c-馬場恵峰師の書・言葉 Feed

2021年7月12日 (月)

私の人生商売道 13則

正しく稼ぐ金は美しい。その銭には汗と血の匂いがある。

 

1 人生で売るべきものは自分

 だからこそ、商品としての自分を磨け。

 自分という商品は生鮮食品である。油断するとすぐ腐ってくる。

 新陳代謝(学び)を心がけよ。

 

2 商品としての自分の健康が第一

  商品の大前提が、死んでもいいから健康管理最優先である。

  命の安全が最優先である。

  危機意識、危機管理対応の薄い人との商売を避けよ。

  病気になっては商売もできぬ。

.

3 人生商売は命の物々交換

  時間は命。人と1時間面会するとは、相手の命の1時間を頂いているのだ。それに見合った人生商売をせよ。

 

4 商品にこだわりあり

 私は自分という商品にこだわり以上の「オダわり」を持っている。

 「オダわり」には、頭の汗が流れている。

 その商品が、相手の一部となり、人生の助けとなる。

 付加価値を高める意思がある人と商売をせよ。

.

5 上品を売れ

  売る商品は上品を旨とせよ。商品に自分の人格が現れる。

  モノを買うとは自分を買うこと。ものを売るとは自分を売ること。

  下品と付き合うと、自分も下品になる。

  上品な人は全て人生の師。老若男女を論ずる事なかれ。

.

6 目先の仕事に全力投球。カンバン人生

  過去は歴史の墓標。未だ来ぬ未来は蜃気楼。

  いま、ここ。目先のカンバンこそ現実、それを大事にせよ。

  トヨタ生産方式では、カンバンが一番大事。

  人生のカンバンを疎かにすると人生工場ラインが止まる。

 .

7 人生工場ラインの失敗は勉強代。

  失敗やクレームにお宝が埋まっている。

  失敗大歓迎。そこから智慧を稼げ。

 

Img_4281s

  耳中常聞逆耳之言  馬場恵峰書

 

8 人生は浪花節。ご縁と信用が第一

   情けは人のためならず。

 

 「ビジネスは壊れやすい花瓶に似ている。

  無傷であればこそ美しいが、一度割れると二度と元の形には戻らない。」

    Business is like a fragile vase - beautiful in one piece, but once broken, damn hard to put back together again to its original form.              “Letters of a businessman to his son" by G.KINGSLEY WARD

 キングスレイ・ウォード氏著『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(城山三郎訳 新潮社刊1987年)

 

Img_44131s

9 仕事の疲れは仕事で取れ。仕事を趣味とせよ。

  仕事はやればやるだけ面白くなる。

  遊びはやればやるほど、地獄になる。

  仕事は世のため人のための奉仕活動である。

 

10 雨が降ったら傘をさせ。

  人生は塞翁が馬。雨も降れば晴れもある。

  宇宙根源の理に逆らわない。

    雨が降ったら傘で儲ける人もいる。

 

Img_44121s

11 商売の鉄則は納期厳守

  自分の命の納期を意識して商売をせよ。

  ご縁は偶然、死は必然。

  どんな商売もご縁で始まり、死で終わる。

  命は人を待ってはくれない。人の明日は分からない。

  今日会うのが一期一会、人生最後と思って対処せよ。

 

4k8a0254s

12 夢なき商売するなかれ

  一生かかっても実現できない夢を見ながら人生商売を続けよう。

  棒ほど願って針ほど叶う。

 

13 商売の終わりは感謝で終わる

  「ありがとう」と言う商売に破産はない。

 

 

2021-07-12   久志能幾研究所通信 2087  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年7月10日 (土)

どんな死に方をしますか?

 

死とは人生で、最大のプロジェクトである。現代日本では、

 2人に一人ががんになる。

 4人に一人が脳卒中になる。 

 5人に一人が認知症になる(65歳以上)

.

脳卒中は4人に一人が寝たきりになる。

  要は、日本人の100人中6人が脳卒中で寝たきりになる。

  寝たきりは廃人と同じで地獄である。

 

認知症は、脳死である。

 本人は何も分からず幸せだが、家族が地獄の苦しみを味わう。

 

がんは日本人の死因の30%である。

 がんは正しく治療をすれば、最後の1ヶ月まで正常な社会生活が送れる。樹木希林さんが全身がんになったが、最後まで社会生活を送られた。死の後始末が自分で出来るから、始末がよい。

 認知症では自分の後始末が出来ない。幸いなことに癌になる人は認知症になりにくいという統計がある。

 

対策

 自分の意志で死に方は選ぶべきだ。最低でも、認知症で死なないために、降圧剤を飲まないことだ。まずガンで死ぬほうを選ぶべきだ。脳卒中か認知症で死ぬよりはましだろう。それは本人の選択である。

 脳卒中の予防は、降血圧(降圧剤を飲むのではない)、減脂肪、禁煙、禁酒、適切な運動である。それはガン予防、認知症予防にもなる対策である。つまり良く死ぬために、健康管理である。

 

 喫煙が原因で年間、全世界の483万人が死亡している。死因の12%を占める(2000年)。日本酒毎日3合で癌の発生率が1.8倍に増える。

 (厚生労働省調査 日本経済新聞 2004年12月25日付け)

 ワイン一本でタバコ3~5本を吸うと同じ危険性がある。

 座りぱなしは、煙草を吸うより危険性が高い。

 お家タイムでテレビの前に座り、清涼飲料水とポテトチップスばかりでは、認知症にまっしぐらである。

 精神衛生上で人を喰うのは良いが、食われるのでは癌になる。癌発症の原因の大半はストレスで、自己免疫力が低下して発病する。私のがん発症も会社時代のストレスの後遺症だと思う。日本企業がグローバル経済主義病、成果主義病に犯されて、ギスギスしだしたのが原因である。

 

  しかしどんなに頑張っても、120歳までも生きられない。だから私は生前葬の準備を始めた。大事な人と会えるうちに、食事をしながら楽しく昔の話をすればよい。師ならば年功序列で必ず先に逝かれるのが普通。食事会が生前葬だ。

 若い相手でも、自分より先に死ぬかもしれない。人の明日は分からない。私はその場でこれからの20年間の計画をぶち上げて相手を煙に巻いている。今から恵峰先生の書の出版もせねば、音楽ホールも作らねばならぬ。死を意識すると、やることが山積である。棒ほど願って針ほど叶う。だからこそ、大法螺を吹けばよい。だれもそれの責任を取れとは言わない。

 生前葬を失念して先に逝かれた師とは、いつかは会えると信じて、今日一日を精一杯に生きる。それが両親、師への供養である。

4k8a02411s 馬場恵峰書

2021-07-09   久志能幾研究所通信 2084  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年7月 5日 (月)

何のために生きているのか?

