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2020年8月

2020年8月31日 (月)

目玉をチィルト&シフトして観察しよう

 自分は何処を見ているんだ? それを意識しよう。物理学上は、人間の目はカメラのレンズと同じ機能である。焦点は一か所しかあわない。それを全てに焦点があっていると判断していると思うのは、大いなる「ああ勘違い」である。その対象にピントは合っていないが、己の頭がピントの合っているかのように意識の上で映像を作り上げているにすぎない。

 高い建物や、地位の高い人物は、実際の目には歪んで網膜に写っているのだが、己の頭が歪のないような映像を頭の中で作る上げている。

 今の殆どのマスコミは偏向しているので、実像を正しく報道していない。自分の目玉をチィルト&シフトして、世間を正しく観察しないと、マスコミに騙される。80年前、日本は大手新聞社の景気の良い戦争ごっこに騙されて、戦争に追い込まれた。それで310万人の日本人の命が奪われた。マスコミはその責任に背を向けている。我々が目を覚まさないと、その同じ轍を踏み、子孫の命が危ない。

 

洗脳宣伝

 オウム真理教の麻原は、自分を大きく見せて、教義を偏向して宣伝して、信者を騙した。麻原は、教義核心からピントをシフトして伝えて、信者を洗脳した。それを盲信した信者はサリン事件に追い込まれ、高学歴の信徒が絞首刑台に上らされた。

 明日は我が身なのだ。同じ手口で、今のマスコミは洗脳教育を報道の視点をチィルト&シフトして騙そうとしている。

 

あおり報道

 4年前の米国大統領選挙では、マスコミはトランプ大統領候補の情報をシフトして、その実像を正しく伝えなかった。マスコミを信じた多くの人は騙されて、トランプ大統領が誕生した時にマスコミに騙されたと驚嘆した。

 

左寄り偏向報道、中韓好みの偏向思想

 左翼や中国寄りの日本の大くのマスコミは、安陪首相のことを正しく報道してこなかった。それは今回の安倍首相の辞任報道でも明らかになった。

 現在のマスコミの罪は、中韓寄りの偏向視線で、安倍首相の行動を批判したことだ。例えば、何故、国に命を捧げた英霊を祀る靖国神社に首相が参拝して全マスコミが批判の記事を書くのか。何故、中韓に気兼ねをせねばならぬのか。国に命を捧げた英霊には、どの先進国も礼を尽くしている。礼を尽くしていないは日本と中韓とつながったマスコミだけである。

 

 参考 英霊に礼なきは亡国の兆し  靖国神社問題

   久志能幾研究所通信

 

小川敏市政へのあおり報道

 大垣市長の小川敏は、岐阜新聞のあおり偏向報道で、真実が隠されて報道されてきた。岐阜新聞は、小川敏の言う「大垣市は子育て日本一」という虚像を市民にプロパガンダ担当として植え付けてきた。何が正しいかは、データだけが伝える。大垣市の児童生徒一人当たりの教育費が県下最低である。それを岐阜新聞は報道しない。岐阜新聞はチィルト&シフトどころか、あおり報道、黒のフィルターを新聞紙上に嵌めている。

 大垣市の公示地価が下がり続けている。それは大垣市が没落しつつあることを示している。それを地方紙は決して報道しない。大事なことからチィルト&シフトして、核心から逸らしているのだ。報道の偽善である。

Sonycanon

以上、キアノンHPより

https://cweb.canon.jp/ef/special/ts-e/index.html

2020-08-31 久志能幾研究所通信 1726  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月30日 (日)

磨墨知658 ユダヤ人になろう

 「あなたはユダヤ人なのだから、人の2倍の努力をしないと人並みになれません」とは、ある成功したユダヤ人の母の言葉。

 世界人口のわずか0.25%のユダヤ人が、ノーベル賞受賞者の20%を占めている。『フォーブス』の長者番付で上位を占めているのもユダヤ人である。

 ユダヤ人に成功者が多いのは、ヨーロッパで圧倒的に少数派であり、キリスト教徒でないために差別されていたからだ。政治家や官僚など、その国の表街道に行くことは難しいため、ユダヤ人はビジネスや金融、科学や芸術など自らの才覚で人生を切り拓いてきた。

