c-馬場恵峰師の書・言葉 Feed

2023年3月13日 (月)

お命鑑定団から余命宣告(1/3) 寿命

 

 どんなモノにも命があり、寿命が決まっている。全ては生老病死である。無常である。ものは常に変化している。

 人に寿命があるように、組織にも組織の長にも寿命がある。会社の人事異動である組織に部門長として赴任したら、その役職の死は4年後である。永遠の命はない。

 それを踏まえ、永遠に生きるつもりで、10年後の姿を追い、今日が人生最期の日として、悔い無き生き方を送ろう。一日の生き方が、一生の生き方を象徴している。

 

長の命

 最初の1年で現状を把握して、問題点を見付け、

 2年目で改善すべきことを計画して、実行に移す。

 3年目でその実施状況でPDCAを回す。

 4年目で成果を確認し、後進を育てる。そして長の座を去る。

 

 これは私が28歳ころ、上司のM主任から教わった。

 そうすれば、お命鑑定士が「いい人生しましたねと絶賛だ。

 

トヨタの人事

 トヨタでは、昇進する場合は、別の部署に異動して昇格である。それは上層部がその人物が違った分野でも能力を発揮できるかを見るための人事である。その中から成果を上げた人がトヨタで生き残る。だからトヨタの人財は優秀なのだ。

 中部国際空港の社長は、トヨタの生産技術関係の出身の役員がやっている。それも上記の一例である。

 

人生の学び

 大学での学びの命も4年である。大学に入学したら、4年後の卒業(死)が決まっている。その死を意識して学んだか否かで、成績が決まる。意識しなければ留年である。

 人の命も青春期、青年期、壮年期、老年期で4期の命である。人生では、30歳から60歳までの期間が、社会に最大限の貢献ができる。

 どんな命にも旬がある。それは人間の命でも同じ。60歳は定年で、サラリーマンの死である。人間生理学的に、最高の状態で頑張れるのは60歳までである。それが旬である。死という時間制限を意識して仕事をするから、成果が上がる。

 

「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」『論語・為政』

(私は15才で学問を志し、30才で学問の基礎ができて自立でき、40才になり迷わなくなった。50才には天から与えられた使命を知り、60才で人の言葉に素直に耳を傾けられるようになり、70才で思うままに生きても人の道から外れることはなくなった)

 

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 馬場恵峰書 

 

大垣市長の座の命

 大垣市長の任期を意識せず、市長の座にしがみ付くだけの姿勢だと、成果は上がらない。 

 大垣市の前市長小川敏の様に、任期を意識せず、任期4年を5期、20年間もやるから、組織が崩壊する。だから大垣市は20年かけて没落した。大垣市は20年間、ずっと公示地価が下がり続け、人口も減り続け、大垣駅前商店街は幽霊になった。大垣市の役人のモラルも下がり続けた。大垣の行政サービスは県下最低となった。それでも大垣市の新市庁舎は県下一豪華な造りとなった。大垣市は役人の利権ガンとの後遺症で苦しんでいる。

 

 その原因を作った前市長の政策を継承すると石田仁市長は豪語する。正気の沙汰ではない。だからやる政策が狂っている。これだけ大垣市が没落したのに、その元凶の「大垣未来ビジョン」をそのまま継続するという。第一期でその間違いが露見したのにも関わらず、である。PDCAを回せない経営者に大垣市の経営は任せられない。

 大垣のゴミが10年前に比べて35%も減っているのに、「ごみが増えた」と大嘘を言ってごみ袋有料化政策をごり押しもしている。それは市民を騙して金を巻き上げる詐欺罪と同じである。それに賛同した議員達も同罪である。

 議員達は、自分達の任期に寿命がある事を忘れている。市民の鉄槌が下るだろう。市民が声を上げないから、役人が利権漁りに走り、やりたい放題で政を行ったから大垣が没落した。舞い上がった役人のエゴは、何時かは失墜する。それが宇宙根源の法則である。永遠に舞い上がったままの姿はない。

 

 

2023-03-13  久志能幾研究所通信 2640  小田泰仙

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2023年3月 5日 (日)

「虚空心経」で人生を料理する

 

 ずっとその昔、自分有限会社教の教祖様が人生教学を修行していた時、「人は空であり、空は人である」と悟られ、人間関係の苦しみから抜け出されました。

  人不異空 空不異人 人即是空 空即是人

 この世の人は、実体のないもの(空)であり、空ということは、人(空)以外にはあり得ない。すなわち人は実体のないものであり、実体のないものが人なのである。だから、いくら憎悪愛情に満ちた人間関係であっても、50年も経つと夢幻の世界になる。80年も経つと、人はこの世から消える。死後、形あるお骨として残っていても、80年も経てばお骨は土に還り、見える世界から消滅する。

 

虚空:仏語。何も妨げるものがなく、全てのものの存在する空間を意味する。

 

 

 人の存在は空だから、性善説も性悪説も当てはまらない。性悪説だからといって、悪人が永遠に悪人であるはずがない。人の性悪さが変わらねば、人を教育する意味がない。人ものカネは無常である。

