c-馬場恵峰師の書・言葉 Feed

2022年8月30日 (火)

人間焼却炉上で10年奮闘  バス横転炎上の対策

 

 私は前職の会社で、技術者の教育を担当していた。そのため、技術教育の一環で各地の工場を見学していた。その引率者としてバスの最前部席に座って、新人技術者や中堅技術者をあちこちの工場見学に案内した。

 また私は財団法人自動車技術会の支部事務局として、各地の特色ある工場見学の為、バスの最前部席に座って、自動車技術会の会員をあちこちの工場見学に引率した。そういう仕事を10年間も続けた。

 また頻繁に県営名古屋空港行きのバスにも乗っていた。飛行機の撮影のためだ。それも多くの場合はバスの前の方に座っていた。

 また町内の親睦バス旅行でも、立場上、バスの最前列席に座る。

 今までの10年間の経験でも、自分が引率したバスで、事故を1回経験している。

 そういう経歴で、前職の会社の全社員(約1万人)中で、私がバスの最前列席に座った回数は、一番多いと思う。

 

 もしそういう状況で、2022年8月22日の名古屋市北区の空港行きの大型バス横転炎上事故は人ごとではなかった。私もこのような事故に巻き込まれれば、焼死していた恐れがある。バス前部の席は燃料タンクの真上にあり、事故で炎上すれば、その席が人間焼却炉となってしまう

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 ANN  NEWS  より   "ただのノア@Noa_Ark_03"さん撮影

 2022年8月22日10時15分、名古屋市北区の名古屋高速道路・豊山南出口付近で、空港行きの大型バスが本線と出口の分離帯に突っ込んで、横転して炎上した。後続の乗用車もバスに追突し、2時間半も炎上し続けた。運転手と乗客の2人が死亡した。脱出できた7人は軽いけがですんだ。死亡者はバスの運転手と乗客一人で、死因は焼死であった。

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 幸い、私は仏様のご加護でそういう目に逢わずにすんだ。

 人が運行する事象では、事故は絶対に起きるもの。それを予想して対策をするのが危機管理である。

 

 私は「知りたることを、人に教えざるは、借金をして返さざるが如し(福沢諭吉翁)」の言葉を大事にしている。

 そして気が付いたことを世に知らせる。それが一燈の明りであっても、それを灯し続ければ、何時か多くの人が賛同してくれる日が来る

 

バス横転炎上事故を踏まえた対策

 運転手も生身の人間である。突然の疾患に襲われ意識を失うこともある。その対策が必要だ。現在は、バスやトラック、タクシーで、年間300件ほどの運転手の突然疾患での事故が起きている。その際に、燃料タンクが破損して、今回のようなバス全焼事故が起きる恐れが高い。 

 意識喪失や居眠り等検知用の瞳センサを設置。

  異常時に非常停止

 

 燃料タンクをバス前部に配置する構造的欠陥を無くすこと。

  これは法的整備が必要だ。

 燃料タンクを保護する骨組みを設置

  これは法的整備が必要だ。

 

 非常停止ボタンの設置

  バスの運転手の異常で、乗客が非常停止ボタンでバスを止める。

  これは既に6%ほどのバスに設置されているようだ。

 

 後部に非常用脱出ドアを設置

  バスが横転しても使える脱出ドアが必要

  後部や横の非常時ドアは、横転すると使えない。

  バスの天井に非常用脱出ドアを設置(横転時用)

 

 バスの窓ガラスを割る脱出ハンマーを各所の設置

  バスが横転すると、シートベルトが体に食い込み、ベルトを外せない。

  そのため脱出ハンマーにハサミが付いている必要がある。

 

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  馬場恵峰書

2022-08-29  久志能幾研究所通信 2476  小田泰仙

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2022年8月28日 (日)

健康は維持でなく、創り出すもの

 

 体の組織細胞は数年で全て入れ替わる。腸管の上皮細胞は数日、血液は4か月、肌は一か月、骨は5か月で入れ替わる。今日の自分の体は、昨日の体ではない。毎日少しずつ細胞が入れ替わっている。その体を作る原資は食料である。

 健康が運命を決める。健康でなければ、カネがあっても何もできない。健康とは体と心の健やかさを言う。体だけ健やかでも、心が健やかでなければ、健康とは言わない。

 健康を害する最大の敵が、食べ過ぎである。食べ過ぎとは、自分の体の消化部門の細胞に過重労働(奴隷労働)を強いること。食べ物が胃に入ってこれば、消化器官は嫌でも働かざるを得ない。飽食とは、ブラック企業と同じ仕打ちを、自分の体にすることだ。その結果が、がん、糖尿病、脳梗塞、心筋梗塞、認知症への地獄の道である。

 

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宇宙根源の理

 遺伝と環境により老化速度は変わる。その比率は遺伝的要因が約2割、環境的要因が約8割である。新陳代謝の速度は加齢により低下していく。古い細胞の老廃物などが体内に残りやすくなり、その影響が体の変化として表れてくる。体の変化にも大きな個人差がある。それは、食事で内臓に強制労働を強いられれば、老いは早くなるのは宇宙根源の理である。