 

アインシュタインの言葉

 1922年、アインシュタインが来日して京都大学の学生たちと対談したとき、一人の学生が、「人間は何のために生きているのですか?」と質問した。

 アインシュタインはびっくりしたような顔をして、

「他人を喜ばせるためです。そんなこともわからないんですか」と答えた。

 

どうすれば人を喜ばせることが出来るか?

 仕事で人に喜んでもらうのが最高である。それを人に命令されてやっているだけなら、また生きる為だけなら、動物と同じ次元である。それは生きているのでなく、生きながらえていると同じだ。

 人を喜ばすために、どう人生経営をすればよいか? 人生経営は会社経営と同じである。人生経営では、会社経営と同じ手法で成果を出せばよい。会社経営で社長は楽である。なんとか潰れないようにつなげて、次に社長に社業を渡せばよいからだ。不祥事が起きても、引責辞任すれば済んでしまう。

 しかし人生経営では、バトンタッチする相手がいない。絶望したからと沖縄の海にドボンでは済まされない。それは貴方が勝手に自分の人生に絶望したのであって、貴方の人生は貴方に絶望はしない。あんたの人生の後ろには、貴方をこの世に遣わしたご先祖様たちがいるのだ。

 

第1事項 死の意識

 人生経営有限会社の社長として、心せねばならぬ第1事項は、人は必ず死ぬという哲理である。人生目標があれば、いつも日暮れて道遠し、である。目標に向かってひたすら歩むしかない。千里の道も一歩からである。それでも後ろからひたひたと死が追いかけてくる。

 会社経営で失敗すれば、会社人生の破綻である。しかし借金や倒産は、娑婆の些細な出来事だから大した話ではない。人の世界で起きたことは、人の世界で修復できる。またゼロからやり直せばよいのだ。

 人生での失敗は、3歩進んで3歩下ると同じだが、成果はゼロではない。経験という大きな財産が手に入ったのだ。それで目標に一歩近づいたのだ。

 エリートは失敗しないように、しないようにと物事を進めるから、老いてから大失敗をして人生を失うことが多い。挫折を知らないエリートは脆いのだ。それは死を意識せず安穏と生きてきたため、それで晩節を汚す。

 エリートや強欲の金持ちは、人生観、死生観のない人が多いようだ。人生観がないから、死を忘れ、使いきれないほどの金を溜め込み、権力にしがみ付き、もっとよい女が欲しいと人生驀進である。その先は死である。

 

第2事項 ご縁の取り扱い

人生経営で死は必然だから計画できる。だからこそ、一日一生として生きるべし。

人生は、机上の計画だけでは成立しない。人生一寸先は闇。計画された人生は、机上の空論になる場合が多い。人生経営では、ご縁こそが運命を左右する。だからこそ出会いを大事にすべきだ。

 縁ありて花開き 恩有りて 実を結ぶ

 

第3事項 強みは何か

 人生で成果を出すためには、自分の強みを知るべきだ。人は万能の神ではない。自分が人よりも優れた才能で勝負をすべきである。レッドオーシャンでは天才の戦場である。凡才が勝てるわけがない。凡才はブルーオーシャンで戦えばよい。

 

第4事項 顧客は誰か

 誰のためにやるのかを明確にする。人生経営で、最大の顧客は誰だ?

 最大の顧客とは自分自身である。それを「どうせ自分なんか」と思っていては、決して成果は上がらない。大義名分の立つ社会に役立つ事を目指せ。そうすれば五右衛門風呂の定理で、その恩恵が自分に回ってくる。

 

第5事項 人生の大事とは

 自分にとって「人生の大事」は何なのか。言い換えるとそれが「使命」である。

 人生のクライテリア(基準)を明確にすべきだ。それはテクニカルライティングの基本姿勢と同じ。何に基づいて人生を歩むのだ?

 それを枝葉末節の目的を追うから、人生経営で失敗をする。

 

 されば一生のうち、むねをあらましきから事の中に、いずれかまさるともよく思い比べて、第一の事を案じ定めて、其の外は思い捨てて一事にはげむべし。(徒然草188段-3)

 

第6事項 成果の指標

 成果は何によって計るのか

 「人を喜ばせる」が成果なら、その指標を考えて行動しよう。

 成果を数値目標に落とし込まないと、人生で曖昧さが出る。

 

第7事項 使える資源の活用

 自分が使える資源を明確にする。それを使って効率的に成果を出せ。猫の手、孫の手も借りよ。なにかようかい?と言ってきた妖怪の手さえも借りよ。全てご縁である。ワケあって出会ったご縁である。仏様の手配なのだ。

 

 ROA(総資産利益率)=(利益)÷総資産(負債+純資産)

 

 すべての資産は、他人から借りた資本(負債)と自分の資本(純資産、自己資本)に分けられる。総資産利益率(ROA)は、総資産(負債+純資産)に対する利益の割合である。ROAは総資産を使ってどれだけ利益を生み出したかを表す指標となっている。

 師から教えてもらったことは、人生経営の負債である。借金は返さねばならぬ。利子を付けて世の中に返すべきなのだ。

 株主の立場から見ると、総資本利益率が高い会社は「自分が投資したお金を使って効率よく稼いでいる会社」である判断される。逆に、総資本利益率が低い会社は「経営効率の悪い会社」である判断され、投資家からのお金も集まりにくい。