 性善説として、人を躾・教育もせずに放置すれば、インドで発見されたオオカミ少女のようになってしまう。有名女優が息子にお小遣いを月に50万円を与えても、その教育を放棄すれば、子供は覚せい剤常用の犯罪者になってしまう。口でいくら立派なことを言っても、親の後姿を子供が見て育つ。子供はその親の言うことは聞かず、親の行動を真似する。そして国民に後ろ足で泥を掛ける始末となる。だから性善説も性悪説も正しくない。人は空なのだ。

 

 人は状況によっては人殺しもする邪鬼の存在にもなる。性善説や性悪説だけでは戦争と平和の時代を生き延びられない。

 戦争の時、敵を殺さねば、己が殺される。銃後の家族を守るため、敵を殺さねばならぬ。戦争で10万人を殺せば英雄である。勲章がもらえる。

 民間人10万人が焼死した東京大空襲を指揮した米国の将軍カーチス・ルメイは、戦後、日本国から勲章をもらった。昭和天皇はその直接の授与を拒否された。それは戦争で勝った側の論理である。狂気であるが、それが世の定めである。それこそ空である。平和の時、3人を殺せば殺人罪で死刑である。何が正しいかなどの正義論は存在しない。法律も正義も時代と人の都合により変わる。だから人も空であり、人が作った法律も空である。

 

 そして愛憎感情、創作活動、政治活動といった行動もまた同じである。共産独裁主義C国で、民衆主義を唱えれば、死刑である。アメリカで共産主義万歳と言えば、レッドパージで国外追放である。だから思想も空である。

 会社の人事も所詮は人の好き嫌いだけのこと。人が変われば、評価が変わる。その人は会社で10年経てば、その部署からいなくなる。人は空である。だから人事も空である。

 トヨタを変えた第8代社長の奥田碩氏は、上司の受けが悪く、フィリピンに飛ばされていた。それを豊田章一郎氏が見出した。奥田碩社長がトヨタを変えて、田舎のトヨタを世界のトヨタにした。だから人事など空である。人も空、人事も空である。

 ゴッホが描いた絵は、その当時、ごみ扱いであったが、100年後、数百億円で取引された。だから芸術家の創作活動も空なのだ。「芸」とは匂い草の象形文字である。芸術ほど、時代と人に影響される分野はない。それこそ人の好み次第の存在で「空」である。その人が80年後には、この世に存在しないのだ。

 

 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

 

 あらゆる存在は空を特質としているから、生じることも滅することもない。汚れることも清まこともない。お金が増えたと言って、コンピューター上の数値だけの話である。政府が変われば、お金は紙くずにもなる。いくら金持ちでも砂上の楼閣である。勝者必滅の法則である。永遠のお金持ちなどいない。お金はあの世は持って行けない。お金も有効期限があり、生きている間の80年間だけである。だからそれは空である。

 私の曽祖父は、虎の子の退職金を銀行に預けていたら、1947年の預金封鎖によってひきだせなくなり、預金封鎖が解除された時は、紙屑になっていた。の曽祖父は40年間勤めて得た退職金を奪われたのだ。だから私は政府を信用しない。政府も空なのだ。

 

平家物語 敦盛の最期

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。」

 

 だから宗教の教えも空である。宗教とはその家の教えである。いわば家訓である。生きるとは、自分の人生を料理する尊い修行なのだ。仏教もキリスト教もイスラム教もその教えは、全国チェーン版のファミリーレストランの料理と同じである。それは宇宙根源の法則を、縦に切り、横に切り、斜めに切って見えた教えをその宗教の教義にしているだけだ。切り方が違うだけで、その本質は同じである。だから宗教も空である。時代と地域と民族により、それに併せて教えが変わるだけだ。世界はその本質も知らずに醜い宗教戦争を繰り返している。それが空である人の歴史である。

 

 人生は夢のように儚いからこそ、知恵を出し、賢く選択して生きねばならぬ。それが虚空の人生道を歩む方法である。

 

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 松本明慶大仏師作 虚空蔵菩薩像

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 馬場恵峰書 

2023-03-04  久志能幾研究所通信 2631   小田泰仙

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2023年2月27日 (月)

キャンピングカーブーム? コロナ茶番劇?

 

 2月26日、愛知県国際展示場で開催際されていた「キャンピングカー展示会」に行ってきた。その一角のブースで山路徹先生の積み木展が開催されていたからだ。会場に着いたが、先生に電話をしても出てくれない。実は先生は携帯を家に置き忘れていた。 涙😿 携帯電話も、身に着けていなければゴミである。

 先生に会うには、入場するしかない。チケット売り場で驚いた。長蛇の列である。なおかつチケット代は1,100円である。聞けば、この長蛇の列はすくなくなったところで、午前中の1/4ほどだという。〆て、入場者数は2日間合計12,181人。チケット売り上げ金額1,300万円。

 私は電車で大垣駅から中部国際空港駅まで来たが、それでも往復で4千円ほどかかる。名古屋市内から家族で来ても、優に1万円を超す。それでも、展示ホール内は大勢の家族連れが見て回っていて大混雑である。展示車は135台である。私はそんなにもキャンピングカーに人気があり、ブームだとは知らなかった。それで少し調べてみた。

