ma_時間創出1001の磨墨智 Feed

2020年9月16日 (水)

磨墨知553 .先送りすべからず

 思いついたことは、とにかく手を付けてみよう。まず一歩先進、これが時間の無駄を無くす。

 プレーボーイの成功の秘訣は、まず良いと思った女に声をかける、とか?

 

 思いついたことは、潜在意識でできると判断したから、思いつく。その思いつたことで、出来なかったことは、能力不足ではなく、先送りしてやらなかっただけである。やるための智慧を出さなかっただけである。「できなかった」とは言い訳である。

 人生という時間は有限である。やらなずに先送りしているうち、タイムリミット(死)になってしまう。やって失敗の後悔よりも、やらずに死の床で後悔する方が、辛かろう。人は失敗から多くを学ぶ。

 

 失ったお金は、また稼げばよいが、失った時間、機会は取り戻せない。

 

 やってみて問題が出れば、修正すればよい。いままで躊躇していて、やってみたらあっけなく解決したことが多くある。その一歩踏み出す勇気がなくて、多くの機会を失っていたことに後悔である。自分がかわいくて、傷つくのを恐れていたのだろう。それは小さな問題だ。

 

経験の反映

 今までの先送りの失敗の痛い経験があるから、今回(2019年末)の第二の家を買うのに躊躇がなかった。ダメなら、その家を売ればよいと達観していた。多少の損の恐れはあるが、不動産だから価値がゼロになるはずがない。時間を無駄にするデメリットよりは、後悔をしないメリットと経験を積めるメリットの方が大きいと判断した。

 ミシガン大学テクニカルライティングセミナー参加(1994年)も、やってみて正解であった。それは「参加する」という決断と少々のお金で解決した。その後の私の人生を変えてくれた。それで世界が海外に広がった。

 

新しい道

 決断して行動するから、新しい道ができる。自分の歩いた跡が道になる。先送りしては、道はできない。人の道は、「動く歩道」ではないのだ。自分が道路上で、止っていれば、道は死ぬまで止っている。ニュートンの第一法則である。止っていれば、自動的に定年になり、「終わった人」になり、後は認知症への目的地に運ばれる。

 

死の床の後悔

 人間の犯す過ちは、人間で解決できる。しかし先送りして、やらずじまいになったことは、死の床では、取り返しがつかない。

 そういう決断をしない生活をすると認知症にまっしぐらだ。認知症になれば、死の床でその後悔もないから、安心だ(?)。仏様は、死にゆく人には優しい。仏様にそんな気を使わせるのは、私は気が引ける。

 この件で友人が呆れていたが、呆れられたので、この決断は正解であった。多くの人が賛成することは、常識的すぎて面白くない。常識からは、常識のモノしか生まれない。ODA佛教の試行は、超こだわりのオダワリ一辺倒である。

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 馬場恵峰書

 

2020-09-16 久志能幾研究所 1752 小田泰仙 

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月15日 (火)

磨墨知401. 尖った「絵の具」を増やそう

 人生のキャンパスに絵を描くため、自分が使える「絵の具」の種類を増せば、時間効率とその出来栄えの深みが増す。絵の具とは、自分の才能、努力、資源である。それプラスが、好きこそモノの上手なれである。それに対するコダワリの深さである。私はそれをオダワリと称している。

 私は今まで多くの趣味に手を出して楽しんできた。それも深追いである。それこそが自分の「絵の具」を増やすことだ。人並みの「絵の具」では、人並みの成果しか出ない。私は仕事と趣味にこだわりを持ち、本業に精進できて幸せである。人生で、会社と家の往復だけで、金儲けだけに過ごした日々だけは、つまらない。

 

労働基準法に反旗

 私はもっと働きたいのに、2000年ごろから社会問題となって過労死防止、労働基準法順守とかで、会社は働きたくても働かせてくれなかった。休む権利があるなら、働く権利もあるはずだ。おカネの問題ではないのだ。日本中で定時になったら「早く帰れ」と大合唱である。労働と仕事を区別できない労使が私の邪魔をした。労働とは頭を真っ白にして肉体を酷使して成果を作ること。だから現場の労働は、厳密に労働時間管理が必要である。

