o-大垣まつり Feed

2018年5月14日 (月)

恵比須軕の歴史と伝説(1/4)

 大垣まつりは、1648年(正保5年)、ウィーン公使であった戸田共氏伯爵のご先祖にあたる初代の大垣藩主戸田氏鉄が城下の八幡神社を再建した折、城下十八郷が神輿三社を寄進して喜びを表し、大垣十ヶ町(本町、中町、新町、魚屋町、竹島町、俵町、船町、伝馬町、岐阜町、宮町)が10両の軕(山車)を造って曳き出してその喜びを体現したことが起源という。

 1679年(延宝7年)、第四代の大垣藩主戸田氏西が、神楽軕、大黒軕、恵比須軕の三輌を下賜。この3輌を「三輌軕」とよぶ。

 2018年5月12日8時45分から、大垣まつり「試楽」が開催された。大垣まつりは、370年の伝統ある祭りである。5月12日は快晴に恵まれ、「大垣祭の軕行事」として2016年12月にユネスコ無形文化遺産に登録されたこともあり、今までにない人出であった。早朝の試楽はまだ人出が少なかったが、夜宮はいまだかってない混雑で、写真撮影の場所取りも撮影も困難を極めた。私は撮影中に群衆に押されて、2回も望遠レンズフードを落としてしまった。暗闇で足元のフードを探すのに大変だった。

 残念なことに5月13日の本楽は、雨で中止になったが、雨の中を、恵比寿軕を含む3軕はビニールの覆いを被って市内を練り歩いた。雨のため、各軕の収納倉庫では、奉納芸の披露もあった。奥の細道むすびの地記念館では、玉ノ井軕の女の子達の日本舞踊の披露があったようだ。

 

恵比寿軕の歴史

 1679年(延宝7年)、第4代藩主戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたり、先代の出身地である摂津の広田神社に祀られている西宮の恵比須神に、人を派遣し祈願したといわれる。現存の恵比須大神の人形は左甚五郎の作と伝えられる。

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左甚五郎は江戸時代初期に活躍した伝説的な彫刻職人である。16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。それでは甚五郎は左である。左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったといわれている。

 日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。その製作年間は安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にも及び、出身地も様々なので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。(この項、wikipediaより)

 伝説によると、恵比須大神の人形の顔面の塗料が剥げていたので、塗り師が塗り変えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれる。

 また祭礼の日に雨が降ると、恵比寿様が鼻を垂らすという伝説も残っている。

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174k8a0126_5 この日の晴れ舞台の為に伝馬町の子供達も猛練習。PTAも全面支援。良き教育の場である。2018512日試楽にて

2018-05-14     久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年5月10日 (木)

大垣まつり 準備中

 今日201851016時頃、郵便局にピアニスト玉田裕人さん宛ての封書を出しに行ったら、その道の途中でお囃子が聞こえてきた。大垣市内にお囃子が聞こえると、それはお祭り当日の山車練り歩きの練習を告げる「大垣の春の風物詩」の奏である。それ行け、とその方向に歩いたが、何時しかお囃子の音は消えて、大垣八幡神宮の前に来てしまった。八幡神宮の鳥居の前にのぼりが立ち、神前には新しいしめ縄も張られ、512日、13日の大垣まつり案内看板がかかっていた。神社境内では恒例のお化け屋敷の設営が真っ盛りであった。八幡様も大垣まつりの準備中である。

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恵比寿さん山車と大黒さん山車

 八幡様への参拝の後で、水門側沿いに大黒さんの山車を見つけて、その後に続いて街の中心部まで追いかけをして写真撮影した。行きつけのお店に人に聞くと、店前に大黒さんの山車、恵比寿さんの山車がやって来ると、ご祝儀を出すのだそうだ。若い衆が休日を返上して山車を引いている。そのお礼でもある。山車がやって来もしないお店では、どうしようもなかろう。大黒さんと恵比寿さんの山車は福の神である。

 今日は、大垣市内の大通りで大黒さんと恵比寿さんの山車を拝顔できて、私も目出度い気分である。聞けば、明日11日の午後から、大垣八幡神宮周辺が通行規制されるので、ガソリンスタンドもお休みにするという。慌てて自車にガソリンを入れた。

