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2020年2月 8日 (土)

「ながい坂」で出会う仏様

 何ごとにも人に抜きん出ようとすることは良い。けれどもな阿部、人の一生はながいものだ。一足跳びに山の頂点に上がるより、一歩、一歩としっかり登ってゆくのも、結局はおなじことになるんだ。一足跳びにあがるより、一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉や、いろんな風物をみることができるし、それよりも一歩、一歩をたしかめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力になるものだ、わかるかな。 

山本周五郎著『ながい坂』上巻 新潮社版 p21

     2006年8月15日 カードに書き抜き

 

 以上は、仕事で成果を上げようと焦っていた時、愛読書の『ながい坂』を読み返して、目に飛び込んできた一節である。会社の仕事で早く成果を上げようとするのは、愚かなことだ。自分に実力がないから、人よりも目立って、早く成果を上げたくなるのが人情である。そういう時に限って落とし穴にはまる。神仏がもっと落ち着けと啓示を示しているのだ。

 

人の幸せとは

 現代のグローバル経済主義の会社では、成果主義で毎年の成果で責め立てられる。中間管理職は、自分を自分で責め立てられるように仕事を進めざるを得ない。山の頂点を目指して必死に登っていくと、人生の途中の風景を眺める余裕はない。必死に登っていると、何時しか一緒に上っていた仲間が24人も遭難して帰らぬ人となっていた。

 前職では、人は幸せになるために仕事をしているはずなのに、深夜まで働かされ、家族の会話も無くなり、過労死や病気になり、己も家族も不幸にする人が多かった。中間管理職には組合の保護もない。部下は残業規制で早く帰宅させないといけない。そのしわ寄せは、中間管理職に来て、部下の仕事までもこなさねばならぬ。中間管理職は上と下からの突き上げで、ストレスも一杯である。休日は疲労困憊で寝ているだけ。家族を幸せにするために働いているのに、何か本末転倒の人生である。会社を離れた今から、10数年前の当時を振り返ると、なんと異常な世界であったことかと思う。

 

長い坂

 長い人生の長い坂を、焦って上るから短い人生になってしまう。人生の終着駅は「死」である。焦っても焦らなくても、終着駅は同じである。ゆっくりと登れば長い坂の道中で、風景を楽しみながら登ることが出来る。現代の若者は、中間管理職の激務をみているので、出世したいという若者は激減した。日本人の働くモチベーションが下がってきたので、経済成長がアジア諸国に負けても当然である。日本の教育と仕組みが、何かおかしい。

 人生道で焦れば、遭難する。ゆっくり登る道中で、世のため、後世の為に残る作品(遺産)を創ればよいのだ。人間は定年までの仕事が、社会への義務である。またそれは定年後のための充電期間でもある。定年後の人生が、個人として後世に作品を残すための実際の仕事期間である。

 

余命39年?

 私も、最終目的地に到達するまでに、あと39年間(?)も期間があると、自己暗示をかけて、人に冗談で広言して、毎日仕事をしている。松下幸之助翁は、若い時に医師から「24歳までしか生きられまい」と言われた虚弱体質であった。しかし松下幸之助翁は、自分は運がいいと信じて、120歳まで生きるのだと公言して、仕事をした。結果は94歳まで生きた。自己暗示の力は素晴らしい。長生きも、芸の一つである。私も長生きの芸を磨きたいもの。

 

2020-02-07 久志能幾研究所通信 1474  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月 6日 (木)

モノを買うとは、自分を買うこと

 そのモノが自分の人生で、自分の分身として力になってくれると信じて「モノ」を買う。意識しなくても、潜在意識が、そうやって己の行動を支配している。浅ましい買い方をするとは、自分の心が浅ましいので、そういう行動を取らせるのだ。良い買い方をすれば、人生が豊かになる。

 私がご縁のできた人の家を訪問すると、そこの家にある品物を観察する。そこに、その人の人生観とセンスが観察できて興味深い。

 私はいつも自分の家にあるモノを、人に見られて誇れるか、恥ずかしいか自問している。

 

購入

 豊かな気持ちでモノを買えば、感謝でお金を払うことになり、売る方も買う自分も、モノに籠っている精霊も喜ぶ。それだから運命が良くなると私は思う。その逆では、世のためにも、自分のためにもなるまい。

 モノを買うとは、自分の時間を使いそのお店に出かけ、自分が稼いだお金(時間)を使い、自分が気に入ったモノを買うのだ。それこそが投資である。

 特に本の購入は、自分の時間(命)を捧げて、読まなければならない「モノ」である。その選択が人生を変える。

 

値切り

 私がモノを買う場合は、値切らない方針である。値切るとは、自分をディスカウントすることだ。自分が惨めになる。値切るなら、買わない方がよい(日本国内の場合のみ)。

 私は買うお店も店員も決めているので、上得意様として相手が勝手に「負けて」くれる。普通で値切るより、私が買う商品は、他の客よりも値引き率が高い。

 

購入失敗

 2年前に「高級車(二号さん)」を思わず買ってしまった。自分の一部として働いてくれた事も多かったが、それにかかる経費が想定以上に多く、却って自分の付加価値を上げる足かせになってしまった。それで今年の1月に泣く泣く手放した。分不相応のモノを買うと、それに資金が使われて将来の自分の価値を上げられなくなる。人生の「酔い」経験であった。実際に「二号さん」を買って、失敗してみないとその智慧はつかない。たまには失敗も良いものだ。高級車も、一度乗ってみると、ああこういうものかと、納得できて未練がなくなる。経験こそがお宝の購入品である。

 

イベント購入

 モノには、イベント、研修会、講演会、音楽会とかの「こと」も含まれる。自分の時間をその「モノ、コト」に投じるのだ。それの経験が自分の付加価値を上げてくれると思って、お金と時間をかける。その選択に自分の人生観が現われる。

 自分が今まで何の「コト」に投資をしたか、それが自分の価値を上げることになったか否かを検証しよう。

 私は馬場恵峰先生の「コト(人生の講話塾)」を「買って」人生が豊かになった。私も先生の作品を出版することで、先生に恩返しができた。

 

