2020年11月18日 (水)

一生涯を貫く仕事は無限の時間を与えてくれる  磨墨知41

 

 仕事のないほど辛いものはない。仕事は社会とのつながりであり、社会への貢献である。奪うよりも、与えるほうが喜びは大きい。仕事とは人生そのものである。

 馬場恵峰師は12代続く窯元を43歳で廃業し、それから書家として50年間、仕事を続けておられる。94歳の現在も現役である。

 

長生き

 長命の師を持つことは、時間の大事さを実感する。長生きこそ,天才でない凡人がやれる最大の時間創造である。そのために健康管理である。健康管理こそ、時間創造である。私はオダ仏教教経典「健康読本」の作成の為、データ集めに余念がない。

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  馬場恵峰書

 

2020-11-18 久志能幾研究所通信 1828  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月17日 (火)

老いの器

 

 老いとは、仏様ご先祖様から歳を頂くこと。還暦という歳を頂けずに、鬼門に入る人も数多い。老いとは、経験を積むことを意味する。その経験という智慧を己の器に入れるのである。痛い思いをして得た経験を智慧のレベルに昇華しないと、同じ過ちを死ぬまで繰り返す。それは歳の取りがいのない醜態である。

 

 老いとは、練れる道を歩くこと。流行に惑わされない思想を深めること。中国・ローマの歴史を紐解くと、2000年前の先人と現代人の行動に差などはない。人は人間的に少しも進歩していない現実に愕然とする。人は生まれれば、オールリセットされる。それ故、ゼロから学んで自己鍛錬をして成長するしかない。その学びを放棄して、年よりがいのない人が多い。TVや流行に流され、練れない日々を送り、認知症への道に迷い込む人が多い。

 

 老いの智慧とは、敏鈍の使い分けができること。我儘も言え、都合が悪くなったら惚けの振りをすること。息子が「グレてやる」とほざいたら、「それなら俺は惚けてやる」と逆に脅す智慧を身につけること。これは青二才では言えない台詞。

 

 正しい老いとは、考え方が充実していく過程である。自己の人生を振り返り、これでいいのかと自他に刃を向けて問う生き方である。それが「心」「刃」を向ける「忍」という文字である。そこから「認」という文字ができた。己の愚かさをしみじみと認められる歳になるのが老いである。

 現代社会は、人にばかり刃を向けて、己には刃を向けない人があまりに多すぎる。年よりがいがない。それを「年寄り害」という。今の野党がそれに値する。

 

 醜態な老いとは、自分に刃を向けず、非難ばかりの言動をすること。理想論で実際に政治を動かしたら、選挙公約が青二才の言動であったことが露呈したのは民主党政権であった。自民党を非難すると、すぐブラーメンで自分の身に降りかかるばかりである。

 反対ばかりで、日本を貶めることしかしなかった社会党は、行き詰まって、名前を社民党に変えたが、結局先の総会で、議員一人となって消滅した。おたかさんは北朝鮮の拉致問題を知っていても、知らんふりをした。その罰があったたのだ。

自衛隊反対と言っていた富市氏は、首相になったら、方針を豹変させた。

 

 けじめの老いとは、引き際を知ることである。人望もなく、行政手腕もなく、ただ市長の座に居座るだけの大垣市長では、大垣が没落して当然である。今だかって老いなかった人はいない。生老病死を悟り、後進に託して身を引いてこそ、美学である。大垣を没落させた小川敏は醜態である。

 

 老いとは、若き人を叱る人徳の力の獲得である。己が若造で同じ言葉で、若い人を叱っても反感を持たれるだけ。しかしそれ相応の歳を頂くと、若い人を叱っても反感を買われることが少なくなったことを実感する。若き人を叱るのは年長者の務めである。それは己の経験を若い人に伝えること。

 

 人は必ず老いる。老いて人生を振り返ったとき、素晴らしい人生ではなかったが、素晴らしく楽しむ活き方であったと思えるようにしたい。

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2020-11-17 久志能幾研究所通信 1827  小田泰仙

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2020年11月16日 (月)

「浦島太郎物語」とは我が人生物語

 

