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2021年6月

2021年6月30日 (水)

自分の命の値段(改)

 

 ある日、隣国を旅行中に突然逮捕され、身に覚えのないスパイ罪で起訴され、死刑を宣告されたとする。死刑は免れないが、金を出せば1カ月間の時間余裕を与えると言われた時、自分は1カ月間の余命に、いくらの金を出すのか。かの国では多くの日本人が冤罪のスパイ容疑で拘束されている。

 自分が重い心臓病になり、臓器移植すれば命が延命できるという。隣国に行けば、オーダメイドで自分に最適のドナーが3日で見つかるという。活きのよい心臓の相場は1億円から2億円だという。闇市場では腎臓一つが場合によって、約540万円で売買されているという。生きた体から手術直前に摘出するので、新鮮である。それで現在、(日本の国会以外の)G7の諸国がナチス以上のおぞましい虐殺行為だとして人権非難決議を議会で出している。しかし日本では、媚中派幹事長の二階がその決議を妨害している。

 かの国は死刑囚から臓器を摘出しているというが、死刑囚の数は年間6千人で、臓器移植の例は年間3万3千件以上である。計算が合わない。かの国は世界第二位の臓器移植数である。

 

余命宣告

 延命時間にかける己が出す意思の金額が自分の時間価値となる。己の健康管理の怠慢で病に冒され、余命半年と宣告されてから「金はいくらでも出すから助けてくれ」と医者に泣きつく御仁が娑婆には多くいる。無法国家に拉致されるのと状況は変わらない。医者は治療をするが、病気は治せない。しかし、死期の予想は正確に当てる。私も父の病気の時に医者から余命1年と聞かされ、それが余りにも正確だったので驚いた覚えがある。

 私もがんの手術をして、医師から5年後の生存率51%を告げられた。5年経ったら半分の人は死ぬ確率である。実質余命2.5年である。だからこそ、命(時間)の大事さが身に染みる。

 東日本大震災のように、突然津波に呑まれて命を落とされた方に比べれば、余命2.5年があるだけ、どれだけ幸せなことか。亡くなられた方々の無念がしのばれる。

 

 余命の時間価値=(支払う意思のある金額)÷(残り時間)

   =一億円÷(8H×365日×60分)=570円/分

 一年延命で、一億円なら一分570円。意外と安い?

 

人の価値はその死に様に現れる

 「魂(オニ)」の納佛された日(2014年7月16日)から1週間も経過しない日(7月22日)、韓国フェリー事故の船会社のオーナーが変死体で発見されたと言うニュースが入ってきた。6月には、100億円出すから中国に密出国させて欲しいと闇ブローカに交渉中とのニュースが流れていた。その最期はこの夏のなか、冬の高級コートを着て、周りに酒の空き瓶を置いての畑の中でさびしい服毒死か病死である。贅沢な生活に身を置いたが故、病身で余命は長くなかったようだ。それでも100億円の金を出して生き延びようとする。このオーナーは数百億円とも言われる財産を築きながらも、この有様である。フェリー事故で犠牲となった高校生達がかわいそうである。このオーナーは信徒9万人の新興宗教「救援派」(オカルト宗教と言われる)の教祖とも言われるのが、新興宗教では人が救えないことを教祖自身が証明したといえる。人の偉さ(醜さ)はその死に様に現れる。

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 松本明慶大仏師作 魂(おに)

 

最期の後悔

 余命1ヶ月の時になって後悔することが、その昔に付加価値を生まない悪縁との付き合いで、貴重な時間を無駄遣いしたことであろう。そのために、やりたいこと、やるべきことが一つできずに、先送りになったという後悔である。やれる歳になると、体がいうことをきかなくなる。そんな後悔を避けるために、悪縁の元を絶つことは、人生の価値を上げはできないが、下げる危惧を無くしてくれる。

 またその後悔を少なくするために、やりたいことはやれるうちにやっておくことだ。そのうちやりたくても出来ない体になる。老化と死は必然である。

 

 ご先祖から頂いた命は、能力を最大限に使って人生を全うしたい。安岡正篤師は、「人は学ばなくなったら、人間ではなくなる」とまで言う。吉田松陰は、「一日でも生きている限り、どんな状況においても学問か仕事に励むのだ」という。学ばないから、仕事をしないから、頭を使わないから、世の中に貢献しないから、認知症になる。「使わない器官は退化する」という自然界の摂理がそこにある。社会に貢献をしない人は、社会のお荷物である。仕事をすれば、多少なりとも税金を納め、社会に貢献することになる。脳トレをすれば認知症が防げるのではない。それは遊びと同じで、長くやると苦痛になり続かない。それは社会にとって時間とお金の無駄使いである。

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 馬場恵峰書

 

          命の器で創る夢の道  p75

2021-06-28  久志能幾研究所 2073  小田泰仙

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2021年6月29日 (火)

ブラームス 老いのピアノ演奏

 

 2016年、私が戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを調査する過程で、ビデオ「ブラームスのロウ管」(北海道放送)が、私のピアノの師である河村義子先生から送られてきた。

 そのブラームスは戸田伯爵夫人の琴の演奏を聴きながら、六段の演奏をピアノ楽譜にした譜面に朱を入れた。戸田伯爵は、大垣藩最後の殿様である。明治になり、ウィーン公使としてウィーンに赴任した。

 そのビデオから分かったことは、天才のブラームスにでも、老いは襲ってくる冷酷な事実である。その時の対応の如何に人間性が露見する。

 

