死刑囚として生きる 大きな未完成を求めて
「芸術に完成はあり得ない。
要は、どこまで大きく、未完成で終わるかである。
1日を大切に精進したい。」 奥村土牛画伯
土牛画伯は、富士山をテーマに多くの絵を残した。画伯の死の1年前、100 歳の時に描いた「100歳の 富士」は有名だ。とても、100 歳の時の作品とは思えない。その画風は単なる美しい富士山ではなく、白い雪化粧の中に、宗教的雰囲気と精神的葛藤を漂わせている。画伯が100 歳を超える長寿で、かつ現役であり続けえたのは、「大きな未完成」を求めるため、前向きの意思と芸術へのこだわりがあったためであろう。画伯の上記言葉は、芸術に限らず人の全ての分野に当てはまる。人は意思と目標がなければ、長生きはおろか、人生の全うもできまい。
人は必ず死ぬ。人は生まれた時に、神様から死刑宣告をされている。それゆえ、死刑囚としての人の生きざまは、死をどの様に認識するかで、100 年間の少ない(?) 日々を送る時、そのアウトプットが大きく異なる。特に、後世にその作品を託す芸術家は、限られた時間をいかに作品に昇華すべきかに心血を注いでいる。
生きる価値
美術品や骨董品が、何故価値があるかは、それの壊れていない姿にある。だからこそ、人は有り難がり、大事な物として床の間や美術館に飾るのである。これが少しでも欠損していると、全く価値がなくなる(それは歴史博物館向き)。人を骨董品に例えると失礼だが、人が100 歳まで生きて、なおかつ現役であることに、その偉さがある。壊れた骨董品に価値が無いように、いくら長生きしても「創作」活動を停止したのでは、人としての存在価値が半減する。長くその地位にあること、長くその仕事を継続していることは、それだけで価値がある。長く続けるだけでも、それ相応の情熱と努力がなければできない。人並み以上の時間の継続は、現状維持で良い、との安易な姿勢では達成できない。人生での現状維持は、即後退を意味する。それは残存時間をカウントする時限タイマーを早送りモードにすること。その気持ちになったら、後進に道を譲るべきである。
死を見つめる
作家で精神科医の加賀乙彦氏が、興味ある報告をしている。彼は刑務所で多くの受刑者と面接して、終身刑の囚人と死刑囚との間で、その生き方に明白な差を見いだした。終身刑の囚人が、なんとなく元気がないのに対して、死刑囚は元気でキビキビしている。両者の差で明白なのは、前者の眼は死んでいるが、死刑囚は眼が輝き、澄んでキラキラと輝いていることだという。終身刑の死が不確定なのに対して、死刑囚は明日にも死刑執行があるかもしれない。その緊張感の有無が、この差を生むらしい。それは死刑囚が死を避けて通るより、避けえない事実として、1日1日を有意義に過ごそうとする意識が働くためのようだ。
「死を見つめる意義」大阪大学人間科学部教授 柏木哲夫
『日本経済新聞 夕刊1996.10.12』
百歳の富士への執念
100 歳を越えた画伯が、有限の時間を意識しないはずがない。その日々の心情は、ある意味で死刑囚と同じかもしれない。だからこそ、限られた時間内で、緊張感を持って生きる大事さを認識していたのだろ。それが冒頭の言葉に顕れている。だらだらとした日々を送る終身刑の囚人より、緊張感のある死刑囚として生きたほうが、有意義で前向きの人生が送れるようだ。生きているのと、生き永らえるとの差は限りなく大きい。
百歳の富士を書きたいという執念が、この絵を生んだ。土牛画伯は、実際の富士の見える旅館に泊まり、実際の富士を凝視して、この絵を描いた。しかし直ぐには、心の内面のイメージを具現化できず、筆を取るまでに長い時間を要した。
百歳の画伯の筆使いが、雪化粧の富士山を美しくそびえさせつつ、成長するかのように描かせている。しかし、その美しさは、絵葉書等に登場する「単に」美しい富士山のそれではない。富士山の頂上の美しさは、それの歴史を示す中腹部の崩れゆく暗い岩肌の対照として、輝きとして存在する。まるで人の古傷や生きざまを表した縮図であるかのように。これは長年(?) 、人間家業をしてきた画伯の醍醐味かもしれない。この芸当は、80歳の鼻垂れ小僧にはできまい。死刑囚としての私の死刑執行は37年後と覚悟している?
エピローグ
ある本で土牛画伯の言葉に触れた数カ月後の1996年10月11日、懇意の画廊から、この『百歳の富士』のリトグラフが、激安で目の前に提示された。激安なのは、今まで多額の金をその画廊につぎ込んできたからだ。安いのは、そのおまけである。私は即決購入し、この絵を土牛画伯の命の具現化として、自宅に飾った。この絵は試刷りのリトグラフで、土牛画伯のサインはないが、本物のリトグラフである。
2021-06-24 久志能幾研究所通信 2069 小田泰仙
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