o-大垣を良くする階 Feed

2018年7月14日 (土)

恐ろしい大垣都市伝説(7/7)市長の死因

 私は神仏を信じているが、神仏を考えずに、理性的・論理的に考えれば、大垣市長の現職死は当然であると思う。けっして濃飛護国神社の祟りとか、怒りではない。市民のために働いている市長に、ご先祖が祟りをするわけがない。

 この8年間、小川敏大垣市長の働き方をみて、歴代の大垣市長の働き方を推察すれば、大垣市長が連続現職死をするのは確率的に当然であると思う。要は、働き過ぎなのだ。大垣市長は、大垣市政に命をかけたのだ。それを医学的、経営的、歴史的に検証する。

 

1.医学的検証

事例1

 2018年7月1日の元気ハツラツ市の当日、真夏を思わせる32度を超える熱い日中に、小川市長は、スーツ姿で大垣駅前大通りを「社会を明るくする運動」のメンバーと一緒にパレードをしたと聞いた。私はその後に駅前商店街に出かけて、1時間程、アーケード街の日陰で身軽な服装で写真を撮っていたが、帰宅したら疲労困憊で、思わず横になったら寝てしまった。私と同世代の大垣市長には、当日のスーツ姿のパレードはキツイお仕事であったと推察した。

 

事例2

 大垣市長は、休日の土日ごとに行事があり、早朝から準備をして、その行事に出て挨拶をしなければならない。全国で、熱中症で1042人が搬送され、5人が死亡した7月14日、38度の炎天下の日にも、いくら屋内といっても、スーツ姿で雛壇に座ってかしこまっていなければならぬ。市民に賞状授与もせねばならぬ。それがやりがいがあり、情熱を傾けられる仕事だとは思えない。愚劣な議会対応もせねばならぬ。付加価値の生まない答弁をしなければならぬ。

 大垣市長には休みがないのだ。厳寒年初の消防出初式では、半日も出ずっぱりで消防団員と一緒に行進して、また子供達の鼓笛隊の演奏の礼を受けねばならぬ、また立ちっぱなしで全市の消防団行進・50数台の消防車の行進の栄誉礼を受けねばならぬ。その後、文化ホールで消防団関係者の表彰式である。こんな過酷な勤務状態では、現職死も当然である。それを5期も続けるのは自殺行為である。こんな状況では、大垣の長期未来戦略を考えることもままならぬと思う。付き合いの行事の挨拶は、部下に任せるべきだ。

71dsc02061 表彰状授与 7月14日

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 大垣市消防団出初式 2011年1月9日

 

事例3

 元気ハツラツ市では、幼児向けのアンパンマンショーで、大規模小売店のアピタが出演料の一部を負担してくれるというので、義理として顔を出さねばならぬ。横から見れば、なんとアホなことに時間をつぶしていることかと。市民として、もっと大事なことに時間を割いてほしい。多忙な市長なら、緩急をつけて、本当に必要な行事だけに出ればよいものを、と思う。

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 2018年5月6日 元気ハツラツ市 アンパンマンショー

 

 組織の長として、そんな仕事は部下に振ればよいのだ。市長の一番大事な仕事は、大垣の未来の戦略を練り、布石を打つことである。それなのに、市の行事を全て、己が担当しようと思うから、過労死となってしまう。歴代の大垣市長の死因は、行事の多さと責任感過剰から来る過労に起因する病気だと推察した。大垣市長にこそ、働き方改革が必要である。そうやって時間を創出して、大垣市の未来を考える為に心血を注いでほしい。

 

2.経営的な検証

 部下に任せるという経営思考が欠如

 大垣市の友好都市であるシュトゥットガル市(人口65万人)では、市長は5人いて、仕事を分担している。第一の市長は選挙で選ばれ、後の4人の市長は行政が選ぶ。小倉満市長が懇意であった第五市長は、文化・スポーツ分野の担当である。ある人が、文化の関係でシュトゥットガルト市を表敬訪問したら、第五市長が自ら車を運転して迎えに来てくれたという。大垣市と大違いである。

 その昔の大垣市政では、副市長と教育長が、市長代理で各行事に出て挨拶をしていたという。今の小川市長が出しゃばりすぎなのか、副市長と教育長が怠慢なのか。小川市長は、大垣市の都市伝説(市長の現職死)を守るために自殺願望なのか。

 「何を悩んでいるのや、仲間は大勢いるぞ、仲間を信じて仕事を任せればよいのだ。」とは、大仏師松本明慶先生の岩田明彩師への温かい励ましの言葉である。

 

3.市民の民度も市長現役死の一因

 大垣市の行事で、大垣市長が来て挨拶しないと、納得できないという昔の古い考えの御仁が多いようだ。それが大垣市長の命を縮めている。

 大垣市は、市長が行事に全て出ないといけない伝統を作っている。しかしその場での小川敏市長の話は長いだけで、何が言いたいかさっぱりわからない。ビシットした要点の言葉がなく、話が長いだけなのだ。秘書室が作った原稿は、市長は、自分が東大出だとの意識があるようで、秘書室を見下して、ほとんど原稿を見ずに勝手に喋っている。だからとりとめがなく、話が長いのだ。だから疲れるのだ。

 小川敏市長は、テクニカルライティングを学んでいない。文章の論理構成とは何かを学んでいない。私のテクニカルライティングの師である篠田義明教授は、現在、東京大学院大学で、日本語の論理構成を教えておられる。篠田義明教授は国会議員にも、日本語のテクニカルライティングを教えてみえる。小川敏氏は、1974年卒だからその講義を聞いていない。だから話が論理的でない。

 それを市民や市会議員が指摘できなないのだ。それを認識できず、行事に必ず市長の臨席を望むのは、民度が低いのだ。

 東京都の石原慎太郎元知事を見てごらん。週に3日しか登庁しなかったと、今頃になって週刊誌が書き立てている。それで石原東京都政が回っていた。大垣市も、各行事に大垣市長の「ご臨席」は不要である。その方が、行事が早く終わって、行政の効率化ができる。大垣市長にこそ、働き方改善が必要である。

 

4.歴史的見地から

 司馬遼太郎の歴史小説を読むと、なぜこの人が、ここで死ぬのかという歴史の場面が多く出てくる。その死は歴史的に必然であったと考えるのが、正しい歴史の見方のようである。その人の歴史的役割が終わると、サムシンググレートが命を召すようだ。歴代の大垣市長も、同じように未来への布石を打って、去っていったようだ。今の市長は、まだそのお役目が済んでいないようだ。何もやっていない?

 

市長稼業 vs 大垣市の経営

 市長稼業は易しい。行政マンの敷いたレールに乗って担がれたお神輿に乗っていれば、任期という時間は過ぎていく。しかし市長稼業と大垣市の経営とは別モノである。行政マンはお役人として当たり障りのない行事を運営することに徹している。減点主義で、ミスはしないよううにお役所的仕事をこなす。

 大垣市民のためになり、大垣市の未来のためになり、大垣市民・企業に利益をもたらすのが行政としての経営である。そうでなければ、市民として大垣市に住む価値がない。経営とは難しい仕事なのだ。会社経営でも、社長には簡単になれるが、経営者になるのは難しい。

 

経営とは

 経営の「経」とは、縦糸として過去から現代、未来につながるの歴史の糸と現代の世相の横糸が織りなす布を織る機械を表わす。

 「営(營)」とは夜の陣中にめぐらすかがり火の意で、宮は部屋の多きい家屋の意である。「営」は周囲にかがり火を巡らせた陣屋の意味を表す。だからその陣屋(大垣市)が繁栄していなければ、正しい経営をしていないのだ。

 小川敏市政は、大垣市を正しく経営しているのか? 大垣駅前通りの以前は活気があった火が消えているではないか。一見、大垣市の人口が増えているように錯覚するが、合併した町村の人口を除けば、実質的に人口は減っている。産業もこの5年間でマイナス5%の衰退である。近隣他市の公示路面価は上がっているが、大垣市は実質的に下落である。小川敏市長が大垣市を正しく経営していないためである。

 

2018-07-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月13日 (金)

恐ろしい大垣都市伝説(6/7)徘徊観自罪菩薩

第13代 小川 敏   平成13年4月23日就任  在任中

 

両極端の反面教師

 2001年に小倉満市長の死去の後、第13代小川敏市長が、小倉市長が残したハコモノ行政の過剰推進で積みあがった財政赤字の削減に取り組んだ。しかし、またその小川敏行政が極端過ぎて、水道の蛇口を閉めすぎるがごとく、大垣を衰退させた大きな要因となってしまった。経営者は投資と抑制のバランスを考えて、長期ビジョンを持って大垣経済の舵取りをしなければならぬ。小倉市長と小川市長に両極端の反面教師を見る。

 

菩薩とは

 菩薩とは、如来に成るべく、衆生を導きながら修行の道を歩いている仏様である。多くの過ちを犯しながら、表を見せ裏を見せながら、逝く人生である。その姿を衆生に見せて、反面教師の役を担われるのが徘徊観自罪菩薩である。両極端の方策の間を右往左往と俳諧しながら歩く。しかし自ら犯す罪は、如来のような高い智慧の見識がないと観えない。まるで小倉満前市長、小川敏現市長のようである。いくら頑張ってもあと40年は生きられない。いずれは仏様になる身ではあるが、今は人間界をさ迷う一衆生である。