ブラームスの老い

 ブラームスは音楽の3Bと称せられる存在である(バッハ、ベートベン、ブラームス)。その大作曲家、ヨハネス・ブラームスが自作「ハンガリア舞曲第一番」とJ・シュトラウス「とんぼ」のピアノ演奏をロウ管シリンダーに録音したのは、エジソンの発明から約12年後の1889年12月2日である。

 この歴史的なロウ管は、ボーゼ博士によるSPレコード(1938年 TELEFUNKEN製 78rpm)は、録音・保存状態の悪く、最新のレーザー再生装置でもうまく再生できない。「ハンガリア舞曲」の旋律は、ピアノというよりアタック感の無いヴァイオリンの音に近く、「とんぼ」に関しては凄まじいトレース・ノイズで、最新の技術を使ってもほとんど聞き取れない。

 これはロウ管の保存状態の悪さと、録音時の条件の悪さに起因する。ロウ管に入ったヒビは第二次世界大戦の責任で、マイク・セッティングのミスはブラームス本人の思惑だった。

 ブラームスは、この録音セッションの為に自作「ラプソディ作品79-2」を用意したが、その練習中に自分の技量の衰えに気付き、後世に自分の老いの露見したピアノ演奏を残すこと躊躇を覚えたようだ。ブラームスは完ぺき主義者であった。

 親しい友人であるフェリンガー家でのセッション当日、神経質になっていたブラームスは、録音技術者に対して非協力的だった。突然「フェリンガー夫人がピアノを演奏します!」と自嘲気味に叫びながら、ブラームスは録音技術者のマイク・セッティングが終わらないうちにピアノを弾き始めた。フェリンガー氏は慌てて「ピアノ演奏はブラームス博士です!」(この部分から録音は開始)とアナウンスを録音に被せた。

 ブラームスは録音を嫌がっていた事は、その記録から明白だ。彼の代表曲「ラプソディ」でなく、ハンガリア民謡をベースに作曲(編曲?)した「ハンガリア舞曲第一番」を弾き飛ばした事や、その後にシュトラウスの「とんぼ」という超軽い曲を弾いた事から見ても明らかだ。

 ブラームスの人生は、この録音事件の頃から急速に陰り始める。もともと自分の才能に対して懐疑的だったブラームスは、書き溜めていた楽譜を河に捨てたり、演奏活動から遠ざかったり、ついには遺書の用意まで始める。

 そして1896年、最愛の人クララ・シューマンが急逝し、その埋葬に立ち会う為に40時間もの汽車旅をした事で体調を崩し、1897年にあの世へ召される。

 本稿は、「ブラームスのピアノ自作自演」© 2016 Hisao Natsume. All rights reserved. Designed by Sakuraphon.( http://www.78rpm.net/column/brahms-plays-brahms.html)を参考に加筆編集。

 

 

録音技術とのご縁

 老いてもまだまだ技量もある世界3Bの一人と称せられるブラームスである。老いは神の御心、それに従ってありのままを受け入れて、67歳のピアノ演奏を残し欲しかった。ブラームスの技量の絶頂期とエジソンの録音機の本格的普及の時期が少しずれてしまった。それもご縁である。

 自分にできることは、その時のご縁を大切にしたいである。私は馬場恵峰先生の書の撮影で、最新鋭最高級のカメラ機材を揃えて撮影した。今にしてよくやったと思う。

 

健康管理

 ブラームスは写真等から推察すると、かなりの肥満で、老化の進展が速かったと推定される。天才はその芸に没頭して、自分の体のことは後回しになるのかと残念に思う。天才モーツァルトも、35歳で連鎖球菌性咽頭炎から合併症で亡くなっている。天才だからこそ、宝石のような才能を支える健康を大事にして欲しかった。

Strauss_und_brahms ヨハンシュトラウスとブラームス  ウィキペディアより

 

 馬場恵峰先生は老いを隠さなかった。しかし自分の体の健康には大変気を使われた。だから94歳まで現役で活躍することが出来た。

 馬場恵峰先生に、「先生の90歳の時の書と70歳代の時の書の差は何ですか」と聞いたら、「70歳代の書には勢いがある。90歳の書には艶がある」である。人は老いても相応の作品が出来上がる。老いを隠す必要はない。

 

 ご縁があり、2017年4月、ウィーンを旅した。戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを発見された楽友協会のビーバー・オット博士と面会し、ブラームスの墓参りをした。

 良きご縁からはよきご縁が生まれる。今は、コロナ禍で、海外には行けない。良き時にウィーンに行けて、その報告を河村義子にできて良かったと思う。その時は河村義子先生も元気であった。

P1000934s1 ブラームス像の前でビーバー・オット博士とツーショット 2017年4月24日

 楽友協会にて

P1000812s  楽友協会 ウィーン   2017年4月24日

 P1000721s ウィーン市立墓地  2017年4月20日

P1000779s 音楽家たちの墓地エリア

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P1000849s ブラームスの墓地

P1000776s 音楽家たちの墓地エリア 左がモーツアルト、その左がベートベン、中央がヨハンシュトラウス、右手がブラームスのお墓である。

『佛が振るチェッカーフラグ』 p94

2021-06-29   久志能幾研究所通信 2074  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月28日 (月)

死生観 有りや無しや

 

 還暦を過ぎての交際は、死生観のある人と付き合いたい。「後は野となれ山となれ」が信条の人では、残り少ない老後(定年後)という時間内で、付き合う価値がない。老後は人生の総まとめの時間なのだ。死後の時間は、生きていた間より長いのだ。