無駄遣い

 安易にテレビ番組を見るのも、大切な、二度とない時間をその番組に投資をしているのだ。その見返りは皆無に近い。それを考えず、愚劣で下らない番組を見るから、時間がいくらあっても「成果」が出ない。

 

ご縁を買う

 ある人とご縁ができるとは、その人の人生を買っているのだ。用があるからその人とご縁を結ぶのではない。ご縁を作るために、その人のご縁を買うのだ。結果として、その人から、その人の経験を買うことになる。

 その人とご縁を結ぶには、時間もお金もかかる。交通費もお土産代もかかる。ご縁を結ぶにも、手ぶらではいけない。自分のお土産(経験、支援、援助、土産話等)も必用だ。それも相手が喜び、相手の成長になるモノを提供しないと、そのご縁も長続きしない。ギブ&テイクであるのが原則であるが、それでは商売である。私はギブ&ギブを心がけている。

 

ご褒美

 何かの記念に自分へのご褒美で、モノを買う場合もあるだろう。それがご褒美である場合は、ついその選定が安易になり勝ちである。自分で自分へのご褒美は、お手盛りとなりがちであるので、なるべく避けるべきだと思う。

 

赤ちょうちん

 飲みに行くのも「こと」を買っている。飲み会は、時間とお金と健康を犠牲にしている。二次会に行くのも同じである。

最近の研究で、酒は微量でも、発癌作用があることが英国の学会の研究で発表された。赤ちょうちんは健康にもよくない。

その飲み会の時間を上司の悪口を言いあって、自分の人生の価値を上げられるだろうか、自問したい。タバコの煙が漂う酒場で、酔った頭で同じことを繰り返して話す二次会の付加価値とは何か、考えたい。

 私のサラリーマン時代は(幸い?)、車通勤であったので、赤ちょうちんに行く機会は少なかった。飲酒運転は、勤めた会社が車関係であったので懲戒解雇の対象である。良い環境であったと思う。

 

2020-02-06 久志能幾研究所通信 1473  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月29日 (水)

磨墨智453.満足では幸せになれず

   幸福=充足/欲望

    幸せ=人が喜ぶ行為/無償の愛の行為

 

 幸福になるために時間を創ろう。欲望を小さくすれば充足までの時間は短くできる。無償の愛は、人よりも己が幸せになれる。

 「足るを知る」とは禅の言葉である。欲望を大きくするから、器が埋まらない。結果だけを追い求めるから、幸せになれない。

 立って半畳、寝て1畳、飲んで三合、そんなに人は消費できない。必要以上にかき集めても、人には寿命という時間制限がある。だから人は、貯めたお金を全ては使いきれない。またお金を使うのに疲れて不幸せになっていく。お金が集まり過ぎると、猜疑心が大きくなり、不幸になる。

 人が死んだ後に残るは、集めた量ではなく、世間、世に与えた量・質である。

 

満足と幸せの違い

 幸せとは、欲しいものを手に入れて満足することではない。幸せとは、欲しいものを手に入れる過程で、得られる心の充実感である。それはプロセスの中にあり、目的追及の過程に存在する。利他の行動、感謝の気持ちが生まれる行動、目に見ない嬉しさであり、何度でもその効果が持続する。

 満足とは、結果である。結果に満足しても、決して幸せとは言えない。満足は目標達成の時であり、利己欲の達成の時であり、ご褒美の経済的利権の獲得であり、儲かったという気持ちであり、お金のように他人からも見えるものである。それは一度限りの満足である。それを手に入れると、更にそれ以上のものを求め、無間地獄に堕ちていく。

 

 満足  vs  幸せ

 結果      プロセス

 頭が理解    心が充実

 利己      利他

 驕り      感謝

 目に見える   目に見えない

 一度限り    何度でも

 

 カルロス・ゴーンは日産社員2万人の首を切り、系列を切り、人材育成費を切り、社員のリストラの血で染まった123億円を独り占めしても、更にカネを求め続けて墓穴を掘った。

 小川敏は姑息な手段で3期連続無投票当選に持ち込み、5期の市長職を勤めて、大垣市の墓穴を掘っている。大垣市は瀕死の状態である。更に小川敏は4期連続無投票当選を目指して動き出した。大垣市を地獄に落とすつもりである。本人は3億円の手当で極楽天国である。

 

成果主義の天国と地獄

 我々は成果主義に踊らされて、満足のために結果だけを追い求めるから、結果を出して満足しても、決して幸せにはなれなかった。それは各個人の利己と利己の戦いになるから、勝者の1%だけが幸せになり、99%が不幸せになる社会となってしまったからだ。今日の勝者は、明日の敗者にすぐ没落する。

 成果主義評価が浸透すると、見かけの成果を上げるため、安易な目標を掲げて申告する。だから容易に目標は達成できるが、自分の能力は上がらない。自分は忸怩たる気分で幸せとは思えなくなる。そうやって社員全員が、チャレンジしなくなるので、会社は衰退していく。

 日本で最初に成果主義を取り入れた富士通は、その弊害に気が付き、早々に成果主義を止めてしまった。

 

6選を目指す小川敏の満足と不幸せ

 小川敏は5期も大垣市長職を勤めても、幸せでないから、成果を求めて6選を目指すのだろう。求めても求めて切りがないのに。大垣市を良くするのが目的ではなく、6選を目指すのが目的となり、市長の自己宣伝の行事ばかりに力を入れるから、大垣の発展には逆効果である。だから市民税を使って多選を目指すための目立つ行事ばかりとった。大垣市のための結果が出ず、大垣市民が不幸せになっていく。小川敏だけが満足である。それで大垣市は衰退・没落した。

 この19年間の小川敏の無能政治で、地価は半値以下に暴落し、大垣経済は20%も衰退した。駅前商店街は80%が店を閉めた。約8000人の商店従業員が泣いて大垣を去った。人心は倦んだ。市の職員はヒラメになった。小川敏は天狗となって、大垣市職員の給与を県下一に上げたが、こっそりと大垣市教員の給与は最低レベルに落とした。児童生徒の教育環境を県下最低レベルに追い込んだ。