 しかし研究等の仕事は、労働基準法とは別なのだ。頭を使って創造物を造るのは、奴隷労働とは違うのだ。だから創造性ある仕事はすればするほど、面白い。時間の経つのを忘れさせる。それを制限するのはおかしい。

 その仕事の疲れをいやすため別分野の没頭が、本業を更に輝かせてくれる。私にはそれが飛行機の写真撮影や模型製作、音楽演奏、演奏撮影、美術館巡り、読書、エッセイ作成であった。ODAのオダワリのこだわりは半端ではないと自負している。

 

宝物の言葉のお返し

 ミシガ大学でのテクニカルライティングセミナーの体験記をまとめた『ミシガ大学セミナー体験記』(1994年)を関係者に回覧したら、K君からの感想文で(1999年頃)、宝物の言葉をお返しにもらった。下記はその返信文。

 

 私が子供のころに先生から教わって、いまだに頭に残っているという教えが、「絵の具をけちけち使っていては、良い絵は描けない」です。それを「社会人として実践するには、絵の具(時間と労力は知力)を出来る限り注ぎ込むことと解釈し、これまで頑張ってきました。しかし、この様なやり方はただ自分をすり減らすだけで、“良い絵”を描くことにはなっていなかったと今は感じています。

 “絵の具”をたくさん出せるように、自分をキープする大切さ(=自己啓発)を思い出させてくれる大きなきっかけを『ミシガン大学体験記』から感じることができ、大変ありがたく思っています。」

 

「絵の具」

 「絵の具」の話は、初めて聞いた「いい言葉」である。絵の具はふんだんに使ってこそいい絵が描けるはずだ。今は「なにもそこまでしなくても」と言われるくらいやらないと、「お客様」に感動してもらえない。お客様が「そこまでしてくれるか」のと涙を流さんばかりに喜んでくれるまでやるのがプロだ。そのためには絵の具を使うのに躊躇してはならぬ。絵の具は多量に、かつ多種を使うべきだ。仕事をやっていく上で、我々の後工程、回りの人は全てお客様と認識すれば、自ずとやるべきことは明白になる。

 

誰にも負けない「絵の具」

 さらに大事なことは、だれも持っていない絵の具を手に入れること。それも尖った絵の具である。それを使って誰にも描けなかった人生絵を描くこと。既製品の絵の具では、並みの人生絵しか描けない。

 

固まった絵の具

 既製品の絵の具でもいいから、頭を使った絵の具の使い方をしなくてはならない。いくら体の汗をかいて頑張っても、頭を使わなかったため、定年後、終わった人になる悲劇がある。その後が認知症である。絵の具を使わないから、持てる絵の具が固まって、チューブから出てこないのだ。その悲劇が頻繁に新聞紙上を賑わすようになった。

 

固まらない絵の具

 私の絵の具の特徴は、長期間かたまらないこと。50年たっても私のその趣味に対する情熱は変わらず、固まらない。私には他に自慢する能力は無いが、この継続性だけは人に自慢できる。

 

教育に金の糸目を付けない

 何処にもない尖った「絵の具」を入手するためには、私は「教育投資には金の糸目をつけない」である。私は昔、本屋、新聞等で目についた本やテープ等を見境なく買いまくっていた。結果として、月に本代を4~5万円使っていた。その20年後の結果が4トンの蔵書である。そのままでは床が抜けるので、床を補強して書庫を造る羽目になった。この蔵書が、私の「絵の具」の一つである。

 K君は、「絵の具」を「時間と労力と知力」と定義したが、これを私は、人生キャッシュフローと定義する。いかに自分の成長のために、お金を使うかだ。

 お金で幸福は買えないが、不幸を避ける段取りと知恵はお金で入手できる。その知恵の集大成が「本」である。なぜなら、本には著者の「時間と労力と知力」が主役されている。その本の内容を自ら手に入れようとすると膨大な時間と人工がかかる。それがたった千円前後で入手可能なのだ。だから、その点で自著『ミシガ大学セミナー体験記』にも、付加価値が高いと自負している。それをT君の感想文で再確認できた。

 

 人生を豊かにする道具は、尖った絵の具である。

 

