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2020年8月 8日 (土)

危機管理30  あなたの臨終

 死とは、人生で最初で最後の最大のプロジェクトである。その経験を伝えた人はいない。だから希望として、自分の死は悔いのないプロジェクトとして完成させたい。

 私は、自分の臨終を考えて、理想の死にかたを追求している。それが美味しいモノに誘惑されて病気になり、心筋梗塞やガンで死ぬことは避けたい。美味しいモノには毒がある。その毒物がこれほど溢れている時代は人類史上、初めてである。毒と分かっていても、つい手を出してしまう。その誘惑を排除して、心と体の健やかさ(健康)を保って、天寿を全うしたい。理想は老衰死である。それが危機管理である。

 不慮の事故等で死ぬのは、危機管理ができていなかった証である。その事故に遭う確率を少しでも減らして生きたい。身の回りは危険が一杯である。

 天命を全うするため、死というプロジェクトに本気で取り組みたい。それこそ本当の終活である。財産や品物の整理や身辺整理は、些細なこと。そんなことは、後の人がやってくれる。後は野となれ山となれでよい。

 それより何のために生きて、何のためなら死ねるのかを、明らかにすれば死は諦められる。諦めるとは、死を明らかにすること。

 

「詩人の颯声を聴く」

  本気になると

  世界が変わってくる

  自分が変わってくる

  変わってこなかったら

  まだ本気になってない証拠だ

  本気な恋

  本気な仕事

  ああ

  人間一度

  こいつを

  つかまえんことには

 

 これが但馬銀行に掛かっている。谷山さんが掛けられた。その詩でずいぶん救われた人がいる。何故かというと、銀行ですから、破産した人、しそうな人,いろいろ来る。お金借りたいと思って来て、そして、「わしは、まだ本気でなかった」と。「本気でやらなかったからこうなったんや」と。それで、「だから、銀行からお金借りません」って。そして帰ってやり直す。たくさんの人が「本気」で救われました。

 

息をしている瞬間が臨終

 一遍上人は「ただいまの念仏の外に臨終の念仏なし。臨終即平生なり」という。つまり、あなたも私もいま、息をしていますが、その息をしている瞬間が臨終だ。毎時毎秒、 1分 1分が臨終なんだ。今、そういう気持ちで生きている人間がいますか。そこまで徹底して追及した人はいません。一日一生などといいますが,一瞬に比べたら、一日はとても長い。

 一遍さんは息をしているときがすなわち臨終だという。そう考えたら、なんでもできる。人間、いま死ぬんですよと言われて、すると、慌てふためく人もいれば、そうかと考えて、なすべきことを全部しようという人もいます。死ぬ気でやれ、なんていったりしますが、本当に死ぬ気でやったら、できないことはないんじゃないですか。

 

創造する人間

 「老人は早起きだというが、そんなことはない。私が普通の人と同じように遅くまで寝ていたい。しかし、私が普通の人と同じように遅くまで寝ていて、どうして人々の心に光を灯す詩が書けますか。創造する人間は絶えず、危機の中に身をおいてないといけない」

 

著者プロフィール

 四国松山に住まい、

 ひたすら詩作に一道精進を続ける。94歳(2003年1月現在)

 随筆集「念ずれば花ひらく」の著者。

 1980年 正力松太郎賞受賞

 1989年 愛媛県教育文化賞受賞

 1991年 仏教伝道文化賞受賞、愛媛県功労賞受賞

 2006年12月11日 逝去

 坂村真民(聞き手藤尾秀昭)著「詩人の颯声を聴く」より。一部編集。

 致知出版社(2000年) 1300円

 

本気

 「本気」の詩を見てご臨終になる人、生き返る人。自分はどちらであろうか? 今日元気であっても、明日地震で死ぬかもしれない。東日本大震災、阪神淡路大震災のように。明日、テロに遭遇するかも知れない。ニューヨーク貿易センタービルの同時多発テロのように。いつ何時、レバノン大爆発の巻き添えにあうかもしれない。いつ何時、ガンで余命宣告をされるかもしれぬ。癌ならまだ時間余裕があり幸せである。心筋梗塞、脳梗塞に襲われれば、即死状態である。その数は年間20万人余である。

 「今、すなわち臨終」との一遍上人の言葉が、心に重くのしかかる。今を必死に生きない人に明日は無い。それは生きているのではなく、生き長らえていることで、ただ息をしているだけの人生ではないのか。

 私の好きな詩に「本気」がある。本気で物事に取り組んでいれば、道半ばで斃れても、本望である。それは名誉の戦死である。本気でないから、死に臨んで悔いが出る。

 