 実際に、一卵性の双子でも喫煙者と非喫煙者とでは、老化の速度や見た目の年齢が違ってくることを米国の研究で実証した。

 その差を生む環境因子を決めているのが、毎日の生活習慣。偏食や喫煙、睡眠不足、運動不足、ストレスの多い生活は、新陳代謝力を低下させることがここからも分かる。

 日ごろから、下記のような健康的な生活習慣を続けているかどうかで、体内の部品交換の進み具合が変わる。その積み重ねが、数年後、数十年後の健康寿命を決める。日本人の健康寿命は72歳である。その後の9年間を寝たきりで過ごすか、現役で過ごすかは、日頃の健康創りにかかっている。

 

使わない器官は退化する、健康を創るとは辛い事

 使わない器官は退化する。1週間寝ているだけで、体は、筋肉がもう必要がないものと判断して筋肉量を減らしてしまう。だから毎日、筋肉に負荷をかけて動かさないと筋肉は維持できないし強くもならない。だから筋肉量を維持することは辛い事だ。

 頭も使わないと退化する。テレビばかり見て受動的になると、テレビに洗脳されて、認知症への道をまっしぐらである。65歳以上は15%が認知症である。75歳以上はそれが25%になる。

 創造の「創」とは傷口のこと。偏の「リ」は、砥石と刀のことである。刀で皮膚を傷付ければ痛い。その傷口から血が噴き出す。侍は「なにくそ、こんなことで死んでたまるか」と傷口に酒を吹き付け、さらしを巻いて、決戦場に向かう。その傷口から新しい組織が生まれてくる。それが「創」である。

 

心の健康

 豊かな食事をすれば細胞に栄養素が行き届いて細胞がより活性化するように、豊かな言葉を吐けば、より豊かな心が養われる。その反対に呪いの言葉を吐けば、その毒は自分の心を汚染せる。

 心に入る正負の言葉の全容量は決まっていて、プラスの言葉が心に多く入れば、マイナスの言葉が出ていき、心が豊かになる。その反対にマイナスの言葉ばかり吐けば、心はマイナスで埋め尽くされる。そうやって心が創られる。いしきして言葉を選ばないと良い心は創れない。

 

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欲望は暴走する

 欲望が暴走するのは、頭が健康でなくなった現象である。人は少し多めのカネを手に入れると、更に多くのカネを求めるようになる。欲望が暴走し、更に欲望が大きくなる現象だ。その欲望は、社会の規範を蹴飛ばして暴走を更に加速する。

 例えば、ソフトバンクの孫氏は、日本一の金持ちになっているのに、更に金が欲しいとカネ儲けに暴走している。税金とは社会インフラを使うための使用料金である。その社会インフラを使っても税金を払わねば、社会に対する犯罪である。しかし孫氏は社会インフラを使って巨額の商売をしても、税務上で細工をして表面上は赤字に見せかけて、税金を払わない。明らかに異常な行動である。社会に対する犯罪である。しかしそれが彼には分からなくなっている。つまり頭が健康ではなくなったのだ。それを「餓鬼道に堕ちた」という。餓鬼になった彼は尊敬できる経営者ではない。

 

2022-08-28  久志能幾研究所通信 2475  小田泰仙

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2022年8月25日 (木)

お墓改建の後始末

 

 2015年のお墓の開眼法要の後始末も終り、ほっとした2016年元旦、お寺から年賀が届き、今年の年忌に当たる母の戒名が入った連絡書が同封してあった。それがまたひと騒動の始まりであった。

 

後始末

 人生の出来事で何事も後始末が大事なのだ。たった一つの後始末をきちんとしないために、全てを失うこともある。人生は能舞台なのだ。人はそこで演技を舞う。神仏から人生舞台でのお役が与えられている。黙って舞台に上がり、黙って演技をして、黙って舞台を降りる。幕が下りても、舞台を降りてその場を去るまでは、人生なのだ。最後まで気を抜かず演技をしよう。

 

戒名が違う!

 その母の戒名が私の記憶にある戒名と違っていた。2016年1月3日、お寺に行き確認をしたら、お寺の過去帳に記載の戒名と位牌の戒名が一文字だけ違っていることが判明した。他の戒名も不安になり、墓誌に書いた先祖の戒名を再確認したら、祖父祖母、母の3名の戒名が違っていた。今まで43年間もその戒名の位牌に手を合わせていたので、その戒名が過去帳と不一致だとは夢にも思わず、それを元に墓誌を作ってしまった。墓誌を作るとき、家に位牌のない親類縁者の戒名はお寺の過去帳から確認してもらったが、戒名が既知である両親と祖父祖母の戒名の確認をしなかった。家の仏壇に位牌があることで盲点となっていた。

 

ゴッドファーザーとのご縁

 戒名とは、葬儀の引導を行う僧侶が故人に付ける名前である。故人は戒名を授けられることで僧侶の弟子となり、来世で仏道を修行することになる。院号とは、その故人が来世での修行のために建ててもらった寺の名前である。院号は本来お金では買えず、お寺や社会に貢献をしないと授けてもらえない。

