とだけである。その方はプロの音楽家(声楽)で、観客の第三者の立場で佛の啓示のような意見を述べられていた。観客席の真ん中に座って、慈愛に満ちた観音菩薩様のような眼で、リハーサル演奏の音を観ていた。見守ると言うのは、最高の教育の姿である。いつも自分を護る観音様は黙って自分を見守ってくれている。有難いこと。この姿から亡き母を思い出した。合掌。

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本番前のひと時

 二人での長時間のリハーサルが終わった後、正装に着替えて、田村響さんはピアノの最終練習に取り組んだ。その田村響さんの肩を小坂井聖仁さんがさりげなく優しく揉む。「肩が柔らかいですね」と一言。笑みを浮かべて、練習の場を去る小坂井聖仁さん。今までの厳しい表情が嘘のよう。

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後ろ姿が語る

 田村響さんの最終練習の終了後、小坂井聖仁さんはヴァイオリンの最終練習に取り組んだ。仕事への取り組み姿勢は後ろ姿に現れる。その長時間のリハーサルが終わり、ホッとした時の後ろ姿。日本での帰国記念デビュー戦としてリサイタルの本番に向けての精神統一中の姿である。背筋がピンと伸びて美しい。

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 小坂井聖仁さんの精神統一が終わりリハーサルも満足に終わり、思わず笑みが出る瞬間。今から1時間後、開演です。観客席にはに誰もいない。

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瞬時の観察眼

 本番で田村さんと譜めくりの絶妙の連携を見る小坂井さんの眼差しが鋭い。

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演奏とは「音」を狩る闘い

 演奏の一瞬を切り取ると、曲を弾くとは「局」をこなす闘いであることが伝わってくる。「弾く」とは弓で「たま」を弾き飛ばすと書く。演奏者の目は、狙った獲物を狙う「音」の狩人の目である。

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四位一体ゾーン

 下図は、三人の「局(曲)」との闘いの一瞬の姿である。その闘いの相手は己である。どれだけ限界のゾーンに近づけられるか。ヴァイオリニスト、ピアニスト、Page-turnerの精神の高揚が一致した瞬間。三人の心身が完全統合したゾーンの姿である。これは演奏家達の魂が昇華した一番美しい姿である。

 小坂井聖仁さんが演奏に熱中して、田村響さんの姿に頻繁に重なってしまうので、カメラマン泣かせであった。私は、この三人の姿が重ならない一瞬を狙うため、全神経を集中させた。私もゾーンに入った。

 横山大観画伯は、弟子に「海辺の絵を描いたら、そこから波の音が聞こえなければならない」と指導したと言う。私は撮った写真に、音楽の響く情景が表現されるレベルを目指して取り組んでいる。

 後で事情を聞くと、田村響さんの姿が、写真上で小坂井聖仁さんに覆われても、ヴァイオリンの音の響きを優先して、もっとピアノに近寄れと助言をされたという。その道のプロは、音の響きが最優先である。

 この日は15時から21時まで連続での撮影となった。カメラ4台を使い分け、同時にビデオ撮影もこなし、老体に鞭打ち約1,000枚の撮影をした。中腰での長時間の撮影はかなり疲れる。リハーサルでの撮影では、大ホールの中を自由に移動して撮影できたので、よき写真が多く撮れた。それでも演奏家達の集中が妨げられないように、細心の注意を払い忍者のように移動をした。

 本番での撮影は、観客の迷惑にならないように、親子ルームからのガラス越しの撮影となった。そのため、カメラアングルと撮影位置が制限されて、リハーサルよりは撮影枚数は少なく、魅力的なシーンを撮影するには制限があり、少し残念であった。