 「経営効率の悪い人生会社」では、自分人生有限会社の株主である仏様やご先祖様から、援助が受けにくい。目に見えない財産こそ、大事なのだ。

 

自己資本

 自分の資本とは、時間、人、能力、金(財産)である(人、モノ、カネ、時間、情報)。それは人が「誰に会い、何に金を使い、何に時間を投じたか」で、持てる人生資源の増減が決まる。それで投下資本が決まる。

 

時間という資源

 時間一つをとっても、健康に留意して長生きした人と、体力に任せて馬車馬のように驀進した人とは、使える残時間(生きる長さ)が違い、その成果が違う。体力に任せて馬車馬のように驀進しても、長くは続かない。死んでもいいから健康管理である。人生工場のフォークリフトは自分の体である。

 貝原益軒も言う「人の命は、もとより天にうけてうまれ付けたれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短し。然れば長命ならむも、短命ならむも、我心のままなり」

P10700601s 馬場恵峰書

2021-07-05   久志能幾研究所通信 2080  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年7月 3日 (土)

生前葬に目覚め、準備を始める

 

 7月1日、外出中に気分が悪くなり、帰宅中の電車の中で吐きそうになった。慌ててホームに出て、嘔吐である。電車の中でなくてよかったと安堵である。

 この1年で約4kgの体重減である。がんの手術後一時は順調に体重が増えていたが、最近は全く体重が増えない。この最近体に力が入らず、体調が悪い。一時に比べれば25kgの体重減である。

 がんの手術後、主治医から言われた余命宣告で、その余命2.5年の期限がこの8月に来る。覚悟を決めて生前葬をせねばと、その準備を始めた。

 

仲間の死

 この3年間で、私の師が5人も逝去された。5人中4名は、年長者であり自然界の順番で致し方ない。しかし河村義子先生は私よりもはるかに若かった。

 10年前、定年退職した時、一緒に仕事をした仲間が24名も死んでいた。まだ60歳前にも関わらず、癌死、事故死、病死、過労死である。我々段階の世代は、過酷なビジネス戦争を戦ってきたのだと思い至った。当時の高度経済成長には多くの犠牲があったのだ。

 

死は必然

 命は生きているだけ奇跡である。命はいつか必ず滅す。人はそれを忘れて、永遠に時間があると思って生きている。出会いは偶然だが、死は必然である。

 5人の師の最期に際し、恵峰先生に対してだけしか、正しく対応できなかった。それが悔いである。みんな突然の訃報である。別れの挨拶ができなかった。だからこそ、生前葬が必要なのだと思い至った。

 

生前葬計画

 生前葬と言っても、自分が対象だけではなく、古希を過ぎれば、相手が先に逝く確率は半々である。古希ともなれば、古き希なる歳まで生きてきたのだ。何時死んでも不思議ではない。ましてやこのコロナ禍のおり、いつの間にか知人がコロナで死んでいたという話をよく聞く。

 だからこそ、生きている間に、簡単な食事会で良いので、お互いに昔の思い出で楽しく語り合いたい。死んでから会葬に来てもらっても、香典を出してもらっても嬉しくはない。そう決心して、その対象者を選別して、会食をする計画を立てて準備を始めた。それが私の生前葬である。

 

 いつまでも あると思うな 人の命と自分の命。

Photo   馬場恵峰書

2021-07-03   久志能幾研究所通信 2078  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年7月 1日 (木)

頭脳という宝の器

 

人生の知識の貸借対照表(バランスシート)として、自分の頭の中をコンピュータのCPUと比較して整理すると、

 自己資産とは、持って生まれた才能である。

  ROM(BIOS)に相当。食べる能力、歩く能力

 流動負債とは、師から教えてもらった知識である。

  RAM(キャッシュメモリ)に相当

 流動資産とは、覚えて自分が使える知識である。

  RAMに相当し一時記憶。経験、技能、失敗経験、人脈

 固定資産とは、身についた基礎能力である。

  EPROMに相当し簡単には消えない知識。

  読み書きそろばん、対人関係能力、学んだ知識、学歴、資格、

 

石川理紀之助曰く「知りたることを人に教えざるは、借りた金を返さざるがごとし」。

 師より教えて頂いたことは人生の借金である。師に借金の返済は不要だが、後進や世の中に利子を付けて伝授することが、義務づけられる。その利子が自分の付加価値である。それが人間としての勤めである。それができない人間は人でなしである。

 だから、この知識は投資をしてでも借金を増やすべきである。投資とは、師に会うための交通費や手間である。師は3年かけて捜すべし。それをケチると師には会えない。借金を足した(自己資産+借金)の合計が自分の知識の財産価値である。

 流動負債を増やさなかった人が、認知症となる。借金も財産のうちであるが、知識という借金は、返さなくても不義理にならない価値ある財産である。

 親から頂いた頭は、投資(学習)をして鍛えないと、朽ちていく。

 

認知症の発病リスク

 認知症の予防として18歳未満の認知症リスクとして、教育履歴が挙げられる。15歳未満で教育歴が途絶えてしまうと、認知機能の予備能力が低下して、65歳以上での認知症は発病リスクが上昇するようだ。つまり若い時に勉強をしていないと、将来の認知症になりやすいのだ。(2017年、世界四大医学誌のひとつ「ランセット」に発表された認知症の発症リスクより)

 若い時、必死に勉強しなくても、そこそこできてしまう才能のある人も多い。天の差配は恐ろしい。天網恢恢疎にして漏らさずである。若い時、勉強をしなかったツケは、65歳以上で認知症というツケを払う羽目になることもある。最近、そういう事例によくであう。認知症とは脳死である。生き永らえて、痴態を晒す生きざまはしたくない。今からでも遅くないので、学び続けよう。

 

自分有限会社のバランスシート

 流動資産と流動負債を増やす経営をしよう。要は、勉強に投資をすべし。酒を飲みグダをまく時間や、魚釣りに行く時間や、安い店を探し回る時間や、痴呆的テレビを見る時間があれば、その時間を勉強しよう。