 

キャンピングカーブームの実態

 一般社団法人日本RV協会の「キャンピングカー白書2022」によると、2021年のキャンピングカー販売額は、新車、中古車を合わせて635.4億円で過去最高である。キャンピングカー累積保有台数も136,000台と過去最高となり、キャンピングカーの愛好者が増え続けていると「協会」は言う。

ホンマかいな。

 しかし幕張メッセでのジャパンキャンピングカーショー2020の来場者数は、 3日間で、合計66,493名。ジャパンキャンピングカーショー2021では、来場者数は3日間で合計24,166名と激減である。だからそんなにブームとはいいがたい。

 コロナ禍のおり、家族だけで3密を避けて旅行するには、キャンピングカーは最適のようでブームだという。また定年後、ホテルを利用せず、全国を車で回り、その車の中で寝泊まりするというスタイルもあるようだ。

 しかしキャンピングカー販売額が、新車中古車で年間635.4億円に達していると言っても、一台600万円と仮定すれば、販売数は合計で年間1万台チョットである。日本の車販売数の約400万台から見れば、1パーセント以下である。それでブームとは大げさだ。

 

私の結論

 男が持つことが夢で、しかし持ってはいけないものが、妾(2号さん)と別荘である。持てば必ず人生でつまずく。でも私も男の子だから、頭では分かっていても欲しい気持ちは一杯だ…. 。以前に衝動的に2号さん相当のレクサスLSを買ったが、やはりカネが続かず、手放した。。。。 涙 😿

 愚かなことはやってはダメだと分かっていても、やってみて失敗しないと理解したことにならない。それを智慧という。

 

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 所詮は、キャンピングカーは動く別荘の位置付けである。キャンピングカーをすぐには買えないが、夢を求めて展示会に家族連れで遊びに来るのではないか。

市場規模600億円では、商売として規模が小さすぎる。

 高価な部類では1千万円以上の値札が付いている。それではベンツが買えてしまう。   そんな車がバカスカ売れるとは思えない。私の回りを見ても、キャンピングカーを持っている知人はいない。

 別荘を買っても、そう頻繁に利用はしないもの。たまに行っても、まずその掃除で疲れてしまうという。たまにしか行かないから、別荘内はほこりまみれ、庭は雑草が生い茂っている。それならホテルの方がよほど楽という。キャンピングカーも同じで、そう頻繁に使うとは思えない。所有者もそんなに頻繁に有給を取るわけにもいくまい。またその維持費も大変だろ。駐車場の確保も大変だ。それが問題ない人は、キャンピングカーでなく、高級ホテルを使うはず。

 所詮、キャンピングカーブームは、メーカに踊らされたコロナ茶番劇である。そんな2号さんのようなキャンピングカーに金を使うと、地道に積み上げてきた「積み木」が崩れてしまう。

 

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2023-02-27  久志能幾研究所通信 2628  小田泰仙

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2023年2月23日 (木)

スマホ捨て 身辺整理 成仏す

                                 

 最近は、猫も杓子も皆がスマホを持っている。電車の中でも大勢の人が信徒のように、教祖のお告げを拝聴するが如く黙ってスマホの画面を見つめている。まるで統一教会信徒の修学旅行?のようで、不気味である。友人が訪ねてきても、会話もせず黙ってスマホの画面を見つめていることが多い。何の用で来たのだ?と言いたい。人に対して失礼の極みだ。まるで洗脳された統一教会信徒のようだ。

 だから仙人を目指す私は、その狂気の嵐に押し流さたくないと思い、スマホを捨てる決断をした。そしてスマホの解約である。

 そのお陰で私は強欲我利我利亡者達と悪縁が切れ、幸せな仏の世界を楽しんでいる。それが今までどれだけ異常かは、ネット上のスマホCMの過剰さを見れば、よくわかる。ただしその頭がスマホに洗脳されていると、それ認識ができない。

 

昔はビジネス戦士、今は有閑地方(痴呆?)老人

 私は、有閑地方(痴呆?)老人である。最近の生活を総括すれば、年金暮らしの閑な私には、スマホは不要との結論であった。私は、昔はバリバリのビジネス戦士であったが、今は秒を争って仕事などはしていない。

 長年の携帯宗教戦争の挙句、携帯電話会社の興亡が続き、そのたびに契約先を変えさせられた。ガラケイで十分なのに、スマホに移行させられた。その後、3Gで十分なのに、なかば強制的に4Gに変えさせられた。

 友人に洗脳されて、2年前、ガラケイからスマホに宗旨替えをさせられた。彼はスマホ洗脳教団の拡販信徒であった。

 当初はガラケイのかけ放題で月2千円程であったが、今はその料金が6千円から1万円ほどになった。なにかおかしい。20年間で144万円の費用である。要はスマホ教団へのお布施なのであろ。今のスマホにそれだけの付加価値があるか、疑問を覚えた。

 スマホ本体の値段10万円にも疑問を感じる。高すぎる。私には不要のカメラ機能までついている。前職では、会社に携帯を持ち込むためには、カメラのレンズ部を封印しないといけなかった。会社では機密保持の関係で、カメラは持ち込み禁止なのだ。

