c-馬場恵峰師の書・言葉 Feed

2019年7月19日 (金)

「大垣市長WAY」を迷走

 大垣市長として、多選でも何時かはその任期の終わりが来る。その時から逆算して、やるべきことを正しく実行するのが「大垣市長WAY」である。それを場当たり的に人気稼ぎのようにこなすから、成果が出ない。結果として晩節を汚すことになる。

 

大垣消滅の危機

 市長道にも命がある。しかし大垣市は永遠であるべきだ。大垣の子供達に未来がある。大垣市は延々と続き歴史を刻む。その中で、市長としてやるべきことをやらないと、大垣市も死を迎える。夕張市も破産した。近い将来、日本の少子高齢化、東京一極集中で、896の市町村が消滅すると予想されている(増田寛也編著『地方消滅』中公新書)。そうならないように取り組くむのが、危機管理としての市長道である。小川敏市長はそれが分かっていない。

 

仕事と作業の違い

 仕事とは付加価値を生み出すこと。付加価値が生まなければ、それは仕事ではない。作業とは頭を使わず、機械的にするルーチンワークである。

 大垣市長の仕事は、大垣市の未来を見据えて、戦略を考え、その手を打つことである。戦略とは、「戦い」を「略する」と書く。無駄な演説や無駄な行事を省くことが勝利のために必要と「孫子の兵法」で戒めている。

 それに対して、小川敏氏は、大垣市長として、全ての行事に出て演説をするが、それは仕事ではない。それは作業である。代理の代読でも、録音を再生するロボットでもできる作業である。その機械的な無意味な演説では、何も付加価値を生まない。だから誰も感動しない。市制100周年記念行事も、何も付加価値を創れなかった。記念行事遂行は、だれでもこなせる機械的な作業であった。

 

醜態記事

 たまたま、昨日2019年7月18日、通院している病院のロビーで岐阜新聞の西濃欄を見ていたら、企業寄付の記事が目に飛び込んできた。この記事は、(多分やらせで?)企業から寄付を受け、当然のような面持ちの小川敏市長とのツーショットを掲載した代物であった。こういう記事が西濃の痴呆紙に頻繁に掲載される。

 これは記事ではない。市長の売名行為と企業の宣伝コピーである。岐阜新聞社の忖度記事である。だから、これは仕事としての記事ではない。僅か22万円で、岐阜県の西濃欄の紙面が企業宣伝として使えるのだ。それも大垣市長とツーショットの写真付きである。この記事は、大垣に何も付加価値を与えない作業である。また読者にも、情報として、何の付加価値を与えない。むしろ時間泥棒である。購読料泥棒である。これは「情けの報せ」の「情報」ではなく、「情けない報せ」である。

 大垣西濃金庫は、大垣の企業として、22万円(社員一人当たり僅か379円)を市の産業振興のために寄付をしたと大威張である徳ある謙虚な人は、寄付は陰徳で自慢などしませんぞ。それなら市制100周年記念行事の浪費分3億4千万円の使用用途に目を向けて、銀行マンとしてシビアな眼で、その会計報告の公開とその問題点を助言すれば、大垣の産業振興にもっと効果があるはずだ。22万円どころか、その100倍以上の効果が予想される。

信用金庫の信用放棄(WAY)

 大垣西濃信用金庫も、もっと本質に目を向けて経営をしないと、現在でも厳しい金融戦争で淘汰される恐れがある。

報道の放棄(新聞社のWAY)

 岐阜新聞もそういう大垣市の公金の使用用途の疑惑を追及して報道の「道」に沿った本来の報道しないと、その存続が危ぶまれることになる。ただでさえ、新聞購読数が減少傾向なのにである。岐阜新聞は2017年9月に夕刊の発行を止めたばかりである。こんなヨイショ記事ばかり書いていると、今度は朝刊の発刊中止に追い込まれますぞ。知らせるべきことを報道せず、脇道に逸れた報道もフェイクニュースである。

大垣市長として、進むべきWAYを放棄

 大垣市長は、そんなくだらない作業ばかりに日々追われて、やるべき大垣市の未来の大事な仕事をしないから、大垣が衰退し続けて、任期満了の時に、後悔することになる。多分、小川敏市長には20年後を見据える戦略はないのだろう。このテイラクが是なのだ。

Photo  岐阜新聞 2019年7月18日西濃欄

 

神の声

 だから大垣市は衰退の一途である。だからまた出馬して、その後始末をせねばならなくなる。こんなテイラクを18年間も続けても、大垣駅前商店街は消滅寸前になり、大垣市地価の下落は、18年連続となった。その間一度も地価は上がらなかった。地価は半額になった。他市はリニア景気で地価の上昇で湧いている。小川敏市政の失敗は明白である。小川敏市長は学習能力がないと言える。地価の下落は、市長として無能だから、辞めろとの神様の声である。市場の声は正しい。

恨みを買う小川敏市長

 小川敏市長のように、日の当たる市長道を歩く人には、大垣駅前商店街の店を畳んで、寂しく街を去っていく商店主の悲哀は分からないであろう。多くの商店が閉店することになった顛末は、小川敏市長の戦略ミスが原因である。

134k8a11201s   馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」久志能幾研究所刊より

 

2019-07-19   久志能幾研究所通信No.1263  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

累計閲覧総数 98,847  2019年7月19日,17:00現在

2019年7月15日 (月)

「仕事」:事に仕えて付加価値を創る

道を選び、道を歩き、自分を拓く

 

 自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえの無いこの道。広いときもある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

 この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあるう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

 あきらめろというのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいる道。ともかくもこの道を休まずに歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのない道ではないか。

 他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

 それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道が開けてくる。深い喜びも生まれてくる。

                      松下幸之助  1968年

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  東山魁夷「道」、馬場恵峰書

 

「道」とは何か?