Photo   自分有限会社のバランスシート

Dsc045961s 馬場恵峰書

Img_43851s 馬場恵峰書

   『命の器で創る夢の道』

2021-07-01   久志能幾研究所通信 2076  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月30日 (水)

自分の命の値段(改)

 

 ある日、隣国を旅行中に突然逮捕され、身に覚えのないスパイ罪で起訴され、死刑を宣告されたとする。死刑は免れないが、金を出せば1カ月間の時間余裕を与えると言われた時、自分は1カ月間の余命に、いくらの金を出すのか。かの国では多くの日本人が冤罪のスパイ容疑で拘束されている。

 自分が重い心臓病になり、臓器移植すれば命が延命できるという。隣国に行けば、オーダメイドで自分に最適のドナーが3日で見つかるという。活きのよい心臓の相場は1億円から2億円だという。闇市場では腎臓一つが場合によって、約540万円で売買されているという。生きた体から手術直前に摘出するので、新鮮である。それで現在、(日本の国会以外の)G7の諸国がナチス以上のおぞましい虐殺行為だとして人権非難決議を議会で出している。しかし日本では、媚中派幹事長の二階がその決議を妨害している。

 かの国は死刑囚から臓器を摘出しているというが、死刑囚の数は年間6千人で、臓器移植の例は年間3万3千件以上である。計算が合わない。かの国は世界第二位の臓器移植数である。

 

余命宣告

 延命時間にかける己が出す意思の金額が自分の時間価値となる。己の健康管理の怠慢で病に冒され、余命半年と宣告されてから「金はいくらでも出すから助けてくれ」と医者に泣きつく御仁が娑婆には多くいる。無法国家に拉致されるのと状況は変わらない。医者は治療をするが、病気は治せない。しかし、死期の予想は正確に当てる。私も父の病気の時に医者から余命1年と聞かされ、それが余りにも正確だったので驚いた覚えがある。

 私もがんの手術をして、医師から5年後の生存率51%を告げられた。5年経ったら半分の人は死ぬ確率である。実質余命2.5年である。だからこそ、命(時間)の大事さが身に染みる。

 東日本大震災のように、突然津波に呑まれて命を落とされた方に比べれば、余命2.5年があるだけ、どれだけ幸せなことか。亡くなられた方々の無念がしのばれる。

 

 余命の時間価値=(支払う意思のある金額)÷(残り時間)

   =一億円÷(8H×365日×60分)=570円/分

 一年延命で、一億円なら一分570円。意外と安い?

 

人の価値はその死に様に現れる

 「魂(オニ)」の納佛された日(2014年7月16日)から1週間も経過しない日(7月22日)、韓国フェリー事故の船会社のオーナーが変死体で発見されたと言うニュースが入ってきた。6月には、100億円出すから中国に密出国させて欲しいと闇ブローカに交渉中とのニュースが流れていた。その最期はこの夏のなか、冬の高級コートを着て、周りに酒の空き瓶を置いての畑の中でさびしい服毒死か病死である。贅沢な生活に身を置いたが故、病身で余命は長くなかったようだ。それでも100億円の金を出して生き延びようとする。このオーナーは数百億円とも言われる財産を築きながらも、この有様である。フェリー事故で犠牲となった高校生達がかわいそうである。このオーナーは信徒9万人の新興宗教「救援派」(オカルト宗教と言われる)の教祖とも言われるのが、新興宗教では人が救えないことを教祖自身が証明したといえる。人の偉さ(醜さ)はその死に様に現れる。

Dsc04554sjpg

 松本明慶大仏師作 魂(おに)

 

最期の後悔

 余命1ヶ月の時になって後悔することが、その昔に付加価値を生まない悪縁との付き合いで、貴重な時間を無駄遣いしたことであろう。そのために、やりたいこと、やるべきことが一つできずに、先送りになったという後悔である。やれる歳になると、体がいうことをきかなくなる。そんな後悔を避けるために、悪縁の元を絶つことは、人生の価値を上げはできないが、下げる危惧を無くしてくれる。

 またその後悔を少なくするために、やりたいことはやれるうちにやっておくことだ。そのうちやりたくても出来ない体になる。老化と死は必然である。

 

 ご先祖から頂いた命は、能力を最大限に使って人生を全うしたい。安岡正篤師は、「人は学ばなくなったら、人間ではなくなる」とまで言う。吉田松陰は、「一日でも生きている限り、どんな状況においても学問か仕事に励むのだ」という。学ばないから、仕事をしないから、頭を使わないから、世の中に貢献しないから、認知症になる。「使わない器官は退化する」という自然界の摂理がそこにある。社会に貢献をしない人は、社会のお荷物である。仕事をすれば、多少なりとも税金を納め、社会に貢献することになる。脳トレをすれば認知症が防げるのではない。それは遊びと同じで、長くやると苦痛になり続かない。それは社会にとって時間とお金の無駄使いである。

Img_47301s

 馬場恵峰書

 

          命の器で創る夢の道  p75

2021-06-28  久志能幾研究所 2073  小田泰仙

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2021年6月29日 (火)

ブラームス 老いのピアノ演奏

 

 2016年、私が戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを調査する過程で、ビデオ「ブラームスのロウ管」(北海道放送)が、私のピアノの師である河村義子先生から送られてきた。

 そのブラームスは戸田伯爵夫人の琴の演奏を聴きながら、六段の演奏をピアノ楽譜にした譜面に朱を入れた。戸田伯爵は、大垣藩最後の殿様である。明治になり、ウィーン公使としてウィーンに赴任した。

 そのビデオから分かったことは、天才のブラームスにでも、老いは襲ってくる冷酷な事実である。その時の対応の如何に人間性が露見する。

 

ブラームスの老い

 ブラームスは音楽の3Bと称せられる存在である(バッハ、ベートベン、ブラームス)。その大作曲家、ヨハネス・ブラームスが自作「ハンガリア舞曲第一番」とJ・シュトラウス「とんぼ」のピアノ演奏をロウ管シリンダーに録音したのは、エジソンの発明から約12年後の1889年12月2日である。