 一説では、人は死後400年間から500年間で輪廻転生をするという。四天王や天女でさえ寿命は500年という。Wikipediaにもそう記載されているが、その根拠文献は不明である。

 仏教ではお陰様?で、地獄に落ちても刑期?500年で放免となるようだ。キリスト教では、地獄に落ちると永遠に地獄であるが、仏教ではその点で救いがある。そうしないと各界が満杯になってしまう?らしいから。かの関ヶ原合戦場跡でも長年亡霊が出ていたらしいが、400年経ったら、ぴたりと出なくなったと言う。

 

 人のうわさも75日である。死後の噂も750年である。だから空海さんや、道元さん、親鸞さんの生前の教えが今も続く。

 少なくとも子や孫が祖父の生前を思い出して、その教えを守るのも、その人が心の中で生きていると同じである。

 私の場合も、今年正月に亡くなられた馬場恵峰先生は、今も心の中で生きているし、毎日、先生の書を眺めてその教えを受けている。それは馬場恵峰先生の死生観が明確であったからだ。だからこそ生前の行動が明確で、生きた証を遺すことができた。

 

人生の定義

 「人生とは何であるか」の定義で生き方が決まる。人生とは何であるかの定義をして、人生の価値を測る物差しを決める。そこから人生は始まる。私は、下記で定義した。英英辞典の中から探して一番納得できた表現であった。

 「人生とは、生きている間に行動と経験を積ねながら歩く道である」

 The way you live your life, and what you do and experience during it.

 “Longman Exams Dictionary”

 

狭き門より入れ

 目の前に極楽の平坦な道があり、もう一方に苦難の起伏に富んだ道がある。一方に広き門があり、もう一方に狭き門がある。一方に食べ放題の道があり、他方に節食の道がある。ずる賢い人間は、動物を捕獲するのに極楽の餌を用意する。金に飢えた食品企業は、美味しい餌をぶら下げて意志の弱い人間を捕獲する。理性ある人間なら、餌に釣られて道を誤るのは避けたいもの。

 どちらの道を選ぶかでその人の人生が決まる。

 

死生観を持って

 「何のために生きるのかの問題意識を持っていない人は、死生観がなく死に向けた準備もない。死生観がない人は、日本人の9割を占め、信仰なしの人は7割弱も存在する。死への準備がある人は覚悟を持っており、その準備のある人の86%は延命治療を望まない。(『週刊ダイヤモンド 2016年8月6日号』)」

 人間として生まれたなら、死生観をもって生き、死に覚悟をもって臨みたい。我々は犬畜生ではないのだ。

 

人は自然の一部と解釈

 人は大地から生まれ、大地からの恵みで成長し、必ず生まれた大地に還る。大地も自然の一部で、四季折々の変化を見せる。それは自然が声なき経を読んでいる姿である。自分の生きる姿が自然の風景なのだ。人生にも春夏秋冬がある。自分もいつかは自然に還る身である。人生を大地と定義したら、それを耕し豊潤な大地にするにはどうするか、その豊かさを測るものは何かを決めてから始めるべきだ。その定義は百人百様で、自分の定義を定めればよい。それは解釈の問題でもある。人生という事実があるのではなく、その人がどのように人生を解釈して生きたかである。それによって死に方も異なる。

 

人生という大地を耕す

 人生は自身の広大な大地を耕す仕事に似ている。広大な大地を汗水たらして毎日、死ぬまで耕し続けるのが人生である。毎日毎日が同じことに繰り返しである。長年耕し続けても、大地の見た目は変わらず、耕した後を振り返って見ても、耕した面積は広大な大地のごく一部分でしかない。死ぬまでに耕せる面積は限られている。それでも耕し続けなければ、農夫(人間)ではなくなる。人生を行動と経験の道と定義すれば、多くの行動と経験が大地を豊かにしてくれることになる。

 人間が動物ではない証が、人生に価値を求めて生きることである。できることは限られていると、諦めたら負けだ。勝負では先に諦めたほうが負けなのだ。人生に諦めて、遠くの沖縄の海にドボンで終わらせてはならな。死ぬ方が楽なのだ。生きるのは辛いのだ。

 

人生とは仕事

 人生とは仕事であると定義すれば、それにあった人生が展開される。人生で一番多くの時間を費やすのは仕事である。それを「人生は苦行である」と定義すれば、行く先は苦行ばかりである。それは奴隷の人生である。その大地を小作人として年貢を納めるために耕せば、奴隷の人生である。地主として豊かな実りを夢見て耕せば、大地主の人生となる。定義の如何によって働き方、生き方が異なる。良く生きることは良き死生観ともなる。

 より広く開拓して耕すのか、より深く自分の地所を耕すのか。方法は千差万別ではあるが、耕し続けた人は幸せである。その大地が豊かになったかどうかは、植えた木が大きくなる20年後でしか分からない。分からなくても、ひたすら耕し続けるのが人生である。その実りを子孫が受けるのも人生の定めである。自分もご先祖の植えた木の恩恵を受けて育ってきたのだ。

 

西洋の労働観

 欧米の労働観では、労働は神がアダムとイブの過ちの罰として与えた苦役であるとされる。そのため欧米人は金が出来たらさっさと引退して悠々自適の生活を送る。労働を苦役とするから奴隷制度が生まれ、戦争して勝てば敗者を奴隷としてこき使うという思想が生まれる。それに対して、日本では労働を神聖なものとして考えるので、日本には奴隷文化は生まれなかった。世界でも稀有でありがたい思想である。それが現在は欧米の拝金主義で汚染されつつある。ホリエモンのように、金が全てという考えの人間が出現する有様である。それは金の奴隷になること。