 浦島太郎が龍宮城で、乙姫様から酒池肉林の接待を受け、楽しく時間を過ごすと、時間が無為に超特急で過ぎていった。童話では、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」と書かれるのは子供の教育上で、ぼかした表現である。実際の大人な世界では、酒池肉林、キャバレー遊びの事で、人生の欲望に満ちた遊びの世界のことである。

 人によっては、家族団らんで過ごした何気ない日々の生活が、最期の時を迎える時、それが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々であったとなるのだ。平穏無事な生活とは贅沢極まりない幸せなのだ。ある時、親が倒れて、その団らんのひと時が、地獄の日々に暗転する。実際はその平穏無事な日々が極楽であったと後になってから回顧するのだ。毎日の贅沢三昧の食事に飽きて、お茶漬けが御馳走と感じる時が、贅沢な日々の暮らしが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」であったと悟ると同じである。

 

大垣市長の立場なら

 己が大垣市長の立場なら、部下や出入りの業者が自分の「市長という名の権力」に平伏し、おべっかいを使い、自尊心をコチョコチョとくすぐるので、己はルンルン気分で過ごす。それが、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々なのだ。自分が市長でなければ、人気もないし、人望もないので人が寄り付かない。だから乞食と市長は3日やれば辞められえない。

 その19年間に時間は無為に過ぎた。浦島太郎物語のように、20年目で目が覚めて玉手箱を開ければ、故郷の大垣には死に絶えた大垣駅前商店街が立ち並んでいる。大垣駅前の亀の池には、死んだカメがミイラのように並んでいる。そのカメ(華名)が、自分を龍宮城の大垣市長の座に運んでくれた。市民の多くは東大出というカメ(華名)に騙されて投票した。それは名ばかりの死んだカメであった。過去の知識の記憶力だけで生きてきたカメであった。知識だけでは現代経済には通用しない。現代の激変する社会で、都市の経営には知恵が必要だ。今の市長には経営能力がない。恨めしや夢の大垣物語である。

 母の教えの玄関に造花のように死んだもの(生なきもの)を飾ると、その家は衰退する」を私は信じている。造花には精気が感じられないのだ。造花から陰気を受ける。造花を見て家の主が元気になるわけがない。だから私は自宅玄関に造花を絶対に置かない。

 大垣市は、その生なき置物を大垣駅前のカメの池に陳列している。縁起でもない。恥さらし、不気味である。置物のカメを置いた理由は、「生きた亀は、その管理に金がかかる」という大垣市役所の言いぐさである。それは市の職員が吝嗇な市長の事を考えて忖度した結果である。だから大垣は没落した。

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  大垣駅前のカメの池の置物   2019年1月18日撮影

終着駅近くで

 ふと気が付いて玉手箱を開ければ(定年後や親が死んだ後、ふと人生を振り返ると)、老いた醜い自分が鏡に写る。目はかすみ、髪の毛は薄く、シミが増え、頭は回らず、呂律も回らない老いた自分を発見するのだ。己の歳を考えると、平均寿命まで、いくばくもない。親の死という最後の教えが「あんたも何時か死ぬのだよ。命と時間を大事にしなされ」であった。

 人生の最盛期を酒池肉林に埋没した人生で、何が残ったのか。親はとうの昔に死に、妻が去り、家はローンが破綻して競売にかけられ、子供が己を避け、仲間も多くが死に、竹馬の友も死んだ。回りの人たちは自分から遠ざかっていく。それが浦島太郎の物語の教えである。他人ごとの物語ではない。浦島太郎の物語は子供用ではなく、人生をさ迷う愚かな大人を諭す寓話なのだ。

 

桃太郎の鬼退治物語

 桃太郎の鬼が島の鬼退治物語は、人生の上り坂で活動する昼の物語である。鬼とは自分の劣等感、僻み、マイナス思考、煩悩である。己の内に潜むもう一人の己(鬼)を退治すれば、人生が開けるとの教えである。

 

