« 2018年8月 | メイン | 2018年10月 »

2018年9月

2018年9月11日 (火)

極楽浄土の方向への旅

極楽の苦 

 9月6日から3日間、西方浄土の方向にある広島市と長崎県大村市に行ってきた。そこで、体験したことは、極楽浄土の近くに行くと、そこは認知症者ばかりの気に溢れ、遠い霊界からも便りがあり、話が通じなく地獄の苦しみを味わうこと。

 極楽浄土には、昔お世話をした人が大勢いたが、私を見て、「あんたは誰だ?」と言われて、悲しくなった。これは地獄だ。極楽浄土にいる人は、お上が決めた悪法でも、それが絶対だと痴呆のように守り、私がそれを指摘すると「なんでや?」と言われて、こちらが地獄も見る。苦である。

 

苦とは

 仏教でいう「苦」とは、通常の苦しみの意味ではなく、四苦八苦の己がいくら努力をしても思い通りにならない人生の掟を意味する。四苦とは「生老病死」で、極楽でも思い通りにならないことが「苦」である。いくら頑張っても老いも病も死はやってくる。その中で、どう生きるかが仏教の教えである。仏教では輪廻転生を説かれている。だから、極楽にも地獄にも「生老病死」はあるようだ。

 

極楽性症候群

 見ていると、極楽にいる人は、一日中やることがなく、考える必要もなく、やる必要がなく、期待もされず、ボケーと安楽にふわふあと暮らしているだけだ。それは現世で「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」の極楽状態である。極楽とは、本人には極楽であるが、周りの人は地獄なのだ。それなら、現世も同じである。地獄はあの世ではなく、この世が地獄なのだ。それが悟れれば、怖いものはない。

 

極楽で地獄の苦しみ

 仕事師の私は、極楽は、気が狂いそうなほど暇で、地獄の苦しみを味わった。相手が認知症では話が通じず、地獄の苦しみである。極楽での喧嘩は、空気とやり合うことなのだ。言いたいことを言っても空気に吸い込まれ、通じない。ぬり壁と戦っているようで、地獄である。仕事をさせてくれ、である

 

地獄の楽

 それに比べて、地獄には人間味あふれた仲間が一杯いる。話し相手も多い。話せばわかる人も多い。閻魔様の掟では、一度でも嘘を言えば地獄行きである。嘘も方便は通用しない。だから全員が地獄行きである。極楽に行く人の多くは、認知症で罪の意識のない人である。

 平和に暮らして、罪を罪と思わずに極楽トンボで人生を過ごした人より、世のためにあえて罪を犯した波乱万丈の人と話した方が面白い。波乱万丈だから、智慧を使って生きてきた。嘘も方便で罪を犯してきた。危機管理で、強弁もした。この世の地獄の業火と真剣に向き合うと、大げんかもするし、戦いもある。それでこそ、火もまた涼し、の境地となる。それこそ現世で、仕事冥利で極楽ある。現世でも、一日中、やることがなければ地獄である。会社で厄介者を辞めさせる手段は、仕事を与えないこと。いろいろと何かがある今が一番幸せなのだ。

 

布袋様の教え

 以上の結論を夢の中で布袋様に教えられて、大村市のホテルで目が覚めた。布袋様は、弥勒菩薩の化身である。布袋和尚は現実性豊かな自然奔放な禅師である。布袋様が背負う袋を、堪忍袋という。その堪忍袋の口を堅く握りしめているのが布袋様である。堪忍袋には稀有なお宝が満杯である。痴呆に満ちた境界では、堪忍袋の口を固く握りしめよ、が教えである。痴呆な人に堪忍袋に入ったお宝を放出しても意味がない。猫に小判である。痴呆の人に怒っても、己が馬鹿を見る。現実を見て、相手を見て堪忍袋から出すお宝を決めよ、である。

1p1110476

 馬場恵峰書  2018年9月7日入手

 

言えない苦しみ=地獄

 大垣市のド田舎は、長老達が何事もなあなあと穏便にすませて、考えたり、問題点を指摘してはいけない極楽世界なのだ。長年やってきたことを変えてはいけないのだ。大垣市各組織の古い幹部達には極楽である。外から来た常識ある市民には地獄である。

 

生きている証

 いろいろとあるから、生きているのだ。死んでしまえば、何もなく、地獄の苦しみを味わうのだ。人生の旅が、サハラ砂漠を行くように平坦ばかりでは、行けども行けども、同じ景色で辛い旅路となる。山あり谷ありと、いろいろとあるから良いのだ。今の難解な雑事をいかに世のためにこなすのが、頭の活性化にもなり、認知症防止にもなり、生きているという実感が湧いてくる。

 以上が今回、西方浄土の方角にある広島と長崎に行ってきた学びである。犬も歩けば棒に当たる。ご縁を得るには出かけねばならぬ。今回は、布袋様に出会ったのが最大の収穫。

2018-09-11  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月10日 (月)

小川敏市長、正気ですか?