 「宗教」と「道」は何が違うか?

 例:浄土宗と“TOYOTA WAY”

 宗教には教祖がいて、その教典があり、信徒がいる。それは多分に他律的な戒律があり、またそれは 個人の幸せを目指している。また宗教法人設立は、この3点セットでないと法律的に認められない。

 

オダ佛教?

 キリストが説いたからキリスト教、釈迦が説いたから仏教、マホメットが説いたからイスラム教である(私が説いたらオダ佛教?)。その本質は、どの宗教も同じである。その土地の文化と歴史に合った宗教が育った。茶筒を水平に切ったら円で、縦に切ったら長方形、斜めに切ったら楕円形となるように、切る方向で見え方は違うが、本質は変わらない。だから切った結果を議論しても無意味である。それなのに愚かな人間は、己の宗派にこだわり凄惨な宗教戦争の歴史を繰り返してきた。

 日本で発達した神道や道徳や神社、自然を崇める行為は、海外の宗教とは、その定義からみて異なっている。日本では他の宗教を全て受け入れる大きな器を持っている。だから日本では凄惨な宗教戦争は少なかった。為政者が自分の支配が脅かせるのを恐れての宗教弾圧はあった。

 

「道」の価値観

 「道」とは、自然、社会との共存を目指し、自律的な約束事として存在する。現代風にいうと、「 TOYOTA WAY 」や、「PANASONIC WAY 」がこれに相当する。その意味で、会社理念は宗教に似ている。しかし「道」の概念は、自律的、共存的な考え方で、日本発の価値創造がある。世界のどこにもない価値観である。そこに日本が世界に誇れる価値観がある。

 

「道」の語源

 道の前に道はない。自分の道は自分で創るべし。自分が歩いた跡が道となる。新しい分野を開拓する場合も同じである。自分の首をかけて、誰も歩いたことのない道を歩く。それが道の開発だ。

 「道」という漢字は、生首をぶら下げて、四つ辻(シンニュウ)を歩くと書く。その昔、古代中国では、都市は城壁で囲まれていた。その外は魑魅魍魎が住む怖しい場所と考えられていた。だから城壁を出て外に行くときは、怖しいので捕虜の異国人の首を刎ねて、その生首を魔除けとしてぶら下げて、恐る恐る歩いた。その歩いた跡が道となった。

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    馬場恵峰書

 

2019-07-15   久志能幾研究所通信No.1257  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年7月11日 (木)

大垣の春を待つ

初雪

 この8月末に閉店する大垣の百貨店ヤナゲンで、5月に中島潔展が開催された。ご縁がありリトグラフ「初雪」を購入した。この絵は最後の2枚だということで、せかされるように購入した。この絵はこの展示会の後、長崎のデパートまで旅をして、1か月後の6月24日に自宅に納品された。自宅でよく見るとなかなか良い絵である。

 この絵は、なにかノスタルジアを感じる絵である。中島潔画伯の故郷の駅の風景という。廃線になった線路が曲がって表現されている。自分の生まれ故郷を大事にする。そこは自分の原点なのだ。故郷がどんなに寂れても、故郷は故郷である。そこで自分は育ててもらったのだ。

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      中島潔作「初雪」

Dsc03013s    中島潔作「初雪」 部分

再建の夢

 その街がどんなに寂れても、そこには未来を生きる子供たちがいる。錆びて曲がったレールを新しく引き直し、新しい道を創りたいという想い湧いてくる。

 初雪が降ってきた。冬である。冬ごもりの間に、春に向けての種を植えたい。春の来ない冬はない。何も咲かない冬の間は、下に下に根を伸ばして、春に備えたい。冬ごもりで、新しいアイデアを育てたい。

 悪代官がこの20年間で、大垣市をすっかり寂れさせてしまった。それは大垣に長い歴史のなかで一過性のこと。何時かは悪代官も去り、春が来る。悪代官も、どうすれば大垣が寂れるかの悪例を示してくれた逆縁の佛である。長い人生、いい時も悪い時もある。すべては人生の吟行である。

 大垣の某財界人も、この最後に残った2枚うちの一枚を買ったとか。多分経費で落としたのだろう。大垣を寂れさせた一味の一人として、どんな思いで買ったのか、興味深い。

絵は語る

 一枚の絵から、自分の人生と故郷に思いを馳せさせるストーリが作れれば、それが自分の歩んできた世界である。ビジネスマンなら、数値からストーリを、賢人なら一つの言葉からストーリを、芸術家なら、一枚の絵からストーリを、語りたい。ストーリの無い人生は侘しい。

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   馬場恵峰書

2019-07-11   久志能幾研究所通信No.1252  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年7月 7日 (日)

文殊菩薩像、普賢菩薩像 納佛

 2年ほど前に、松本明慶先生に製作をお願いしていた文殊菩薩像、普賢菩薩像が、私の退院後の3月18日、自宅に納佛された。材料(楠)の乾燥に時間がかかったそうで、1年遅れの納佛である。私の手術があり、病気回復を願って、少し慌てて製作が急がれたそうだ。

 今、二尊が自宅の応接間に鎮座している。その横に座って考えていると、心が安らぎ、余命2年と宣告されたことを忘れさせてくれる。応接間で本を読み、エッセイを書いているが、その横で文殊菩薩様、普賢菩薩様が静かに私を見つめていてくれる。心の安らぎを得ている。

 

目に見えないものへ畏敬

 佛像とは何かを考える前に、佛に帰依している自分に安らぎを覚える。これは理屈ではない。佛像は目に見える存在であるが、目に見えないものへの存在を信じて、手を合わせる行為も心に安らぎを与える。我々は目に見ないものによって生かされていると信じたい。そう思うだけ幸せである。