昼と夜の物語、プラスマイナスゼロ

 浦島太郎物語は、人生の夜の物語である。自然界では、プラスがあればマイナスがある。人生でも、どこかで落とし前を付けないと、物理学上で、計算が成り立たない。宇宙根源の理である。だからこの二つの物語は、多くの教訓が示唆されている。俗世間を知らない子供には理解不能な寓話である。

 

玉手箱を開けて

 浦島太郎の役を演じて、玉手箱を開けてしまったら、人生の終焉である。私はその玉手箱をうっかり開けてしまって、あわてて閉めた。しかし玉手箱から出た煙の直撃を受けて(?)癌になってしまった。しかし冷静にその煙の成分を調べて(真因を調査して)、生活習慣、心を入れ替えて、なんとか今を生きさせてもらっている。神仏に感謝です。

 

2020-11-16 久志能幾研究所通信 1826  小田泰仙

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2020年11月15日 (日)

人生はグー・チョキ・パーの勝負

     

 人間様が仏様とじゃんけんをして勝てるわけがない。

 仏様はすべてお見通し。人の最期はパーである。

 人は裸で生まれて、裸で死んでいく。赤子は生まれるとき、手を握り締めて生まれてくる。その手の中に「ご先祖の霊」を掴んでいる。だから人を「霊止(ひと)」とも書く。人はご先祖の生まれ変わりである。

 人生の盛衰期は、世間と戦いチョキで切りまくり、手当たり次第に、強欲に集める。人が死ぬときは、弛緩状態になり手を開いて何も持たず、あの世に旅たつ。どれだけ莫大な財宝を現世で集めても、死ぬときは裸である。すべてパーである。あの世に持っていけない。人は生前に集めて握りしめたものではなく、人にパーッと与えたもので評価される。

 

人生工場の鍛錬ライン

 次図は、人生工場の行程を絵にした。人生では様々な工程を経て魂が浄化していく。時にはチョ停(怪我)、ドカ停(大病)、落とし穴にはまり(詐欺にあう)、生産中止(解雇)、工場閉鎖(死)がある。魂の品質検査をしてくれるのが師である。

 

人生工場の生産ライン トヨタ生産方式

 遇うべきご縁は、早からず、遅からず、「ジャスト・イン・タイム」で訪れる。人生で無駄なものはない。嫌なことも、自分を成長させるために試練なのだ。神仏の絶妙な差配には、人智の及ばない世界がある。人生工場のトヨタ生産方式は、在庫を持たない生産方式のため、ご縁はその時かぎり、ご縁の女神に後ろ髪はない。後からでは掴めない。

 

コスプレ人生

 良きご縁は、時として貧乏神のコスプレで来るときもある。第三の眼が開いて、ご縁を熟視しないと大事なご縁を見落としてしまう。

 人と動物と生き方が違うのは、人は気づいたら、人生の道を変えることができる。間違った道だと気が付いても、そのまま惰性で生きれば、犬猫と変わらない。己の使命を自覚して、精進して人格を高めよう。

 

人生の夜汽車

 人生工場の生産ラインでは、一時停止ボタンはあるが後戻りボタンはない。後戻りはできないが、やり直し、出直しはできる。

 何もしなくても、寝ていても、夜汽車のように、どんどんと終着駅(死)に運ばれていく。何もしないでいると、夢の超特急で終着駅に向かう。昔は三途の河を舟で渡ったが、今は怠惰な輩のために、三途の河上を走行する新幹線が用意されているとか(?)。

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Dsc098501s  「寝ていても 運ばれてゆく 夜汽車かな」 俊董

 本書は叔母の師である青山俊董堂長の著書『もう一人の私への旅』に揮毫したもの。

 私の叔母は京都の尼寺の住職であった。

2020-11-15 久志能幾研究所通信 1825  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月14日 (土)

西濃の小京都・大垣  栄光とその没落、夜明け

大垣の夜明け

 看板を見れば、その都市が分かる。市長の心が分かる。神は細部に現れる。大垣市民は市長の交代を熱望している。次回の市長選挙では、西濃運輸と市商連、その他からの立候補が予定されている。やっと大垣の夜が明ける。