 

会社の存在意味

 自分が何のために存在しているか、それを現すのが志であり、家族の一員なら家訓である。そこに生きるための指針が示されている。同じように企業は何のために存在するかを示すのが経営フィロソフィー、経営理念である。Toyota way、pasonic way といった道で示した例も多い。

己の会社が何のために存在するかを忘れたとき、企業は存亡の危機を迎える。会社の寿命は30年である。創業者が築いた企業基盤を、後継者がその会社の存在理由を忘れて、ゴルフ、酒の放蕩におぼれたとき、金儲け至上主義に陥った時、天は会社の存在理由がないとして倒産を宣告する。有名一流企業でも、後継の社長が利益追求や権力闘争に明け暮れ、創業者の会社理念を忘れて会社を没落させる例が頻発している。JAL、ソニー、東芝、松下、三菱、日産……..。

 企業は社会に貢献してそのお礼としての利益を国と従業員に配分する。赤字会社は、国が税金で用意したインフラをキセル行為で利用している。それでは使用済み核燃料と同じで、赤字企業は社会の利益に貢献しない使用済み企業である。さっさと潰れるのが社会の為である。存続は税金の無駄遣いである。

 

自分の存在意味

 世に役立ってこそ、自分の存在意義がある。企業の不祥事を他山の石として己の存在意義を考えたい。この世でお世話になるのなら、死ぬまで世の役に立つ仕事をして生きよう。

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2021-06-28  久志能幾研究所 2073  小田泰仙

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

ワクチン接種報道の何故?なぜ?

 

 ワクチン接種の目的は何か。なぜ、その目的にあうアウトプットを報道しないのか。ワクチン接種率の推移は報道しても、肝心の目的であるコロナ感染率の低下の結果がなぜリンクして報道されないのか。

 

 一つのグラフには一つの伝達目的がある。その伝達目的が分かれば、ワクチン接種の意図が露見する。

 本来、ワクチン接種の推移と感染率の推移グラフを公開すべきである。それが全く報道されない。そこには隠れた意図がある。欧米から見れば、日本は非常事態を解除してもよいレベルなのだ。

 ワクチン接種の推移グラフから読み取れるのは、ワクチン接種の目的がワクチンの販売拡大であると推定される。来年度も変種のコロナ菌のため、新たにワクチンを接種せねばならぬ。その結果、ワクチンの売上高が上がり、製薬会社はウハウハである。それで欧米の開発したワクチン接種を推進したお役人の地位も安泰である。

 

ファクターX

 しかしそれは対処療法である。なぜ日本の感染率が低いのか、なぜ欧米の感染率が高いのか、その真因(ファクターX)を見つけないと、対処療法のドタバタばかりとなる。高血圧症に降圧剤を処方すると同じである。西村秀一氏(国立病院機構仙台医療センター ウイルスセンター長)は、その著書『もうだまされない 新型コロナの大誤解』(幻冬舎)で、欧米の3密の生活習慣がファクターXだと断定される。日本のコロナ感染が少ないのではなく、欧米が異常に多いのだと。

 欧米の開発したワクチン接種を推進するのは、心血を注いでイベルメクチンを開発した大村智博士の功績を踏みにじるものだ。ノーベル賞を創ったノーベルも草葉の陰で嘆いているだろう。

 

マスコミ報道

 以下の図は、中日新聞 2021年6月19日掲載のワクチン接種人数と接種率のグラフである。新聞報道が間違っているわけではない。しかし報道すべきことを報道せず、故意に読者の欲しい情報を隠しているのだ。騙されてはいけない。

 

 戦前のドイツでは天才的な洗脳演説で、ヒトラーは国民をユダヤ人が悪の根源だと信じ込ませ、ユダヤ人を迫害し、第二次世界大戦に人類を巻き込んだ。

 

 戦前の日本では満州がバラ色の天国だとの報道が広まり、それが日本の生命線だとして、大挙して中国に進出していった。そして中国との泥沼の戦争となり、太平洋戦争につながった。その景気の良い新聞報道(洗脳報道)を日本人は信じたのが間違いであった。

 戦後の朝日新聞は北朝鮮が天国だと報道して、多くの日本人が騙されて北朝鮮に渡った。朝日新聞には虚偽のDNAがあるから慰安婦誤報事件を起こしたのだ。

 戦後の日本も、中国が大消費地を宣伝されて、多くの日本企業が中国に進出していった。日本のマスコミは中国の悪口は決して報道しなかった。今でもウイグル族虐殺問題では、日本のマスコミは報道をしない場合が多い。欧米の報道が盛んになり、いやいや報道しているようだ。

 この世に真実はない。あるのは各人の価値観に基づいた解釈の違いだけである。だから日本のマスコミは自分の利益に反することは報道しない。

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2021-06-27   久志能幾研究所通信 2072  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月26日 (土)

新型コロナワクチン、命の選択と決断

 

 新型コロナワクチン、打つか打たないか、人生の選択である。

 それが今までの人生の岐路での選択を象徴している。

 

結論

 私は新型コロナワクチンを打たないと決断した。人と接触する機会の多い職業なら、ワクチン接種が正解である場合もあるだろう。どちらが正しいかどうかは、問題ではない。その決断プロセスが問題である。人によって選択肢の正解が違う。自分が正しいと思ったら、非難されてもその選択を進める勇気が必要だ。