スマホ不要の仕事環境

 固定電話でも同じ仕事が出来る。私の自宅の電話の親機も子機もワイヤレスである。それも全会話が自動録音である。電話は光契約なので、全国どこでも市内通話と同じ料金である。

 デスクトップパソコンでは、もっと大きな画面で、同じ作業が短時間に出来る。自宅では、書斎での仕事とは別に居間でWiFiでノートパソコンを使い、スマホでやれる以上の仕事をこなしている。

 私は、出先でスマホを使う頻度はごく少ない。出先での仕事は、ホテルや各所のWiFi利用でノートパソコンで可能だ。それならスマホは不要である。スマホが無くても、出先での連絡はどうにでもなる。出先でスマホを使わねばならないときは、その事前段取りが悪かった時である。それは自分の責任だ。だからスマホは不要と判断した。

 要は、私は外出中に、その出先で、チンタラチンタラと痴話話をすることもないし、動画を見ることもない。ましてや、私はスマホゲームなどしない。私はそんなに暇ではない。つまりスマホは私の行動様式に合わない。

 

詐欺同然、新興宗教団体と同じ

 スマホを買い、ドコモと契約したら、そのスマホには、最初からデズニィー動画の契約が組み込まれており、強制的に毎月700円が強制的に徴収される契約であった。年間で8400円のお布施である。その解約手続きは非情に面倒で、自分自身でややこしい解約手続きを取らねば、それが解約できない。それでは詐欺と同然である。まるで新興宗教団体と同じである。新興宗教団体からの脱会も困難を極める。

 

スマホ洗脳

 ネット情報の99%はゴミである(藤原正彦氏談)。スマホに左右されると、ついそのゴミ屋敷の世界に吸い込まる(洗脳)。

 有閑地方(痴呆)老人は、残り人生を考えるために忙しい。一般国民の標準の残り時間は15年ほどしかないのだ(厚生労働省資料で)。その大事な時間をスマホは誘惑して巻き上げる。ついでにお布施としてお金も。スマホ宗教に付き合っていても、私にはなんのメリットもない。私は人生の仕上げをするため、死の準備で忙しい。人生で最後の最大のプロジェクトは自分の死である。

 スマホでゴミのようなネット情報を漁るなら、その時間を読書に当てよう。思索の時間に当てよう。戦争の時、死が直前の前線に近いところに行くほど、下世話な本など読む気がなくなるそうだ。その場所では哲学書とか宗教書しか読まなくなるという。 還暦や古希を過ぎれば、何時お迎えが来てもおかしくない。真剣に人生最後のプロジェクト「自分の死」を考えよう。

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スマホの使い過ぎの害

 スマホ中毒になると集中力低下、思考障害、視力低下、睡眠障害、心身の不調などが起きる。学生は学業が影響を受ける。ビル・ゲイツは子供が14歳になるまでスマホは持たせなかった。彼はスマホの害を知っていた。

 だから当然、自分の人生の仕事にも悪影響が出る。私は今、大事なプロジェクト「死の準備」に取り組み中である。スマホに洗脳されると、その成果が低下するのは間違いない。大問題である。だから私はスマホを捨てる決断をした。

 

あと何年生きられる?年齢別「平均余命」早見表 | 幻冬舎 ...

https://gentosha-go.com/articles/-/34400

ウェブ2021年5月26日 · 年齢別「平均余命」早見表 | 幻冬舎ゴールドオンライン. あと何年生きられる?. 年齢別「平均余命」早見表. いつまで生きられる?. 平均余命0~50歳. 出 …

 

 

 

セネカ著『人生の短さについて』 

時間の浪費  

 その原因はどこにあるのか? 君たちはあたかも自分は永久に生きられるかのように今を生きていて、自分のいのちの脆さに思い致すことは決してない。いかに多くの時間がすでに過ぎ去ったかを意識しない。時間なぞ無尽蔵にあるもののように君たちは時間を浪費している。そうやって君たちがどこの誰かに、あるいは何らかの事に与えているその日が、実は君たちの最後の日であるかもしれないのに。死すべき者のように君たちは全てを怖れ、不死の者であるかのようにすべてを得ようとしているのだ。

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  中野孝次著『ローマの哲人 セネカの言葉』(岩波書店2003年)とは、ローマで最裕福者かつ最高権力者であった哲人が書く人生訓である。セネカは最高権力者に上り詰めるが、所詮は、暴君のネロの掌の上でもがく弱い人間でしかなかった。時に8年間も地の果てに左遷させられた身、常に身の後ろに死の影を見ながら生きた哲学者であった。最後はネロに自殺を強いられる運命に弄ばれる。それを予感した所感や心情が彼の記述から見えてくる。しかし彼はうろたえることなく毅然として死に就く。そうさせた彼の思想がこの書に表されている。

 哲学とは思考ではなく、行動であることを示唆してくれる書であった。行動がないと何も始まらない。行動から思考が生まれる。セネカは最高の仕事師であった。だから、思考の達人として、人生哲学を究めことが出来たと思う。彼は、一日を一生として、全力で生きた人なのだ。