 

死刑囚

 2018年7月6日、オウム真理教の死刑囚の多くは、最期は悔い改めて刑場に消えた。中川智正元死刑囚は、「長い間、お世話になりました」と支援者の会長に別れを告げた。彼らは、新興宗教の極端な思想の恐ろしさを教えてくれた仏様である。

 私は、1980年頃、仕事に悩み、人生に悩み、オウム真理教教祖がその布教活動の手本にしたという某新興宗教にハマりかけたことがある。その教祖さえも、オウム真理教の広報手法のパクリ行為に呆れたという。私は、その教組の本を読んで共感して、桶狭間の近くの小高い丘の上にある教団支部施設で教祖の法話を直接聞くため訪問した。そこの教団職員が、訪れた信徒でもない私に対して「お帰りなさい」であり、そこで最初に違和感を覚えた。その教祖の法話を聞いて、それで目が覚めた。教祖の説法の論理がおかしいのだ。説法の基本は、「〇〇すると地獄に堕ちるぞ、△△しないと地獄に堕ちるぞ」である「そのためには寄進をすればよい。本来なら、自らお寺に来て奉仕活動をすればよいが、忙しい皆さんはそれが難しいから、それに相当する額の寄進をすればよい」である。理路整然としているが、その前提条件がおかしい。それで私はその教団から距離を置き、未来の地獄の淵から生還した。その教祖もあれから40年程が経ち、週刊誌広告欄に登場する姿に老いを感じる。宗教法人の維持管理・経営も大変である。

 

死刑宣告

 我々は、生まれた時に死刑宣告を受けている。限られた人生で、何を行うか、何を行わないか、何のために生きるか、を問われている。生の時間は有限なのだ。自分の人生の真の敵は、怖れと慢心で傲慢になりがちな己の心なのだ。

 お釈迦様は、あの世が有るとも無いとも、何もおっしゃらず、旅立たれた。ただ「死ぬまで精進せよ」とだけ言い残された。今に残る仏教の言い伝えは、弟子の伝聞である。

 

裏金工作

 小川敏市長は、小倉満市長が残した100億円とかいう負債を減らすために、「奥の細道結びの地記念館」建設費を公称40億円としながら、実質的に20億円しか使わなかった。残りの20億円は負債返済の裏金としたという。これは小川敏市長自らが自治会長達に、大垣市の財政の苦しさとして話したことである。だから「奥の細道結びの地記念館」が安っぽいのだ。下衆の勘ぐりで、他にも同じような不正があるのではと邪推してしまう。なぜ正々堂々と公表しないのか。変な細工をすれば、そこで不正が発生する要因となる。ただでさえ、疑惑に満ちた市の行事予算の使い方である。

 大垣財政が苦しいといいながら、小川敏市長は豪華な大垣新市庁舎建設を進め、大垣市政100周年記念行事で愚劣な行事に3億円余の散財と、やることが支離滅裂である。節約王として名を馳せた小川敏市長は今いずこ?

 そのように裏で仕事を動かす事例が、今年2018年1月に発覚した彦根市役所耐震工事での不正である。大垣市は、市の事業内容は、執行中の行政予算は公表しないという条例を作っている。これでは行政はやりたい放題である。これこそ汚職の温床である。

 

血を見る経験

 小川敏氏が大垣市長に就任した平成13年(2001年)は、私が前職で生産技術開発部隊から技術開発センターの技術企画部に移り、会社の業務改革に取り組んだ時期である。総論賛成、各論反対の多くの抵抗勢力の反撃にあい、頓挫して涙の多くの学びを得た。抵抗勢力曰く、「まず隣の課からやってくれ、その後から私の課はやるから」である。

 「世界的規模のIT企業でさえ、多額のIT投資の受注獲得のため、汚い手を使うことを目のあたりにした。そういう経験を経て、今の私があると感謝している。汗をかき、涙を流し、血を見ないと人は成長しない。

 

英霊に感謝の祈り

 私は2010年、大垣に帰郷後の5年間程、ほぼ毎日、雨の日も雪の日も風の日も「四季の路」の約5kmを散歩して、その帰り道に、濃飛護国神社に寄って参拝して、大垣・日本の為に命を捧げた英霊に感謝の祈りを捧げていた。私は約2年間で、俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」で歩いた2400㎞と同じ距離を踏破した。

 その途中の2014年7月28日、眼の手術を受けた翌日、シベリア抑留慰霊碑「恒久平和の碑」のダモイの会名簿に、偶然、父の名を発見して厳粛な気持ちになった。現在、日本と大垣が平和に暮らせるのも、先人の国と郷土の為に命を捧げた英霊の戦いがあってのことだ。

 現在は、脊柱管狭窄症で腰を痛めたので、散歩は中断しているが、機会があれば参拝をして、大垣の英霊に感謝を申し上げている。

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 濃飛護国神社 2013‎‎1‎‎4‎日 0‏‎9:12

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 恒久平和の碑 2015‎年‎1‎月‎2‎日 0‏‎8:04

 

サムシンググレート

 大垣市長が1947年の初代から12代連続して、現職のまま死亡するのはただ事ではない。大垣市行政には、根本的な問題があるか、人智では計り知れない力が及んでいるようだ。その人智では計り知れない存在を、村上和雄筑波大学名誉教授は、サムシンググレートという名で定義している。人の命が生まれるのは、1億円の宝くじが1億回連続で当たるくらいの奇跡だと村上和雄先生は説く。その人の命を生まれさせる力がサムシンググレートである。

 

神佛の戒め

 この世で起こることは偶然ではなく、必然である。1回は偶然でも、それが二回以上続けは、必然の理由が存在する。人間の浅智慧では、それは分からない。神仏・大自然の前で、人は無力である。無力であると悟ることが、宗教の教えである。得たものは無、有るものも無、それが般若心経に書かれた神髄である。ただ頂いた命を大切に生かすのが、サムシンググレートからの教えであり、佛の教えである。

 

現代人の傲慢さ

 それに対して現代人はあまりの傲慢である。世界最高峰の山を登頂したくらいで、「人が自然を征服した」などと言う傲慢さがある。水まんじゅうギネス挑戦で、たかが1500組余で、世界記録だと自慢して大騒ぎをする姿勢に傲慢さがある。だから神仏が、2週間後に世界記録消滅の鉄槌をくだした。人が大自然やご先祖、隣人への感謝を忘れ、傲慢になった時、何ものかが人に牙を剥く。

 

大垣市の治水怠慢

 神仏、サムシンググレートは人間の怠慢に対して、鉄槌を下すことがある。水害の多くは、行政の治水の怠慢からくる災害である。いつ何時、この2018年7月に西日本を襲った豪雨災害に、大垣市も襲われるやも知れぬ。まだ昨年2017年10月に大垣市を襲った超大型の台風21号での水害の爪痕が記憶に生々しい。台風に伴う大雨で、降水量は325ミリ(上石津町下山)を観測して、荒崎、静里地区など、大谷川や水門川周辺地域などへの浸水被害や、アンダーパスの水没事故が発生した(小川市政は、「道路の通行規制が発生した」との表現で治水怠慢を誤魔化した)。家屋被害は床上浸水4棟、床下浸水168棟、浸水(非住家)29棟、一部破損4棟である。

 その「なにものか」とは、神であり佛であり、サムシンググレートと呼ばれる存在なのだ。これだけ科学技術が進歩しても、人間は細胞一つさえ作り出せないのだ。謙虚さを忘れ、暴走する現小川敏大垣市政に、神をも畏れぬ傲慢さを垣間見る。

 

2018-07-13  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月12日 (木)

恐ろしい大垣都市伝説(5/7)ウィーンのご縁

文化面の功績

 小倉満市長は文化芸術にも理解があり、ドイツのシュトゥットガルト市との友好都市として交流を深め、日本の百選に選ばれている大垣市の音楽堂建設やベーゼンドルファーのピアノ導入にも尽力された。小倉市長はシュトゥットガルト市の第五市長と特別の交流があり、両市のスポーツ交流にも尽力された。

 1987年には、小倉市長は、ウィーンの楽友協会資料館館長のビーバー・オットー博士を大垣に招いて、ウィーンとの音楽交流をされた。それは戸田伯爵夫人極子さんとブラームスとのご縁から始まる物語である。詳細は、当ブログのカテゴリー「m_大垣からウィーンへ架ける六段」に掲載中です。

 私はそのご縁で、2017年4月、ウィーンに出かけ、楽友協会資料館館長のビーバー・オットー氏に表敬訪問をさせて頂いた。近い将来、この関係の本を出版予定です。なかなか進まず焦ってはいます。

 