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大垣の夜明けを待つ大垣市民

 その昔、大垣は西濃の小京都と呼ばれて栄えていた。明治時代には、大垣城近くに料亭「吉岡楼」があり、京都から三味線のお師匠さんが出稽古で来られて、大垣の弟子に教えていたという。当時は大垣に芸の花が咲いていた。私の母は、その後継の料亭「新吉」の女将さんと親交があり、その話をよく聞いた。母が倒れてからも、新吉の女将さんは大垣市民病院に頻繁にお見舞いに来てくれた。

 

乱暴医

 江馬蘭斎は延享4年(1747年)大垣藩鷲見荘蔵の家に生まれ、のちに大垣藩藩医江馬元澄の養子となる。漢方医学を究め、医学に並々ならぬ自信を持ちはじめたが、杉田玄白前野良沢の『解体新書』を読み大きな衝撃をうけて蘭学を志す。寛政4年(1792年)江戸に出て杉田玄白、前野良沢に弟子入りする事を決めた。46歳からの挑戦であった。

 当時、人生50年と言われた時代、かつ殿様の医師として地位を極めていたのに、46歳から新たな分野へに挑戦である。見習いたい心掛けだ。人生60、70ははなたれ小僧である。馬場恵峰師は現在94歳で日々新たな挑戦をされている。その師から見て親子ほども若い私は、おちおち遊んでなんかいられない。日々精進、「乱暴」と思える挑戦に取り組んでいる。

 

江馬蘭齋の挫折

 江馬蘭齋は、3年の後、自身の蘭学のレベルが師に並ぶとの自信を得ると帰郷し、大垣に私塾好蘭堂を開いた。しかし当時は蘭学に強い偏見のある時代であったため敬遠され、人は集まらずに生活は窮乏することになる。

 

人生の激変

 多くの民は、江馬蘭齋である蘭方医は乱暴医だとして、敬遠していたが、寛政10年(1798年)、京都西本願寺門主文如の病を治してから評判が激変した。西本願寺門主文如が病に倒れた時、漢方医学ではもはや手の施しようがないという時に、蘭方医学の助けを得ようと蘭齋に声がかかり、蘭齋が薬を処方した。するとたちまち薬効が出て、文如上人は命を取り留め、歩けるまでに快復した。この事はすぐに世間に知れ渡り、患者や弟子志望者が蘭齋の元に殺到した。その賑わいに旅籠まで建つほどであった。以後この私塾から300を越す門弟が巣立ち、蘭齋は美濃蘭学の祖と称された。蘭齋は、享年92の最期まで現役で後進の指導にあたった。

 

京都より先に西洋医学

 江戸時代は、大垣は交通の要所であり、西洋医学を学んで帰郷した蘭賽は日本中でも西洋医番付前頭4枚目に位置するほど著名になった。だからその江馬蘭賽を訪ねてくる偉人が多くいた。頼山陽もその一人であった。頼山陽は江馬蘭齋の娘・江馬細香と恋に落ちる。

 その江馬蘭齋が西洋医学を西濃地区に広めた。大垣での西洋医学の広がりは、京都よりも早かった。

 

蘭齋の倹約ぶり

 蘭齋は堅実な倹約家で硯の水も雨水を受けて使っていた。水の豊富な大垣で何故そんな事をするのかと問われると、「こういう小さな事から倹約する気持ちを持たなければ、本当の倹約は出来ない」と答えたという。しかし師の前野良沢が困窮しているのを知ると愛読書を売って金に換え、師に送るなどただ倹約に走るだけではない一面もみせている。

 この項、wikipedia「江馬蘭齋」、『大垣市史』(大垣市)より編集、加筆

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小川敏の吝嗇ぶり

 それに対して、現市長の小川敏は、親譲りの吝嗇を発揮して、大垣市予算に反映している。しかし自分達への贅沢には金遣いが荒い。浮いたカネを自分達の給与に振り向けている。県下一豪華絢爛たる新市庁舎を建てて、悦に入っている。大垣市の児童生徒一人当たりの教育費を県下最低にして、その資源を自分達で使い放題である。後進の育成に尽力した江馬蘭齋と大違いである。大垣駅前商店街の活性化に全く効果がない「元気ハツラツ市行事」に1億円も散財して平気でいる。大垣市の経営にPDCAを回さないし、回す能力がない。小川敏に江馬蘭齋の爪の垢を煎じて飲ませたい。