 一日一日を全力で生きる人間に変わらない限り、どんなに悩んでも、どこへ旅行しょうが、事態は変わらない。なぜなら、同じ原因を自分内部で内在して生きる限り、何をしようとも同じなのだ。自分を変えるには、まず動きなさいとセネカは言う。一日一日が一生の縮図、今日一日が最後の日と思い、全力で生きる。そうすれば神になれる、と。神は細部に宿る、と同義語である。徳と元気に溢れる人は、神に似ているという。神とは自分の内に内在する存在である。セネカは理性に従って生きることを推奨している。内なる理性や自然に従うことが神であるともいう。

 有限の時間を意識したセネカの言葉は重い。そういった思いでセネカの言葉を読むと、死を意識した哲学者の言葉は重く伝わってくる。生が永遠に続かないことが啓発され、生きる意味を考えさせてくれる書でもある。私は愛読書のベストテンに入れた。

                              

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2023-02-23  久志能幾研究所通信 2623  小田泰仙

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2023年2月21日 (火)

経典を読む、哲学書を読む

 

 この40年間、私はほぼ毎日、読経で朝のお勤めをしている。1年365日×40年で累計14,600回の読経である。40年間も読経を続けて、やっと仏教の説く哲学がおぼろげに分かってきた。

 私はこの10年程は、ほぼ毎日写経をしている。写経と言っても毎日2行だけである。約10日間で、一枚の般若心経の写経が完成する。そうしないと続かないと馬場恵峰先生に教えられた。般若心経を全部写経すると優に1時間はかかる。毎日2行だけなら5分ですみ、継続できる。

 読み、書くから、体に仏教の教えがしみ込んでくる。その目的は、自分の生き方を探すためである。私には仏教の経典は哲学書である。

 釈迦は、来世が有るとも無いとも言われなかった。現世での修行だけを説かれた。釈迦が死ぬ時も、弟子達には「怠るな、だだ精進せよ」だけを言い遺された。

 だから仏教の経典は極楽浄土に行くためのおまじないではない。それを理解すると、新興宗教に騙されることはなくなるだろう。

 仏教の経典を読むとは、自分の人生を考えることだ。自分が体験し、経典に照らして考えて歩んだ自分史がオダブツ教の経典である。私は自分自身の経典を書いている。

 

仏教

 哲学とは、生の存在、死の意味と時間を考える学問である。そういう意味の哲学を説いた宗教は仏教だけである。

 仏教の経典とは、釈迦が人生の中で考え、悩み、実践した認識を弟子たちに説いた説教を、後世の弟子たちがまとめたのが経典である。

  (石原慎太郎著「人間の一生とは、なんだ」『プレジデント2022.4.1号』)

キリスト教

 聖書はキリストの一代記である。聖書は、人間に対する愛、虐げられたユダヤ人への共感を説いている教えである。そこには哲学はない。後からギリシャ哲学を援用してきて、神学が出来上がったにすぎない。

  (石原慎太郎著「人間の一生とは、なんだ」『プレジデント2022.4.1号』)

イスラム教

 イスラム教は、唯一絶対の神(アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下したとされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。その教えは、法律、道徳、倫理を含んだ社会規範である。その絶対的存在として神が存在する。神は死後の天国地獄の行き先を決めるだけで、生前中の善悪への罰則は、イスラム教の経典が決める。それは神の仕事ではない。

 イスラム教は砂漠を中心として厳しい環境で生まれた宗教だから、その教えの経典の内容は厳しい。また現実的である。だから「目には目を歯には歯を」という教義である。

 ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじ、それが維持されるための教えである。

 一般には法律と見做される領域まで教義で定義している。イスラム教では、信者の内心は問われない。教義では、正しい行いをしているかを問うだけだ。天国に行けるかは神が決めることであるので、一般の司祭はそれには関知しない。その行為が、死ぬまでは、人間の間で問題にされないなどの点で、仏教やキリスト教徒は大きく異なる。

 つまりイスラム教の教えは、社会を運営するための法律を含めた道徳的な社会規律の教えである。そこにも人間としてあるべき哲学はない。

 この項、wikipedia「イスラム教」を編集加筆

 

2023-02-20  久志能幾研究所通信 2621  小田泰仙

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2023年2月18日 (土)

待つ人生から仕掛ける人生へ。シュールからリアルに

 

 私が山路徹個展「絵・詩」で、山路徹先生スケッチ画「骨まで待つわ」を見て感じたことは、いとしいことを待つだけでは、シュール、死ゆる、であった。待っているだけでは、死の状態だ。私はまだ「リアル」に煩悩にまみれて生きていきたい。

 「シュール」とは、「現実離れ」「非現実的」という意味である。「シュール」には、そのほかに「不条理」「極めて独創的」「非日常的で理解不能」などの意味も含む。

 

仕掛ける人生

 この歳まで生きてきて、思うことは、人生で待つだけの時間を作ってはならない、だ。黙って待っているとは、何かに洗脳された状態だ。人生で待っている時間を過ごすよりも、それを仕掛ける時間にするべきだと思う。