2020-09-15 久志能幾研究所 1751 小田泰仙 

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月14日 (月)

磨墨知590-3. 何を置いて逝くのか(改定)

老いて、追いて、負うて、於いて、擱いて、

 人間は一生をかけて(80年×365日=29,200日)、何を現世に置いてあの世に旅たつのか。自分は何をおいていくか、自問しよう。

 土から生まれた肉体は、いつかは土に帰る。土でできた肉体は大きな器である。最初は小さな器も、学びで大きくなる。その器に何を入れて昇華させるのか。それが人間の生き様であり、成果である。それが時間の創造である。

 かけた時間に相応して、人生が決まり、昇華する価値が決まる。人は何にお金を使い、何に時間を使い、誰に出会い、何を志したか、何時の時代に、何処で生きたかで、人生が決まる。人生は決して夢幻ではないのだ。

 

何を追うのか?

 己が生きた証を後進が継いでくれる。そのために、生前に何を追うのか?

何を追うて死ぬのか?

 河村義子先生は、大垣に音楽の文化を根付かせようと音楽に命を捧げた。その精霊の魂を後進が受け継いでいる。

 

何を負うていくのか?

 人は重荷を背負って長い坂を登っている。人生で何を背負っていく決意があるのか? それは途中で逝っても悔いのない重荷なのか? その覚悟が曖昧だから、人生が曖昧になる。

 私の枕もとの壁に、徳川家康公の家康遺訓の軸を掲げている。目覚めと就寝時に、嫌でも目に入り読んでいる。

 

 人の一生は重き荷を背負って遠き道を行くが如し。(家康遺訓)

 

何を擱いていくのか?(おいて  例:箸を擱く)

 自分にとって、人生で一番大事なことは何か? 死とは、それを擱いて逝くのだ。それは何かを認識して、死の直前まで、それを擱かずに全力投球しよう。私は死んだらペンを擱く。

 

何に於いてなら死ねるのか?

 人は金のためには死ねないが、義のためなら死ねる。何の義に於いて、この世を生きるのか。

 

 やることをやり切れば、後は野となれ山となれ、でよい。それが言えれば、良き人生であったと、安らかに永眠できるだろう。

 昨年、癌を患い、この項が頭にこびりついて離れない。それで以前(2018年10月26日)に公開した内容を改定した。

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人生ホテルのチェックアウト

 人は人生ホテルに、裸でチェックインして、裸でチェックアウトする。どんな立派なホテルに泊まっても、いつかはチェックアウトしなければならぬ。それも自分の意思ではなく、ある日突然に追い出される。その時、身につけるのは経帷子のみ。その時、己は此の世に何を置いて逝くのか。それを意識して生きよう。

S   馬場恵峰書

2018-10-26   初稿

2020-09-13 改定 久志能幾研究所 1750  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月13日 (日)

磨墨知260.. 「醜い姉妹」に騙されない。情報を一カ所に集める

 捜し物はあちこちに分散するから探せない。入り口を一つにして検索するシステムにしておけば、探す時間が短縮できる。詐欺師に「醜い姉妹」手法で騙されることも無い。

 

「醜い姉妹」

 イギリスの心理学者ジェームズ・リーゾンは「醜い姉妹」というおもしろい概念を提唱しています。童話『シンデレラ』では、真夜中にガラスの靴を落としていったシンデレラを、王子様が捜して回りますが、とうとうシンデレラ宅にたどり着いた時も、「醜い姉妹」たちがガラスの靴の持ち主は自分たちだと言い張ります。

 つまり、目当ての物を探し当てようとしているのに、「醜い姉妹」が邪魔をしている。「醜い姉妹」とは「記憶の混乱」です。試験前に、一生懸命にたくさんの項目を覚えて行っても、たくさん覚えた記憶がノイズになって、試験で答えるべき項目を思い出せなくする。似たような項目は、さらなる混乱を引き起こします。これが「醜い姉妹」です。

 それらを1つに絞り込めば、「醜い姉妹」の問題に悩むことはない。メモに限らず、ノートでも書籍でも預金通帳でも、似たような複数の物を管理手段として使う限り、「醜い姉妹」の問題は現れる。探している時間は価値を生まない時間である。