 その成功の要素の一つが宗教の教えである。ユダヤ教の聖典のタルムードは他の宗教に比べて現実世界における成功や繁栄につながる内容が多い。

 たとえば「学ぶことが大切だ。常に新しいことを学べ」、「時間当たりの成果をちゃんと意識せよ」と聖典に明記されている。2000 年前の聖典に生産性にまで言及されているのは驚きだ。

 ユダヤ人は、差別されて表街道を歩けなかったが、いじけず、きちんと学んで成果を上げている。これがタルムードの教えである。効率的に何事にも取り組む姿勢が、成功に導いた。

 

 人は皆、ユダヤ人的要素を持っている。ユダヤ人的要素とは、劣等感、ハンディ、不得意等の人間の弱さである。そのため、その件に関して人並みにやっていたら、人並みに費やした時間成果さえ出ない。それより2倍の時間をかけて1の成果を上げたほうが効率的である。

 仏教では、それを因果応報という。

 トヨタ教でもその教えは愚直である。整理整頓清潔清掃躾がその教えである。その根幹は、ジャストインタイム、無理無駄ムラ排除である。そして神仏を敬えである。

 自分はユダヤ人と思って精進をしよう。私にはユダヤ人的なマイナス要素が多いと自覚していたから、この50年間、愚直に本を読み、カードに書き抜き、人並み以上に継続して学んできた。今の自分があるのは、自分がユダヤ人だと思って努力を継続してきたからだと思う。オダブツ教の教祖は天才ではなく、愚直なのです。

 

2020-08-30 久志能幾研究所通信 1725  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月29日 (土)

病気予防で、リンパマッサージ

体の下水管掃除を

 私は体の保全・病気予防のため、朝晩のお風呂で、全身のリンパマッサージを欠かさない。老廃物が溜まると、疲労が蓄積されやすい。それが病気の元である。癌を再発させないためでもある。私は病気予防で、打てる手はすべて打つ方針で臨んでいる。

 リンパマッサージは、顔、首、手足のリンパ管を心臓に向かって流すようにマッサージをする。そのやり方は、ネットで数多く紹介されているので、そちらで検索してください。

 

リンパとは

 体の中を走る血液の管は、動脈・静脈である。いわば上水管である。血液は大事な栄養素・酸素を全身の末端の毛細血管にまで運び、その後、静脈から心臓に戻る。それに対してリンパ管は、体の老廃物を流す管である。いわば下水管である。

 リンパとは、毛細血管から浸出した液体で、タンパク質や脂肪、糖質の他、細菌やウィルス、老廃物を運んだりする役目である。網の目のように身体中に張り巡らされている「リンパ管」の中をリンパは流れている。リンパ管が合流して太くなる部分が「リンパ節」で、全身に約800ヶ所ある。

 血液は心臓というポンプで全身に送られるが、リンパ液は、リンパ管の中を低い速度で流れている(時速0.648km以下)。それに対して血液の流れ速度は、時速216kmである。リンパは心臓でのポンプ作用がないので、あまり体を動かさない生活を送ると、その流れが阻害されがちになる。また狂った食生活などをすると、リンパ液の流れが滞り、老廃物が多く溜まったままの状態になってしまう。

 

行政の下水管

 行政の組織は、人間の体と同じ形態である。行政の上水管とは、市の予算である。お金が回って市の組織が動き、お金で都市が作られ、市が活性化する。市の組織が動けば、その老廃物が下水管に流れる。ところが、市の組織に自浄作用がなく、自律神経が正常でないと、行政が滞り、老廃物や不正物が溜まり、組織がうまく動かない。

 