河村義子先生の本気

 私も1年半前に、余命2年半の余命宣告を受けた(5年後の生存率51%)。計算上は後1年の命である。

 義子先生は、死の5年前にその余命を悟られたようだ。義子先生は、死を明らかにして、諦めて本気で人生最後の5年間を生きた。私はその最後の5年間にご縁があったことに、感謝である。義子先生から、人生のフィナーレの生き方を教えて頂いた。

 

 本気ですれば大抵のことはできる。

 本気でしていると何事も面白い。

 本気でやっていると誰かが助けてくれる。

 人を幸福にするために、本気で働いている者は、みな幸せである。

                       作者不明

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 馬場恵峰書

 

2020-08-08 久志能幾研究所通信 1696  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 6日 (木)

私を吹き飛ばしたレバノン大爆発  カウントゼロから復帰

AFPBB News  2020/08/06 14:35

【AFP=時事】レバノンの首都ベイルートで2020年8月4日発生した大規模爆発の原因とされる大量の硝酸アンモニウムは、少なくとも6年間、港の倉庫にぞんざいに保管され、いつ爆発してもおかしくない状態だった。

 治安当局筋によると、保管されていた硝酸アンモニウムの爆発の威力は、TNT火薬少なくとも1200トンに相当する。地震のような揺れを伴う大爆発で街の大半が破壊されたのも不思議はない。

 複数の治安当局者がAFPに語ったところによれば、レバノンの港湾当局と税関職員は、ベイルート港に硝酸アンモニウムが保管されていたことを知っていた。しかも、昨年になって治安当局が調査を開始し、倉庫から硝酸アンモニウムを移動させるよう求めていたという。

 

 そうなんです。危ないことは前から分かっていたんです。神様は何回も警告を出していたんです。それを無視したから、カウントダウンがゼロになり、大爆発をしたのだ。

 

心疾患による死亡数は年間20万4,837人

 厚生労働省発表の「人口動態統計の概況」によると、平成29年(2017)1年間の死因別死亡総数のうち、心疾患(高血圧性を除く)は204,837人で、死因別死亡数全体の15.3%を占めており、悪性新生物(がん)に次ぐ2番めに多い数字でした。

死因別死亡数を性別にみると、心疾患で亡くなった男性は9万6,319人で男性全体の13.9%、女性は108,518人で女性全体の16.7%という結果に。男女とも死因の第2位となっています。

 

脳梗塞による死亡数は年間6万4,523人 

 厚生労働省発表の「人口動態統計の概況」によると、平成27年1年間の死因別死亡総数のうち、脳血管疾患は111,973人で全体の8.7%を占め、全死因の上位から4番目という結果になりました。性別では、男性が53,576人、女性が58,397人で、ともに4位でした。

 一般社団法人 日本生活習慣病予防協会のHPより

http://www.seikatsusyukanbyo.com/statistics/2019/009997.php

 

日本人へのカウントダウン

 日本では、新型コロナウイルスでの死者は1000人である。例年のインフルエンザでの死者は3000人である。マスコミは新型コロナウイルスに過剰に騒ぎ過ぎである。恐怖を煽動すればテレビや新聞を沢山見てくれて、儲かるから恐怖を煽り立てているのだ。それより年間20万人が死ぬ心疾患が怖しい。癌で死ぬ人が60万人である事実が怖しい。それをマスコミは無視している。何故か? それはマスコミにとって、儲からないニュースだから、避けているのだ。その真因が、大スポンサーの食品メーカの「狂った食品」であるから、それから目を逸らしているのだ。

 日本人は食べてはいけない「狂った食品」をマスコミの宣伝で煽られて摂取して、癌や心疾患、脳梗塞になって死んでいく。仏様はその前に警告のカウントダウンとして、病気の症状を与えてくれている。病院も「栄養過多、太り過ぎ、過飲、喫煙、糖分の取り過ぎ、運動不足」と警告を与えている。しかし患者は、それを「分かっちゃいるけど、やめられない」と長年、無視してきた。しかしその蓄積が限度を超え、血管内のプラークが剥離して、それが脳とか心臓の毛細血管に飛び、結果として「大爆発」が起こり、突然死の脳梗塞、心筋梗塞を引き起こしたのだ。本人にはレバノン大爆発に相当する大惨事となり、死ぬことになる。誰のせいでもない、己の健康管理の怠慢のせいだ。レバノンの大爆発でも、危険物の管理不行き届きだけが原因である。

 マスコミは、その「狂った食品」を食品メーカの手足となって、テレビ、新聞、雑誌等で宣伝している。その真因から眼をそらすため、新型コロナウイルスの恐怖を煽り立てている。

 

私のカウントダウンをリセット

 私は真島消化器クリニックの真島院長から、脳梗塞、心筋梗塞の発症の寸前だとの診断で、その治療として食事療法を2年間してきた。それでやっと死神の手から逃れられた。レバノン大爆発から逃れられたと同じである。残念だが、私は昨年、癌を罹患してしまい、癌の魔の手からは逃げ遅れてしまった。レバノン大爆発の余波は逃れられなかった。しかし、真因を見つけて、対策を打ち、なんとか生き延びることができた。気が付いた時に手を打てば、手遅れにはならない。今からでも遅くないのだ。