 それゆえ引導をする僧侶はゴッドファーザー(名付け親)である。その戒名はゴッドファーザーの意志が絶対である。白木の位牌に書いた戒名と過去帳に書く戒名が食い違っていても、住職が過去帳に書くときが絶対に正しいものとして扱われる。位牌に書かれた戒名は、50回忌が終ればお炊き上げされてこの世から消える。しかしお寺にある過去帳は永遠に消えない。それ故、食い違いがあっても、どちらを正とすべきかは自明である。そのため今回の戒名の不整合は、過去帳に合わせて直すことにした。位牌も墓誌もお金を掛けて直せば済む話であるが、過去帳は直せない。

 過ぎ去った過去を消せないのが人生である。しかし人生の出直しはできる。自分が位牌を作り直せる状況であるだけでも、幸せである。自分が下流老人でないことを喜ぼう。今回、ご先祖は新しい位牌を作ることで、正しい戒名で仏道の修行に励まれることになる。

 導師である僧侶が過去帳に書いたときが、その故人に一番相応しい戒名である。30年来の吾が師である本多先生(住職)の教えを頂き、本件を納得することになった。本多住職は私のニックネーム「オダブツ」の命名者でもある。つまり私のゴッドファーザーである。

 

 このご縁で小田家先祖の為写経を再度やりなおして、39枚の写経を完成させた。祖母の追善供養法要(2016年2月12日)後に、その写経をお墓に奉納することにした。また墓誌も再製作をした。半端な金額ではない。えらい出費である。

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 馬場恵峰書 写真集『心に残しおく古訓言』 撮影2015年10月26日

  

2022-08-25  久志能幾研究所通信 2472  小田泰仙

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2022年8月21日 (日)

ソニーα7RⅣ+CANONレンズで馬場恵峰書を撮る

 

 2006年から16年間、馬場恵峰先生の書画の写真を撮ってきた。しかしその書画を撮影して製本しても、儲からない。むしろ費用ばかりかかり大赤字である。アホではないかといつも思う。これは、小ばかではできない。大バカでないとやれないことだ。恵峰先生も「私は売れもしない書を大量に書いているので、私は大ばかである」と自分で自慢しておられる。揮毫も撮影も儲けるためにやっているのではない。恵峰先生は後進のための教育教材として書を遺している。私はその歴史を記録に残すために撮影している。

 撮っているのは書画ではない。自分の技量と成長度合いを撮っているのだ。できた撮影作品は、馬場恵峰先生の歴史であり、私の歴史でもある。作品を撮れば、その撮影の方法や機材の欠点が見えてくる。ニーズがあるから、よりよいカメラを担いで九州に飛んでいた。

 その撮影に約14年間を費やしたが、まともな写真が撮れるようになるのには、10年の歳月が必要であった。最初からベストの写真が取れたわけではない。試行錯誤を繰り返して、やり続けて良かったと思う。

 

カメラの変遷

 そのカメラも2006年から2020年の間で下記の遍歴をした。カメラも今やパソコン並みで、そのモデルチェンジは頻繁である。その分、性能の向上が凄まじいので、新製品が出るとつい買い替えてしまう。最近はカメラのキタムラで下取り制度を使うので、助かっている。

 先生の書の撮影に拘らなければ、これだけカメラを買い替えはしなかっただろう。それもご縁である。お蔭でよき経験が出来た。

 

パナソニック Z30         1410万画素  コンパクトデジカメ

キアノン EOS 20D     820万画素 APSサイズ

キアノン EOS 7DmarkⅡ 2020万画素 APSサイズ              

キアノン EOS 5DmarkⅣ 3040万画素 フルサイズ

ソニー  α7RⅣ           6100万画素 フルサイズ

 

1  兼俵純子さん画

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撮影条件

 書画の撮影時は、絞り8、感度200、後はシャッタースピードを自動に設定である。絞り過ぎると回析現象を起こして、却ってピント状態が悪くなる。それで絞り8である。

感度もノイズの関係で200がベストである。

 

ライティング

 きちんとライティングをして、照度計を使い、均等に光が当たるようにもした。

 最初は福田氏の卓上電気スタンドを借りて書画を照らして撮影した。しかし蛍光灯の色が出るし、光のムラもでるので、専用のパラボラライトに変更した。

 その組み立てがめんどうであったが、田添さんに担当して頂いた。

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 軸は立てて撮影

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 毎回、パラボラライトの組み立てをして頂いている。
 

照度計

 長物を撮影すると、隅と中央で明るさに差があり、印刷するとそれが顕著になり、照度計で撮影面が一定の明るさになるようにライティングを調整する。それで光むらの解決した。

 

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台形歪み防止

 書画の撮影では、レンズを真下に向けて撮影するが、その水平出しが難しい。高いカメラでは、水準器が内蔵されているが、書画の撮影時、レンズを真下に向けて撮影するので、その水準器機能が使えない。それでカメラ背面の液晶面に水準器を置き、カメラが水平になるようにして、この問題を解決した。

 ストロボ装着部に付ける水準器も試したが、その装着部にガタがあり、上記の方法に変更した。

 

Dsc08848s  水準だし

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シャッタースピード

 絞りは8、感度は200で、シャッタースピードは自動設定とした。そのため、重~い三脚に変更して対応した。九州まで、毎回持って行くわけにいかず、先生宅に常設である。

 

