2023年11月15日 (水)

大垣死病の治療、生ごみ部  食べて節約 健康に

真因と治療、対策

 ゴミ量削減のため、自己防衛策のためにも、今まで生ごみとして捨てていた食材の廃棄部分を食べて、生ごみ量を10分の一に、全体の燃えるゴミ量を6分の一に減らした。今まで月に6枚の燃えるゴミ用の袋の消費が、現在は月に1枚である。

 それで利権業者や汚役人に渡るはずの年間約5,000円の節約である。大垣市全体では燃えるゴミ用の有料ゴミ袋の費用は約3億円である。この額は、県下一豪華な大垣新市庁舎に新たに発生した維持管理費相当である。

 

病巣、大垣のクソ増税屋

 大垣市では、役人の不始末で燃えるゴミ袋が有料化された。大垣政治の貧困である。大垣市より、財政が豊かではない岐阜市では、ゴミ袋は無料である。大垣市のゴミ量は、10年前に比べて、3割も減っている。それなのに、「ゴミが増えた」と大嘘を市民に言って、ゴミ袋が有料化された。

 次回の選挙で「市民を騙した罪の重さ」為政者に思い知らせないと、民主主義が崩壊する。石田仁市長とちかざわ正市会議員(ゴミ袋有料化推進委員会の委員長)に投票しては、大垣は滅亡する。

 大垣市病を治すには、市民一人一人の意識改革が必要だ。政治への監視が必要だ。大垣市病を放置すると死に至る。それは民主主義の崩壊である。

 ゴミ袋の有料化は、この物価高騰の折、一家庭当たり5千円の実質増税である。まるで日本政府の増税クソメガネ岸田が推進中の増税政策と同じである。「増税クソメガネ」の名はネットで大炎上中である。国会でも参議院予算委員会で、れいわ新選組の山本太郎代表が質疑に立ち取り上げた。それならば石田仁大垣市長は、増税騙し屋である。

 石田仁市長は、大垣をよくする政策には無為無策であるが、増税や利権増大には熱心である。売名行為もどきの寄付贈呈式のツーショット写真や子供のスポーツでの入賞の記念ツーショット写真には抜かりなく新聞に出て、名前を売っている。

 大垣の景気対策には無為無策だから、他市の公示地価は上がっているが、大垣の公示地価は停滞したままだ。他市が上がって、大垣市が停滞とは、大垣は衰退という意味だ。大垣は衰退の一途である。前市長と現市長の無為無策の為、大垣の公示地価は24年前の半値以下に暴落している。市民の不動産財産額が半分に目減りした。市民一家庭当たり約1000万円の損害である。こんな都市はない。

 公示地価は行政の通信簿である。それは石田仁市長と前市長の無能さを表している。市場の評価は神の如くの評価である。

 

 大垣市では、この4月からごみ袋の有料化が実施された。大垣市が公言する「ゴミが増えた」というのは大嘘で、利権の為の悪政である。実際は10年前に比べてゴミ量は30%も減っている。大垣市の政治のウソの典型である。

 

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  グラフで見る大垣市のごみ総排出量(総量)は多い?少い?(推移グラフと比較) | GraphToChart

 https://graphtochart.com/japan/ogaki-shi-total-volume-of-waste-matter-total.php

新市庁舎費用 負担金比較

       人口  新市庁舎費用 負担金    年間税収

                 市民一人当たり  一人当たり

 大垣市   159千人  126億円  79千円   386千円

 岐阜市   406千人  266億円  65千円   398千円

 各務ヶ原市 145千人   83億円  57千円

 多治見市  107千人   52億円  48千円

 刈谷市   140千人   84億円     60千円   434千円

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大垣市の公示地価推移(2001年以降)

 2001年の地価を100として2018年の地価は

  (公示地価、基準地価の総平均)2001年より小川敏氏が市長就任

 大垣市  49.5

 岐阜市  64.4

 一宮市  75.0

 名古屋市 145.1

 大府市  90.2

 刈谷市  107.2

 安城市  99.0

 岡崎市  94.3

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以下は増税に対する自己防衛策である。

皮まで食べて生ごみ削減

 キウイフルーツ、ミカン、梨、柿、ニンジン、大根、大根の葉、かぼちゃ、ゴボウ、サツマイモ、スイカの皮はそのまま食べる。

 産地のオーストラリアでは、キウイは皮ごと食べるのが正式のマナーである。

 

 小さいミカンは皮ごと食べる。ミカンは大きなキンカンと思えばよい。ミカンの皮を一緒に食べると美味しいわけではないし、食べ応えがあるので、ミカンの食べる量が減った。私は薬と思って食べている。ミカンの皮と身の間の白い綿は漢方薬の原料で、体に良い成分である。

 ただし2個目のミカンは普通に皮をむいて食べている。流石に皮ごと食べるのは、1個だけである(笑)。

 

 スイカには、シトルリンというアミノ酸が含まれている。シトルリンは、血流を良くして冷えやむくみを改善するほか、紫外線から肌を守る効果も。特にスイカの皮には、このシトルリンが果肉の2倍も含まれているので、捨てずに食べるのがおすすめ。漬物にするのが良いようだが、それは面倒なのでそこまではやってない。少し余分に白い部分まで食べることで、生ごみ量を減らしている。健康にも良いので一石二鳥である。

 

 キャベツの芯の部分も細かく刻んで食べる。繊維質豊富で健康によい。

 果物の皮の部分に、多くの免疫酵素が多く含まれている。

 

魚は頭から尻尾まで食べる

 魚は手の平サイズまでの小魚が健康に良い。それを頭から尻尾まで全体食として食べて、生ごみを出さないようにする。

 それより大きな魚は、生態系の集積がされており、海洋の毒(水銀、マイクロプラスチック等)が濃縮されている。

 生態系の中で、植物や植物プランクトンは第一栄養段階と呼ばれ、それを食べる小型の魚は第二栄養段階、さらにそれを食べる魚は第三栄養段階され、栄養段階が高くなるほど生物の数が少なくなる。こうした生態系の構造はピラミッドに例えることができる。マグロや鯨などは小さな魚を捕食する一方で、ほかのどんな動物からも食べられることがなく、このピラミッドの頂点に位置している。そのため「頂点捕食者」などと呼ばれるが、その分、海に漂う毒素も凝縮されている。

 例えば、「頂点捕食者」のマグロなどは、海水中の水銀やマイクロプラスチックを小魚よりも多量に含んでいる。だから労働厚生省は、妊婦への魚介類の摂食と水銀に関する注意事項の見直しを頻繁にしており、通達を出している。

下記は厚生省の通達

妊婦への魚介類の摂食と水銀に関する注意事項

https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/suigin/dl/index-a.pdf

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清涼飲料水は飲まない

 清涼飲料水やコーラ類は糖分過多で、発がん性物質の人工甘味料も入っている。体に悪いし、ごみも増える。だから私は飲まない。

  大塚製薬の経口補水液「オーエスワン」にも人工甘味料スクラロースが入っている。人工甘味料は自然界には存在せず、そのため体は異物として認識し、その分解に過大な免疫酵素が消費される。将来の病気の危険性の恐れがあると危惧されていると報道されている。だから私は飲まない。