  

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人生の決断と過去の惨劇

 人生は選択の連続である。多くの選択肢の中からその一つを選んだら、決断して実行しないと、何も始まらない。決断しないと他人の選択に流されて、自分の時間と命を失う。

 選択には、多くのデータと自分の経験知から自分の結論をだすことだ。

 自分の頭で考えないから、ヒトラーの宣伝に乗せられドイツ国民はユダヤ人を迫害した。

 戦前の朝日新聞社等の戦争賛美の記事に乗せられて日本国民は戦争に追いやられた。 

 オイルショックの時、マスコミの過剰報道に踊らされてトイレットペーパーの買い出しに走ったのだ。

 狂った社会党を選ぶから、阪神淡路大震災で危機対応ができない政府に煮え湯を飲まされることになるのだ。狂った民主党を選択するから、福島原発事故で右往左往するのだ。

 狂った朝日新聞を購読するという選択をするから、慰安婦報道に騙されるのだ。

 正しい議員に投票せず、選挙投票で棄権をするから、日本の道を誤まらせる国賊議員が跋扈するのだ。その議員を選んだのは国民である。だから日本は基礎研究に金を出さない政治体制が続き、失われた時間30年間が生まれ、衰退した日本を生んだのだ。それが今の国産ワクチン開発での敗戦になった。

 今回が新型コロナワクチン接種問題である。

 その選択が、誰かの利益のために躍らせれていないか確認すべきだ。

 自分で考えて結論を出さないと、痛い目に会う。それは歴史が証明している。

 

決断を下した根拠

事実1

 日本のコロナ感染者、死者数は欧米の100分の一程度。

 欧米の生活習慣(ファクターX)が、日本の生活習慣と違うので、欧米で感染者が激増していると考えられる。(西村秀一氏説・国立病院機構仙台医療センター ウイルスセンター長)

 日本のコロナ死亡者は4千人、例年インフルエンザで1万人が死んでいる。 私はマスコミが騒ぎ過ぎると断定した。なぜ? 扇情的に報道すれば、視聴率が上がり、儲かるから。

 

事実2

 新型コロナウイルスでの死亡者数と他が原因の死亡者数を冷静に比較観察しよう。(下記概算値)

 なぜ、マスコミが酒やタバコでの害を追求せず、新型コロナばかり報道で攻めるのか。酒やタバコや清涼飲料水の後ろには、宣伝の大スポンサーがいる。口が裂けてもそのスポンサーを非難はできない。私はそんな記事を見たことがない。

 

 新型コロナの年間死亡者数   5千人

 交通事故死亡者数       3千人

  交通戦争時代は死者が1万人を超えていた。

 例年のインフルエンザ死亡者数 1万人

 糖尿病の死亡者数      1.4万人

 お風呂での死亡者       2万人

 自殺者数           3万人

 酒での死亡者数        3.5万人

   (全世界で300万人が酒の原因で死亡 WHО発表)

 誤嚥の死亡者数        4万人 

 タバコでの死亡者数     12万人

 癌での死亡者数       30万人

 日本の死亡者数、生誕者数  100万人

 

事実3

 大村智博士が開発したイベルメクチンは、インドでは劇的な効果があった。WHОは欧米のワクチンを強制して効果のなかったため、インド政府はWHОを訴訟で訴えている。

 イベルメクチンの値段は600円だが、欧米のワクチンは数万円である。製薬会社は実績があっても儲からないイベルメクチンを売りたくない。新ワクチン開発にかけた金を回収せねばならぬからだ。製薬会社は慈善事業ではなく、拝金事業なのだ。

 政府の役人も既に欧米のワクチンを手配すみなので、今更変更はできない。自分の保身に影響するからだ。減点主義の役所では、変えたくても変えられない。どうせ無知な国民は気が付かないと高級官僚は思っている。

 

事実4

 新型コロナ用のワクチンで、9,759,770人の内、5月30日時点で139人が死亡。(2021年6月26日現在) 

   新型コロナ用のワクチンで7万人に一人が死亡する確率である。

  15万人の中堅都市の全員が接種で、1~2名が死亡と同じ。

 インフルエンザ用のワクチンの死亡率は1千万人に一人。

  (52,511,510人が接種して3名死亡。平成30年度)

  1千万人の人口の東京都で全員接種で、一人が死亡と同じ。

 

 新型コロナ用のワクチンは、まだ安全性が確認されていないようだ。自動車部品開発に携わった技術者として言えることは、新開発部品の安全性が従来品よりも100倍も悪化すれば、人の命に影響する車には搭載できない、ということだ。

 

事実5

 マスコミが発表するグラフは接種数の変化で、接種率と感染状況の変化と連動したグラフは決して出さない。コロナ感染の恐怖を煽り、接種数の増加を過度に報道して、摂取させようとしているとしか思えない

 

事実6

 ワクチン接種の目的は、ワクチンの販売であって、新型コロナウイルスの収束ではない。ワクチン接種拡大に成功すれば(製薬会社にとって)、来年以降も変種ウイルス対策として、継続してワクチンが売れる。

 独ビオンテック、今年のワクチン売上高1.6兆円の見通しである。ファイザー製薬は3.8兆円である。 (日本経済新聞2021年5月11日)

 

