b-佛像彫刻・大佛師松本明慶 Feed

2020年7月19日 (日)

地蔵菩薩が持つ大きな器を目指して(改定)

地蔵菩薩のお役目

 お地蔵様は正式には「地蔵菩薩」という偉い方である。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となるため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救うお役目の仏とされる。現世ではお地蔵様として子供の守り神として祭られている。地獄に出張したときは、お役目として閻魔大王の役も務めるとされる。

 菩薩とは、仏教において成仏を求める(如来を目指す)修行者を指す。菩薩は修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くことで、庶民の信仰の対象にもなっている。

 

裁判官 兼 弁護人

 六道(天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)で、地獄に堕ちるのは生前中に善を積まなかった不心得者である。多くの積善を心がけた方は、閤魔大王に呼び出され閤魔帳を覗いて判決を受けることもなく浄土に赴かれる。

 地獄に堕ちてしまえば救いようがない。地獄の向かう亡者を裟婆と地獄の境界で、「地獄の十王」が亡者の生存中の業の履歴が記された閤魔帳により、どの地獄に送るかを評定して判決する。その裁判で被告の弁護をするのが地蔵菩薩である。現代の裁判員裁判制度に比べればはるかに人間的で救いがある。

 最近の裁判員裁判制度での死刑判決の多さが何か異常であるし、その死刑判決のお役目を一般市民に押し付ける制度はいかがなものか。この地獄論を調べて疑問を感じた。

 十王の中の裁判長が「闇魔大王」であり、闇魔大王は地蔵菩薩の化身であると言われる所以である。それ故、判決を下す裁判長と被告の弁護人が同一人物となるので無罪が期待され、もう一度裟婆に戻れる可能性があることから地蔵菩薩信仰が生まれたと思われる。この信仰は民衆の地獄に対する恐怖観念が貴賎を問わずあったことも一因とされる。

 

仏教の組織図

 こういう仏の組織体系を創造する先人の智慧には驚嘆する。今の新興宗教の教祖は足元にも及ばない。会社組織の概念の創作と同じである。日本の地獄絵は、8世紀ごろに東大寺の線刻画に登場している。地獄は全て人間が作り出したものだが、その恐怖心をうまく活用して道徳心を子供に植えつけたのは智慧者である。私も幼いころ、祖母から地獄絵をお寺で見せられて恐怖心を味わった思い出がある。

 1300年も経って、今の新興宗教界で「脱会すると無間地獄に堕ちるぞ」と脅す教団があるのが、お笑いである。地獄に堕ちるには、それ相応の罪を犯さないとその資格が無い。まして無間地獄に堕ちるには、親殺しをせねばならぬ。原始宗教では、それが詳細に決まっている。それを新興宗教へお布施の大金だけで罪消しになるわけがない。

 

エピローグ

 2011年頃、私は某経営研究会に入会した。その年度の総会後、コートの取り違えのご縁で、その経営研究会の元会長と親しくなり、彼より某新興宗教を勧められた。相手が経営研究会の元会長だから信用して、試しに入会してダメならすぐ退会すればよいと安易な気持ちで入会を承諾した。

 ところがその教団をネットで調べたら、トンデモない教団であることが判明した。入会金は38万円だが、後日、なんだかんだで1千万円ほどせびられることが、年間行事や教団総本山の建設費から逆算された。入会儀式も秘密の儀式で怪しいのだ。

 また退会しようとしたら、信者が大挙して自宅に押し掛けてきて、「退団すると無間地獄に堕ちるぞ」と自宅まわりで大騒ぎをするという。押しかけてくる信者も、そうしないと信仰の真剣さを疑われるので、必死である。相互監視が厳しい掟がある。

 また会員の葬儀があると、教団が葬式を全て取り仕切って、香典は全てもって帰ってしまうという。

 後日、その経営研究会のメンバーに聞いたら、役員の多くがその教団に入会していて、役員からメンバーに勧誘するので、断りづらいとの声が多くあった。手口が巧妙である。

 入会寸前で、仏様の啓示(自宅内で小指の骨折)があり、それからいろいろと調べて、結論としてオウム真理教のような教団だと断定した。入会を断わり、事なきを得た。

 

清濁併せ吞む

 正しいことが総てではない。正義だけを追及すると、人は阿修羅にならざるを得ない。終生戦わねばなるまい。人は、殺生を止めれば、生物として生きていけない。採食主義者でも、穀物の命を奪わねばならぬ。植物にも命がある。人は、他の命を奪って生きていかねばならぬ。戦争になれば、敵を殺さねば、銃後の妻子が殺される。

 お釈迦様は、他部族が攻めてきたとき、素手で立向かわれたが、お釈迦様の部族は目の前で殺された。その無力感から、お釈迦様は王子の座を捨てて、出家されたという。

 人間界で生きていくためには、清濁併せ吞まねば、生きていけない。その姿の象徴が、地蔵菩薩である。地蔵菩薩は全てを受け入れて頂ける。

 その地蔵菩薩でも、その衆生の全てを助けられるわけではない。その衆生と縁がなければ助けるに助けられない。その縁とは、地蔵菩薩に手を合わせたかどうかだけである。地蔵菩薩に手を合わる人とは、自分を無にして来世・現世を考えられる人間のことだ。ご先祖、親の恩を考えられる人間である。強欲に目が眩んで、回りが見えなくなった衆生を地蔵菩薩は救うわけにはいかない。

 

祈る対象を具現化

 仏像は祈りの小さな器である。拝むにしろお願いするにしろ、空気の前では手を合わせづらいもの。その祈る対象を具現化したのがお地蔵さんの姿である。祈るとは、自分を無にすることだ。冷静に自分と対峙することだ。日に一度は、手を合わせて自分に向き合うと良い。

 

子供の守り佛

 私は毎朝の散歩道の途中にある地蔵菩薩像の前で「子供たちを守っていただきありがとうございます。守っていただいた子供たちを私もお守りします」と手を合わせている。それもあり、子供たちの未来を奪う輩と喧嘩も辞さない。子供たちが日本の未来を背負ってくれる。私の年金を支えてくれる(?)。子供たち教育予算をつまみ食いする輩(小川敏を筆頭とした大垣行政)を摘発するのが年長者の義務である。

