「ながい坂」で出会う仏様
何ごとにも人に抜きん出ようとすることは良い。けれどもな阿部、人の一生はながいものだ。一足跳びに山の頂点に上がるより、一歩、一歩としっかり登ってゆくのも、結局はおなじことになるんだ。一足跳びにあがるより、一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉や、いろんな風物をみることができるし、それよりも一歩、一歩をたしかめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力になるものだ、わかるかな。
山本周五郎著『ながい坂』上巻 新潮社版 p21
2006年8月15日 カードに書き抜き
以上は、仕事で成果を上げようと焦っていた時、愛読書の『ながい坂』を読み返して、目に飛び込んできた一節である。会社の仕事で早く成果を上げようとするのは、愚かなことだ。自分に実力がないから、人よりも目立って、早く成果を上げたくなるのが人情である。そういう時に限って落とし穴にはまる。神仏がもっと落ち着けと啓示を示しているのだ。
人の幸せとは
現代のグローバル経済主義の会社では、成果主義で毎年の成果で責め立てられる。中間管理職は、自分を自分で責め立てられるように仕事を進めざるを得ない。山の頂点を目指して必死に登っていくと、人生の途中の風景を眺める余裕はない。必死に登っていると、何時しか一緒に上っていた仲間が24人も遭難して帰らぬ人となっていた。
前職では、人は幸せになるために仕事をしているはずなのに、深夜まで働かされ、家族の会話も無くなり、過労死や病気になり、己も家族も不幸にする人が多かった。中間管理職には組合の保護もない。部下は残業規制で早く帰宅させないといけない。そのしわ寄せは、中間管理職に来て、部下の仕事までもこなさねばならぬ。中間管理職は上と下からの突き上げで、ストレスも一杯である。休日は疲労困憊で寝ているだけ。家族を幸せにするために働いているのに、何か本末転倒の人生である。会社を離れた今から、10数年前の当時を振り返ると、なんと異常な世界であったことかと思う。
長い坂
長い人生の長い坂を、焦って上るから短い人生になってしまう。人生の終着駅は「死」である。焦っても焦らなくても、終着駅は同じである。ゆっくりと登れば長い坂の道中で、風景を楽しみながら登ることが出来る。現代の若者は、中間管理職の激務をみているので、出世したいという若者は激減した。日本人の働くモチベーションが下がってきたので、経済成長がアジア諸国に負けても当然である。日本の教育と仕組みが、何かおかしい。
人生道で焦れば、遭難する。ゆっくり登る道中で、世のため、後世の為に残る作品(遺産)を創ればよいのだ。人間は定年までの仕事が、社会への義務である。またそれは定年後のための充電期間でもある。定年後の人生が、個人として後世に作品を残すための実際の仕事期間である。
余命39年?
私も、最終目的地に到達するまでに、あと39年間(?)も期間があると、自己暗示をかけて、人に冗談で広言して、毎日仕事をしている。松下幸之助翁は、若い時に医師から「24歳までしか生きられまい」と言われた虚弱体質であった。しかし松下幸之助翁は、自分は運がいいと信じて、120歳まで生きるのだと公言して、仕事をした。結果は94歳まで生きた。自己暗示の力は素晴らしい。長生きも、芸の一つである。私も長生きの芸を磨きたいもの。
2020-02-07 久志能幾研究所通信 1474 小田泰仙
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