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2017年6月

2017年6月 4日 (日)

佛は牛丼を我慢する

ファーストフード禁止令

 ロワジールホテル大垣の料理長・齋藤さんは修行時代に親方から「牛丼、カレー、ホンだし入りの味噌汁は食べてはいけない」と指導された。牛丼が世に出回り始めた頃の話である。

 親方曰く「牛丼はあまりに美味しすぎて味覚が麻痺するので、料理人として食べてはならない」。普通の料理方法では、あれだけの魅力的な味は出せないという。魔法の調味料(味覚を麻痺させる化学調味料)を多量に入れてあるからだという。だから味覚も確実に劣化する。多量に食べ続ければ、何時かは体がおかしくなる。またそんな美味しいものが280円で食べられることが異様である。安いものにはワケがある。

医療費増加の怪 

 牛丼が世に出回り始めた40年前の日本の医療費総額は、10兆円ほどであったが、現在は40兆円を超える。医療費総額の最高額の更新は12年連続である(2015年9月現在)。医療が発達しても患者は増え、医療費は増える一方である。最近はガン、認知症、糖尿病の急増である。今では若年性認知症まで蔓延している。当時は、認知症など話題にも上らなかった。何かおかしい。その医療費の増加は、日本のファーストフードの普及の歴史と重なる。ファーストフードに含まれる、糖分、劣悪油、添加物、抗生物質や成長ホルモン(牛や鶏の餌に含まれる)を多量に日本人が摂取しはじめたせいではないかと私は推定している。

 

 とは口という門から入る食物を毒見する六根の一佛である。六根とは六織を生ずる六つの感官(眼・耳・鼻・舌・身・意)の称である(佛語)。そのお役目は体の防衛である。しかし化学調味料はその六根の門番さえも騙してしまう魔物である。

 

 カレーは、いつ何処で食べても美味しく食べられるので、味覚が麻痺させられる。カレーには香辛料が多く入っている。香辛料とは胡椒等の本来の味を誤魔化す調味料である。胡椒とは保存技術の無い中世ヨーロッパで、腐りかけた肉を少しでも美味しく食べるために、腐臭を誤魔化すために使った調味料である。腐った肉が体に良いわけが無い。その腐臭を誤魔化すための香辛料も体に良いわけが無い。

 胡椒が宝石のように高価なインドの特産品であったので、奴隷商人のコロンブスは、胡椒の新しい運搬航路を求めて新航路を探す旅に出て、新大陸を発見した。その後、アメリカ原住民のインディアン600万人が、アメリカ人(イギリス人)により虐殺された。カレーとは、そんな曰くつきの料理である。

 

 ホンだしも化学調味料であるので、同じ理由で不可である。齋藤さんがある土地でメチャウマのラーメンに出あった。その料理をするところを見ていたら、小さじ一杯の白い粉を汁に入れていた。白い粉は、味の素に相当する化学調味料の何かであったようだ。

 

我慢とは煩悩である

 我慢とは七慢の一つである(佛語)。七慢とは、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、下劣慢、邪慢を言う。慢とは「忄」(心)+「曼」〔音〕で、「心が伸びたるんで怠る」を意味する。「我慢」の意味は、①我をよりどころとして心が高慢であること、②我を張ること、③じっと耐え忍ぶこと、である。当初の意味の「自分自身に固執する」ところの①の意味から②に転じ、さらに③の意味となった。

 七慢は人が持つ煩悩である。その煩悩を断ち切るのが不動明王の持つ宝剣である。佛法、佛像を作り出した古代の賢者は、人の持つ慢心を知っていた。慢心を持つ人の本質は、2千年前から少しも変わっていない。それが、今でも不動明王が現役で活躍する所以である。

 

下図はロワジールホテル大垣の料理長・齋藤秀己さん  2015年1月18日

齋藤さんの料理は本物の味である。

 

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2017年6月 3日 (土)

大垣まつりとは、動態のお墓(改定2)

