運命のからくり舞台で主役を演じる
「天之機緘不測」(菜根譚)
天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできまい。縁なき衆生と縁が出来たのも、それと縁が切れたのも、からくり舞台上の一コマである。それは天が与えた運命で、人は如何ともできない。人は天が書いたシナリオ通りに演ずるしかない。
人は人生劇場で縁技をしている。その縁は、人の小手先でいかようにもなる。だから縁「技」である。人生を大手を振って歩くには、そんな小手先の技などでは、左右されない確固たる信念を持つべき。
円なき囚人と縁が出来たのも(詐欺師はカネがない)、
首無き人と圓が出来たのも(詐欺師は借金で首が回らない)、
艶なき狂女と宴ができたのも(100人に一人はサイコパス)、
心なき人と炎が出来たのも(冷酷な狂人はゾンビ並み)、
統一狂会と宴が出来たのも(信徒獲得のノルマに支配される)、
太陽光パネル狂と炎じたのも(拝金至上主義に犯されている)、
郵便ポストが赤いのも、全て自分のせいである。
これらを縁起という。
赤い郵便ポスト理論
昔、自分が頑張って勉強して東大に入っていれば、官僚になれたはず。そして郵政次官になれば、郵便ポストの赤い色を変えられる。そうできなかったのは、自分の努力が足りなかったから。だから自分が悪いのだ。
縁起が全て
お釈迦様はこの世の全ては縁起に始ると仰せだ。その人の本質的存在性ではなく、縁起が全てである。その人がどんな良い本質を持っていても、育てる親が泥棒では、優秀な泥棒に育ってしまう。
どんな善良な人でも、ナチスの支配下のアウシュビッツ収容所で働かされれば、ユダヤ人をガス室の送る役目を平然と行う。その看守は、家に帰れば、善良な父親で、日曜日ごとに教会に行く敬虔なキリスト教徒である。縁起とい観点でいえば、その看守が選挙で、ナチス党に投票したことに起因する縁である。
そういう行動を集約して故事として伝わってきたのが「孟母三遷の教え」である。子供の教育には環境が大事として「孟母三遷の教え」ができた。氏より育ちである。それこそ縁起の基本である。
だからこそ縁ある人との縁を大切にして、日々大切にして、生き活かされる人生を大切に正しく生きよう。
現実社会の鏡
人間の持つ多様性の能力が限度を超え、人生・生命観の実相、人間と動物を分ける生命の実相が、時代の喧騒の中で忘れられようとしている。
世には拝金至上主義が蔓延し、日本古来のお天道様の思想が無くなり、正しい縁の付き合いが絶えようとしている。
ゾンビの徘徊
現代人は、テレビ・スマホに代表される虚構上に舞う華やかな虚像に惑わされて、人間として大切なことを忘れている。縁なき衆生が詐欺の金儲けに狂騒している現代である。縁なき精神的幽霊がゾンビのように徘徊している。
だからこそ狂った時代の風潮に惑わされず、縁なき衆生の妨害に負けず、人間としての歩みを、一歩一歩しっかりと踏みるべきだ。
2024-08-15 久志能幾研究所通信 2906号 小田泰仙
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