 私はジュース類を飲まない。ジュース類は繊維質が除去されており、かつ糖分が多いので、血糖値が急上昇して糖尿病の発症の原因となる。

 健康に良いと信じられている野菜ジュースも、実際は健康に悪い。野菜ジュースには飲みやすくするため、多量の糖分が含まれている。ワンパックの野菜ジュースに、一個のおにぎりの半分に相当するの糖分が含まれている。日本で一番多く、野菜ジュースを消費する青森県では、糖尿病で死亡する人が日本で一番多い。

 

 糖尿病死亡率が20.2人の青森県が全国平均の11.4人を大きく上回り、全国ワースト1位

 

【最新 糖尿病ランキング】 1位は神奈川県、ワースト1位は? (club-sunstar.jp)

https://www.club-sunstar.jp/article/column/sdp/2357/#:~:text=%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%81-,%E5%85%A8%E5%9B%BD%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%EF%BC%91%E4%BD%8D%E3%81%AF%E3%80%90%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E3%80%91%E3%80%81%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%EF%BC%91,%E3%81%BB%E3%81%BC%E5%90%8C%E3%81%98%E9%A0%86%E4%BD%8D%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

 これは単なる一例で、戦後、添加物、人工甘味料、防腐剤、農薬等が大量に使われだして、我々の身の回りで、アトピー性皮膚炎、がん、認知症が増えていった。私が小学校時代の60年前は、身内でガンもアトピーも認知症も聞いたことが無かった。それが今では、がんは日本人の2人に一人がかかる。私も癌になった。

 それは欧米に対して日本では10倍も多く添加物、防腐剤が食品に認可されている。それが日本の異常性である。それが病気発症の一因だと言わざるを得ない。テレビでは添加物満載の加工食品を食べろ食べろと大宣伝である。何かおかしい。添加物を安易に認可している劣化した汚役人ども、拝金主義に染まった食品メーカ、マスゴミどもがその犯人であると私は思う。

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菓子パンは危険

 パンにはグルテンが含まており、アレルギー性の問題がある。明治時代の文豪坪内逍遥はパンの食べ過ぎで、胃炎になり、命を落としたようだ。グルテンは怖ろしいのだ。輸入の小麦には、EUで禁止されている農薬がたっぷりと入っている。

 菓子パンやお菓子には人工甘味料、防腐剤や添加物が多く入っているので、将来、病気になる恐れが高い。人工甘味料は発癌性物質である。病気予防こそ、最大のゴミ量削減策である。

 

 

 酒類は買わない、飲まない。「酒は百薬の長」は大嘘である。「酒は百厄の兆」である。アルコールは発癌性物質である。WHOでは、酒は薬物と認定されている。食品は胃で消化される。アルコールは肝臓で、薬物と同じプロセスで分解されないと体外に出せない。

 酒をやめれば、その分、空き缶や空き瓶が減る。お金も節約できる。将来、ガンになれば、医療費もかかる。酒や添加物満載の食品を買って飲食すれば、病気になりがちになり、医師から貰う薬の包装紙が増える。

 アルコール液は危険物質である。例えば、アルコール液を直接、皮膚に注射すると、皮膚が壊死する。それを自分の肌で実験し、A医師が確認したYou Tube動画が配信されていた。それと同じ現象が、血液中に含まれたアルコールで起こり、血管の内面を傷つけるとA医師は警告する。だからアルコール依存症は認知症にもなる。ある住職は、アル中になり、認知症で入院して、お寺を追われた。

 アルコールが原因で病気になれば、病院に通うためのガソリンが増える。病気になり、入院、手術ともなれば、多大の炭素(ガソリン、電気、資源)を使用する。ゴミ削減には健康管理が最優先である。

 

薬は毒

 どんな薬でも、毒物である。薬は対処療法の一手段で病気を治すわけではない。病気になった真因を探して、それを無くさないと、病気は治らない。病気になれば多大の資源を使う。病気になる行動は、反脱炭素社会の行動である。

 例えば高血圧症の降圧剤は、それで高血圧症が治るわけではない。あくまで対処療法である。血圧を強制的に下げることで、必要な血液が末端まで届かず、それが原因で、癌、白内障、緑内障、認知症になりがちだ。それで多大な医療費を使えば、反脱炭素行動である。

  私は降圧剤を20年間飲まされ、がんになり、白内障、緑内障にもなり、記憶力低下も経験した。降圧剤では、高血圧症は治らなかった。日本の医師は、降圧剤以外の治療を放棄している。医薬品業界との癒着であろう。

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冷凍食品

 冷凍食品を私は使わない。だから冷凍庫は空である。だから生ごみを冷凍保管して、1か月分が貯まったら、まとめて捨てる。それでゴミ袋の消費量が6分の1になった。

 注意事項は、ごみとして出す場合は、解凍してからゴミとして出すこと。そうしないとゴミ回収車を傷める恐れがある。

 冷凍食品などの加工食品は味付けが濃い。冷凍食品などの味付けを濃くしているのは、塩や砂糖をたくさん使うことで長期間保存が効くようにするためで、また万人受けする味にするためでもある。

 中高年世代には、生活習慣病の対策上で、味付けが濃いと塩分過多で体に悪い。味が濃いと必要以上にご飯が進んでしまい、今度は糖質過多になるなど栄養バランス面でも問題が出てくる。

 以前、中国製の冷凍食品で毒物検出の問題が出たし、残留農薬や添加物の問題もあり、不安なので、私は冷凍食品を食べない。だから自宅の冷蔵庫の冷凍室は空である。

 

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  冷凍庫内に生ごみを一時保管

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チンしない

 私は電子レンジは使わない。だからサランラップも使わない。サランラップから有害物質が出るとの情報もある。電子レンジでは栄養素が失われる恐れがあると私は感じている。病気にならないために、私は電子レンジを使わない。

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スィーツは買わない

 以前はよくスィーツを食べていたが、今は全く食べない。その結果、その包装容器の廃棄物を削減できた。訪問先で出されたスィーツは食べるが、自分では買わない。甘いものは、病気の元である。私が御幼少の頃の60年前は、そんな美味しいおやつは、盆暮お祭りの時だけあった。病気になれば、石油製品を多量に消費する。

 健康で暮らすためには、添加物まみれの食品を買わないこと。その分、ごみが減る。

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出汁の元を使わない

 時間短縮で出汁の元を使うのは、ご法度である。出汁の元は添加物、化学調味料、防腐剤でニセモノの食品である。料理の時間を短縮しても、後日その落とし前で、病気になりがちだ。病気になれば、省エネどころではない。多大のゴミを生み出す。

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家電

 よいものを長く使う。それが粗大ゴミ量を無くす最大の手段である。

 以前につかっていたオープントースターは40年間使った。

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廃プラスチックをまとめて捨てる

 小さなプラスチックの容器や包み用のプラスチックを中くらいに大きさのプラ袋に入れて、プラスチック回収日に、ゴミとして出す。それで結構の量の燃えるごみの削減になる。しかしどうせ、プラスチックゴミは分別せず、燃やしているだけである。単に行政の省エネのゴマカシである。

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  小さなプラスチック類は、まとめて小さな袋に入れて捨てる。