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2020-08-06 久志能幾研究所通信 1694  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

危機管理11 カウントダウン

 近くで時限爆弾のチクタクが聞こえる

 人生・仕事の危機管理とは、爆発(信用破綻、破滅、病気、解雇、事故、突然死、自殺)までのカウントダウンの秒読みの「佛の声」が聞こえるかどうかである。大自然は、声なき経を唱えている。人体は、声なき助けの叫びを上げている。

 危機意識に対する感性の低い人は、このカウントダウンが聞こえない。仕事を始めれば、自動的に危機状態へのカウントダウンが始まる。また決断を引き延ばしていると、いつの間にか最終カウントダウンの状態に陥る。人生では、いかに早くそのカンウトダウンに気づいて、リセットボタンを押す能力と意欲、その姿勢が問われている。

 そして危機に気づかず、リセットボタンを押せなかった人が、年間32,000人(2002年)も自らの命を絶っている。前年度は22,000人だったのにである。2019年現在は、少し自殺者は減ったが、それでも20,169人である。今はそんな厳しい時代である。

 

◆◆◆カウントダウン3

 上司はやさしい人です。部下の育成を願い、注意や叱責をしてくれる。そして3回目迄は許してくれる。でも仏の顔も3度まで。1回目の「督促」は要注意である。「残りはあと2回ですよ」と。2回目になるとイライラした怒りなのだ。「あと一回で爆発ですよ」と。3回目は爆発して、もう「この件に関してはダメ!」との烙印を押す。仏が鬼に変貌したのだ。もう4回目は無い。仕事が他の人に回るのだ。まさにリストラの危機である。上司は何回言っても判らない人、言っても仕方のない人には何も言わない。そうしないと、組織全体が危機に陥ってしまう。

 

◆◆カウントダウン2

 自動車メーカーはもっと厳しい。1回目の品質問題か納入問題を起こして、キチントした再発防止を打たず、2回目の問題を再発させると、自動的に納入停止である。最悪の場合は取引停止である。そうなれば倒産である。なにせ、自動車部品の生産ラインは他には転用がきかない。トヨタへの納品が出来ないから、他のメーカーに納めるなどは出来ないのだ。でもそういう厳しさが有るからこそ、トヨタグループ全体としては、なんとか勝ち組みに入っている。

 

◆カウントダウン1

 怒鳴るお客様は親切である。きちんと間違いを指摘してくれるのだから。その店が好きで、なんとか改善してほしいと思っているのだ。文句を言うのが当たり前と思われる米国でも(マーケッテッング調査による)、クレームを言う客はたったの5%である。

 でも真のお客様はもっと厳しいのだ。お客様はお店に来て、一回の不愉快さを感じると、もう来てくれない。95%の客は黙って、何も言わず去って行く。それが一番冷酷である。そういった危機感を持って仕事を遂行しないと、仕事が無くなる。店が潰れる。会社が社会的制裁を受ける。

 

・今ここ/カウントダウン0

 しかし運命の女神様はもっともっと冷たく厳しい。あの時、あの状況、あの人達との巡り合わせは2度と来ない。今その時に全力を投入しないと、悔いが残るのである。失った時間,チャンスは二度と帰って来ない。しかし積極的に運命に対面する人には女神様は優しい。行動するから新しい局面が展開する。

 

悪魔のカウントダウン

 決断しない、行動をしない、優柔不断に引き延ばす、こんな行動では、全て悪魔にカウントダウンのスイッチを押させる行為なのだ。決断しない、それは決断しなければない項目が目前にあるはず。判っていても、できない。行動しない、頭では行動しなければ思いながらも、動かない、動けない。それこそが悪魔にカウントダウンの時計を速める。すべて自己の選択の結果である。決断しないという選択をしている。決断・行動をしない人には運命は冷酷なのである。その件に決断しなくて、結果に対して泣き言を言う人は、子供なのだ。自分の決断に責任が取れないのだから。決断をしなかったという、選択・決断をしている。

 しかし、本物の時限爆弾と違い、人生での危機は、その状況に気づきそれをリカバーする気になれば、遅い速いは別にして、リカバーの手段は無限にある。それが唯一の救いである。それさえ気づかない人が絶望して命を絶つ。その数32000人(2002年当時)。

 

一期一会

 一期一会とは危機管理の言葉。人生に、もう一度の機会などはないとの危機感が必用である。悪魔は黙ってカウントダウンのスタートボタンを押す。心耳を澄ませば、あなたの頭上で音もないカンウトダウンが聞こえるはず。それは何のカウントダウン?