事実7

 新型コロナをエボラ熱相当の疫病と指定した厚生省が間違い。だから大騒ぎとなった。前提が間違っている。

 新型コロナの死亡率は2%。エボラ熱の死亡率は50%。それなのに同じ扱いにするから、異常事態となる。病床がひっ迫する。その指定を変えて問題が出れば、役人の出世に影響がでるから、保身主義のエゴ役人は、指定を決して変えようとはしない。ここに現代日本の閉塞状態の真因がある。

 

事実8

 ワクチン接種をしても新型コロナ感染のリスクが下がり、重症化するリスクが下がるだけである。ワクチン接種で、コロナ感染が無くなるわけはない。ワクチン接種をしても再度、感染した人も多い。それは単に、ワクチン接種をしたからと、油断して感染予防を怠っただけのことである。

 

事実9

 私は自営業で、日頃、多くの人と会うわけではない。ほとんど自宅で仕事をして過ごしている。外出も控えている。外出時はマスクをして、3密を避けるようにしている。人に迷惑をかける頻度は少ないのでワクチン接種は、そのメリットデメリットを考えるべきだと判断した。

 

事実10

 ワクチン接種にはコロナに負けない体力がないとダメである。疾患持ちで、血栓ができやすい人が接種して196人が死亡している。7万人に一人の割合である。

 私は高齢で、体力も弱っていて、癌の後遺症に苦しんでいるので、私にはワクチン接種の耐力がないと判断した。利害を総合的に考えて、私はワクチン接種をしない決断をした。

Dsc09255s 馬場恵峰書

 私は書斎で、このコップを筆立てとして使用して、毎日眺めている。

 馬場恵峰先生に感謝である。

 命に係わる事項の決断は、智慧を出し、賢く判断したい。そう思って私は、いつも文殊菩薩と普賢菩薩に手を合わせ祈っている。そうすると不思議と冷静になれる。

 命はこの世に役だつものを遺すため、何時も輝いている。輝かせねば、ご先祖に申しわけない。己の愚かな判断でそれを無に帰せてはなるまい。

Dsc06572s 松本明慶大仏師作 文殊菩薩

Dsc065661s  松本明慶大仏師作 普賢菩薩

2021-06-26   久志能幾研究所通信 2071  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月25日 (金)

縁は厳慈の恩にあり

 

 「旅のチカラ(ミケランジェロの街で仏を刻む---松本明慶)」(NHK BSプレミアム 2013年5月収録)のビデオを見て感動した。ミケランジェロ作のピエタ像と、ホテルで明慶先生が阿弥陀如来のお顔を彫っている時、眼の上の台の上に置かれた「魂(オニ)」の座像が目を引いた。特に「しっかり彫れよ」と先生を叱咤激励するがごとく睨んでいる「魂」の姿が目に焼きついた。

 

 このピエタ像には、私が定年退職記念にローマに旅行した時(2010年11月10日)に出会い、衝撃を受けた彫刻であった。それも、松本明慶先生に初めて大垣市の仏像彫刻展覧会でお会いして(2010年11月1日)、その9日後の御縁である。今回のビデオ映像でその聖母マリアのお顔と、その心を取り入れて明慶先生が彫られた阿弥陀如来のお顔がダブって見える。

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    ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂)   2010年11月10日撮影 

2     明慶先生との出会い    ヤナゲン大垣本店で  2010年11月1日

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ローマでピエタ像に出会う

 ローマ旅行時に初めてピエタ像を見たとき、私も衝撃を受けた。次元の違う彫刻に遭遇したような思いである。10日間のローマ滞在中、3回もこのピエタ像を見るためバチカンを訪れることになった。それほど引きつけられるものがあった。本物は10m先の防弾ガラス越しでしか鑑賞できない。しかし宗派を超越してキリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も世界各地から訪れた老若男女が長時間、ピエタ像を見つめていた。後で隣接したバチカン美術館にこの精巧なレプリカが展示してあるのを発見した。そこで至近距離1mから長時間、お顔を拝ませて頂いたのは幸いであった。こちらは見学者が少なく、落ち着いて接することができたのも有難いこと。

 ピエタ像が防弾ガラスで覆われているのは、過去に精神異常者がマリア像のお鼻を傷付けたためで、それの対策である。

 

「ピエタ」とは「慈愛」

 「ピエタ」とは「慈愛」の意味である。「ピエタ」はミケランジェロが終生、追い求めたテーマである。「慈」とは「心」「茲」から成る。「茲」は、「増える(子を増やして育てる)」=「愛」と「心」で「母」の意味を持つ。「慈」の反対語は「厳」である。旧字体は「嚴」で、冠の「□□」と「嚴」の下部(音)から構成される。「□□」は、「厳しく辻褄を合わせる」の意味である。つまり「父」の意味を持つ。自然界は陰陽で出来ている。優しい母がいて、その背後に厳しい父がいて子供は育つ。片方だけではダメなのである。

 今回の明慶先生の阿弥陀如来のお顔を彫る製作過程を、厳しい顔の鬼(魂)が見つめていることの深い意味合いを感じた。厳しさがあるから、慈しみに溢れた優しさのあるお顔が生まれるのだと。優しさだけでは本当の慈は出てこない。厳しさの奥には深い愛情が隠れている。

 

Dsc04477s 松本明慶大仏師作 「魂」、 書は馬場恵峰先生書
 

2 ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂) 2010年11月10日撮影 

 見学者の柵から10m先に防弾ガラスで覆われて安置

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ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂) 2010年11月10日撮影 

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 ピエタ像(バチカン美術館に展示のレプリカ)  2010年11月13日撮影