ピント合わせ

 ソニーα7にキアノンのシフトレンズを装着した。しかしその組み合わせでは、自動焦点合わせは機能しない。だから手動でピント合わせである。そのため拡大ルーペを使う。

 撮影時はシャッターボタンを押した際、ぶれないように遠隔スイッチで操作である。

 

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 これはキアノン一眼レフ EOS 5Dとズームレンズの組み合わせの時代

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レンズ

 キアノンのシフトレンズ(TS-Eレンズ)とは、遠近感とピントの合う範囲を制御できて、アオリ機構を搭載したマニュアルフォーカスレンズである。目的に合わせてティルト(レンズを斜めに傾けピントの合う範囲を調整)とシフト(レンズを水平・垂直方向にずらして歪みを矯正)を使い分けることができる。Lレンズなので高画質がある。固定焦点で焦点50mmである。

 そのレンズをソニーα7に、特殊マウントをかませて装着するので、自動ピント合わせ機能は使えない。ソニーには、この種のレンズはラインアップされていないので、苦肉の策である。

 ソニーのカメラ側はミラーレス、キヤノンレンズは一眼レフ用の仕様なので、特殊マウントをかませれば、装着可能である。

 

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   ソニーα7にキヤノンTS-Eレンズを装着

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撮影の応援隊

 書画の撮影は、一人ではできない。馬場恵峰先生のお弟子たちの大村熟女隊にお世話になった。特に100m巻物では、撮影が5人がかりである。普通の撮影でも3人で大騒ぎである。

 撮影時は、段取りが終わり私がシャッターを切る際には、「皆さん、いきます。息を止めて!」である(笑)。今思うと懐かしくも楽しくもあった。大村熟女隊の皆さんも、普通では鑑賞出来ない先生の秘蔵の書画がまじかに見えるので、喜んでおられた。

 

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 100m巻物の撮影時は、5人かかりである。

  撮影が不出来で、結局この作業を3回も繰り返すことになった。それでやっと出版できる状態になった。

 ローマは1000年の命、ローマは一日にしてならず。

 撮影の労摩は一日にしてならず。

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 思わず見入ってしまう馬場恵峰先生の書

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 書画の位置決め為の段取り中

 撮影後の編集作業のトリミング工程を減らすためである。

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 恵峰先生も時折、筆を休めて撮影現場を「視察」?    2018‎年‎10‎月‎11‎日、‏‎11:43

 しかし今だかって恵峰先生は撮影に関して一度も口を出されたことはなかった。温かく見守るだけだった。時折、その作品を書かれた経緯などを語られた。

 今にして思えば、馬場恵峰先生は、撮影の専門分野には、私を信頼しきっておられて、口出しは絶対にされなかった。よき師の教えに感謝である。

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楽しみ

 撮影時の楽しみは、撮影の合間の休息で、お菓子を食べながら恵峰先生を交えて雑談に花を咲かせること。撮影中は、恵峰先生は、ひたすら仕事で書を書いておられるが、休憩時には、皆と席を同じくして会話に入り、恵峰先生が人生のお話しをされるのが大変有益であった。

 

 お昼は大村熟女隊の皆さんが食材を持ち寄ってこられ、恵峰先生と奥様を交えてわいわい言いながら食べる。それが極楽であったが、つい食べ過ぎてしまうのが問題である。私は食べる量を控えたいのだが、熟女たちが「小田さん、ダイエットは明日からやればよろしがな、今日は食べましょうよ」という悪魔の言葉に、いつも負けてしまう。九州の家庭料理はおいしい。つい箸が進む。

 

P1050589s 昼食後、恵峰先生は黙々と書の揮毫に励む。   ‎2018‎年‎10‎月‎11‎日、‏‎12:36

 大村熟女隊は、食事の後かたずけで台所に行き忙しい。机に上に食事の跡。

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2022-08-21  久志能幾研究所通信 2469  小田泰仙

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2022年8月20日 (土)

ご縁とは波動

 

 人は縁と言う波を発している。その波は高い周波数のときも低いときも、大きな波のときも小さな波のときもある。乱れた周波数のときもあり、その波と相手の波が干渉して不協和音を発することがある。お互いが共鳴して美しいハーモニーを奏でるときもある。

 

ご縁がない

どの波が良いか悪いかではなく、相手と周波数が合うかどうかである。不協和音の発しているのに、何も意地を張ってその音に張り合うのは小人である。その波の差を尊重して、それには「縁がないというご縁」として、そこから遠ざかるのが大人の智慧である。

 物理法則として、人間固有周波数が5000Hzの人と7000Hzの人とは絶対に共振しない。その宇宙根源の理を理解すべきである。それが相性である。考え方が共振できる人と付き合おう。

 その縁があるかないかを耳を洗い、耳を澄ませ、目を拭って見極めたいもの。

 

求めるご縁

神・仏を探しに電波を発していれば、何時かはその電波をキャッチされて、神・仏のご縁のある人に出会うであろう。泥棒を探す波を出せば、それに縁がある事件に遭遇するはずである。すべて己が発する波の如何によって相手から返って来る波が異なる。起こる事件や相手は己の鏡なのである。

 