 

懐かしい思いで

 以前の部署の上司で、トヨタから出向されていたО部長には、この件で厳しく指導された「3回督促して、上司の要求に応えられない時は、もうその件ではダメ!」との烙印を押される、と指導された。

 「これで3回目ですよ。小田さんって、そんな情けない人だったんですか」と言われたことが多々あった。それはなんと辛く情けないことであったことか。言い方は優しいが、心にグサッと突き刺さるような厳しさがあった。でもこの厳しさはトヨタ自動車では当たり前で、思えば私にはかなり甘い指導であったようだ。О部長が受けた指導はそんな生半可なものではないようだ。そういう人財がトヨタを支えている。だからトヨタは生き残っている。

 「リーダーとは厳しく、嫌われてなんぼの世界、それが組織を生き残らせる条件」と割り切れば、人を厳しく教育するのに抵抗はない。なまじっか人に好かれようとするから、人を指導できなくなる。組織とてやるべきことが出来なくなる。自分が甘くては人を指導できない。組織の業務改革はできない。

 入社以来、数多くの上司が私の前を通りすぎていった。優しい上司や冷酷な上司は記憶に薄いのだが、厳しく指導をしてくれた上司ほど記憶に残り、厳しさを教えて頂いた熱意にありがたさをつくづくと感じる。人は甘やかされ、何も言われなくなったら、おしまいなのだ。その状態に気づくのが危機管理である。

                         初稿 2003年7月2日

Photo   馬場恵峰書 2006

2020-08-06 久志能幾研究所通信 1693  小田泰仙

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著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 5日 (水)

痴人の愛 「愛人HD」のご臨終

 ビデオをこよなく愛する知人が嘆いていた。この3年間で二人の愛人がご臨終になったと。

 要は、ビデオレコーダーのハードディスク(HD)が故障(クラッシュ)して、録画してあったデータが総てオシャカになったという。

 救いは、3年前の故障時に、録画してあった全データが消えるという痛い目に会ったので、それに懲りて、ビデオレコーダーの外付けHDには、SeeQVault対応品に変えて使っていたこと。それで、その使用中のHDに追加録画はできなくなったが、録画してあったデータは、別のビデオレコーダーで見ることだけはできるという。

 

生は偶然、死は必然

 ハードディスクにも寿命がある。一般論で3年が正常に使える限度である。それを超えたらご臨終を想定して、バックアップやBDへの保存が必要である。ハードディスクは、直径3.5インチの円盤が高速、7000rpmで回転している。それ磁気読み書き用の小さな磁気ヘッドで、その円盤の上をサーチしている。磁気ヘッドの大きさをジャンボ機に例えると、全長70mのジャンボ機が地表5㎝ほどを浮いて飛んでいるようなもの。ハードディスクとは、いかに精密かが想像できる。だからハードディスクはチョットした衝撃で簡単に壊れる。だからハードディスクは壊れて当然の製品である。それは消耗品である。

 生あるものは必ず死がある。それは万物に当てはまる。ビデオレコーダーもしかりである。生きている間だけだよ、手に取ってお互い、生きていることを確認できるのは。

 同じように人の明日の命は分からない。何時までもあると思うな親とカネ。

Photo

 馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

 2016年

 

2020-08-05 久志能幾研究所通信 1691  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 4日 (火)

ご縁のリストラクチャリング

悪手の山     

 米長邦夫元名人は、その著で、「人は悪手の中を歩いている、一手間違えれば簡単に人生が暗転する」という。

 同じ意味で、人生には多くの縁が溢れているが、その多くが悪縁である。因果応報で、悪縁と交われば人生は下り坂である。悪縁の人は、悪縁を招く習慣と考え方とそれに纏わりつく人脈がある。その腐臭がすさまじいが、鈍感な人はそれに気が付かない。知らずに付き合うと、悪縁が心に染み込む。「君子危うきに近寄らず」でありたいが、宮仕え生活ではそれもままならない。サラリーマン時代はそれを避けることは、至難の業であったので、かなりの被害を受けてきた。まるでタバコ副煙流の害毒如きである。

 

ご縁の選択肢

 しかし定年後に組織を離れたことで、寄ってくる縁を選別できるようになった。些細なことや対応ぶりから、友人、知人、業者の人生哲学が垣間見えて、縁の鑑定ができる。それが悪性の縁と分かった時点で、その縁を切ることにした。よき人生は良きご縁から始まる。悪縁を切ると、空いた空間に良きご縁がすり寄ってくる。組織を離れたら、縁は自分で選びたい。

 

人生のリストラ

 リストラとは、事業の再構築(restructuring)が本来の意味で、首切りは単なる一つの方法論である。還暦後の第二の人生を門出して、正しい道を歩むために、人生再構築のリストラが必要である。