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 梱包用のプチプチ

 プチプチは廃プラスチックとしてゴミに出すことが出来る。それを燃えるゴミとして出すと、かさばってしまう。

 車を廃車にすると最大の粗大ゴミになる。それを防ぐために、よい車を長く使う。私の愛車は現在24年目である。

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認知症防止

 睡眠をしっかりと取る。睡眠中に、脳内のゴミが洗い流されている。それが認知症防止となる。十分な睡眠がアルツハイマー型認知症になるのを防ぐ。

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読書でゴミ防止

 テレビをゴロゴロしながら見ていれば、認知症へまっしぐらである。テレビの前から動かず、ポテチ三昧では、病気になりやすい。1時間座りぱなしでは、約24分も寿命が短くなる。病気にもなれば、ごみの大量生産である。もっと本を読もう。そうすれば、政府、大垣市の無策が見えてくる。ゴミ情報を自分の回りから排除しよう。

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紙の廃棄物

 ゴミ削減の本当の意味は、資源の最大活用である。廃紙は、A4の廃封筒に入れて資源ごみ回収に回す。割りばしや爪楊枝を入れる紙等まで分類する。「チリも積もれば資源ごみ」である。実際は、紙の再利用は、反炭素社会の行動だが致し方ない。

 

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 廃紙は封筒に入れて資源ごみに

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厚紙は紙袋に入れて資源ごみ

 厚紙は、買い物の紙袋に入れて資源ごみに出す。

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プリンター用の紙

 私は再生紙を買わない。だって質は悪いし高い。再生紙が普通の紙より高い分、加工に石油を使っている。消費者を騙す再生利用である。利権の問題だ。

 

過剰包装の製品を買わない。

 

テッシュペーパは箱無しを使う。箱の厚紙を処理しなくても済む。

 

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  箱無しテッシュペーパ

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新聞の購読を止め

 真実を報道せず、国民を洗脳状態の置くマスゴミであるテレビは見ない。偏向新聞を読まない。ネット情報で十分である。

 お陰で新聞紙より多い大量の広告紙を処理せずにすむ。

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自分を粗大ゴミ化しない

 自分は世の中でいかされている。定年後は、そのご恩を返すのが人としての義理である。そういう意識があれば、世の中に役立つ奉仕が出来る。神仏もそういう人をこの世に残してくれる。そうでないと、人は粗大ごみ化する。そのために、健康で(身心とも正常で)世に貢献してこそ、親から頂いた命を全うできる。病気になれば、国の医療費を無駄に使う。公園の草取りや、側溝の掃除でも、立派な社会貢献である。

健康で天命を全うして世の為に働くことが、最大のゴミ削減策である。

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  馬場恵峰書

 

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 上図は病気見舞いのお礼として皆さんに配った色紙。

 健康を失って、初めて健康の有難さが分かる。

 馬場恵峰先生に、約20枚を揮毫していただいた。

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2023-11-15  久志能幾研究所通信 2771号  小田泰仙

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2023年11月 8日 (水)

何を置いて逝くのか 残るのは線香の煙だけ

夢追いて 体は老いて 煙置く

 

 人間は一生をかけて(80年×365日=29,200日)、何を現世に置いてあの世に旅たつのか。土でできた肉体は、いつかは土に帰る。土でできた肉体は大きな器である。その器に何を入れて昇華させるのか。それが人間の生き様であり、成果である。かけた時間に相応して、人生が決まり、昇華する価値が決まる。

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            新人教育テキスト「修身」2004年

 

 

人生のチェックアウト

 人は人生ホテルに、裸でチェックインして、裸でチェックアウトする。ホテル滞在中の衣食住は、天からの借り物で、チェックアウト時は全て置いて逝く。どんな立派なホテルに泊まっても、いつかはチェックアウトしなければならない。

 それも自分の意思ではなく、ある日突然にお呼びがかかる。死神運転手が「お迎え」の車で来た時、乗車拒否はできない。向こうだって年功序列の搬送計画がある。運転手も上司の閻魔様の御指示には逆らえない。死は云わば、あの世の裁判所からの出頭命令だ。その時、身に着けるのは経帷子のみ。その時、何を置いて逝くのか。

 各学年の進級(その学年生活の死)、学校の卒業(学校生活の死)、会社人生の定年(会社人生の死)、定年後の第二の人生の死がある。どんな人生でも、どんなプロジェクトでも、生老病死であり、必ずその終りがくる。恋愛だって生老病死である。情熱的な恋愛でも永遠には続かない。どんな恋愛もいつかは冷める。青春の情熱は一瞬である。

 生は偶然だが、死は必然である。

 そこに何を置いて逝くのか、すべて生を受けた時に計画した志次第である。

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何を遺すか

 死とは肉体的な死だけを意味しない。例えばある部署に部門長として人事異動して、規定の任期を勤めて、その部署を去る場合は、その任期という生命体の「死」である。部門長としてある事業を任された場合、その任期中に何を創り上げるか、何を遺すか、それが問われる。その任期後、人事異動で別に部署に移動すれば、その人が存在したという事実は煙となる。しかしその人がその部署に残した「何か」がその人の昇華物なのだ。それが問われる。

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回想 

 上記資料は、私が前職で、新入社員教育カリキュラムの中の「修身」の講義で使った。当時の新入社員も今は40歳超えである。この20年をどう過ごしたのか、聞いてみたい。

 この6年後の私の定年時の挨拶回りで、社内を回った時、私の講義を聞いてくれた営業マン中堅(女性)は、その講義を良かったと言ってくれた。嬉しかった。人生を考える上で、自分でも良い講義をしたと思う。

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 今からでも遅くない

 定年になって1年目は、第二の人生の新入生である。人生を考えることは、定年後のシニア世代でも、余命が僅かの人でも構わない。何時から始めても、遅いことはない。残りの時間を、何にお金を使い、何に時間を使い、誰と出会い、何を計画したかで、人生の最終仕上げの出来栄えが変わる。今ここに全力をかけよう。

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Photo

 馬場恵峰書

 

2023-11-08  久志能幾研究所通信 2770号  小田泰仙

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2023年11月 6日 (月)

巡礼 福田公美、日本画展 懐かしい記憶に和の香り in Sagan

「福田公美 日本画展」

 場所 岐阜市 川原町 Gallery Sagan

 期間 11月3日~11月23日 (水・木 定休)

 

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 「転生」と福田公美さん   Saganにて

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薫習で画家修業

 日本画は岩絵具や墨、膠で作りだす和の雰囲気がその命である。日本画は和室によく溶け込む。それが油絵具でゴテゴテと画かれた西洋風の絵画では浮いてしまう。

 福田公美さんは、祖父の画室の墨、膠の香りに包まれて育った。彼女は祖父が岩絵具を静かに溶く後姿を見ながら育ったという。そんな祖父の絵の雰囲気の中で育ったので、祖父の日本画の温もりが彼女の肌から身体にしみ込んだのだろう。霧の中を歩めば、自ずと衣が濡れる。よき香りのお香を触れば、その香りが衣服に移る。それが薫習である。だから彼女は、ごく自然と日本画の世界に入っていけたという。彼女の絵には構えた力みがない。自然の花や動物を自然体で観察して、それが日本画の画風に現れている。そこには小さな植物や昆虫たちの存在感ある命の営みが表現されている。

 

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 岩絵具

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  膠

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家風

 馬場恵峰先生の祖父は書道の名手で、家には書画が沢山あり、恵峰先生はその中で書画を見ながら育ったという。だから馬場恵峰先生は小学校で、担当教師の代わりにクラスの仲間に習字を教える存在になっていたという。環境が芸術家を作るようだ。

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  馬場恵峰師の16歳の時の作品

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 能や歌舞伎の家元で育った子息は、生まれながらに特別の才能を持っていると同じであろう。