 この歴史的なロウ管は、ボーゼ博士によるSPレコード(1938年 TELEFUNKEN製 78rpm)は、録音・保存状態の悪く、最新のレーザー再生装置でもうまく再生できない。「ハンガリア舞曲」の旋律は、ピアノというよりアタック感の無いヴァイオリンの音に近く、「とんぼ」に関しては凄まじいトレース・ノイズで、最新の技術を使ってもほとんど聞き取れない。

 これはロウ管の保存状態の悪さと、録音時の条件の悪さに起因する。ロウ管に入ったヒビは第二次世界大戦の責任で、マイク・セッティングのミスはブラームス本人の思惑だった。

 ブラームスは、この録音セッションの為に自作「ラプソディ作品79-2」を用意したが、その練習中に自分の技量の衰えに気付き、後世に自分の老いの露見したピアノ演奏を残すこと躊躇を覚えたようだ。ブラームスは完ぺき主義者であった。

 親しい友人であるフェリンガー家でのセッション当日、神経質になっていたブラームスは、録音技術者に対して非協力的だった。突然「フェリンガー夫人がピアノを演奏します!」と自嘲気味に叫びながら、ブラームスは録音技術者のマイク・セッティングが終わらないうちにピアノを弾き始めた。フェリンガー氏は慌てて「ピアノ演奏はブラームス博士です!」(この部分から録音は開始)とアナウンスを録音に被せた。

 ブラームスは録音を嫌がっていた事は、その記録から明白だ。彼の代表曲「ラプソディ」でなく、ハンガリア民謡をベースに作曲(編曲?)した「ハンガリア舞曲第一番」を弾き飛ばした事や、その後にシュトラウスの「とんぼ」という超軽い曲を弾いた事から見ても明らかだ。

 ブラームスの人生は、この録音事件の頃から急速に陰り始める。もともと自分の才能に対して懐疑的だったブラームスは、書き溜めていた楽譜を河に捨てたり、演奏活動から遠ざかったり、ついには遺書の用意まで始める。

 そして1896年、最愛の人クララ・シューマンが急逝し、その埋葬に立ち会う為に40時間もの汽車旅をした事で体調を崩し、1897年にあの世へ召される。

 本稿は、「ブラームスのピアノ自作自演」© 2016 Hisao Natsume. All rights reserved. Designed by Sakuraphon.( http://www.78rpm.net/column/brahms-plays-brahms.html)を参考に加筆編集。

 

 

録音技術とのご縁

 老いてもまだまだ技量もある世界3Bの一人と称せられるブラームスである。老いは神の御心、それに従ってありのままを受け入れて、67歳のピアノ演奏を残し欲しかった。ブラームスの技量の絶頂期とエジソンの録音機の本格的普及の時期が少しずれてしまった。それもご縁である。

 自分にできることは、その時のご縁を大切にしたいである。私は馬場恵峰先生の書の撮影で、最新鋭最高級のカメラ機材を揃えて撮影した。今にしてよくやったと思う。

 

健康管理

 ブラームスは写真等から推察すると、かなりの肥満で、老化の進展が速かったと推定される。天才はその芸に没頭して、自分の体のことは後回しになるのかと残念に思う。天才モーツァルトも、35歳で連鎖球菌性咽頭炎から合併症で亡くなっている。天才だからこそ、宝石のような才能を支える健康を大事にして欲しかった。

Strauss_und_brahms ヨハンシュトラウスとブラームス  ウィキペディアより

 

 馬場恵峰先生は老いを隠さなかった。しかし自分の体の健康には大変気を使われた。だから94歳まで現役で活躍することが出来た。

 馬場恵峰先生に、「先生の90歳の時の書と70歳代の時の書の差は何ですか」と聞いたら、「70歳代の書には勢いがある。90歳の書には艶がある」である。人は老いても相応の作品が出来上がる。老いを隠す必要はない。

 

 ご縁があり、2017年4月、ウィーンを旅した。戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを発見された楽友協会のビーバー・オット博士と面会し、ブラームスの墓参りをした。

 良きご縁からはよきご縁が生まれる。今は、コロナ禍で、海外には行けない。良き時にウィーンに行けて、その報告を河村義子にできて良かったと思う。その時は河村義子先生も元気であった。

P1000934s1 ブラームス像の前でビーバー・オット博士とツーショット 2017年4月24日

 楽友協会にて

P1000812s  楽友協会 ウィーン   2017年4月24日

 P1000721s ウィーン市立墓地  2017年4月20日

P1000779s 音楽家たちの墓地エリア

P1000848s

P1000849s ブラームスの墓地

P1000776s 音楽家たちの墓地エリア 左がモーツアルト、その左がベートベン、中央がヨハンシュトラウス、右手がブラームスのお墓である。

『佛が振るチェッカーフラグ』 p94

2021-06-29   久志能幾研究所通信 2074  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月28日 (月)

死生観 有りや無しや

 

 還暦を過ぎての交際は、死生観のある人と付き合いたい。「後は野となれ山となれ」が信条の人では、残り少ない老後(定年後)という時間内で、付き合う価値がない。老後は人生の総まとめの時間なのだ。死後の時間は、生きていた間より長いのだ。

 一説では、人は死後400年間から500年間で輪廻転生をするという。四天王や天女でさえ寿命は500年という。Wikipediaにもそう記載されているが、その根拠文献は不明である。

 仏教ではお陰様?で、地獄に落ちても刑期?500年で放免となるようだ。キリスト教では、地獄に落ちると永遠に地獄であるが、仏教ではその点で救いがある。そうしないと各界が満杯になってしまう?らしいから。かの関ヶ原合戦場跡でも長年亡霊が出ていたらしいが、400年経ったら、ぴたりと出なくなったと言う。

 

 人のうわさも75日である。死後の噂も750年である。だから空海さんや、道元さん、親鸞さんの生前の教えが今も続く。

 少なくとも子や孫が祖父の生前を思い出して、その教えを守るのも、その人が心の中で生きていると同じである。

 私の場合も、今年正月に亡くなられた馬場恵峰先生は、今も心の中で生きているし、毎日、先生の書を眺めてその教えを受けている。それは馬場恵峰先生の死生観が明確であったからだ。だからこそ生前の行動が明確で、生きた証を遺すことができた。

 

人生の定義

 「人生とは何であるか」の定義で生き方が決まる。人生とは何であるかの定義をして、人生の価値を測る物差しを決める。そこから人生は始まる。私は、下記で定義した。英英辞典の中から探して一番納得できた表現であった。

 「人生とは、生きている間に行動と経験を積ねながら歩く道である」

 The way you live your life, and what you do and experience during it.