折角のご縁をぶち壊し

 1987年に小倉満市長が作ったウィーンとの音楽を通しての友好関係を、小川敏市長は放置し、結果としてぶち壊したことになる。そのご縁は、大垣藩最後の藩主である戸田共氏公の戸田極子伯爵夫人が作ってくれたご縁である。戸田共氏公は明治天皇の意向を得て、時の明治政府が抱えた欧米との不平等条約解消の為、ウィーンで外交官として奮闘していた。戸田極子伯爵夫人が、日本文化の広報のため、ウィーン公邸での夜会で琴を弾いて外交活動を陰で支える奮闘していた。その夜会に出席していたブラームスが、その琴の音色に耳を傾け、その時の資料が発見させたご縁で、楽友協会のビーバー・オットー博士が大垣を訪問された。ビーバー・オットー博士と大宮真琴教授が、この歴史資料の発見に尽力されためである。

 楽友協会は、毎年、ニューイヤーコンサートが開催されるウィーンの音楽の殿堂である。その時はプレミアがついて、そのチケットは10万円でも手に入らない。

 人は付き合う人を見れば、その人の人格がわかる。いわば上流階級の楽友協会と付き合うか、下流階級のギネスと付き合うかで、おおよそその人のレベルが断定できる。

 

戸田極子伯爵夫人が草葉の陰で泣いている

 なぜ折角の大垣市政百年行事で、3億円余も散財するのに、ウィーンの楽友協会とのコラボレーションがないのか。なぜその行事の目玉が、爬虫類の脳を刺激する「水まんじゅうギネス挑戦」なのか。戸田共氏公と戸田極子伯爵夫人が草葉の陰で、泣いている。

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54p037scan0039 挨拶される小倉満大垣市長(当時)1987年5月2日

 「ウィーンと大垣をつなぐ音楽のかけ橋」(大垣市刊)より

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 ビーバー・オットー博士 近影  楽友協会にて  2017年4月24日 

 私とのツーショットの写真で、私の姿はカットしました。

56p1000812  ウィーン楽友協会  2017年4月24日

ご縁の伝承

 私は前職では技術者として、得た技術、技術ノウハウは後進に伝えるように、文書や図面で残すようにしてきた。

 「自分のしてきた事を、いつか人に伝えれなかったら、何もしてこなかったと同じである」 アーウィン・シュレジンガー 

 私も先人の文書、書籍、図面から多くを学び、それを発展させて技術開発をすることができた。ゼロからでは、進歩に制限がある。これは技術だけでなく、全ての分野に通じる話だと思う。政治も経済も文化・芸術も同じである。先人が切り開いた境界、環境、歴史、ご縁を伝承してこそ、効率的な技術、文化、遺産、伝統、ご縁の伝承があると思う。

 大垣藩最後の藩主戸田氏共公が築いた大垣の文化・教育思想、ウィーンで築いた日本文化伝承の遺産、先代の市長が築いたウィーンとの友好関係、それを無に帰するのは、歴史の財産を破壊する犯罪行為である。それでは後進はゼロから始めなければならぬ。

 市長職には、先代が築いた業績、ご縁の伝承がある。それを全て否定して、自分の新しいことをやるのは、いかにもカッコいいが、多くの先人の財産を捨てることになる。変えてはならないものがある。変えなければならないものがある。その取捨選択のレベルで市長の能力が問われる。小川敏現大垣市長は、小倉満前市長のすべてを否定しているようだ。それでは文化は育たない。だから下品な食い物競争での世界記録を目指す爬虫類の行いになってしまうのだ。

 

ベーゼンドルファー工場を見学

 その時のご縁で、小倉市長は大垣の音楽堂を建設し、そこにベーゼンドルファーのピアノ・インペリアル280を導入された。音楽堂は日本の百選にも選ばれている名ホールである。

 私は、2017年4月にウィーンを訪問した折、ベーゼンドルファー本社を訪問してピアノの工場見学と、試弾をさせてもらった。ベーゼンドルファーのピアノを設置したホールを持つのが夢で、叶わぬ大きな夢を持って生きるのは長生きの秘訣です。

57p1010031  ベーゼンドルファー本社

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 本社隣接のショールーム

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 ベーゼンドルファーの試弾室

 

命を削る酒

 小倉市長は、酒好きであって、酒の量が多すぎて病気になられたようだ。人情に厚い市長ともなれば宴会も多かろう。大垣市長として多忙で酒でそのストレスを紛らわせたのかも。付き合いも大変である。それが命を縮めたようだ。

 2017年11月10日、第37回霊山顕彰会岐阜県支部の研修旅行として、東福寺と旧三井家下賀鴨別邸、京都霊山墓地、霊山歴史館を訪れるバスツアーに行ってきた。その時、故小倉満市長の奥様も参加されたので、ご一緒させて頂いた。これもご縁であった。

 詳細はブログのカテゴリー「o_大垣の歴史」内の「第37回 霊山顕彰会研修旅行」を参照ください。

 

2018-07-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月11日 (水)

恐ろしい大垣都市伝説(4/7)シベリア抑留2

シベリア抑留戦没者70回忌追悼法要

 2015年11月3日10時から、大垣公園内の「恒久平和の碑」前でシベリア抑留戦没者70回忌追悼法要が、今川順夫会長の主催で執り行われた。会員や丸順の関係者など60名が出席した。今川会長とは講演会でご縁が出来たので、私にこの法要への参列の招待状が来た。私は初めての参加である。

 この法要に参加が決まってから、京都府の従兄弟の訃報が入り、その葬儀が、同日13時からと急に決まった。それで、シベリア抑留戦没者70回忌追悼法要には、出発間際の10時55分まで参列してから、後ろ髪をひかれる想いで、予め呼んであったタクシーに飛び乗り、名古屋経由の新幹線で京都に向った。京都府の現地には、13時15分に到着できた。京都の告別式が午前中ならこの追悼法要には参加できなかった。両方の法要に参加できたのは、沸様のご配慮と思う。

41p1070459  参列者と歓談する今川順夫会長

42p1070479  ケーブルTVのインタビューを受ける今川会長

地獄のシベリアから生還できた理由

 法要に先立ち、今川会長が感涙の挨拶をされた。その中で、今川氏が地獄のシベリアから生還できた理由を3つ述べられた。一つが気力、二つ目が体力、そしてで、その3つがあって生きて帰れたという。そしてもう一つが、軍人勅諭の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」をもじった「一つ、軍人は要領を本分とすべし」という冗談の句が生還の要点であったという。

 やはり要領の悪い人は生きて帰れなかったようだ。「要領」とは悪い意味もあるが、良い意味では、物事の本質である。生きる本質を理解できなかった人がシベリアの土になった。若く体力があるから生きて帰れたわけではない。神仏のご加護無しに生還できたわけではないという。人は地獄を見ると、神仏の存在を感じるようだ。

 「運」は、今までの自分の生き様、ご先祖の積善功徳、それらの総合した力ではないかと最近しみじみと思う。自分の運だけでは生還出来なかったのだと思う。父が生還できたのもご先祖の功徳と巡り遇わせの運と思う。

 

小川市長の「追悼の辞」

 今川会長の挨拶の後、小川敏大垣市長が神妙に追悼の辞を読み上げた。それは秘書室が書いた追悼の辞を読み上げただけのように聴こえた。いつもは、秘書室が用意した原稿などは無視して、自分の思ったままの演説をして、とりとめのない話で時間超過する小川敏市長であるが、この日は、原稿を見ながらのぎこちない追悼の辞であった。今川会長の話とかなり違った趣であった。

 25年前の「恒久平和の碑」除幕式で、当時の小倉満市長が、涙ぐんで真に哀悼の籠った追悼の辞と比較すると、何か違和感のあるお役所的な追悼の辞であった。小川敏市長は、目に見えないものに対する考えが、普通の人とは違うようだ。小川市長は、ものに対する眼の付け所が、現世的なようだ。

 

目に見えないものへの畏敬

 当時は、そんなことには思いが及ばなかったが、この原稿を書くとき、当時のビデオ映像で小川敏市長の追悼の辞を再確認して、その思いを新たにした。だから、この神聖な場所で、英霊に対して無礼な「水まんじゅうギネス挑戦」を決行する愚行ができたのだと思う。3年前に、この場所での追悼の辞が頭の隅にあれば、決してこの場をギネス挑戦の会場にはしなかったであろう。神仏、英霊、ご先祖に敬意を払わない現市長を頂く大垣市民は不幸である。

 目に見えないものに対する姿勢が、動物と人間を分ける印籠なのだ。爬虫類の脳で生きていると、食うだけ、金儲けだけ、目先の餌(食いもの世界記録)だけという生きる姿勢となる。そういう生き方をするから詐欺まがいに騙される。無価値のギネス記録に騙されるのだ。天罰で、僅か2週間で血税900万円が消えたのだ。

 

天皇陛下のお仕事

 日本国民の父母というべき天皇皇后陛下は、ひたすら国と国民の幸せを祈るのが最大のお仕事として奉仕されている。目に見えない神、ご先祖、サムシンググレートと言われる存在に対して、ひたすら国と国民の為に毎日、お祈りを捧げておられる。こんな元首は世界のどこにもいない。