 目に見えるモノだけを追うのは、拝金主義、成果主義、グローバル経済主義狂である。その弊害で、世の中が殺伐としてきた。日本人なら、心の豊かさを追う人生を目指したいと思う。

 そう思えない人が、自宅に引き籠り、最後に人を巻き添えにして凄惨な事件を引き起こす。それこそ、両親が仏壇や神社で手を合わせることを後姿で教えてこなかった因果であると思う。今の世相は、今の親が作り出した現実である。果があれば、必ず因がある。それが因果応報である。

 

智慧

 情報とは知ることのできる断片知識である。智慧は、実際に試してみてそれから生まれる人間の営みである。それは知識と行動で体験的に得られる。いくら知識があっても、智慧がないと、目先の利害に目がくらんで、グローバル経済主義狂に陥る。

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  馬場恵峰書 2018年

 

文殊菩薩、梵名マンジュシュリー

 文殊菩薩は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊である。一般に智慧を司る仏とされる。

 『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わったとされる。『維摩経』には、維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記され、智慧の菩薩としての性格を際立たせている。この教説に基づき、維摩居士と相対した場面を表した造形も行われている。

 文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。ここでは釈迦仏に代って般若の「空」を説いている。『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれることなどからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。尚、本来悟りへ到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。(この項、wikipedia より引用、編集)

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普賢菩薩、梵名: サマンタバドラ:

 大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊である。文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多い。法要では四七日の仏とされる。

 梵名のサマンタバドラとは「普く賢い者」の意味であり、彼が世界にあまねく現れ仏の慈悲と理知を顕して、命あるものを救う慈悲を司る菩薩として、人々を救う賢者である事を意味する。

 また、女人成仏を説く法華経に登場するので、特に女性の信仰を集めた。密教では菩提心(真理を究めて悟りを求める心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。そのため普賢菩薩はしばしば金剛薩埵の別名でもある金剛手菩薩とも呼ばれる。「遍吉」という異名があり、滅罪の利益がある。

 文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多い。独尊で祀られる場合もある。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされている。

 女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされている。また、辰・巳年の守り本尊である。

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2019-07-07   久志能幾研究所通信No.1248  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年7月 3日 (水)

癌の原因追及(5)人生道で出会うガン

 自分の歩く道に、悪縁の汚れが溜まっていないだろうか、見直してみたい。人生のご縁は、人が運んでくれる。縁なき人生は、獣の道である。お世話になったらお礼をする。ご縁ができればお付き合いをする。出会いのご縁を大切にする。そんな基本的なことが出来ない人と付き合っても、運は開けない。縁なき衆生度し難し、である。

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  馬場恵峰書 2012年

 

時間制限

 人生の持ち時間には限りがある。その悪縁の人と付き合うと、付き合うべきよきご縁の人と付き合う時間が無くなる。人生は選択なのだ。一方を選べば、もう一方は捨てねばならぬ。

 

縁の統計計算

 人生道は、良縁にも悪縁に満ちた道でもある。それは正規分布に従って現れる。問題は悪縁に出会うと、マイナスの作用が2倍も大きいので、取り返しがつかない。下手をすれば人生が終わってしまう。だからそれは避けねばならぬ。

 人生道で出会う超良縁は3%である。超悪縁は3%である。残りの94%は可もなく不可もなきご縁である。大体20%の良き人と付き合えば、人生は幸せである。

 少し道を逸れると悪縁の道が広がっている。悪縁に誘うガンの匂いのある人とは、交際を避けるべきである。その嗅覚での選択能力が自分の人生を開花させ、実を結ばせる原則である。最近、やっとそのガンの匂いが分かってきた。

 

縁の場

 縁は場に従う。ある場所、会合、組織、セミナー等でその縁のレベルが決まる。その縁の場に違和感を覚えたら、即、去ることである。私はそうやって危機を脱してきた。

 

ガン細胞

 ガン細胞とは、人だけの問題ではない。人生の目の前にぶら下がる美味しいモノもガン細胞である。それをどれだけ我慢できるかが、人生を分ける。美味しいものとは、スィーツだけではなく、愚痴だけの赤ちょうちん、付き合いゴルフ、ゲーム、無意味なネットサーフィン、価値なきSNS、賄賂や接待が含まれる。ゲームやネットサーフィンのガンに侵されれば、時間を浪費し、脳が侵されてゲーム脳になり、人生航海で沈没である。WHОはゲーム依存症が脳に危険と警告している。人生では、もっと大事なことがある。

 

上海に熱中

 その昔、会社にパソコンが導入された頃、ゲームソフト「上海」にハマり、多くに時間を使った。あと一回だけ、もう一回だけと、何回もやってしまうのだ。今思うとなんと多くの人生時間を無駄にしたことかと、悔いが残る。その時間を別の面に向ければ、人生が少しは変わっていたかもと思う。

 最近は、電車に乗ると若い人が、スマホでゲームに熱中している。その姿を見ていると、日本の将来が心配になる。私の年金はどうなるのかと(?)。私の年金と日本の未来は若い人が背負ってくれるのだ。

 

時間の浪費  p 35

 その原因はどこにあるのか? 君たちはあたかも自分は永久に生きられるかのように今を生きていて、自分のいのちの脆さに思い致すことは決してない。いかに多くの時間がすでに過ぎ去ったかを意識しない。時間なぞ無尽蔵にあるもののように君たちは時間を浪費している。そうやって君たちがどこの誰かに、あるいは何らかの事に与えているその日が、実は君たちの最後の日であるかもしれないのに。死すべき者のように君たちは全てを怖れ、不死の者であるかのようにすべてを得ようとしているのだ。

