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2017年7月

2017年7月 3日 (月)

母の思い出  2/3

母の死生感

 母は死に対して達観していた。食べたいものも食べれないような生き方をして、無理をして長生きなどしたくもないという性格で、私は太った体重を減らせと何度を言ったが、とうとう聞いてくれず、これが遠因の脳溢血で逝ってしまった。これだけが母の欠点であった。

 倒れてからも、死ぬことなど、何も恐ろしくないと病床で言っていた。凡人には言えない言葉である。自分の死期を察し、その死後の準備と指示までしてくれた母は並みの人ではなかったと、今にして感ずる。自分の老後の設計をして、それを活用することなく、父と私のために生きた母には感謝してもしきれない。

 母の死期が近づいた日々の数カ月を、1~2日に一回の頻度で、就業後の深夜、家から実家の市までの往復170㎞、速度制限50キロの堤防上の道を・・キロからの速度で飛ばして母の入院する大垣市民病院に通った。意識のない母の顔を見ることと父に顔を見せることが、せめてもの親孝行だったと自分で慰めている。しかし、意識のない母が段々と衰弱していき、死期が近いことを嫌でも認識させられることは、実に辛い残酷なことであった。

 極限状態は、真の母の親友を浮かび上がらせてくれる。生前、その後も色々と御世話になった知人の方には、感謝してもしきれない思いがある。

 

母からの逃亡

 出来過ぎて頭も切れ、私に構いすぎるので、私はうっとうしく母の元から離れたかったので、三河で就職をした。大学で特待生を獲得したので、担当教授から地元の企業ではなく、もっと活躍の場のある三河の企業を紹介された。学校推薦であるので、母は地元に置いておきたかったが、母も諦めて私を手放した。

 おかげで私は母の引力圏を飛び出すことができた。それでも電車で1時間、車で2時間の距離の程よい距離で、今にして良き就職であったと思う。これが東京への就職では、母への毎日の病院見舞いもできなかったはず。そのご縁で、仕事の上でも良き経験をした。地元の企業では、その経験はさせてもらえなかったと思う。お陰で世界を相手に仕事ができた。

 

子供の務め

 病院嫌いの母が、頭が痛いと言っていた時に、「医者に行け」と言ったのだが聞いてくれず、脳溢血で倒れてしまった。今にして思えば、首に縄をつけてでも、病院に連れていくべきであった。返す返すも、悔いが残る。老人がかかる病気の初期症状(特に脳溢血)を熟知することも、大いなる親孝行であると、反省した。脳溢血での数日、数時間の処置遅れは致命的である。なにせこの世には、お金で買えないものがある。

 

現代医療の疑問

 既に数カ月も意識のない体に無理やり注射をし、薬付けの治療をしている。意識が戻った時に、数カ月も使わなかくて弛んだ機能しない筋肉が、元通りに再生するとは、素人の私からも理解できた。そんな単なる延命治療は、神の意思に背くのではないか。かえって家族には酷い気がするのを、亡き母の治療で身近に感じた。意識のない母の各細胞が刻一刻と再生不能な領域に行きつつあるのは、理性ある人間ならいやでも認識させられる。自分の意思では呼吸を出来ないのを、人工呼吸器で数カ月間も生き長らえさせる現代医学の意味を考えた。

 この現代医学治療の最大で唯一の恩恵は、母の死に対する心の準備をゆっくりさせてくれたことだ。しかし、これは真綿でじわじわと首を締められるようで、別の苦みを味わわせてくれる。お見舞いに来た親戚の叔母が言った。

「地獄など来世にはない。この世で、辛いことを耐えるのが地獄の苦しみである」

 

自然界の法則

 この世は原則として不平等である。自然界・生物界で、全て平等などの現象はありえない。それを、エセ民主主義を振りかざし、無理に平等だとするから話が拗れる。最近、私は死生感がハッキリしてきた気がする。この世は、自然界の方法に則っていて、いくら人間の知恵を働かせても死ぬべきものは死ぬのであり、それに逆らうのは大きなエネルギーロスで得るべきものが少なく、人類全体には却って大きな損失ではないのか。それをさらに臓器移植で、何とかしようというのは何故か納得がいかない。そもそも神の前では、人間など小さな存在だ。だからこそ与えられた運命を受け入れることが大事なのではと思う。死ぬべき運命ならそれを受け入れる心を、そうでないなら、最大限の生きていく努力を持つべきだと思う。最近、良寛の悟りきった下記の言葉が素直に受け入れられる。

 

「災難に遇う時期には、災難に遇うのがよく候。死ぬる時期には、死ぬるがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」良寛

 

臓器移植への疑問

 臓器移植には、その行為自体に矛盾が存在する。なまじっか他人の臓器を頼るのは、それによって、却って他の人の命(臓器提供者の)を縮めることにはなりはしないのか。片方で人の生を渇望し、そのために臓器移植のための人の死を渇望する非情さに矛盾を感じる。臓器移植での人体の拒絶反応は、ある意味での神の示す意思である。それを克服しようとするのは、人間の傲慢さの現われではないのか。世の法則である自然淘汰には、神の深遠なる配慮があると思う。その点で、私を五体満足に生んでくれた母に感謝である。この恵まれた環境を生かして、精一杯生き抜くことが、母への感謝と餞である。

 2017-07-03

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

書の著作権は馬場恵峰師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。

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2017年7月 2日 (日)

『文章読本』が日本を殺す (1/2)