 囲碁や将棋の名人には内弟子経験をした人が多いと同じであろう。

 画家を目指して、芸大に入り、絵の世界で立身出世しようと懸命の努力を続けた画家には、何か力みがあり、自然体の優しさがないような気がする。芸術は努力だけでは成功しない世界のようだ。凡人がいくら努力をしても、超一流にはなれない。努力とは別世界の話である。

 

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西洋の画風

 西洋の画家でも、絵で一旗揚げようと描いた絵には、暴力的な迫力がある。悲壮感さえ感じる。日本人の持つ優しさが無いような気がする。日本人は自然と一体感を得たいと思う。それが日本古来の伝統である。西洋では、自然も敵国も闘い征服する対象である。絵でもそういう雰囲気が出ている。日本のように人が自然と一体化する画風という世界とは一線を隔す。

 福田公美さんの日本画は、自然と一体化して自然を受けいる画風である。日本人の愛した花鳥風月の世界に合う。日本人が西洋風の絵画を画くと、日本人はどうしても構えてしまうようだ。

 

名画とは

 私の名画の定義とは、「捕まってもいいから、盗んで家に飾りたくなる絵」である。そんな絵に出会えるのが、盲亀浮木のご縁である。 私は世界の美術館の70か所ほどを回ったが、捕まってもいいから盗んで家に飾りたいという「名画」には、幸い?遭遇しなかった。だから私はお縄を頂戴せず?、塀の外で自由に生きている。

 100号のバカでかい絵、またゴテゴテと油絵具で塗りたくった絵は、日本人にも、その日本家屋にも合わない。まさかルーブル美術館にある「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」(寸法:621x979 cm)やオランダ国立美術館のレンブラント「夜警」(寸法:363 × 437 cm)の絵を8畳の和室に飾るわけにはいくまい。

 自宅の大きさに合わせて、最適に大きさの絵を選ぶのも、自分の美的センスが問われる。世間が名画と言っているからと言って、鵜呑みにするのは、愚かである。自分には、自分の分相応の絵を選んで飾る。それが自分の美学である。

 西洋では、貴族の豪華な館でこそ映える絵が、名画と定義されているようだ。それは貴族が金に任せて画家に書かせて、富の大きさを誇る絵であるからだ。ミケランジェロの絵も、大富豪のパトロンが金を出して描かせている。

 日展や院展等の展覧会では100号以上の絵でないと、応募に受け付けてもらえないそうだ。その画材だけで8万円ほどかかると言う。そんな絵は、入選して美術館にでもお買い上げされないと、画家稼業では大赤字である。それは自宅保管となる。その保管場所と保管費用が大変だ。有名な画家でも、そういう絵の保管の為、マンションの一室を借りているという。マンションの家賃も馬鹿にできない。画家稼業も大変だ。

 

自宅に飾ると気が狂う名画

 美術館では名画扱いでも、日本の小さな我家では、名画ではない。そんな「名画」はお金をもらっても、飾りたいとは思わない。その分のお金をくれるなら飾ってもいい? 

 数十億円の大きなサイズのゴッホの「ヒマワリ」を家に飾ってどうするの、である。盗難を考えると、心配で夜も眠れない。それでは病気にもなる。ムンクの名画「叫び」を家に飾りたいとは思わない。そんな絵を見続ければ、気が狂ってしまう。ドラクロワの暗い絵を自宅には飾れない。居間が暗くなってしまう。

 そんな類の絵を家に飾るのは、絵の存在価値に対して本末転倒である。絵は見ていて心が癒されないと、意味がない。絵にもTPOがある。またその絵を飾る家の大きさも絵の評価対象である。

 

絵画も適材適所

 50号の絵では、そんな大きな絵を飾れる部屋は日本のウサギ小屋にはない。西洋の「ド高い」名画は、家に飾ると疲れると思う(幸い、そんな絵は持っていないので幸いだ)。日本の和室に似合うのは、花鳥風月の小さな作品である。せいぜい10号までの絵である。

 解剖学者、東京大学名誉教授、医学博士である養老孟司氏は「最近の日本人の精神が貧困になったのは、グローバル経済主義の影響を受けて、日本人が効率主義一辺倒、金儲け至上主義に傾倒し、日本古来の花鳥風月を愛でる余裕がなくなったのが原因だ」と言う。

 私は、幸いエリートでもなく、平凡に暮らしていて、芸術を愛し、花鳥風月の日本画をも愛でている。それでは一銭の得にもならない。だから、私は阿修羅の道を歩まず、精神崩壊もせずに幸せに暮らせている。私は『バカの壁』を超えなかったのだ? でも本音はお金も名誉も女も欲しい....?

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コスモスの秋

 今回、福田公美さんの「秋桜」を入手した。山口百恵ちゃんが歌う「コスモス」を聴きながら、さりげなく壁に飾って眺めるのが、日本流、オダブツ流である。「コスモス」を聴きながら、「秋桜」を見て、人生の秋を考える。

 人生は生老病死、人生も春夏秋冬の移り変わりである。秋は実りの季節である。高齢者には秋の風景がよく似合う。今まで収集した美術品の中から一品を選び、さりげなく飾って楽しむ。それがオーダー仏教(oder仏)、オダ仏教の教祖の美術鑑賞スタイルである。和室に溶け込み、部屋と一体となる絵が名画であると思う。そういう絵は自己主張しない。

 絵とは、自分が主人公として人生道を歩むとき、その道の風景を彩る一輪の花である。何もない延々と続く砂漠の中をとぼとぼと歩むのは寂しい限りだ。その時、オアシスに咲いた一輪の花を見つけると癒される。

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                   秋桜

 

 

2023-11-05  久志能幾研究所通信 2769号  小田泰仙

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2023年11月 2日 (木)

高齢者には「きょういく」と「きょうよう」が必要

 

 高齢者が人間として生きていくために必要なのことは、「今日行く」所がある「今日の用」があるである。それでこそ、人間として生きていける。それがないと、生きる屍として過ごすことになる。挙句に、妻から濡れ落ち葉扱いをされ、捨てられる(熟年離婚)。

 これは高齢者だけでなく、人間としても必要な素質だ。出不精者や引き籠リ、フリータの若者にも「きょういく」と「きょうよう」が必要だ。

 働き盛りの社会人でも、正規の会社業以外に、第二の人生の下準備で、やる事を作ることが必要だ。日曜日に家に籠ってテレビばかり見てゴロゴロしていては、定年後は認知症にまっしぐらである。65歳以上は15%が認知症である。入社したら、その40年後には会社生活の死が来ることは必然である。定年になってから、第2の人生の準備では、そのスタートが出遅れる。

 起きたけど、寝るまでとくに用もなし。

 生きてるけど、死ぬまでとくに用もなし。

 

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 馬場恵峰書


生きる意味

 何のために生れたのか、何のために生きるのか、やりたいことはないのか。

 なぜ死ぬのか。定年まで生きてこれたのは、社会的必要があって、定年まで社会から生かされていたからだ。生物は生殖を終わると、その生を終わる。カマキリの雄などは、生殖が終わると雌に頭から喰われてしまう。それが子供の栄養となる。サケも長い回流を終り、産卵を済ませると死ぬだけである。その肉は子供の栄養となる。雌の寿命が長いのは、子供を育てるために生きているからだ。