  

大垣の挫折

 本来、大垣は京都やボストンと同じように、歴史的名所が数多くあるので観光名所の宣伝をすべきなのに、現市長の小川敏は、大垣の中心地に掲示してある市内観光看板のメンテさえカネをケチり、看板が錆びだらけ、ハゲハゲだらけで放置している。それは大垣の教育をも放棄したことを象徴している。小川敏は、未来への投資を怠り、大垣というブランドを棄損したのだ。結果として大垣が没落して当然である。

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 大垣市の中心地・新大橋にある観光看板(サビサビ、ハゲハゲ)

 2019年9月27日撮影(今も変わらない)

    歩道が立派なのは、岐阜県に管轄責任があるため。

 

京都御所を彦根城に移す?

 彦根藩の井伊直弼大老は、幕末の混乱を危惧して、非常事態の場合、天皇を彦根城にお連れして、仮の御所にするつもりで彦根城を整備した。だから彦根城の造りは半端ではない。

 現在、彦根市は彦根城をメインの観光として、観光に力を入れている。彦根城を世界遺産にしようという活動もしている。そのため、その市内の観光看板は立派である。大垣の観光看板と比較すると、大垣の看板は恥ずかしい。

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 彦根市の観光看板(立花町・商工会議所前)

 2020年10月5日撮影

 

 

2020-11-14 久志能幾研究所通信 1824  小田泰仙

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放浪記 ⒋2 ボストン旧跡探索

 

 このボストン市の観光案内には、米国独立ゆかりの史跡を歩いてたどるウォーキングルートがフリーダム・トレイルとして推奨されている。このルートを廻るとここの歴史的場所や記念碑の16か所を歩いて訪れることができる。

 多くのお上りさんや家族連れが、ラフなウォーキングスタイルで同じ方向にぶらぶらと歩いているので、安全でもあり私もお勧めしたい無料の観光方法です。このコースの歩道には、約20センチ幅で、案内地図と同じ赤いペンキがベターと延々と塗ってあるはいかにもアメリカ的合理主義? とはいえ下手な案内看板よりはるかに分かりやすい。また旧市街は赤いペンキの代わりに赤い煉瓦が歩道に埋め込んで多少気をつかっているのが分かるのだが、日本の京都なら環境破壊と文句が出そう。とても私の感性からはこんな発想が出で来ない。

 

踏破挑戦

 このコースを回るのは、観光ガイドブックに1日がかりを覚悟と記載されていた。私はボストン美術館に行っての帰りに、このコースに行くことを決めたので、17時半から2時間半の大忙しの行程となってしまった。そのため各史跡では閉館になっている場所も多々あった。しかし米国の京都のような古都としての雰囲気が各所に残っており、総じて良い思い出となった。次回は、各史跡を見学しながら、このコースを回りたいと思う。

 この緯度の高いボストンは、サマータイムの関係もあり夜9時まで明るいので助かる。この日の歩行数は35,000(約25km)を越えた。ああ疲れた・・。

初稿 1994年8月7日

 この項を再校正しながら、かつて西濃の小京都と呼ばれた大垣を思い出してしまった。それは次原稿で記す。

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 図⒋5 コースの赤い目印 

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 図⒋4 古い錨と帆船 

00050031s  図⒋6 バンカー・ヒル・モニュメント 

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 図⒋7 フリーダム・トレイル(市の観光案内より)

 

2020-11-13 久志能幾研究所通信 1823  小田泰仙

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2020年11月12日 (木)

河村義子先生の本気と覚悟

 

 私は2019年2月に、癌の手術をして余命宣告を受けた。それから生きる姿勢が少し変わった。

 2018年12月に亡くなられた河村義子先生は、死の5年前にその余命を悟られたようだ。義子先生は、死を明らかにして、諦めて本気で人生最後の5年間を生きた。私はその最後の5年間にご縁があったことに、感謝である。義子先生から、人生のフィナーレの生き方を学んだ。