洗脳殺人波動

 カネに飢えた新興宗教団体は、幸せを求める迷える羊を補足する周波数を発信して、集蛾灯で蛾を集めるが如く信徒候補を捕まえる。新興宗教団体は、迷える羊が好む周波数帯を良く知っている。迷える羊は、苦労せず幸せになりたいのだ。それは行動ですぐわかる。その宗教団体では、その周波数を「洗脳」と呼んでいる。

 統一教会は、票が欲しい議員にも、洗脳周波数機関銃をぶっぱなし、選挙活動に潜入していた。その機関銃の音は人間の耳には聞こえない巧周波である。日本政界の恐ろしい現実である。それが原因で安倍元首相は暗殺された。

 

航跡

 自分の人生で出した波動が、自分の死によって消えていく。しかしその波動は、去っていく船の航跡のように、いつかは消え去る定めである。縁ある人に長く良き思い出となるような痕跡を作りたいと思う。

 

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 馬場恵峰書

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2022-08-20   久志能幾研究所通信 2468  小田泰仙

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2022年8月19日 (金)

いのち、霊止

 

 お墓作りの全ての工程が終ったので、2015年12月1日より、予定通りトイレと玄関のリフォームに取り掛かった。築45年の自宅の耐震補強を兼ねた第6次のリフォームである。

 床と壁をめくると白蟻に喰われた跡が出てきた。2年前のリフォーム時に対策をしてあったが、その痕跡のようである。床や壁を剥がさないと分からないので始末が悪い。知らないうちに家の内部を犯す白蟻は、自分の体の中に潜む病巣に似ている。心して対応したいもの。

 白アリも生きるためには、食べねばならぬ。お互いの領分を守るために、家の白アリ対策は必須である。自分の城は自分で守れ、である。白アリにとって日本家屋は、ご馳走である。白アリだって、人類と200万年も共生してきたのだ。その白アリと共生する知恵を持てばよいだけだ。

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 リフォームで壁と床と天井を剥がした玄関    2015年12月1日

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  白蟻に喰われた床材

 

命を捨てる

 そこにまた不思議なご縁があった。2015年12月2日の朝、大垣八幡宮神社の横の川辺で、70歳前後の女性が首を吊っているのが発見された。その話を今回リフォームの仕事の業者から聞かされた。彼はいつも早朝にジョギングに行く道筋であるが、当日は私の家のリフォームの仕事があるので、その現場に遇うことを避けることができたと、私に感謝をしてくれた。そんな姿を見ればトラウマのように頭に残ってしまうと。下手をすれば彼が第一発見者になっていたかもしれないと。

 私にとっても、その現場はいつもの朝の散歩コースであるし、私もリフォームに取り掛からなければ、その現場に行き、私が第一発見者になっていたかもしれない。つくづくと佛縁を感じた次第である。

 

 その道は子供達に通学路にもなっており、子供達が見たら大変なことになる。自殺した人を責める訳にはいかないが、せめて人様に迷惑をかけずに世を去って欲しいもの。覚悟の自殺なら、山奥で人目につかず一人で死ぬものだ。しかし、人目のある場所で死ぬのは、その直前まで誰かに助けてもらいたい気持ちの未練があったようである。

 死ぬ気になれば何とでもなる。生んで育ててくれた親を思えば、死を踏みとどまれるはず。捨てるならその命をくださいと泣いている難病の人がこの世には数多くいる。1973年入社後の頃、設計ミスでトラブルに困っていた時、指導員の太田博さんから、「人間が作った問題は、人間がなんとか解決できる」と教えて頂いた。その言葉が今でも頭に残っている。

 

佛の力

 首を吊り、意識が遠のく間でも、少しでも生きてくれよと心臓を動かし、肺を動かし、血液を全身に送る作用が、佛の力である。その佛の力を振り切り、死に向かうのは、人の道に反している。最後の最後まで、自分を捨ててはならないと思う。死は神仏の管轄で、人間の管轄ではない。どんな人間でも社会から恩恵を受けて成長した。その恩に報いるためにも、生き続けなければならぬ。

 

 自然界の生命体は、ただひたすらに生きる。自然物は無所属、無条件でひたすら立ち向かう。太陽や雨や風は、たた照り、ただ降り、ただ吹く。風は「何のために」とは考えない。人間も自然界の一つの存在だ。猫も犬も「何のために」とは考えず生きる。生命体は、ただひたすらに生きる。それは人間も同じだ。それが生命に与えられた使命である。それに反してはならない。犬畜生と人間の違いは、人は他人の喜びの為に働くことだ。

 

佛の教え

 佛の最大の教えは、人のものは盗ってはならない、人を殺してはならない、堕落してはならない、である。自殺とは、己を殺す殺人である。

 人は最低一人を幸せにする義務がある。その一人が自分である。

 

霊止

 今回のお墓作り、家系図作り、ご先祖探しの工程と加齢による体の衰えと病気で、命の不思議さ、ご先祖から頂いた命の大事さを再確認した。病気は自分の体の管理の怠慢であるが、生死は自分では管理できない佛縁の営みであると信じている。頂いた命は、限りある限り永らえてご先祖や社会にご恩返しをすべきだと思う。

 

揮毫

 2014年夏、恵峰先生にお願いして下図の「いのち」の書を書いてもらった。前の書には無かった「霊止」が追加されていた。「ひと」を「霊止」と書くとは意味深長である。

 