 男は定年後に自分で社会的な恩返しの道を探さないと、生き永らえるだけの存在になる。「生きているけど、死ぬまで特に用もなし」の存在に成り下がる。

 男が定年まで働けば、社会的な義務は果たしたことになる。子育ても終り、家のローンも終り、これからが本当の自分の人生なのだ。そのためにこそ、「今日行く」所がある、「今日の用」がある必要がある。なければ、自分で自分の用を作ることだ。それが不明なら、自分の才能や天命がどこにあるか、世間を歩いて探し回ろう。今からでも遅くない。世間を歩く距離と、出会うご縁の総量は比例する。ご縁の総量が多くないと、真の天命に出会えない。場数で勝負である。それを始めるのに、遅すぎることはない。

 

用を作る

 馬場恵峰師は中国に240回以上も旅行した。閑な隣人たちが「どげんして、そげん中国に何の用があるばってん」と噂していた。師曰く「用があるのではない。用を作りに行くのだ」と答えた。そこからご縁が生まれる。犬も歩けば棒に当る。出かけなければ、決してご縁にはぶつからない。そのご縁で、馬場恵峰師は中国浙江省に小学校を寄贈した。馬場恵峰師は「渓流希望小学校」の名誉校長先生である。その功績を含めて、馬場恵峰師は人口4230万人の浙江省で名誉市民賞を授与された。だから馬場恵峰師は94歳まで現役で活躍された。天が社会に必要と認めたのだ。

 

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「高齢者よ、大死を抱け」

 野垂れ死によりも、戦って死んだ方が死に甲斐がある。大プロジェクトを抱えて邁進し、途中で挫折してもいいではないか。そのプロジェクトの借金が返せなくても、どうせ相手も保険をかけている。高齢者の特権は「忍法踏み倒し」である。債権者もあの世までは追いかけてこない。安心して踏み倒せばよい。世のための踏み倒しなら、閻魔様も大目に見てくれよう。

 馬場恵峰師は60歳の時、社会貢献として大村市に「日中文化資料館」を建てた。家屋敷を担保に入れ、生命保険をかけ、1億円の借金を背負った。その借金を24年かけて返済した。完済時は84歳である。見習いたい行動である。その後ろ姿を見て弟子の2名は、同じく60歳以上の身で1億円以上の借金をして新事業を始めている。師の後姿の教示は素晴らしい。私も真似をする意向である。

 

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  日中文化資料館と図書館「三昧楼」  敷地350坪 大村市

  手前の松は、「迎客の松」

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2023-11-02  久志能幾研究所通信 2768号  小田泰仙

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2023年11月 1日 (水)

泣いて罵食を斬る、鳴いてプラ容器を切る、接して漏らさず害

 

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 今回、廃棄処分とした自宅内のプラスチック容器、紙製容器

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 危険なものに接すれば、その危険性が身に及ぶ。

 美味しいものには毒がある。美しいバラにはトゲがある。

 確かに、魅力的な女性は危険かも? ハニートラップにご用心。

 現代では貝原益軒の養生訓「接して漏らさず」には無理がある。便利なプラスチック容器や紙容器には危険が潜む。それで家にあるにプラ容器、紙コップを捨てることにした。便利ではあったが、知らない間に、自分の体を傷つけていた疑いがある。

 一部、小物の事務用品入れに再利用する予定。

 疑わしきは使用せず、君子危うきに近寄らず、泣いて馬謖を斬る、の心境である。

 

 私が御幼少(60年前)の頃には、癌や糖尿病、アレルギー症、認知症の人など滅多に聞かなった。当時の医療費は10兆円以下だったが、現在は43兆円を超えた。なぜ? 日本に、なぜがんがこれだけ増えたのか、なぜアレルギーが出てきたのか、認知症がなぜこんなに増えたのか。

 真の原因はわからない。凡人が出来る唯一の方法は、疑わしきものを遠ざける、である。大河の一滴かもしれないが、やらないよりはましである。私が鳴いて、一人でもそれに賛同してくれれば、少しは廃プラスチック問題が減るはずである。

 動けば、何かが変わる。私の信条である。

 

 

プラスチック製タッパー

 プラスチック製タッパーは、そのプラスチックからは有害なBPAが溶け出す恐れがある。

  ビスフェノールA(BPA)は、肥満、糖尿病、高血圧、心血管疾患など、あらゆる原因による早死のリスクの増加に関連している。

 BPAが腎臓や肝臓を傷つける。またそれががんの要因とも噂される。それが原因で、学校の給食容器からプラスチック製が排除された。

 

ペットボトル飲料

 「500mlのペットボトル1本に、平均50個程度のマイクロプラスチックが含まれている。これらは自然界にない異物なので、生物が消化できない。体内に蓄積されていけば、炎症性の腸疾患などの病気のリスクにもつながる。」(東京農工大学 高田秀重教授談)

 

紙容器のホットコーヒー

 同じように紙コップには、プラスチック皮膜が施されている。そうしないと紙材だけでは、高温の液体を保持できない。そのコップからから平均20個程度のマイクロプラスチックが含まれると推定される。特に、ホットコーヒーで飲む場合はその危険性がある。

 

 

 

2023-11-01  久志能幾研究所通信 2767号  小田泰仙

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2023年10月30日 (月)

祖母の50回忌、盲亀浮木の如し

 

 先日の10月28日、祖母の50回忌を執り行った。2年前に祖父の100回忌を執り行った。そのご縁に出会えるだけ幸せであると感じた。本来、出席する予定だった従弟は、昨年末、コロナで亡くなってしまった。健康でその歳まで生きていないと50回忌は執り行えない。祖母がいて、両親がいて、自分の生がある。

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歴史のIF、人生のIF

 もし東条英機が日米大戦を決意しなければ、もしルーズベルトが日本から戦争を仕掛けるように追い込む陰謀を画策しなければ、日米戦争は起きなかった。当時の米国は厭戦世論が蔓延し、ルーズベルトは戦争をしたいが、できず困っていた。

 日米戦争が無ければ、両親は出会うこともなく、私も別の家に生まれたかもしれず、祖母とのご縁もなかったろう。もし父がシベリア抑留でシベリアの土になっていたら、私の生は無かった。従弟の父はシベリアの土になった。

 一つに生が生まれる確率は、一億円の宝くじが連続で100万回連続で当たると同じである(筑波大学村上和雄名誉教授談)。

 私は、太平洋戦争が終わった後の日本に、犬畜生でなく五体満足の人間として生れられたのだ。まるで「盲亀浮木のたとえ」と同じである。それこそが、いずこから来たご縁の恵みで、それが人の道のお宝である。その恵みに感謝するのが、人の道である。

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50回忌の意味

 そう思うと、自分が元気で、祖母の50回忌を執り行えるというのは稀有のご縁で、感謝である。今まで70年間も生きてきて、50回忌に参列したのは、今回を含めてたった2回である。

 祖母は5人の男子と1人の女子を生んだ。その内、2名が戦死である。その孫で50回忌に参列出来たのは、私だけである。他の孫(従弟)達は、既に死亡した者、昨年コロナで死亡した従弟、認知症になった人、入院中の人、老齢で動けない状態の人もあり、50回忌に参列が難しいのが現実である。それに思いを馳せると、盲亀浮木のたとえは、現実味を帯びてくる。最近の法事は3回忌で終りと言う家庭も多い。それを今回、50回忌を執り行えたのは幸せであると感じた。まさに一期一会である。これからも出会うご縁を大事にしていきたい。