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 松本明慶先生作 童地蔵菩薩像 楠  高さ13センチ

 

 この子は、東京の展示会(大佛師松本明慶佛像彫刻展)にお友達の200人と一緒に上京した。私はその中からお見合いをして、この子に決めて大垣の自宅に来てもらった。200体のお地蔵さんは、同じように見えても微妙に一人ひとり違い、この子と決めるのに苦労をした。(2013年10月)

 松本華明さんのお話しでは、年々この童地蔵菩薩像の出来栄えに対して、明慶さんの要求レベルが上っていて、なかなか検査が通らないとか。松本工房の童地蔵菩薩像は日々レベル向上だそうです。

 

2020-07-19 久志能幾研究所通信 1671 小田泰仙

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2020年6月27日 (土)

名古屋ボストン美術館は、怨念と祟りで潰れた(2/2)

 1999年に開館した名古屋ボストン美術館は、日本人の拝金主義に侵された情けなさを嘆かれた仏様が、明治維新150年後の年忌2018年に潰した、と私は考えている。アメリカに不当に拉致された仏像などの悲しみからの怨念が名古屋ボストン美術館には満ちていた。

 日本社会は今、金儲けに目が眩んで、精神が病み、社会全体が狂ってしまった。それに覚ませ、と仏様が罰を与えたのが、名古屋ボストン美術館の「取り潰し」ではないか。

 

150年後の不平等条約締結

 1991年11月、名古屋商工会議所が「名古屋ボストン美術館設立準備委員会」(委員長:加藤隆一名古屋商工会議所会頭)設置を決めた。1995年8月、美術館を運営する名古屋国際芸術文化交流財団の設立発起人会が開催された。それを受けて、名古屋ボストン美術館は建設され、1999年から2018年まで開館した。名古屋ボストン美術館がアメリカに20年間で5千万ドル(約500億円)を寄付する条件で、ボストン美術館と20年間の契約がされた。要は、年間25億円の金を20年間に亘りアメリカに貢がされる不平等契約であった。

 

凶相の家相

 私は名古屋ボストン美術館の建屋を見て、直ぐ日本長期信用銀行の本社ビルを思い出した。この長期信用銀行は、バブル崩壊後の不況で1998年10月に経営破綻した。山一證券や北海道拓殖銀行と並んで平成不況を象徴する大型倒産である。経営破綻後は一時国有化を経て、新生銀行に改称した。

 この長期信用銀行の本社ビルの正面の形が凶相の顔を持ったビルであった。その形態は、上の階の部分が前に張り出し、下がない形態である。それが1999年に開館した名古屋ボストン美術館の正面と同じであったのだ。そのため私は、当初から不吉な印象を私は持っていた。名古屋ボストン美術館は、最初から呪われていたとしか思えない。

 私は人相に興味があり、人の顔を観察している。同じようにビルの顔も、その会社の運命を左右すると考えている。

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旧・日本長期信用銀行本店 Wikipeidaより 

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  旧・名古屋ボストン美術館   2020年6月24日、著者撮影

 

潰れるべくして潰れた運営形態

 名古屋ボストン美術館は、企画展だけで美術品の所蔵をもたない不自然な形の美術館として出発した。名古屋ボストン美術館では、展示も他の美術館の作品を並列して展示はできないという不自由な制限も課せられた。

 そのため名古屋ボストン美術館は慢性的な赤字が続き、その結果、開館10年にして中部財界が拠出した設立・運営資金75億円は底を尽き、アメリカ側へ後半10年間で支払う寄付金37億円が残った。そのため2002年には研究部門の学芸部を廃止せざるをえなかった。美術館が学芸部を廃止するとは、企業で企画部、研究開発部を廃止すると同じである。それは単なる場所貸しだけの施設に没落したのだ。結局、設立資金が底をつき、2018年に閉館となった。

 

潰れた真因

 名古屋ボストン美術館が、結んだ契約は、江戸末期、日本が外国から不平等条約を結ばされたと同じ状況である。それは当時の日本に政治力、軍事力、経済力、文化力がなかったのだ。やり方が、今の名古屋の文化の不毛さを象徴している。中部財界は、金儲けだけは上手いが、芸術家、芸術を理解しているわけではないようだ。

 1999年当時の日本は、1991年にバルブが弾けて、日本の各界の力が凋落していった時期である。同時期の作られたトヨタ博物館は、トヨタ自動車創立50周年記念事業の一環として、1989年(平成元年)4月に開館した。会社が文化を作るために美術館、博物館を建てるなら、本業とは違う形で、文化を担う美術館、博物館を作るのが本筋である。それを自動車会社が、自動車サマサマの自動車博物館を建てるのは、餓鬼のレベルの考えである。世間では、下品なやり方と陰で笑われた博物館であった。そんな精神レベルの中部財界が肝いりで作った名古屋ボストン美術館が上手くいくわけがなかった。

 

魂の怨念

 美術品には作者の魂が籠っている。国宝相当の一つの美術品には、相応の命が籠っている。それも仏像には特別の魂が宿っている。その仏像が明治初期、粗末に扱われて海外に売り飛ばされた。

 それから150年が経ち、日本にボストン美術館の姉妹美術館ができるというので、仏像を筆頭に美術品たちの霊魂は、里帰りができると喜んだはずだ。ところが、ボストン美術館と締結された契約は、酷い差別契約で、日本に安心して帰国永住できるわけではなかった。美術品が日本に帰国しても、企画展で金を稼ぐためにこき使われて、企画展が終われば元のボストンに連れ戻された。その美術品の霊魂の悲しみと怒りはどれほどか。

 

仏師の入魂

 仏像には仏師の魂が籠っている。それの本音を松本明慶大仏師は、松本明慶先生は、(技のレベルを上げるため、ミケランジェロが第二の師匠になるかもしれないが「それを学べるなら命に代えてもいい。絶対に無駄にはしません」とまで言いきる(NHKBSプレミアム 松本明慶ミケランジェロの街で仏を刻む『旅のチカラ』2013年)。