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2022-08-19  久志能幾研究所通信 2467  小田泰仙

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2022年8月17日 (水)

豊かになるための方法

 

そのために必要な行動

 1 健康優先の生活を送る。

 2 豊かになりたいという熱望を持つ。

 3 縁を神仏の恵みと考え、縁なき縁は追わない。

 4 よき師を選択する。

 5 よりよいものを求め続ける。

 6 利他の精神で、義務と権利のバランスをとる。

 7 余分に払う、「まけろ」と言わない。

 8 神仏を敬う。

 

私は豊かになりたいと願い、鍛錬を続けている。

 

豊かさの方程式

 この世の出来事は、全て人間の為せる技の成果だ。その技は一朝一夕には身に付かない。仕事の技も武芸の技も、豊かになる技も同じである。そのために練習や鍛錬を積んで、初めて手に入る。

 日本の武道には、「生涯無敗伝説の宮本武蔵が『五輪書』で強調した「鍛錬」という言葉がある。 『鍛とは千日(3年間)の稽古、錬とは1万日(30年間以上)の毎日欠かさずの練習』をさす。だから30年の練習でやっと一人前である。それで世間とは一線を画した技が手に入る。並みの技で豊かにはなれない。

 

 グローバル経済教では、いかに自分は楽をして他人のカネを巻き上げるかに、血道を上げる。そんな簡単に手に入ったカネは、簡単に飛んでいく。カネの神様は地道な努力が好きなのだ。

 

 豊かさとは、カネがあることではない。心が豊か、生活の質が豊か、身体が健やかであって、初めて豊かな人生を送れる。豊かさは、求めるレベルを欲望で割れば、その価値が計算できる。どんなにカネや資源の豊富さを誇っても、欲望のレベルが大きければ、限りなくゼロに近い。餓鬼に世界に迷い込む。欲望を小さくさえすれば、豊かな生活が生まれる。

 

 立って半畳、寝て1畳、食べて1合である。どんなにカネを集めても、女を多く所用しても、どんなに家を沢山持っても、いくら車を数多く所有しても、一人の人間がそれに使える時間は限られる。飲みすぎ、食べ過ぎになれば、死が早くなる。どんなに金があっても時間は一日24時間しかない。健康寿命は72歳である。寝たきりになれば、カネがあっても使えない。豊かさの価値を考えよう。日本の富豪のように数兆円を集めても、あとどう使うの?である。

 

 豊かさの価値 = 理想の求める量 ÷ 欲望の量

 

1 健康

 どんなに豊かになっても、健康でなければ、絵にかいた餅である。豊かになるための第一条件には、健康が最優先である。

 自分の体は、神仏からの預かりものである。大事に使わないと、すぐ神仏から取り上げられる。それでは豊かになれない。

 エリートと称される人たちは、精神的には弱く挫折しやすい。心身が健康であって、初めて豊かなのだ。

 

2 熱望

 豊かであるためには、豊かになりたいという強い欲を持つことだ。誰よりも強く願うことだ。人生での勝負で、勝ちたいと思わないと、絶対に勝てない。皆が勝ちたいと思っている思っているから、その中で戦うは、闘争心が必須である。それは豊かさも同じである。

 豊かになりたいなら、豊かになる努力、鍛錬をすることだ。それなくして、豊かにはなれない。ただしどんな努力をしても、人間には器の大きさと人生のタイムリミットがある。それを忘れないようにしよう。

 

3 ご縁

 縁のめぐり合わせは人知を超えている。来た縁は大事にすることだ。また縁がない現実は、神仏が「縁がない」と言っているのだ。「縁がないという縁」を授かったのだ。そんな縁を無為に追うから豊かになれない。縁なき縁は追わずである。

 

4 よき師を3年かけて探す

5 何度も繰り返す

 どんなモノでも、最初から理想のものが手に入るわけではない。家だって3回建てないと満足した家にはならないという。それは万物に共通する。そのためには、最終的にどんな姿にするか長期ビジョンを持つことだ。最後の姿を目指して、鍛錬することだ。

 

6 分相応

 自分は全体の中の自らの「分」を頂いているだけだ。全体を考え(利他)、自分の義務を果して、初めて獲物が手に入る。そうでないと、分不相応として回りから嫉妬される。それでは豊かになれない。

 

7 投資

 豊かであれば、金品サービスを提供してくれる仲間に、感謝を込めて余分に払うのが、ご正道である。回り回って、きっと倍返しで返ってくる。それが豊かさである。

 だから金品サービスを提供してくれる仲間に、「まけろ」などと言ってはならない。値引き交渉などしなくても、豊かになれば相手が勝手に安くしてくれる。

 そのための最大の投資先は、自分である。自分に投資をすることだ。勉強することだ。

 

8 神仏

 そのご縁は全て神仏の賜物だ。神仏にお願い事はダメである。神仏は、感謝をして敬おう。縁は理を超えたところにある。捨てる神あれば拾う神あり。仏様はもっと人情がある。天はお茶目ないたずらをする。それに従おう。

 

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馬場恵峰書

2022-08-17   久志能幾研究所通信 2465  小田泰仙

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為写経

 