 

写真データのデータベース化

 私は最近、50年前のフィルムをスキャンして、年度ごとにデータベース化をして、印画紙、フィルム、パソコンデータを一つのフォルダーに集めた。昔の行事、家族の写真が時系列に整理できて、目的の写真を探す時間が劇的に減った。

 

大垣市を他市と比較

 大垣市長の小川敏の言うことを他市のデータを集め、それと比較すると、その嘘がすぐ分かる。騙されとは、人生時間を泥棒されることである。

 小川敏は「大垣は子育て日本一」と宣伝しているが、それを他市と、市民一人当たりで比較すると、「醜い姉妹」の嘘がすぐ露見する。情報を一カ所に集め、同じ単位で比較すればよい。

 

大垣市の教育は県下最低レベル(2019年)

         予算総額  一人当り予算  児童生徒数 

         千円   大垣100で    人

 多治見市    735    158    8,862  

 岐阜市     529    114    32,074  

 可児市     517    111    8,352   

 大垣市     465    100    14,400  

 各務ヶ原市   445     96    12,525   

 刈谷市(愛知県)918    197    11,120 

 

大垣市・岐阜市の職員給与比較

      一般職     教育職

 大垣市   665.62万円  529.61万円  2016年

 岐阜市   639.87万円  738.09万円  2014年

  給与.comより https://kyuuryou.com/city/212016/?nendo=2014

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2020-09-13 久志能幾研究所通信 1748  小田泰仙

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2020年9月12日 (土)

磨墨知334 逃げ回る人を追いかけない

 そんな人を相手にするのは時間の無駄である。人生を前向きに受け止める人と付き合おう。縁のない人を追いても無為である。縁なき衆生は度し難し、である。それは佛様が、その人と付き合うと末が危ないから、次の人にしなさいと啓示をくれている。そう解釈しよう。

なにせ一人が自分の頼みから逃げても、他に頼みに行く人が、日本国内だけでも、その一人以外に1億2千万人もいるではないか。

 

 逃げる相手は、人とは限らない。志望校の受験失敗、資格試験の失敗、プロジェクトの失敗、失恋でも同じで、求めるものが逃げていく。

 しかしヤケにならず地道に精進すれば、もっと良いことを仏様は授けてくれる。それを逆縁の菩薩という。かえってそれが逃げてくれたほうが、結果として自分は幸せになれるのだ。私の人生は、逆縁の菩薩様とのご縁ばかりであった。それが私を成長させてくれた。

 

2020-09-12 久志能幾研究所通信 1746  小田泰仙

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2020年9月11日 (金)

磨墨知332 頼まれたら断らない

 私は頼まれたら、断らない主義である。当然忙しくなるから時間を創る工夫をせざるを得なくなる。ますます時間活用の技が磨かれる。相手が自分の能力、実績を認めてくれたのだ。相手が自分を認めてくれた事実には、誠意で応えよう。そこから縁が始まる。

 できないと思われる人や、やってくれそうもない人には誰も頼みに行かない。断られれば、それでその人の人間性が分かるから、大発見である。

頼みごとは忙しい人に頼め。

 

裏切り者

 これはと思ってある人に頼みに行って、断られたことがある。その人は人の期待を裏切ったのだ。裏切り者である。私は、その人には二度と頼みごとをしない。そういう人は、負の運命の陰を背負っている。

 それが原因で、縁を切った親戚もある。今までその人の異常さに気が付いていてはいたが、縁切りする機会がなかった。よい縁切りの機会であった。それから私の運勢がよくなった。

 

2020-09-11 久志能幾研究所通信 1744  小田泰仙

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2020年9月10日 (木)

磨墨知331 ドラエモンを演じよう

 ドラエモンのように、どこでもドアの精神で人生を突撃しよう。運命のドアのカギは相手ではなく、自分が持っている。それに気が付くのが、悟りである。迷って百年、悟って一日である。迷い人との「差」を取るから、サトリである。人の付加価値とは平均からの差である。