「大垣未来フェスティバル」が大垣の未来を創るって!??! どう考えても、小川敏大垣市長は正気の沙汰ではない。町内の回覧で回ってきたチラシに掲載されたようなレベルの行事で、大垣の未来が創造されたら、世の中が狂っているとしか言えない。世も末である。それで大垣の未来が創造されるなら、とっくに大垣も日本の景気も回復しているはずだ。未来を創るのは血のにじむ努力がいるのだ。

 安易なイベントでお茶を濁すから、大垣市の税金が高いのだ。国民健康保険の税率が高い。何が「そうだ、大垣市に住もう」「うそだ、大垣にすまない」なのだ。国民健康保険料だけでも、刈谷市より年間で12万円も高いのだ。小学校のエアコン投資に金を向けないので、県下最低レベルの2.1%の普及率なのだ。大垣で土地を買っても、価値が下がるのだ。

1p1110469

ドサまわり芸人ショー

 何故、単なる芸人のショーが、大垣の未来を創造することになるのか。その芸人の芸がどういう付加価値を大垣の未来に生むのか。その根拠と付加価値額を提示してほしい。

 その行事は、単に市制100周年記念行事予算3億4千万円の消化と、担当者が予算を使い切ったという自惚れと、手配業者を潤すだけではないのか。その陰で、だれか甘い汁を吸っているのではないかと思わざるを得ない。市民の誰が喜ぶのか、示して欲しい。なぜ使用用途と使用金額、会計報告がマル秘なのだ。

 そんなことに子供たちの時間と金を使うなら、勉強をさせる時間や環境を作ってほしい。なぜエアコン普及率が県下最低の2.1%なのだ。市制100周年記念行事の3億円予算を振り向ければ、数校のエアコン費用は捻出できる。それなら大垣市制100周年記念行事はなくても市民も納得する。

 

大垣衰退の証し

 大垣市は衰退の一途なのだ。大嘘のお祭りに浮かれている場合ではないのだ。大垣市の地価は下がる一方なのだ。大垣駅前商店街は人通りが少なく、61%のお店がシャッターを下ろしている。月一の元気ハツラツ市では、市外の元気ハツラツ市の出店の業者だけが、儲かり、その稼ぎを市外に持っていってしまう。大垣市の商店街は全く儲からない。それが衰退に拍車をかけている。先の2018年9月2日の元気ハツラツ市で、某高級商品の商店の店主が「当日は、今年最低の売り上げであった。全ての元凶は元気ハツラツ市」と怒りを述べていた。それが大垣市の衰退を象徴している。その原因は、こんな愚かな市制100周年記念行事に金をばらまき、効果のない元気ハツラツ市を8年も続ける小川敏市長にある。お金が動けば、陰でうまい汁を吸う輩が跋扈するのは、世の常識である。なにせ「会計報告は非公開」と自分で条例を定めたのだ。それを市議会で公言する厚顔無恥ぶりである。

 

 なんで単なるラジオ番組の公開録音が、大垣の未来を創造することになるのか。その展開ストーリを説明してほしい。公開録音が、大垣市にどういう貢献をするのか。数値で示してほしい。

 

 何故、金のかかるパレードが大垣の未来を創造することになるのか。単なる線香花火がごとき一過性の行列である。それで大垣に未来に何が残るのか。その分、大垣市の財政がひっ迫して、大垣の未来がつぶれる。使用用途と会計を明確にして欲しい。それで、どれだけ大垣市民は儲かるのか。どれだけ税負担が増えるのか、減るのか。

 

戦争煽動者のディズニー

 何故、東京ディズニーリゾートのパレードが、大垣の未来に貢献することになるのか。ディズニーは、第二次大戦前に日本を仮想敵国として日本大空襲の推進プロモーションビデオを米国政府のために作った戦争煽動者である。そのために日本は焦土となり日本人は百万人が焼死した。大垣市は昭和20年7月29日に焼け野原になった。小川敏市長はその歴史も知らないのか。なぜ米国の営利企業のTDLの営業宣伝活動に大垣市の税金を使うのか。それが大垣市民にどういうふうに貢献をするのか。それで大垣市民が喜ぶのか。数値で説明してほしい。

 戦争の歴史を知らない世代が喜んでいるだけで、知らされていないという偽情報を与えられている。真実を教えないのも、フェイクニュースである。

 

2039a2590  大垣大空襲でナパーム弾を浴びた跡が今も残る(大悲院禅寺)

3img_3834

4p1080141  広島に落した原子爆弾の模擬弾を練習で大垣に堕とした。(水門川沿い)

 何故、朝鮮通信使行列が、大垣の未来を創造することになるのか。

 

 何故、ドラえもんショーが大垣の未来を創造することになるのか。大垣市民を馬鹿にするな。ドラえもんが大垣の100年にどういう貢献をしたか、釘の一本でも打ってくれたのか。これからどんな貢献をしてくれるかを説明してほしい。

 

 何故、恐竜ロボットが大垣の未来を創造することになるのか。その根拠を出してほしい。

 