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2018-05-10

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2018年5月 4日 (金)

「猩々軕」の予行練習に出会う

 春の大垣の街並みに流れるお囃子は、大垣まつりが近いことを知らせてくれる。2018年5月3日、憲法記念日の大垣市駅前通りの観光客の状況を調査に行った帰り道、宮町でお囃子が聞こえ、その先を見たら「猩々軕」が練り歩いていた。5月12、13日の大垣まつり出演のための練習だという。近くの蛭子神社で、舞の奉納をしてきた帰りで、若い衆がひと休みをしているところである。5月7,8,9日には、夜の練習があるという。街の若い衆が大垣の伝統を守っている。感謝。

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 大垣市宮町で 2018年5月3日14:20

 

「猩々軕」とは

 この軕は謡曲「猩々」を主題にした「能からくり軕」である。大垣まつりに出演する13輌ある軕の一つである。謡曲「猩々」は五番目物で、能の演目では最後の出し物である。「猩々」は想像上の動物で、オラウータンに似て赤い髪は長く垂れ、顔と足は人に似ていて大酒を飲むと言われる。

 この軕は昭和20年7月29日の大垣空襲で焼失したが、平成13年に56年ぶりに再建され、平成22年に漆、金具、彫刻などを施して完全に復元された。

 

「猩々軕」の掛芸

 この軕の芸目では、軽快な「酒を飲む猩々」の曲が始まると、猩々は舞いながら壺に近づき、汲めども尽きない酒樽に顔を突っ込んで鯨飲する。猩々が壺から顔を上げると、猩々は酒に酔っぱらった赤面となっている。曲が「獅子頭を付けた猩々」に変わると、酔った猩々は興の赴くままに舞い、屋形に入り、出てきた時は獅子に変身している。この時、壺が4つに割れ、中から牡丹の株が浮び上がる。獅子はその牡丹に戯れ、興にまかせて狂ったように舞う。この時、若い衆たちが軕をこの舞に合わせて激しく回転させて、八幡様の門前から走り去る。芝居の幕引きのようなエンディングである。

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059l4a8632  赤い顔になった猩々

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 牡丹の前で獅子に変身

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 若い衆たちが軕を舞に合わせて激しく回転させる。大垣まつりで 2015‎年‎5‎月‎9‎日‏‎9:43

見送り

 見送りには、日展画家和田能玉氏が描いた「白沢怪」と揖斐川町の書家窪田華堂氏の筆になる賛が、豪華に手刺繍で縫い上げられている。賛の漢詩は、白沢怪が中国古代の聖君黄帝に語った言葉である。白沢怪とは、古代インド波羅奈国の剛勇の王である。この言葉は意味深長である。組織の興亡は全て組織のリーダーにかかっている。それは今も昔も変わらない。今の大垣市長に聞かせたい。

 

 黄帝東巡国  黄帝が東国を巡行した

 白澤克玄論  白沢怪は意味深い言葉を述べた

 賢君明俊徳  帝が賢く徳のある政治を行えば

 天祥降子孫  子々孫々に至るまで目出度く栄える

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千匹猿

 上勾欄の下に千匹猿の彫刻があり、全て異なる猿として彫られている。

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11p1060310  収納の建屋

「お頭」保管

 大垣まつりのエンディング「恵比須軕のお頭渡しの儀」の「お頭」保管は、船町、伝馬町、岐阜町、宮町の4町内が一年交代で担当している。宮町の役員の方から、今年は、宮町が「お頭」保管の担当であるという話を聞いた。 

12p1010353_2  「恵比須軕のお頭渡しの儀」大垣八幡神社にて 2017年5月14日21:20

「猩々軕」の詳細は浅野準一郎著『大垣まつり』風媒社(2013年)を参考にしました。

2018-05-04

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2017年10月27日 (金)

大垣十万石まつり 神事と市長の不敬

 2017年10月8日10時より、大垣十万石まつりに先立って、常盤神社にて神事が執り行われた。最初に常盤神社に祀られている戸田公の廟例に祝詞が上げられた。続いて神楽の舞が奉納された。その後、戸田家の現在の当主を筆頭に、市の関係者、常盤神社保存会の幹部の方が、拝礼して榊を神前に奉納した。その後、神社本殿前で、関係者の記念撮影が行われた。