 貯めこむ役者でなく、与える役者を演じよう。そこから縁が生まれる。縁には時間という利子がついてくる。

 私はドラエモン精神で、オダエモン(ODAエモン?)を演じている。ODAとは政府開発援助機構の頭文字である。だから名前のように援助しなくてはならぬ。

 

テクニカルライティングとのご縁

 私はテクニカルライティングを篠田義明教授から学んでいるうち、本場のミシガン大学のテクニカルライティングセミナーに行きたくなった。しかし行けるのは科学工業英語検定試験1級合格者だけだと思い込んでいた。知り合った後藤悦夫先生から、行く意思と金さえあれば(費用100万円)、誰でも受講可能であると分かりその気になった。残った問題は、会社で1週間の休暇の許可を得ることだけであった。それは簡単に解決した。それで私はこのプロジェクトのドアを開けて、科学工業英語のドラエモンになった。

 そのご縁で科学工業英語検定試験1級も獲得できた。当時、この検定試験制度が始まって17年目で、通算389番目であった。この試験は全国で年に5人くらいしか合格しない難問であった。43年たった現在でも、累計合格者は600人くらいしかいない。いくらTOEIC900点の英語達人でも、論理性がないと合格しない。

 私は3年の苦節でやっと合格できた。時に47歳である。当時、もう歳で記憶力が低下だなんて言っていられなかった。一回目は自費だが、2回目のミシガン大学セミナー参加は、会社からのご褒美として出張として行けた。それもその3年前にドラエモン精神でドアをこじ開けた結果である。

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 ミシガン大学ケンブリッジハウス(寄宿舎)。

一週間宿泊した。 1994年7月30日撮影

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 馬場恵峰書

 

2020-09-08 久志能幾研究所通信 1742  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月 9日 (水)

磨墨知330 窓際のトットちゃんを演じよう。

 空想力、FC(Free Child)こそ創造の源である。何にでも興味を持つこと。まず、何でも興味を持ち、なぜなぜと大人に質問を浴びせる。それが縁の始まりだ。そこに金儲けのネタも埋まっている。ご縁には時間が一杯詰まっている。縁を活かせなくなった時、それは単に生き永らえている状態に陥る。

 生命力溢れて、何でも興味を持つことである。生きていくためには興味こそが命である。人生で、仕事で、趣味で、興味を持てなくなった時、人生、仕事、での死が訪れる。

 「俺には関係ない」という言葉ほど、人生の窓を閉める言葉はない。それこそ窓際族の言葉である。それは頭の老化の始り、認知症への道である。青春とは歳の多寡ではない。「窓際のトットちゃん精神」があるか、である。

 

 英語版の「窓際のトットチャン」(黒柳徹子著)を海外のお土産として贈ると、楽しい縁の時間が得られる。読んで楽しい本は海外でも受けます。

 1985年、私がスェーデンで家庭の夕食に招待されたとき、この本をお土産として進呈した。後日、その家の奥さんから、感激のお礼の手紙を貰った。この本が教える教育の本質は、東西変わらないと感じた。

 本書は、40年前のベストセラーで国内で800万部を超えた。

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2020-09-09 久志能幾研究所通信 1740  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年9月 8日 (火)

磨墨知686-1. 「金はいくらでも出すから治して欲しい症候群」に罹らない

 嘱託で動いている70歳の人が、末期ガンを宣告され、「まさか、何で私が」と絶句した。藁にも縋るように、医師に「金に糸目はつけないから治して欲しい」と懇願したが、医師は拒絶した。

 それで治せるならノーベル賞である。絶望した患者は、「それでもお前はそれでも医者か、藪医者だ」と罵詈雑言を医師に浴びせて泣き崩れた。何処にでもあるドラマである。

 70 歳といえば人生の酸いも甘いも味わいつくしたはずである。緊急事態に重過すると、それが破綻して本性が露見する。他山の石としたい事例である。

 

癌という病気

 癌は幸せな病気である。国民の半分が癌になり、3割が癌で死ぬ時代である。癌が発症するまで長生きできるようになった証しである。その幸せを忘れて、じたばたするのは、わがままである。

 癌は死ぬまでに、かなりの時間的余裕がある。突然、3.11の津波に流されながら、なす術もなく死を迎えた方に比べれば幸せである。死の前にやるべき後片付けの仕事は多い。それをできず、亡くなられた方の無念がしのばれる。