 市長も市民の親として、実務では当然として、大垣市と市民の幸せに祈りを捧げる義務があると思う。それが今の小川市長の言動を見ると、疑問を考えざるを得ないのだ。

 今回の法要で、小川市長が小倉市長に比較して、神仏への祈りが深いとは思えないと感じた。「水まんじゅうギネス挑戦」で小川敏市政に幻滅を感じた。

43  小川敏市長の追悼の辞(ビデオより)

44p1070520   読経 今川会長と小川敏大垣市長

ご縁の賜物

 私は、市田靖さんと遺族代表席で隣りあわせとなった。市田靖さんも今回の法要で、シベリア生還者中での参加者2名の一人である。聞けば父のことも知っているという。年齢を考えると稀有のご縁を頂いた。この法要に参加するのだ、との強い意志がなければ出会えなかったご縁である。

45p1070519  法要の参列者の皆さん 最前列席より撮影

46p1070509 慰霊碑に献花をされた市田様、今川会長(左から)

 

2018-07-11  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

 

2018年7月10日 (火)

恐ろしい大垣都市伝説(3/7)シベリア抑留1

「恒久平和の碑」のご縁

 丸順の今川順夫氏の尽力で1991年8月、シベリア抑留慰霊「恒久平和の碑」が建立された。小倉満市長は、「恒久平和の碑」除幕式で、丸順の今川順夫会長のシベリア抑留時の地獄の体験話を聞いて涙ぐんだという。小倉市長は人情に厚い方であった。

 この除幕式には、会長の今川順夫会長、小倉満大垣市長、外村次郎大垣共立銀行頭取、田口利夫西濃運輸会長、堀一雄副会長、河合達夫大垣商工会議所会頭の大垣市の重鎮(当時)が参列された。

 その「恒久平和の碑」開幕式記念写真で、小倉満市長、今川順夫氏と並んで私の父も写っていることを発見した。この碑は私には他人事ではない。だから「恒久平和の碑」に不敬を働く輩を見ると人一倍、腹が立つ。

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       今川順夫著『夢への挑戦の礎』より

 

碑の意味

 碑とは、ある意味でお墓と同じであると思う。碑とは、ある事象を祈念して後世のために残す人々の想いの顕われである。1991年、大垣公園内に、建立されたこの「恒久平和の碑」はシベリア抑留から生還したダモイ会の皆さんが二度とこういうことが起きないようにと、恒久平和を祈って建てられた碑である。その碑の陰には、6万人とも10万人とも言われるシベリアの土に帰した邦人がいる。この碑はロシアという死鬼衆により殺された日本人の魂を鎮魂するためでもある。そんな悲劇を二度と起こさないための決意表明なのだ。

 

恒久平和祈念の碑とのご縁

 1991年8月、この碑は建立された。この石は四国より運ばれた。私が2010年秋に大垣に帰郷して、2014年までの毎朝、この碑の前を散歩のために通るが、父の名が刻まれていることを知ることはなかった。「魂(オニ)」が納仏された日、今川氏のシベリア抑留講演会の案内を見たご縁で、恒久平和祈念の碑の裏に父の名を発見できた。それ以降、毎日ここを訪れ、日本の平和と極寒のシベリアで斃れられた方の冥福を祈念している。そして日本の未来を背負う子供達のために、自分は何が出来るかを考え続けている。

 自分が2015年にお墓つくりを経験して、今川氏の気持ちが少し分かった気がする。この碑の建立に多大な貢献された今川順夫氏に感謝している。今川氏とご縁ができたゆえに、恒久平和祈念の碑の建立式に立つ父の姿を写真で初めて見ることができた。これは沸様のお導きとしか思えない。

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松本明慶大仏師作 魂  軸は馬場恵峰書

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平和記念碑建立の志

昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満州地区に居た約60万人の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。

ラーゲル(収容所)生活は、粗末な服装と僅かな食料が与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バウ鉄道(第二シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保障されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る)皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望みをかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。

しかし中には飢餓と極寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散って行った。その数は10万人ともいわれて居る。

今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き。改めて平和の尊さが偲ばれるのである。

私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。

1991年8月9日 大垣市・西濃地区ダモイ会 会長 今川順夫

(「恒久平和の碑」の説明パネル)

  

34  除幕式

35  除幕式での記念写真

 2列目中央が小倉市長、その隣が今川順夫会長、2列目左端白い半袖カッター姿が父

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鬼死衆の跋扈

 父が生きて帰還できたが故、今の自分の命がある。なぜ人は死鬼衆になるのか。なぜ共産主義は人の命を粗末にするのか。なぜアーリア人は民族皆殺しの死鬼業を平気で犯すのか。自分は恒久平和のために何が出来るのか。口先だけで平和を叫んで滅んだ国が、過去70年間だけでも180カ国にも上る。

 口先だけで非武装中立を謳い、北朝鮮の日本人拉致問題を知りながら無視したオタカ社会党は消滅した。その残党が、現代の日本政治をかき乱している。非武装中立では日本は消滅する。それは最近の中共による領空、領海侵犯の激増で証明された。

 我々は後世に何を伝えるべきか。何をなすべきか。この碑を見るたびに考えている。

 

チベットの惨劇

 中共がチベットに侵略を開始したのはほぼ1950年であり、その後、チベット人の独立運動を力で押さえつけ、犠牲となったチベット人は120万人と言われている。その内訳は、43万人が戦闘や暴動で、9万人が拷問で、17万人が強制収容所で、16万人が処刑で、残りが餓死、自殺などとされている。チベット地域に居住していた人は600万人ほどと言われているが、そのうちの5分の1が中共によって殺害されたことになる。チベットが独立できなかったのは、「平和憲法」がなかったということではなく、中共に対抗できる軍隊がいなかったということだけだ。(武田邦彦氏のHPより)

碑への不敬

 2018年6月3日の愚劣な水まんじゅうギネス記録挑戦では、この歴史を知らないオバタリアンが、この碑に腰かけて休んでいた。この碑の啓蒙活動や説明看板の整備に大垣市が怠慢なのだ。この碑の説明看板がいたずらをされて傷だらけになっているが、大垣市は放置したままである。小川敏市長は、今川順夫会長に大垣市としてこの碑のお守りを約束したのに、全く履行していない。英霊への裏切り行為である。罰が当たりますぞ。祟りにあいますぞ。

37dsc01715  こんな不敬がはびこるのも啓蒙活動がないから。

 2018年6月3日の愚劣な水まんじゅうギネス記録挑戦で

38 いたずらをされた「恒久平和の碑」悦明パネル

 

2018-07-10  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月 8日 (日)

恐ろしい大垣都市伝説(2/7)戊辰戦争

第12代  小倉 満   昭和60年4月26日就任

 平成13年3月3日、肝不全により在任中に死去。69歳

 

業績

 昭和60年(1985) 4月、第12代市長に就任した小倉満氏は、10月に初代大垣藩主・戸田公入城 350年祭記念式典開催した。今時、350年前の封建社会の城主の治世に報恩感謝する行事を開催する心には、神仏、ご先祖を敬う気持ち伝わってくる。これを記念した記念物が市内に多く残っている。

 小倉市長は、生涯学習システムの確立をし、衰退した大垣の繊維産業都市から高度情報社会の先端都市を目指して舵を切った。そして、市民生活、市民サービスの向上に努め、全国に先駆けて、24時間ホームヘルプサービスのシステムを開設した。スイトピアセンター、大垣市情報工房、武道館の建設の他、岐阜県のソフトピアジャパン、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミーを誘致した。

 

功罪

 小倉市長は少々、箱モノ行政に力を入れ過ぎたきらいがあり、表には出ないが100億円とも言われる財政上の負債を抱えたようだ。閑古鳥が鳴く武道館や学習館の維持管理費で、大垣市政が泣くことになる。学習館の維持管理では年間、1億円くらいの赤字の垂れ流しと巷の噂である。この類は、全国の市町村が作り過ぎたハコモノの後始末で、その大変さが問題になっている。

 大垣市は、スイトピアセンター、大垣市情報工房、武道館、岐阜県のソフトピアジャパン、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミーの運営に苦しみ、後任の小川敏市長が、その経費削減の役目で財政正常化に取り組むことになる。

 

価値観

 昭和60年(1985年)は、私が初めて海外の出張で、北欧の自動車メーカの工場に4か月出張して滞在した年であった。この出張で海外の価値観と日本の価値観の差を、直接体験できたことは、幸せなことであった。

 納入した機械に工場のラインが止まりそうになる不具合があり、対策の仕事で徹夜をしたら「機械は壊れて当たりまえ。それを徹夜なんて、You are crazy.」と呆れられた。北欧の人間性を尊重する国では、仕事より、機械より人間が大事なのだ。そのことを思い出し、大垣市政に命をかけて、現職のまま命を落とした連続8代の大垣市長の狂気を見る。なぜ親からもらった命を粗末にするのか。

 この時期は、日本の高度成長がピークを迎え、1991年のバルブ崩壊に向けて最後の燃えつきをする時期であった。母も、バルブ崩壊を確認してバブルと共に消えた。母が頑張った分、成果を手にして旅立ったことは、私の慰めでもある。