 “Longman Exams Dictionary”

 

狭き門より入れ

 目の前に極楽の平坦な道があり、もう一方に苦難の起伏に富んだ道がある。一方に広き門があり、もう一方に狭き門がある。一方に食べ放題の道があり、他方に節食の道がある。ずる賢い人間は、動物を捕獲するのに極楽の餌を用意する。金に飢えた食品企業は、美味しい餌をぶら下げて意志の弱い人間を捕獲する。理性ある人間なら、餌に釣られて道を誤るのは避けたいもの。

 どちらの道を選ぶかでその人の人生が決まる。

 

死生観を持って

 「何のために生きるのかの問題意識を持っていない人は、死生観がなく死に向けた準備もない。死生観がない人は、日本人の9割を占め、信仰なしの人は7割弱も存在する。死への準備がある人は覚悟を持っており、その準備のある人の86%は延命治療を望まない。(『週刊ダイヤモンド 2016年8月6日号』)」

 人間として生まれたなら、死生観をもって生き、死に覚悟をもって臨みたい。我々は犬畜生ではないのだ。

 

人は自然の一部と解釈

 人は大地から生まれ、大地からの恵みで成長し、必ず生まれた大地に還る。大地も自然の一部で、四季折々の変化を見せる。それは自然が声なき経を読んでいる姿である。自分の生きる姿が自然の風景なのだ。人生にも春夏秋冬がある。自分もいつかは自然に還る身である。人生を大地と定義したら、それを耕し豊潤な大地にするにはどうするか、その豊かさを測るものは何かを決めてから始めるべきだ。その定義は百人百様で、自分の定義を定めればよい。それは解釈の問題でもある。人生という事実があるのではなく、その人がどのように人生を解釈して生きたかである。それによって死に方も異なる。

 

人生という大地を耕す

 人生は自身の広大な大地を耕す仕事に似ている。広大な大地を汗水たらして毎日、死ぬまで耕し続けるのが人生である。毎日毎日が同じことに繰り返しである。長年耕し続けても、大地の見た目は変わらず、耕した後を振り返って見ても、耕した面積は広大な大地のごく一部分でしかない。死ぬまでに耕せる面積は限られている。それでも耕し続けなければ、農夫(人間)ではなくなる。人生を行動と経験の道と定義すれば、多くの行動と経験が大地を豊かにしてくれることになる。

 人間が動物ではない証が、人生に価値を求めて生きることである。できることは限られていると、諦めたら負けだ。勝負では先に諦めたほうが負けなのだ。人生に諦めて、遠くの沖縄の海にドボンで終わらせてはならな。死ぬ方が楽なのだ。生きるのは辛いのだ。

 

人生とは仕事

 人生とは仕事であると定義すれば、それにあった人生が展開される。人生で一番多くの時間を費やすのは仕事である。それを「人生は苦行である」と定義すれば、行く先は苦行ばかりである。それは奴隷の人生である。その大地を小作人として年貢を納めるために耕せば、奴隷の人生である。地主として豊かな実りを夢見て耕せば、大地主の人生となる。定義の如何によって働き方、生き方が異なる。良く生きることは良き死生観ともなる。

 より広く開拓して耕すのか、より深く自分の地所を耕すのか。方法は千差万別ではあるが、耕し続けた人は幸せである。その大地が豊かになったかどうかは、植えた木が大きくなる20年後でしか分からない。分からなくても、ひたすら耕し続けるのが人生である。その実りを子孫が受けるのも人生の定めである。自分もご先祖の植えた木の恩恵を受けて育ってきたのだ。

 

西洋の労働観

 欧米の労働観では、労働は神がアダムとイブの過ちの罰として与えた苦役であるとされる。そのため欧米人は金が出来たらさっさと引退して悠々自適の生活を送る。労働を苦役とするから奴隷制度が生まれ、戦争して勝てば敗者を奴隷としてこき使うという思想が生まれる。それに対して、日本では労働を神聖なものとして考えるので、日本には奴隷文化は生まれなかった。世界でも稀有でありがたい思想である。それが現在は欧米の拝金主義で汚染されつつある。ホリエモンのように、金が全てという考えの人間が出現する有様である。それは金の奴隷になること。

 

会社の存在意味

 自分が何のために存在しているか、それを現すのが志であり、家族の一員なら家訓である。そこに生きるための指針が示されている。同じように企業は何のために存在するかを示すのが経営フィロソフィー、経営理念である。Toyota way、pasonic way といった道で示した例も多い。

己の会社が何のために存在するかを忘れたとき、企業は存亡の危機を迎える。会社の寿命は30年である。創業者が築いた企業基盤を、後継者がその会社の存在理由を忘れて、ゴルフ、酒の放蕩におぼれたとき、金儲け至上主義に陥った時、天は会社の存在理由がないとして倒産を宣告する。有名一流企業でも、後継の社長が利益追求や権力闘争に明け暮れ、創業者の会社理念を忘れて会社を没落させる例が頻発している。JAL、ソニー、東芝、松下、三菱、日産……..。

 企業は社会に貢献してそのお礼としての利益を国と従業員に配分する。赤字会社は、国が税金で用意したインフラをキセル行為で利用している。それでは使用済み核燃料と同じで、赤字企業は社会の利益に貢献しない使用済み企業である。さっさと潰れるのが社会の為である。存続は税金の無駄遣いである。

 

自分の存在意味

 世に役立ってこそ、自分の存在意義がある。企業の不祥事を他山の石として己の存在意義を考えたい。この世でお世話になるのなら、死ぬまで世の役に立つ仕事をして生きよう。

039a34451s 馬場恵峰書

2021-06-28  久志能幾研究所 2073  小田泰仙

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2021年6月26日 (土)

新型コロナワクチン、命の選択と決断

 

 新型コロナワクチン、打つか打たないか、人生の選択である。

 それが今までの人生の岐路での選択を象徴している。

 

結論

 私は新型コロナワクチンを打たないと決断した。人と接触する機会の多い職業なら、ワクチン接種が正解である場合もあるだろう。どちらが正しいかどうかは、問題ではない。その決断プロセスが問題である。人によって選択肢の正解が違う。自分が正しいと思ったら、非難されてもその選択を進める勇気が必要だ。

  

.