 大垣まつりは、1648年(正保5年)ウィーン公使であった戸田共氏伯爵のご先祖にあたる初代の大垣藩主戸田氏鉄公が城下の八幡神社を再建した折、城下十八郷が神輿三社を寄進して喜びを表し、大垣十ヶ町(本町、中町、新町、魚屋町、竹島町、俵町、船町、伝馬町、岐阜町、宮町)が10両の軕(山車)を造って曳き出してその喜びを体現したことが起源という。

 

大垣まつりの総括

 大垣まつりは、370年前の初代大垣城主戸田氏鉄公への感謝と毎年の豊作を祈願する地元全体で行なう神事である。人々は名君であった城主を偲んでお祭りを行う。故人を偲んで石に名前を刻んだのが静態のお墓で、お祭りは動態のお墓といえる。伝統行事としてこのお祭りが続く間、大垣の戸田城主は、民衆の心の中で生きている。老若男女が山車の諸芸に合わせて日本の邦楽を奏で、日本の伝統芸能と先祖を敬う心が、大人から子供に継承されていく。先祖を敬う心を子供に、自然と植え付ける。良き伝統である。

 

大垣まつりの稽古

 この日のために、子供を中心とした伴奏者達が、町内に集まりほぼ2週間にわたり夜に練習を続ける。稽古の始まりは世話人が「それではこれから始めます」というと、子供たちを含め全員が一斉に立ち上がり「お願いしまーす」で始まり、「ありがとうございました」で終わる。その後、子供たちはお菓子をもらいご機嫌である。その間、付き添いのお母さん方はおしゃべりに花が咲く。

 軕の曳き回しと八幡様の前での諸芸では、重い軕を回転させたり、お辞儀をさえたりするので、引手のチームワークが必要で、練習が欠かせない。町内の名誉がかかっているので真剣である。稽古始、中稽古、稽古納めには、町内のものが料理・酒を持ち寄り祝杯を挙げる。学校もPTAも協業して子供の教育の場として熱心に応援している。

 そこから共同体としての意識が育つ。日本の和の精神のもとである。街に大垣まつりのお囃子の笛の音が響くとき、それは春本番の訪れの声である。

 お祭りでは、遠方からも知人・縁者が集まり、御馳走が振舞われ、旅芸人が集まり、屋台が出て、お金が回り経済が活性化する。人々に生きていく喜びと共同体としての和の意識を与える。素晴らしい先人の知恵である。

 

大垣まつりの歴史

 1679年(延宝7年)、第四代の大垣藩主戸田氏西公が、神楽軕、大黒軕、恵比須軕の三輌を下賜。この3輌を「三輌軕」とよぶ。慶安元年(1648年)八幡神社の古文書によると、造られたばかりの軕に対し「十町之車渡リ物尽善尽美(十町の車渡り物、善を尽くし美を尽くし)」と、称えられている。また今は姿を消したが、「朝鮮人行列」という、朝鮮通信使を模した竹島町の異国情緒あふれる行列もあった。

 濃尾震災、第二次世界大戦の空襲で軕の多数失うが、2012年、復元等により13輌の全てが完全に復活した。

 災害を免れた軕9輌と朝鮮軕付属品は、岐阜県の重要有形民俗文化財に指定され、2015年3月2日、「大垣祭の軕行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定された。2016年12月1日にはユネスコ無形文化遺産に登録された。

 

軕の種類

大垣は、中京圏と近畿圏の境に位置し、軕の作り方で融合型の山車となっている。中京型は名古屋型で、近畿圏型は長浜流芸山型であり、大垣の本軕は、全ての型が揃っていて全国でも珍しい。そのうち三軕は生粋の大垣っ子である。

大垣の軕は、下記の4種類からなる。

①  無蓋軕、

②  前軕、本山車、後山車を持つ山車、

③  前軕がなく本軕から樋が突き出ている本軕、

④  前軕を舞台に改造した踊り山車

 

試楽は、土曜日に行われ、13輌の軕が朝9時に八幡神社前に集結する。八幡神社の鳥居前で奉芸を行った後、市役所玄関前に移動する。そこで掛芸披露を行う。この行事は、かつて大垣藩主が大垣城内に軕を曳き入れて上覧したことに由来し、現在は、藩主に代わり市長がその役を務める。以後、各軕は自由行動をとる。