 日本には『文章読本』なる書籍が、200冊を越える。その中で我々ビジネスマン、技術者がビジネス文・技術論文を書く上で参考になる書は少ない。特に小説家、文学者の書いた文章読本では特に少ない。この200冊を越える事実は、いかに正確なビジネス日本語を記述するガイドブックの決定版が世に生まれていないかの証明でもある。その多くは、遊びの文芸と死闘のビジネス文の区別がつかず、感性としての文章の書き方の記述をしている。この種の文章読本ではむしろ、大学教授、ジャーナリストが記述した書が参考になる。文章読本は内容を文芸用とビジネス用で、その内容を峻別すべきである。

 

 どんな文章読本でも、文章力向上のために「名文を読め」「多読せよ」と共通した主張がされている。この主張は作家、ジャーナリストでも同じで、文章力向上のために一つの真理である。しかし、正しく書かれた文章を多く読まないと、文章力は向上しない。その観点が、現状の文章読本には抜けている。オウム真理教のように、間違った方向で、いくら厳しい修行を積んでも、行き先は絞首台である。道元禅師も「正師に付かざれば、付かざるにしかず」とまで言い切っている。某大手新聞社のHPの広告で、「私はこの新聞社のコラムを写して文章を勉強しました」と某女子学生が記しているが、起承転結の氾濫する新聞コラムをいくら写経しても、論理性は学べない。

 

 もう一つの論点で、起承転結が主張されるが,これの推奨があれば文芸用(お遊び)だと判断して本を閉じること。谷崎潤一郎をはじめ小説家の著した文章読本は全てこの論法である。読者が小説家志望ならこの限りではない。現在も年30冊近いペースで文章読本の類の書が発行されているそうだが,それだけ決定的な書がない証明である。

 

6.1.1  ビジネス文書を書くための推薦図書

 

篠田義明著『科学・工業英語』通信教育用テキスト

            日本テクニカルコミュニケーション協会 1984

篠田義明著『コミュニケーション技術』     中公新書    1986

篠田義明著『書き方の技術』          ゴマ書房    1989

篠田義明著『英語の落とし穴』         大修館書店   1989

『わかりやすいマニュアルを作る文章用字用語ハンドブック』

    テクニカルコミュニケーション研究会編 日経BP社   1991

篠田義明著『科学技術論文・報告書の書き方と英語表現』日興企画 1994

『説得できる文章・表現200の鉄則』  日経BP社      1994

J.C.Mathes Dwigth W.Stevenson“DESIGNING TECHNICAL REPORTS”Macmillan

MARY A.DEVRIES“THE BUSINESS WRITTER’S BOOK OF LISTS”       1998

篠田義明著『ビジネス文 完全マスター術』   角川書店     2003

照屋華子著『ロジカル・ライティング』東洋経済新報社       2006

福田・豊田著『仕事が早くなる文章作法』日経BP社       2014

 

 科学・工業英語の書き方を学ぶことにより,日本語で文章を論理的に記述する手法が見えてくる。下手な文章読本を読むくらいなら上記の書で英語を勉強したほうが,よほど日本語力が身につく。外国語を学ぶとは、自国語を学ぶこと。他国の言葉で、自国語を考えると、自国語が良く理解できる。一か国しか話せないのは、語学力が低いと言える。二か国語が話せるのは、バイリンガルだが、一か国しか話せないのをアメリカンという。それほどに、米国人は自国語以外を勉強しない。それ故、現在の国としての横暴さがある。

 

ブラックユーモア

 最近の製造業の開発現場は不況・円高のせいで、コストダウン、経費削減、節約一辺倒であるつい最近、そのあおりで、研修でコストダウン、原価管理の教育を受けさせられる羽目になった。その時のコストダウンのテキストを読んで反面教師を認識した。その反面教師とは、そのテキストが後述の文章読本以上に分かりにくい文体で、経費削減、コスト削減の思想、手法を記述していたこと。これではコストダウン以前にその本を理解するのに、余分のコストが必要とされるブラックユーモアであった。こういう類の本こそ、簡潔明瞭な、コスト意識に目覚めた文体が要求される。文章は金なりを認識した。(この項1995年記)

 

 上記の文を記述して20年が経ったが、日本経済の状況が変わっていない。政府と経済学者の無能さを証明している。経済学者は「失われた20年」と受動形の無責任な表現をして、だれの責任なのかを追及しない。追及されては困るので、「失われた20年」という表現で国民を煙に巻いている。経済学者の言うことが正しければ、経済学者は全員大金持ちになるはずだ。現実は、訳の分からない理論を文芸作品のように、わかる話をわざと芸術的に難しく書いて、著者が悦に入っている経済書が多い。テクニカル・ライティングのお作法からすれば、零点の書である。象牙の塔の大学の経済学者の書く経済書は、信用がおけない。その陰で、欧米からのグローバル経済主義企業の圧力で、ますます企業は追い詰められて、自分で自分の首を絞めている感がある。経済問題で追い詰められて自殺者する人が、連続14年間3万人越えであった。ここ5年程でやっと3万人の壁を切ってきた。 (2017年7月2日記)

 

次回「『文章読本』が日本を殺す(2/2)」で76冊の文章読本の紹介をします。

 

 

図1 過去の景気回復との違い (日本経済新聞2017年6月25日)

なぜ個人消費が伸びないかは、(新聞社の経済部の)企業秘密?で公表されない。

 

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5

母の思い出  1/3

電気の基本容量UPへの抵抗

 母は、若いころから洋裁の腕で働き、節約した金で、大した贅沢もせず、平均寿命以前に逝ってしまった。昔気質の母は、電気の契約基本容量のアップを頑固に拒んだ倹約家であった。私は小さい頃によく電気のブレーカを飛ばして、母に叱られた記憶がある。今にして思えば、実に合理的な思想であった(前職の勤務先の工場では省エネ活動のため、これと同じ思想の節電に取り組んでいた)。幼い当時は、なんとケチな性格だと疎ましく思ったものだが、今は母が残してくれ有形無形の財産を感謝している。人は棺を覆って初めてその評価が定まると言うがそれを身近に実感した。