 同じ時期、小倉市長もバブル経済で舞い上がり、多くのハコモノ行政の遺跡を残したことが禍根である。

 

戊辰の役と大垣藩

 戊辰の役(1868年、慶応4年/明治元年の干支が戊辰)の120年後の1988年、大垣東ライオンズクラブが、小倉満大垣市長を団長として大垣市議長も同行し、奥羽訪問親善使節団として福島県白河市を訪問した。現地の東明寺には、会津藩で戊辰の役で戦死した大垣藩藩士が葬られていた。この墓地は「会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会」の手により管理が行われていた。地元は例年10月23日に西軍墓前祭をしめやかに行い、かって敵軍であった西軍の戦死者にも手厚い法要を行っていた。

 小倉満市長は、大垣藩士が手厚く祀られていることに感銘を受け、これを顕彰する碑を東ライオンズクラブと共同で、大垣城内に建立した。ときに明治維新120年後の1988年(昭和63年)秋である。まだまだ明治維新前後の歴史は生々しい。井伊直弼公が切って落とした幕末動乱への幕開けは、大垣の市内にも痕跡を残している。

 

戊辰の役を顕彰した碑

 碑文には「明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」とある。

 この碑の稀有なことは、文字が凸で表現されていること。普通の碑文や墓石は凹の状態で彫られている。亡くなった人の墓石や史歴としてもう変わらない事実は凹で彫るのが常である。ところが凸で書かれていることは、まだ今もその藩士の威徳が生き続けていることを現している。碑には、碑の建立者の意向が明白に表われている。

 

時の大垣市長というべき家老小原鉄心

 幕末の幕府側と倒幕側との戦いでは、大垣藩は当初、幕府方として最前線で戦って来たっていたため、倒幕側に方針展開しても大垣藩は東北攻めには最前線に駆り出され多くの死者を出している。それでも勇敢な大垣藩は宇都宮攻防戦などで戦功を上げた。一方で50余名に及ぶ戦死者を出した。大垣城内には戊辰の役を顕彰する石碑が建てられているが、藩の保全のために犠牲になった藩兵を弔うためである。倒れられたのは20代の若者が多いのは痛ましい。

 何時の世も犠牲になるのは有為な若者である。本来の敵である外国勢との戦いで倒れるならともかく、身内内での戦いで死ぬとは残酷である。すべてトップの判断ミスである。大垣藩は早い時期に倒幕派に転向したので、まだ救いがあるが、最後まで幕府側につき戦わされた会津藩の若者が哀れである。日本が近代国家を建設するためには必要であった犠牲であったようだ。毎朝、散歩の途中でここにより日本国の建国のために血を流された方にお礼を述べている。

 

大垣の歴史のif

 歴史上の仮定として、もし家老小原鉄心の決断がなければ、大垣藩は、会津藩のように明治政府の格好の見せしめ、生贄の藩として、焼け野原にされていたであろう。我々は、当時の大垣市長というべき家老小原鉄心を、もっと評価して感謝せねばならぬ。家老小原鉄心がいなければ、今の大垣の人で、命を授けられなかった人も多かろう。

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 上図:大垣城内の「戊辰の役顕彰の碑」 書は小倉満大垣市長   粘板岩

 下図:裏面

 

 大垣藩の戦死者は東明寺の西軍墓地に「大垣戦死二十人墓 明治元年十月」と白河口の戦いがあった白河市松並には「長州大垣藩戦死六名墓」が祭られている。日本の夜明けのため命を捧げた若者たちである。その陰に息子の死を嘆く母がいる。乳飲み子を抱えた母がいる。

 終戦後の昭和21年、二人の息子の戦死を聞かされた私の祖母の嘆きを想う。それは灼熱のビルマと極寒のシベリヤで戦病死された父の弟達である。合掌。

 

大垣戦死二十人墓 (東明寺)

 川崎松次良  藤原邦義  22歳

 木村重米   藤原知重  22歳

 渡部順蔵   源 重孝  32歳

 武藤菱之助  藤原重勝  25歳

 米山休左エ門 藤原兼賢  24歳

 長谷川直吉  藤原辰忠  26歳

 加納傳四良  藤原兼住  26歳

 森甚太良   源 政則  23歳

 杉山庄五郎        28歳

 増田九助         42歳

 吉田彦三良  藤原信可

 九鬼国之助  藤原重隆  17歳

 太田七十良  藤原胤重  40歳

 奥富元三良   

 土屋柳冶良  源 秀敷

 河井富助   藤原長栄

 北村吉五良  藤原義方

 藤田辰二郎  藤原辰広

 藤田彦三良  藤原基教

 多賀重助   藤原美則

 

長州大垣藩戦死六名墓 (白河市松並に)

 鳥居勘右衛門

 川井徳太郎

 松井於莵蔵

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 『大垣ゆかりの南奥羽』より

2018-07-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月 7日 (土)

恐ろしい大垣都市伝説(1/7)歴代市長の死

歴代大垣市長

第5代  川井 一   昭和22年4月5日就任

 二期目の2年1か月で病気による現役死

第6代  三輪 勝治  昭和28年6月6日就任

 昭和38年8月9日、病気で現職のまま52歳で死去 

第7代  山本 庄一  昭和32年9月20日就任

 昭和45年5月7日 、64歳で現職のまま死去

第8代  広瀬 重義  昭和45年6月28日就任

 昭和49年2月21日、任期終了直前に58歳で死去

第9代  清水 正之  昭和49年4月14日就任

 昭和50年5月31日、就任1年1ケ月で71歳の急死 

第10代 森 直之   昭和50年7月13日就任

 昭和56年3月12日、急性心不全で、現職のまま72歳の死去 

第11代 岩田 巌   昭和56年4月26日

 昭和60年4月25日、任期満了の立候補途中で66歳の死去

第12代 小倉 満   昭和60年4月26日就任

 平成13年3月3日、肝不全により在任中に死去。69歳

第13代 小川 敏   平成13年4月23日就任  在任中

 

 以上は戦後、公職選挙法が出来て、公選で選ばれた市長での話で、その前の4代の市長も現役死のようである。(調査中)

 

恐ろしい大垣都市伝説

 現大垣市役所が濃飛護国神社に向かい合って建てられているから、その祟りで現役の市長が次々と病死するという「恐ろしい大垣都市伝説」が生まれている。現大垣市役所が昭和39年に建てられる前に、第6代大垣市長の三輪勝治氏も病気で現職のままで昭和38年に死去されている。だから、「祟りの大垣都市伝説」は間違いである。しかし連続8代の市長が現職のままで死去は、事実である。大垣市長職は命がけなのだ。

 それを意識してか、新大垣市庁舎は、目の前の主道路から90度向きを不自然に変えて、護国神社と向き合わないように建設が進められている。その分、市民が市役所に行ったとき、不便なのだ。そんな小手先の細工で、誤魔化そうとする根性が卑しい。神仏はそんなことでは、胡麻化されまい。それは対処療法で、根本療法とはかけ離れている。まるで火事で、消火器で火を消す対処療法なのだ。真の対策は、火事が起こらないようにする対策、つまり現役の市長が死ななくてもすむ対策である。

 

歴代大垣市長とのご縁

第5代  川井 一   昭和22年4月5日就任

 川井市長は大垣空襲で焼け野原になった大垣市の復興に、百年の計をもって臨み、自ら陣頭指揮で尽力をされ、大いに実績をあげた。大垣駅前通りを中心とした市街地の都市計画事業は、川井市長の見識と先見性の賜物である。そのお陰で、今日の一大商業地区発展の基礎となった。

 それが現市長の無為無策で衰退しているから、私は怒り心頭である。

 川井市長が在任中の昭和25年に、近江絹糸大垣工場が建設され、父が近江絹糸彦根工場より第一陣で赴任してきた。私は生まれた年の翌年の昭和26年に、母と一緒に彦根から大垣に来た。

 当時、大垣は水の都で、水が豊富であったので多くに繊維企業が誘致され繊維産業都市として栄えた。私もその恩恵で育つことができた。川井市長とは全くご縁がないが、市長の繊維産業育成の陰徳の尽力で、今の大垣があると思う。普通に食べていけることが如何に有難いかは、今のフリータが氾濫する時代と比較するとよくわかる。

 

第6代  三輪 勝治  昭和28年6月6日就任

 昭和38年8月9日、病気で現職のまま52歳で死去

 急性胃潰瘍による後遺症が原因で亡くなられた。

 三輪市長は、全国第二位をの充実した学校建設、防災建設の推進、林町、室村アンダーパス事業の完成等で、実績を上げた。三輪市長のお蔭で、充実した学校教育を受けられたし、林町、室村アンダーパスのお蔭で交通の便利さを実感している。私は幼いこと、林町から国鉄(当時)の線路の下の川を渡し舟で通行したことを覚えている。

 

第7代  山本 庄一  昭和32年9月20日就任

 昭和45年5月7日 、64歳で現職のまま死去

 山本市長は、早くから交通・通信の発達によって、行政の広域的処理が必要と認識して、地域開発に尽力をされた。名神大垣インターの建設、国道258線の整備、国道258線とJRの立体交差道路の建設、大垣・一宮線の整備、岐大バイパス、の整備に尽力をされた。また伊勢湾台風での被害に対して不眠不休、東奔西走で、堤防の増強、治水工事を施し、水害にない大垣市に貢献した。そのおかげで、日本経済の発展と同期して大垣市も繁栄していった。