 人には寿命という時間制限がある。それを無能な小川敏だけで6選を独り占めしようとするから、他の市長職に適した人の時間を奪い、大垣の歴史の時間を奪っている。小川敏は、恥も外聞もなく6選への事前選挙工作を始めて「恥知らずの恥は外道」を行っている。

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 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」(久志能幾研究所刊)より

 

2020-01-29 久志能幾研究所通信 1465  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

藁人形には五寸釘を打たない

 私は万物には精霊が宿っていると信じている。だから私は藁人形には五寸釘を打たない。人を恨めば、倍返しでその咎を受けるだろうと思う。そんな暇があったら、私は反省と学ぶことに時間をかける。人を恨まねばならないような仕打ちをする輩とご縁があったら、その人の分析をして、二度とそういうレベルの人とご縁がないように自己防衛をしている。その人は、悪縁の実相を教えてくれたのだ。そんな悪縁の人と付き合っていると、もっと大事な人とのご縁にかける時間が無くなってしまう。人生時間は有限である。人生二度なしである。私は、五寸釘よりも、ペンの力が大きいと信じて行動している。

 

精神教育

 現代日本社会で、心に病を持つ人が激増したのは、人の心を大事にするよりも、拝金主義・物質主義・刹那主義・利己優先主義が横行して、人の心を傷つけることが平気になったためである。日本の心教育の再建が必用である。

 親が仏壇の前で手を合わせないから、子供が手を合わさず、親が後ろ姿で子供を教えないから、子が目に見えないものに畏敬を覚えなくなる。仏壇のない家の子が不良になる確率は、仏壇・神棚のある家の子よりも大きいという。

 

己が神仏

 元京大総長の平澤興氏は、弟子が仕事で悩んで相談に来た時、「全力を尽くすのは当然だが、さらに神仏に祈ったか?」と問うたという。祈りとは、冷静に自分を見直す機会である。神仏の前で手を合わせて、傲慢になる人はいない。神仏の前では、人は謙虚に冷静になる。そこで自分と冷静に対峙できる。そこに神仏の加護がある。神仏は己の魂に籠る。己こそが神仏である。己が運命を切り開くのだ。神仏は見守っているだけである。

 

モノには精霊が籠っている

 モノには精霊が宿っているので、使われないと悲しむと思う。モノにはこの世のお役目がある。それが使われずに死蔵されと、そのモノに哀れを感じる。そう言っても、現在、私の家で使われず死蔵されている品数が死屍累々である。その多さを見ると、慙愧に堪えない。日々反省である。

 もっと大事なことは、自分の中で、使われずに死蔵されている才能である。出来ないのではなく、使って見なかっただけなのだ。だから何でも挑戦すべきだと思い、毎日新しいことに挑戦している。そこに日々新しい発見がある。

 

心の保護膜

 人の体は、鉄面皮のような面の皮、心臓の剛毛と頭蓋骨でその体を守っている(私の面の皮は薄い?)。しかし仏様も人間創造時の設計ミスで、心に保護膜を付けることをお忘れになった。そのため、たった一言で人の心は大きく傷つけられる。たった一言で勇気付けられる。私は、人間を含めた万物に宿る精霊、心魂は存在すると信じて日々暮らしている。だから口頭での言葉には細心の注意をしている。

 

家の精霊

 今まで、私は大学卒業後、就職で愛知県に移り、計6軒の借家に住んだが、その間、釘一本打ったことがない。釘を柱に打てば、家の木が痛みを感じて悲しむと思うからだ。ご縁があって住まわせてもらっている家で、家の精霊に申し訳ないと思うからだ。その借家で以前に住んでいた人が打ち込んだ多くの釘を見ると、五寸釘が打ち込まれたのを見るようで、その家に住む精霊が不憫になる。

 今は、月に一度、土地の氏神様に、お酒で清めて塩を撒いて、手を合わせて感謝をしている。土地にも精霊が住んでいると信じているからだ。お陰で無事に暮らさせていただいている。

 

命を繋ぐ

 昭和9年から始まった法隆寺の昭和大修理で、「鬼」と称された宮大工の西岡常一は、その修理方法を御用学者が鉄の補強をして木にボルト締めすべきとの提案を強固に反対してそれを阻止した「そんなことをすれば、木が泣きよります」と言って反対した。そこの西洋文化とは一線を画する考えがある。万物に神が宿るとした日本人の職人の心がある。木の精霊を信じる職人がいる。それでこそ千年先に命を繋ぐ仕事が生まれる。

 

自宅リフォーム

 現在、住んでいる自宅も、50年前に両親が苦労をして建てた家なので、10年前から7年がかりでリフォームした。本来、リフォームせず建て替えた方が安かったが、新築とほぼ同じ金額をかけてリフォームをした。両親の想い出と魂が籠っていると思ったからだ。だから私は家の精霊に気を使って、家の柱に釘一本打っていない。両親が建てた家に釘を打つのは、なにか気が引けた。

 だから書画を飾るための釘は、全て大工さんにピクチャーレールを取り付けてもらって対応した。それ以外は締め付けネジのついたフックや、万力等で固定をして家に傷をつけないように、大事に使っている。そういう心配りだから、2002年の燐家の火事の際、もう寸前で延焼しそうになったが、仏様・精霊さんのご加護で延焼にならずに済んだと信じている。家の精霊に感謝である。

 

大垣行政の愚行

 私は理科系、技術者でバリバリの科学技術信奉者である。しかし神仏は信じている。だから神仏をないがしろにする大垣市長の小川敏には怒り心頭である。小川敏は神仏の前で真剣に祈ったことはないだろう。真剣に大垣市民のために祈り、真剣に己れの行動に対峙すれば、今までの愚行は行えないはずだ。大垣が没落することもなかっただろう。政治は結果が全てである。

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   馬場恵峰書

 

2020-01-28 久志能幾研究所通信 1464  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月22日 (水)