 2015年、お墓の改建を機に、父の末弟の小田五郎に「護國院」という立派な院号を長松院住職様から付けていただいた。小田五郎は昭和19年にビルマで戦死された英霊である。また元の戒名が戰勲至誠居士であるので、吉田松陰が好んで使った「至誠」であるのも因縁である。

 住職様も英霊に院号を付けるというのは、住職としても人生で滅多にないことであり、大変名誉なことなので、その代金は不要と言われた。ありがたいことであった。

 その一連の過程で、小田家先祖代々諸精霊の位牌を作るとよいと長松院住職様からのアドバイスを受けて作成した。

 

 その位牌を納めに来た横田仏壇屋の奥様から、それなら為書きの写経をお墓に納めると良いという助言があり、早々に写経を始めた。書いているうちにそれならお墓に入っているご先祖様全員の為写経をしようという気になり、全33名分の写経をする大変なことになった。それでも8月15日から始めて、10月3日で33名のご先祖様の為写経を終ることができた。まだ時間があるので、更に写経を進めた。

 これも以前に、知己塾で恵峰先生より「般若心経の写経をすると書道の勉強にもなる」と言われて、その教材を入手していたご縁があって、直ぐに取り掛かれることが出来た。ありがたい恵峰先生からのご縁である。

 

 般若心経の一字一字を慎重に書いていると、その意味するところが伝わってくる。書いてこそ、その経の意味が理解できる。それが分かったのも大きな功徳であるようだ。

 

 馬場恵峰先生は、今までに1万5千文字の写経をされたという。先生でも1枚の般若心経を書かれるのに2時間を要するという。それも斎戒沐浴をしてからの写経である。ご縁があり、先生の書の写真集を出版することで、先生の書かれた経の写真を昨年から撮らして頂いている。次頁はその一部である。

 

 2015年10月3日、33名のご先祖様の為写経を終えて、小田五郎さんに新たな院号がついたことを思い出し、その位牌を作ることを思いついた。既に五郎さんの50回忌は終っていて、元の位牌はお炊き上げされているはずだが、諸般の事情で仏壇に位牌も祭られてこなかったようだ。英霊でもあるし、私の家にその関係遺品が残されていて、私が遺品を管理しているご縁もある。住職様と相談をして、位牌を新作することにした。結果として、2015年の半年間で3つの位牌を新作するという不思議なご縁となった。何かに導かれているようだ。

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  馬場恵峰書

2022-08-016   久志能幾研究所通信 2464  小田泰仙

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2022年8月13日 (土)

 

 人の命は精々100年である。それに対して仏像の命は1000年である。佛師は、佛像を彫る刃に自分の命を賭ける。

 自分の「作品」の命を想定して、自分は仕事をしているのか、自問したい。人は皆職人で、芸術家である。会社の一般職が扱うプロジェクトの命は、精々10年である。私はそれより長い命の「作品」を創ることに命を賭けたい。

 今計画中の音楽サロンは完成後、100年は使ってもらいたい。

 馬場恵峰先生の書も写真に撮って出版して、国会図書館に納めたから100年、200年は命があるはずだ。

 後藤大地さんが彫った龍は、今後1000年は人の目に触れるだろう。その龍は、ある都市の山車に付けられる。お祭りごとに人の目を奪う。うらやましい限りだ。

Dsc021241s     後藤大地さんが彫った龍

 人は100年の命を賭けて、何を作り、何を遺して逝くのか。それが人の生き方として問われている。私はその時期が迫り、それを意識せざるを得ない。

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     成長モデル

 

仕事、使命

 仕事とは、命を使うことだ。仕事に時間(命)を捧げるとは、自分の命を捧げる事だ。仕事とは「事」に仕えることだ。食い扶持を得るために仕事をしているのではない。それは作業である。人間として生きるなら、「業」を「作る」のではなく、仕事で「事」に「仕える」べきだ。犬畜生は生きるために、獲物を得る作業をしている。人間はそうであってはならない。

 日常の政治経済、生産、商業、農業の営みは、全て布施である。すべて世の中に貢献している仕事である。橋を作るのも、船を作るのも、すべて布施である。

 

 然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施に非ざること無し。(第21節) 

  道元禅師 修証義 第4章

 

 自分の命は、40億年続いたご先祖からのDNAの継承である。人とは「霊止」と書く。ご先祖の霊が、今の自分に宿っている。だから単に生き永らえるために、糧を求めるだけで作業をしてはならぬ。

 

地獄の業火

 グローバル経済主義で、金儲けだけが目的の「作業」だけで一生を終えては、人として情けない。米国のグローバル経済の邪鬼や、中国共産党のように、なるべく楽をして、他人からカネを集めるだけのことは、仕事ではないだろう。その「事」で、一人だけが幸せになり、99人が不幸せになるのは、「業」を作っているのだ。それは地獄の業火で焼かるだろう。

 日本の企業人がグローバル経済主義に染まり、金儲けだけ動いているから、日本の景気が良くならない。自業自得である。自分有限会社の経営は、そうならないように精進すべきである。

 

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 馬場恵峰書

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2022-08-012   久志能幾研究所通信 2460  小田泰仙

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2022年8月12日 (金)

身体の保全と危機管理、遺体の腐敗防止?