 神事における神楽の舞は、私も初めて見る舞であった。以前に伊勢神宮の神楽殿で、還暦を無事迎えられたお礼として奉納したおり、神楽殿で神楽の舞を拝見した時以来である。大変厳かで、清々しい気持ちになった。

 この神事を撮影して、偶然に写真に写った大垣市長の居眠りをしているような姿に、常盤神社の神様からの啓示を受けた。この小川大垣市長には、大垣市は任せられない、である。

 

図1 神事

図2 雅楽奉納

図3 舞楽の奉納

図4 戸田家当主の拝礼

図5 神事が終わり神主退席

図6 神事の後の記念撮影

   多くの素人カメラマンが高級カメラを構えて撮影していた。

 

常盤神社の歴史

 この神社は、嘉永5年(1852)5月、大垣藩の藩祖戸田一西公250年忌に当たり第九代藩主師正公が、追悼の意を表すために祀廟を大垣城内に創建して、この神霊を祀廟に奉祀して、伊勢神宮より常盤明神の神号を受けた。明治維新の廃藩置県の後、明治6年、八幡神社の境内に遷座再営された。明治24年の濃尾大震災で本殿が倒壊したが、明治35年、藩祖一西公300年忌を記し、社殿を現在置に新築した。大正5年に初代藩主氏鉄公の神霊を合肥して、社格も県社となったが、昭和20年7月29日の米軍B29による大垣空襲で、大垣城と共に焼失した。戦後の昭和25年、復興の気盛り上がり、社殿の再興となった。昭和41年、藩主二代目氏信命から11代氏共まで十柱を合祀することになった。これは大垣市の発展の基は、270年に渉る、戸田家歴代藩主の恩恵によるところが大きいという氏子の要望に基づいている。

 今回の歴史調査で、常盤神社の建立年が、私の生まれ年と同じと知って、大変厳かな気分になった。

 

歴史を語る狛犬

 常盤神社本殿前で、社殿を守っている狛犬の体は、昭和20年7月29日の米軍B29による大垣空襲で、ナパーム弾を浴びて石の色が変色している。この狛犬は、大垣の歴史を語る証人でもある。大垣室村町四丁目地蔵尊が、2015年に「引退」をされたので、大垣市寺内町大悲禅院の谷汲観音菩薩像とこの大正5年生まれの狛犬だけが、大垣空襲を語る数少ない証人になっている。

 

図7 常盤神社

図8、9 狛犬

 

大垣市長の不敬

 この神聖な神事の間、小川大垣市長は居眠りをしているような姿を曝していた。姿勢が不敬である。神事の最中、小川大垣市長が偶然写りこんだ写真53枚中で、2,3枚を除き、後は全て目を閉じて居眠りしているらしき姿である。当方が意図せず、神事の記録写真を撮るためカメラを向けたら、市長の居眠りらしき姿が写り込んでしまった。神意が授けた醜態写真である。この事実は、大垣藩の発展に心魂全霊を捧げ、大垣を深く憂う戸田公の霊の神意であると思う。午後の疲れた時ならともかく、朝10時の十万石まつり最初の神事である。その神事は、戸田公への大垣発展の報恩として執り行われる神事である。大垣市長の体力の限界なのか、神事など関心がないのかは不明であるが、事実として、神様の前で、公衆の面前での居眠りまがいの姿である。多くの市外から来た観光の素人カメラマンも、高価な一眼レフカメラで珍しい神事の様子を熱心に写真に撮っていた。それにも写っているはずだ。大垣の恥さらしである。

 そんな人をトップに頂くのは大垣市の不幸である。舞楽でも、神様に扮した舞人が「コラ、大垣市長、目を覚ませ」と怒っている様な舞であった。市長が目を覚まさないと、大垣市の行政は迷走を深め、衰退の一途である。

 

大垣市の惨状

 この5年間で、大垣市全産業の就業者数は1%減、事業所数は5%減である。大垣駅前商店街は寂れ(61%壊滅状態)、商業都市として大垣の就業人口の7割を占める第三次産業の卸売業、小売業の就業者人口は、この5年間で減る一方である(4%減)。この5年間で負の産業である医療・介護業者の就業人口だけは40%増である。その分、市民の税金の負担が増えている。製造工業の第二次産業の人口は、6%減である。商店街を殺す元気ハツラツ市に、経営の基礎も知らない大垣行政はPDCAを回すこともなく、愚劣TV番組もどき元気ハツラツ市の痴呆的出し物に踊り狂う。元気ハツラツ市の1億2千600万円の会計報告も不明。