悪事例

 その事例が、大垣市制100周年記念行事であった。大垣市はじゃぶじゃぶと大金を下部組織に流したが(3億5千万円)、組織がまともでなく、動機がまとももでなく、まともでない行事が多かったので、腐敗物が下々の組織に堆積したようだ。小川敏は、大垣市制100周年記念行事にどんちゃん騒ぎのため3億5千万円も浪費した。それなのに、非常緊急事態の新型コロナウイルス対策で、わずか2億2480万円しか出さない。政治家として正常な予算配分ができないのは、政治的認知症ではないか。

 

予算の会計報告はリンパの流れ

 本来なら、会計報告で、心臓部にそれが流れるはずが、大垣市特例のマル秘条令を隠れ蓑に、報告がされず滞っている。その金で不正・汚職が行われたと巷では噂されている。大垣市制100周年記念行事は、まともな経済活動ではなかったためか、翌年の大垣市の公示地価は例年のように下落である。小川敏が市長になって連続19年間下落である。

 これが、組織が停滞した時に起こる下水管の醜態である。大垣市もリンパマッサージが必用だ。大垣市の組織に老廃物、腐敗物が溜まっている。だれか大垣行政組織の掃除をして欲しい。19年間も掃除をしないと、腐敗して当然である。

安倍首相の政権が長いといっても、たった7.6年間なのだ。大垣市長の小川敏は、現在5期目の19年目で、6選になれば24年間である。狂気の沙汰だ。

 

心の下水管の汚れ

 お金が溜まり、長期に安楽の座に居座り、贅沢をしだすと、心に老廃物が溜まる。楽をしようとするから、怠惰な虫が芽生える。栄養過多なエライ人のお話しばかりを聞いていると、いかにも己が偉くなったように錯覚する。それは心の栄養過多で、心が糖尿病になったのだ。溜まったお金は流さないと、腐ってくる。そのために寄進、布施をして下座業で、修行が必用だ。止っていてはダメなのだ。体を動かして、奉仕活動をしよう。寄進・布施・奉仕活動とはお金や物への執着心を捨てること。修身の勉強をしよう。積善の家には必ず余慶あり。

 新市長が誕生すれば、大垣の春は近い。

P10104421s   馬場恵峰書

2020-08-29 久志能幾研究所通信 1724  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月28日 (金)

安らかに永眠するために  安倍首相辞任に思う

安倍首相辞任

 今日8月28日、安倍首相が辞任した。それを聞いて人生の永眠に思いを馳せた。人生の成功の要は健康である。死んでもいいから、健康管理である。生死は神仏の管轄、健康管理は己の責任である。

 安倍さんも歴代の首相に比較すれば、やり残しはあるが、やるべきことをやり遂げての勇退である。それも人生だと感じた。魑魅魍魎の住む政治の世界で、病身を押して奮闘も大変であったと思う。

 小川敏のように、やるべきこともやらず、無為無策で大垣市長の座にしがみ付くよりは、職務が全うできないとして、辞任した安陪さんは偉いと思う。

 

永眠と安眠

 一日は人生の縮図である。夜、安らかに寝るための方法が、安らかに永眠する方法に相通じる。よく働いた一日は、安らかな眠りを誘う。よく働いた人生には、安らかな永眠が神仏よりご褒美で贈られる。

 夜、眠られないのは、単に一日、正しく働かず、体を使っておらず、疲れていないからだ。

 年老いて、仕事があり、世のためにやるべきことがあるとは、幸せである。朝、起きたけど、寝るまでやることがない人生は、地獄である。

 若くして死ぬと、生木が裂かれるような苦しみを味わうという。やるべきことをやり遂げて、老いて死ねば、枯れるように倒れて苦しみはない。

 だから人は一個の生物として、狂った人生ではなく、正しい人生を歩むべきなのだ。若くして病気になり死ぬとは、狂った生活、狂った考え、狂った食生活が原因である。要は宇宙根源の理に反した生活を送ったのだ。それを無理という。

 「無理」に気が付いた時に、それを直せばよい。直さないから地獄に落ちる。何事も正しい道に戻るのに、遅すぎることはない。

 「無理」に気が付いても、そのまま猛進する人が多すぎる。それを愚者という。賢者は引き返す勇気を持っている。

 