 寒い冬の夜(1992年12月)、母の通夜の場で家中の電気をつけたため、ブレーカが度々飛んで往生したが、「私の葬儀ぐらいで無駄遣いをしてはダメ」と言っているようであった。母の葬儀を母の叔父の意向で、母が歯を食い縛って残してくれた有形無形の財産への餞として、身分不相応に立派にしてあげたのが、親不孝な私のせめてもの親孝行であった。

 しかし、年老いた父にそんな不自由な生活を送らしても仕方がないので、母の死後、実家の電気の基本契約容量をアップ(30A)させた。しかし、三河の自分の家の基本電気容量(20A)はなぜか、母の性格を受け継いだせいか、もしくは貧乏性のせいか、基本電気容量を上げる決断ができずに、近畿への転勤の2005年末まで暮らした。おかげで、チョット油断するとすぐブレーカが飛んで閉口であった。基本電気容量の契約アンペア数を上げても、生活に困らないリッチな身分に早くなりたいものと思って頑張っていた。今はこれとこれの電源を入れたから、総アンペアはこれだけで、これを切らなくてはアレが飛んでしまうと、頭がフル回転(羽田元首相の言い方で)である。この対策のため、家中の電化製品の電気容量リストを作成し、それを冷蔵庫に貼って横目で見ながらこの件を凌いでいた。不便だが、節約と頭の体操には良いものだと、母の躾に感謝している当時の姿であった。

 

 母が健在であった当時、20Aであったブレーカ容量が、定年後に大垣に帰郷して40Aに、さらに60Aに上げた。現在(2017年)では、ブレーカ良く飛び、往生している。どないなってんねん?

 

お金の使い方

 母は節約家であったが、使う時には、特にわが家の見栄・名誉に関係する時は、それこそ躊躇なく一気に出す性格で、ケチな節約家でなかったのが偉い。特に、私の教育のためなら何でも我儘を聞いてくれた。またそれが、母の生きがいでもあった。今の私がその反面教師効果として、贅沢ができない性格になったのは、母の深慮遠望だったかもしれない。

  そんな母は、旧家の長女に生まれ、終戦後に父のシベリア引き揚げ後に結婚し、母の才覚と働きで裸一環に近いところから、自宅を彦根と大垣に2回も建て、自分の老後のため、息子の世話にはなりたくないと、借家を数軒も建てた、自立心に富んだ、プライドの高い、頭の切れる、男まさりの偉い母であった。出来の悪い自分が情けない。長年付き合いのあった地元中小企業の社長は、母に一目も二目も置き、大垣の社長たちで、母に太刀打ちできる男はいないと太鼓判を押した。日本の高度成長は、贅沢を知らない戦前の世代が、遮二無二に頑張った成果だと思う。その日本の高度成長と共に生き、バブルの終息をあと、それを追って消えるように逝ってしまった。働き者の母は、ある意味で幸せだったと思う。あの時代は、右上がりの経済を信じて全員がガンバっていた。その成果を手にしてから、逝ったのはせめての慰めかと思う。

 

日本政府に不信感

  母はよく、終戦直後の新円交換の話をしてくれた。このせいで、母の父の蓄えた退職金が全て紙屑同然になった言い、国のやることに全面的不信感を持っていて、「自分で財産を守らなくては」との信念になったようだ。トヨタ中興の祖の石田退三氏の「自分の城は自分で守れ」と同じである。私も日本政府を信用していない。

 

 

人を見る厳しい眼

 締まり屋の母ではあったが、旧家の10人兄弟の長女に生まれたこともあり、世間の付き合いの慣習にはうるさく、付き合う人たちの常識の無さをよく指摘して、私に「あんなことをしてはいかん」とよく言って聞かされた。その社会のあるべき「常識」を身につけさせられた。そのため、回りの人達の言動のアラが眼につきすぎて困惑している。今は、母以上に厳しい目で、私は人を見ている。

 特に人との交流関係での「信用問題」では、厳しい眼をしていた。親戚や昔の上司の妻、回りの人の非常識さを私に指摘して、二度と付き合わない厳しさを持っていた。ある親戚とは親戚付き合いを絶った。理不尽な事には、相手が男性や上司の妻にでも、堂々と言いたいこと(正論)を言うので、相手がタジタジとなる。そんな母の交遊関係は小さいが、その密度は高かった。虚構の交友関係よりは、遥かに良い。

 そんな性格を受け継いだ私は、2015年の自家のお墓の改建問題で、非常識な対応をした親戚の3家と縁を切った。これは問題を曖昧にできない母の性格が受け継がれている。

 お金が無いことは、各種誘惑への毅然たる態度の欠如、心の余裕の喪失、非常識言動につながりやすい。だからこそ、しかるべきレベルまでは、お金を持たなければならない。お金に汚い人たちや非常識な人、それに起因する行動を批判して、お金の大事さを母は教えてくれた。

 

人の眼を意識せよとの躾

 「出張等で、外食する場合には、最低金額の食事をして出張費を浮かすなどの情けないことをしてはいけない」。これは亡き母の教えである。そもそも会社が、「規定金額で食事をすること」と指示しているのに、それに見合う金額を使わないのは、会社の名誉・信用を傷つけている。他の人が見たら、「あの会社は、まともな食事代さえ出せない貧乏会社」と思せてしまう。それこそ会社への背任行為であり、会社の信用を傷つける。個人も法人も、信用を無くしては金儲けができない。また自分の勤める会社を卑しくして金を節約しても、それでは将来はたかが知れている。その場を誰も知らないといっても、神様は見ておられる。