 道路行政は職務怠慢、治水工事も62年間も無責任に放置で、大雨になると基幹道路が頻繁に水没して、大垣経済の血道が大渋滞である。それなのに、大垣市長は何も手を打たない。個人の生活の姿勢が、顕著に現れるのがトイレの清掃状態である。大垣市内のトイレの汚さは著名都市の中では天下一である。そこに行政の質の劣化が見える。その昔、「教育の大垣」「博士の大垣」と言われた街に、子供窃盗団が横行している。市内の書店がその被害で赤字に陥っている。子供は悪いことをしたとの自覚が薄く、むしろ自慢さえしている。学校の先生は警察に、窃盗を働いた子供の貰い下げに奔走している。その親は知らんふりである。

 一方で、大垣新市庁舎だけが立派になるようだ。大企業でも、本社ビルが立派になると、衰退の危機があるというジンクスがある。この状態に大垣の守護神の戸田公の神霊様も心配をしておられる。大垣市民が、この非常事態に気が付いていないのが問題である。今回の事象が神様からの啓示である。

 

図10 大垣市長の居眠りらしき姿

   頭上の戸田公が騎馬姿でお怒りである。

図11 市長の居眠りらしき姿に怒る神様の代理舞人

   「市長、目を覚ませ!」

図12 大垣市長の居眠りらしき姿

   神様「もう知らん、勝手に寝てろ」

図13 大垣市長の居眠りらしき姿

図14 大垣市長の居眠りらしき姿

図15 拝礼の順番待ちの間にも堂々の居眠りみたいな姿

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2017-10-27

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2017年10月 9日 (月)

大垣・十万石まつり 総括

 2017年10月8日、大垣の三大まつり(大垣まつり、十万石まつり、水都まつり)の一つである十万石まつりが、大垣駅前通りで開催され、12万人の人出で賑わった。まつりは10時から、大垣藩主の戸田公を祭った常盤神社で、神事が行われた。11時から駅前通りで、大垣の各団体、学校の鼓笛隊のパレードが盛大に行われた。多くの観客や縁者が見守った。12時から昔の大垣鉄砲隊の演武が空砲であるが実演された。13時から、子供みこし、青年団体、学校関係の企業みこしを含む40基のみこしが大通りを数回にわたり練り歩いた。多くの観客がカメラ、ビデオを向けて楽しんでいた。日頃の閑散とした商店街とはうって変わった盛況な風景であった。街の活性化の行事として、伝統あるよき行事である。十万石まつりは多くの市民が参加するお祭りで、元気ハツラツ市のように変な芸能プロダクションや利権がからまないので、大垣市民の多くが健全に楽しめることを再確認した。

 この十万石まつりの報告ブログでは、神事、パレード、鉄砲隊演武、御神輿に分けて順次報告する。今回は総括として、写真の一部を紹介する。当日は1,300枚弱の写真を撮った。その後、名古屋市八事に移動して、チェリストのティムコンサートとその打ち上げ会に出て、帰宅は午前様の0時30分になってしまった。ティムコンサートでも300枚余の撮影をして、当日は計1600枚程の撮影となった。

 

図1~3 常盤神社での神事

図4~8 パレード

図9~10 鉄砲隊演武

図11~16 みこしの練り歩き

図17 人出の状況

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2017-10-09

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2017年7月14日 (金)

正しく狂って酔狂道を共に歩く

 10年ほど前から東山魁夷画伯の描いた「道」の現地を見たいと思っており、本書『詞天王が詠う老計・死計』の執筆の過程で、現場写真を載せることを思い付き、現地に飛ぶ決断をした。青森の新戸部八州男さんのお言葉に甘えて現地に案内して頂いた。