   セネカ著「人生の短さについて」3-4(中野孝次訳)

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  馬場恵峰書 2006年

 

2019-07-03   久志能幾研究所通信No1244 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年7月 2日 (火)

癌の原因追及(4)日本高血圧学階が癌をまき散らす

 40年前は日本の総医療費が10兆円であったのに、現在は40兆円を超えるまでに膨張している。日本の国家予算の半分である。国家予算を己の家計に当てはめると、給与(税収60兆円)の2/3が医療費に消える。何かおかしい。それでいて、癌患者は減るどころか、逆に2倍に増えている。乳がんは4倍に増えている。

 私は、日本の医学界が高血圧の正しい治療をせず、むやみに降圧剤を投与しているので、それが癌の一因となっていると推定した。

 医療関係者が、病気の真因を突き止めず、正しい治療を行わず、対処療養ですませ、その陰で癌マフィア、医療マフィアが、その美味しいもの貪っている。それは日本医学会の氷山の一角の事象である。それなら、病気に対して知識を増やし、自己防衛するしかない。

 

癌発生の要因を降圧剤と仮定すると

 その癌の発生要因を降圧剤ではないかと私は推定した。日本人の癌の急増を食の欧米化が原因とも考えたが、それなら癌の発生率も欧米並みになるはずである。ところが、日本は欧米を抜いて癌で死亡する人が急増している。それと高血圧の基準値の変更、降圧剤の使用量の急増と合致している。これは偶然の一致なのか。

 50年前の私が学生の頃は、癌は50人に一人の時代である。認知症など話題にも上らなかった。私が推定するに、その原因を降圧剤に向けざるを得ない。

 

高血圧を誤解

 「高血圧になると脳卒中になりやすい」という昔の思い込みがある。高血圧を防ぐと、脳卒中(脳出血、脳梗塞、くも膜下出血)を防げるという思い込みである。しかし今は、脳卒中のうち脳梗塞が80%である。日本人の栄養状態がよくなり、血管が丈夫になり、脳出血やくも膜下出血の割合は激減している。血圧が高いと脳卒中になるというのは、間違いである。それでも医師は、高血圧症に降圧剤を勧める。

 

医学怪の錬金術

 現在では、4000千万人が高血圧症と診断されている。降圧剤市場は1兆円超えである。それは医学会が、過去20年で、高血圧の基準を4回も変えたからである。それこそ医学界の錬金術である。

 しかし血圧を下げる薬のARBやカルシウム拮抗薬には、免疫力を抑制する作用がある。それが癌を誘発するようだ。

 血圧を無理に下げると、脳に栄養素や酸素が回らず認知症になる確率が高くなるようだ。それは『プレジデント 2016.5.16号』の記事「病気のウラ側」でも指摘されている。

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 上の2図は「プレジデント 2016.5.16号」プレジデント社より

 3図目は船瀬俊介著『あぶない抗がん剤』(共栄書房 2018年)から引用。

お医者さまは尊敬できる人?

 医学界が薬品メーカとグルで高血圧の基準を変えたなら、お医者様は尊敬できる偉い人との常識を変えねばならぬ。我々は何を信じたらいいのか。

 私が高血圧を食事療法で治しても、それを喜ばない主治医に接すると、考えてしまう。20年間も6人もの医師にかかっても、根本原因を教えてくれず、食事療法も指導せず、対処療養の降圧剤治療の投与だけの治療で、高血圧を治してくれない医師達を見ると考えてしまう。

 

木を見て森を見ず

 科学とは、細分化して、さらに細分化して真理を追及する手法である。「科」は禾編(稲)を秤で計っていることを示す象形文字である。現代医学は、病気を細分化し過ぎてしまったようだ。私は、検査をする人、手術をする人、抗がん剤を打つ人、と役割も細分化されてしまった。医師も木も見て山を見失ったのだ。

 

父の死

 その結果、「この病気は手術で患部を全適して、治りました。しかし患者は死にました。」である。私の父も長年、降圧剤を飲んでいて、胃がんになり、全摘手術を受けた。「手術は成功しました」と医師は言った。その1年後、肝臓に転移して父は亡くなった。私も20年近く、降圧剤を飲んできて、癌になった。

 

医師の癌化

 最近は、病院に行っても、医師はパソコンと睨めっ子で、ロクに患者の顔を見てくれない。なにかおかしくないのか。

 「癌」という漢字は、体に出来る岩のように硬い組織を表現した象形文字である。最近の医師は現代医学病に取りつかれて、頭が癌のように固くなり大局的にモノを考える能力が無くなったのではないか。思考の癌化である。

 今の西洋医学は細分化され過ぎている。盲目的に現代医学を進める医師たちは、結果として日本人の命を短くする癌細胞になったのではないのか。なぜ日本人の2人に一人が癌になるのか。それも増える一方である。日本の現代医学は、それに無力である。木を見て森を見ない対処療法で、日本高血圧学階は、日本に癌をまき散らしているようだ。

 「階」の漢字は、音符の「皆」はならぶの意味で、だんだんとの意味を表す。ものの道筋、物事の段階、因縁、導きを表す。「日本高血圧学階」は、段々と日本人を癌に追いやっているようだ。その意味を込めて私は「階」を使用した。

 私は「自分の城は自分で守れ。トヨタ生産方式を造った大野耐一の言葉)」の教えを自分の人生に適用して生きている。その過程の調査結果が、この記事である。

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 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」久志能幾研究所刊より

 

2019-07-02   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年6月30日 (日)

癌の原因追及(2)日本経済の癌細胞

 癌細胞のように日本経済を襲っている少子高齢化での労働力不足も、経済の血液であるお金の流れを「グローバル経済主義症」が、阻害しているために起きている症状にすぎない。