 企業経営でも、不正をする人、業績を下げる人、定年になった人はお払い箱である。そういう新陳代謝をしないと会社が左前になってしまう。同じ考えで、自分株式会社に害をなす縁者はお払い箱にして、身辺整理をしてリストラしないと自分の人生が傾いてしまう。切るべき縁を切らないから腐れ縁となる。腐った縁は、周りに害を及ぼす。人生経営の6Sをして縁の整理整頓をすべきである。

 

食料というご縁

 生きていく為には食べなければならぬ。その食料が、添加物まみれ、農薬まみれ、養殖魚の病気防止で抗生物質まみれ、ショートニング、マーガリン、植物油まみれの加工食品でもお腹は膨れるし、当面は生存が可能である。しかしその食物は遅延性の毒である。10年、20年のスパンで食の人生を考えた場合、そのツケを慢性病、成人病、ガンという病気という形で支払う日がやってくる。日本をはじめ先進国で加工食品が増えるに比例して、医療費が増大している。

 良薬口に苦し、医食同源を基本に、食べ物とのご縁を大事にしたい。

 

生きていくためのご縁

 社会で生きていく上では、ご縁が必要だ。しかし質の悪い縁に囲まれると、それが遅延性の毒として人生を覆い、不運という人生生活病に侵される。

 約束を守らない人、こちらが散々お世話をしたのに、恩を仇で返す輩、信心深くても己だけの幸せを願う人、苦情対応で不誠実な企業、新興宗教にはまっている人、車検を依頼した車を私用で乗り回す修理工場社長(ドライブレコーダで露見)、人の迷惑を顧みず自慢話ばかりする元副社長、前職の不祥事の責任を回避する後任の長、先祖を大事にしない親類縁者……….よくこれだけいい加減な人がいるものかと呆れるばかり。そういう人と付き合うと血圧が上がるので、自分の組織を守るため、その悪縁を切ることにしている。

 

ご縁のリバイバルプラン

 そのご縁が良いか悪いかは、誰にも分からない。悪だくみをしている人には、詐欺の話しがよい話になるだろう。善人にはその逆である。

 確実に言えることは、じっとしていて動かなければ、永遠にご縁はやって来ない。まず動いてみて、感触が良ければそれに手を出すことだ。今まで数十年間も生きてきて、直観という能力で物事を判断できるはずだ。それに素直に順うことである。来るものは拒まず、去る者は追わず。あとは佛様がよきに計らってくれる、と信じよう。信ずるものは裏切られる? 裏切られても良いではないか。それから、その縁を切ればよいのだ。それで一つ賢くなる。おだ仏教では、そうしている。

 

人生のご縁収支決算

 人生とは、集めた¥高を誇る競争ではない。円を集めた額を誇示するのではなく、ご縁に接し、その縁に報い、よき縁を人にどれだけ分福したかに価値がある。

 人生は集めたものでなく、どれだけ与えたかで評価される。いくら集めてもそれを喜ぶのは己だけでは哀しい。お金は、あの世には持っていけない。人から分捕った分、不幸になった人がいる。グローバル経済主義では、99人の富をたった1人が強奪独占する。強奪した富には多くの人の怨恨が籠っている。

 人に与えたことは多くの人が評価してくれ、その結果として与えたご縁に花が咲き、実が結ぶ。それでこそ、自分の人生の意味がある。悪しき縁からは、良き人生は生まれない。その縁の選別眼が人生価値を左右する。

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2020-08-04 久志能幾研究所通信 1690  小田泰仙

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伝承とは祈り

 私が師匠から教わった一番大事なことは、「技術はいらない。精神性と心を磨け。心が伴なわない人に、技術なんてロクなもんにはならない。」。

 私はそう教わって、次に人にそれを少しでも伝えられたらいいと思う。そうやって結果を残すことが、現場を含めて、人づくりもそうですわね。そこが一番の恩返しかなと思います。

   西山 天龍寺 庭師 平木信行氏 談

 2020年7月6日放映NHKBS「京の都を守る霊山 祈りの道」より

 

何のために?

 どんな仕事でも、イベントでも、心が籠っていない仕事は、人に感動を与えない。やっつけ仕事で、いくらイベントを上手くやっても、同窓会幹事だけが自己満足しているようでは、ガキの作業でしかない。

 その仕事は、何のために? 誰のために? 何を残すために? 何を継承するために?を自問したい。その答えは千差万別でも、それをやり遂げる人の心こそが肝要である。

 それを突き詰めると、何のために生きているのだ?

 その答えを求めて生きている人は幸せである。少なくとも、人として生まれて、学んで人間を目指して精神を磨いているからだ。

 魂の浄化こそが、動物で生まれて、人間になるための目的である。

 

 学ばないと宿命的存在、つまり動物的、機械的存在に成り下がる。学ぶことで運命的存在、つまり人間的存在になる。

               安岡正篤

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何のために市長になったのか?