 大佛の寿命は千年、人の寿命はせいぜい百年である。それゆえ千年の間、人の評価に耐える大佛を作るために、佛師は命をかけて刀を入れる。人生の中で、一番多くの時間を費やすのが仕事である。人生において、仏師は仏像彫りに命を賭ける。仕事は生活の糧を得る手段だけではない。「佛像とは何か」を50年間余考えながら彫り続け、千年後まで残る作品を手がけている松本明慶先生の言葉には重みと凄みがある。

 下記はNHKハイビジョン「仏心大器」での松本明慶先生の言葉

「佛像は人の喜怒哀楽の心を受け止めてくれる器である。大仏は人の心を受け止めてくれる大きな器である」

「佛師は美しい佛像を作る責務がある」

「人の寿命は80年、佛像(大佛)の寿命は1000年」

 

祟り

 そういう仏師の魂が込められた仏像たちの怨念と祟りのせいで、ボストン美術館との契約期間の20年間、最初の年以外は、美術館経営は赤字であった。だから名古屋ボストン美術館は佛様から、「日本人ヨ、目を覚ませ」との啓示で、潰されたのだと思う。

 

やるべき仕事

 単なるアメリカから美術品を借りるだけの美術館を企画するのは経済大国として愚策である。一点でも金を出して買い戻す取り組みをなぜしないのか。美術館として蔵品が一つの無い美術館なんて、また学芸部がない美術館など、聞いたことがない。だから名古屋は芸術の不毛地帯と言われるのだ。

 

美術館経営の覚悟

 美術館経営として単独で採算を取るには、よほど有名でないと無理のようだ。名古屋ボストン美術館の運営でそれが明らかになった。日本自体が裕福でなくなり、観客もそんなには入場料を出してまで、来ないようだ。文化芸術活動には、税金を投入して、文化を維持するしかないようだ。美術館経営がうまく行くかどうかは、その国の裕福さの証明である。その点で、日本経済は落第である。文化に金を出すという伝統がない。そのため日本経済の立て直しが必用だ。

 美術館を建てるとは、文化の柱を建てることだ。金がかかって当然である。それだけの覚悟がない貧乏都市では、やってはいけないのだ。金があっても心が貧乏では、貧乏都市である。美術館運営で赤字でもそれを受け入れて、社会奉仕、文化の下済みとしてやっていく覚悟がないと、続かない。日本では、政治家も、それでは票にならなないので、力を入れない。それが今の日本の惨状だ。

 

2020-06-27 久志能幾研究所通信 1646 小田泰仙

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2020年6月23日 (火)

持永天の教え 「右大回り、左小回り」

 日本の道路の交差点で曲がる時は「右大回り、左小回り」を徹底する。それが安全運転の鉄則である。

 これは自動車会社の試験車運転訓練(テストドライバー訓練)で指導される事項である。また乗客の安全が第一のタクシーの運転手の訓練でも、この指導がされる。しかし普通のドライバーはこの件で、無頓着である。

 

右大回りの理由

 交差点の右回りで大回りをすれば、もし信号無視の車が右から車が突っ込んできても、少しでも衝突までの時間を稼げるからである。その場合、左側よりも無防備な運転席側に相手は突っ込んでくる。だから身を守るために「右大回り」である。

 左回りで大回りをすると、対向車線には入ってしまい危険である。だから左小回りである。

 

私の運転

 私が買い物等で市内を走る場合、左回りで所用を済ませるようにルートを選ぶ。また近道ではなく、なるべく曲がる回数の少ない道を選ぶ。曲がるとか、止まるとか、事態が変わった時、事故が起きやすい。それを避けるために、できるだけ曲がらずに真っすぐに走る。

 市内走行なら、燃費など無視である。それより安全第一である。私の車の燃費は一ℓ当たり5kmである。エンジンが温まるまでに、その日の所用が終わってしまうから。

 

人生道の方向転換

 人生の岐路に差しかかり、右に回る(手間のかかる方向転換)場合、準備周到にして、曲がることが危機管理である。例えば転職、事業転換、人事異動等でトラブルが予想されることは、それが回避させる手段を周到に講じてから、方向転換をするべきだ。止ると思っていた相手が暴走してきたら、右小回りでは衝突である。

 最も良い方法は、できる限り曲がらない人生道を走ること。曲がれば、摩擦が生じてロスが生まれる。

 

四天王、持永天

 仏の世界でも魔物からご本尊を守るため、中門に四天王が四方向に立ち、本堂を守っている。邪悪な輩が跋扈する人間界なら、自分の命を永らえるため、自分自身が「持永天」として、広い目を持ち、知識という武器を持ち、法を日に何度も聞き、高い視野で世間を観なければ、自分の城は守れない

 「自分の城は自分で守れ」トヨタ生産方式を作った大野耐一の言葉)。

 己は自分を守って持永天になり切って、自分を守れ。行動せよ。此の世で一番大事なのは、己の体である。自分を大事にするから、他人様も大事にできる。テロリストは、自分を大事にしないから、自爆テロで、他人を巻き込んで自殺する。

 なお、持永天とは、私が四天王を総合した力を持つ天として創作した仏様である。命を永らえさせ、それを維持する天の佛様である。自衛隊を意識して、持永天とした。

039a0677s  松本明慶大仏師作 広目天 高野山中門   _2015年04月25日撮影

039a0680s  松本明慶大仏師作 持国天 高野山中門 2015年04月25日撮影

P10203471s  松本明慶大仏師作 多聞天 三好輝行先生蔵

2020-06-23 久志能幾研究所通信 1642 小田泰仙

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2020年6月20日 (土)

心の成長は10段階。菩薩を目指す

心の波長

 人間の運命は心が生み出す。良いことを思えば、良いことが起こり、悪く考えれば、悪くなる。

 「怖れるな。怖れることは怖れることを引き寄せる」とキリストは言った。人間の心はその波長に合ったものを引き寄せる。それはラジオ放送局の発信波長が、遠くのラジオのアンテナで受けられ、その電波と共振して音として再生できると同じ原理である。

 

心のアンテナ

 利権を求める電波を発して旅すれば、利権の亡者に出会う。佛を求めて旅すれば、佛にご縁のある人に出会う。常に心が善であれば善を引き寄せ、感謝には感謝が返ってくる。「求めよ、されば与えられん」と東西の神仏は同じことを言っている。夢を求めて人生を旅すれば、夢を叶えるご縁に出会う。求めなければ、決して実現しない。全て己の心が求めたものである。