 日本企業が海外に工場を作れば、日本の雇用が減り、安い製品がブラーメンのように日本に流れ込んでくる。お金は海外に流れて、日本国内に流れなくなってゆく。「グローバル経済主義症」で企業が内部留保の精を出して、労働者に金を回さなくなった。それで労働者でフリータと呼ばれる若者は90万人も発生した。

 それなのに100万人の外人労働者を入れるとは、政府は正気の沙汰ではない。それで利益を得ている闇の世界がある。だから引きこもり者が69万5000人にもなり、挙句に悲惨な無差別殺人事件が頻発する。労働力という経済の血が流れず、鬱積したためである。血が流れなければ、病気になる。自然の理である。こんな日本に誰がした。

 

日本の惨状

 労働者の給与はこの20年で50万円ほど激減している。正規採用者も減っている。拝金主義になった企業は教育訓練費を削減している。だからそれを労働人口が足りないと外人労働者を入れる対策は、降圧剤治療と同じで、対処療養である。言い方を変えれば、抗がん剤投与である。正常な組織までも殺している。

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ブログ K's Strategy.「日本人サラリーマンの平均年収の推移と中央値について。」より

http://k-strategy.net/japanese-average-annual-income

 

 

EUの病気

 対処療法では、一時的に効果が出るが、10年後にその副作用が牙を剥き、正常な細胞の日本社会を破壊する。その現象が今、欧州で起きているドタバタである。だれでも自由に他国に移動できるなど、おかしい。元の真面目な税金を納めていた住民の権利はどうしてくれるのだ、である。それが英国のEU離脱騒動である。我々は欧州を他山の石にせねば、子孫に恨まれる。外人労働者を入れれば、それで日本の病気が治るわけではない。ますます日本は重病になっていく。

 

正しい治療

 正しい対策は、正規労働者の採用、非正規労働者の削減、賃金の向上と、政府の財政投資である。それと減税である。それを金融政策と増税で対処するのでは、日本経済は終わりである。

 人間の健康も薬に頼るのではなく、日頃の生活姿勢を正せばよいだけである。薬に頼るのは下の下である。

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 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」久志能幾研究所刊より

 

 

財政政策と金融政策の違い

 財政政策とは、インフラへの投資である。くだけて例えると、疲れた人に、太っ腹の無法松が「しけた面だなぁ。ビフテキを食いねえ、寿司を食いねえ。元気になりねぇ」と啖呵を切って、弱った体に栄養素を入れるため、堅気にご馳走を食わせて元気になってもらうことだ。

 それに対して、金融政策とは、金利の変更である。疲れた相手に対して、ヤクザが見せ金を見せて「この金を借りて、もっと働け。みかじめ料を払え。そうすれば、老後の面倒をみてやる。金利も安くしてやるから。そすればビフテキが食える」というが如しである。

 

裏切り

 しかしそういうヤクザみたいな役人は、我々に約束した「年金安心100年プラン」を反故にした。麻生大臣が「実は、年金が不足して老後には2000万円が必要」と口を滑らし、大騒動となった。年金の10兆円の資金を、族議員と役人がこの80年間で懐に入れてしまったのだ。しかし誰もその責任を取らない。そんなヤクザみたいな役人の言うことが信用できるか、である。

 

経済学の理論

 金融政策では、経済は立て直せないのは、経済学の理論的に証明された常識である。それを敢えて実行しようとする財務省は、よほどの利権が絡んで、その政策に邁進しているようだ。

 今まで3回の消費税増税では、毎回、景気が落ち込んでいる。それも3回とも、税収が減っている。そのことが分かっていて、この10月の増税を計画している罪務省は、よほど美味しいものが後ろにぶら下がっているのだろうと勘ぐってしまう。まともな論理構成の頭ではできないことだ。

 

私に出来る事

 次回の選挙で、自民民主党にお灸をすえねばならぬ。と言って野党ではどうしようもない。今の野党に投票すれば、もっと状況は悪くなる。前の民主党の政権時代に、国民が痛い目にあったのは記憶に新しい。今の野党のいう事は支離滅裂である。「では、どうすればよいのだ!」が私の悩みである。

 私のできることは、皆さんに状況を分かりやすく説明することで、意識改革をしてもらうことである。

 

2019-06-30   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年6月28日 (金)

一燈を掲げて雨中を行く

 昨日、梅雨入りの雨の中、車を走らせて気が付いたことは、昼間で雨中の走行で、点灯している車は5%ほどしかないことであった。雨が降ったら、昼間でもライトをつけるのが、交通事故防止の対策である。ライトで自分の存在を認識してもらえば、事故の確率が減る。

 点灯して走ることで、自分の行動に付加価値を与えることができる。事故が少ない運転という付加価値である。事故は人生の付加価値を削いでしまう。

 

人生走行

 人生で雨が降ったら傘をさす。松下幸之助翁が何時も言っている自然の理である。人生航路の見通しが悪くなったら、灯を掲げる。人生航路で、志を持って走るなら、目標という一燈を掲げて走りたい。周りの人に、己の意図を認識してもらえば、多くの援助がある。援助がない場合でも、邪魔はしないはずだ。

 

相手に認識してもらうことが事故防止

 相手に自分の存在を認識させることは、事故になる確率を確実に減らす。スウェーデンでは、1985年時点でも昼間からヘッドライトの点灯が法律で義務づけられていた。私がスウェーデンに出張したとき、現地でそれを確認したが、確かに効果が高い。

 現在では、商業車(現金輸送車等)でも「昼間、点灯しています」という表示をして走っている車が増えてきた。新幹線だって、昼間も点灯して走行している。

 昼間は目立ちすぎて少々恥ずかしいが、夕方なら早めにライトつけて走るべきだ。ただし、晴天夜間でのホォグランプの点灯は、人さまへのご迷惑でマナー違反である。まぶしいったらありゃしない。