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タイトルの意味

 「局」とは、つとめ、職責、才能、勝負、曲がる、を意味する漢字である。解字では、尺と句(音)からなる。尸(尺)は人体の象形。音符の句は、曲げるの意味。背を曲げるの意味を表す。また區(区)に通じて、区切るの意味を表す。 今回のコンサートで、体全体を使ってヴァイオリンを奏でる小坂井聖仁さんの姿から連想して、表記のタイトルにしました。仕事の一つである演奏も譜めくりも写真撮影も、人生での闘いです。そこから何を創造するかが問われている。

 小坂井聖仁の公式サイト www.kozakaikiyohito.com/

 2017-12-02

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2017年12月 1日 (金)

親子ルームの初体験

 2017年11月27日、「小坂井聖仁 ヴァイオリン・リサイタル」のビデオとカメラ撮影時、リハーサルでは、客席で撮影をこなした。リハーサル後の本番直前に、事務局から撮影を困ると言われて困惑した。その後、この演奏会の主催者の社長と事務局担当者と打ち合わせをして、事情を話したら、それならと「親子ルーム」に案内をされた。私には最初、「親子ルーム」が理解できず、ともかくその部屋に行って驚いた。そこはビデオ撮影用の部屋で、むずかる子供を持った親子連れ用の観客席であった。今まで生きてきて、何回も音楽ホールに来ているが、その存在を知らなかった。世の中、知らないことばかり。

 

親子ルームの設備

 そこは観客席の一番後ろの出入り口の横にあるガラス越しの部屋である。そこにはキャノンプラグの外部マイク出力端子も装備され、外部マイクの入力がビデオに取り込めるのだ。これなら、わざわざ無音シャッターのカメラを買わなくても済んだのと、少し後悔した次第です。しかしガラス越しのため、生の音は少し籠って伝わるので、その外で聞くのとは少し雰囲気が異なる。それでもリハーサル時に演奏を堪能しているので、それは諦められた。それで安心してビデオ撮影とカメラ撮影ができた。ただし内部に椅子はなく、靴を脱いでの中腰での写真撮影となって、少し疲れた。この場所では、カメラ音や周りに気にせずに撮影ができるが、撮影ポイントが限定されるので、カメラアングル的には制限がある。

 

文明国の条件

 途中で本当に親子連れが入ってきて、少し驚いた。また実際に演奏途中で子供がむづかり始めて少し焦ったが、マイクはこの部屋の外に設置されているので、ビデオに子供の声が録音されることはないので安心して構えていた。それでも母親がかなり気にして、しばらくして子供を連れて出て行ってしまった。私よりも母親の身になって考えると、子供連れの母親は、音楽鑑賞で周りに気兼ねをして大変だと思い至った。音楽ホールで、こういう設備があることは素晴らしい。聞いてみたら、大垣スイトピアセンタの音楽堂でもこの親子ルームがあるとのことである。子供を育てるのは大変だ。それをサポートする設備があってこそ、文明国であると納得した。

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 入り口の横のガラスの部屋が「親子ルーム」

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 「親子ルーム」からの眺め

3p1040055_3  子供連れの母親。横の三脚は私のビデオカメラ

2017-12-01

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渡る世間は鬼ばかり、鬼から身を守れ

 自分の考えを明確にし、他の邪悪な思想に取り付かれないように門番の役目をするのが四天王の役目である。目を見開き、高い視点で物を見よと教えている。目や舌や鼻が食物の危険から身を守るために四天王の役目を果たすように、心に入ってくる思想の正悪を、四天王として判断する力を付けねば生きていけない。それが出来ず滅んでいった民族は数知れない。歴史を学ばない民族は滅ぶ。

 自分達とは思想の違う民族が、世界には跋扈している歴史事実を認識しないと、無防備に正道を歩くだけでは、鬼に食い殺される。自宅でも寝るときは鍵をかけて戸締りして寝るではないか。非武装中立とは戯言である。きちんと戸締りをするから泥棒が入ってこない。プロレスラーに喧嘩を売るヤクザはいない。必要最低限の自衛の戦力は必要である。トヨタの中興の祖 石田退三氏曰く「自分の城は自分で守れ」。