 仕掛けるとは勉強することだ。充電することだ。動くことだ。勉強すれば、動けば、何かが変わる。何もしないでも、生命は冷酷に死に向かって老化がすすむ。普通は80年で命が尽きる。待っているだけでは、骨になってしまう。骨になっても、80年も経てば土に還って消えてしまう。それだけは避けたい。

 

天中殺

 長い人生では、何をしても報われない時期がある。その期間はただ待つだけで時間が過ぎている。占いの世界ではそれを空亡(四柱推命)、天中殺(算命学)、『六星占術』の「大殺界」という。

 私も若い頃は占いに凝り、空亡や天中殺に振り回されは、人生の決断を誤ったこともある。今思うと占いに「洗脳」されたのだと気が付いた。自分が弱いと、人生の選択で占いに左右される。それも麻疹のような経験だと、今にして醒めた眼で回想できる。私も煩悩にまみれた凡人だから仕方がない。

 

共産党という洗脳

 今でも共産党を支持する老人世代が1%ほど存在する。50年前の学生運動で全共闘活動を見て過ごした世代である。その洗脳がまだ溶けていないようだ。先進国では共産党の設立が法律で禁止されている。それなのに、日本では国政選挙で共産党を支持する人が1%もいるとは、狂気である。その団塊の世代は50年前の洗脳が融けていないようだ。洗脳とは、かように怖しい。そんなに共産党が素晴らしいと思うなら、中国、北朝鮮に移住すればよい。

 つい最近も、ある共産党党員が党首の選挙を民主化して選ぼうと提案したら、その人が除名されたというニュースで世間が湧いている。

 オウム真理教の信徒でも、いまだその洗脳が融けていない人が多くいるようだ。統一教会も洗脳という手段で信徒を縛っている。多くの新興宗教は同じ手口である。

 

「骨になるまで」

 私待つわ

 骨になるまで待つわ

 私、待つわ 待つわ

 いとおしい

 あなたを待って

 夜明けのダンスを

 踊るため

 骨になるまで

 待ち尽くす

 ああ、私の魂が

 水のように

 流れ出した

 悲しい海へ

   山路徹作詞

 

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 山路徹画

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 馬場恵峰書

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シュールの風景 山路徹個展「絵・詩」

日時  2023年2月4日~2月28日

    11;00~17:00(最終日は16:00まで)

    水・木定休 19日臨時休業

場所  画廊 Sagan

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2023-02-18  久志能幾研究所通信 2619  小田泰仙

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2023年2月16日 (木)

文句を言わず、行動  慈工程完結

馬場恵峰師の人生

 どんなことでも文句を言わない。試練として受け入れる。

 行動を伴なわないお祈りをしないと成就しない。祈ると同時に、それにふさわしい行動を取ること。

 自分が変わらないと周りも変わらない。自分が変わろうとしない限り、何も変わらない。 

   明徳塾で 馬場恵峰師  2006年5月28日

 

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 馬場恵峰師 明徳塾にて 2006年6月28日

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トヨタの生産

 トヨタ生産システムでは、「前工程は神様、後工程はお客様」という。前工程から流れてきた部品は、文句を言わず、作業指示書通りに作り、後工程に流す。神様に文句を言っても無駄である。自工程で完璧にしないと、後工程に迷惑をかける。

 自分達の工程で問題があれば、自分達でカイゼンに取り組んで、問題を無くす。自工程完結である。後工程に不良品を流さない。それがトヨタ生産システムの原則である。

 

 KK問題は、後工程という日本社会に人間の不良品を流したと同じである。その製造責任者に責任がある。親の責任である。

 

私の人生

 出会った事件や降りかかった事件は、自分を成長させてくれるご縁である。その事件では、みんな同じ条件である。文句を言わず、その事件を解決する知恵を出して、対処する。その回数が多ければ、その分、大きく成長する。私はそうやってきた。回避したり、文句を言うだけで、何もしないのが一番悪い。その事例を避けても非難されない事例をも受け入れるが、人生修行である。

 大きな社会現象では、微力な自分ではなんともできない。しかし自分の範囲内(自工程)で、出来ることは当然として、できない事にでも最大限の努力をする。できなくてもよい。それの対策を考え続け、対策を打つだけでよい。大河に一滴を注ぐつもりで、成果が出なくてもよい。他からの援助が無くてよい。覚悟して取り組む。私の哲学「自工程完結」である。

 

大垣行政

 大垣行政に不満があれば、市役所に意見を出せばよい。お祈りしても大垣行政は良くならない。市民が黙ったままで行動しないから、汚役人はやりたい放題につけあがる。ゴミ袋有料化政策が良い例だ。

 ゴミ袋有料化議案に賛成投票をした市会議員に、次回の選挙で投票しなければよいのだ。議員の誰が市民の敵かを見極めよう。それが多くの市民のための慈しみの行動である。それが慈工程完結である。

 

2023-02-16  久志能幾研究所通信 2617  小田泰仙

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2023年2月14日 (火)

言志四録 吾が心を礼拝す

 