 心には力がある。その心の叫びが言霊である。その力はプラスにもマイナスにも働く。悪運でもその心の叫びが勝てば、運命を変えられる。その叫びを一番多く、一番大きな音で聴くのは己である。人生は一番多く接した声に影響される。それ故、古の聖賢は心を鍛え、調えることの必要を説いた。

 

仏教は人間の心の状態を10段階に分ける。

 地獄(幸福を感ずることのできない世界)

 餓鬼(欲望の世界)

 畜生(倫理のない世界)

 修羅(闘争を好む弱肉強食の世界)

 人間(精神的なものを求めるが、まだ物欲の強い世界)

 天上(人間以上に精神的なものを求めるが、油断すると地獄に落ちる世界)

 声聞(いい人の教えを聞いて近づこうとする世界)

 縁覚(何かの機縁で自分から悟る世界)

 菩薩(自分が悟り、人を良くしていこうとする世界)

 そして仏の10段階である。

 

心の変化

 この10の世界は別々にあるのではない。一人の人間の中には、時代により、己の成長により、回りの環境変化により、時間経過により、いろいろな心の動きがある。人は常に一つの界にいるわけではない。ある時は修羅界をさ迷い、天上界にも身を置くことがある。ある時は地獄界をさ迷い、罪の意識に目覚めて天上界に目覚めることもある。未熟な心は常に地獄から天井界までをジェットコースターのように疾走している。それが人間である。それが生きている証である。

 

佛を目指して

 菩薩になれと言うわけではない。生きるためには、畜生にならねばならぬ時もある。戦争になれば、餓鬼、畜生にならねば、銃後の妻子供が守れない。しかし平和になれば、せめて修羅界、人間界で過ごさねば、人間として生まれた甲斐がない。

 欲望がなくなれば菩薩であるが、それでは人間として死んだ状態である。生きている限り、さ迷えばよいのだ。未熟な私はいつも迷っている。人間として生きている限り、迷いつつも、菩薩、佛という北極星を目指して精進すればよいのだ。目指す場所さえ明確なら、何時かは目的地に到達する。

 

私の人物観察

 私は上記の10の段階評価で、人を観察している。その前に、自分がどの段階にいるかを、いつも自省している。菩薩界は無理としても、せめて天上界をめざしたいもの。

 大垣市長の小川敏は、過去の行動を観察すると、餓鬼、畜生の世界をさ迷っているようだ。そんなレベルの人を大垣市長として頂くと、大垣市民は不幸である。だから大垣市は没落した。

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 飛天 岩田明彩絵仏師 

 

2020-06-20 久志能幾研究所通信 1639 小田泰仙

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2020年6月16日 (火)

汚川を流れる長大高多の狂気が、大垣衰退の原因

長期無為無策政権、大きすぎで高額な市庁舎、高額で多すぎる100周年忌念行事、高額な役人給与、多数に拘る同窓会

 際限なく「長」や「大」、「高」、「多」を求めたものは、大抵「病」や「狂」に入っていく。そして「病」や「狂」のある所には、必ず堕落や犯罪が生まれる。「大」や「長」、「高」、「多」を極めると人間の手に余る状態に陥る。

 

長期の害

 いまだかって、長期独裁政権で腐敗のしなかった例はない。いくら制御しようとしても、そのものは内部暴走を始める。取り巻きや、利権を得ようとする輩が暴走して制御不能にさせてしまう。中国共産党100年間、北朝鮮50年間、小川敏の大垣市政19年間を見れば、それが納得できる。小川敏の市長選6選への執着は狂気に見える。

 長期政権は、独占的な利権を招く。どんな生物でも組織でも、成長には多様性や他の血が必用である。それが長期政権では否定される。だから成長できず、没落する。新しい血が入らず、同族だけの婚姻が続くと異常児や虚弱児が多く生まれるのは、自然の理である。長期独裁政権では新しい血は拒否される。アメリカには多様性があり成長がある。大垣市政には多様性はなく、没落である。

 

大の弊害

 南方で生育するラワン木は、成長が早く、すぐ大きくなる。しかし、速く大きくなりすぎて、組織が強くならず、自身の重みに耐えかねて、ラワン木は倒れてしまう。

 人類はより高いバベルの塔を目指して、より高い塔を作ってきた。それが神仏の怒りをかい。失意のうちに崩壊している。

 

高額の弊害

 大垣市制100周年記念行事で、小川敏の執念で100個の行事を無理やり作り出せば、費用がべらぼうに跳ね上がる。3億5千万円もの無駄遣いである。その費用は90周記念行事の3倍となった。今回の大垣市のコロナ対策費がわずか2億円余で、岐阜県下一の低額さである。それと比較すれば、その異常さが浮かび上がる。

 それで大垣市の活性化になればまだしも、それが全くなかった。翌年の公示地価が例年どおりに下落である。それも小川敏が市長になって19年間、公示地価が下がり続けている。公示地価は市長の通信簿である。市場の評価は神の如くの評価である。小川敏は市長として無能との神の評価である。

 その無理な取り組みをすれば、どこかでその弊害がでる。その陰で利権も汚職も発生するだろう。巷ではその噂が絶えない。大垣市制100周年記念行事の際中、大垣の夜の店では、大垣市関係者の数が異常に増えたとの声であった。

 

多数を目指して暴走

 小川敏は、2019年、高校同窓会の会長になったので、「今度の同窓会の出席者を市制100周年記念として、100名以上集めろと狂気の執念で幹事に檄をとばした。それはガキの発想である。いつもの同窓会の参加者は、80名ほどだが、今回は120名ほどになったという。余計なことをするから、その同窓会費用が実質高くなった。完全なる小川敏の狂気の暴走である。

 

生と死

 人は寝て1畳、立って半畳、食べて一合、飲んで一升である。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。何もあの世に持って行けない。