人生の決断と過去の惨劇

 人生は選択の連続である。多くの選択肢の中からその一つを選んだら、決断して実行しないと、何も始まらない。決断しないと他人の選択に流されて、自分の時間と命を失う。

 選択には、多くのデータと自分の経験知から自分の結論をだすことだ。

 自分の頭で考えないから、ヒトラーの宣伝に乗せられドイツ国民はユダヤ人を迫害した。

 戦前の朝日新聞社等の戦争賛美の記事に乗せられて日本国民は戦争に追いやられた。 

 オイルショックの時、マスコミの過剰報道に踊らされてトイレットペーパーの買い出しに走ったのだ。

 狂った社会党を選ぶから、阪神淡路大震災で危機対応ができない政府に煮え湯を飲まされることになるのだ。狂った民主党を選択するから、福島原発事故で右往左往するのだ。

 狂った朝日新聞を購読するという選択をするから、慰安婦報道に騙されるのだ。

 正しい議員に投票せず、選挙投票で棄権をするから、日本の道を誤まらせる国賊議員が跋扈するのだ。その議員を選んだのは国民である。だから日本は基礎研究に金を出さない政治体制が続き、失われた時間30年間が生まれ、衰退した日本を生んだのだ。それが今の国産ワクチン開発での敗戦になった。

 今回が新型コロナワクチン接種問題である。

 その選択が、誰かの利益のために躍らせれていないか確認すべきだ。

 自分で考えて結論を出さないと、痛い目に会う。それは歴史が証明している。

 

決断を下した根拠

事実1

 日本のコロナ感染者、死者数は欧米の100分の一程度。

 欧米の生活習慣(ファクターX)が、日本の生活習慣と違うので、欧米で感染者が激増していると考えられる。(西村秀一氏説・国立病院機構仙台医療センター ウイルスセンター長)

 日本のコロナ死亡者は4千人、例年インフルエンザで1万人が死んでいる。 私はマスコミが騒ぎ過ぎると断定した。なぜ? 扇情的に報道すれば、視聴率が上がり、儲かるから。

 

事実2

 新型コロナウイルスでの死亡者数と他が原因の死亡者数を冷静に比較観察しよう。(下記概算値)

 なぜ、マスコミが酒やタバコでの害を追求せず、新型コロナばかり報道で攻めるのか。酒やタバコや清涼飲料水の後ろには、宣伝の大スポンサーがいる。口が裂けてもそのスポンサーを非難はできない。私はそんな記事を見たことがない。

 

 新型コロナの年間死亡者数   5千人

 交通事故死亡者数       3千人

  交通戦争時代は死者が1万人を超えていた。

 例年のインフルエンザ死亡者数 1万人

 糖尿病の死亡者数      1.4万人

 お風呂での死亡者       2万人

 自殺者数           3万人

 酒での死亡者数        3.5万人

   (全世界で300万人が酒の原因で死亡 WHО発表)

 誤嚥の死亡者数        4万人 

 タバコでの死亡者数     12万人

 癌での死亡者数       30万人

 日本の死亡者数、生誕者数  100万人

 

事実3

 大村智博士が開発したイベルメクチンは、インドでは劇的な効果があった。WHОは欧米のワクチンを強制して効果のなかったため、インド政府はWHОを訴訟で訴えている。

 イベルメクチンの値段は600円だが、欧米のワクチンは数万円である。製薬会社は実績があっても儲からないイベルメクチンを売りたくない。新ワクチン開発にかけた金を回収せねばならぬからだ。製薬会社は慈善事業ではなく、拝金事業なのだ。

 政府の役人も既に欧米のワクチンを手配すみなので、今更変更はできない。自分の保身に影響するからだ。減点主義の役所では、変えたくても変えられない。どうせ無知な国民は気が付かないと高級官僚は思っている。

 

事実4

 新型コロナ用のワクチンで、9,759,770人の内、5月30日時点で139人が死亡。(2021年6月26日現在) 

   新型コロナ用のワクチンで7万人に一人が死亡する確率である。

  15万人の中堅都市の全員が接種で、1~2名が死亡と同じ。

 インフルエンザ用のワクチンの死亡率は1千万人に一人。

  (52,511,510人が接種して3名死亡。平成30年度)

  1千万人の人口の東京都で全員接種で、一人が死亡と同じ。

 

 新型コロナ用のワクチンは、まだ安全性が確認されていないようだ。自動車部品開発に携わった技術者として言えることは、新開発部品の安全性が従来品よりも100倍も悪化すれば、人の命に影響する車には搭載できない、ということだ。

 

事実5

 マスコミが発表するグラフは接種数の変化で、接種率と感染状況の変化と連動したグラフは決して出さない。コロナ感染の恐怖を煽り、接種数の増加を過度に報道して、摂取させようとしているとしか思えない

 

事実6

 ワクチン接種の目的は、ワクチンの販売であって、新型コロナウイルスの収束ではない。ワクチン接種拡大に成功すれば(製薬会社にとって)、来年以降も変種ウイルス対策として、継続してワクチンが売れる。

 独ビオンテック、今年のワクチン売上高1.6兆円の見通しである。ファイザー製薬は3.8兆円である。 (日本経済新聞2021年5月11日)

 