 父が定年退職して、今の場所に家を建てた。ここで2年程暮らして、私は就職で大垣を離れた。今振り返ると、日本は高度成長への階段を駆け上がる時期で一番幸せな時であった。

 

第8代  広瀬 重義  昭和45年6月28日就任

 昭和49年2月21日、任期終了直前に58歳で死去

 広瀬市長は「市民の一人一人が大垣を誇りに思い、夢と希望の持てる都市づくりに全力を尽くす」として、都市計画、道路整備、公害防止、福祉事業に尽力をされた。

 現在の「大垣に誇りを持てない寂れた街。幽霊ビルが跋扈する都市整備状態」の惨状と比較すると、広瀬市長の熱い志がまぶしい。今は夢も希望もない。あるのはヒラメの役人だけ。

 1974年は、私は就職して仕事を覚えるに必死の時代で、大垣には月に数度変えるだけで、大垣市内には全く関心がなかったのが悔いである。

 

第9代  清水 正之  昭和49年4月14日就任

 昭和50年5月31日、就任1年1ケ月で71歳の急死 

 

第10代 森 直之   昭和50年7月13日就任

 昭和56年3月12日、急性心不全で、現職のまま72歳の死去 

 森直之氏は、大垣市民病院の初代院長先生で、人徳もあり、腕も確かで大垣市民病院を西濃一の病院に育てた。その功で、大垣市長に担ぎ出されたようだ。優秀な側近を得て大垣市の発展に貢献したが、急性心不全での死であるので、市長としての過労があったと思う。

 

手術

 私は23歳の頃、大垣市民病院の森直之院長先生の手で、胆のう摘出手術を受けたご恩がある。森先生が大垣市長になる直前である。患者として森先生と会話を交わしたはずだが、その記憶がほとんどなくて残念である。手術後、数日して快方に向かい、鼻から入れた管も抜け、これ幸いとお腹も空いたので、ちょっとベッドを抜け出して食堂に行って一寸ベッドを留守にしたら、それが間合いの悪いことに院長回診にかちあってしまった。森院長先生に、「手術後で、それだけ元気なら大丈夫」と笑われたことが記憶にある。私は、森先生にお腹を見せながら、笑いをかみ殺すのに苦労した覚えが有る。

 当時の私みたいな若造の手術を院長先生に担当させるために、母はかなり走り回ったようだ。母が頑張って、若造には不釣り合いの電話もある特別室に入れてくれた。見舞いに来た仕事仲間が感心していた。今にして母のご恩に感謝している。

 

仕事とは何か

 森市長が死去されたとき、私は三河に勤めており、その訃報を知らなかった。当時、私は晴海で開催される見本市へ出品する機械の開発に携わり、連日深夜まで働くほど忙殺されていた時期である。今なら完全なブラック職場でアウトの状態であった。当時、仕事で頭が一杯で、森市長のことは念頭になかったのが残念である。手術して頂いた先生のご恩を忘れる程、徹夜まがいの仕事で連日、元気で働けた有難さを、今更に感じて、感謝している。上からのやらせられる仕事は、過労死につながるが、自分がやらねばという意識で働いていると、どんなに夜遅くまで働いても苦にはならなかった。仕事とは何かをおぼろげながら体得できた。今振り返ると、仕事にも恵まれた一番脂ののった有難い時期であったと思う。

 森市長も、多くの仕事を抱えて過労死のようになったと推察される。責任感の強い方には、40年前の時代の72歳の老体の身で、大垣市長職は過酷である。いわば殉職のような死に方である。責任感が強い分、医者の不養生もあったのであろう。

 森市長の死去の10年後、1992年、母は69歳の若さで、体の保守管理を怠った咎で、大垣市民病院で亡くなった。私は母の死因を反面教師として、今は健康に最大限の留意をして生きている。それが母の教えである。

 

第11代 岩田 巌   昭和56年4月26日

 昭和60年4月25日、任期満了の立候補途中で66歳の死去

岩田市長の死は、母の亡くなる1年前である。母が倒れた関係で、何度も三河から大垣に通った時期で、大垣市政には関心がなかった。それどころではなかった。

 

2018-07-06  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月 6日 (金)

北朝鮮より恐ろしい大垣行政(9/9)黒十字

将軍様への寄付

 中日新聞と岐阜新聞には、得意満面の大垣市長と寄付者のツーショットの写真が頻繁に掲載される。資金の豊富な大手地方銀行が100万円単位の寄付をしたとのヨイショ記事である。寄付を受ける大垣市長が毎回、笑顔満面で紙面に登場するから、大垣市長が主役なのだ。まるで大垣市の将軍様扱いである。寄付者より大垣将軍様が偉いのだ。

 

寄付記事は売名行為? 政治圧力?

 2018年6月29日付の岐阜新聞に、大垣西濃信金が、業務改善提案に対して、一件200円の積立寄付で合計29万円を大垣市に寄付したという記事が掲載された。その脇に大垣市長と大垣西濃信金共済会長の写真が掲載されていた。

 それと同じ記事が、4日後の7月3日の中日新聞に、大垣市長の得意満面のカラー写真が掲載された。まるで29万円で、紙面を広告の為に買ったように見える。寄付は尊い行為だが、そんな売名行為のような記事に価値があるのか。なぜ企業の寄付は匿名ではいけないのか。この紙面で、もっと大事な情報が掲載されずに破棄されてしまったかもしれない。

 なぜ同じニュースなのに4日も遅れて報道するのか。下衆の勘ぐりで、中日新聞がこの報道をしなかったので、大垣市将軍様からお叱りがあり、慌てて掲載した、お詫びとしてカラーで掲載した、ではないか。お金が豊富な金融関係の29万円の寄付記事をわざわざカラーにする付加価値は何か?

91p1100862  2018年6月29日 岐阜新聞 

92p1100878  7月3日 中日新聞

  本来なら、「大垣西濃信金が、大垣市に....」と書くところを「小川市長に…..」と小川市長の名を先に出しての記載である。タイトルも、信金の名前を大きく出して、岐阜新聞との表現の差が面白い。いかに中日新聞が焦っているかが見て取れる。お笑いである。

売名行為?

 市民の中には、もっと多額の寄付をする人がいるが、多くは匿名である。寄付とは陰徳であるので、名前を出す必要もなく、わざわざ紙面を割いてのその企業の社長と必ず大垣市長の顔写真を掲載するのは、厚かましい宣伝行為であると、私は思う。私が眉をひそめ、不快感を覚えるのは、異常な感情だろうか。私の感覚として、この金融機関には、お金を預けたくないと思う。

 しかし、御用新聞の中日新聞と岐阜新聞には、当然の貢ぎ物としての「お仕事」のようである。大垣の政治家・財界人はいつから謙虚さを失ったのか。徳ある人は、売名行為などしませんぞ。まるで田舎者の振舞いである。

 

良識を疑う

 2018年5月30日付の岐阜新聞西濃地域欄には、天皇陛下から頂いた褒章に、叙勲者を脇に置いて大垣市長がど真ん中に居座って記念写真を撮らせ、それを新聞に掲載させて得意満面である。それを平気で掲載する岐阜新聞の良識が疑われる。

 それをしないと大垣市役所との取引や市役所内ATMの設置、大垣市役所内の記者クラブ室の利用の恩恵や、特別の情報提供を受けているので、反抗すれば、見えざる嫌がらせを受けるのを恐れているのでは、と勘ぐってしまう。なにせ恐怖政治・長期政権の小川大垣市政である。

 

マスコミの忖度

 中日新聞と岐阜新聞は、大垣「自由政界役人主党」に忖度しているようだ。これらの愚行記事に対して大垣市民は、黙って地方紙の購読料を払っている。私は購読を止めた。

 

赤十字社の活動

 赤十字社は、国際赤十字によって運営される戦争や自然災害時における傷病者救護活動を中心とした人道支援団体の総称である。200年前の欧米による植民地強奪戦争、覇権争いでの戦争の激化の折、当時は人道の認識も薄く、政府の組織がまだ整備されていなかったので、スイス人実業家アンリ・デュナンの提唱により人道支援の理念で、赤十字社が1863に創立された。本来、政府がやるべき仕事であり、50年前貧しい日本の時代には、素晴らしい団体活動であった。しかし、今の経済大国となった日本には違和感を覚える存在である。現代日本で、人道支援活動が必要とされるなら、政府がその組織を整備すべきである。

 

大垣市長は、日本赤十字寄付を強制

 大垣市民で、自治会に入っている家庭には、日本赤十字大垣支社長の小川敏大垣市長名で強制的な寄付の要請がある。だから大垣市民は一戸当たり500円の寄付を毎年している。小川市長は強制ではないと言いながら、寄付の集金要請と大垣市としての集金目標値が提示され、一戸毎の集金台帳が配布され、町内の班長さんが各家庭に集金に来るので、世間体の関係で出さないわけにはいかない。私の住む町内は全戸が寄付金に協力している。強制ではないといいながら、何故、大垣市名で集金目標値を提示するのか。