 人は死という期限を意識しないから、人生をさ迷う。職位の任期とは、その職務の死である。定年とは死である。人の生とは、死が前提である。プロジェクトとは、必ず終り(死)のある仕事である。それを考えず、小川敏が市長の座にしがみ付くから、大垣市の存続に問題が起きた。だから大垣市は没落した。人生は、一つの座にしがみ付いているほど、与えられた時間は多くないのだ。それを分からない輩を愚か者という。

 

智と賢

 知識はあっても、智慧のない輩を愚者という。悪知恵を使うのは仏様への裏切りである。仏様は悪事恵を出すために、才能を授けたわけではないのだ。往々に知識だけある輩が悪知恵を出す。それは、賢いとは言えない。

 智慧を持つのが智者、それを状況に合わせて上手に活用するのを賢者という。智慧だけではダメなのだ。智慧があり賢くなければ、成仏できない。成仏とは、何事かを成し遂げること。あるべき姿に成就することを言う。それがプロジェクトの死である。美しい死を迎えるため、最大の努力をしたい。

 小川敏が市長になって、大垣市が没落した。大垣市は、成仏ではなく、地獄に堕ちたのだ。

 

智と賢の象徴

 だからそれを象徴して、寺院では釈迦如来の両脇を守る脇侍の菩薩として、右に文殊菩薩、左に普賢菩薩が祀られる。自宅では、私の守り仏の虚空蔵菩薩の両脇に、文殊菩薩、普賢菩薩を祀っている。私が三佛に手を合わせると、三佛の目が人生の色の意味を示唆してくれる。小川敏のように愚かに生きなくてよかったと思う。小川敏は人生の反面教師として最高の愚かさである。

 

2020-06-16 久志能幾研究所通信 1634 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年6月 2日 (火)

大垣市仮想肖像画美術館 vs 如来の御尊顔

 大垣市に将来、肖像画美術館ができたら、市長であった小川敏の肖像画や似顔絵が展示されるだろう。現在でも、動態美術館として、新聞や元気ハツラツ市、各種の行事で小川敏の「動態」肖像画を鑑賞できる。人間観察として、人間学と心理学の勉強になる。

 肖像画に描かれる顔だけが、人格表現の手段ではない。全身の動作・表情の全てが人格表現の手段である。

 人間以外の動物は、全て言葉以外の非言語コミュケーションで済ませている。文書では、たった7%の比率の言葉だけで伝わる。それ故、言葉の一つ一つが敏感に他人に影響する(文のトーン)。それ以外は、声の質や顔の表情が、その人の人格や性格を示している。

 

人が他人から受け取る情報の比率

 話す言葉の内容             7%

 声の質(高低)、大きさ、テンポ    38%

 顔の表情               55%

     アメリカの心理学者  アルバード・マレービアン博士

 

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氷山の一角

 日頃の言動や顔に出る一瞬の表情は、その人の人格の氷山の一角である。水面下の潜在意識がその人物の行動を支配している。潜在意識は、人生観、仕事観、人間観から構成されている。小川敏の言動や顔を見ると、人生観、仕事観、人間観が未完成で、決して上等のレベルではない。指導者として不適の人格である。

 Photo_3   日ごろの言動は洗剤意識の氷山の一角

 

小川敏のキャラクター図

 この頻繁に登場するキャラクター図はヒトラーを連想させる。ニコリともせず「ハイル ヒトラー」と叫ぶ姿を連想させるキャラクターに、私は不快感を覚える。いかにも俺が一番偉いのだとのポーズで、ニコリともせず、唯我独尊の姿である。大垣市民として、こんな図を見ると恥ずかしい。

 

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『Wao! Club 2020年6月』より

 人口16万人の大垣市が2億2480万円のコロナ対策費で自慢している。それに対して人口3.4万人の海津市が5億円のコロナ対策費を出している。それなのに、恥ずかしくもなく針小棒大で自慢するのが、小川敏である。

 

しかめっ面

 小川敏は、いつもしかめっ面で威厳を保つ。市民から寄付を受け取るときでも、ニコリともしない。まるで玄関にドクロをぶら下げているようだ。

 「顔色や容貌を、いきいきと明るく見せることは、人間としての基本的なモラルである。なぜなら人の顔色は、 家の門口のようなものだからである。広く人と交際して、自由に付き合うには、 門をひらき入口を清潔にし、客が入りやすくすることが大事である。

 ところが、本心は人と交際を深めたいのに、顔色に意を用いず、孔子の格言を信じて、ことさら渋い顔つきを示すのは、入口にガイコツをぶら下げ、門前に棺桶を置いているようなものである。これでは誰も近づかなくなる。」(福沢諭吉)

  Img_3134sjpg   2011年1月9日 出初式で、ブラスバンドの演技を観閲する。

  この面前で、子供たちが休日に出初式に駆り出されて、ブラスバンドの演技をしている。小川敏は冷血漢の輩のような眼で、眺めているだけである。子供の前でもニコリともしない。

 この顔で19年間も君臨すれば、大垣が没落して当然。

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2011年1月9日 出初式で、ブラスバンドの演技を観閲する。

Img_3120s   2011年1月9日 出初式で。

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  寄付を受け取る小川敏。  岐阜新聞 2020年3月12日

  寄付を下々から受け取ってやるのだ、という尊大な顔である。下々に寄付をさせても、ニコリともしない。

 

下品な笑み

 小川敏が笑う顔を見せたのは、ギネスの金儲け商売に騙されて水饅頭共食いの記録の認証を受けた時に思わず出た下品な笑みだけである。

 

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 市政100周年記念行事「水饅頭の共食い記録達成」で

 

 米大統領リンカーンの言葉「男は40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」

 以上を考察すると、小川敏の顔はリンカーンからは失格の烙印を押されるだろう。

 It is said that Abraham Lincoln, when he was President of the U.S., was advised to include a certain man in his cabinet. When he refused he was asked why he would not accept him. "I don't like his face," the President replied. "But the poor man isn't responsible for his face," responded his advocate. "Every man over forty is responsible for his face" countered Lincoln.

http://www.sermonillustrations.com/a-z/l/lincoln.htm

  