事実7

 新型コロナをエボラ熱相当の疫病と指定した厚生省が間違い。だから大騒ぎとなった。前提が間違っている。

 新型コロナの死亡率は2%。エボラ熱の死亡率は50%。それなのに同じ扱いにするから、異常事態となる。病床がひっ迫する。その指定を変えて問題が出れば、役人の出世に影響がでるから、保身主義のエゴ役人は、指定を決して変えようとはしない。ここに現代日本の閉塞状態の真因がある。

 

事実8

 ワクチン接種をしても新型コロナ感染のリスクが下がり、重症化するリスクが下がるだけである。ワクチン接種で、コロナ感染が無くなるわけはない。ワクチン接種をしても再度、感染した人も多い。それは単に、ワクチン接種をしたからと、油断して感染予防を怠っただけのことである。

 

事実9

 私は自営業で、日頃、多くの人と会うわけではない。ほとんど自宅で仕事をして過ごしている。外出も控えている。外出時はマスクをして、3密を避けるようにしている。人に迷惑をかける頻度は少ないのでワクチン接種は、そのメリットデメリットを考えるべきだと判断した。

 

事実10

 ワクチン接種にはコロナに負けない体力がないとダメである。疾患持ちで、血栓ができやすい人が接種して196人が死亡している。7万人に一人の割合である。

 私は高齢で、体力も弱っていて、癌の後遺症に苦しんでいるので、私にはワクチン接種の耐力がないと判断した。利害を総合的に考えて、私はワクチン接種をしない決断をした。

Dsc09255s 馬場恵峰書

 私は書斎で、このコップを筆立てとして使用して、毎日眺めている。

 馬場恵峰先生に感謝である。

 命に係わる事項の決断は、智慧を出し、賢く判断したい。そう思って私は、いつも文殊菩薩と普賢菩薩に手を合わせ祈っている。そうすると不思議と冷静になれる。

 命はこの世に役だつものを遺すため、何時も輝いている。輝かせねば、ご先祖に申しわけない。己の愚かな判断でそれを無に帰せてはなるまい。

Dsc06572s 松本明慶大仏師作 文殊菩薩

Dsc065661s  松本明慶大仏師作 普賢菩薩

2021-06-26   久志能幾研究所通信 2071  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月25日 (金)

縁は厳慈の恩にあり

 

 「旅のチカラ(ミケランジェロの街で仏を刻む---松本明慶)」(NHK BSプレミアム 2013年5月収録)のビデオを見て感動した。ミケランジェロ作のピエタ像と、ホテルで明慶先生が阿弥陀如来のお顔を彫っている時、眼の上の台の上に置かれた「魂(オニ)」の座像が目を引いた。特に「しっかり彫れよ」と先生を叱咤激励するがごとく睨んでいる「魂」の姿が目に焼きついた。

 

 このピエタ像には、私が定年退職記念にローマに旅行した時(2010年11月10日)に出会い、衝撃を受けた彫刻であった。それも、松本明慶先生に初めて大垣市の仏像彫刻展覧会でお会いして(2010年11月1日)、その9日後の御縁である。今回のビデオ映像でその聖母マリアのお顔と、その心を取り入れて明慶先生が彫られた阿弥陀如来のお顔がダブって見える。

1_2

    ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂)   2010年11月10日撮影 

2     明慶先生との出会い    ヤナゲン大垣本店で  2010年11月1日

.

ローマでピエタ像に出会う

 ローマ旅行時に初めてピエタ像を見たとき、私も衝撃を受けた。次元の違う彫刻に遭遇したような思いである。10日間のローマ滞在中、3回もこのピエタ像を見るためバチカンを訪れることになった。それほど引きつけられるものがあった。本物は10m先の防弾ガラス越しでしか鑑賞できない。しかし宗派を超越してキリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も世界各地から訪れた老若男女が長時間、ピエタ像を見つめていた。後で隣接したバチカン美術館にこの精巧なレプリカが展示してあるのを発見した。そこで至近距離1mから長時間、お顔を拝ませて頂いたのは幸いであった。こちらは見学者が少なく、落ち着いて接することができたのも有難いこと。

 ピエタ像が防弾ガラスで覆われているのは、過去に精神異常者がマリア像のお鼻を傷付けたためで、それの対策である。

 

「ピエタ」とは「慈愛」

 「ピエタ」とは「慈愛」の意味である。「ピエタ」はミケランジェロが終生、追い求めたテーマである。「慈」とは「心」「茲」から成る。「茲」は、「増える(子を増やして育てる)」=「愛」と「心」で「母」の意味を持つ。「慈」の反対語は「厳」である。旧字体は「嚴」で、冠の「□□」と「嚴」の下部(音)から構成される。「□□」は、「厳しく辻褄を合わせる」の意味である。つまり「父」の意味を持つ。自然界は陰陽で出来ている。優しい母がいて、その背後に厳しい父がいて子供は育つ。片方だけではダメなのである。

 今回の明慶先生の阿弥陀如来のお顔を彫る製作過程を、厳しい顔の鬼(魂)が見つめていることの深い意味合いを感じた。厳しさがあるから、慈しみに溢れた優しさのあるお顔が生まれるのだと。優しさだけでは本当の慈は出てこない。厳しさの奥には深い愛情が隠れている。

 

Dsc04477s 松本明慶大仏師作 「魂」、 書は馬場恵峰先生書
 

2 ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂) 2010年11月10日撮影 

 見学者の柵から10m先に防弾ガラスで覆われて安置

3

ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂) 2010年11月10日撮影 

Photo

 ピエタ像(バチカン美術館に展示のレプリカ)  2010年11月13日撮影

P1080515s ピエタ像(岐阜県美術館に展示のレプリカ)  2016年11月13日撮影

 このピエタ像の複製が岐阜県美術館のホールに展示されているが、環境的に明るすぎ、場所的に高い位置に展示されていて、その厳かな雰囲気と合わないのが残念である。岐阜県美術館のピエタ像からは、ローマで本物を見た時の衝撃が全く感じられない。やはり展示環境が大きく影響するようだ。

 

2021-06-25   久志能幾研究所通信 2070  小田泰仙

命の器で創る夢の道

著作権の関係で、無断引用を禁止します。