(初稿1995年11月8日、2017年7月2日再校正)

 

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生前火葬から必死の逃走

 定年退職の生前葬に続いて、会社に残ると会社で生前火葬の葬儀がある。生前火葬では魂が焼かれる。生前葬が終わったのだから部長、課長の肩書は無用として剥奪され、無地の名刺で、白い経帷子の派遣社員扱いの制服を着せられる。そして自分より能力の低い部下が、上司僧侶としてとして引導が渡される。派遣社員扱いの処遇で働く境界に落とされ、そこで自分の自尊心と誇りが燃やされ灰にされる。派遣社員からも、職位権限がないので、軽んじられる。2,3年も務めると、焼きもちの火よりも強烈で長時間の火葬に嫌気がさして満期の5年の刑期を務める人は稀である。よほど面の皮が厚いか心臓に毛が生えているか、家のローンが残っているかでないと、続かない。その定年後の5年間で、すっかり精力、気力が燃やされて、魂の抜け殻が残り、生前火葬が終了する。あとは徘徊の人生が待っている。

 職人の世界でも、辣腕の料理長として長年君臨していても、定年になって元の職場で働けば、若造から「ジジイ」扱いされ、「おいジジイ、この皿洗っとけ」である。「ジジイ」ならまだましで、「クソジジイ」ではプライドも消滅である。

 

逆縁の菩薩の教え

 私は定年後の元部長が、昔の部下の課長の下でヘイコラとしている卑屈な姿を見て、定年後に会社に残るのをやめた。元部長は逆縁の菩薩であった。定年後の5年間で仕事は同じ、給与は半分以下で働けば、精力と気力を使い果し、その後の起業がほぼ困難になると確信した。定年後の第二の人生の立ち上げには体力も気力もいる。その大事な時期を社内生前火葬で灰にされてはかなわない。生前葬が終わったら、その後は人生の主として歩みたい。

 

生前火葬の損益計算

 定年後、会社に残って働けば、元基幹職でも給与は約三分の一に激減する。それでも年金よりは倍近い年収である。定年後の計画がないならそれも可である。しかし年間1,800時間の自由時間が奪われる。年金での生活にプラス150万円程を稼ぐために1,800時間の自由時間を引導僧侶の上司に貢ぐことになる。150万円を1,800時間で割ると、ファーストフード店やコンビニのアルバイトの時給以下となる。会社にとっては、経験豊かな人材を使用済み人材として格安でこき使える。自分の老計・死計を考えると、正しい選択ではない。それの理由で、私は早期入棺・生前火葬から逃亡した。

 誰にでも守るべき自尊心がある。それを放棄するのは奴隷の人生である。還暦まで生きてきて、そこまで落ちぶれたくはない。上司の悪魔の絡め手の引き留めを振り切って、焼かれる前に逃亡した。生前火葬からの逃亡後に、多くのご縁が生まれた。生前火葬されていれば、本書も生まれなかった。

 

図1 老いの川柳  小田泰仙作 馬場恵峰書

 

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渡部昇一師講演「ヒルティに学ぶ 心術」

 本日(2017年7月1日)、過去の資料を見直していたら、15年前の渡部昇一師の講演記録が目に飛び込んできた。私がウィーンに到着した日、2017年4月17日に逝去された師との昔のご縁もあり、当時の資料を再校正をして掲載します。

 

講演者     渡部昇一上智大学名誉教授

日時       2002年2月26日 株式会社玉越 創立20周年記念行事にて

                    2002/02/27記 

 

 人生を幸福に生きるための基本は、その人の心術(習慣)による。それを渡部教授はヒルティから学んだ。ヒルティは1833年生まれのスイスの法律学者であり、大学教授であり、軍人であった。また敬虔なキリスト教徒でもあった。1833年とは頼山陽、ゲーテが没した翌年にあたる。ヒルティはスイスで学者としても裁判官としても一流であった。スイスの永世中立国の基礎を作った法律家でもある。明治時代、東京大学の哲学の教師であったケーベル博士がヒルティの本を学生に読ませたのが契機で、明治以降の日本の思想界や最高インテリ層にヒルティが浸透していく。この日の講演では彼の思想と日本との関わり、その時代変遷、今後の日本のあり方を解説された。

 

1.ヒルティの思想

・仕事と仕事でないのもの違い

     仕事とは         一生懸命にやると面白くなるのが仕事

     仕事でないのは   やればやるほど面白くなくなるのは仕事ではない。

                     しばらくやってみて、うんざりしてくるもの。

・仕事はまず始めてみないと仕事とならない。

 始めてみると、次に何をやるか、何をやるべきかが見えてくる。

・仕事はいつまでも準備をしていてはだめ。まず始めてみてしまうこと。

 渡部先生の学生時代の失敗例

  卒業論文が締め切りに遅れた。原因は準備に時間を掛けすぎたため。

  当時はのんびりした時代であったので許してもらえた。

    その反省で、ドイツ留学学位論文作成では、早めに取りかかり、記録的スピードの作成だと教授から誉められた。

・ヒルティは『ダス クリック(幸福論)』を著作した。そのなかで、仕事を

  持っていることが一番確実な幸福の道であると断言している。

・6日間働いて1日の休みをとる

  働きすぎもだめだし、休み過ぎもだめ(当時のキリスト教の教え)