 

鬼の思想

 アーリア人は「俺たちが一番優秀な民族だ」、「人のものはオレのもの」、「俺の考えが正しいと思うのは正しい」、「だから他の民俗は我々に従うのが当然」との考えで歴史を邁進してきた。力による征服で、従わなければ虐殺、よくて土地の強奪、奴隷として搾取である。原住民との言葉は、「未開の」とのユニアンスがあり、優秀な民族と自負するアーリア人は、罪の意識もなく、やりたい放題で原住民の皆殺しの戦術で世界を席巻していった。そして現在の西洋社会が構築された。中華思想も同じ傾向である。中華思想も自分達が一番偉いとの考えが根底にある。紀元前2000年から続くこの人種の思想はDNAとして今も払拭されず今も鬼畜のように生き延びている。今の中東の紛争は、植民地政策による後遺症であり、アーリア人同士の内輪揉めである。和を重んじる民族には理解不能である。

 

アーリア人の民族皆殺し歴史(中国人はアーリア人と同じ思想)

 イギリスがアテスカ帝国を皆殺し、滅亡

 スペインによるインカ帝国を皆殺し、滅亡

 英国人(現米国人)のアメリカ原住民のインディアン600万人の殺害

 イギリスが侵略しオーストラリア原住民を皆殺し、植民地として統治

 アメリカでのハワイ原住民の皆殺しでハワイ併合

 列強諸国によるインド、アジア、アフリカの植民地化

 英国は中国人にアヘンを売りつけ、因縁をつけてアヘン戦争を起した

 米軍は東京大空襲での民間人10万人焼殺、原爆での20万人の虐殺した

  東京大空襲は山の手周囲を焼夷弾の炎で逃げ道を無くして爆弾投下

  広島、長崎の原爆は米軍歴史資料で爆発実験の項に分類される。

 米軍の日本本土無差別爆撃で、非戦闘員の死傷者100万人

 ヒトラーはユダヤ人を1700万人虐殺 

 スターリンは2300万人を虐殺

 中国共産党は4000~6000万人の自国民、他国民の虐殺

 中国共産党によるチベット民族皆殺し作戦進行中   120万人の虐殺

 中国共産党による仏教寺院の破壊活動(仏教の平和主義は共産党に不都合)

 

狂祖の誘惑

 思想に犯されて誤った道の進んだ優秀な若い人たちが、つい最近の日本にも存在した。誤った思想に洗脳されて、地下鉄サリン事件を起こした。普通の人よりも頭の良い子達が、である。学校もまともに出ていない狂祖に取り付かれると、正悪の判断もできなくなり、地獄の餓鬼道に堕ちる。

 

拝金主義狂

 現在は拝金主義狂という鬼に取り付かれた人が氾濫している。拝金主義狂に犯されると、貧富の差が拡大した格差社会が出来ると、社会不安が増大し暴動が発生し、最終的には社会が崩壊する。拝金主義者は己の立っている社会が崩壊すれば、己も生きていけないことが分からない人たちである。拝金主義とは、金勘定だけがよくできる餓鬼どもが罹る病気である。

 体に悪いことを知りながら、金儲けのために添加物まみれの食品を売るメーカは死餓鬼ではないのか。

 金や権力、強欲の本能に目が眩むとどれだけ非道の鬼になれるか、歴史が教えてくれている。その歴史を学校では教えてくれない。学校で習う歴史は、あくまで西洋の視点で、勝者の立場で見た歴史観である。洗脳教科書である。もっと目を見開いて物事を観よと広目天は言う。在れども、その気になって、持てる知識を総動員して視点を変えてみないから、真実が見えない。西洋史観に騙されてはならない。自分を守るのは自分である。自分の城は自分で守らないと家族が殺され国が滅ぶ。

 