 

本楽は、日曜日に開催され、各軕は八幡神社前に集結し奉芸を披露する。後、神楽軕を先頭に城下(東廻り・西廻り(毎年交代)が存在)を練り歩く。

 

夜宮では、試楽、本楽両日とも、19時より各軕は八幡神社前水門川沿いに集合して提灯を点灯する。八幡神社前を2周し、曳き分かれる。本楽の夜には神輿の渡御も行われる。

 

大垣まつりの人出数

 ユネスコ登録後、祭りの観客数が急増した。2017年は初日の試楽の日が雨天のせいで、29万人の人出となった。2011年の試楽が10万人、本楽が12万人で計22万人である。比較が難しいが、雨でなければ人出は2倍になったと推定される。2011年の大垣祭りの写真と比べると、人出の数が増えたことが良くわかる。街の活性化で人がいなくては話にならない。大垣祭りが街の活性の一助となっている。

 

この項、一部wikipediaより編集

参考文献 浅野準一郎著『大垣まつり』風媟社

     長野良行、水崎薫、田中千奈代著『東海の山車とからくり』ゆいばおと刊

 

下図1 昔の大垣まつりを説明した大垣城の説明看板

下図2 2011年 大垣まつり・本楽での人出(これで12万人の人出)

下図3 稽古の成果が問われる大垣まつり本楽でのお囃子の伴奏(2017年5月14日)

    見守る親御さんの方が真剣かも。よき教育の場です。

下図4 大垣まつり・本楽でのお囃子の伴奏(2011年5月14日)

     皆さん真剣です

 

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2017年6月 2日 (金)

黄金のホールを照らす蓮の花

 今回のウィーン訪問の目的の一つは、楽友協会のホールにある蓮の花模様の確認であった。楽友協会館内ツアーと演奏会に出て、ブラームスホールと黄金のホールの現地確認を行った。

    館内ツアーで管内の概要を見て回ったが、せわしなく詳細な確認ができなかった。4月23の日ブラームスホールでの演奏会で、ジックリと蓮の花(Lotus)模様がある壁や彫刻を確認した。3日後の4月26日、黄金のホールでも蓮の花模様を確認した。日本では佛様は蓮の花の台座に座ってみえるが、西洋の女神は冠に蓮の花模様を付ける。東西文化の差があって興味深い。その差は、その気になって観ないと見えない。自家のお墓に付けた蓮の花模様を現地現物で確認できて、このウィーン訪問が、2015年改建のお墓の仕上げ工程となった。

 

   西洋でもLotusは特別の花である。ギリシャ神話では、Lotusの実は、それを食べると浮世の苦しみを忘れ楽しい夢を結ぶと考えられた想像上の植物とされる。英国の自動車メーカのLotusも、表計算ソフト会社のLotusも、その意味合いから会社の名前にしたという。

   私の家のお墓を建立した松居石材商店さんが、2016年ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのTV放送を見て、蓮の花模様が黄金のホールにあることを見つけ、私に連絡してくれた。これが楽友協会とのご縁の始まりである。

 

   蓮の花は仏教でも特別の花である。泥の中に根をはり、水面に綺麗で清浄な花を咲かせる蓮の花の姿から、現世が汚泥の様な五濁悪世の中であっても、佛様の教えに導かれて、悟りの世界が開けられると言う意味が込められている。また、水を弾き、水面一面に大きく緑の葉を広げる様も、俗にまみれず、強く生きる事への象徴とされている。一貫して凛とした姿のある蓮を精神の清浄さと重ねて、佛教の最高の教えとして伝えられている。

   ワサビの花はその対極にある。ワサビは山奥の清流でしか育たない。ブラック企業とは対極の清廉なはずのお役所、聖職の場、有名大企業で、汚職や不祥事が絶えないのが不思議である。「現状がブラックだから」は言い訳である。どんな組織にもブラック的要素は存在する。リーダーはブラック的な状況にあっても、それをホワイトに変えるのが仕事だ。リーダーとは管理職ではなく、気づいて行動する人だ。よき環境ならボンクラ経営者でも、そこそこの花は咲かせられる。一流の経営者だけが、泥沼で美しい蓮の花を咲かす。ワサビの花の如く、人のアラは誰でも指摘ができる。