一日の終わり、人生の終わり

 仕事に精進して一日、やるべきことをやっていれば、疲れ果てて夜はバタンキューである。やりたいことではなく、やるべきことを嫌われてもやっておれば、やり残しの後悔はしない。

 私は前職では、正論の主張、業務改革推進等で、やり過ぎて嫌われた。嫌われても、やり切って良かったと思う。後は永眠だけである。だから定年延長せず、即、さよならをした。

 毎日の夜の寝る儀式は、永眠の練習である。毎日、よく働き、疲れて横になれば、寝つきが良く、よく安眠できる。たった一度だけ、目が覚めないのが永眠である。朝、起きてこないと思ったら、死んでいたのは理想の死にかただと思う。そこには死の苦しみはない。

 

人事異動

 どんなものにも寿命がある。生命も命があるように、職位にも命がある。その職位の命を輝かせて、全うすれば、良き永眠がある。

 人として生まれたら、志を立て、学んでその志を成就する能力を付ける。計画を立て、実行して、その成果を得たら、その道を後進に託す。

 職位にも命があり、永遠ではない。その職位に就いたら、最初の1年は黙って職場の状況を確認して、問題点を見付ける。それで改善案を作成して、2年目に種を蒔く。3年目にその収穫を確認する。4年目に後進に託す段取りをして、その職位を去る。それを職位にしがみ付くから、晩年を汚すことになる。

 

私の異動体験

 私も前職では、数多くの異動があった。職場に就いた時は、全て初心者で手探り状態である。私は異動でその新職場についたら、まず職場内に保管してある書類に全て目を通していた。それでその職場の概要と問題点が把握できる。それで何をやればよいか、分かってくる。

 自分のやること、やったことは全て書類に残す。自分が獲得したノウハウも書類に残す。これは私がこだわった仕事の流儀であった。だから私が異動でその職場を去るときは、引継ぎは必要でないようにした。私が残した書類を見ればよいのだ。

 

あの世への異動

 私が人生という職場を去るときは、公開の書類でやったことが、後世に残るようにしている。馬場恵峰先生の書の出版でも、ISIDに登録して、国会図書館に記録が残るようにしている。撮りためた写真もBDに記録して、事前に関係者に贈っている。

私の人生哲学

「やったことだけだよ。書いたことだけだよ。後に残るのは」

P1000710s  馬場恵峰書

2020-08-28 久志能幾研究所通信 1723  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年8月27日 (木)

SONYとCANONをチィルト&シフト

 商標「ソニー」とはsound(音)から発生させた名前である。その昔は、ソニー坊やがテレビCMで活躍していた。商標「キアノン」は観音さまから派生した名前である。私は同じ音に関するこの2人の仏様に助けてもらって、馬場恵峰先生の書を撮影している。

 ソニーはCCDの技術で世界最高レベルである。キアノンは今まで蓄積した一眼レフのレンズ群資産が世界最高である。私は馬場恵峰先生の書の撮影で、その両者の特性を生かして、ミラーレスSONY α7RⅣに、キアノンのチィルト&シフトレンズTS-E50mmを装着して、撮影している。

 SONY α7RⅣのCCDは、6100万画素である。CANON のチィルト&シフトレンズは固定焦点、手振れ補正無しのシフトレンズである。この種のレンズはソニーには製品がない。私はこの組み合わせで、このレンズにアダプターマウントをかませてソニーのボディに装着する。ピント合わせは手動、絞りはF8で固定、ISO200で固定、シャッタースピードを自動で設定して撮影する。少々使い勝手が悪いが、書画の撮影では三脚使用の撮影だから、オートフォーカスである必要はない。

 チィルト&シフトレンズは、通常の標準レンズに比べて10倍も値段が高く(約30万円)、購入には一大決心が必用であった。高価格であるだけ、画質は素晴らしい。

 書画の撮影は、一人ではできない。仏様のような書友の九州女性の皆さんに助けてもらっての撮影である。感謝。

P1070645s

P1070647s

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P1110703s  当初はCANON  EOS 5D-Ⅳにチィルト&シフトレンズで撮影  2018‎年‎10‎月‎11‎日