 

死の示唆

 私が先生にピアノレッスンで師事して暫らくして、先生はドイツへ1か月間の演奏旅行に出かけられた。ドイツから帰国されて言われた言葉が、「人生でやりたいことはやり切ったので、いつ死んでもいい」である。私は何と大げさな、と思ったものだ。

 義子先生は、1か月間も音信不通で(先生は、LINEかFacebookをやって連絡をしていたようだが、私はやらないので情報がなかった)、私はやきもきしていた。帰国日時も分からない状態であった。後日、シュッツガトゾリスデンとの演奏風景や、皆と城の見学時の楽しそうな写真を見て、それを納得した。

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13131104_828857910553235_3649426451  シュッツガトゾリスデンのHPより

 いつものレッスン中の会話で、河村義子先生は演奏会パンフレットに載せる写真にもさりげなく言及して、「この写真は気に入っているので、お葬式にも使うの」というので呆れた思い出がある。その写真は名古屋の写真館で撮ったようだ。当時から覚悟をして、葬儀用の写真を準備されていたようだ。実際にその写真が遺影となった。当時の私は、そこまで気が回らない。

 先生の葬儀後、私は胸騒ぎがして検診を受けたら、癌が見つかり、ステージがかなり進んでいたこともあり、終活の準備を始めた。手術前に、葬儀用の写真を写真館で撮って準備をして、それを仏壇の前の置いておいて、愛知県がんセンターに入院した。それも私の病室は、河村義子先生が入院した病室と、東棟と西棟と病棟は違うが同じフロアーがつながる9階である。これも河村先生の見えざる教えであろう。

 

つなげたい

 音楽活動で奔走する先生に「なぜそんなに頑張るの?」と聞くと、「つなげたいから」がその答えであった。河村先生は頑張られたが、その逝去後、それを受け継ぐ弟子達に、河村義子先生の本気を受け継ぐ人は、見当たらないようだ。河村先生が生み育てた「カスミの会」が衰退していくのを目の当たりにするのは悲しい。

 

今、すなわち臨終

 人の明日は分からない。今日元気であっても、明日地震で死ぬかもしれない。東日本大震災、阪神淡路大震災のように。明日、テロに遭遇するかも知れない。ニューヨーク貿易センタービルの同時多発テロのように。いつ何時、レバノン大爆発の巻き添えにあうかもしれない。いつ何時、ガンで余命宣告をされるかもしれぬ。癌ならまだ時間余裕があり幸せである。心筋梗塞、脳梗塞、交通事故に遭えば、即死状態である。その数は年間20万人余である。

 

 「今、すなわち臨終」との一遍上人の言葉が、心に重くのしかかる。今を必死に生きない人に明日は無い。それは生きているのではなく、生き長らえていることで、ただ息をしているだけの人生ではないのか。

 

本気

 私の好きな詩に「本気」がある。本気で物事に取り組んでいれば、道半ばで斃れても、本望である。それは名誉の戦死である。本気でないから、死に臨んで悔いが出る。

 

 本気ですれば大抵のことはできる。

 本気でしていると何事も面白い。

 本気でやっていると誰かが助けてくれる。

 人を幸福にするために、本気で働いている者は、みな幸せである。

                       作者不明

 

 

死に方の選択

 死とは、人生の中で最初で最後の最大のプロジェクトである。自分の死を悔いのないプロジェクトとして完成させたい。

 私は、自分の臨終を考えて、理想の死にかたを追求している。それが美味しいモノに誘惑されて飽食し、病気になり、心筋梗塞やガンで死ぬことは避けたい。美味しいモノには毒がある。その毒物がこれほど溢れている時代は人類史上、初めてである。毒と分かっていても、つい手を出してしまう。その誘惑を排除して、心と体の健やかさ(健康)を保って、天寿を全うしたい。

 病気や不慮の事故等で死ぬのは、危機管理がされてないのだ。天命・天寿を全うするため、死というプロジェクトに本気で取り組みたい。それこそ本当の終活である。財産や品物の整理や身辺整理は、些細なこと。そんなことは、後の人がやってくれる。後は野となれ山となれでよい。