「萬燈行」で人生と大垣を照らす

萬燈行

 内外の状況を深思しましょう。このままいけば日本は自滅するしかありません。我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか。我々が何もしなければ、誰かがどうしてくれましょうか。我々がなんとかするしかないのです。

 我々は日本を易えることができます。暗黒を嘆くより一燈になりましょう。我々がまず我々の周囲の暗を照らす一燈になりましょう。手の届く限り、至る処に燈明を供えましょう。一人一燈になれば萬人萬灯です。日本はたちまち明るくなりましょう。これ、我々の萬燈行であります。互いに真剣にこの世直し行を励もうではありませんか。 

                  安岡正篤

 

 以上は日本の敗戦後の荒廃した日本社会を見て、安岡正篤師が記した言葉である。私は時折、B5カードに書いたこの言葉を見て、勇気づけられている。この言葉は私が安岡正篤師の本にあった言葉に感銘して、2005年5月5日にカードに書き写した。昨日、カードを見直していたら、その言葉が目に飛び込んできた。

 

大垣の未来、日本の未来

 このまま小川敏に大垣市政を任せれば、大垣は自滅するしかない。大垣は日本の縮図で、このままいけば日本さえこのままいけば自滅である。日本は世界第3位の経済大国というが、教育は荒廃し、政治は幼稚化し、経済はデフレ化の一途で、マスコミは忖度ばかりでフェイクニュースを垂れ流す。フェイクニュースとまでいかなくても、新聞・テレビ番組を売るために不安を煽る記事が垂れ流されている。企業は拝金主義に邁進して、日本精神の荒廃に拍車をかけている。

 まず大垣を良くしないと日本もよくならない。我々が大垣を照らす一燈になり、少しでも大垣を良くする取り組みをしたい。

 大垣を良くするためにも、その前に自分の家庭・子供の躾を見直そう。ゲーム機やスマホばかりにかじりつている子では、将来の大垣、日本を背負えない。その躾の責任は親である。

 自分の住む街の行政に目を向けないと、行政はやりたい放題で、街が衰退の一途である。無能政治の小川敏大垣市政のように。

 私はその啓蒙活動の一環として、このブログを書いている。

自燈明 

 此の世で、最優先でなさねばならないことは、自分の心を照らす燈明を持つことだ。それが師の言葉であり、背中で示す言葉である。現在がいくら暗くてもよい。己が一燈を掲げて、暗夜の国から光の国を目指して歩めばよい。明けない夜はない。自分の一燈を頼ればよいのだ。

Dsc004751s 馬場恵峰書

 

2020-01-22 久志能幾研究所通信 1458  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月19日 (日)

学法実践知己人生道

 生活知法者静温

 命不有物存親恩

 学行省己報恩情

 静黙治道念平穏

 

読み下し

 生かされて活きる法を知る者は、静穏なり。

 命は物に有らず。親の恩に存す。

 学び行い己を省みて温情に報ず。

 静黙し道を治め平穏を念ず。

  平成30年4月20日 馬場恵峰詩出

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 馬場恵峰書

 

 2019年12月12日に馬場恵峰先生宅を訪問したとき、教室内の埋もれた軸の山の中で、「学法実践知己人生道」という軸の箱が目に入った。箱から出してみると、上記の詩と軸が入っていた。馬場恵峰先生作詩の漢詩と軸である。漢詩を見て感じるところがあり、即、この軸を先生から譲ってもらった。

 

使命

 「生かされて活きる法を知る者」とは意味深長である。我々は生きているのではない。生かされているのだ。私は昨年、大病を経験して、なんとかその峠を乗り越えられることができたので、この言葉の重みを実感した。

 生かされている有限な時間内で、誹謗・批難や人の噂に明け暮れていては、人生の大事が達成できない。それを気にしては時間を無駄にする。誹謗・批難する者は、殺時者なのだ。

 

反使命行為

 「狂った食事」を貪り、「狂った生活」に浸ると、自分の「人生の大事」の実現を妨げる病気や時間浪費の地獄に堕ちてしまうのだ。それではこの世に何も残せず、「佛様のお裁き」で早死にしてしまう。

 将棋の故米長邦雄永世名人は、若いこと師匠の家に内弟子として弟子入りした時、いろいろと用事を言いつけられて将棋の勉強ができなかったという。それで考えて、学校から帰宅したら、真っ先に将棋盤に座って将棋の勉強をするようにしたら、雑用を言いつけられなくなったという。

 それと同じで、人生で無意味なことに精を出すから、佛様から、「お前は閑そうだから、こちらに来い」と早めに冥途に呼ばれてしまう。人は人生の大事をわきまえ、脇目も振らず人生の大事に没頭すべきなのだ。

 恵峰先生はわき目も振らず人生の大事に没頭していたので、仏様があの世に呼ぶのを躊躇してしまったようだ。だから93歳で現役である。仏様が力を貸してくれたのだ。

 

使命を知る

 己が何の為に生かされているかを、認識すべきなのだ。それが使命である。命を使って、何をこの世に残すのかである。それを思うと、おちおち死んでなんかいられない。病気になんかに負けられない、という気になる。私は自分の城である体を自分で守らねば、との危機意識をもって日々を送っている。

 

漢詩の作法

 漢詩の作詩ルールとして、1,2,4行目の最後の漢字に韻を踏む。この詩では「温、恩、穏」の3文字である。3行目の最後の漢字は韻を踏まない。

 各行の最初の2文字が主語で、真ん中が動詞、もしくはその行の形容句である。最後の2文字が目的語である。

 現在では北京大学を首席で卒業しても、漢詩を作成できる人はいないという。馬場恵峰先生は、浙江大学で客員教授として中国の学生相手に漢詩の作り方を教えてみえる。だから恵峰先生が中国に行かれると、一目置かれる。

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 馬場恵峰書

 

2020-01-19 久志能幾研究所通信 1455  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年1月18日 (土)