Sonycanon

以上、キアノンHPより

https://cweb.canon.jp/ef/special/ts-e/index.html

 

2020-08-27 久志能幾研究所通信 1722  小田泰仙

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お礼 累計閲覧総数 200,000 越え

 お陰様で、今日8月27日15時頃、本ブログの累計閲覧数が200,000を超えました。皆様の閲覧が励みです。ありがとうございました。

 

2020-08-27 久志能幾研究所通信 1721  小田泰仙

2020年8月26日 (水)

呪いの「大垣市 郭町再開発」 大垣市は確信犯

「やるやる」と言ってやらない街再開発

 

 大垣市の一番の繁華街の郭町の再開発は50年前から計画されていた。しかし、「やるやる」と言いながら、大垣市は全くやる気がなく、この50年間を無為無策で放置されてきた。

 その街が再開発をすると宣言されると、その街のビルの新たな借り手がいなくなる。テナントを借りても、ビルが壊されるなら店舗の投資が無駄になるからだ。そうやって何年も何年も蛇の生殺しのように、大垣市は郭町の再開発を放置してきた。だから大垣駅前商店街が没落した。大垣駅前商店街の没落の犯人は大垣市行政である。

 小川敏は、郭町に家業の紙屋があるのに、小川敏が市長になって、この19年間、郭町の街再開発は絶対にやらなかった。なにか恨みでもあるのか。大垣市郭町は呪われている。大垣市は小川敏という災害に襲われたのだ。これでは大垣市が寂れて当然である。

 対策は、新しい市長を選出して、大垣市を建て直すしかない。このままでは、大垣市は再起不能になる。

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 大垣市郭町には築50年以上の古いビルが立ち並ぶ。

 金がないのでアーケドの電気も消している。2019‎年‎10‎月‎30‎日、‏‎17:15

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 大垣市一番の繁華街の郭町に人通りがない。シャッター通りとなっている

‎ 2019‎年‎10‎月‎30‎日、‏‎17:00

 

2020-08-26 久志能幾研究所通信 1720  小田泰仙

累計閲覧総数  199,909

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月25日 (火)

私の命が一日一日、尽きていく

看々臘月尽(みよみよ ろうげつ つく)

 

 この意味は『命には終わりがある』。一日一日、命は尽きていく。死してその人の一生が終わる。自分の命も一日一日、容赦なく尽きていく。現実から目をそらさずに、「命には限りがある」をよく見なさいという意味の禅語である。

 「看看」と「看」を二つ重ねて「良く見なさい」である。「臘」とは「多く集まる」とか「つなぎ合わせる」という意味である。

 臘月は、十二月の別名である。月日の流れは、「歳月人を待たず」である。もう十二月も終わってしまう。一日一日を大切にしなさい、である。

 また「臘月」は、一年の終わりの12月で、私たちの人生や命という意味も暗示している。十二月があっという間に終わるのと同じように、人生もあっという間に終わってしまう。ぼんやり生きず、自分の命をしっかり見つめなさいとの警句である。

 「また今度やればいいや」と、つい後回しにしがちだ。しかし「今度という時間は二度と来ない」。「己の人生と向き合い、看々臘月尽の心を忘れずに人生を過ごせ」と禅師はいう。

 人生は退屈で眠たいものかもしれない。寝るのもよし、仕事をするもよし、勉強するのもヨシである。人生はバイキングレストランで、全て己の自由でやりたい放題である。人生で一番大切なことは、寝ていても遊んでいても、ふと気づいたときに、正しい道を意識して、そこに戻れるかどうかである。これが出来るかできないかで人生が変わる。そして時間は冷酷に過ぎてゆく。己が紅顔の少年であった時代は二度と戻って来ない。

 

 紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹝跡無し、熟観ずる所に往時の再び逢うべからざる多し(修証義)

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 馬場恵峰書 修証義 部分

 馬場恵峰卒寿記念写経書展 写真集(久志能幾研究所刊)より

 