 2017年12月21日、小川敏の母校の忘年会で、集まった同窓生の場で、上座にふんぞり返って小川敏は、翌年の市制100周年記念行事の件を誇らしげにぶち上げた。その忘年会の開催目的は、小川敏が同窓生にその演説をブツための集まりであった。同窓生は卒業すれば、皆同列である。それを小川敏が上座で演説をぶつように段取りした幹事は、仲間の裏切り者である。忖度である。50年前の母校の同窓会としての最初で最後の忘年会を、段取りした幹事は、その目的を忘れて走り回った。多くの同期の仲間を呆れさせた。虚しい幹事作業であったと思う。 P10909022

小川敏は何のために大垣市長になったのだ?

 その市長としての心がけがないから、市政が最低である。小川敏には、市民のためという心も大義名分もないから、大垣市は小川敏が市長になってから、19年間連続で没落し続けた。大垣市の公示地価が冷酷にそれを示している。

 

020-08-04 久志能幾研究所通信 1689小田泰仙

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2020年8月 3日 (月)

ご恩返しの響きは、人生交響楽団の調べ

 受けたご恩は、直接は返しにくいものだ。例えば先輩から赤ちょうちんに連れて行かれてご馳走になっても、お返しは「なし」である。それは自分の部下に奢ってあげればよい。それがご恩の響きあいである。

 先輩から人生の指導を受ければ、それを後輩に伝えればよい。その受けた御恩を、自分の後輩に返していく。そうやって代々先輩の苦労話を受け継がれていく。それが御恩返しのハーモニーである。

 最大のご恩は親から受けた恩である。

  親孝行 したいときには 親はなし

 師から受けた教えの御恩を返そうとしても、その時、師はこの世にいないことが多いもの。だからその教えは、後進に伝えればよい。

 私は多くの師から、大きな教えを頂いたので、このブログで、その内容を書いてその恩返しをしている。

 知りたることを人に教えざるは、借金をして金を返さざるが如し。

                  福沢諭吉翁

 

 私の趣味は、写真である。宴会や会合の時、その写真を撮りまくっている。それを皆さんに、お礼の気持ちで提供している。

 先年、高校の同窓会があり、仲間が宴会の風景を写真に撮っていた。その後、その写真を納めたCDが皆さんに送られてきた。お金を払おう必要もなく、会費からその費用は出ていたようだ。写真を提供して頂いて写真係に感謝である。よき想い出の写真となった。記憶は日々薄れていくが、写真が残っていれば、記憶が鮮明になる。

 

ご恩返し連綿の断絶

 先年、50年ぶりの中学の同窓会が開催されて、私は写真係を黙って担当した。その時撮った写真を整理して、82枚のデータをCDに納めて同窓会幹事に託した。私はてっきり、幹事から皆さんへCDのコピー配布があると思っていた。ところが、その写真データを、幹事達だけで、プロジェクターに写して、楽しんでオシマイであった。

 私は高校同窓会の写真CDの恩返しとして、中学同窓会のCDを提供したのだ。それが使われずにお蔵入りとなってしまった。私は怒りである。

 20人近くいる幹事の誰も、その写真CDをメンバーに配ろうとする発想がなかったことに愕然とした。聞けば幹事同士で醜い主導権争いをしていたという。そんな利己的なレベルの幹事が開催する同窓会では、二度と参加したくはない。受けた恩を忘れては、犬畜生に劣る。

 

2020-08-03 久志能幾研究所通信 1688 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

私のHDバックアップ、人生のバックアップ

 私は毎月、パソコンの6テラ分のデータをバックアップしている。写真やビデオデータが増えて、その容量が急増して閉口である。その昔はフロッピーディスクやMOで済んでいたのが嘘のようである。

 今のバックアップの手法を紹介する。

 

バックアップ機器

 私はパソコンの4テラと2テラのハードディスクを3セット用意して、毎月、3ヶ月をワンサイクルとしてバックアップとしている。毎月、月末にパソコン内の全データをバックアップする。

 今、入手できるのが最大で4テラのハードディスクだから、4テラと2テラのハードディスクを1セットとして使っている。

 3重だから、ハードディスクの使用頻度が1/3になるので、問題がないが、一応、ハードディスクの電源オンオフ回数、累計の使用時間は管理している。ハードディスクの寿命に関係するのが、電源オンオフ回数で、それが3年分を過ぎると危ない。

 家のパソコンは、ハードディスクの保護のため、朝電源を入れて、夜しか切らない。省エネとして、一日に何回も電源をオンオフしては、ハードディスクの故障の原因となる。

 