 世界一の企業価値に成長させたアップルの創業者ジョブズ氏のすい臓がん、日本の名医が治療を担当した昭和天皇の腺癌、どれをとってもお金でガンが治った例はない。それを知っていても、「金に糸目はつけないから治して欲しい」というのが人間の性である。

 生あるものは必ず死を迎える。それを意識して70年間をどう生きたかが問われる。死は急に決まったわけではない。生まれたときから、死は必然である。それから逃れた人はいない。

 

時間価値

 人の時間価値は、(残りの人生価値)÷ (残り時間)で表される。

 残り時間が沢山あるうちに、健康に留意して過ごせば、終末段階で悔いがない。人生の最期で焦っても、手遅れである。そうならないように、日頃の健康管理と精進が時間節約となる。

 人生を正しく過ごすのに必要な設備は、体と頭脳と塊の健康管理である。体の健康管理を怠っては、頭脳の明晰化も魂の浄化もない。死んでもいいから健康でなければならない。死は人間には司れないが、健康管理は自分の手で制御できる。この世は因果応報。原因のない事象はない。その人の生活がガンを患うような生活習慣を長年続けて来たに過ぎない。

 金に糸目をつけないお金があるなら、なぜ、金に糸目をつけず健康を維持するための投資をしてこなかったのか。病気や癌に100%ならない保証はないが、少なくともその確率は減らせたはず。

 

狂った生活、狂った食生活の改善

 酒は飲む、タバコは吸う、夜遊びはする、飽食はする、運動はしない、ストレスは溜める、医師を罵倒する、これで、病気にならないのがおかしい。仏様も「そこまでは面倒を見られないよ」と仰せです。

 自分の生き様の間違いに1日早く気づけば、1日の儲けである。それが大きな時間創出である。間違いに気づく前に、癌が発見されたに過ぎない。癌は身内の正常な細胞が細胞分裂で暴走を始めることで発症する。不規則な生活のツケが細胞に回され、弱い細胞が悲鳴を上げて、細胞分裂の暴走が始まる。身内の細胞をいじめた咎である。全ての原因は自分である。

Photo  馬場恵峰書

 

2020-09-08 久志能幾研究所通信 1738  小田泰仙

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2020年9月 7日 (月)

磨墨知620 神様は上から見ている

 天知る、地知る、汝知る。

 自分が何をしているかは、天は観ている。己も知っている。地獄の閻魔大王も閻魔帳をつけながら見ておられる。見ている人は観ている。自分の行動を一番、よく知っているのは自分である。その努力の結果は、自ずと決まる。自分を助けるのは自分である。ン十年後の閻魔大王様の審判の場で、胸を張れるようにしよう。

 

臨終

 38年後の薄れ逝く意識のなかで、108年間の出来事が、走馬灯のように走り逝く。そこに後悔の念を起こすまい。やって失敗した事例に後悔はない。よき想い出である。しかしやらずに過ごした計画には、大きな後悔が付きまとう。臨終の枕もとで、満足した出来事が浮かべば、良い人生だったと満足できる。素晴らしい人生ではなかったかも知れないが、素晴らしく楽しむ生き方をした、と自分を褒めてあげられるようにしよう。

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 上図は2013年9月28日8:55、大垣市立図書館開館前に玄関の前で、時間を惜しんで参考書を広げる中学生の姿である。学期末試験の直前の先週土日は大勢の学生(約50名)が開館前の玄関前で行列を作っていた。160席の学習室が満席であった。しかし今日の9月28日は3名の学生が待っているだけである。試験が終ったので多くの学生は現金なものである。先週の大混雑が嘘のような1週間後の土曜日の朝の風景である。

 

 この方を「観自学菩薩」という。菩薩とは涅槃・真理を求めて修行中の仏の姿である。いい姿を見せてもらった。この子達が将来、私の年金の原資である税金を多く納めてくれるだろう。年金菩薩様でもある。感謝。私も生涯現役で頑張らなくてはならぬとの決意を新たにした。

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  馬場恵峰書

2020-09-07 久志能幾研究所通信 1737  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。