 新戸部さんが現地の仲間に聞いても「道」の場所を知っている経営者は皆無であった。新戸部さんも58年も弘前っ子として「道」の存在は知っていたが、行ったこともないという。今回、現地を見たいという酔狂な男に初めて出会ったという。仲間の中には「ヒガシヤマカイイとは何ですか?」とまで言う人もいて、日本文化の歴史の風化をお互い嘆きあった。ネットで調べておおよその位置を割り出し、とにかく現地に向かった。

大垣祭りと石田三成公のご縁

 大垣祭りは2015年に文部科学省から文部国重要無形民俗文化財に指定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に提案している。今年が指定後の初めての大垣祭りであったので、2016年5月14日、私も構えて写真を撮った。

 大垣まつりの軕の起源は、慶安元年(1648)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄進で表し、大垣10か町が10両の軕(出しもの)を造って曳回したのが始まりといわれている。2016年現在は13軕が整備されている。2017年現在は、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

 「道」の現地撮影の翌々日に弘前のお寺を回って、大垣城に縁のある石田三成公の縁者のお寺や墓に参拝した。新戸部さんとのふとした話から出た石田三成公の縁者のお墓が弘前市内のお寺にあるとのことで、今年の大垣祭りの撮影はご縁の前哨戦になった。関ヶ原の戦い(1600年)で、西軍の大将の石田三成公は大垣城を作戦本拠地としていた。関ヶ原の戦いの後、戦勲あった戸田氏鉄公が大垣城主となった歴史である。

種差海岸の現地へ飛ぶ

 大垣祭りを撮影した翌日、2016年5月15日、小牧空港からFDAのERJ175で青森空港に飛んだ。青森空港に新戸部さんが迎えに来て、種差海岸の現地に向かった。 たかが一枚の絵「道」のスケッチ現場を見に、1,000キロも離れた場所に出かける酔狂さ、また空港から3時間も車を飛ばして案内された新戸部さんの酔狂さもお互い呆れものであった。そのご縁も2006年の前職の会社の合併から繋がったご縁であり、それがご縁で馬場恵峰先生とのご縁ができ、新戸部さんとご縁ができ、ご縁の不思議さを感じた。関ヶ原の戦いでは、馬場恵峰先生のご先祖馬場春信公の元家臣が井伊家の武将として赤備えで戦っている。

酔狂道のご縁

 今回の酔狂道には、大きなご縁が横たわっていた。馬場恵峰先生を介してご縁のあった友と一緒に歩いての発見である。やはり現地現物で、その現場に行かないと新たな発見はない。そのお陰で、ものの観方の再発見と400年前の歴史のご縁に出会えた。青森に埋まる観光資源、大垣・彦根と弘前が繋がるご縁の発見、行政の怠慢を垣間見た出張旅行でもあった。酔狂道もたまにはよいものだ。日々の心がけが良ければ、人は正しく狂うことで、佛様からの良きご縁に恵まれる。酔狂道とは夢の道。

 

図1 大垣祭り 試楽祭 2016年5月14日

図2 松竹軕の演台で長唄を舞う上田愛心さん(8歳)2016年

図3 FDAのERJ175

図4 青森を目指して

図5 ムジコクリエイト社長 新戸部八州男氏

図6 「道」の解説パネル

 

2017-07-13

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年6月 3日 (土)

大垣まつりとは、動態のお墓(改定2)

 大垣まつりは、1648年(正保5年)ウィーン公使であった戸田共氏伯爵のご先祖にあたる初代の大垣藩主戸田氏鉄公が城下の八幡神社を再建した折、城下十八郷が神輿三社を寄進して喜びを表し、大垣十ヶ町(本町、中町、新町、魚屋町、竹島町、俵町、船町、伝馬町、岐阜町、宮町)が10両の軕(山車)を造って曳き出してその喜びを体現したことが起源という。

 

大垣まつりの総括

 大垣まつりは、370年前の初代大垣城主戸田氏鉄公への感謝と毎年の豊作を祈願する地元全体で行なう神事である。人々は名君であった城主を偲んでお祭りを行う。故人を偲んで石に名前を刻んだのが静態のお墓で、お祭りは動態のお墓といえる。伝統行事としてこのお祭りが続く間、大垣の戸田城主は、民衆の心の中で生きている。老若男女が山車の諸芸に合わせて日本の邦楽を奏で、日本の伝統芸能と先祖を敬う心が、大人から子供に継承されていく。先祖を敬う心を子供に、自然と植え付ける。良き伝統である。