仏像のお顔

 人としてあるべき指導者の理想の顔は阿弥陀如来、釈尊如来、大日如来の顔ではないか。仏師はそれを意識して仏の顔を彫る。観音菩薩像や普賢菩薩像、千手菩薩像のお顔では、組織の長として優しすぎるお顔である。普賢菩薩像のお顔は、知的財産事業部の担当役員のお顔である。それは慈悲の眼差しを持ったお顔である。不動明王の表情では怖すぎる。それは佛大国防衛庁の長官のお顔である。

 やはり如来様のような威厳あるお顔が理想の指導者のお顔であろう。「如来」とは、「かくの如く来たれし者」という意味で、あるべき理想の姿を言う。そういうお顔は人格からの発露である。そういう観点で、仏像の顔を鑑賞すると、それを創りだした仏師の意図と願いの心が見える。仏師はそのお顔の彫りに命をかける。

 

1  松本明慶大仏師作 阿弥陀如来(部分) 慈照寺

 『大仏師 松本明慶作品集』(小学館)より

(松本明慶美術館より掲載許可を得ています)

P10409361s   松本明慶大仏師作 不動明王像

  怒りの表情だが、目は慈愛に満ちている

Dsc01363s 松本明慶大仏師作 千手観音菩薩像(福山市 三好眼科蔵)

Dsc06566   松本明慶大仏師作 普賢菩薩像

 

2020-06-02 久志能幾研究所通信 1616  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年5月27日 (水)

運の悪いヤツとは付き合うな

 かのナポレオンは、運の悪いヤツを部下にすることを徹底して避けた。運の悪い部下を持つと、自分の運が悪くなるという哲学であった。時にはジプシー女にも占わせたり、自分でカード占いをしたという。

 運の悪いヤツは、運が悪くなる生活リズムで生きている。運の悪いヤツは顔が陰気である。話すことが陰気である。その行動が後ろ向きである。運の悪いヤツと付き合って、その波動を受けると、自分まで運が悪くなる。だから運の悪いヤツはとは付き合ってはダメなのだ。

 

冥資

 サラリーマン生活での中間管理職は、部下をそう自由に選ぶことはできない。同様に上司を選ぶこともできない。それをできないと考えると、益々運が悪くなる。誰に聞いても、その対策案で納得できるものはなかった。

 強いて言うと「冥資」を受けられる徳や運を身に付けるしかあるまい。「冥資」とは知らない間に受ける佛の加護である。

 

要領

 「冥資」を受けるには要領をよくすること。要領とは物事の勘所であり、物事をうまく処理する手段である。地獄のシベリア抑留から生還された丸順の今川順夫最高顧問(当時)は、「生きて帰れたのは、(良い意味で)要領がよかったから」と言っておられる。

 同じく地獄のアウシュビッツ強制収容所から生還したヴィクトル・E・フランクルは、その著書『夜と霧』の中で言う。地獄の強制収容所で生き延びた者は、生きる目的を持っていた。生きる目的を達成する為には、要領よくせねばならぬ。頭でっかちの利口では駄目だ。賢くなければ、運が良くならないし、生きていけない。

 

耐える時

 サラリーマンとして悪運の強い上司の下に異動となったら、我慢するか反抗するかの選択が問われる。大企業では往々に有名大学出のエリートが上司になっている。だから、それに逆らと大変だ。私は、宮仕えとはそういうものと覚悟(達観)していたので、心の中では舌を出していたが、表面的には、じっと耐えてサラリーマン時代を過ごした。悪運という嵐が頭の上に来ているなら、じっと耐えて身を低くするしかない。悪運の風をまともに受けては倒れてしまう。柳のように受け流せばよい。それが宇宙根源の理である。物理学の応用である。

 その私が、その上司のもとから、別の部署に異動した。その時、上司が変わるとこうも環境が変わるものかと驚いた。サラリーマン生活は上司次第である。

 

反抗して死を選ぶ

 一年下の同僚のD君は、頭が切れたが、いつもその上司に立てついたため、海外に飛ばされた。上司は彼が性格的に営業は不向きと知りながら海外の営業職に飛ばした。それが原因で、彼は帰国後、心労がたたり54歳の若さで病死した。私はその上司の推定殺人だとおもう。

 サラリーマンが嫌なら独立することだ。それができないなら、嫌われないように保身するのがサラリーマンの智慧である。それが賢者である。運はよくならないが、最悪は避けられる。私の両親は、上司への盆暮の心づけを欠かさなかったので、その危機を避けられた。今にして思うのは、これは危機管理上の保険であった。親のご恩に改めて感謝している。

 前職はそれがまかり通るブラック企業であった。D君は頭が良かったが、世間を渡る如才が足りなかった。つまり要領と賢さが足りなかった。メンタル面でもタフでないと宮仕えは勤まらない。

 市長にも悪運の強いヤツがいる。それが市民生活に影響するので、たちが悪い。本人は幸せだが、市民が不幸である。会社で悪い上司の下に異動させられたと同じである。どうすればよいか、永遠の課題である。

 

運の悪いヤツは、

 時間にルーズである。

 健康に気を付けない。

 約束を守らない。

 ウソを言う。

 酒癖がわるい。

 (体に悪いと知っていて)煙草を吸う。

 笑顔がない。

 ご縁を大事にしない。

 出会いを自分から求めない。

 チャンスを大事にしない。

 愚直なことを大事にしない。

 陰徳をおこなわない。

 神仏を信じない。

自分が運の悪くなる言動や考えをしていないか、自省したい。

Dsc065671s  松本明慶大仏師作 普賢菩薩、 書は馬場恵峰書

 普賢菩薩とは、梵名でサマンタバドラといい、「普く賢い者」の意味であり、彼の世界にあまねく現れ仏の慈悲と理智を顕して人々を救う賢者であることを意味する。また、女人成仏を説く法華経に登場するので、特に女性の信仰を集めた。密教では菩提心(真理を究めて悟りを求めようという心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。そのため普賢菩薩はしばしば金剛薩埵の別名でもある金剛手菩薩とも呼ばれる。「遍吉」という異名があり、滅罪の利益がある。この項、wikipediaより)

2020-05-27 久志能幾研究所通信 1608  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年5月 5日 (火)