自惚れは持たねばならぬ。しかし自惚れてはならぬ。

 人間は自惚れがあるから生きていられる。自惚れが無くなれば死ぬ。「自分は馬場恵峰だ」との自惚れないと、先に進まない、生きていけない。だから、それに負けない仕事をせねばならない。そこに信用・信頼という財産ができる。

 自惚れは持たねばならない。自惚れは伸ばすべきだ。そうすれば、人から誹謗されても、それを感謝の気持ちに変えられる。

 

自己満足

 この世で自惚れを持たずに生きている人は、一人もいない。人は自分の自惚れを磨くために生まれて生きた。「あの人は自惚れている」と人を非難するのは、己が自惚れているからだ。それは何にもならない。

 自惚れられるのは、自分が努力をして技をみがき、世間がそれを認めるからだ。人間は自己満足して生きることが大切。その自己満足が自惚れである。

 不満足なら、満足するまで、思考して、努力を重ねることだ。学んで自惚れを磨くべきだ。思案だけでは、実にならない。自分の自惚れを育てるのは、自分である。自分が自惚れを勉強して、人からうらやましがられるような自惚れを育てることが大事である。しかしそれを自惚れてしまっては、もう成長はない。

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人からうらやましがられよ

 「書道を書くなら、人からうらやましがられるような字を書きなさい。自分の自惚れを大切に育てなさい。あなた方は、書道をすることで素晴らしい人生を歩んでいる。書道をしていない人に比べて、素晴らしい自惚れの道を歩んでいる。」と私(恵峰)はお弟子さんに伝えている。

 

人に学び、己に活かす。

それが自惚れの大切な道。我この道をおいて、我を活かす道無し。一事一心一念道。これが自惚れを活かす根本の方法である。日々精進して、自己満足を学んで、誇りを持て。自己満足は、人生最高の妙薬である。

 

佳気満高堂

 気を佳くして満足して己を高めていく。「高堂」とは自分の体のこと。

 

心足身常閑

 「心足」とは自己満足のこと。そうなれば、のどかである。人から何か言われたら、私が認められたと思えばよい。人から非難誹謗され、何か言われたら、感謝である。

 

 陰口が耳に入るようになったら、相当、自惚れている状態である。感謝せねばならぬ。人がそう認めてくれたのだから。そう思わないと、人の言葉で殺される。発想の転換が必用である。

 自分が出来ないから、非難誹謗する人が多い。それは逆に言うと羨ましがられている。だから人から羨ましがられるように、自分の自惚れを磨きなさい。そうなれば腹を立てないですむ。人からの「自惚れている」という誹謗に負けてはならない。

 

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佛の裁き

 努力もせず自分が自惚れていると、人が妬ましくなる。だから人を非難することに精力を使う。その鬱積した感情が、命を削る。

 人を誹謗する人間は、非難するだけで努力をしない。だから非難だけで時間を使い、世の中に何も残せない。だから私(馬場恵峰)を非難誹謗した人間は早く死んだ。自惚れを精進して努力する人を、仏様は助けてくれる。人を非難誹謗した人が墓穴を掘る。それを仏の裁きという。

 非難され誹謗された自分(恵峰)は、それをバネに黙って人の2倍も3倍も努力をして、見返し、実績を世に残した。だから長生きできた。人さまが誹謗してくれたので、その力で元気をもらった。人様のお陰である。

 自惚れを持つ人間は、努力をしている。その自惚れを常に磨いている。だから世に仕事を残す。

 

私(恵峰)の成長

 私(恵峰)は師からくさされ、叩かれ、罵られて「己の自惚れ」を鍛えられた。だから私は師よりも10年も長生きしている。それを天が味方したという。しかし自惚れてしまえば、おしまいだ。自惚れを磨く、それが人生を伸ばす道である。人から「うぬぼれている」と言われるくらいに上手になりなさい。それが天の言葉である。

覚えて書く

 手本を見ていくら書いても上手にならない。それは猿真似である。中国の自惚れた書家の作品を学んで、自分に繋げていきなさい。「学んで書く、覚えて書く」のと「真似して書く」のは違う。

 

本物の自惚れ

  それを書展に出すと恥ずかしいと出さないから、上手になれない。それこそが、本物の自惚れである。自分が恥をかきたくないのだ。

 安い半紙にだけ書いて、己の腕を世の問わず、書展に出さないから、何時までも上達しない。半紙の練習ではなく、高い紙で真剣に作品を作らないと成長しない。

 仕事でも多くの場数を踏み、失敗して恥をかくから能力が向上する。その職位が人を育てるのだ。私(小田)もやり過ぎて多くの失敗をした。非難もされた。それが私の肥やしとなった。

 過保護で育てられたエリ―ト経営者は、修羅場を経験していないので、経営を誤り、会社をつぶす。私(小田)の前職の会社も、エリート経営者が決断をせず、事なかれ主義で経営をしたから、消滅した。

 

書道での自惚れ

 書を書く場合でも、私(恵峰)は間違えるはずがないと「自惚れ」を持っているから、間違えずに書を書ける。皆さんは間違えるかもしれないと思って字を書くから、間違える。

 私(恵峰)は、表装された軸に直接書く。だから表装代が節約できて、安く皆さんに分けてあげられる。

 

元手がかかっている

 皆さんは安い半紙に書いているから、上達しない。私(惠峰)は高い軸や高級な紙を使うから、真剣に、頭を使って書く。紙にカネがかかっている。人様が作ったもので上手にしてもらっている。

 上手に書くのでなく、感性を養うために書を書く。作品に仕上げることを頭に置かないと成長しない。お弟子さんは、他流試合をせず、練習ばかりしているから成長しない。私は、高い紙に失敗は許されないと思って書く。だから上達する。

 

無駄の効用

 無駄をしないように、しないようにとするから成長できない。無駄なことに成長の肥やしがある。私(小田)も相当な無駄なことをした人生である。仕事でも写真も文書も芸術品の収集でも、である。人様よりも多くの失敗をした。だから成長した。まずやって見る、買ってみる、書いてみる。失敗と分かったら、止めればよい。間違った道と分かったら、引き返せばよい。間違った経験が智慧となった。痛い目を経験しないと智慧にならない。