 何故、「大垣祭山車特別曳そろえ」が100周年記念なのか。毎年5月に、370年間も定期的に続いている伝統行事を、この100周年記念行事に出す必然性がないではないか。370年続いている行事の伝統を何故、年2回の行事にして伝統を破壊するのか。10万石まつりと大垣祭りの山車の曳きまわしを10月7日と10月14日の連続でやる価値はどこにあるのか。その分、大垣市民の負担が増えるのだ。小川市長に節約の観念は消えたのか。山を曳けば、子供たちも駆り出されてその練習時間で時間がとられて、子供たちの勉強の時間が無くなるではないか。なにが「子育て日本一の大垣市」なのか。

 

 なんで「ワンワンとあそぼうショー」が大垣の未来を創るか。そんな時間があれば、大垣の子供の未来のことを考えてくれ。人を馬鹿にするな。

 

2018-09-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 9日 (日)

お礼 閲覧累計数 40,000回を突破

 お陰様で、2018年9月9日、深夜1時15分に40,000回目の閲覧がありました。皆様の閲覧にお礼申し上げます。2017年5月26日より、ブログを立ち上げて、471日目の出来事です。記事総数は770件です。一日の平均閲覧数は85回で、一日閲覧数の最高値は、272回でした。記事のリストを添付します。

  添付ファイル 記事リスト 1-.pdfをダウンロード   

 

松本明慶仏像彫刻展

 40,000回目の閲覧記事は「白檀の佛像とのご縁」(カテゴリー:仏像彫刻・大仏師松本明慶)で因縁のブログでした。この9月6日と9月7日に、広島市福屋で開催中の「大仏師 松本明慶仏像彫刻展」に行ってきて、帰ってきた後のことでした。

 この展示会では、「魂」を含めて540体の仏像が展示されており、会場は大混雑で、ゆっくり見るのが大変でした。今までの会場では300体くらいの展示ですが、今回の540体の展示では、見るのが一苦労でした。

 

広島新四国八十八ヶ所霊場のお砂踏み

 この展示会では、その下階で「広島新四国八十八ヶ所霊場」のお砂踏み霊場巡りも開催されておりました。そこでは88か所のお寺の砂が88の幅50cmほどのコーナに並べられており、そこを回れば、88か所の霊場を回ったと同じご利益があるとか。そこも大混雑で、行列の後ろからお参りさせていただくだけにしました。何せ、一人、一分くらい、その場所に拝んで留まるので、列が進まない。それでも、ここにお参りしたのが効いたのかも。

 昼から広島新四国八十八か所霊場・69番目札所普門寺副住職様の法話もあり、そのお話しを聴いて感銘しました。それは後日報告します。

 

写真撮影とサラ・ディビス

 その後、九州大村市に行き、馬場恵峰先生宅で、書の写真撮影でした。私がチョッと目を離すと(?)、恵峰先生は大量の書を書き溜めており、写真撮影が大変でした。

 翌朝の9月7日、朝6時出発で広島会場を再訪して、その足で、京都に行き、サラ・ディビスの連続5回公演の第一回目に出かけました。ホールのピアノの真ん前の最前列席で聴いて満足でした。チカれた、ではありましたが、40,000回突破で癒されました。

 

2018-09-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 8日 (土)

殿様飛蝗の教え 五次元思考

 バッタの脳の大きさはゴマ粒の大きさ。生き方も跳び方も、誰からも教えられていない。バッタは本能だけで生きている。それでいて、人の体から見れば、数百メートルは一気に跳ぶ。羽も使うが、基本的に跳躍力だけで跳ぶ。

 

 バッタに「殿様飛蝗」という漢字を充てた先人の目は素晴らしい。「飛ぶ」と「虫」偏に「皇帝」と書いて、「飛蝗」である。そのうち一番大きなバッタが「殿様飛蝗」である。

 バッタは自分の体の大きさの数百倍の先の着地点先を見て、跳ぶ能力、先を見る目の神秘さがある。モノを見る場合、じっと静止して見ているとよくわからないが、頭をゆすってみると三次元的に良く見える。バッタは二つの複眼以外にもう一つの目で、三次元的に、跳ぶ先を確認してから跳ぶ。だから正確に跳ぶ先に着地する。

 以上は松本明慶師より、9月6日に教えてもらった。広島市・福屋での「大仏師松本明慶仏像彫刻展」(9月6日~9月11日)が開催中です。

14k8a8928

   松本明慶大仏師作

 バッタは全長4センチ、全て一木削り出し。これは手間がかかりすぎて、明慶先生でも年に2つしか制作できないとか。この作品は、ここまで技術的に作れるという技の極みである。この技術が佛像制作に生かされる。いわば仏像彫刻のフォーミュラカー。

 

霊長類の能力

 霊長類で生物の頂点に立つ人間が、なぜ、地面を這って愚かな歩みを続けているのか。なぜ、三次元的だけでなく、歴史を踏まえて4次元的に先を見て、前進・跳ぶ決断ができないか。バッタでさえ3次元的に先を見るなら、人間は歴史を踏まえて、ものを見るべきだ。自分はそうやって決断をしているだろうか。

 