3重のバックアップサイクル

 翌月、3か月前にバックアップしたハードディスクをフォーマットして、それに当月分のバックアップ分を書き込みする。

 翌月も同じパターンでバックアップする。

 これを3ヶ月のサイクルで繰り返す。

 時折、月の途中で、ディスクトップのデータをバックアップする。

 これで過去3ヶ月分のバックアップが準備できる。

 ハードディスクは常時は電源を入れず、3ヶ月ごとに電源を入れて、稼働である。常時電源を入れておくよりも安全だと思う。あまり長い間、電源を入れないのも、ハードディスクにはよくない。

 

生あるものは必ず死

 これは今まで、私のパソコンのハードディスクがクラッシュして何回も泣いたことから生まれた智慧である。ハードディスクは壊れて当たりまえ。それを前提にバックアップをしている。

 データをブルーレイディスクに保存すればよいが、6テラもあると、物理的にも、時間的にも無理である。そのバックアップには、50Gのブルーレイディスクが120枚もいる。その記録時間も膨大である。またディスク代が高価である。パソコンのハードディスクのバックアップは、ハードディスクへのバックアップが再利用ができて一番効率的である。

 あえて自動ではバックアップはしない。手動である。月一回のことだから、不要なデータを消すことを兼ねて、手動でバックアップである。

 

友情バックアップ

 もう一つのバックアップとして、イベントや宴会等で写真を撮った場合、その写真データをCDに納めて知人に進呈している。そうすれば、当方のデータが消えても、知人の家にそのデータが残っている。安全である。きちんと保管してくれるような高品質の写真を送るようにしている。

 

私の引継ぎ

 会社の異動で職場を変わる場合でも、私は引継ぎにあまり時間をかけない。日頃、仕事の中身は全て書類で残しているし、日頃、部下にその資料を見せているので、その時になって、慌てて引き継ぐ必要もない。これも日ごろの仕事のバックアップと同じである。

 

後継者育成の責任

 リンカーンは、人は40歳を越えたら自分の顔に責任を持たねばならないと言った。私流に解釈すれば、このことは自分だけでなく部下に対しても教育の責任があることを意味している。人はあるレベルに到達すると自分の持つ情報を後継者に正しく伝授する責任が発生する。それがバックアップである。そうなれば、いつ死んでも、何時異動があってもよい。人事異動とは、パソコンのクラッシュと同じである。

 

 自分のしてきた事を、いつか人に伝えれなかったら、何もしてこなかったと同じである。

    アー ウ ィン ・シュ レジ ンガー *2

 

 どんなことでも教育を受けたことは他に伝授して初めてその行為が完結する。設計でも事務 、現場等でも自分のやってきたことを部下がそれ以上にこなしてくれて初めて彼への教育及びその業務が完成したと言える。

 今の科学技術が過去の技術の蓄積の積み重ねである以上、教育はその上台となる。そういう意味で後に続く人をゼロか らスター トさせてはならない。これが会社の組織 及 び技術の継続、発展には不可欠である。

 

自分の生データをバックアップ?

 自分が死んだら、今まで蓄えた智慧が消滅する。体のDNAは新らしく生まれてくる子供が受け継ぐが、その脳みそ内は再生できない。その智慧を文書に残すのが、唯一のバックアップ手段である。完全ではないが、これしかない。だから私はその体験や知恵を書類に残している。

 前職の会社では、自分のノウハウを文書にして遺してきた。それは設計要領書、規格、論文、報告書、再発防止書等である。だから今の私のブログは遺言である。

 バックアップとは危機管理である。自分の後継者を作るのも、バックアップであり、危機管理である。

 

 書いたものだけだよ、後の残るのは   馬場恵峰師の口癖

 

2020-08-03 久志能幾研究所通信 1687 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 2日 (日)

相田みつをが出逢った逆縁の菩薩

 相田みつを氏は学生の時、喫煙の濡れ衣を着せられ、不良学生と烙印を押された。そのため相田氏は、軍事教練の教官から徹底的に虐められた。結果として軍事教練の単位が、相田氏だけとれず落第となり、進学できなかった。

 当時、軍事教練の単位がないと進学できない時代である。氏はそのため寂しい青春を過ごすことになり、ある縁で在家ながら禅の道を学んだ。それが後に書の道に進む縁に結びつく。

 大学に進んでいたら、学徒動員で戦死していた恐れがある。氏はこの軍事教官を「逆縁の菩薩」と呼んでいる。なにが人生で幸いするか、人知を超えた天の計らいである。この軍事教官は、相田みつを氏には福の神であった。

 