・ゆとりとは仕事をきちんとやった時に出るものである

   6日間必死に働いて、初めて1日(日曜日)のゆとりがでる

   学校でも予習をして授業にでるからゆとりがでるのである

   さぼっとゆっくりするのがゆとりではない。だから最近のゆとり教育の考え

   は間違っている。ゆとりは勤勉からのみ発生するのである。

 

2.社会主義の影

  30年前くらいから日本の大学からヒルティの名が消えていった。今では彼の名を知る大学生は皆無に近い。それは1970年代の大学紛争、社会主義の台頭に影響している。ヒルティの思想は、自分が頑張って幸福になるとの個人の努力を前提にしている。それに対して、社会主義はこれと全く逆の考え方である。その影響が大学にも影を落としていった。

 

  1970年代当時、ソ連は世界一の国であった。世界一の金産出国で石油も豊富、森林資源も豊富であった。しかし崩壊後のソ連の実態は惨めなものであった。それは労働の精神が消えていたのが主原因であった。

  同じ例で、東ドイツの労働者達も労働とはなんであるかが分かっていなかった。それは社会主義の教育による影響である。ベルリンの壁が崩壊した後、西ドイツの資産家の多くが東ドイツに投資をした。それは昔の勤勉であった東ドイツの労働者を知っていたため、資本主義社会に戻れば経済発展をすると信じて投資をしたのだ。しかし、その投資家の多くが破産をした。勤勉でない会社に投資をしても儲からない。先生が懇意の軸受けメーカのオーナーの大富豪も破産した。その原因は、昔勤勉であった東ドイツの人が社会主義思想により、労働の思想が崩壊したためであった。一度、労働の観念が無くなると、どうなるかを東ドイツの国がそれを実証している。

 

3.習慣論

 習慣が人間そのものである。いことをやれば、次からもそれをやることがなんでもなくなる。悪い習慣をやることが抵抗となって、いい方向に向かっていく。逆も真である。仕事をやる習慣の人は、仕事が苦でなくなっている。

  1977年(当時47歳)に『知的風景の中の女性像』を初めて口述の手法で出版した。その時は3日間かかり、終わった後、頭の中が全て空っぽになり脳が萎縮したように感じて疲労困憊したが、それを繰り返すうち、最近(現在72歳)は8時間で一冊の本を口述作成できるようになり、何の苦でもなくなった。これも訓練の成果であった。

 

4.今後の日本

  今後の日本では社会主義的な要素が崩れていき、脱社会主義的な方向に向かう。規制緩和がその象徴である。徳川時代から明治時代になったようになる。徳川時代は規制の時代で、変化が禁じられた時代である。明治時代は自由資本主義で、規制緩和の時代であった。それがロシア革命の影響で日本にも悪影響が及んできた。日本人は自由にすれば、能力を最大に発揮する人種である。これからは能力を伸ばした人が成功する。21世紀は個人の時代の到来である。そのために、

 ・正しい仕事の本質を確立する。

  ・自分は習慣のかたまりだと理解する。

  ・仕事に対する正しい見方をする。

 

5.ヒルティーの人生

  ヒルティは「幸福論」を書いて、その通りの人生を歩んだ。77歳で死ぬ直前まで毎朝、早く起きて、著述活動を続けた。その日の朝も、朝の執筆活動をして朝の散歩の後、珍しく疲れたといってソファーに横たわって、そのまま眠るがごとくに息を引き取った。当時の77歳は、今の97歳に相当する。

 

エピソード

  玉越の高木社長のご配慮で、渡部先生に別室で会わせて頂いた。先生のデビュー作の『知的生活の方法』と『続 知的生活の方法』、『知的風景の中の女性』にサインを頂いた。昭和51年と52年発行の初版本である。ずっと私の愛蔵書になっていて、私の手垢のついた本であるが、25年経ってそれに先生がサインをするご縁が生じた。以前から『知的風景の中の女性』は絶版になっていて、新規に手に入らないのを残念に思っていたが、今回、渡部先生より別文庫で出版されていることを教えられた(講談社学術文庫に収納)。これが先生の初の口述出版書であることも知った。

  これはTA(対人交流)の歴史的実例のような本である。TAの副読本としてお勧めです。この書では、幼児期での母親の存在の大きさと大切さを説き、ソ連の共稼ぎ家庭の悲劇やアメリカの共稼ぎ夫婦の子供の事例を記載している。出版当時、キャリアウーマンからの総反発を食らい、書評欄を賑わした。この書の出版元(主婦の友社)がキャリアウーマン支持派の出版社であったのは興味深い因縁である。最近の少年の凶悪犯罪や若い人の言動は明らかに親の教育の失敗と見て取れる事例があり、この著書でそれの洞察性に感心させられる。そういう観点から、管理職、経営者の方には、お勧めです。

 

 高木一夫会長と高木和美社長のご尽力で講演を聞かせて頂いた。また渡部先生やヒルティとのご縁も頂いた。感謝です。このヒルティの詳細は渡部昇一著『渡部昇一的生き方  ヒルティに学ぶ  心術』致知出版(1997)1600円をご参照ください。

 以上は15年前の渡部昇一師の講演録であるが、全く古さを感じさせない。師の教えを大事にしていきたい。渡部昇一師のご冥福をお祈りします。(2017-07-01)

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年7月 1日 (土)

人生航海を照らす灯台

 人生を航海に例えると、航海の目印になるのが灯台である。夜明け前の一番暗いときも、人生の目印として灯台はいつも明かりを照らしている。それが己の戒めであり、師の後ろ姿である。実際の灯台の灯が簡単であるように、師の一言はさり気ない。しかしその一言が人生の灯火になることもある。師の一言には魂が籠もっている。