 大垣市の駅前マンションや京都など大都会のマンションでは、自治会組織がないので、日本赤十字寄付制度はない。現代社会では、日本赤十字社の寄付行為には不公平な不整合が出ている。

 

信金の29万円寄付と大垣市民の寄付3250万円

 大垣西濃信金の200円の改善寄付合計わずか29万円に対して、大垣市民は合計で約3,000万円の寄付である。しかし、これは新聞には出ない。なぜ29万円の寄付記事が堂々と厚かましく地元の2紙に出て、大垣市民の寄付3250万円の日本赤十字への善意の寄付記事が新聞にでないのか。

 

働き方改善は大垣市役所から

 寄付は善意と言いながら、大垣市役所は戸別毎に集金台帳を作って、その配布と回収とそのチェックを一戸一戸厳格にしている。その必要性は何か。その管理するにも、市役所の人件費が必要だ。その分、住民税が上がる。その集めた寄付金を「上納」するために自治会長さんが市役所に出頭しなければならぬ。その人件費もかっている。なぜ住民税内で統合して運営しないのか。寄付を厭うわけではない。今はその存在理由に疑惑が多いのだ。

 その大垣市が寄付金管理上で、仮に一戸当たり5分間が集金で必要とすると、全市で約65,000戸×5分間(一分100円の原価として)=3250万円もの工数が必要だ(個別台帳作成、分類、管理、配布、集金、再集金、個別領収書発行、集金集計、自治会の会計報告)。その無駄業務を業務改革して、住民税に統合すれば、不公平感もなくなるし、税制のガラス張り化も図れる。お金を扱う上での不正や癒着も防げる。それで人工を減らし、市民税を安くし、市民の為に再投資ができる。そうすれば寄付500円の一戸毎の入金管理は不要である。

 ある自治会長さんが大垣将軍様への「上納金」の赤十字社寄付金をまとめて市役所に届けたら、担当者が一軒ずつ台帳を確認して、ご丁寧にそのカウントを間違えて、再度数え直したという。その間、為すこともなく、その自治会長は待っていたという。時間は命である。働き方改善は、大垣市役所が率先すべきだ。

 大垣西濃信金さんは一件200円で1450件の改善提案で、29万円の寄付を集めて、お金を貯めた。それはトヨタ生産方式のVA活動そのものである。大垣市長は、「水まんじゅうギネス挑戦乱痴気騒ぎ」でご先祖様、英霊様に失礼を働いたのだから、その大垣西濃信金さん爪の垢を煎じて、市民の為に業務改善に取り組まねば、バチが当たる。

 次回は、大垣歴代市長が7代連続で現職のまま死亡した謎に迫りたい。

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 大垣市は、一戸一戸で上図のような立派な集金台帳を作って管理している。お金も手間もかかっている。その分、人を配置せねばならぬ。机も資料庫もいる。管理職も必要だ。専用の岐阜県支部ビルも建設せねばならぬ。どんどん経費が増える。ご苦労さん会もせねばならぬ。功労者表彰もせねばならぬ。その分、被災地に送るお金がどんどんと減る。何かおかしい。人の善意が不正の温床になっていないか。

 

黒十字

 日本赤十字社の趣旨は理解できるが、日本が経済大国になった現在、その存在と強制寄付は時代錯誤である。別の形の運営を政府が考えるべきだ。

 日本赤十字社に送る義援金の約30%が、事務局の運営管理費として消える。平成28年度赤十字歳出報告書資料によれば、歳出の内、運営管理17.4%、赤十字思想の普及等10.9%の管理間接費とある。要は、人件費で、国の支援活動組織の人件費とダブっているのだ。行政の業務改革で統合が望ましい。

 だから災害等で義援金を日本赤十字社に送っても、被災地には義援金の20%が日本赤十字社に天引きされて、80%しか被災地に行かない。その配布先・使用用途の詳細も公開されない。大災害が起きると、日本赤十字社のある街の飲み屋街が大繁盛するという暴露話が某週刊誌に掲載されていた。その第二弾を出すと予告していたが、裏から手が伸びたか、第二弾の暴露記事はいつの間にか消えてしまった。真偽は不明である。

 

寄付は直接、その被災地に

 私はその話を知人から聞いてから、東日本大震災での義援金で、最初は日本赤十字経由で送っていたが、途中から直接、岩手県山田町役場宛てに送るように変えた。その総額は50万円である。山田町役場では、義援金の全額が復興に使われた。その内容もHPで公開された。途中のピンハネもない。私は寄付にはやぶさかではないが、使用用途が非公開な組織には送りたくない。お金の使用用途非公開は不正の温床である。今後、大垣市からの日本赤十字寄付要請は断る予定である。

 赤十字活動とは、日本赤十字社に寄付をすることではない。人道的支援をすることなのだ。大垣市長よ、大垣市民の未来に人道的支援をされたまえ。大垣市民の現在の惨状に目を向けたまえ。

 

2018-07-06  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月 5日 (木)

北朝鮮より恐ろしい大垣行政(8/9)恥外放賢

 大垣市の新市庁舎は、刈谷市、岐阜市と比較すると、豪華絢爛華美である。私も3者を調査比較して初めて気が付いた。大垣行政やマスコミは、単発の情報しか発信しないので、大垣行政は市民が知らないと思ってやりたい放題である。要は、金がないのに北朝鮮のように見栄だけを張り、市民の金を使ってやりたい放題である。まるで井の中の蛙である「障子を開けて見よ、世間は広いぞ」との豊田佐吉翁の言葉を大垣市長に聞かせてやりたい。

 

大垣市は稼ぎが悪いのに金遣いが荒い

 市民の年収は、三都市中で大垣市が一番低いが、市庁舎だけは大垣が一番豪華である。それでいて、大垣市は寂れる一方である。そんな大垣に誰がした?

 大垣市市会議員の報酬も、大垣市民との相対比較でも、刈谷市よりも格段に高い。いわば大垣行政は、一番稼ぎが悪いのに一番金遣いが荒く、プライドだけが高く、見栄だけで、税金という人のお金を使い、街を寂れさせている。それでいて文化面への投資は皆無に近い。基本的な投資である保守保全の手間さえ怠っている。市の中心部のモニュメントや観光看板が錆びだらけである。トイレも汚い。それでも、行政の監視役の市会議員は、お手盛りで、お金持ちの刈谷市よりも遥かに高い議員報酬を得ている。北朝鮮の高官並みである。

 

大垣市

刈谷市

岐阜市

一般会計

591 億円

599億円

 1562億円

人口

16万2395人

14万9199人

41万3995人

市民年収

320万円

396万円

339万円

全国順位

280位

50位

169位

議員年収

942万円

778万円

1095万円

全国順位

115位

200位

26位

 

 

 

 

新市庁舎

125億円

95億円

254億円

床面積

約3,400㎡

約2,394㎡

39300㎡

建屋構成

地上8階塔屋1階

10階建て

地上5階塔屋1階

建設時期

2022年完成予定

2010年完成

2020年完成予定

特殊事情

東京五輪で資材高騰

平常時

 

一人当たり負担

7697円

6367円

6135円

恥外放賢

 可哀そうなのは、真実の姿を知らされず、貧乏の状態のままにされている大垣市民である。そんな大事なことは、中日新聞も岐阜新聞も、絶対に報道しない。勿論行政も、市議会も、「大垣政界役人主党」は口をつぐむ。地方紙は大垣市長に忖度である。まるで北朝鮮のように、北朝鮮の人民には外の情報を流すのを禁止しているかのようだ。

 そのため「恥外放賢」という言葉を創作した。本来、このことで「つ・・桟敷」という言葉を使いたかったが、アサヒによる言葉狩りにより、放送禁止用語にされてしまったようで、使えない。この言葉狩りは、差別を錦の御旗として日本の伝統文化の破壊である。最近のマスコミは文化の破壊行為ばかりが目につく。それでいて市民の生活に直結した大事な行政の誤りは報道しない。

 

市民にとって報道とは何か

 大垣市民は3都市の比較表を睨んで、大垣市の未来を考えて欲しい。大垣市民以外も、知るべきことを知らされないと、行政がどういう状態に暴走するかを知って欲しい。先の太平洋戦争で、真実を知らせず、戦争を煽った朝日を筆頭にしたマスコミを思い浮かべる。現在でもモリカケ問題等やギネス記録痴呆挑戦や、大垣市への個別企業の寄付記事等で、大事な近隣諸国の緊迫状態の報道をそっちのけに、報道しているマスコミが目に余る。

 マスコミの使命は何か。市民にとって知るべき行政の役割とは何か、行政の使命とは何か、である。大垣行政が市民を幸せにする政策を執るならよいが、誤った自己中の政策で、大垣市民の収入を低いままに置く政策を執り、大垣市を寂れさせるなら、小川敏市政は、早く退陣した方が良い。

 