 

真剣勝負

 木刀で練習するのと真剣で練習するのとは格段の差がある。江戸時代の地方の道場の名人と言われる人は、江戸の名人に一撃で倒される。それは、江戸の名人は、多くの人と他流試合をして鍛えているからである。

 それは書道でも同じで、真剣に多くの紙に書き、書展で世の批判を浴びないと上手くなれない。批判を浴びて恥をかくから上達する。仕事でも真剣勝負で渡り合わないから、成長しない。

 

 上記は、2020年1月9日の恵峰塾での講義内容を基に、自分の経験に照らし、加筆、編集して記載しました。

  

2020-01-18 久志能幾研究所通信 1454  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月17日 (金)

「法人にあらずんば人にあらず病」 悪縁ディーラからの遁走記(6)

初めての車

 40年前に初めて愛知トヨタ店でカリーナを買った。買った時、車を大事にしたかったので、営業マンに貸しガレージを探してくれるようにお願いした。その営業マンは「愛知トヨタは、ネットワークが広いので、必ず探してご連絡します」と約束をした。しかしその後の連絡は全くなかった。そのうち、その営業マンは転勤でいなくなってしまった。

 

クラウンの検討

 2018年、乗っている車が20年になり、クラウンへの買い替えを検討した。それでクラウンの購入のため、岐阜トヨタの担当営業マンとは5,6回も打ち合わせをしたが、デザイン的に前クラウンは、好きでなく買う決断が付かなかった。そうしている間に新クラウンの発表があった。その営業マンから「新クラウンが発表され、実際に新車が店頭に置かれたら連絡をします」の約束があった。しかし、その時期になってもその営業マンから連絡はなかった。

 そのうち私は新クラウンに興味が無くなり、その営業マンとは疎遠になった。でも一度、実際の新クラウンを見に行こうとそのお店に出かけた。その時、お店にその営業マンは不在で、別の営業マンが出てきて、対応された。その営業マンは、「私が来たことを担当営業に、伝えておきます」といった。しかしその担当営業マンから、ついぞ連絡はなかった。常識的には、お店に見込み客がわざわざ来店したなら、担当営業マンが電話ででもお礼の連絡なり事務連絡をするものだ。

 そのお店は、私が来店すると、私の車のナンバーが登録してあり、フロントが担当営業マンに私の名前が「通報」されるシステムになっていた。私が営業マンを呼ばなくても、担当営業マンが出てくるシステムになっていた。これはネッツトヨタ南国で運営されているサービスである。しかし、この岐阜トヨタ店では、形を作っても魂入れずのシステムになっていた。単なるネッツトヨタ南国の形式的な物まねシステムになっていたようだ。

 

諸悪の根源

 これはクラウンという商品を売ることで罹患した業病のようだと納得した。クラウンは買う80%が法人客であるようだ。個人でクラウンを買う客は少ない。法人は、定期的に車を買い替えてくれる。クラウンは黙っていても法人車として売れる車である。だから営業マンは法人の方を向いて、そのご機嫌伺をしていれば、営業マンの成績は維持される。個人の客は大事にしなくても商売が成り立つのだ。

 

40年前の対応

 だから40年前に私が愛知トヨタ店でカリーナを買っても、営業マンの対応が冷たかったのも納得できる。当時、若造の私を真面目に相手にしなかったのだと今になって納得した。

 

2018年、岐阜トヨタの対応

 私に対応した岐阜トヨタの営業マンは、若い主任クラスであった。現在の私みたいに酸いも甘いも経験している初老のユーザーの相手に、主任クラスの若造では、話が合わなくて困るのだ。

 以前のビスタ店、ネッツ店では、私の担当営業マンには店長クラスの人が対応した。それから見ても岐阜トヨタ店は、法人に目が向いていた。

 

京都トヨタの対応

 知人で私と同じ世代の人がクラウンを乗っているが、法人でなく個人であるので、その京都トヨタ店の対応が事務的だという。なおかつ、そのクラウンはその人が買ったのではないので、それの扱いが露骨のようだ。定期点検のダイレクトメールが来て、出向いても、その担当者が決まっていなくて毎年変わるという。

 その京都トヨタ店でも、個人客は大事にされていないようだ。多分、全国のトヨタ店でも同じような扱いだろう。それこそが、法人相手のクラウン商売という特性に起因するのだろう。

 

淘汰の時代

 そんな殿様商売では、全トヨタ店で全車種が買えるようになると、そんなお店は淘汰されるだろう。トヨタは、系列ディーラでの全店舗全車種扱いの開始を2020年5月に前倒しすることを発表した。

 お店で殿様商売の匂いを嗅いだら、さっさと遁走である。だから私はクラウンを買うのを止めた。現在の愛車を乗り続けることを決めた。自分の足として21年目の車歴である。

 

クラウンの裏話

 中小企業の社長はクラウンを買うのが夢である。クラウンに乗ると人生観が変わるという。周りが己を見る目が一変するという。要はステータスなのだ。なおかつ車の経費は、会社の経費で落とせる。儲かって税金で持っていかれるより、クラウンを買おうである。

 ところが三河の中小企業の社長たちは、儲かってもクラウンには乗らない。そんな車を乗っていると、親会社から「だいぶ儲かっているようだから」と仕事で値引きのネタにされてしまうからだ。それを避けるため、高級車には乗らないという。堅実なのだ。

 

クラウンの顔が嫌い

 私はクラウンのいかつい「顔」が嫌いである。それでも売れるから不思議と思っていたら、社用車として乗るなら、その顔で代表されるデザインは二の次なのだ。要は中小企業の社長は「クラウン」であればよいのだ。それで周りの人が評価してくれる。それが中小企業の社長の実態である。

 

業病

 クラウンは国内向けだけの特殊な車である。だからトヨタ店の営業が、苦労しなくても売れる車なので「安易な営業姿勢病。法人だけが客で症。法人にあらずんば客にあらず病」という業病にかかっている。傲慢な病人に近寄ると、己も病を得る。そんな病気は伝染するので、君子危うきに近寄らず、遁走に限る。