 生きていれば、五里夢中も真っ暗闇の時もある。進むべき道や方向が見えなくとも、どちらの方向に灯台があるかが分かればそれでいい。明けない夜はない。方向さえ間違わなければ、紆余曲折してでも目的地にたどり着ける。人間だもの、右往左往して当たり前。天才ではない我々は、長生きしてゆっくりと目的地にたどり着けばよい。健康管理を怠り病気になるから途中で沈没する。エリートでないので、一番になるためシャカリキになる必要もない。

 

 私は灯台を見ると、なぜか引きつけられる。2011年、(株)トラベルプラン主催のシシリア島へのスケッチ旅行に参加したとき、チェルファの寂れた漁村で下記の灯台を見て人生を感じた。チェルファに滞在中の3日間に、この場所に3回も訪れ、夜明け時の風景を眺めて少し長い時間を過ごした。なぜか心の安らぎを得た。この寂れた寒村には、我々のツアー以外の日本人はいなかった。治安もよく安心して海岸の路を歩き回れたのが良かった。

 

 

図1~4 シシリア島チェルファの灯台(2011年11月10日)

  地中海を航行する船のガイド役である

 

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人生のキャンパスを彩る絵具と照らす灯台

 人生は絵に例えられる。白いキャンパスに、どんな絵を描いても自由である。書かなくても自由である。どんなサイズのキャンパス(人生の舞台)に、どんな絵の具(才能)を使い、どんな色調(志)で、どんな技(技量)を使い、どんな筆で、どういう画風で描くのか、それが人生で問われる。持てる絵の具のキャップも開けずして、人生を去りたくはない。絵具は使わずに置いておくと、乾燥して使えなくなってしまう。持てる才能にも旬がある。一番効率的に使える輝いている時に、一番良い絵の具を使って人生キャンパスに鮮やかな作品を描きたい。そのキャンパスに書いた絵は、世にどんな意味を問うのか自問しよう。 

 同じ風景を見て、同時に描いても、百人百色の人生が描かれる。それが己の履歴書として残る。そのキャンパスに、その人の人生観が現れる。その人生観を育てたのは親であるが、その人生を正しく導くのが師(灯台)である。師は人とは限らない。2000年前の書や経典や時には自然が師となるときもある。自然はいつも声なき経を唱えている。

 下図は、2011年11月、(株)トラベルプラン主催のシシリア島のスケッチ旅行に参加したときのスケッチ風景である。当日の夜、宿泊ホテルで各人が描いた絵の講評会を開いた。メンバーはスケッチツアー仲間で、約半数が還暦前後の女性達である。日本女性の元気さに感嘆した。

 (株)トラベルプランHP: http://www.travelplan.co.jp/

 

 人生を白いキャンパスに描く行為は、芸術と同じである。奥村画伯は100歳を超える長寿で、生涯現役で富士山を描き続けた。100歳のときの「100歳の富士」は有名である。

「芸術に完成はあり得ない。要は、どこまで大きく、未完成で終わるかである。

1日を大切に精進したい。」(奥村土牛画伯)

 

エピソード

 図3の部屋の写真で、壁に掛けてある絵、写真全てにマスクをかけました。見苦しくて恐縮ですが、それには訳があります。シシリア島スケッチ旅行で宿泊したホテルは全て五つ星のホテルで、中にはモハメッド・アリが泊まったホテルも含まれている。そんなレベルのホテルの部屋に掛けてある絵は要注意である。

 日本の某テーマパーク会社の渉外担当の課長さんから聞いた話です。その会社が東京で海外から絵を借りて展示会を開催して、そのパンフレットを作ったところ、そのパンフレットに会場風景を掲載したが、そこに借りた絵が小さく写り込んでいたという。それをその筋の告げ口専門家が、その絵の海外の著作権所有者に連絡して、海外から損害賠償金を請求されたという。なんとか和解ですませたが、それでも数十万円を支払う羽目になったという。海外のその筋の所有者は、それで飯を食っているという。

 新しいことを始めると、必ず躓き、そこから新しい知恵を得る。何もやらなければ、躓かないが、知恵も付かない。どちらの道を選ぶかが人生で問われる。新しい道を選ぶとは、新しい絵の具を使うこと。どうしても少しの無駄がでる。それで知恵を得る。

 

 

図1、2 SICILIA島 PIAZZA ARMERINA  2011年11月11日

 お勧めのスケッチポイントでイタリア中世の都市を写生

図3 当日の夜、宿泊ホテルで各人が描いた絵の講評会を開いた。

 メンバーはスケッチツアー仲間。約半数が女性で、日本女性の元気さに感嘆。シシリア島  2011年11月11日

 

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佛が振るチェッカーフラグ

 一生を人間として生きたい。周りが自分の老いを教えてくれる。自分の愚行を佛様が老いだと教えてくれる。それは天の声である。人生道第四コーナ突入で、チェッカーフラグを佛様が振る。その旗の合図を見落とすと、コース逸脱して、人間失格となる。

 「人間」とは人と人の間で生かされる存在である。生あるものは生老病死、何時かは老いる。その状況で、己はどう戦ったのか。その老いる中、少しでも世の為に恩返しをしたい。老いても生を楽しみ、健康状態を保って天寿を全うしたい。健康とは体と心の健やかさをいう。寝たきりや、認知症に罹るとは、人間としての死である。それは己が鬼となって家族を生き地獄に突き落とす非道の行為である。

65歳以上になれば15%は認知症である。己が老人の惚けを笑っても、いつかは笑われる身となる。人間としての誇りとして、笑われないような生き方をしたい。その為の健康管理に最大限の精進をしたい。惜しまれて、良き思い出を残して、最後まで現役として逝くべし。最終周回コースでの走行では、佛様は順位ではなく、完走を望まれている。