畏敬心の喪失

 現代人は頭でっかちになり過ぎていないのか。自然に対する畏敬を失い、持てる能力を使わず、周りの状況を見ず、4次元の時間軸の先祖の恩・歴史の流れを忘れ、利己主義に取り浮かれた鈍重な塊になって跳ぶに飛べない体になった。毎回同じ歴史の過ちを繰り返す。生物の理霊長類の人間だから、持てる本能を駆使して、見るべきものを見て未来に跳びたいもの。

 

五次元の判断

 霊長類の人であるなら、目に見えない第5次元目の「霊」の次元を考えたい。それには眉間の間の第三の目を開かねば見えぬ。目に見えないものを見てこそ、霊長類である。目に見えないものを大事にする人が成功する。成功者は目の付け所が違うのだ。目に見えない複雑な縁が錯綜して生かされている自分である。それに気が付くのが、幸せの近道である。

 

2018-09-08  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 7日 (金)

お釈迦様と人生の逆走者

 いつもは寡黙なお釈迦様が最後の大事な法話をされるというので、3000人の弟子が集まった。

信心深い弟子たちは、心待ちにお釈迦様が口を開くのを待った。傲慢な弟子は、「釈迦が最後に大事な法話をするというなら聞いてやろう。どんな話をするか見ものだ」と上から視線の態度でお釈迦様を見つめていた。

 しかしいくら待っても、お釈迦様は、じっと目をつぶり座禅を組んで瞑想を続けておられた。舎利子(お釈迦様の一番弟子)が、「お釈迦様、皆がそろいました。ご法話を」と。それでもお釈迦様は瞑想を続けた。

 そのうち、弟子が一人去り、二人去りと座を立って行った。舎利子が「お釈迦様、ご法話を」と2回目の督促をしても、じっと目をつぶり座禅を組んで瞑想を続けておられた。しびれを切らして、さらに多くの弟子が席を立っていった。

 ほとんどの弟子がいなくなった頃、お釈迦様はおもむろに目を開けて「さて、本当に私の法話を聴きたいという弟子だけが、残ったようだ。それでは法話をしようか」とお話を始められた。

 3千人いた弟子で、残っていたのは23人だけであった。口先でお釈迦様をいくら美辞麗句で褒めても、実際に残るのは3千人いても23人だけなのだ。後の衆生は、お釈迦様の説く道を逆走する裏切り者なのだ。

 

法華経の教え

 以上のお話は法華経に書いてあるお話である。いくら口で美辞麗句を並べても、実際にお釈迦様の教えを行動に移す人は千人に3人である。千三つとはよく言った言葉である。

 昨年の2017年、私は、馬場恵峰先生の90歳の卒寿記念として『馬場恵峰卒寿記念写経展 報恩道書写行集』を書籍として発刊した。馬場恵峰先生がこの30年ほど揮毫してきた写経の軸、書、屏風を長崎波佐見町の「馬場恵峰卒寿記念写経展」で展示され、それを私が写真に撮り編集をして、写真集として出版した書籍である。

 

出版顛末記

ところが全く売れない。買ったのはお弟子さん達だけで、関係のお寺さんも見向きもしない。先生が講師として、1億数千万円以上の売り上げに貢献した大阪のN教育研究所のT社長が買わない。直接、案内を送っても、社長もその幹部も買わない。その社長は、口では道徳だ、人徳だと宣伝して商売をしている。先生にお世話になっている九州のT塾のO社長が買わない。その関係者が買わない。その社長たちや幹部は、「先生には大変お世話になっています」と口では言うが、肝心な時はそっぽを向く。大会社の社長の身で、わずか7000円の出費なのに。なぜ恵峰先生の卒寿のお祝いの心が表せないのか。社長業は家庭の主婦ではないのだ。私はT社長とは縁を切った。

 

2000年の人間の歴史

それが「人生の真理だ、2000年前の法華経にそう書いてある」と、恵峰先生から慰められた。「それでその社長や関係者の人間性の本音が露見して良かったね。今後の付き合い方を変えればよいのだ」と恵峰先生から慰められ、先生と今回の事象を慰め合った。本が全く売れないのは、恵峰先生にも想定外であったようだ。恵峰先生が、心血注いで揮毫してきた写経集である。年老いてからの、世間から突き付けられた厳しい現実である。ゲーテが言うように、「努力は人を裏切る」のだ。今年の初めの話である。

 

人生の真理

私は、今回の顛末で法華経から人生の真理を学んだ。2000年の風雪に耐えた経典は素晴らしい。司馬遷の『史記』に出てくる人間模様と同じく、人間の本質は2000年前と何ら変わっていない。むしろ拝金主義の横行で、人間性が劣化しているようだ。

 

2018-09-07  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

 

2018年9月 6日 (木)

73万円の人生をゲット

 私は制服として、白のカッターシャツを着ることにしている。だから今日は何を着ようかと迷うことがない。いくら定年退職したらと、だらけた服装だと、生活リズムも狂う。着る服で迷うとは、時間の無駄である。

 