癌の定期検診

 2020年8月19日、愛知県がんセンターで、先週に実施したCTの定期検診の結果を聞きに行った。結果は良好で、特に異常は見つからなかった。ピロリ菌駆除も成功した。癌の手術後1年半、無事に生かしてもらったと仏様に感謝である。因果応報で、そうなるように、今までの「狂った生活」と「狂った食生活」を改め、「狂った医療」からも遠ざかり、生活姿勢を改善させて過ごしてきた。それが正しかったようだ。

 しかしいくら養生しても、あと50年も生きられるわけではない。一日一日、私の命は尽きていく。医師から最低、半年間は癌の病気では死なないと言われただけである。私の場合、手術後、5年後の生存率は51%で、統計計算上は、余命2.5年の命で、後1年の命である。新型コロナウイルスに罹れば、1週間で死ぬかもしれぬ。いくら健康でも不慮の事故に遭うやも知れぬ。明日の命は分からない。

 人の理論的寿命は120歳である。私は、せめてその9割の108歳まで生きたいと精進している。譲って8割の96歳である。長生きこそが親孝行である。

 

生きている間

 生きている間だけだ。お金を使えるのも、人に奉仕できるのも、美味しいものを食べられるのも、生きている間だけ。あの世にはお金は持って行けいないのだ。お金を使いたくても使えなくなる日がやってくる。食べたくても食べられない日がやってくる。だからこそ、やりたいことは、直ぐやるべきなのだ。

 世の中を見ると、此の世で使え切れない金を集めても、まだ足りないと餓鬼にように金を集めている輩がいる。そんなに集めて何に使うのか。もう時間がないのだ。

 命が残り少ないのに、まだ市長に座にしがみ付く愚か者がいる。市長退任後の時間がないのだ。何のために生きていたのか。それで市民が幸せならともかく、無能無策で、大垣は衰退して市民は地獄の苦しみなのだ。

 余分に食べれば、命を鉋で削るように、寿命を短くしている。余分に食べるとは、他の命を奪っている。その命が病気という形で復讐して襲ってくる。それが分かっていて飽食を止められないのを愚か者という。

 医師から余命宣告をされ、その土壇場になって、「金はいくらでも出すから助けてくれ」と医師に泣きついても遅い。医師からそれを拒否されて泣き崩れても因果応報なのだ。

 

奪うものは不幸である。与えるものが幸福なのだ。

 やれるときに、やりたいことをやっておくべきなのだ。そのうち、やりたくてもやれなくなる日が来る。だからこそ今に全力投球せよ、である。

 集めて集めてもきりがない。それより与えることが喜びである。それには限度がない。

 食べても食べてもキリがなく、結果は肥満の醜態となる。肥満は癌の遠因である。少食で満足すれば、美しく健康な体が手に入る。わかっちゃいるけど、やり通せない。そんな私に誰が育てた。自省したい。

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 馬場恵峰書

 

2020-08-25 久志能幾研究所通信 1719  小田泰仙

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2020年8月24日 (月)

ラジコンヘリで昔にタイムスリップ

加齢なる美学(華麗なる美学)

 

 定年まで真面目に働き、義務としての社会の務めを終えて、定年後に自分の時間をもてるとは何と素晴らしいことか。

 定年後の時間は平均寿命80年としても、20年間もある。私の予定は108歳まで? 残り20年としても、一日12時間×365日×20年で87,600時間の広大な宇宙が広がっている。22歳から60歳まで年間2000時間を働くと、約76,000時間を会社に拘束されて働いてきたことになる。しかし定年後はそれ以上の宇宙が広がっているのだ。その時間があり、意識すれば、一仕事が出来る。そう思って、私は毎日精進している。だから現役以上に忙しくて仕方がない。

 今まで40年近く、自分の技を磨いてきたのだから、新しい道は無限に広がっている。一つの道に5千時間も投じれば、飯を食えるプロになれる。その時間はあるのだ。そう思えば、定年後はバラ色である。

 