 

全日本学生フォーミュラ大会で沈没

 『ものづくりによる実践的な学生教育プログラム』として全日本学生フォーミュラ大会が、自動車技術会の主催で毎年9月に静岡県エコパ(小笠山総合運動公園スタジアム)で開催されている。その中で完走するチームは30%と少ない。準備不足で、ゴール直前で沈没するチームを多く見る。中には火災まで起こすチームがある。人生のマサカである。そこに人生のゴール間際の象徴を見た。まず、完走することの難しさが体験できる全日本学生フォーミュラ大会へのチャレンジである。

 私は自動車技術会の会社事務局として、この大会運営のお手伝いのため出張した。いわば佛として、学生たちの1年間の卒業研究のプロジェクトの成果を拝見する立場であった。事前にやるべきことはフォーミュラカー運営規約で公開されているが、100余のチーム中で、その車検が通らないチームが10%にも上る。いくら手間暇かけて製作したフォーミュラカーでも、車検が通らなければ、コースに出れず1年が無駄になる。またその中で完走できるは、わずか30%に過ぎない。完成品のエンジンを協賛メーカーから提供してもらって、自作のボディに組み込む。基本的にメーカーからの自動車部品の提供を受けて作り上げるフォーミュラカーである。それは過去15回も実施されいるから、先輩のアドバイスを受ければそんなに難しいことではない。それが走る前の車検で1割のチームが沈没し、走り始めても2/3が途中で沈没である。まるで会社人生の修羅場をくぐって、定年まで完走できる人が1/3であるのと似ている。私の前職の同期も定年時に1/3しか残っていなかった。考えてしまった、よくぞ定年というゴールに無事着いたものだと。自分で自分をほめてやりたい。

 

犬も認知症になる

 単身赴任のSさんが久しぶりに家に帰ったら(2016年)、飼っている犬が自分のことを認識しないのに愕然としたという。もう17年も飼っている犬で、人間に換算すれば80歳にもなる。前に帰ったときは、声をかけると嬉しそうに腹を上にして撫でろとジャレついてきた。それが今回は様子がおかしい。どうも目も見えず、主人の声の記憶も失われたようで、悲しくなったという。人の恩を忘れないという犬さえも認知症に罹る。親でも認知症になれば子供の顔を認識できない。それは最大の子不幸者。

 

 

図1 認知症に罹る比率  日本経済新聞  2014/07/09

図2、3 学生フォーミュラ大会で走行中のフォーミュラカー (2008年9月11日) ゴール直前で沈没のチームも多くある。

図4 火災を起こした学生フォーミュラカー

 

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「桜田門外ノ変」の検証 (4/25)

(3)監査組織の機能  ―― 側近の問題 ――

   「安政の大獄」の実質的なリーダーは、京都の大老と呼ばれた長野主膳であった。井伊直弼公と長野主膳は長く不遇の時を持ち、共に同じような鬱積した考えを持っていた。二人が光を浴びて表舞台で活躍を始めたが、主従の関係が同じ思想で、部下に対する過剰な権限委譲が、「安政の大獄」に突き走らせた要因と言える。歴史の是非は問えないが、ブレーキとなる側近がいないと、どうしても組織として暴走しがちなのは東西の歴史の教えである。あまりに二人とも純粋であったのが、結果として「安政の大獄」を生み出した。志が同じなのは良い。しかしリーダーの暴走を止める側近の存在が必要であった。

 

現代名門企業の経営補佐役

 ホンダを創業した本田宗一郎氏も経営者としてはチャランポランタンであったが、後ろで藤沢武夫がしっかり手綱を握っていた。本田宗一郎は、自分を知っていたため、会社の印を藤沢武夫に預け経営も全て任せていた。本田は社印も実印も押したことがなく、技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べている。藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べて、互いに補完の関係の経営をしていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えで、身内を入社させなかった。本田が引退した時、藤沢も同時に引退した。きれいな引き際である。

 松下電器は、その反対に身内が会社の使命を放棄して会社をかき乱し、それが役員間で派閥抗争になり、経営の迷走を生んだ。それが松下電器と他の会社の命運を分けた原因である。最大の被害者はそれにより1万人のリストラをされた従業員である。

 トヨタ自動車も血縁経営であるが、創業者と歴代の大番頭の存在があり、両輪の経営をして、現在の姿がある。

 

 井伊直弼公は、15年間に及ぶ世捨て人のような扱いに埋木舎で悶々としていた。無能なら何も悩まないだろうが、直弼公はあまりに才能があり過ぎた。その心境の井伊直弼公を尋ねてきた長野主膳に、井伊直弼公は3日3晩互いに語り明かして、心を許した。

 私も前職で、正義を通したため理不尽な不遇の時代を経験した。その時、心情を理解してくれる仲間に出会うと、砂漠でオアシスにたどり着いたような心情となる。

 

「何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を延ばせ」

 私はこの言葉は、自分がスランプや不遇の時に思い出して励ましの言葉としてきた。語源は三洋電機の後藤清一氏との説もあるが、私は道元禅師の言葉として聞いたことがある。禅の言葉として私の20代後半のころから大事にしてきた。図2は、当時、名古屋の毎日文化センターで、週末の1時間、加藤梅香先生から、習字を習っていた時、お手本として揮毫して頂いた書です(1980年頃)。女子マラソンの高橋尚子さんもこの言葉で2004年に金メダルを取ったという。

 

彦根藩の幕末の激変

 改革者への歴史の波は過酷である。人生の絶頂期を迎えて藩の要職にあった長野主膳は、「桜田門外の変」の後、藩の政治の激変で、政治の反対派から捕らえられて、藩を存亡の危機に陥れた張本人として、首を切られる。首を切られた場所が史跡として、彦根観光地図に記載されている。そのお墓が天寧寺(彦根)にある。