クリーニング代節約

 それも白のカッターシャツである点で、73万円の節約となっている。白のカッターシャツのクリーニング代は150円、カラーのカッターシャツだと200円になる。服を着る以上はパリッとした格好で人に会いたい。だから私は 毎日、クリーニングに出す。その1日の差は50円。それが365日、40年間(?)続くと仮定すると、73万円の集積となる。73万円は己の人生なのだ。その分を、自分の人生に投資すべきだ。一事が万事で、そうやって節約したお金で、人生を買っている。浮いたお金を本代に向けるのも投資である。

 

迷う時間を排除

 着るものを白のカッターシャツと決めておけば、着るものの選択に迷う時間もなく、人生の節約ができる。選択に迷う時間も、1100円の時間コストがかかっている。時間は命なのだ。

 

会社生活時代

 私の勤めた会社が製造業で、技術・研究関係過ごしたので、服装はナッパ服、現場作業衣、鉄の入った安全靴で過ごした。スーツもいらず、日頃の普段着はカッターシャツにブレザー、夏は白のカッターシャツで過ごしていたので、服の選択で悩む時間は少なかった。お陰でお金と時間の節約ができたと思う。

 

人生の大事を急げ

 服を選ぶ時間で余計な時間を使うのは無駄である。大事なのは外形より、己の内面の身繕いなのだ。ボロを着ていても、心は錦なのだ。自分は人生に何の時間を投入したいのか、自問したい。自分の人生の大事は何か。それ以外は、そこそこで済ませればよい。

 

Photo   馬場恵峰書

2018-09-06  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

 

 

2018年9月 5日 (水)

優しい人がガンになる

 憎まれっ子世に憚る。優しい人がガンになる。優しい人は、言いたいことも言えず、仕事を抱え、問題を抱え、悩みを抱え、ストレスを多く抱えるからガンになる。ガンまでも行かなくても、胃潰瘍、神経失調症、不眠、うつ病になる。ストレスがあるから、食べてはいけないモノを余計に食べて、肥満になり病気の原因を作る。

 私はガンになる要因の半分は、精神的なものだと思う。最近、身近な人がガンになられて、私は落ち込んでいる。

 

正道を行く

 正しいことを嫌われていいから言おう。言わなくてストレスをため込むよりいい。そうしないと、鬱病になってしまう。そうすると自分の人生時間を病気に奪われる。家族を悲しませる。正しいことを言わないと、その組織は死ぬ(倒産、失業)。正道を行って、冷遇されたら、それは組織の方が間違っていると思おう。違法なら、いつかは露見する。正論を言わないと、業務上過失致死罪に問われる恐れさえある現代である。

 タカタのエアバック事件、三菱自動車の事件、JR西日本の違法教育が起因の脱線事故を起こすより、正しいことを言って、左遷された方が、死亡事故を起こすよりも、また自殺に追い込まれるよりはいい。正しい辞職や左遷は、自分の運命を好転させる。それは仏様のご配慮と思おう。

 上司の違法な指示に従うのは、会社での成功(出世)が、人生の勝利の価値であると洗脳教育をされているのだ。電通で、東大出の女性が過労で自殺に追い込まれた事件があった。彼女は会社の出世至上主義教に洗脳されたのだ。死ぬくらいなら何故、やめなかったのか。命と出世とどちらが大事なのか。障子を開けてみよ、世間は広いぞ、別の道がいっぱいあるではないか。

 

自分の価値観

 会社内や世間での成功が、一番の価値観と思うから、定年後に不幸になる。自分の価値観を会社の価値観に迎合させた罰である。人がどう思おうと、自分が幸せと感じればよいのだ。自分が幸せになる努力を必死にやろう。そうやって水木しげるさんは幸せを手に入れた。

 最近、水木しげるさんの版画を入手してから、水木しげるさんの生き方に興味を抱き、著作を7冊ほど入手して読み込んでいる。そこで共感したことにヒントを得てエッセイを書いている。

 

気とは

 「元気」、「やる気」、「病気を治す気」になる「気」になろう。正しく生きる「気」になろう。「気」は旧字では「氣」と書く。「米」は米粒のような小さいものの意味。音符の「気」は湧き上がる蒸気の意味。霊気、水蒸気の意味。その気にならないと、何事も成就しない。日本の景気が良くならないのは、政府に景気を良くする本「気」がないから。デフレだ、少子高齢化のせいと、諦め「気」味になっているからだ。

 

水木しげるサンの幸福の7か条

 1.成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

 2.しないではいられないことをし続けなさい。

 3.他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

 4.好きの力を信じる。

 5.才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

 6.なまけ者になりなさい。

 7.目に見えない世界を信じる。

 

好きなことに全力投球

 ノーベル生理学賞を受賞された大村智先生も、稼ごうとして特許料200億円を得たわけではない。研究が好きだったのだ。水木しげるさんも稼ごうとして妖怪漫画を描いてきたのではない。絵を描くことが好きで、片腕しかない身で、それしか生きていく術がなかったからだ。家族思いの水木さんは、生活の糧を得るのに必死だったのだ。必死ではあったが、水木サンルールを作って、それを信条に生きてきた。だから93歳の天寿を全うした。