 

大垣まつりの稽古

 この日のために、子供を中心とした伴奏者達が、町内に集まりほぼ2週間にわたり夜に練習を続ける。稽古の始まりは世話人が「それではこれから始めます」というと、子供たちを含め全員が一斉に立ち上がり「お願いしまーす」で始まり、「ありがとうございました」で終わる。その後、子供たちはお菓子をもらいご機嫌である。その間、付き添いのお母さん方はおしゃべりに花が咲く。

 軕の曳き回しと八幡様の前での諸芸では、重い軕を回転させたり、お辞儀をさえたりするので、引手のチームワークが必要で、練習が欠かせない。町内の名誉がかかっているので真剣である。稽古始、中稽古、稽古納めには、町内のものが料理・酒を持ち寄り祝杯を挙げる。学校もPTAも協業して子供の教育の場として熱心に応援している。

 そこから共同体としての意識が育つ。日本の和の精神のもとである。街に大垣まつりのお囃子の笛の音が響くとき、それは春本番の訪れの声である。

 お祭りでは、遠方からも知人・縁者が集まり、御馳走が振舞われ、旅芸人が集まり、屋台が出て、お金が回り経済が活性化する。人々に生きていく喜びと共同体としての和の意識を与える。素晴らしい先人の知恵である。

 

大垣まつりの歴史

 1679年(延宝7年)、第四代の大垣藩主戸田氏西公が、神楽軕、大黒軕、恵比須軕の三輌を下賜。この3輌を「三輌軕」とよぶ。慶安元年(1648年)八幡神社の古文書によると、造られたばかりの軕に対し「十町之車渡リ物尽善尽美(十町の車渡り物、善を尽くし美を尽くし)」と、称えられている。また今は姿を消したが、「朝鮮人行列」という、朝鮮通信使を模した竹島町の異国情緒あふれる行列もあった。

 濃尾震災、第二次世界大戦の空襲で軕の多数失うが、2012年、復元等により13輌の全てが完全に復活した。

 災害を免れた軕9輌と朝鮮軕付属品は、岐阜県の重要有形民俗文化財に指定され、2015年3月2日、「大垣祭の軕行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定された。2016年12月1日にはユネスコ無形文化遺産に登録された。

 

軕の種類

大垣は、中京圏と近畿圏の境に位置し、軕の作り方で融合型の山車となっている。中京型は名古屋型で、近畿圏型は長浜流芸山型であり、大垣の本軕は、全ての型が揃っていて全国でも珍しい。そのうち三軕は生粋の大垣っ子である。

大垣の軕は、下記の4種類からなる。

①  無蓋軕、

②  前軕、本山車、後山車を持つ山車、

③  前軕がなく本軕から樋が突き出ている本軕、

④  前軕を舞台に改造した踊り山車

 

試楽は、土曜日に行われ、13輌の軕が朝9時に八幡神社前に集結する。八幡神社の鳥居前で奉芸を行った後、市役所玄関前に移動する。そこで掛芸披露を行う。この行事は、かつて大垣藩主が大垣城内に軕を曳き入れて上覧したことに由来し、現在は、藩主に代わり市長がその役を務める。以後、各軕は自由行動をとる。

 

本楽は、日曜日に開催され、各軕は八幡神社前に集結し奉芸を披露する。後、神楽軕を先頭に城下(東廻り・西廻り(毎年交代)が存在)を練り歩く。

 

夜宮では、試楽、本楽両日とも、19時より各軕は八幡神社前水門川沿いに集合して提灯を点灯する。八幡神社前を2周し、曳き分かれる。本楽の夜には神輿の渡御も行われる。

 

大垣まつりの人出数

 ユネスコ登録後、祭りの観客数が急増した。2017年は初日の試楽の日が雨天のせいで、29万人の人出となった。2011年の試楽が10万人、本楽が12万人で計22万人である。比較が難しいが、雨でなければ人出は2倍になったと推定される。2011年の大垣祭りの写真と比べると、人出の数が増えたことが良くわかる。街の活性化で人がいなくては話にならない。大垣祭りが街の活性の一助となっている。

 

