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2022年8月19日 (金)

いのち、霊止

 

 お墓作りの全ての工程が終ったので、2015年12月1日より、予定通りトイレと玄関のリフォームに取り掛かった。築45年の自宅の耐震補強を兼ねた第6次のリフォームである。

 床と壁をめくると白蟻に喰われた跡が出てきた。2年前のリフォーム時に対策をしてあったが、その痕跡のようである。床や壁を剥がさないと分からないので始末が悪い。知らないうちに家の内部を犯す白蟻は、自分の体の中に潜む病巣に似ている。心して対応したいもの。

 白アリも生きるためには、食べねばならぬ。お互いの領分を守るために、家の白アリ対策は必須である。自分の城は自分で守れ、である。白アリにとって日本家屋は、ご馳走である。白アリだって、人類と200万年も共生してきたのだ。その白アリと共生する知恵を持てばよいだけだ。

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 リフォームで壁と床と天井を剥がした玄関    2015年12月1日

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  白蟻に喰われた床材

 

命を捨てる

 そこにまた不思議なご縁があった。2015年12月2日の朝、大垣八幡宮神社の横の川辺で、70歳前後の女性が首を吊っているのが発見された。その話を今回リフォームの仕事の業者から聞かされた。彼はいつも早朝にジョギングに行く道筋であるが、当日は私の家のリフォームの仕事があるので、その現場に遇うことを避けることができたと、私に感謝をしてくれた。そんな姿を見ればトラウマのように頭に残ってしまうと。下手をすれば彼が第一発見者になっていたかもしれないと。

 私にとっても、その現場はいつもの朝の散歩コースであるし、私もリフォームに取り掛からなければ、その現場に行き、私が第一発見者になっていたかもしれない。つくづくと佛縁を感じた次第である。

 

 その道は子供達に通学路にもなっており、子供達が見たら大変なことになる。自殺した人を責める訳にはいかないが、せめて人様に迷惑をかけずに世を去って欲しいもの。覚悟の自殺なら、山奥で人目につかず一人で死ぬものだ。しかし、人目のある場所で死ぬのは、その直前まで誰かに助けてもらいたい気持ちの未練があったようである。

 死ぬ気になれば何とでもなる。生んで育ててくれた親を思えば、死を踏みとどまれるはず。捨てるならその命をくださいと泣いている難病の人がこの世には数多くいる。1973年入社後の頃、設計ミスでトラブルに困っていた時、指導員の太田博さんから、「人間が作った問題は、人間がなんとか解決できる」と教えて頂いた。その言葉が今でも頭に残っている。

 

佛の力

 首を吊り、意識が遠のく間でも、少しでも生きてくれよと心臓を動かし、肺を動かし、血液を全身に送る作用が、佛の力である。その佛の力を振り切り、死に向かうのは、人の道に反している。最後の最後まで、自分を捨ててはならないと思う。死は神仏の管轄で、人間の管轄ではない。どんな人間でも社会から恩恵を受けて成長した。その恩に報いるためにも、生き続けなければならぬ。

 

 自然界の生命体は、ただひたすらに生きる。自然物は無所属、無条件でひたすら立ち向かう。太陽や雨や風は、たた照り、ただ降り、ただ吹く。風は「何のために」とは考えない。人間も自然界の一つの存在だ。猫も犬も「何のために」とは考えず生きる。生命体は、ただひたすらに生きる。それは人間も同じだ。それが生命に与えられた使命である。それに反してはならない。犬畜生と人間の違いは、人は他人の喜びの為に働くことだ。

 

佛の教え

 佛の最大の教えは、人のものは盗ってはならない、人を殺してはならない、堕落してはならない、である。自殺とは、己を殺す殺人である。

 人は最低一人を幸せにする義務がある。その一人が自分である。

 

霊止

 今回のお墓作り、家系図作り、ご先祖探しの工程と加齢による体の衰えと病気で、命の不思議さ、ご先祖から頂いた命の大事さを再確認した。病気は自分の体の管理の怠慢であるが、生死は自分では管理できない佛縁の営みであると信じている。頂いた命は、限りある限り永らえてご先祖や社会にご恩返しをすべきだと思う。

 

揮毫

 2014年夏、恵峰先生にお願いして下図の「いのち」の書を書いてもらった。前の書には無かった「霊止」が追加されていた。「ひと」を「霊止」と書くとは意味深長である。

 

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2022-08-19  久志能幾研究所通信 2467  小田泰仙

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