胸を張って浄土に行こう
自分は、いつ死んでも胸を張って浄土に行ける覚悟があるかを自問したい。死は時を待たずに訪れる。佛様は、こちらの心の準備の整わないときを見計らって御呼びをかける。最近の天災・テロ・事故・犯罪を思うと、何時死に直面するか分からない。何時死んでもよいように、心を洗っておきたい。
それには日々、精一杯の生を味わって生きる、やりたいことを先の伸ばしせずやり切る、佛様に後ろめたい生き方をしない、悩まない、こだわりを持たない、感謝をして生きる、人として当たり前に生きる、である。それは二千年前の賢人の教えでもある。後悔しない日々であれば、悟りの世界は近い。
未練
若くして死ぬと未練が残る。練習不足で本番を迎えると、未練と後悔が湧く。若くして死ぬとは、生木を引き裂くように苦しんで死ぬことになる。やるべきことをやり切って、枯れるように倒れると苦しまないで死ねる。それは命を全うしたことへの佛様からのご褒美である。プロジェクトの命を全うしてこそ、仕事のやりがいが生まれる。佛様に顔向けできないような状態で、浄土に行っては、胸を張れない。
成仏
どんなプロジェクトにも、生があり死があり、浄土がある。どんな演奏会でも2時間が経てば、その演奏会の終幕(死)を迎える。中途半端に取り組むから、未練を残して、その結末を迎える羽目になる。やるべきことをやり尽くしてこそ、納得して浄土に行ける。能の舞台でも、演奏会の舞台でも、任せられたプロジェクトでも、その幕が開いている間だけが舞台ではない。舞台に上がる1歩、1歩が演技の一部なのだ。幕が上がるまでの必死のリハーサルや準備活動が、本番舞台の前哨戦なのだ。その過程を全力で取り組んでこそ、本番でよき演技、演奏、仕事が成し遂げられて、成仏できる。その過程が、全て己の人生修行なのだ。それでこそ、次の界に行ける。中途半端に取り組むから、地獄界に突き落とされる。
安らかな眠り
『幸福論』の著者として有名な法学者のヒルティは、77歳で死ぬ直前まで毎朝、早く起きて、著述活動をしていた。その日の朝も、朝の執筆活動をして朝の散歩にいった後、珍しく疲れたといってソファーに横たわって、そのまま眠るがごとくに息を引き取った。当時の77歳とは、今の97歳に相当する。
ゲーテ曰く「よく働いた一日が、健やかな眠りを誘うように、よく働いた一生は安らかな死を迎える」。
馬場恵峰師の明徳塾での講義でこの件の話を聞き、色紙を書いて頂いた。2012年9月
2017-12-02
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
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