定年後の闇世界

 世には定年後の生活が地獄の人もいる。国立大学の工学部長まで勤めて、定年退官後、私立大学の学長まで勤めた人が、現在の処遇を泣いていた。「定年まで仕事一筋で働いて、気が付くと家に私の居場所がない。家内が家の中を総て取り仕切っていた」である。その人は認知症になってしまった。

 定年後、契約社員として働いても、能力の低い元部下の元で働くのは地獄である。部下は無く、肩書権限もなく、社外工と同じ扱いである。精神的に参ってしまい、65歳まで勤める人は稀である。

 定年になってまだ家のローンが残っているので、老体に鞭打って働いている人もいる。それでは電話代も奥さんに管理され、電話一つ自由にはかけられない状態になる。お小遣いもままならぬ。自由に外出もままならぬ。趣味もなく、家ではやることがなく、奥さんや子供からは、粗大ごみ扱いである。

 定年後、家で何もせずぶらぶらしていると、奥さんや子供から邪魔者扱いである。人格を高めていないと、父の権限などどこにもない。

 私が昔、一緒に仕事をした人に電話をしたら、奥さんが電話に出て「あんたー、オダって人から電話!」と怒鳴っていた。それでその人の家庭内の扱われ方が露見した。それ以来、その人に連絡はしていない。

 そうならないように、現役時代に準備を怠るな、が教訓である。一番の修養は、己の人格の向上である。

 

若い時にタイムスリップ

 若い頃、やりたくてもお金が無く、時間がなく、世間体があり、親の許しが出なくて諦めたことが、定年後の今なら出来るのだ。そんな素晴らしい時間が、第二の人生である。

 

昔の趣味が復活、人生再生

 私の学生時代の趣味は飛行機であった。当時はお金もなく、勉強も忙しかったので、精々、ソリッドモデル作り、Uコン作り、ゴム動力飛行機作りが精々であった。ラジコン飛行機など夢の夢であった。

 昨日、ご縁があり欲しかったラジコンヘリコプターが舞い込んできた。私の先生が骨董品屋で、激安の値段で売っていたラジコンヘリを見付け、手配してくれた。気に入って早々に居間に飾った。50年前の心境にタイムスリップである。生きていてよかったと思う。癌などで死んでなんかいられない。これが命の泉である。これこそが大人のオモチャの楽しみである。これをバネに新しい仕事が出来る。

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2020-08-24 久志能幾研究所通信 1718  小田泰仙

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2020年8月23日 (日)

共食いの観音様 キアノンEOS R5 ピンボケに

 経営とは、世のために全ての資源を有効活用して、命を生かすことだ。

 強いものが生き延びるのではなく、変化した社会に最も早く適合できたものだけが生き延びる。(ダーウィン)

 キアノンは一眼レフでその強みを発揮して、長くカメラの王者であった。しかし、そのドル箱資産に足を取られて、ミラーレスの展開で他社に後れを取った。ミラーレスが売れれば、ドル箱の一眼レフが売れなくなる。それは経営用語で、「カニバリゼイション(共食い)」という。カメラの時代が変わった。キアノンは過去の遺産に固執して、新時代に対応できず、大幅減益となって、競争に負けた。

 同じ轍で、自分株式会社の経営でも、過去の栄光と遺産にいつまでも固執して、自分の未来をダメにしていないかだろうか。自省しよう。

 

観音カメラとのおつきあい

 私はキヤノンカメラを50年前の高校生の時から使っていた。そのキアノンと別れる決断を昨年にした。

 キヤノンとは観音カメラが語源である。キヤノンの前身は、1933年、内田三郎・吉田五郎によって創立された精機光学研究所である。観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、1934年に完成した日本産初の精密小型カメラの試作機を「KWANON」(カンノン)、そのレンズを「KASYAPA」(カシャパ)と命名した。KASYAPAは、釈迦の弟子のひとりである大迦葉(梵: Mahākāśyapa マハーカーシャパ)に由来している。