 

睡眠の水木ルール

 水木さんは、「ゲゲゲの女房」の布枝さんに「手塚さんも、石ノ森さんも、みんなすごい漫画家だったけれど、あの人たちは眠らずに仕事をした。オレもあまり眠らなかったけど、あの人たちはそれ以上だった。だから早く死んでしまった。人間は眠らなきゃダメなんだ」(p217)と回顧している。ご先祖から頂いた命だ。大事に使わなくては罰が当たる。

 

なまけもの

 「ナマケモノになりなさい」は、水木さんの超一流の逆説的な言い回しである。水木さんほど、死に物狂いに漫画を描き続けた人はいない。自分の好きな道だから、人から言われなくとも必死になれる。それ以外の世間の雑事はなまけなさい、である。

 新婚当時、水木さんが一心不乱に漫画を描いていた。その後ろ姿からオーラがでていて、新妻の布枝さんは、水木さんの仕事姿を、ぼーっと眺めて感動したという。

 その二人が年老いて、富士山の小屋に行ったとき、布枝さんは、「私じゃない人と結婚していたら、どうなっていたのかなぁ」と水木さんに聞いた。水木さんはポツリと言った。「よかったんじゃないか、お前で、いつもぼんやりばかりしていて」、「ぼんやり? 私、ぼんやりしている?」、「とんでもなく、ぼんやりだ」、「そうかなぁ」、「ああ、横を見ると、いつもお前がぼんやりと立ってたな」。

 黙って見守るのは慈愛の仏様なのだ。ごちそうさまでした。水木さんは、慈愛に満ちた仏様に見守られて、93歳の天寿を現役のまま全うした。

(内容の一部は、武良布枝著『ゲゲゲの女房』実業之日本社刊 を引用)

 

2018-09-05  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 4日 (火)

2600万円の医療費請求に真っ青

 先ごろ、私宛の医療費2,600万円の請求書をみて、将来が絶望的になり、病気になりそう(?)になった。この8月に、今年度の国民健康保険の金額が確定したと大垣市役所から通知が来たのだ。その金額と、月に一度、3つの病院に行く費用を合算すると年間に65万円ほどの金額になる。これが40年間続く(?)と仮定すると、合計で2,600万円となる。

 その原因を調査した。原因は、小川敏市長の経済政策の無能と食品メーカの暗躍、マスコミの忖度である。

 

対策

 医療費を安くするには、早く死ねばよい。しかしまだまだこの世に未練があり、あと40年(?)は生きたいと思う。

 国民健康保険の費用は、自分でいくら健康に気を付けて精進しても、安くならない。だから落胆したのだ。日本国全体の医療費は40年前に比べて10兆円から40兆円と4倍の増加である。その分、国民健康保険の金額も上がっている。

 せめての対策で、私のブログで本件課題の摘発と病気撲滅の啓蒙活動を行い、少しでもその費用が減るように、世に貢献したい。

 だから死んでもいいけど(?)、健康管理は死に物狂いでやらねばなるまい(?)

 

小川敏大垣市長の責任

 国民健康保険は、市町村毎に基準が決められており、その都市の財政状態でその基準が変わる。結果として市の経済が衰退しつつある大垣市の国民健康保険料はド高いのだ。全て小川敏市長の経済政策が無策であるため。大垣市長の最大の仕事は、大垣市を繁栄させること。大垣市民の国民健康保険の費用を安くする一手段は、大垣市の経済発展である。

 

大垣市の国民健康保険の税率は35%高

 市民のかかる病気は、人間だから全国で同じである。一人当たりの医療費も同じくらいである。だから市民の年収が少なければ、税率を上げて国民健康保険の税収を稼がねばならぬ。大垣市民の年収は全国平均より100万円も低いので、その分の税収を、国民健康保険の税率を上げて対処している。そうなったのは全て行政、小川敏市長の経済政策が極悪であるのが原因である。経済がうまくいっている刈谷市と比べると、衰退の大垣市のそれは税率が35%も高い。市民にはそんなことはマル秘なのだ。単独でその税率の数値を知らせるだけだから、市民はそんなものかと関心がない。私も今日になって、他市と相対的な調査をして初めて分かったことだ。普通の市民は全く知るまい。

 大垣市の国民健康保険の税率で、所得割は11.29%で、刈谷市のそれは8.8%なのだ。刈谷市の規模は大垣市と同規模である。さらに狡猾な大垣市政は、国民健康保険の税率に他市にはない「資産割」を黙って付与して課税している。刈谷市にはこの課税はない。その額、おおよそ1万6千円。日本人の平均年収420万円(2017年)とすると、大垣市民の国民健康保険金額(年間)は約53万円で、刈谷市のそれに比べると約10万円も高いのだ。