この項、一部wikipediaより編集

参考文献 浅野準一郎著『大垣まつり』風媟社

     長野良行、水崎薫、田中千奈代著『東海の山車とからくり』ゆいばおと刊

 

下図1 昔の大垣まつりを説明した大垣城の説明看板

下図2 2011年 大垣まつり・本楽での人出(これで12万人の人出)

下図3 稽古の成果が問われる大垣まつり本楽でのお囃子の伴奏(2017年5月14日)

    見守る親御さんの方が真剣かも。よき教育の場です。

下図4 大垣まつり・本楽でのお囃子の伴奏(2011年5月14日)

     皆さん真剣です

 

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2017年5月26日 (金)

 大垣八幡神社

 建武年間、東大寺の荘園大井荘であった美濃国安八郡大井(現大垣市)に、東大寺の鎮護神である手向山八幡宮を勧請したのが始まりという。

1451年(宝徳3年)、現在地に移転する。  

戦国時代の兵火で焼失したが、1647年(正保4年)、大垣城城主、戸田氏鉄が再建する。この再建を祝って始まった例祭が大垣祭の始まりという。 

また大垣八幡神社には、下記の昔話が伝わっている。

昔、大地震が大和国(現奈良県)に地震が起きる。東大寺の僧侶が建物を見回ると、鎮護神である手向山八幡宮の御神体が消えているのに気づいた。慌てた僧侶や神官は全国各地を探し回った。

ある日、使いの一人が美濃国安八郡室村(現、大垣市室村町)に宿泊したさい、夢の中に八幡神が現れ、「私はこの地が気に入った。この先もずっとこの地に住もう。」と告げたという。慌てた使者は近隣を探したところ、安八郡藤江村(現、大垣市藤江町元八幡宮)の林の中で御神体を発見する。

使者はすぐに御神体を運ぼうとしたが、全く動かなかった。そこで近くの寺院の僧侶に相談したところ、「八幡様の御意思です。この地に祀るのが良いかと思います」ということとなり、この地に祀られたという。

 私は高校生の頃、父の勤め先の社宅に住んでいましたが、その名前が「大井荘」でした。定年前の5年間を、33年間住んだ刈谷市を転勤で、元、大和国(現奈良県)に移り過ごしました。そして現在の私の自宅住所は、元、美濃国安八郡室村(現、大垣市室村町)なのです。私は、定年前は、八幡の神様が逃げ出した同じ場所に住んでいて、定年後、八幡の神様が気に入った同じ逃亡先の地に住むことになりました。何のご縁でしょうか。危機管理に長けた、また一度決めたら梃子でも動かない性格の八幡様に自分自身を見るようで、親近感を抱きました(前の会社では機密管理・危機管理も担当していました)。

この室村町にこんな言い伝えがあるとは、この歳になるまで知りませんでした。その時にならないと出合えないご縁があるようです。不思議なご縁を感じました。

恵比須軕のお頭渡しの儀

   1679年(延宝7年)、第4代藩主戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたり、先代の出身地である摂津の広田神社に祀られている西宮の恵比須神に、人を派遣し祈願したといわれる。現存の恵比須大神の人形は左甚五郎の作と伝えられる。

伝説によると、恵比須大神の人形の顔面の塗料が剥げていたので、塗り師が塗り変えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれる。

 また祭礼の日に雨が降ると、恵比寿様が鼻を垂らすという伝説も残っている。

 本楽の夜、各町の軕が曳き分かれた後、その年の担当町から次の年の担当町へと恵比須大神の人形の御頭を渡す儀式「お頭渡し」が古来と同じ手順で、今も伝統行事として執り行われる。お頭はその次年度の担当地区の代表の家で保管される。ある家では、そのお頭は耐火金庫に納められて大切に保管される。毎月、1日と15日は、保管地区の神社でお頭を飾って神事が行われる。

 船町、伝馬町、岐阜町、宮町の4町内が一年交代で担当している。

  ウィーンは音楽の都、芸術の都。同じように大垣は水の都、文化の都である。大垣も大垣まつりの季節になると、町内で軕山車を曳いて回るときのお囃子の笛の練習音が響きてくる。大垣は音楽の都でもある。大垣は昔から交通の要所に位置して、東西の文化の交流が盛んであった。人の交流のある所に文化の花は咲く。