 1935年、世界で通用するカメラのブランド名として、Canon(キヤノン)が採用された。「正典」「規範」「標準」という意味を持ち、正確を基本とする精密工業の商標にふさわしく、KWANONに発音が似ていることが、この名称を採用した理由とされている。

 私はキヤノンカメラを、一眼レフPELLIX(1968年頃)、EOS20D、EOS7D-Ⅱ、EOS5D-Ⅳと50年間に亘って愛用してきた。望遠レンズを揃えて、主に飛行機の写真を撮って楽しんでいた。

 

転機

 2014年に河村義子先生とご縁ができて、演奏会の写真を撮るため、シャッター音がしないカメラが必要となり、SONYのミラーレス無音カメラSONY α9を入手して、望遠レンズも揃えた。キアノンでは当時、その種のカメラを出していなかったので、苦渋の選択である。メーカによってマウントが違うので、SONY用のレンズを新たに揃えねばならなかった。

 CANON EOS5D-Ⅳは、馬場恵峰先生の書画の撮影用と飛行機用に大活躍であった。しかし演奏会では、一眼レフは大きなシャッター音を出すため使えない。

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 SONY α9 + 100-400mmズームレンズ

 

キアノンは大企業病

 キアノンは昨年ごろからEOS 5D-Ⅳのミラーレス版を出す出すといいながら、その発売を1年以上も遅らせた。それで、私はキアノンの大企業病に気が付いた。今度出すCANON EOS R5は8段のボディ内臓手振れ補正機能と高性能であるが、製品を出す機会を逸していた。私は既に、キアノンに見切りをつけ、ソニーに転向していたので、CANON EOS R5を買うわけにいかない。

 CANON EOS R5は、従来のレンズマウントと規格が違うので、全く新しいブランドのカメラである。アダプターをかませれば、従来のレンズは使えるが、性能を最大限に発揮できない。それなら、私には既に3本の交換レンズを揃えたSONY α9のシステムを使った方が合理的選択である。SONYレンズならキアノンレンズと違い、アダプターマウントをかませなくても良い。そのレンズの性能もミラーレス用に設計してあり、レンズとCCDまでの距離も短い。

 その最新鋭機EOS R5の画素数が4,500万画素である。1年前に先行して製品化したSONY α7R-Ⅳの画素数が6,100万画素である。フラグシップのカメラを世に出すのに、競合他社製品に比較して寝とぼけた商品企画と言える。大企業病で、それさえ凌駕する気になれなかったのか。

 R5は世界最高の手ぶれ補正とキアノンは謳うが、マニアが欲しいのは、世界最高の画質である。キヤノンはボケてしまったのか。手ぶれはマニアの腕でカバーできる。最高画質は、機械に依存して、マニアは手を出せないのだ。

 今回の決算で、キアノンが大減益となって、前社長の御手洗氏が復帰するという。人材がいないのか。何も80歳越えのご老体に出馬を要請すること自体、大企業病である。

 

共食い

 EOS 5D-Ⅳのミラーレス版の発売が遅れた主原因が、現在ドル箱の一眼レフの防衛である。ミラーレス版が出れば、ドル箱の製品と共食いになって利益が減ってしまう。経営的にカニバリズム(共食い)は避けねばならぬ戦力である。しかしコンペチターがそれを打ち破る製品(ミラーレス)をぶつけてきているので、新製品を出さないのでは、戦術的に負けである。キアノンはその決断が1年以上もできなかった。経営の失敗である。

 それで私はキアノンに見切りをつけた。カメラを変えないと、大事なシャッターチャンスを逃すのだ。時間は待ってくれない。時間は命なのだ。

 

人生の共食い

 人生の転機での決断では、今まで培った財産や能力を捨てて、新しい道への転機が問われる。新しい道を選べば、昔の資産が無駄になる。曖昧な選択では共食いの状態に陥る。それを断ち切って、新しい道に進むのが、人生経営である。八方美人では、やっていけない。果断とは、多くの選択肢から、一つを選ぶことだ。それをしないから、経営が昧になり失敗する。

 

2020-08-23 久志能幾研究所通信 1717  小田泰仙

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