 それよりカローラ店、ネッツ店のほうが、一般客に気持ちよく対応してくれる。ネッツトヨタ南国の真摯な営業内容には学ぶ点が多いが、一般的にトヨタ店からは学ぶ点が少ないようだ。

 安易に売れる商品を持つことは、努力をすることを忘れさせる。未来の衰退があるだけだ。

 

誰にも負けない努力

 親から財産や才能を与えられることは、努力をすることを放棄させる。結果として、自分の将来の成長の障壁となる。自分に財産や才能がないことを喜ぼう。それが奮起のエネルギーとなり、人よりも2倍、3倍の努力をするモチベーションとなる。自分で獲得した能力は、誰にも負けない力を与えてくれる。

 稲盛和夫氏は「誰にも負けない努力」をして、有名大学出でもなく、世間の支援もなく、売れる商品もない状態から、京セラを世界の京セラに育てた。その根源は利他の心である。

 ディーラから買うのは、車ではない。営業マンを買っているのだ。彼の利他心とその営業行為に共鳴して、車を買うのだ。私はいろんな商品をその観点で購入している。安いから買うわけではない。自分の命を大事にするために、担当営業マンを「耳を洗い、目を拭い」その本性を見極めよう。

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 馬場恵峰書

 

2020-01-17 久志能幾研究所通信 1453  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年1月16日 (木)

悪縁ディーラからの遁走記(5)「売ってやる」営業

 1999年、先代のクレスタを10年間乗ったので、新車に更新しようと三河地方のトヨペット店に商談に行った。目当ては当時のベストセラー車マークⅡである。当時は月生産台数も3兄弟車で3万台を超えていたトヨタのドル箱商品であった。道を走ると右も左もマークⅡばかりという時代である。

 そのトヨペット店で見積もりを取ったら、その営業マンが超強気で「マークⅡは名車ですから。売れているのですよ」「売ってやる」のだという上から視線の口調が嫌になった。マークⅡが黙っても売れるので、営業は得意になって客を馬鹿にしていた。それで値引きもあまりない。そんな営業姿勢では、購入後のフォローも誠意が無かろうと早々に遁走した。

 

誰のお陰で売れた?

 マークⅡが売れている要因は、血の滲む開発をした開発陣とそれを支えた営業企画、生産体制のお陰である。その開発の陰では、徹夜もあっただろう。各部門の担当者が上司から叱られて泣いたこともあっただろう。試験がうまくいかず途方に暮れたこともあるだろう。親会社から無理なコストダウン要求で泣かされた協力会社もあるだろう。

 それをディーラの営業マンが売ったと威張るのは傲慢である。謙虚さがない。

 

人生の定年

 それで真摯に対応してくれたトヨタビスタ店で兄弟車を買うことにした。

 当時名車としてドル箱であったマークⅡも、マークχとして2019年で生産が終わった。一時は3万台を超えた生産も、最後は月700台程度に落ちていた。勝者必滅の掟である。どんなベストセラー車でも、定年あり、死がある。

 人生は好調の時にどう振舞うかで、その後の人生が変わる。人生にも商売にも謙虚さが必用だ。

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  馬場恵峰書

2020-01-16 久志能幾研究所通信 1452  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月15日 (水)

鬼の目、普賢菩薩の目  悪縁ディーラからの遁走記 4/6

某自動車整備会社の例

 定年後、故郷に帰郷して某経営研究会に入会した。そこで紹介された某自動車整備会社の社長のお店に、車検をお願いするご縁となった。

 そこで悪事が露見した。その整備会社に車検に出した車が、車検から帰ってきたら、車のガソリンタンクが、ほとんど空になっていた。おかしいと思い調べたら、その社長が車検の間、私の車を営業車代わりに乗り回していた。その履歴がドライブレコーダーに記録されていた。運転中に彼が営業の携帯電話をかけまくっていた状況も録音されていた。当時、まだドライブレコーダーはそんなにも普及していなかったので、その社長はドライブレコーダーの装備に気が付かなかったようだ。

 その社長との過去の付き合いでは、違和感を覚えることが度々あった。今回それで合点がいった。今回の不祥事を機に、その社長とは縁を切った。

 

経緯

 三好眼科(福山市)の三好輝行先生を訪問した2013年10月25日に、自車の車検を依頼した。納車日の翌日に車に乗って、ガソリンがほとんど無いことに気がついた。3割ほどはガソリンが残っているはずだが、その社長は何も言わない。記録から見ると納車までにかなり走行している。車検指定工場なら、陸運局まで行くまでもないはず。

 

1 携帯電話の無礼

 自宅での納車説明中にその社長の携帯に電話がかかってきて、彼は私に断りも無く話しを始めた。彼は、私の目の前で携帯電話をするのが今回で4回目である。以前にきつく注意をしたが、その悪癖が直らない。目の前の私よりも他の客が大事であるとのメッセージを、私に伝えている。侮辱であり、時間泥棒である。命(=時間)の泥棒である。時間を大事にする私には許せない行為である。

 

2 諦め

 本来なら、この無断乗り回しを詰問すべきだが、やめた。以前に、きつく叱ったこともあったが効果がなかった。自分も叱るのが空しく感じる。言っても仕方のない人には誰も注意をしない。それが、彼が今までの人生で積み上げてきたマイナスの積善である。佛の顔も三度まで。それを過ぎると佛が閻魔大王に変身する。

 

3 鬼の教え

 人を紹介するとは、自分の信用金庫のまた貸しの行為である。反面教師としての鬼の教えであった。私も彼の会社の車検の紹介活動を知人達にしており、赤面の至りである。

 それ以降、その確信犯の社長には何も言わず、縁を切った。確信犯にクレームを言っても無意味である。それでカーショップでの車検、別の正規ディーラでの車検と色々とお店を変えることで、お店を見る目が付いた。

 