一流の経営者なら、不況の泥沼でも,蓮の花を社員の心に美しく咲かせる。

それが蓮の花言葉。

下図1はブラームスホールでの蓮の花模様。

下図2は黄金ホールの女神の冠に蓮の花模様。

下図3は黄金のホールでウィーンフィル演奏会の休息時間2017年4月26日

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2017年6月 1日 (木)

ウィーン楽友協会を表敬訪問   亡き人に出会う初体験

   2017年4月24日11時から1時間、楽友協会記録室長のビーバー・オットー博士を表敬訪問した。彼の室長室は楽友協会の奥の院のような場所にあり、迷路のような館内で辿りつくのに、セキュリティの厳しさもあり苦労をした。

 博士にお会いして、守屋多々志美術館の図録(ブラームが戸田伯爵夫人の琴の「六段」を聴き入る屏風絵を含む)と中井館長の挨拶状、私からの挨拶状、自著「魂が観るウィーン六段の調」(英訳併記)(初版)を贈呈した。1981年、守屋画伯がローマ法皇ヨハネパウロ2世に表敬訪問・拝謁して、バチカン美術館に寄贈した「ローマ法皇のもとに伺候する天草四郎の凛々しい馬上姿」の絵が、贈呈した絵画目録の図書の中にあることを話すと博士は大変喜ばれた。

   前日、ウィーン中央墓地のブラームスのお墓に参拝したこと、前日の古楽器演奏会を開催したブラームスホールにある模様は、蓮の花であることを話すと、博士もこのことを初めて知ったと驚いておられた。

   私の家のお墓の改建の話と黄鶴楼の故事の件をお話すると大変興味深い話と聞き耳を立てて頂いた。私の280年前のご先祖が、能の謡曲の歌い手で名人であったと推定され、そのお墓の揮毫を馬場恵峰先生にお願いしたことをお話した。そのおり「馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集」をお見せすると興味を持たれて、正式出版したら贈呈することになった。これもご縁です。用があるから行くのではなく、行けば用ができる。それがご縁の始まり。

   私のピアノの先生である河村義子先生が「六段」のコンサートを8回も企画・演奏を開催されていること、アップされているyoutubeのこと、河村先生が共演したティム、バルトロメイ、親交のある原教授のことにも話しが及んだ。

   最後に一階廊下のブラームス胸像の前で博士と記念撮影をして約1時間の楽しい友好的な会合が終わった。大垣市を始め関係者の皆様へよろしくとのこと。

   彼の名刺の裏を見たら、そこに日本名があり「音 美波」とあった。素晴らしい名前だ。博士が来日したおり、サントリーホールの社長が漢字の名前を付けてくれたとか。

 

   ベーゼンドルファーの営業マンは、「楽友協会はめちゃめちゃ敷居が高く、日本以上にお役所的であるので、返事は2、3週間後」と言っていた。それで半ば諦めていたら、面会依頼のメールを発信して僅か2日で返信が来たのは驚きである。その依頼メールも楽友協会の責任者に宛てたのであって、ビーバー・オットー博士宛てではない。その博士から返信が来たので驚嘆した。私は、彼は亡くなっていると聞いていた。私の心の中では、博士は既に亡き人であった。亡き人にこの世でお会いするのは初体験である。この縁は稀有な仏縁である。

 

 その経緯を「これは極秘情報ですが」と声のトーンを落として重々しく「日本では、ビーバー・オットー博士は亡くなられていると伝聞されている」と話したら、博士は急に胸を張って、「I am fine」とポーズをとり大笑いとなった。

 

下図はウィーン楽友協会 1812年建設。楽友協会ビルの裏側にベーゼンドルファーのお店がある。楽友協会がある場所が「ベーゼンドルファー通り」

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