写ッシー君は魂(オニ)を睨む

芸術とは

 音楽とは音を素材に使った心(魂)の会話なのだ。芸術とは心の表現とそれに接せる人との会話である。絵画、彫刻、写真等は、全てその会話の媒介物(仏)でしかない。介在仏の芸術作品には魂が籠っている。私はそれにこだわって美術作品、芸術作品に接している。私の撮る写真には魂を込めている。だから名画と呼ばれる作品は、人の命と同じ価値がある。

 「魂(オニ)」とは己のうちにある「鬼」が「云う」と書いて魂である。

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 松本明慶大仏師作 「魂(オニ)」、背景は馬場恵峰書

 

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裏切り行為

 私はこの5年間、多くの演奏中の写真を撮ってきた。しかし、その写真を撮ってプリントやCDを進呈しても、相手は当然と思い、感謝の言葉を言ってくれる人など皆無に近かった。カメラマンとは黒子の存在で、人扱いをされていないようだ。

 河村先生からはその都度、お礼が来ているので、気にならなかったが、それ以外の人は、礼状もお礼の言葉さえ全くない。たまに忘れたころに年賀状が届き、ついでのようにお礼が書いてある。お礼を期待して写真を撮っているのではないので、今まで気にも留めなかった。しかし河村先生が亡くなられて、その問題点に疑問を感じるようになった。

 

 

人間性の問題

 ある音楽関係者は、写真を送っても礼一つ言わず、その写真の出来映えに文句さえいう有様である。私に写真を撮ることを要求して、撮らせて当然と思っているようだ。私もカメラマンのプロとしてプライドがある。

 ある人は先生の名声を利用して事前の演奏会宣伝で売名行為に走っている。それに地方紙が悪乗りして記事を掲載しても、肝心の本番の演奏会の記事は掲載がない。売名行為が明白である。その人からも、以前にある演奏会の写真送付の依頼があり、その写真を送っても、礼の言葉の一つさえない。

 地方紙に私の撮影した写真が著作権違反で引用されたこともあった。それも勝手にトリミングされての掲載であった。私が魂を込めた作品を踏んづけたのだ。

 それに対照的なのが馬場恵峰先生の書友達である。写真を送ると書友の方だと、必ず手紙、それも毛筆かペンでも直筆の礼状が来る。その差は顕著である。

 

芸術家とは

 芸術家は、自分の才能に惚れて、往々に我儘な性格になるようだ。小さい頃からちやほやされ、プレゼントされても当然の世界に浸るのかもしれない。芸術家は華やかな世界だが、離婚者も多い。自分の稀有な才能に自惚れて、我慢が出来ない性格になるのかも知れない。

 芸術家である前に、一人の人間としてありたい。河村義子先生はピアニストである前に、人間味のある主婦であり、母であり、教育者であった。しかし、そこまで弟子達を指導できなかった先生が不憫である。河村先生に群がった人の中には、そうでない人が多くいたようだ。

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 チェリストTIMMとの共演 音楽堂 2017年9月29日 

 

2020-05-05   久志能幾研究所通信 1569 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年4月27日 (月)

狂気の禍を防ぐ佛様 ~ 新型コロナウイルスを考える

 際限なく「大」、「長」、「高」、「過」、「繁」を求めると、「病」や「狂」の世界に入っていく。そして「病」や「狂」がある所には、必ず堕落や不正が発生する。

 

歴史の世界

 歴史上で、長期政権で、腐敗のしなかった例はない。

 大きすぎて、更に成長しつづけた生物、帝国はない。

 癌は無限に「長く」細胞分裂を繰り返して、人の命を奪う。

 高い地位、高い理想を求め続けると、いつしか人は無能の領域に入っていく。

 ナチス帝国主義は際限なく隣国を侵略し続けて滅んだ。

 過剰な民族優秀主義が、ドイツ帝国を滅亡に導いた。

 共産主義は、特定の人に権力が集中し過ぎて、全体の組織がおかしくなった。共産主義は今までに1億人の人民を虐殺した。

 

 大垣の汚川は長く強すぎる権限で水害を流して、組織を腐敗させた。

 それで大垣は衰退した。

 

過・禍を防ぐ門番

 自分の考えを明確にし、他の邪悪な思想に取り付かれないように門番の役目をするのが四天王の役目である。広目天は、目を見開き、高い視点で物を見よと教えている。目や舌や鼻が、食物の危険から身を守るために四天王の役目を果たす。同じように、心に入ってくる思想の正悪を四天王として判断する力を付けねば生きていけない。それが出来ず、滅んだ民族は数知れず。歴史を学ばない民族は滅ぶ。

 自分達とは思想の違う民族が、世界には跋扈している。その歴史事実を認識しないと、無防備に正道を歩くだけでは鬼に食い殺される。自宅でも寝るときは鍵をかけて戸締りして寝るではないか。非武装中立とは戯言である。きちんと戸締りをするから泥棒が入ってこない。プロレスラーに喧嘩を売るヤクザはいない。必要最低限の自衛戦力は必要である。

 トヨタの中興の祖 石田退三氏曰く「自分の城は自分で守れ」。

 

過剰な優秀意識の禍

 アーリア人は「俺たちが一番優秀な民族だ」、「人のものはオレのもの」、「俺の考えが正しいと思うのは正しい」、「だから他の民俗は我々に従うのが当然」との考えで歴史を邁進してきた。力による征服で、従わなければ虐殺、よくて土地の強奪、奴隷として搾取である。原住民との言葉は、「未開の」とのユニアンスがあり、優秀な民族と自負するアーリア人は、罪の意識もなく、やりたい放題で原住民の皆殺しの戦術で世界を席巻していった。そして現在の西洋社会が構築された。中華思想も同じ傾向である。中華思想も自分達が一番偉いとの考えが根底にある。紀元前2000年から続くこの人種の思想はDNAとして今も払拭されず今も鬼畜のように生き延びている。今の中東の紛争は、植民地政策による後遺症であり、アーリア人同士の内輪揉めである。和を重んじる民族には理解不能である。

 

 小川敏は、東大出という意識で、「俺だけが正しい。頭の悪く能力の劣る大垣市民は、俺のやることを黙って見ていろ」で政治を行ったようだ。自分が一番偉いのだとの過剰意識の表れである。それが19年間の政治に見え隠れする。それを小川敏に接した人は全員がそのことを言っている。それこそが大垣を没落させた原因である。