P1080515s ピエタ像(岐阜県美術館に展示のレプリカ)  2016年11月13日撮影

 このピエタ像の複製が岐阜県美術館のホールに展示されているが、環境的に明るすぎ、場所的に高い位置に展示されていて、その厳かな雰囲気と合わないのが残念である。岐阜県美術館のピエタ像からは、ローマで本物を見た時の衝撃が全く感じられない。やはり展示環境が大きく影響するようだ。

 

2021-06-25   久志能幾研究所通信 2070  小田泰仙

命の器で創る夢の道

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2021年6月24日 (木)

死刑囚として生きる  大きな未完成を求めて

 

 「芸術に完成はあり得ない。

  要は、どこまで大きく、未完成で終わるかである。

  1日を大切に精進したい。」      奥村土牛画伯

 

 土牛画伯は、富士山をテーマに多くの絵を残した。画伯の死の1年前、100 歳の時に描いた「100歳の 富士」は有名だ。とても、100 歳の時の作品とは思えない。その画風は単なる美しい富士山ではなく、白い雪化粧の中に、宗教的雰囲気と精神的葛藤を漂わせている。画伯が100 歳を超える長寿で、かつ現役であり続けえたのは、「大きな未完成」を求めるため、前向きの意思と芸術へのこだわりがあったためであろう。画伯の上記言葉は、芸術に限らず人の全ての分野に当てはまる。人は意思と目標がなければ、長生きはおろか、人生の全うもできまい。

  人は必ず死ぬ。人は生まれた時に、神様から死刑宣告をされている。それゆえ、死刑囚としての人の生きざまは、死をどの様に認識するかで、100 年間の少ない(?) 日々を送る時、そのアウトプットが大きく異なる。特に、後世にその作品を託す芸術家は、限られた時間をいかに作品に昇華すべきかに心血を注いでいる。

 

生きる価値

  美術品や骨董品が、何故価値があるかは、それの壊れていない姿にある。だからこそ、人は有り難がり、大事な物として床の間や美術館に飾るのである。これが少しでも欠損していると、全く価値がなくなる(それは歴史博物館向き)。人を骨董品に例えると失礼だが、人が100 歳まで生きて、なおかつ現役であることに、その偉さがある。壊れた骨董品に価値が無いように、いくら長生きしても「創作」活動を停止したのでは、人としての存在価値が半減する。長くその地位にあること、長くその仕事を継続していることは、それだけで価値がある。長く続けるだけでも、それ相応の情熱と努力がなければできない。人並み以上の時間の継続は、現状維持で良い、との安易な姿勢では達成できない。人生での現状維持は、即後退を意味する。それは残存時間をカウントする時限タイマーを早送りモードにすること。その気持ちになったら、後進に道を譲るべきである。

 

死を見つめる

  作家で精神科医の加賀乙彦氏が、興味ある報告をしている。彼は刑務所で多くの受刑者と面接して、終身刑の囚人と死刑囚との間で、その生き方に明白な差を見いだした。終身刑の囚人が、なんとなく元気がないのに対して、死刑囚は元気でキビキビしている。両者の差で明白なのは、前者の眼は死んでいるが、死刑囚は眼が輝き、澄んでキラキラと輝いていることだという。終身刑の死が不確定なのに対して、死刑囚は明日にも死刑執行があるかもしれない。その緊張感の有無が、この差を生むらしい。それは死刑囚が死を避けて通るより、避けえない事実として、1日1日を有意義に過ごそうとする意識が働くためのようだ。

  「死を見つめる意義」大阪大学人間科学部教授 柏木哲夫

                       『日本経済新聞 夕刊1996.10.12』

 

百歳の富士への執念

  100 歳を越えた画伯が、有限の時間を意識しないはずがない。その日々の心情は、ある意味で死刑囚と同じかもしれない。だからこそ、限られた時間内で、緊張感を持って生きる大事さを認識していたのだろ。それが冒頭の言葉に顕れている。だらだらとした日々を送る終身刑の囚人より、緊張感のある死刑囚として生きたほうが、有意義で前向きの人生が送れるようだ。生きているのと、生き永らえるとの差は限りなく大きい。

 百歳の富士を書きたいという執念が、この絵を生んだ。土牛画伯は、実際の富士の見える旅館に泊まり、実際の富士を凝視して、この絵を描いた。しかし直ぐには、心の内面のイメージを具現化できず、筆を取るまでに長い時間を要した。

 百歳の画伯の筆使いが、雪化粧の富士山を美しくそびえさせつつ、成長するかのように描かせている。しかし、その美しさは、絵葉書等に登場する「単に」美しい富士山のそれではない。富士山の頂上の美しさは、それの歴史を示す中腹部の崩れゆく暗い岩肌の対照として、輝きとして存在する。まるで人の古傷や生きざまを表した縮図であるかのように。これは長年(?) 、人間家業をしてきた画伯の醍醐味かもしれない。この芸当は、80歳の鼻垂れ小僧にはできまい。死刑囚としての私の死刑執行は37年後と覚悟している?

 

エピローグ 

 ある本で土牛画伯の言葉に触れた数カ月後の1996年10月11日、懇意の画廊から、この『百歳の富士』のリトグラフが、激安で目の前に提示された。激安なのは、今まで多額の金をその画廊につぎ込んできたからだ。安いのは、そのおまけである。私は即決購入し、この絵を土牛画伯の命の具現化として、自宅に飾った。この絵は試刷りのリトグラフで、土牛画伯のサインはないが、本物のリトグラフである。

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2021-06-24  久志能幾研究所通信 2069  小田泰仙

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2021年6月23日 (水)

賊報 携帯狂のオバタリアン、コロナ菌をバラまく?