 

盲亀浮木のたとえ

 盲亀浮木とは、大海中に棲む目の見えなくなった老海亀が百年に一度水面に浮き上がってきた時に、大海に漂っている穴の空いた流木に偶然首を突っ込むという喩え話である。

 出会ったり、物事が実現したりすることがきわめて難しいことの喩えで、この出会いとは、人として命をいただく事の困難さ、更にその人がお釈迦様の尊い教えに出会う事の困難さ、人と人の出会いが非常に難しい事の喩えである。

 お釈迦様は、「こんなたとえ話は誰もが、あり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れない。人間に生まれるということは、この例えよりも更にあり得ない。とても有難いことなのだ」 と仰られた。

このお話は『雑阿含経』に説かれている。

盲亀浮木のたとえ - 奈良薬師寺 公式サイト|Yakushiji Temple Official Web Site

https://yakushiji.or.jp/column/20201102/

 

 

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 いづくかの来たりし去り行く人の道 縁の恵みは生の寶なり

 (色紙に鉋の削りくずを貼って作成)

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 馬場恵峰書 (額の大きさ 126×46㎝)

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2023-10-30  久志能幾研究所通信 2766号  小田泰仙

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2023年10月28日 (土)

巡礼 渡辺陽子人形展 目は語る  in Sagan

人は目で語り、魔女は鼻で根性を見せる

 

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 渡辺陽子さんの人形の眼は、遠くを見つめて、何かを訴えている。そこに何か惹かれるものがある。その一人の少女に魅せられて、我家にきてもらうことになった。ご縁である。魔女?の渡辺さんが生み出す少女の人形は魅力的だ。

 私が人物像の絵画や人形等を見る時は、必ずその目を見る。それがその作品の命だからだ。

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仏師が創る眼 

 仏師の彩色師が佛様の目を描くときは、彫られた目の頂点を探し、佛師が意図して彫った目の位置を探し出して目の位置決めをする。「どんぴしゃに目の位置が決まると、佛様がニコッとするのが分かる」と岩田明彩師はいう。それが目のスイートスポットである。目の位置が決まればあとは佛様と対話をしながら、佛様の表情にあう最適な目に仕上げていく。それが彩色師の仕事である。仏像の眼は、仏師と彩色師の共同の作品である。

 

目にもスイートスポットがある - 久志能幾研究所通信

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決めどころ

 テニスのラケットでボールを打つときも、ボールがテニスラケットのスウィートスポットに当たると、極めて気持ちがよい打撃感が手に伝わる。どんな仕事でも決め所がある。それがうまく決まると、仕事の醍醐味を味わえる。仕事が楽しくなる。仕事の魂と己の魂の邂逅である。そんな出逢いを得るには魂の修行が必要だ。真摯な仕事への取り組みがないと出逢えないご縁である。そんなときは、自分が仕事の鬼となっている。己が鬼にならなければ、仕事の新しい目は探せない。鬼とは己の魂の叫びである。

 

黒目のない眼

 私が高塚省吾画伯の裸婦画に魅了されるのは、その目の清々しさである。きりっとした目は、裸体を晒す羞恥心を微塵とも見せない。

 私が高塚省吾画伯に「清涼」を画いてもらった時、出来た絵に目が無かった。いつものきりっとした黒目が画いてなかった。それで高名な画伯に不躾なお願いで、目を修正してもらった。それで高塚省吾流の眼となり、納得した。

 しかし画廊の店主から、白目の意味を教えてもらった。黒目は外を、白目は自分の内面を見つめているころ表しているという。モジリアーニの描く長く引き伸ばされた顔の目は白目である。自分自身の内面を見つめている目である。そうなると別次元の絵に変貌する。

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    高塚省吾画「清涼」

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 私は、高塚省吾画伯の裸婦画のこういうキリッとした目に惹かれる。

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慈愛の眼

 ミケランジェロのピエタは、マリアをキリスト抱いている姿が真髄である。そのキリストを見つめる眼が慈愛の眼である。「ピエタ」は「慈愛」の意味である。

 不動明王が衆生を見る眼は、怒りと慈しみが籠っている。その眼で迷える衆生を救う。その眼を表現するのが彩色仏師である。

 観音菩薩の見る目も慈愛の目である。衆生の悲しみの声を観て、やさしく慈しみの目で見守る。

 

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 ミケランジェロ ピエタ(レプリカ) バチカン博物館にて

   2010年11月13日   著者撮影

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 大仏師松本明慶作 不動明王

 見る角度によって、怒りの目ともなり、慈愛の目ともなる。

 遠くから見ると、怒りの目と見える。近寄って見上げると慈しみの目となる。それを計算して創られた眼である。

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大仏師松本明慶作 聖観音菩薩像

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2023-10-27  久志能幾研究所通信 2765号  小田泰仙

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巡礼 渡辺陽子人形展 魔女の鼻  in Sagan

 

 目は口ほどものを言い、鼻は心の根性を表す。西洋の魔女はひん曲がった長い鼻で、いままでの生きざまを表している。それだけ多くの苦労をしたのだろう。その魔女が新天地アメリカに渡ると、今までの束縛が無くなり、陽気になり、その鼻も可愛くなり、鼻をピクピクさせて魔法をかけるようになった。それが「奥様は魔女」のサマンサである。日本人はサマンサの魔法を愛した。私もそのドラマに魅了された。そこに人種差別のない慈しみの目と鼻があったからだ。サマンサは鼻をピクピクはさせて魔法を駆使するが、魔法を鼻にかけないのだ。

 そんな陽気なアメリカの魔女に出会って、魅了されたことが渡辺陽子さんを魔女の人形創りに駆り出した経緯である。

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お鼻が高い

 鼻柱が立派だと、その根性は強健だ。鼻で象徴した格言も多い。鼻にかける、鼻持ちならぬ、お鼻が高いのね、等である。目と鼻を観相することは、観相学の基本である。

 西洋の魔女の鼻は必ずひん曲がっている。それで魔女の黒歴史を表しているのだろう。まるで旧家の意地悪い姑のようだ。しかしそのイメージは教会が一方的に黒い印象を付けただけである。市民が思う魔女像とは大きく異なる。そのヨーロッパに対して、新しい家(アメリカ大陸)に嫁いだ新妻の魔女は、可愛い。それが新天地のアメリカの魔女サマンサであると解釈できる。

 

「奥様は魔女」のDVDセット

 魔女ファンの私は、「奥様は魔女」のDVDセット(全256話)を揃えた。(98,000円)

 2018年、大垣で開催されたサラ・デイビス演奏会の後の雑談の場で、私が自宅の書庫の写真をサラ・デイビスに見せびらかしたら、彼女はその書棚にある「奥様は魔女」のDVDセットを目ざとく見つけて、「オー、ウィッチー!」と言って、鼻をつまんでぴくぴくさせて、ニコリとした。それから推察すると米国では。テレビドラマ「奥様は魔女」は大人気だったようだ。

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   自宅の書庫

 (2013年当時は蔵書の総重量が4トン、

  2023年現在は本箱が12個増えて、総重量が5トンになっている)