鬼とは

 「魂」とは、心の「鬼」が「云う」と書く。この事件は、己の内に住む鬼に叱責されたと感じた。鬼は己の未熟さを見透かし「人を見る目をもっと養え」と言っていた。この事件の直前に、松本明慶先生の「魂(オニ)」が納佛されたばかりであった。

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 松本明慶先生作の「魂(オニ)」

 

エンスト事件

 この社長と知り合って、数年後、大垣市街地走行中に、自車が立て続けに2回もエンストする事件が起きた。エンストなど40年近く車に乗ってきて初めてのことである。これが高速道路上なら、大事故・死亡事故につながる恐れもあった。

 当時、その社長から勧められて、自車にバッテリーの簡易電源切断装置を装着した。長期に車に乗らないとき、バッテリー放電防止のため、バッテリーのプラグから配線を簡単に外すことができる装置である。

 早々にディーラに持ち込んで調べたら、エンストの原因は、その装置のバッテリー取り付けネジの緩みであった。バッテリーはエンジン関係の基幹部品である。そのネジの締め付けが不良であったようで、それを取り付けた整備マンの腕が疑われる。また信頼性の低い装置を勧めるのは、その会社の信用問題である。その時は、その社長とは縁を切っていたので、苦情を言う機会はなかった。

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 バッテリー部の緑のキャップが切替ノブ

 

悪事の露見

 どういうはずみか、その数年前、あるОB会の幹事役をその社長と一緒にする羽目になった。幹事会の打ち合わせがあり、そこで彼の車に同乗する羽目になった。その車はいつも乗ってくる外車でなく、軽自動車であった。その車こそ、顧客から預かっている車検中の車であった。彼は私の家に来る時、毎回、車が違うので不思議であった。彼は外車で来る時も多かった。これでワケが氷解した。彼はそうやって預かっている顧客の車を乗り回していたのだ。その時の彼の言いわけは「今日は、この車しかなくて」である。

 この時も、私を含めて3人も乗せているのに、この社長はかかってきた携帯電話に出て長電話をしながら運転をした。それも交差点を曲がりながら、携帯電話の応対である。私は呆れて注意もできなかった。早く目的地について欲しいと願うだけであった

 

ホテル宴会ドタキャンの不祥事

 私は彼と縁を切って正解であった。そのОB会の他の2人の幹事たちにも非常識さと腐敗の匂いを感じたので、そのОB会の幹事役も辞退することにした。ОB会の幹事会の後、その幹事たちは、勝手に計画を変更して、当初の超一流ホテルを別のホテルに変更した。

 しかし、最初のホテルをキャンセルすることを忘れるという失態を犯した。結果として先のホテルからは25名の団体のドタキャン扱いになった。その挙句、その幹事は、無責任にも「金がない」とホテルに泣きつき、その数十万円のキャンセル料を値切り倒して、1万円にしたというお粗末さを曝け出した。ホテルの担当者が泣いていた。

 私は、その件を聞いて、会の名誉のためにその尻ぬぐいで走り回った。その顛末を幹事に連絡しても、音沙汰なしである。それは経営者の恥晒しである。カネがないと言い訳をしたセレブ幹事は、ベンツを乗り回していた。幹事はみんな中小企業の社長たちである。

 

新興宗教の危険な匂い

 私はその某経営研究会も危険な匂いを嗅いだので、2年目で退会した。幹部連中が新興宗教に関係し、会員にその新興宗教を勧誘していた。元会長や幹部が新人を勧誘するので、新入会員が困惑していた。元会長や幹部から勧誘されれば、断りにくい。

 私もその経営研究会に入会後、元会長から入信を勧誘された。一時は、試しとして受諾したのだが、ネットでその怖しい実態を知り、慌てて入信を断った。

 その新興宗教に入ると、秘密の儀式を受けさせられて、搦手で何時しか数百万円を貢がされるようだ。その宗教法人は、数百億円の豪華な本殿を建設していた。その新興宗教団体から退会しようとすると、信者が自宅に大勢で押しかけてきて、「退会すると地獄に堕ちるぞ」と大声で喚き、脅迫するという。

 信者の葬儀の時は、葬式を信者達が取り仕切り、集まった香典は全てもっていってしまうという。

 この宗教法人は、『週刊新潮』でも怪しい事業で取り上げられていた。その宗教団体にはweb担当部隊がいて、都合の悪い情報は削除するという。Wikipediaでのその団体の情報も改竄してしまう。だから検索しても、悪い情報はあまり出てこない。

 だから私はこの某経営研究に危険な宗教の匂いを嗅いで、この経営研究会を退会した。

 

退会後の顛末

 驚いたことに、私の某経営研究会からの退会を、会の誰も引き留めなかった。会員入会の勧誘は熱心だが、退会には無関心であった。会社に例えれば、その会から1年目の新入社員が退社するのだ。その某経営研究会では、「経営で社員が大事、経営理念が大事」と広報しているが、実際の行動がお笑いである。

 その後の経過を見て、退会は正解であった。その後、関係者に聞くと、その某経営研究会は、会員の入れ替わりが激しいそうだ。

 

女々しく正道を歩む

 私が某自動車整備会社、某経営研究会、某経営塾ОB会幹事役から遁走したことは、正解であった。危機の匂いを感じれば、さっさと遁走する。それが危機管理である。危機管理の正道を歩むと「女々しく」なるのだ。誹謗されても、地獄に堕ちるよりましである。「女々しく」と誹謗した輩こそが地獄に堕ちる。人生は臆病さと大胆さが必要だ。それを智慧という。

 

第三の目は智慧の目

 人生道の正道の横は、ガードレールがない断崖絶壁の暗路である。右に踏み外せば、灼熱の炎地獄、左へ踏み外せば極寒地獄へ真っ逆さまである。眉間の第三の目を開いて、暗夜を見極め、人生道の正道を歩むべし。第三の目を開き、賢く歩むためには、精進して智慧を付けるしかない。人生、一生修行である。私はまだ修行中だが、今回は危険から仏様が守ってくれたようだ。

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 普賢菩薩座像 松本明慶先生作

 

2020-01-15 久志能幾研究所通信 1451  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。