我が家の犠牲者

 先の太平洋戦争で、父の5人兄弟のうち、2名が戦死している。父も戦後2年間のシベリア抑留を強いられた。シベリア抑留では一説に10万人の邦人が極寒の地に散った。ロシアの鬼畜の火事場泥棒による戦争犯罪である。戦争は身近にある。

 

仏の顔を被った鬼

 世には仏の顔を被った鬼が跋扈している。それを見極めないと、地獄に突き落とされる。先に民主党政権時代は、その仏の仮面をかぶった鬼に騙された最悪の時代であった。「コンクリートから人への投資」とかの美しい言葉で、日本国民は騙され、民主党が政権を取った。民主党は未来に投資をしない政策で、経済は停滞を極め、不況が続き、消費税増税でとどめを刺した。対米関係が最悪になり、防衛で隙をみせため中国が尖閣諸島でやりたい放題の事態となった。仏の仮面を被った鳩山に騙されたわけである。

 先に社会党は、非武装中立をうたい、平和をもたらす仏の真似をして国民を騙した。自衛隊を罵倒し、北朝鮮による拉致犯罪の真実は知っていても、オタカさんは知らんふりを通した。もし今、社会党を信じて、自衛隊を無くし、非武装中立をしていたら、尖閣諸島はおろか沖縄も中国に強奪されていたであろう。

 

仏の顔を被った鬼ではないか?

 大垣市も仏の仮面をかぶった市長が市政を混乱に陥れている。節約第一で、未来に投資をせず、チャラチャラした見栄えの良い行事にばかり金を使い、大事な治水や道路行政、経済活性化への投資には、金をケチる。その挙句客寄せパンダ如きドローンでの菓子まきで人身事故を起こし、その責任を下請け業者に押し付け、責任を取らない。その17年間の治世の挙句の結果が、大垣経済の停滞・没落である。

 大垣市には改革が必要だ。大垣市長の現在の政策は、一見美しいが、それは成長を阻害する政策ばかりである。それなら何もしない方が良い。保守的なトヨタを変えた奥田碩社長(1995~1999年)は「変わらないことは悪いことだと思え」「改革をしないなら、せめてその邪魔をしないで欲しい」「任務に忠実なだけではいけない。リスクは覚悟の上で収益の向上に積極的に挑戦せよ」と訴えて、トヨタを変えた。それからがトヨタが世界一への道を歩み始めた。

 現大垣市長は節約第一主義で、金を使わないことが己の任務と勘違いとしている。節約と投資の違いが理解できないようだ。それでいてトンチンカンな行事には、業者に丸投げで大金を使う。会計報告も無い。未来への投資をお願いすると「金がないんですよ、だからやれません」である。「仕事の鬼」は許されるが、「鬼のような節約」では大垣市は浮かばれない。

 

大垣の未来

 今の小川敏大垣市長の政策のままならば、大垣は没落の道へ一本道である。これこそが、仏の顔を被った鬼ではないのかと思わざるを得ない。現世代はその影響が少ないかもしれないが、鬼のような政策が、未来の市民である子供達を、確実に地獄に突き落とす。今のままの大垣市政では、大垣市の未来は暗い。一見、見た目は美しいが、誰も歩いていない街並み、お洒落なお店が見当たらず、詳細に見れば汚い街並み、日本一汚れたトイレ、朽ちた観光施設、安物買いの銭失いの設備、役人天国の市政、老人ばかりの歩行者、子供の不良の増加、買い物難民の氾濫、介護・医療産業だけが興隆、市民税の高騰、商店街の衰退、工業の衰退、名古屋のベットタウンに没落である。それを食い止める政策が急務である。

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 「大垣市長よ、大垣の未来のビジョンを書いたこの巻物を観よ」と広目天は目で言っているようだ。(松本明慶大仏師作 高野山中門に納佛直前の姿 松本工房にて2015年10月8日)

 

2017-12-01

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