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 2018年9月17日、河村義子先生が大垣でのサラ・デイビスピアノコンサートを企画し、「彼女」(魔女?)を「世界で一流の音楽を楽しむ会」に招聘した。子供達130名を無料招待した。サラ・デイビスは米国の世界的ピアニストである。私はその時、その演奏会運営のお手伝いをした。「彼女」はとても気さくで、子供好きな人であった。彼女は演奏会後、子供たちが大勢いることに気が付いて、急遽、子供達の為にサイン会を設定した。予定外で事務局は大慌てである。子供たちも大喜びでサイン会の行列にならんだ。下の写真はその時の風景である。

 私は、9月22日の京都アルティでのサラ・デイビス演奏会にも出かけ、ツーショトの写真にもちゃっかり納まった。魔女との出会いも一期一会である。私にピアノの魔法をかけた河村義子先生は、その年の12月25日、天国に飛んで行ってしまった。

 

久志能幾研究所通信: サラ・ビュックナー ピアノの調べ (enjoy.jp)

久志能幾研究所通信: あしながチケット募集「サラ ピアノコンサート」 (enjoy.jp)

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 大垣スイトピアセンタにて   2018年9月17日

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京都アルティでの公演会 サラデイビスさんとツーショト

   2018年9月22日の京都アルティで

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2023-10-28  久志能幾研究所通信 2764号  小田泰仙

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2023年10月26日 (木)

私の極楽運転術、事故の再発防止

試験車運転資格

 私の運転技術レベルは、B級レベルだが、正式のテストドライバーの資格を持っている。私の資格は初級で、加齢で運動神経は鈍ってきたが、それでも安全意識は、今でも誰にも負けないと自負している。トヨタの豊田章男会長は、A級のレーサーの資格を持っている。だからトヨタは良い車を作っている。

 

 車や自動車部品を開発する技術者は、自分でその性能を確認せねばならぬ。テストドライバー資格とは正確には「試験車運転資格」である。トヨタが社内資格で、試験車の運転をするために必要と定めた資格である。この資格がないとトヨタの運転試験場(テストコース)で運転ができない。おかげで、私はトヨタ本社のテストコースとトヨタ東富士テストコースで走る経験を持てた。トヨタ本社のテストコースでは時速200キロで走行した。なおその時、私は教官の横に訓練として乗っていただけ….。トヨタカリブの車格では、時速200キロは少しビビる。迫力はあった。

 しかしその資格を持っていても、私も人間だからミスもする。当然、交通事故も起こす。だが安全運転が最優先の資格で、運転の基本を守るから大きな事故は起こさない。またもし事故を起こしたら、私は必ず再発防止をしている。その例を記載する。他人の事故も、他山の石として、自分に当てはめて再発防止をしている。

 

なるべく運転しない

 車を走らせれば、一定の比率で必ず事故は起きる。その比率で保険会社は保険料を設定している。

 脱炭素社会を生きるために、なるべく公共機関を使う。私は、市内以外への移動は、電車を使っている。その方が安いし、時間的に早い。

 私が岐阜(距離21㎞)に行くときも車では所用時間が50分、電車でも50分で、ほぼ同じである。費用は電車が660円、私有車なら2700円程の費用がかかる。車では、さらに駐車場料金も必要だ。事故の危険もあり、電車のほうが安く、電車内で仕事も出来る。だから私は電車使用優先である。

 車の使用料は、1㎞で130円余の費用が発生している。それには、税金、保険費用、車検等の点検費用、車庫代、車の更新費用、事故費用、それと少々のガソリン代である。車は持っているだけで費用が掛かる。車は二号さんと同じで、乗る時は楽しいが、乗らない時の費用が高いのだ。二号さんのトラブルにはお金がかかるのだ。

 

後方ドライブレコーダー

 最近のあおり運転の事故例の多さを見聞して、最近、前方だけでなく後方も記録できるドライブレコーダーに更新した。価格約6万円。

 

前方ドライブレコーダーを2丁拳銃

 前方のドライブレコーダーは当然だが、ナビにもドライブレコーダー機能があって、私の車は2丁拳銃タイプとなっている。往々にして肝心な時にドライブレコーダーが機能しない時があるし、実際にそういう事例があって痛い思いをした。あるヒヤリ事例の記録を見ようとしたら、録画されていなかった。それでバックアップとして2丁拳銃タイプとした。

 

自宅前を自主的な一方通行規制

 最近、小さな物損事故を起こした。それで自主的に、自宅前を一方通行とした。もともと、町内を朝に通過する車で、横着な車の通行が多いので、一方通行にして欲しいと自治会として、警察に嘆願書を出そうとしていた矢先である。この機会に自分だけでもと走行方向を変更した。

 

893ディーラーを避ける

 過去に命を狙われそうになった怖しいディーラーとも遭遇した。私は、そこの創業者から子会社のHディーラーの財務診断を頼まれて、調査した。ところがある幹部から脅迫を受けた。その幹部は元警察官である。異常を感じて、知人の元銀行支店長に相談した。彼曰く、彼は闇の世界に通じているとかで、関与を避けるようにと助言を受けた。私は元銀行支店長の助言に従い、「逃げた」。君子危うきに近寄らず、である。

 その後、その親会社が左前になり、人員整理もしたが、最後は経営権が他社に渡った。その後のHディーラーの内部がどうなったかは不明である。知りたいとも思わない。おそろしや、である。

 

悪徳ディーラーを避ける

 詐欺同然の車検を行う町工場も経験した。G経営研究会の仲間の会社に車検をお願いした。ところが、その社長は、私の車を営業車代わりに乗り回されて、ガソリンを空にして返してきた。おかしいと思い調査した。その悪行は、ドライブレコーダーにシッカリと記録されていた。 

 ディーラー選びは大切である。最近のビッグモーター事件を見て、再確認した。

 

脱出ハンマー

 自分が事故をしたわけではないが、30年前、車を購入する時、トヨタの販売店の店長さんから悲惨な事故例を聞いて、脱出ハンマーを取り付けた。トヨタ純正部品で約3000円である。取り付けて、もう30年が経つが、一生もので使っている。危機管理部品は、危機管理上で、それを使わずに、一生を終えるのが最高の幸せである。

 最近の車は電気を大量に使うため、衝突事故時に火災になる場合が多い。年間、1000台程が燃えているという。車が横からぶつけられて横転すれば、体にシートベルトが食い込んできて、車からの脱出は難しい。焼け死ぬことを思えば、3000円の脱出ハンマーは安いものである。本来、車メーカが標準装備として付けるべき装備部品である。

 

引き上げられた死体には手がなかった - 久志能幾研究所通信

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小さな傷でも修理

 小さな傷をそのままにすると、車を大事に扱わなくなる。だからきちんと直すべきだ。破れ窓の理論である。

 

車両保険を止め

 安全運転を最優先して、その分のお金を貯めて、事故の備えた方がお得である。

 

対物対人保険は無制限

 保険を使うと、翌年から数年間、保険料が高くなり、結局、同じだけの金を払うことになる。それに気が付いて、小さな物損事故では保険を使わないことにした。

 

安い保険会社を使わない

 事故になった際の対応が違うので、価格は高いが大手の信用できる保険会社を使うべき。最近のビッグモーターの不祥事を見ると、それが正しいことが証明された。

 

最低2000㏄の車を選ぶ

 軽自動車は走る棺桶である。自分の身を守るため、最低でも2000㏄の車を選択すべきである。

 

燃費の良い車に乗ってはならない

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セダンを選ぶ

 事故を考えると、安全上でセダンがお勧め。ワンボックスカーが事故に遭うと、その被害状況が大きくなる。セダンはバンパが守ってくれる。

 