 

「発見されやすさ」の確率

 「発見されやすさ」の確率を上げるためにも、暗くなりはじめた時や薄明かり時には、ヘッドライトを他車より早めに点灯すること。なぜなら、ヘッドライトは自分の為でなく、他車から自分の車を認識してもらうためにある。それが事故の確率を減らす。小雨や霧なら、ホォグランプ・ヘッドライトを点灯すること。

 ただし、スモールランプを点灯すのは不可である。スモールランプは停止している場合に、点灯するのが原則である。走っている時は、点灯しないのが国際ルールである。

 

暴走族の自己顕示欲

 暴走族に不思議と事故が少ない。これはあからさまな自己顕示をした派手な運転をするため。相手も恐ろしいので避けてしまう。その実態は、彼らが安全を確認してから、「信号無視」をしているからである。そのため事故が少ないと推定される。だから、「暴走族になって事故を減らそう?」はダメです。

 

「発見されにくさ」の確率

 夜間の「発見されにくさ」では、車の正面からの視認率を100とすると、後面のそれは10くらいに落ちる。車の側面からは車のヘッドライトは殆ど見えないため、その視認率は1くらいと推定される。だからこそ、右折で、脇道からメイン道路に進入する場合には、細心の注意が求められる。

 私が貰われ事故を起こしたのも、このケースです。また私が交通違反反則金を2回も払う羽目になったのも、「パトカー」を発見できなかった夜間であった。。。。。これからも夜間の運転自粛が望まれる。

 

無灯火運転

 暗くなったら、他車より早めにヘッドライトを点灯すること。気象庁発表の日没時刻後に、ヘッドライトを点灯せず事故を起こせば、法律的には無灯火違反と見なされる。事故負担割合判定でも不利となる。気象庁が定めた日没時刻以降は、いくら回りが明るくても、法律上は「夜」である。

 ゲーテも曰く「もっと光を!」

 

発見の確率

 事故防止には、事故を起こしに来る要因・物体を、いかに早く発見するかに尽きる。そのためには「発見する確率」と「発見される確率」を向上させること。事故原因の55%が「認知の遅れ」である(1967年自動車技術会の調査データ)。このことから、事故の要因(障害物等)の認知(発見)をいかに早くするかで、事故に合う確率は激減する。

 その認知の向上には、「発見しやすさ」と「発見されやすさ」を向上させればよい。「発見しやすさ」と「発見されやすさ」の確率を、1938年にローパーとハワードが、ドライバーの直前にダミー歩行者を飛び出させて実験してデータを得ている。

 

実験結果

 実験では、何が起こるかを全く予知していない被験者が運転する車の直前に、ダミー歩行者を飛び出させて、ドライバーがそれに気づいて、アクセルベダルから足を離す時点でのダミーから車までの距離を測定した。予知していれば当然視認した距離をLn 、実際にドライバーがダミー歩行者を視認した距離をNa として、〔Na /Ln 〕を横軸に、縦軸にダミー発見ドライバー数の累積頻度を図1に示す。これから下記のことが分かる。

 

・ダミー歩行者を予知せぬドライバーは、予知しているドライバーには見える視認距離の70%まで近づくまでは、一人もその存在に気づかない。

・50%の距離に近づくと、半分の人が気ずく。  

 予知しないドライバーが妨害物を発見する確率が50%になるのは、予知しているドライバーの視認距離の1/2になってから。

 つまり、意識して見れば人の2倍は見える

 だから音楽を聞きながらの運転はご法度である。 

・25%の距離まで近づいて、初めて全員が認識する。

 予知を意識した運転とそうでない場合では、事故を起こす確率が異なるのをこのデータは証明している。

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図1 ドライバーの妨害物発見確率曲線 (V.J.ローバー “Trans,IES" 1938.05)

 

 事故の大半は「衝突する相手の車を発見しなったため」に起きている。

 事故件数を違反別に分類したデータ(図2)から、「安全不確認」、「脇見運転」、「一時不停止」、「動静不注視」、「漫然運転」のワースト5の合計は55.4%に達する。このワースト5こそが「不発見型」の事故である。

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 運転者の内容別事故件数

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                馬場恵峰書

2019-06-28   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年6月26日 (水)

「大漁」の陰に大量殺戮あり

大漁

朝焼け小焼だ、大漁だ

大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ。

浜は祭りのようだけど、

海のなかでは 何万の、

鰮(いわし)のとむらいするだろう。

            金子みすゞ

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  馬場恵峰書「金子みすゞ 詩の世界 五十五恵峰選集」久志能幾研究所刊 より

 

 2019年6月24日、注文してあった中島潔画伯の「大漁」のリトグラフが自宅に納入された。これは先月のヤナゲンでの中島潔展示会で、最後の一枚だと言われて、つい買ってしまった絵である。まじかでこの絵を眺めていて、深刻な問題を連想し、それについて思索した。

 

大漁は大量殺戮

 表向きは、華やかな大戦果(大漁)と言われている歴史的事件に、裏から見ると悲惨な大量殺戮がある。それなのに意図的に歴史の闇の中に葬られている。それは欧州の大航海時代、アメリカの建国史、米軍の東京大空襲、中国の驚異的発展、オンデマンド臓器ドナー提供、現代の少子高齢化の問題である。

 

第三の眼は慈しみの眼

 この「大漁」の絵で、100匹以上も描かれている大羽鰮のその目は、全て白目である。大漁で捕獲された大量の鰮の死を表現している。この絵を見ていると、金子みすゞの優しい心が伝わってくる。その視点で歴史の事件を見ると、多くの裏の世界が見えてくる。慈悲の心が出れば、額の真ん中に付いている第三の眼を開く。