対照的な刈谷市の文化投資

 刈谷の新市庁舎の建設に当たり、もっと豪華にする予定であったが、トヨタの手前、豊田市より立派にするわけにはいかず、その分のお金を文化施設に回したという。それでも刈谷新市庁舎は、十分に立派である。本来、市庁舎は、それで利益を上げるための商業施設ではないので、大垣市のレベルなら60億円もあれば十分に立派な建屋が作れる。 

 同時期に建設された刈谷総合文化会館は1541席 の客席の備え、座席幅間隔ともにゆったり広々で、広い舞台は音響設備も充実しており、大きなミュージカルや演劇も上演可能な文化施設である。ここでは、市民大学講座も開催されている。大垣市文化センタの大ホールが座席数600、音楽堂が300席と比較して、刈谷市の文化への取り組みの素晴らしさが推察される。

 トヨタの華美を求めず、質実剛健の経営理念が刈谷市の経営にも反映されている。大垣のように「水まんじゅうギネス挑戦」の乱痴気騒ぎで、英霊の護国神社に不敬を働くようなことはなく、神仏を敬えという経営方針が、刈谷市の経営にも浸透している。

 

「豊田綱領」と「大垣市基本理念」の差

 二つの理念の差は、志と感謝の念の有無の差である。大垣市の理念にある冒頭の「個性」は利己主義を表す象徴の言葉である。理念で掲げる言葉ではない。安全、安心、自立は、言われなくともあって当然の項目である。わざわざ理念として言うに及ばない。宣言する以上は、現在ができていないとの宣言である。「支援」というキーワードばかり表に出てきて、「自立」の項目が一番最後に記載されている。支援を前面に出す政治はおかしい。俺が頑張って個性と活力で大垣市を作り上げ、俺が弱者を支援するのだ、という傲慢さが感じられる。誰のお蔭で大垣が成立しているか、ご先祖、神仏への感謝の念が無い「大垣の理念宣言」である。

 「・・をめざします」と希望的観測で言っているだけである。「目指したけど、上手く行きませんでした」の言い訳が聞こえるような宣言である。「・・を努力します」という表現と同じで、「努力しました。しかしうまくいきませんでした」と同じ言い訳の言葉である「・・をめざします」は政治屋の「前向きに検討します」と全く同じである。成就は約束していないのだ。

 理念で宣言する以上、「すべし」とか「遵守」とかの断定形、命令形で記載すべきである。貼ったり剥がしたりする選挙コウヤクではないのだ。理念とは己の行動への戒めなのだ。

 大垣の理念は、経営理念として、どう大垣市民として行動すべきかの指針となっていない。欠陥理念である。小川敏氏の経営理念では、大垣市が衰退するのも故あることだ。小川敏氏が「大垣市のまちづくりの理念」を言葉の遊びとして作って10年で、その弊害がボディブローのように効いてきたようだ。言葉には魂が宿る。言霊である。

 

豊田綱領 (豊田の5つの精神)

1.上下一致、至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし

1.研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし

1.華美を戒め質実剛健たるべし

1.温情友愛の精神を発揮し家庭的美風を作興すべし

1.神仏を尊崇報恩感謝の生活を為すべし

 

大垣市のまちづくりの基本理念

  2009年3月6日制定(小川敏大垣市長の制定)

1.個性・活力  「飛躍」

 人と地域の個性を生かした活力あるまち。人と地域の個性を生かして、地域産業の高度化・高付加価値化と新産業の創造により、地域経済の発展と雇用の場を創出する活力あるまちをめざします

2.人づくり・共生  「輝き」

 人々が支え合い・助け合う子育て日本一のまち。人々が支え合い、助け合うことができる地域社会を形成するため、次代を担う人づくりを進めるとともに、子育て支援施策の充実した子育て日本一のまちをめざします

3.連携・協働  「安心」

 人々が支え合い・助け合う子育て日本一のまち。市民と行政が連携し、自主的な判断と責任に基づいて、市民の誰もがまちづくりに参画できる協働のまちをめざします。

4.安全・安心

 誰もが安全・安心でいつまでも住み続けたいまち。自然災害に強い安全なまちづくりを進めるとともに、市民の誰もが安心して、健やかに暮らし続けることができるまちをめざします

5.自立・安定

 効率的な行政経営により自立したまち。高度で多様化する社会需要に対応するため、効率的な行政経営を進めるとともに、地方自治新時代にふさわしい、自立し、安定したまちをめざします

 

2018-07-03  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月 4日 (水)

北朝鮮より恐ロシヤ大垣行政(7/9)汚職

彦根市役所の耐震工事汚職

 岐建は、彦根市役所の耐震工事29億円を請け負い、その仕事で手抜きの裏合意の汚職が発覚して、川嶋恒紹彦根副市長が2018年1月23日に辞職した。現在(2018年6月3日現在)は、彦根市役所の耐震工事がストップして、コンクリートむき出しの恥を晒していた。彦根市民は駅前の平和堂に間借りした仮市役所に行き、不便を感じている。その仮市役所の賃貸料は、年間2億円か3億円とかという。それが何時終るか不明になって、仮市庁舎の賃貸の終了の目途が立たないのだ。すべて彦根市民税である。彦根市民は踏んだり蹴ったりである。

 私が7月3日に彦根市を訪れて工事現場を見たら、クレーンが動いていて、細々と工事が再開されたようだ。疑惑は解明されたのだろうか。

 彦根市民の多くは、新市庁舎建設は「もったいない」との考えのようである。彦根市長が改修ではなく新市庁舎新設を選択すれば、現彦根市長は、市長に当選しなかっただろうと、彦根市民の見識者は言う。なんと健全な県民性かと。

 しかし、移転費用の二重負担や耐用年数の関係でまた再建設の問題が起きてくるので、「もったいない」との選択が正しいわけではない。市として長期ビジョンと緻密な都市設計が必要である。市政の反面教師として、この事例を見た。

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 耐震工事中の彦根市役所 2018年7月3日

 

新大垣市庁舎は大丈夫?

 そんな状況下で、大垣市中心市街地の活性化には全く貢献しないが、大垣市中心市街地の活性化をうたい文句に125億円の新大垣市庁舎は、岐阜新市庁舎の5割増しの豪華さで建築が進められている。新大垣市庁舎は、同規模の刈谷市の3割増しの豪華市庁舎である。刈谷市はトヨタグループの本社が集結した街で、財政豊かな都市として有名である。それでも刈谷市民年収(396万円・全国50位)と大垣市民年収(320万円・280位)を比較すると、大垣市新市庁舎は身分不相応に豪華なのだ。

 賢明にも、刈谷市の新市庁舎は、東京オリンピック建設ラッシュの始まる前の2010年に建設が終わっている。

 大垣新市庁舎は、濃飛護国神社の英霊が見守る中、着々と工事が進行している。

 そんな汚職の疑惑に満ちた岐建に、新大垣市庁舎建設を任せてよいのか。家で1匹のゴキブリを見たら、その家には百匹のゴキブリがいるという。常識では、ある犯罪が発覚すれば、余罪はないかを追求するのは警察の常套捜査である。大垣市行政、市議会が慣れあいになっているから、誰もチェックも見直しも言えないようだ。

 

手抜しないと社長が首つり?

 何も東京オリンピックで資材が高騰しているこの時期に、何を血迷って新大垣市庁舎を建設するのか。建設を2年間ずらせば、建設費の1割の10億円くらいは、簡単に建設費が浮くのにと、残念で仕方がない。経済学の市場原理から見れば常識の話しである。

 建材資材が高騰して、建設原価が上がっている東京オリンピック建設ラッシュのこの時期、値段が同じなら、彦根市役所の耐震工事のように手抜きか質を落すしかない。そうしないと業者は、従業員に給与を払えないのだ。社長は、業績の責任を問われるのだ。社長が首をつらねばならぬ。だから彦根市市役所の耐震工事手抜き汚職となった。

 

実家の建築費

 私の実家の建設でも、1970年当時はオイルショックの後遺症で日本中が不況のため、建設メーカが頭を下げて家を建ててくれと言って来て、建設費が安く上がったと両親は喜んでいた。その数年後、バブル景気が起きて、建設費が高騰した。有難い時に建設ができて感謝である。

 

マスコミの対応

 中日新聞、岐阜新聞さえ、この件は黙りこくっている。マスコミの報道の選択基準とはなんだろう? 「ア~ン」と口を開けた「水まんじゅうギネス挑戦記録」痴呆記事には、我先にと飛びつき大騒ぎで報道する地方紙である。お役所にたてつく記事を書けば唇寒しで、恐怖の「自由政界役人主党」から、仲間外れや仕返しをされるのが恐ろしいようだ。それを口外するのは、大垣政界でタブーのようだ。

 行政と密着した地方紙には、市民には知らせないようにする極秘コードが存在するのだろうか。先のニュースでは、アサヒの信用度は、全国紙最低番付となった。近い将来、中日新聞、岐阜新聞はアサヒみたいに信用の置けない新聞になってしまうのだろうか。こんなことで大垣市民は何を信じたらいいのか。必要な情報が遮断された状態で、幸せになれるのだろうか。

 

2018-07-04  久志能幾研究所 小田泰仙  

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