 

図1 埋木舎で語り合う井伊直弼公と長野主膳 (彦根 埋木舎)

図2 何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を延ばせ(加藤梅香書)

 

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書の著作権は加藤梅香師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。

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知的生産活動としての生活VA

 夢の実現と心豊かな人生をめざして

   低成長時代の生活リストラ手段

   知的生活のための節約・投資手法

   心豊かになれない日本人への諫言

 

 VAとはvalue analysis価値分析の頭文字で、今行っているプライベートの生活経費を見直して、無駄を省くことが「生活VA」です。それを1年間に積み上げて計上する。生活の工程を効率化してその時間をお金に換算する。トヨタでは1秒1円で原価コスト計算をする。

 

生活VAの目的

 時々新聞で、日頃極貧生活をしていた老人が亡くなった後に、莫大な遺産が床下や、銀行から発見されたことが報じられる。これを見ると、何のために生きていたかと、人ごとながら呆れてしまう。目的なき人生では悲しい。目的なき節約は、節約が目的になって、上記の愚かな結果を招く。人によって価値観が違うので、使い道をとやかくは言えないが、貯めるだけが目的の節約は悲しい。

 お金は人生の目的ではないが、智慧を得るためには軍資金は必要です。お金は多くの経験をするため、失敗や痛い目をあう為の道具です。行動しない限り知恵は身につかない。お金を大事に使って旅立たせると、お金がお友達をつれて帰ってきてくれる。

 

生活VAの実践

 自動車業界には、コストダウン活動としてVA制度がある。そのVA制度では、提案したコストダウン額の半分が、2年間にわたり提案元に還元される。そして、その分の納入価格は下げられる。VAでコストダウンをしなければ、強制的な値下げ要請で値引きをされるので、必死にVAをしなくてはならない。一つの部品で5円のコストダウンでも、年間500,000個生産すると、2,500,000円のお金になるのだ。

 この仕事のVA活動の水平展開として、自分の生活をVAすると効果が高い。そして節約した分で贅沢をする。節約項目は一年分の効果のみを計上する。それ以降は(あと永久に・・・)その分の生活費が節約されるシステムである。自分の生活費の中で、1日の100円の経費節約をすれば、年間で36,500円の儲けとなるのです。それが10年間も続けば、365,000円の儲けです。

 だから次々と、新しいVAのネタを探さなければならないので、しんどい。それがトヨタの日々改善の制度である。だから褒美としてその分は使うことにしている。そうでないと続くまい。これを永遠に続けると生活費は限り無く0に近づく。そのうちマイナスの値になって、カスミだけを食べて生活できるようになる・・・・?

 最近は先に贅沢をして、慌てて泥縄式に節約するので反省であるが、それでもその分をノルマとして節約を実行して生活を改めれば、その後はその項目分の経費、生活費が減る。

 リッチになるまでは、ひたすら我慢が大事です。清貧とは忍耐ある知的生産活動です。「肉体労働は1両の価値だが、頭脳労働は10両の価値がある」と言ったのは江戸時代のさる豪商の言葉。

 

 当時(1990年頃)は、残業手当てが10万円以上もあり、バルブ経済の影響で生活費が水膨れしていた。1991年にバルブが崩壊して、残業手当がゼロになり、必要に迫られて生活リストラに取り組んだ。下記は、私が1993年の4月から1994年3月の一年間で、生活VAの手法で節約をした実績値です。毎回、節約の対象、節約目標額を決めて実行していた。一部、贅沢品の支出はあったが、工夫した分は生活がスリム化した。生活VAを自画自賛している。

 

    反〇金+レ〇〇購入用VA   57,820円

    アンプ購入用VA      250,742円

    CDプレーヤ購入用VA   360,078円 

    絵画購入用VA       413,069円

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            合計  1,081,709円

 

 

このエッセイの構成

 本田宗一郎氏の表現を借りると、我々は「坊さんの手に渡るのを少しでも先送りするため、必死に時間を稼いで」生きている。そのために、時間そのもの節約とそれを可能にする健康は欠かせない。ビジネス社会で人並み以上のお金を貯めるには信用は欠かせない。またそれを支える軍資金も重要である。その4つの要素は教育から生まれる。あとは付録である。

 この理由で、この書は節約を達成するための戦略として、第1部にC1時間、C2健康、C3教育、C4信用金庫の順で記述した。その後に生々しい戦術として、第2部にお金の運用、買い物、生活費、車の経費等の順で記述した。第3部の最後に、この生活VAの背景としての私の考えを、エッセイとして記述した。

 先行して「C4 信用金庫」のエッセイをブログ発表しました。節約の最大要素は、信用の獲得です。これを第4章として位置付けした。人生で付加価値を生むためのカンバンが信用である。

 

 本書は、欧米の論文の書き方、つまり科学工業英語、新聞記事の展開の方法で記述してあります。つまり、最初の冒頭にその要点、結論を書き、それを具体的に展開する記述です。また各章も最初に原則・総論から具体的な事例へと展開しています。逆ピラミッド構成とも言えます。

 別の表現をすると、最初は格調高く、後ろの章にいくほど段々と具体的に生々しく・・・です。ですから、今日の生活にも困っている人は、第6章くらいの生々しい部分から始めるのがお勧めです。

 

 今回のブログで20年前に記述したエッセイを、順次見直して掲載していきます。これで皆さんも生活を見直して、浮いたお金で贅沢をしてください。無駄を省いて贅沢を、が私の生活モットーです。

 

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