 

 2021年3月31日に、大規模小売店のアピタ大垣店で、狂母が食料品売り場の展示食品に唾が飛ぶようにスマホで話し込んでいるのを目撃した。その対策を当日、案内カウンターの女性担当者に依頼した。担当者は「上司に伝えます」と答えたが、2か月経っても全く動きがない。

 なぜ、アピタ食料品売り場内で「スマホをしながらの買い物禁止」が放送できないのか。

 

 

 この2か月間、アピタに行くたびに、毎回、店内放送で「アピタは新型コロナウイルス対策で万全の対策をしています」である。大嘘である。度々、食品売り場でスマホを使っている女性を目撃する。ほとんどが女性である。

 6月6日、食料品売り場で食品陳列棚に向かって長時間、唾を飛ばしながら携帯電話で会話をしているオバタリアンを見付けた。わざわざ食品の展示品に向かって食品には上の空で話し続けていた。隣には恐ろしそうな風体の夫と思しき男がいた。

 その頃にやっと始まった管内放送が「歩きながらのスマホをご遠慮ください」である。ピンボケもいいところである。オバタリアンは「立ち止まって」、「食品に唾をかけるように」スマホで話し込んでいるのだ。

 いくらマスクをしていても20%の唾気は外に漏れる。それが食品に飛ぶのだ。

 アピタ大垣店は新型コロナウイルス対策で無責任である。

P1140604s1 長時間、食品陳列棚に向かって話し続けるオバタリアン  6月6日13:54

2021-06-23   久志能幾研究所通信 2068  小田泰仙

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2021年6月22日 (火)

EV化の一極に賭ける危険性

 

 日産は今後だす新車は全てEV車にすると発表した。ホンダも同じ戦略のようだ。まるで素人の経営者の判断である。貧すれば鈍す、という状況ではないか。全てEV車にすることが経営的に正しい判断なのか。逆に害をなすのではないか。

 

経営

 「経営」とは、持てる資源を最大限に使って、世の中を幸せにする営みである。「経」とは縦と横の糸を折る織機のことだ。縦糸とは綿々と続く人類の歴史の営みを表す。横糸とは世の中の動向を表す。「営」とは、沢山の部屋がある屋敷でかがり火が盛んに燃えている様を表す。

 

電気自動車の電気はどこから?

 現在、電気自動車を作るには、電池の製造が不可欠で、その電池の製造は、レアメタルの確保が生命線である。

 その製造には膨大な電気が必要である。ガソリン車が全て電気自動車に置き換わったら、現在の消費されるガソリンが生み出すエネルギー分の膨大な電気が必要となる。その電気はどうやって調達するのか。再生エネルギーだけでは間に合わない。石油も燃やさないと間に合わない。原子力発電も必要だ。全て電気自動車になれば、電気代は5倍になるとの試算がある。

 

中国のお家の事情

 中国がEV化を宣伝しているのは、EV化で世界市場を支配する意図があるからだ。中国はレアメタルの生産で世界の80%を支配している。レアメタルは石油と同じように戦略物質である。石油は余っているのだ。

 中国国内が公害対策なし無法地帯なので、自動車の排ガスや工場排煙による都市の空気汚染が酷い。中国共産党が電気自動車を推進するのは、排ガスをださない電気自動車にするという、マッチポンプのような宣伝をしたいためである。

 新型コロナ騒動でも、中国国内でコロナ菌を生物兵器として開発し、そのワクチンも真っ先に開発したと言うマッチポンプのような事態となった。そうアメリカ政府は断言している。

 

EV化の目的

 EV化の目的は排出ガスの削減である。地球温暖化の防止である。しかし現実はEV化では、見かけは排出ガスの削減であるが、実質的に排出ガスは減らない。地球温暖化の防止にもならない。それは高血圧症に降圧剤を投与する対処療法と同じになる。だから逆に排ガスが増える場合もある。今のままでは本末転倒の事態になるようだ。

 

2021-06-22   久志能幾研究所通信 2067  小田泰仙

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2021年6月21日 (月)

ドクター酢トップ

 

 酢は健康に良いと昔から言われてきた。酢は殺菌効果もあり、寿司や酢のものにも使われている。江戸時代の冷蔵庫の無かった時代、ファーストフードで日持ちのある寿司に使われた。

 酢は殺菌効果で細菌の繁殖を抑制する。しかし同時に、自分の体内の免疫酵素まで影響を及ぼし、体内の免疫酵素の生息状態のバランスを崩す恐れがある。

 それが原因で、4日連続でスーパーの398円の巻きずしを食べたら、3日連続で下痢をしたが、それが原因のようだ。寿司の酢も本物ではなく、合成の酢であったようだ。

 人間の体内は微妙なバランスで腸内細菌や免疫酵素が生息している。その環境を悪食で壊して駄目である。

  

酢が治療の妨げ

 普通の健康な人は、問題ないようだが、がんを患い半病人の私には良くなったようだ。三杯酢を多飲したら、血管内のプラークを減少させる治療が滞ってしまった。その結果から、真島消化器クリニックの真島先生より、三杯酢はドクターストップである。

 酢は健康体の人には好いが、半病人には毒であった。

 常識として良いと言われてきた食材も、よく吟味しないと毒になる場合がある。

 同じ理由で、梅干しもドクター指示で週に一個に制限である。

2021-06-21  久志能幾研究所通信 2066  小田泰仙

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