 皆さんも、自分の市の国民健康保険の税率、金額を他市と比較するべきでしょう。それで行政の姿勢がわかる。市はその金額が高いか低いかなど、口が裂けても言わない。

Photo

食品会社の責任、テレビ広告の責任

 今の世相は、食品企業の金儲け主義で国民の健康が侵されている。私は医学には素人だが、今までの情報と自分の病状を総合すると、食の快楽を求める風潮が氾濫して、その弊害で医療費が上がっている。その結果として男性の6割、女性の4割の人がガンで死ぬ結果になっているようだ。

 食品会社は食品の味に至福のポイントを開発するために多大の開発費を使う。食品会社は消費者の健康を考えて商品開発をしていない。食品会社が求めるものは、売上・利益で、そのために健康とは無関係で売上に直結する味付けである。食べだしたら止められない味付けの開発である。それには毒(化学調味料、糖分、脂分、防腐剤)が含まれている。それが病気の主原因だと、私の体験や各種データから見て推定した。

 

マスコミの忖度

 食品会社はマスコミの主スポンサーなので、テレビを筆頭にマスコミも触れない事項である。40年前に比べて日本の医療費が4倍に高騰して、何故、国民の半分がガンで死ぬ状況に激変するのか。医学が発達して医療費が増えれば、病気は減らないとおかしい。なぜガン患者が増え、認知症患者も増え、それが話題になるのか。40年前はそんなこと話題にも上らなかった。おかしい。それの真因にはマスコミは、食品関係のスポンサーに遠慮して報道しない現実がある。我々に残された手は、自己防衛である。私は、間食なし(目標です)、禁酒、油・糖分・添加物の入った食品を避けている。

国民健康保険の税率    1-.jpgをダウンロード

2018-09-04  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 3日 (月)

400万円をゲット

携帯電話5分間の無制限契約

 今まで携帯(ガラケー)の契約は「5分間まで無制限のかけ放題」にしていた。契約した当初は、そんなに電話もかけず、時間制限5分もあれば十分だと思っていた。実際、当初に発生していた費用も1000円余であった。

 それが、最近、ブログを立ち上げたこともあり、電話をすると20,30分も話すことが多くなった。ある日、気になって明細を見たら、長い間、1万数千円の請求額が続いていた。携帯電話の請求は、月に一度のクレジットの請求書の中で、多くの行の中に紛れて、請求が一行で記載されているだけだから、この1年ほど気がつかなかった。愚かであった。

 

24時間の無制限契約に変更

 それで「5分間までの無制限」から、今回「24時間の無制限」の契約に変えた。それで毎月の基本料金が1080円から2,128円に増えるだけである。この処置で毎月の携帯電話料金が1万円以上も激減した。年間10万円、40年間で400万円の節約である。(あと40年?を生きる予定で。その頃はテレパシー通信で無料?)

 

固定電話の請求書

 固定電話の請求書は、別料金で毎月、紙の請求書と明細が来るから、注意はしていた。しかし携帯電話の請求金額がいつしかネット掲載になり、手元に紙の請求書が届かなくなった。そのため、使った金額がノーマークとなっていたわけである。固定電話の請求書もネットでの明細にすれば、毎月の100円の経費は不要となる。私は今でも、それをあえて100円を払って紙の請求書の郵送にしている。費用の「視える化」である。

 固定電話も携帯電話も同じ会社にして、まとめ請求とすべきであろう。現在は固定電話と携帯電話の会社が違う。近い将来、その変更をしようと思う。

 

スマホはやらない

 私は頑迷にガラケー派である。何もあんなに小さいスマホ画面を睨んでまでしてネットをやりたくない。所用は携帯電話で充分である。ネットは自宅の大画面(27インチ)でやれば済む話。今の私には、そんなに1分、1時間を急がねばならぬ用もない。急用は携帯電話で事足りる。スマホがあれば便利かもしれないが、お金がかかる。月に数回の便利さだけで、スマホの通信費用約5000円を払う価値があるか、冷静に考えた方がよいと思う。新幹線の予約など事前にPCですればよいこと。 

  5000円があれば、私はその分を本代に使う。現在の私の毎月の書籍代は4万6千円。それがこの40年間、積もり積もって、自宅の蔵書の総重量は4トンである。その値は数年前のリフォーム工事で、本を引っ越し時に測定して判明した。我ながら呆れもした。段ボールで150箱あった。

皆さん、スマホをいじる暇があったら、本を読みましょう。

 

スマホのゲームの罠

 電車でスマホに取り組んでいる人を見ると、ほとんどがゲームである。日本人として情けない話である。私はゲームはやらない。陰の黒幕が日本人を堕落させるための陰謀だと思う。

 友人が、妻が月に3万円程、スマホのゲームに金を使うと嘆いていた。スマホのゲームは麻薬のようで、やめられないようだ。妻にいくら言っても聞かないようで、お手上げとか。これはWHO(世界保健機関)が認定している「ゲーム依存症」という病気なのだ。「誰がゲームで儲けているのだ!」と考えないと生活が知らず知らずのうちに破壊される。

 

2018-09-03  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年9月 2日 (日)

「生老病死」で人生賛歌

 「生老病死」は四苦といわれるが、見方を変えればそれは人生の喜びである。それを四苦と見ると、生命の存在を侮辱することになる。生あるものは、必ず死がある。死を考えるより、生まれたことを喜ぼう。