 それより何のために生きて、何のためなら死ねるのかを、明らかにすれば死は諦められる。諦めるとは、死を明らかにすること。

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 馬場恵峰書

 

2020-11-12 久志能幾研究所通信 1822  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月11日 (水)

付加価値を入れる器

 

 人は裸で生まれて、裸で死んでいく。その間に、どれだけの知識、経験、喜び恨みを得て、己の付加価値を上げ、社会にご恩返しをして、あの世に旅立つかである。

 赤子は生まれるとき、手を握り締めて生まれてくる。その手の中に「ご先祖の霊」を掴んでいる。だから人を「霊止(ひと)」とも書く。人はご先祖の生まれ変わりである。

 人が死ぬときは、弛緩状態になり手を開いて何も持たず旅たつ。どれだけ莫大な財宝を現世で集めても、死ぬときは裸である。すべてパーである。人は生前に集めたものではなく、人に与えたもので評価される。

 

サーブリック分析

 ギルブレスが考案した分析手法にサーブリック分析がある。これはあらゆる作業に共通する基本動作を、18種類の動作に分解して分析をする手法である。

 そのうち「加工」「組み合わせる」「使う」「分解する」は価値を生む動作であるが、「運ぶ」「掴む」は価値を生まない動作に分類されている。だからいくら金を集めて掴んでも、何も価値を生まない。お金は使わないと価値を生まない。

 

人という名の器

 人は小さな器を持って、必ず訪れる死に向かって人生を歩く。人の成長に合わせてその器は大きくも小さくもなる。人生とは料理の鍋を煮るが如しである。その器に知識・経験・愛情憎悪という調味料を入れて、事故や災害、病気に遇いながらも、鍋に入った料理がこぼれないようにして器を持って歩く人生舞台である。その材料にどういう味(付加価値)をつけるかが、人生で問われる。鍋にいれた材料のままで料理が完成したら、手抜きで、味気ない人生だ。そこにどんな己の付加価値を付けて、未完の料理を最高に仕上げるかである。

 

認知症への道

 その人生調理の工程での大きな問題は、その器の底に小さな穴が開いていること。歳をとるほどに、その穴が少しずつ大きくなっていく。若いときは気がつかないが、歳をとると、その穴から料理をした記憶や知識が大量に流出していることに気づき愕然とする。それ故、穴が大きくなるのを防ぐ努力をしないと、いつの間にか器が空になる。

 老いても、その器への料理投入を怠ってはならない。生涯現役で、料理材料を投入し続けねばならぬ。それをしないと認知症になる。全て自己責任であり、自然の摂理である。

 

料理後に残るもの

 死ぬときには、器としての肉体自体が消滅するので、器の中身は何も残らない。しかし器の下から加熱(仕事、修行、功績)して昇華したものだけが世の空気の中に残る。それがその人の航跡である。加熱の足りない人の航跡は、何も残らない。

 人は二度、死ぬ。本人の死が一度目、二度目はその人を覚えている人が死ぬときだ。その人の航跡とは、人の心に長く残る思い出であり、業績であり記録である。しかしどんなに大きな航跡でも時間ともに消えていく。それが2000年も継続して記憶されている先人は偉大である。

 

 今やっていること、金儲け、魚釣り、飲み会、女漁り、競馬、競輪、ギャンブル、グルメ探求、旅行、権力の座へのしがみ付き、等に没頭して人生で何が残るか、自省しよう。残したもので、子孫から呆れられるのは、恥である。

 

 人生で残るのは書いたものだけ、やって来たこと(価値あるものを創った)だけ。人に伝えたことだけ、与えたものだけ。

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2020-11-11 久志能幾研究所通信 1821  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月10日 (火)

「死にたい」悟段活用

死にたい、死に体、死に戴、死に諦、師にタイ

 

死にたい

 悲しい時は悲しむがよい。思いっ切り悲しむのがよい。悲しみという苦痛が自分を育ててくれる。ルンルン気分だけで過ごした人間より、はるかに深みのある人間に育ててくれる。