 何万もの死んだ鰮を見つめる女の子の眼は、慈悲に満ちている。観音様が慈しみで見つめている眼である。ミケランジェロのピエタのマリア様の眼と同じ眼差しである。過酷な運命に対してマリア様ができることは、ただ慈しみの眼で見るしかないのだ。ピエタとはイタリア語で慈悲という意味である。

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 中島潔画伯「大漁」

P1070127s   中島潔画伯「大漁」(部分)

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 ミケランジェロ「ピエタ」 著者撮影

 

輪廻転生

 何故、自分は人間に生まれたのか? 現代社会は人間謳歌であるが、少しDNAの配列が違っていれば、牛や豚に生まれて、人間に食べられる存在になっていたかもしれない。それを諫めた教えが、仏教の輪廻転生、因果応報、利他、小欲である。それはグローバル経済主義の対極の考えである。

 

血に染まったアメリカ建国史

 アメリカは、世界一の国と自慢しているが、そのアメリカ建国の陰で950万人のインディアン(現地人)が虐殺された。当時1000万人いたと言われるインディアンは、現在では50万人しか残っていない。インディアンが悪者の西部劇は、勝者の物語である。ヨーロッパから大西洋を渡ってきた落ちこぼれのヨーロッパ人(英国人)は、入植当時、インディアンにトウモロコシなどの栽培方法を教えてもらい、飢えをしのいだ。英国人はその恩人の土地を強奪して、恩人のインディアンを虐殺して、アメリカは建国された。アメリカにとって、新天地の開拓は、アメリカンドリームであった。それは「大漁だ、大漁だ」の宴であった。

 

ヨーロッパの大漁

 17~20世紀のヨーロッパの繁栄は、大航海時代と言われる。それはアフリカから現地人を奴隷として強奪し、アジアを植民地にしてその生き血を吸うことで実現できた。何万、何百万もの有色人種の財産を強奪すれば、大漁だ、大漁だと貴族生活を送ることが出来る。その陰で、多くのアフリカ人、アジア人の死があった。インドでは英国の植民地支配下で2000万人が餓死をした。キリスト教では、キリスト教徒以外は人間でないので、罪の意識もない。それは当時のローマ法王も黙認のことであった。

 

東京大空襲の大勝利

 米空軍カーチス・ルメイ大将の指揮で日本全土の空襲が行われた。米軍はそれで戦争を早期に終結できたと大自慢である。特に1945年3月10の東京大空襲では、単独の空襲では世界史上最大の犠牲者が出た。死者10万人以上、罹災者100万人以上である。ジェノサイドである。それなのに戦後、ルメイは日本の航空自衛隊の育成に貢献したとして勲一等旭日章が叙勲された。通常、勲一等旭日章の授与は天皇がされるが、昭和天皇はこれを拒否された。

 米軍は戦争を早期に終わらせれた大成果だ(大漁だ、大漁だ)と自慢しているが、その陰で、東京大空襲だけでも非戦闘員10万人以上の弔いがあった。ジェノサイドとして、中島潔画伯作「大漁」の鰮が、焼死した東京都民を思い出させてくれた。 

 

天安門事件の陰

 天安門事件で、約1万人(英国情報局の調査数字)の学生を戦車でひき殺し、銃で学生を殺害して、盛り上がった民主主義の声を押しつぶした。邪魔者は殺して、中国共産党は今の経済成長を達成した。多くの学生の犠牲の陰に今の繁栄がある。

 中国共産党にとって、今の繁栄は、世界第二位の経済大国として大漁だ、大漁だ、である。中国共産党は、先進国が膨大な金をかけて開発した技術を盗み、奴隷のような労働で製品を生産させ、政府の補助金を投入して製品を安くして輸出した。それではルールを守る先進国が勝てるはずがない。激安の中国製品の輸出攻勢をうけた先進国で、多くの「鰮」の弔いがあった。会社をたたんだ経営者や、失業した人も多くいた。「鰮の死」である。

 

オンデマンド臓器

 臓器移植が必要な患者が、中国に渡ると、臓器移植のドナーが48時間以内見つかったと喜ぶ。その陰で、オンデマンドで、強制収容所内で囚人が殺されている。売るために臓器を取り出されているウルグアイ、チベットの少数民族の人達が鰮のように殺される。たった一人の病気の回復(大漁)の為、多くの人が殺されている。

 だからトランプ大統領は人権問題として怒っているのだ。詳細は下記Newsweek社の記事「民衆法廷「中国は犯罪国家」と断罪」(「良心の囚人」からの強制臓器収奪は今も続いている)を参照ください。

https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2019/06/post-56.php

 

奴隷労働と100円ショップ

 100円ショップで、多くの品を買って、「大漁だ、大漁だ」とご満悦になっているその陰で、奴隷のような労働環境で働かされて100金の製品を作らされている海外の子供たちがいる。100円の製品を喜んで買う人が多いが、その商品が売れれば、正規で作られた日本製品が売れず、その分の雇用が日本からなくなる。そして日本全体の給与が下がっていく。失業者が出る。そこまで考えて、100円ショップでモノを買っている人は考えているだろうか。その購買は、自分で自分の首を絞めている行為なのだ。だから私は絶対に100円ショップに行かない。

 

少子高齢化の元凶

 今の日本の繁栄も、陰で多くの安い賃金の派遣社員、奴隷のような待遇の外国労働者の働きがあって、成り立っている。コンビニに行くとアジアの若者の店員ばかりである。大漁だ、大漁だと浮かれている場合ではない。