 幸せになりたいと神にアーメンと祈る。極楽に行きたいと仏様に念仏を唱える。しかし、何度も祈っても、何千回も唱えても、神佛は見守っているだけで、何もしてくれない。他力本願では幸せになれない。自分を幸せにするのは、吾である。

 その幸せは自分の心が決める。幸せになるための行動は、自分の心が決める。それなのに、どうしてその吾が心を拝まないのか。その行動を決めるのは自分だ。その行動が、幸せになるために、「それでよいか、良いか」と自分に問い、反省を繰り返すべきなのだその反省もせず、猪突猛進するから墓穴を掘る。

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    馬場恵峰書『佐藤一斎著「言志四録」五十一選訓集』久志能幾研究所刊

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吾とは

 「口」は神様へのお祈りに使う器、「五」は木の枝を交差させて2重に重ねた蓋を表す。ここから「吾」には「(祈りの効果を)とどめる、防ぐ」の意味がある。

 

六根清浄

 六根(仏語)は人間の認識の根幹である。心的作用にはたらく六つの器官を言い、対象に応じた認識思惟の作用のある器官をいう。その6つとは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根である。それが我欲などに囚われては、正しい道(八正道)を往けない。そのため我欲を断ち、心を清めることを六根清浄と言う。そのためには、不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じない、を実践することだ。そのために、修行として俗世との接触を絶つ山籠もり等が行なわれる。

 

八正道

 八正道とは、涅槃に至るための8つの実践徳目である。その8つとは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。八正道は釈迦が最初の説法において説いたとされる。

 

正見

 「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」と釈迦は説かれた。トヨタ生産システムで言えば現地現物である。松下幸之助翁が説いた「素直な目で視よ」である。

 

 

思惟

 正思惟とは、正しく考え、判断すること。出離(離欲)を思惟し、無瞋を思惟し、無害を思惟する、である。逆に避けるべき思考は、邪思惟である。

 

 

正語

 正語とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、離間語(陰口,仲違いさせる言葉)を離れ、粗悪語(誹謗中傷,粗暴な言葉)を離れる、である。

 

正業

 正業とは、殺生を離れ、盗みを離れ、非梵行(性行為)を離れることをいう。五戒の不偸盗、不邪婬に対応する。この二つは正思惟されたものの実践である。

 

正命

 正命とは、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むこと。命は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす。

 

正精進

 正精進とは、四正勤、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践である。現代風に言えば、危機管理、再発防止、予防保全である。

 

正念

 正念とは、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に現在の内外の状況に気づいた状態が「正念」である。トヨタ生産システムで言えば、5S(整理整頓清掃清潔躾)、現地現物である。

 

正定

 正定とは、正しい集中力の完成である。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られる。いわばカンバン方式のジャストインタイムである。

 

唯我独尊

 自分が神仏になって、八正道を実践すれば幸せになれる。誰にも頼らず、神仏にも頼らなくて済むので、ストレスなく生きていける。超楽ちんである。それが唯我独尊である。トヨタ生産システムで言えば、自工程完結である。

 「世界で尊いのは、この世の存在する全てである。我々は、ここに生まれてきたが、再びは生まれない。この広い世界に生れてきた我々には、各人に与えられた尊い使命がある。そのために我々が解脱する。それが唯我独尊である」と釈迦は説かれた。

 

 

2023-02-14  久志能幾研究所通信 2615  小田泰仙

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2023年2月 6日 (月)

人生劇場「生活芸」を育てる  緩慢なる洗脳殺人

 

 武智先生に受けた薫陶の中で、「一番いいものを見て一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなる」とよくおっしゃっていた。

 中村雁次郎著『私の履歴書⑨』日本経済新聞 2005年1月10日

 

 人生劇場で主人公として、良いものの中で育たないと自分の演ずる芸が貧しくなる。下品に洗脳されると、生活芸が貧困化して、人格が殺される。

 

 これは物理の法則である。「物理」とは物の「理」を学ぶ学問である。朱に交われば赤くなる。赤の絵の具と白の絵の具を混ぜれば、赤くなる。宇宙根源の理である。

 

一番良い親の背中

 子供は親のいうことは聞かない。親のやっている通りになる。子供は親に染まるのだ。私は両親の働く姿を見て育った。内職までして働いている両親を見て、私は遊んでいるわけにはいかない。

 

一番良い上司の影響

 いい上司の下で育つと、仕事の仕方が豊かになる。悪い上司の元で働くと、仕事の芸が貧しくなる。私は会社時代、多くに部長の下で働いたが、親会社から出向してきたО部長に感銘を受けた。その薫陶を受けて、私の仕事芸が変わった。

 今まで多くに上司に仕えてきた。私が間違い(上司に気に喰わない事)をすると、多くは感情に任せて怒ってきた。しかしО部長は叱るのだ。怒ると叱るとは違う。

 親会社では使い物にならない人間が、子会社に部長として出されてきた。その部長は部下を怒りまくり、多くの中間管理職を鬱病にしていった。それこそ緩慢なる洗脳殺人である。私は管理部署の職制として、その心が壊れた基幹職を受け入れた。また「管理部署は閑だろう」と、他の部署の課長が、心の壊れた若手(その課長が追い詰めたのだ)を多く送り込んできた。