 日本は「農薬大国」で、年間約60万トンもの農薬が生産されている。農薬は主に殺菌剤、除草剤、殺虫剤として使われており、これらの中には、発がんリスクの高い猛毒を含んでいる。我々は普段の食事で、体によいと思って食べている野菜や果物と共に、そのような毒物も摂取している可能性がある。実際、日本人の体内脂肪から有機塩素材(農薬)の残留量が世界平均の3倍も検出されたというデータもある。

 最近の日本人は死んでも、昔ほどすぐ腐敗しないと言われる。つまり防腐剤が体にしみ込んでいるのだ。

 日本の年間約60万トンの農薬を一人当たり年間に換算すると、6kgの農薬を「浴びて」いる計算になる。輸入される外国の農産物に使われる農薬や防腐剤を含めると、恐ろしい量の「毒」を浴びていることになる。

 

日本はダントツの農薬使用量

 農薬の致死量は2グラムである。日本では、その3000倍の農薬が一人当たりに使われている。米国の使用量の4倍の量である。安全にうるさいスウェーデンの使用量の20倍である。下のグラフを見れば、中国の農作物が危険などと批判できない。

 

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▲ 出典:FAO「FAOSTAT」農地1haあたり国別農薬使用量(2018年)より弊社作成。

農薬https://musubi-ichiba.jp/blogs/syoku/noyaku-genjyo

 ブログ「産直 むすび」より引用

 

がんの大量生産

 1975年の医師数が約13万人、がん死者数は約13万人だった。その後の40年間で、医師数は約3万人増加し、がんに関する研究や治療は格段に進歩したのに、2014年のがん死者数は36万人を越えた。2021年には38万人になった。

 1970年代の日本の総医療費は10兆円であった。2021年には医療費総額は43兆円を超えた。しかしがん患者は減るどころか4倍に増えている。

 がん死は年々増加の一途である。政府はそれの事実を隠すために、年間1万人程の死者の新型コロナ禍を大々的に公報して恐怖を国民に植え付けている。その死亡者も疾患持ちの高齢者が大半である。

 新型コロナの恐怖を政府やマスコミが煽るのは、コロナ対策には兆円単位の利権がからんでいるのがその原因である。官僚の心ががんに侵され、堕落したのだ。現実は、がん死の方が、新型コロナ死よりも38倍も恐ろしいのだ。

 

農薬過多の原因

 日本人が自然に反して潔癖すぎる食品を求めすぎた結果、農薬を多く使わないと、農製品を商品として扱わないのが原因だ。多少は曲がったキュウリや虫食いの野菜を許容すれば、農家もここまで農薬を使わない。農薬を大量に使わないと扱う商社側が、農製品を買い取ってくれないからだ。売る方も消費者の求めるものを売っている。自業自得なのだ。

 農薬に殺される害虫は、人類と200万年も共生をしてきた。それを急に見てくれが悪いから殺す、では自然界の理に反している。害虫とは人間様からの一方的な位置づけ(差別)で、自然界ではそれで全体が回っているのだ。だからがん等の病気の増加は、日本人に「自然に帰れ」と警告しているのだ。

 

がん原因食品の増加

 1950年から2010年までの60年間でみて、平均的に肉の摂取量9.8倍、卵6.3倍、牛乳・乳製品が18.2倍と著増し、米が半分、芋類は10分の1と激減した。つまり、肉・卵・牛乳・バター・マヨネーズなどに代表される「高脂肪」の欧米食こそが現代日本人のがんの大きな原因の一つであると推定される。その証拠として、以前多かった胃がんや子宮頸がんなどの日本型のがんは減少して、肺、大腸、乳、卵巣、子宮体、前立腺、すい臓、食道がんなどの欧米型のがんが著増している。食生活を悪い方に変えたから、病気が増えたのだ。だからがん等の病気の増加は、日本人に「食生活を見直せ」と警告しているのだ。

 

宇宙音源の理に反した食肉生産

 畜産品は、利益最優先で牛、豚、鶏の成長を早めるため、成長ホルモンが投入されている。畜舎の中に過密状態で育てるため、伝染病にかからないように、多量の抗生物質が飼料に投入され無理に飼育されている。そうやって育った肉や乳製品を多く食べれば、病気にもなるのは「理」に合っている。「理」に適わない食品が体に毒になる。それは「宇宙根源の理」に反した食物である。

 「ハムや加工肉を日に50g以上食べ続けると大腸がんになる確率が18%増加する」とWHOから報告があったばかりである。ハムや加工肉は、防腐剤や添加物が多く入っている。そんな肉を長年食べれば、病気になるのが必然である。

 だからがん等の病気の増加は、日本人に「食生活を見直せ」と警告しているのだ。

 

食は生命

 2000年も前から漢方医学では「食は生命」としている。贅沢な欧米型の現代食生活を謳歌すると、20年後に病気と言う悪魔のサイクルのご縁を頂く。因果応報である。がんという病気を対処療法で治しても、その根本原因である食生活を直さないと病気は治らない。気づいた時には遅いが、それでも一日でも早く食生活を正すのが、ご先祖へのご恩返しである。

  

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馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」久志能幾研究所刊

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2022-08-11   久志能幾研究所通信 2459  小田泰仙

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