 小泉首相の構造改革以来、日本では大企業優先で、グローバル経済主義化が進んだ。企業は海外に工場を作り、日本の生産を減らし、正規社員を減らし、派遣社員を増やして、全体の給与を上げない。だから日本のサラリーマンの給与は、この20年で50万円近くも下がった。だから若者が結婚できず車も買えず、結果として少子化が止らない。景気も良くならない。全て政府がグローバル経済化を推進してきた結果である。その浮いた金は、国民には回らず、大企業の内部留保になっている。

 そして自殺者が構造改革以降、3万人超えが長く続いた。多くの「鰮」が死んだのだ。

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日本のサラリーマンの平均年収の推移

 

ブログ K's Strategy.「日本人サラリーマンの平均年収の推移と中央値について。」より

http://k-strategy.net/japanese-average-annual-income

 

我々がすべき行動

 国会議員の中には大企業優先でグローバル経済主義の推進を図る輩も多い。中韓と癒着して己に利益誘導する輩も多い。そういう利権がらみの議員を選挙で選んだ我々にも責任がある。次回の選挙では、そういう議員は落選させねば、国が亡ぶ。我々は、大量の死(大漁)を漫然と見つめるのではなく、行動を起こさねば、ゆでガエルのように殺される。そのためには声をあげること、選挙で拒否の意志を示すことである。

 

2019-06-26   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年6月20日 (木)

「真の師」と「水先案内人」の違い

 人生では、単なる「水先案内人」を「真の師」と勘違いすることがある。「水先案内人」が如何にも、聖人君子のような立派なことを唱えるので、騙されるものだ。

 私も大阪のN教育会社のT代表を師と仰ぎ、6年間程、接した。しかしT代表は、私が困って相談に行った時、「今は忙しい」と逃げてしまった。私が会社内の紛争に巻き込まれ、退職まで考え、死ぬほど困って、自殺まで考えているとき、相談に行っても助けてくれない人は、真の師ではないと悟った。

 渡部昇一師は「国が戦争状態の時、助けてくれない国は、敵国である」とまで言っている。それと同じ論法で、まさに人生の戦争状態の時、助けてくれない師は真の師ではない。

 

水先案内人

 そのT代表は、研修では素晴らしいことを言っていたのは、水先案内人が、人生路の観光案内として、多くの名経営者や哲学者のお話を紹介していたにすぎないと悟った。それ以来、そのT代表とは縁を避けるようにした。分かったのは、今までの研修は、金儲けのための研修教育であった。

 彼は研修講師として、人生の成功例、失敗例を名調子で演じた。私はそれに酔っただけであった。それで彼を人生の師と勘違いをさせられた。研修では、人間心理学に基づいて、巧妙なパーフォーマンスが演じられる。それはベトナム戦争で、精神を病んだ米軍軍人を癒すため開発された手法が応用された。その研修は、病んだ精神を高揚させる手段としては、正しいのだが、勝手に拡大解釈して勘違いした私が愚かであった。酔いが覚めると真実が見えてくる。

 

ゴーンの名演技

 当時、日産のゴーンがリストラで日産を立て直した時、彼は名経営者として持てはやされたが、それを批判した経営者は、ほとんど見かけなかった。いてもマスコミは取り上げない。日本全体が、ゴーンの手口に騙されて酔っていただけである。

 彼は、単に従業員の首を切り、経営層を一掃して、資産を切り売りする手法で、日産を建て直しただけだ。これをすれば、ド素人でも再建は可能である。それが日本風土の関係で、しがらみのない外人でなければ、できない状況であっただけである。それを名経営者として、持てはやしたマスコミの責任は重い。今までこんな簡単な手法なのに、再建をできなかったのは、日産の私利私欲に走った経営層がのさばったのが原因で、そういう風土を作った先人に罪がある。

 ある人物が流行になった時、耳を洗い、目を拭って、真実を観なければ、洗脳教育をされてしまう。ゴーンが良き事例であった。

039a32572s     馬場恵峰書 2016年

師の判別方法

 真の師か、そうでないかは周りのスタッフの状況からでも判別できる。その講師が社長であるN教育会社のスタッフがよく辞めるのは、怪しい現象である。またそのT代表が中小企業の社長達に経営学を教えているが、スタッフがそのN教育会社の「決算報告書をT社長から見せてもらったことがない」と不平を言うのも異常である。まさにブラック企業である。

 

事例

 そのN教育会社で、あるNスタッフが、B講師の世話係を5年間程勤めて、突然辞めて自営業(飲み屋)を始めた。そのスタッフはさんざんその講師にお世話になったのに、独立の挨拶状一本寄こさないと、B講師は呆れていた。Nスタッフは、ある意味、出世コースの仕事を与えられていた。それなのに、辞めてしまった。どういう社員教育をそのT社長はしているのかと。スタッフは社長の後姿を見て育つのだ。

 本来、そのNスタッフは、顧客の私にも、離職の挨拶があってしかるべきであった。私に何度も研修のお誘いの電話をしてきた営業マンである。彼に支払った費用も総額で300万円を超える。このN研修会社の社員は辞める人が多く、顔ぶれが頻繁に変わる。やはり問題がある会社なのだろう。

 またそのT代表が、B講師に別の仕事を頼むのだが、それを特別に安く頼んでいる(B講師をディスカウントしている)。それでいてお礼は電話だけで、礼状一つよこさず、挨拶にも来ないと、B講師は呆れていた。私が本を出版してその案内をしても、T代表からもその部下からも無視された。

 真の師は、弟子のことを無視はしないもの。厳しい批判があってこそ、本当の師である。愛の反対は、憎悪ではなく、無視である。

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   馬場恵峰書 2015年

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  馬場恵峰書 2012年

 2019-06-20   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。