 

 生とは、何ものに代えがたい喜びである。筑波大学の村上名誉教授の説では、人間として生まれる確率は、1億円の宝くじが1億回連続で当たると同じくらいの幸運である。己が牛、豚に生まれなかったことを喜ぼう。

 

 老とは、大成する意味で、人間としての到達点である。大老、長老、と大事な名前である。それは精神の熟成である。最近は、年をとっても精神が痴態化する人が増えた。それは老成とは言わない。退化である。老になれば、尻の赤い若造ではないのだ。

 

 病とは、命を長らえさせる役目があるから、長生きできる。病を得ても、直ぐ死ぬわけではない。病は神仏からの警告である。そのままの生活態度なら、死は早いよと、優しく教えてくれている。その悪い生活習慣を直せばよいのだ。そんな親切な声に喜ぶべきだ。

 病とは、人生道を制限速度以上で突っ走ってきて、神様からスピード違反の切符を切られただけである。師も見込みのない弟子には、何も言わない。言っても無駄だから。言ってももらえただけ幸せである。少し人生の疾走速度を落とせばよいだけだ。自分の体が悲鳴を上げているのに、それを無視するなど鬼である。そのまま走れば突然死である。突然死は、何物にも代えがたい悲劇である。病とは、人生道スピード違反の取り締まりレーダなのだ。それを無視すれば御用で、あの世生きである。

 

手塚治虫さんの死

 手塚治虫さんはスキルス性胃癌におかされた。当時の習慣として本人には病名は告げられなかった。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚さんは、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。最後は昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言って、死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と仕事への執着心を無くさなかった。それが手塚さんの最後の言葉であったという。

 

人生の「水木サンルール」

 天才と呼ばれた手塚治虫さんは、仕事に超多忙で、いわば暴走して60歳で亡くなられた。命を削って仕事をされたのだ。まるで突然死である。例えれば神様から超高性能ベンツを与えられて、命の意味を勘違いして飛ばし過ぎたのだ。

 水木しげるさんは、途中でそれの誤りに気が付いて暴走スピードを抑えて、仕事量を減らし、人生の「水木サンルール(幸福の7か条)」を取り戻し93歳の人生を全うされた。長生きしたから、紫綬褒章、文化勲章を授与された。水木しげるさんは血のにじむ努力をされた方で、手塚さんのような天才ではないと思う。その生き方には、妖怪の導きと援助があったように見える。妖怪の霊が、いつも水木さんを見守っていたようだ。

 凡人の私には、天才肌の手塚治虫さんより、水木さんの生き方が参考になる。我々に与えられた人生の乗り物は、良くて日本車の2500ccクラスの能力なのだ。水木さんは、その車を大事に乗って、境港市に水木ロードを作った。

 

 死とは、生を生むために前工程である。死があるから、生がある。死なくして生はあり得ない。生まれるてくる胎児も、手の指の間の細胞が死ぬことで、指が形成される。今あるモノが死ぬことで、新しいものが創られる。

 徳川家康や菅直人やヒットラーが、現代でも生きていれば困る。菅首相が今も首相の生命を保っていたら、日本は破滅である。徳川家康がまだ生きていたら、安倍さんも政治がやりづらかろう。TTPどころか、鎖国である。徳川幕府が死んで、明治政府が生まれて日本は発展した。死は現状に新しい息を吹き込むのだ。死があるから緊張感がある。任期もその職の死である。死があるから、任期を意識して仕事ができる。

 いつまでも己がその座を死守して居座っていては、後進が育たない。新しい目が出ない。後進に道を譲るのがそのポストの死である。そうやって組織は成長していく。新陳代謝のない組織は、永遠の死があるだけ。

 

 余生とは、生への冒涜である。人生で余った生などあり得ない。余命を楽しむ人は認知症の人である。すでに死んだ状態である。毎日が、新しい命の生まれであり、寝る時がその日の死なのだ。翌朝、まだ息をしていれば、まだこの世でやることがあるとの神仏の声なのだ。「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」では、業病に悩む人は、その命をくださいと懇願するだろう。

 

水木サン 幸福の7か条

 1.成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

 2.しないではいられないことをし続けなさい。

 3.他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

 4.好きの力を信じる。

 5.才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

 6.なまけ者になりなさい。

 7.目に見えない世界を信じる。

 

お見舞い品

 以上は平澤興著『平澤興語録 生きよう今日も喜んで』(致知出版社 1000円)にある「四苦即四喜」の章の内容にヒントを得て記述した。著者は元京都大学総長で、ノーベル賞候補にもなった業績を上げられた。この本は、小冊子で全152頁、大きな活字で少ない文字なのですぐ読める。これは病気見舞いに最適の本である。私は今までに病気になった方に累計で30冊ほどを贈っている。皆さん、この本を読んで、生きる力をもらったと大変喜ばれる。病気でなくても、生きる力をもらうために、お勧めの本である。

 

2018-09-02  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。