 

アーリア人による民族皆殺しの歴史 

(中国人はアーリア人と同じ思想を持つ)

 イギリスがアテスカ帝国を皆殺し、滅亡

 スペインによるインカ帝国を皆殺し、滅亡

 英国人(現米国人)のアメリカ原住民のインディアン600万人の殺害

  英国が侵略しオーストラリア原住民を皆殺し、植民地として統治

  英国は中国人にアヘンを売りつけ、因縁をつけてアヘン戦争を起した

 列強諸国によるインド、アジア、アフリカの植民地化

 米軍は東京大空襲での民間人10万人焼殺、原爆で20万人虐殺

   山の手周囲を焼夷弾で炎に包み逃げ道を閉ざし爆弾を投下

   広島、長崎原爆は、米軍歴史資料では爆発実験の項に分類されている。

  米軍の日本本土無差別爆撃で、非戦闘員の死傷者100万人

 ヒトラーはユダヤ人を1700万人虐殺 

 スターリンは自国民を2300万人虐殺

 中国共産党は4000~6000万人の自国民、他国民の虐殺

 中国共産党によるチベット民族皆殺し作戦進行中。120万人の虐殺

 中国共産党による仏教寺院の破壊活動(仏教の平和主義は共産党に不都合)

 

過激な思想

 思想に犯されて誤った道の進んだ優秀な若い人たちが、つい最近の日本にも存在した。誤った思想に洗脳されて、赤軍派リンチ事件、地下鉄サリン事件を起こした。普通の人よりも頭の良い高学歴の子達が、である。学校もまともに出ていない狂祖に取り付かれると、正悪の判断もできない地獄の餓鬼道に堕ちる。

 

拝金主義の狂気

 現在は拝金主義という鬼に取り付かれた人が氾濫している。拝金主義に犯されると、貧富の差が拡大した格差社会が出来る。そうなると社会不安が増大し暴動が発生し、最終的には社会が崩壊する。拝金主義者は己の立っている社会が崩壊すれば、己も生きていけないことが分からない人たちである。拝金主義とは、金勘定だけがよくできる餓鬼どもが罹る病気である。

 体に悪いことを知りながら、金儲けのために添加物まみれの食品を売るメーカは死餓鬼ではないのか。

 金や権力、強欲の本能に目が眩むと、どれだけ非道の鬼になれるか、歴史が教えてくれる。その歴史を学校では教えてくれない。学校で習う歴史は、あくまで西洋の視点で、勝者の立場で見た歴史観である。洗脳教科書である。「もっと目を見開いて物事を観よ」と広目天は言う。在れども、その気になって、持てる知識を総動員して視点を変えてみないから、真実が見えない。西洋史観に騙されてはならない。自分を守るのは自分である。自分の城は自分で守らないと家族が殺され国が滅ぶ。

 

自家の戦争被害

 先の大戦で、父の5人兄弟のうち、2名が戦死している。父も戦後2年間のシベリア抑留を強いられた。シベリア抑留では一説に10万人の邦人が極寒の地に散った。ロシアの鬼畜の火事場泥棒による戦争犯罪である。戦争は身近にある。

 

反省の時期

 今までグローバル経済主義が、もてはやされてきたが、それが原因で貧富の差が急激に拡大した。1%の富者が全体の99%の富を独占し、99%の人が貧乏になった。そのため総合的では、人類は不幸になった。新型コロナウイルスの蔓延は、行き過ぎた人の移動の禍の反省を強いている。この疫病は、神が人間の行き過ぎた欲望を戒めるために起こした罰ではないのかと思う。今のように人がホイホイと世界中を走り回るのは、自然界の法則から見て、異常である。人の行動範囲の拡大により、直面した脅威が、人の持つ免疫力の限界を超えたのだ。

 

己の体の狂気

 体に「しすぎる」と、病気になる。ほどほどが良い。食べ過ぎ、夜更かしし過ぎ、仕事やり過ぎ、特定の食品の食べ過ぎは毒である。美味しいものには毒がある。

 人は忙しすぎると、鬱になる。樹木、植物で葉が茂り過ぎた状態である。「忙」とは忙し過ぎて、心を亡くした状態である。

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  広目天 大仏師松本明慶先生作  高野山中門 2015年10月8日撮影

  広目天は「もっと目を見開いて物事を観よ」と言っている。

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  馬場恵峰書 2012年

  天は苦言を聞けという。それはご先祖様の声。

 

2020-04-27 久志能幾研究所通信 1551 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年4月26日 (日)

祈りで運命を変え、差取りを得る

どんなことでも文句を言わない。試練として全て受け入れる。

なにごとも行動を伴うお祈りをしないと成就しない。

祈ると同時に、それにふさわしい行動を取ること。

自分が変わらないと周りも変わらない。

自分が変わろうとしない限り、何も変わらない。

    馬場恵峰師  明徳塾にて 2006年5月28日

 

 祈りとは、自分に冷静に対峙すること。祈りとは、神仏の前で、謙虚に自分を見直すことである。

 批判してくれる人は神さまだ。愛の反対は憎悪でなく、無視である。己を憎悪している人は、黙って己が転ぶのを見ている。批判は自分のどこが悪かったかを教えてくれる。自分には前しか目が付いていない。批判者は、己の後ろを観察している。

 精進して、眉間の第三の目を開かせよう。菩薩とは、佛になる(悟りを開く)ために修行をしている行者である。人間界の己は、せめてこの世で、少しでも悟りの境地に近づいて、来世に行きたいものだ。「悟り」とは「差を取る」である。強欲な衆生と差をつけるのだ。

 ご先祖様は、己の未来を見据えて、病気や不幸を授けてくれる。ご先祖は物理的に何もできないので、己を病気や不幸にさせて、過ちに気が付いて欲しいと願う。ご先祖は今の道が間違っていることを、病気を通して教えてくれる。私も癌になって、狂った生活、狂った食事を送っていたことに気が付いた。

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 松本明慶大仏師作 聖観音菩薩像

 

Img_5682s    馬場恵峰書、東山魁夷「道」

2020-04-26 久志能幾研究所通信 1550 小田泰仙

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