 挑戦をしない人間は、死にたいという境遇にはならない。大きな挑戦をするから、失敗、挫折をして死にたい気持ちになるのだ。しかしその挫折は、飛躍のために、思考を深め、下に根を伸ばしてエネルギーを蓄積の時なのだ。

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    馬場恵峰書

死に体

 人生に悩みもなく、ボケーと暮らせば、生きていても「死に体」である。息はしていても、生き永らえているだけだ。定年後、やることもなく、無為に過ごせば、死に体である。

 「起きたけど 寝るまで とくに用もなし」

 「あれソレで 一日過ごし 吾忘れ」

 それではそのまま認知症への道をまっしぐら。65歳以上の日本人は、15%が認知症。75歳以上だと25%が認知症。

039a33931s   馬場恵峰書

 

死に戴

 人生では、最期に神仏から死を戴くのだ。その死にざまで、生きざまが分かる。立派な死を戴くように、日々精進すべきなのだ。よく働いた一日が安らかな眠りを誘うように、よく働いた人生は、安らかな死を戴く。世の中に貢献もせず、中途半端な生き方をするから、野垂れ死にするのだ。

 

死に諦

 生あるものは、必ず生老病死苦である。死を諦め、死を明らかにしたとき、新しい人生が生まれる。

 「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なく、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃としてねごうべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり」修証義

 死を意識するから、人間なのだ。涅槃を意識するのだ。犬猫では死など考えない。死を意識するから、人生は限りある時間と悟り、命を燃やして生きるのだ。

 

師にタイ

 人間なら、志を立てたら、人生では師を持ち、その師を超えることを目標にすべきだ。師を超えられなくても、せめてタイの成績に持ち込みたい。

 「師にタイ」は「しにたい」活用の最高段である。師を超えるのが、師への最大の恩返しである。

 師を持たない人生とは、さ迷える孤舟の航海である。エンジンのなく、北極星も知らず、海を漂うだけの人生である。船が港を出て、湾内の周りを長い間漂っても、それで長い航海をしたと自慢はできない。単に歳を取って白髪が増えただけである。それは、長年会社と自宅を往復して、大過無くサラリーマン生活を送っただけの人生だ。

 だからこそ

「三年かけて師をさがせ。良き師に恵まれてこそ自己の人生に花は咲く」

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P18_039a01822s馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

2020-11-10 久志能幾研究所通信 1820  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

見学記 ハーバード大学付属美術館(FOG MUSEUN)

 

 ミシガン大学の美術館を見てさすがアメリカは遣ることが違うと感心していたが、ここの美術館を見て、さらにその驚きを驚愕に変更せざるを得なかった。

 ハーバード大学の敷地内にあるこのイタリア建築風の美術館は、日本の大きな美術館顔負けの内容と広さを持つ。またこの美術館は大学の芸術学部の建物でもあるので、ミージアムショップはおろか、図書館、教授室、研究室等も同居している。

 この美術館の圧巻である印象派の集めた部屋には、モネ、ピカソ、ゴッホ,ルノアール、マチス、セザンヌ、スラー等の絵画、彫刻が展示してあり壮観である。これと比べると、日本の大学はなんと貧乏なことか。経済大国と言いながらも、富の蓄積の差はこういった所で顕著に出るものだ。

 この美術品の多くは、この国のトップを形成するハーバード大学のOBによって寄付、産業界からの援助等で収集されたのであろう。その豊かな力を羨ましく思う。日本のエリートもこんな面にも力を注いでくれると、日本の面目が立つと思う。こう言った面の教養のないエリート集団は世界の恥である。またこの面での力を発揮できない内は、米国を追い抜いて名実共に世界一にはなれまい。

 歩き疲れた私は、この部屋の椅子で思わずうたた寝をしてしまった。イヤー贅沢。私は名画に出会うと眠たくなる。

 初稿 1994年8月7日

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ハーバード大学付属美術館

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500050020s  印象派の部屋

 

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 大学構内の白バイ

 

2020-11-10 久志能幾研究所通信 1819  小田泰仙

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