馬場恵峰師の見た夢

福の神・貧乏神

 美しく着飾った女性が資料館を訪ねて来た。どなたでしょう…と聞くと「私は富を与える福の神だ」と答えた。館長は大喜びで奥へ迎え入れた。しばらくしてみすぼらしいなりをして色青ざめた女が訪ねて来た。聞くと、「私は貧乏神だ」と言う。驚いて館長は、貧乏神さまでもおことわりと、追い返そうとすると女は言った。「私を追い返すの…..愚かな事よね….と。先に迎え入れられた福の神は、私の姉で姉妹はいつも離れた事はないのだから、私を追い出せば、姉もいなくなりますよ….」と言って、みすぼらしい女は出て行った。間もなく姉の福の神もこの館から消え去っていた。

 館長は夢から醒めると、この様をよく考え直して見た。人間というものは一方的に都合の良いことのみを願っても、それは達成されるものではない。福があるから禍があり、良いことがあれば悪いこともある。生があるから死がある。相合う喜びあれば別れの悲しみあり。これが人生の真実。相反する禍福を超えて執着しないところにこそ堅実な人生の生き方と….地位が上がった、収入が増えた….そういう得意の絶頂で、禍の谷の深さを意識しない位あぶないものはない….館長は良い反省の夢と手を合わせた。資料館造って20年様々な出逢い喜び悲しみ別れ等々。落成記念写真の120名来賓の中、物故者も20名を超え、20名以上の人が病院そのほかでなかなか会えない。今この四曲の200余の和歌、日頃訪中の折々、いろは歌等々思い出多く自作たるもの、下記つづりしものにして、思いもよらず親愛なる新立大工の心配りのものにして、全長二米八十の屏風本体と共に、館落成20周年の得難き人情交友のあかしとして他に類なき尊いものと言えよう。戌子の上冬の夜も次第に深くなり。また齢82翁の今日も終らんとする。みかん園も活気づく頃も、もう20回。山里の四季の中で過ごす事の有難を感謝して手の痛みと付き合いながら重い深きひと時、天之機緘不測、即天が人間に与える運命のからくりは人知では到底はかり知る事はできない。残された人生に、唯一筋書芸三昧の歩みに餘念なく。館長の夢は大きな玉手箱と…今日も終らんとす。ここに随筆として一篇即興書きどどむ。

          平成20年10月21日三宝斎恵峰

 

 自分の人生を振り返り、谷があるから山がある。谷での試練が有るから、成長ができた。人生塞翁が馬である。いいことばかりの人生などない、が70近くまで生きてきて学んだ真理である。

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 福の神・貧乏神の板書を解説する馬場恵峰師  図書館にて 2011年4月2日

 この板書は書の収納箱の蓋に書かれている。

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2020-08-02 久志能幾研究所通信 1686 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月30日 (木)

人生道千曲がりでのご縁

 還暦を迎えて、歩いてきた過去を振り返えり、更にその後の10年を振り返ると、下っていた人生道千曲がりの道でも、自分の修行としての下り坂で、上に上るためには通らなければならない道であったと、今更ながら運命の悪戯に感謝している。

 悪路を歩いている間は、目先の試練で惑わされてそんな考えは浮かんでこない。しかし過去は考え方を変えれば、その悪い経験を自分の修行であったと、過去の見方を変えることができる。そうすれば自分の未来が変わる。過去を肯定せずして、自分の未来はない。

 逆縁の菩薩に出会わなければ会えない師とのご縁がある。新しいご縁は、縁あるもの死なくしては、生まれてこない。

 

過去の山道

 還暦前の会社時代は、いくら冒険だとしても、所詮、ガードレールの付いた道を歩いていた。還暦後、自由な世界で道を歩いていると、なんと今までが安全な世界で生きていたかと愕然とする。やはり障子は開かねば、広い世界が見えない。障子の外は広いのだ。

 もの心がついて50年、ひたすら頂上を目指して千曲がりの道を歩いてきた。時に坂を下るときもあったが、視線は頂上を見ていた。その坂も、古希を迎える間際になって、やっとその意味を悟る有様である。

 

地獄を見る

 私は健康オタクで頑張ってきたが、若い頃は仕事に目がくらみ、知らず知らず体を傷つけてきた。それに気がついたのは、古希も近いときで、癌が見つかったときだ。そのため終活準備、入院、手術、余命宣告、病後の養生で、多くの出会いと別れがあった。

 極限状態の地獄を見て初めて、その縁の真価が露見する。すべては仏様の導きであったと、今にして思う。地獄の道に入らねば、見えない世界がある。生死の境を超えることで、多くのご縁を授かった。そこから生還できたことに感謝である。

 人生道は千曲がりの坂道である。頂上に着くには、千回曲がらねば到達しない。無駄な曲がりはない。その曲がり角を1回ずつ超えるごとに、経験と知恵がご褒美で与えられる。それがお宝である。

 

 

参考  2017/07/18

人生は千曲がりの山道(改定) - 久志能幾研究所通信

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Photo

2020-07-30 久志能幾研究所通信 1683 小田泰仙

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