 人は言葉一つで殺せるのだ。それは緩慢なる洗脳殺人である。

 

一番良い佛像彫刻を見て育つ

 私はこの10年間で、300体×2回×10年=6,000体の松本明慶佛像を見てきた。松本明慶佛像彫刻展は年間2回開催される。一回当たり、約300体の佛像が展示される。それが開催さると、私は東奔西走で必ず出向いて佛像を鑑賞した。お陰で佛像を見る眼が育った。

 「佛」とは「人」と「非」からなる象形文字で、人にあらずと書いて「佛」である。人ではない存在を形にした造形は、人の理想の形を心に刻む。

 

一番良い絵を見て育つ

 私はいままで世界の80館以上の美術館・博物館を回った。お陰で名画と呼ばれる作品を直接鑑賞することが出来きて、鑑賞眼が育ったようだ。

 私の名画の定義は、「捕まっても良いから盗んで、自宅に飾りたい絵」である。残念ながら、海外にはそんな絵は無かったので、盗まず、捕まらずに済んでいる。何億円の絵でも、バカでかくゴテゴテした古い油絵は日本家屋に似合わない。

 

一番良い友人と共に育つ

 日頃付き合う友の影響は大きい。自分と価値観の合った友人でないと切磋琢磨ができにくい。価値観の合わない人と一緒に居ると、どうしても相手に迎合することもあるから、自分の芸が目減りする。孟母三遷の教えで、良き友を選ぶのが大事だ。

 進学校で皆が必死に勉強をしている中、一緒に学び育つと自然と学ぶという「芸」が磨かれる。皆が遊び惚けている学校で育つと、その「学習芸」が貧しくなる。

 

一番良い師の元

 良い師が自分を育ててくれる。三年かけて師を探せ、である。師からの教えは薫陶である。霧の中を歩けば、自ずと衣が濡れるのだ。それと同じで、師と行動を共にすれば、その考えが伝わってくる。

 

一番いい言葉

 言葉の影響を受けるのは、自分である。人に吐く言葉でも、一番大きく影響を受けるのは自分だ。良い言葉を吐けば、自分が励まされる。悪い友と付き合い、後ろ向きの言葉を浴びれば、どうしてもマイナスの影響を受ける。それは人生芸の貧困化である。 

 

CMでの悪い影響

 毎日、ファストフードのCMを見せつけられれば、自然とその食品に手を出してしまう。体に良い食事への感性が鈍くなり、健康を考えて食べるという「喰う芸」が貧しくなる。食が豊かになり、日本人が総グルメになった。その結果が、2022年度の医療費44.2兆円越えである。しかし不健康病を併発した。「喰う芸」の貧しさが原因である。

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2023-02-06  久志能幾研究所通信 2607  小田泰仙

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2023年1月31日 (火)

30年間のハニートラップ、免疫力を壊滅、がん激増

 

 2023年1月30日、半年ぶりに久留米の真島消化器クリニックに定期検診に行ってきた。血管内プラークの状態の検査である。その結果は2勝1敗1引分けである。血管内プラークの状態はかなり改善されたが、まだまだ課題が山積である。

 そのプラークとは過去30年間、悪い食生活で積み重なって出来た毒の山である。対策を打っても、一朝一夕で改善されるわけではない。30年かけて出来たものは30年かけないと無くならないようだ。地道な正しい食生活、正しい生活習慣を続けるしか治療法がない。

 

ハニートラップ

 狂った食生活、狂った生活習慣を過ごしたため、私は肥満、高血圧になり、記憶力が低下し、認知症寸前になり、最後はガンになってしまった。この30年、食品メーカから、美味しいものをCM洗脳されて、無意識に食べてきた報いである。それは食品メーカが仕掛けたハニートラップであった。

 

 私は味の極楽ポイントを付加した食品に負けた。食べ始めたら「止められない止まらない」であった。極楽ポイント付きの食品は激美味しいのだ。

 

腸内環境が破壊される

 今回、真島院長から指導されたのは、腸内環境の改善である。腸内環境を左右する善玉菌の活動を妨げる食品の制限である。その食品が健康を害する。腸内環境が破壊され、善玉菌が激減すると、免疫酵素の敵地攻撃力が激減する。

 

 例えば、酢である。健康のため酢は良い食材と信じられているが、それが腸内環境を破壊する。酢は農林水産省では、農薬として認定されている。酢は除草剤としてもホームセンタで売られている。酢は殺菌作用が強く、飲みすぎると腸内環境を破壊する。

 

 人工甘味料は静菌剤で、腸内環境を破壊する。人工甘味料はノンアルコールビールにも大量に入っており、健康に悪い。もともとアルコールは腸内善玉菌には殺菌・静菌剤である。だから健康には禁酒が一番である。

 納豆菌も強力な殺菌・静菌剤で、腸内環境を破壊する。食べ過ぎは健康に悪い。

 

 我を滅ぼすのは我である。自分の我慢できない食欲の強さで、自制心が負け、食べ過ぎで病気になり、死ぬのだ。

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2023-01-31  久志能幾研究所通信 2601  小田泰仙

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