曲がらず真っすぐの道を選ぶ

 距離が短いからと曲がりくねった道を選ぶのは危険である。事故は変化した時(例えば曲がった時)に起こりやすい。私は曲がったことが嫌いです。

 

危険個所を通らない、定石を守る

 過去にヒヤッとして事故寸前までいった交差点や危険個所は、なるべく避ける道を選ぶ。

 事故を起きる場所には定石がある。過去に危険な状態の陥った場所を覚えて置き、なるべくその箇所を避ける道を選ぶ。

 

夜は運転しない

 夜は景色が一変して、闇に覆われる。白バイの警察官も夜は恐ろしいと言う。私が人身事故を起こしたのも、夕闇の時だった。それ以来、極力、夜は運転しない。

 

運転中は音楽を聴かない

 運転に集中すべきである。以前にレクサスLSを買って乗り回した時も、一度も(高額の)オーディオのスイッチを入れなった。もったいないと思われるが、運転中は周りの音を聞く事に集中すべきである。命がかかているのだ。

 もちろん、運転中の飲食は厳禁である。

 

パニックブレーキ訓練

 また咄嗟の事故に備えて、パニックブレーキを踏む訓練を1年に一度はしておく。いざという場合、パニックブレーキを踏むのは難しいもの。

 試験車運転資格の取得訓練でも、そのパニックブレーキを踏む訓練が設定されている。

 

改善提案 事故多発交差点の危険性を無くす

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助手席に人を乗せない

 助手席はアメリカではデッドシートと呼ばれている。事故の際、一番死亡率が高い席である。だから私がお客さんを自車に乗せる場合は、必ず後部座席である。

 奥さんに多額の保険金をかけて、乗せる場合はその限りではない?

 

2023-10-26  久志能幾研究所通信 2763号  小田泰仙

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巡礼 渡辺陽子人形展 魔女伝説  in Sagan

 

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 本来の魔女は、古代ゲルマン文明で、土着の宗教として畏敬をもって見られた存在である。それも国ごとに特色ある魔女たちである。例えば、アメリカの魔女は陽気である。日本で言えば、仏教伝来以前の神話の世界やナマハゲ、妖怪たちの世界である。

 古代は、人は目に見えないものに畏敬を抱いていた時代である。当時、魔女は人に危害を与えると考えた存在ではない。祈りの対象でさえある。

 西洋では、良い魔女と悪い魔女が存在する。白雪姫やシンデレラ物語で東条する悪い魔女は、古いキリスト教の影響を受けた文学上のお話しである。文学上の魔女と民衆が抱いていた魔女は同一ではない。

 本来の魔女は、「奥さまは魔女」のサマンサのようにかわいいのだ(と私は信じている)。それを人形として再現したのは、人形作家の渡辺陽子さんである。彼女は40年ほど前、シカゴを訪れた折に出会ったハロウィンで、アメリカ特有の陽気な魔女に魅了され、カルチャーショックといえる感動を受けたと言う。それで魔女を人形作りの技で再現するようになった。その技は人形作家の武藤華世先生(故人)に師事して得た。

 その作品の展示会が岐阜川原町Gallery Sagannで開催されている。魔女にあこがれを持つ私には見ごたえのある作品群である。現代人が思い描く可愛い魔女を、渡辺さんは人形として再現してくれた。

 渡辺さんは神出鬼没で、可愛い魔女のような雰囲気がある。私は彼女にインタビューしようと、何度も試みた。しかし、彼女は訪ねてきた知人と話が盛り上がり、いつも彼女は知人とほうきに乗って何処かに飛んで行ってしまう。魔女を捕まえるのは大変だった(笑)。

 

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魔女伝説

 本来の魔女伝説は、キリスト教が普及する紀元前からあり、古代ゲルマン民族の信仰の対象であったようだ。きっと祈祷で病気を治療したり、霊力ある巫女のような存在を魔女として崇めていたようだ。

 旧東ドイツのハルル地方には、今でも魔女伝説が残っており、魔女祭りも行われている。それは陽気なお祭りであり、中世の魔女裁判とは別世界である。観光シーズンには市の観光課の職員が魔女に扮して、観光客を歓待してくれる。居酒屋では現代の美人魔女が歌を歌い、市民を楽しませてくれる。市民が酒場で酒を飲んで、歌を聞き楽しんでいる。彼女は市民から愛される魔女である。

 ハルル地方の「魔女の集会場」と呼ばれた広場からは、生贄(動物)の血を貯める石の祭壇も出土している。そこは古代ゲルマン民族の大切な儀式の場であったようだ。ゲーテの『ファウスト』に出てくる「ワルプルギスの夜の火祭り」も古代のゲルマン民族の大切な儀式であったようだ。「ワルプルギスの夜の火祭り」は4月30日の日没から5月1日未明にかけての夜を指し、伝えられるところによれば、魔女たちがブロッケン山で大規模な祭りを催して、春の到来を待つという。

 ヒトラーが、そういう言い伝えを信じていたのか不明だが、ヒトラーとその側近は、この祭りの期間中に自殺した。そしてドイツが連合軍に降伏し、欧州に春が来た。

 

中世の魔女伝説

 中世の魔女観は、キリスト教が古代ゲルマン民族の信仰を異端視して、魔女を悪魔の一族として作り上げた虚像である。

 当時のキリスト教世界では、魔女は「悪魔と契約を結んで得た力をもって災いをなす存在」という概念が作られた。15世紀から16世紀の近世ヨーロッパ社会において識字層を中心にこの魔女観が広まって行った。

 その結果、魔女裁判が盛んに行われ、約11万人が裁判かけられ、4万から7万人が処刑されたと推定される。

 15~16世紀に行われた魔女狩りは、キリスト教会の宗教での締め付けと、金稼ぎの術でもあった。無実の女性が火あぶりにされ、その家の財産は教会に没収された。それの恐怖施策で、教会は権力を確固にして、更に暴利を得て堕落して行った。西洋の特権階級は宗教で農奴を縛り、奴隷として、年貢を貢がせ、さらに魔女狩りで無実の人を処刑して巨万の富を得た。

 当時のキリスト教の教義では、異教徒は人間ではないとの考えである。相手が人間ではないので、どんなことをしても構わない。遠征した十字軍も非道の限りを現地で繰り返している。「異教徒は人間ではない」と、ローマ法王からお墨付きをもらっているので、残虐行為のやりたい放題である。それが十字軍遠征の闇の話である。

 その思想の延長線上に、白人の有色人種への人種差別がある。そうでないとあんな残酷なことはできまい。彼らは神から免罪符を得て、残虐の限りをした。そのツケを、現在、欧州は移民問題の騒動で払わされている。

 

現代の魔女狩り

 これが一神教を信じ、独裁政治を信じている人達の末路だ。同じことが、現代でもC国内で行われている。火あぶりどころか生きたまま臓器を摘出して、それで金儲けをしている国があることだ。火あぶりよりも怖しい。それをS学会の御用聞きのK党は、そのC国を援護してウイグル族からの臓器摘出の非難決議を妨害した。そんなK党を支持する人の気が知れない。党員は洗脳されているからだろう。そんな党と連立を組む自民党には愛想が尽きた。

 

2023-10-25  久志能幾研究所通信 2762号  小田泰仙

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