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2023年2月23日 (木)

スマホ捨て 身辺整理 成仏す

                                 

 最近は、猫も杓子も皆がスマホを持っている。電車の中でも大勢の人が信徒のように、教祖のお告げを拝聴するが如く黙ってスマホの画面を見つめている。まるで統一教会信徒の修学旅行?のようで、不気味である。友人が訪ねてきても、会話もせず黙ってスマホの画面を見つめていることが多い。何の用で来たのだ?と言いたい。人に対して失礼の極みだ。まるで洗脳された統一教会信徒のようだ。

 だから仙人を目指す私は、その狂気の嵐に押し流さたくないと思い、スマホを捨てる決断をした。そしてスマホの解約である。

 そのお陰で私は強欲我利我利亡者達と悪縁が切れ、幸せな仏の世界を楽しんでいる。それが今までどれだけ異常かは、ネット上のスマホCMの過剰さを見れば、よくわかる。ただしその頭がスマホに洗脳されていると、それ認識ができない。

 

昔はビジネス戦士、今は有閑地方(痴呆?)老人

 私は、有閑地方(痴呆?)老人である。最近の生活を総括すれば、年金暮らしの閑な私には、スマホは不要との結論であった。私は、昔はバリバリのビジネス戦士であったが、今は秒を争って仕事などはしていない。

 長年の携帯宗教戦争の挙句、携帯電話会社の興亡が続き、そのたびに契約先を変えさせられた。ガラケイで十分なのに、スマホに移行させられた。その後、3Gで十分なのに、なかば強制的に4Gに変えさせられた。

 友人に洗脳されて、2年前、ガラケイからスマホに宗旨替えをさせられた。彼はスマホ洗脳教団の拡販信徒であった。

 当初はガラケイのかけ放題で月2千円程であったが、今はその料金が6千円から1万円ほどになった。なにかおかしい。20年間で144万円の費用である。要はスマホ教団へのお布施なのであろ。今のスマホにそれだけの付加価値があるか、疑問を覚えた。

 スマホ本体の値段10万円にも疑問を感じる。高すぎる。私には不要のカメラ機能までついている。前職では、会社に携帯を持ち込むためには、カメラのレンズ部を封印しないといけなかった。会社では機密保持の関係で、カメラは持ち込み禁止なのだ。

スマホ不要の仕事環境

 固定電話でも同じ仕事が出来る。私の自宅の電話の親機も子機もワイヤレスである。それも全会話が自動録音である。電話は光契約なので、全国どこでも市内通話と同じ料金である。

 デスクトップパソコンでは、もっと大きな画面で、同じ作業が短時間に出来る。自宅では、書斎での仕事とは別に居間でWiFiでノートパソコンを使い、スマホでやれる以上の仕事をこなしている。

 私は、出先でスマホを使う頻度はごく少ない。出先での仕事は、ホテルや各所のWiFi利用でノートパソコンで可能だ。それならスマホは不要である。スマホが無くても、出先での連絡はどうにでもなる。出先でスマホを使わねばならないときは、その事前段取りが悪かった時である。それは自分の責任だ。だからスマホは不要と判断した。

 要は、私は外出中に、その出先で、チンタラチンタラと痴話話をすることもないし、動画を見ることもない。ましてや、私はスマホゲームなどしない。私はそんなに暇ではない。つまりスマホは私の行動様式に合わない。

 

詐欺同然、新興宗教団体と同じ

 スマホを買い、ドコモと契約したら、そのスマホには、最初からデズニィー動画の契約が組み込まれており、強制的に毎月700円が強制的に徴収される契約であった。年間で8400円のお布施である。その解約手続きは非情に面倒で、自分自身でややこしい解約手続きを取らねば、それが解約できない。それでは詐欺と同然である。まるで新興宗教団体と同じである。新興宗教団体からの脱会も困難を極める。

 

スマホ洗脳

 ネット情報の99%はゴミである(藤原正彦氏談)。スマホに左右されると、ついそのゴミ屋敷の世界に吸い込まる(洗脳)。

 有閑地方(痴呆)老人は、残り人生を考えるために忙しい。一般国民の標準の残り時間は15年ほどしかないのだ(厚生労働省資料で)。その大事な時間をスマホは誘惑して巻き上げる。ついでにお布施としてお金も。スマホ宗教に付き合っていても、私にはなんのメリットもない。私は人生の仕上げをするため、死の準備で忙しい。人生で最後の最大のプロジェクトは自分の死である。

 スマホでゴミのようなネット情報を漁るなら、その時間を読書に当てよう。思索の時間に当てよう。戦争の時、死が直前の前線に近いところに行くほど、下世話な本など読む気がなくなるそうだ。その場所では哲学書とか宗教書しか読まなくなるという。 還暦や古希を過ぎれば、何時お迎えが来てもおかしくない。真剣に人生最後のプロジェクト「自分の死」を考えよう。

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スマホの使い過ぎの害

 スマホ中毒になると集中力低下、思考障害、視力低下、睡眠障害、心身の不調などが起きる。学生は学業が影響を受ける。ビル・ゲイツは子供が14歳になるまでスマホは持たせなかった。彼はスマホの害を知っていた。

 だから当然、自分の人生の仕事にも悪影響が出る。私は今、大事なプロジェクト「死の準備」に取り組み中である。スマホに洗脳されると、その成果が低下するのは間違いない。大問題である。だから私はスマホを捨てる決断をした。

 

あと何年生きられる?年齢別「平均余命」早見表 | 幻冬舎 ...

https://gentosha-go.com/articles/-/34400

ウェブ2021年5月26日 · 年齢別「平均余命」早見表 | 幻冬舎ゴールドオンライン. あと何年生きられる?. 年齢別「平均余命」早見表. いつまで生きられる?. 平均余命0~50歳. 出 …

 

 

 

セネカ著『人生の短さについて』 

時間の浪費  

 その原因はどこにあるのか? 君たちはあたかも自分は永久に生きられるかのように今を生きていて、自分のいのちの脆さに思い致すことは決してない。いかに多くの時間がすでに過ぎ去ったかを意識しない。時間なぞ無尽蔵にあるもののように君たちは時間を浪費している。そうやって君たちがどこの誰かに、あるいは何らかの事に与えているその日が、実は君たちの最後の日であるかもしれないのに。死すべき者のように君たちは全てを怖れ、不死の者であるかのようにすべてを得ようとしているのだ。

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  中野孝次著『ローマの哲人 セネカの言葉』(岩波書店2003年)とは、ローマで最裕福者かつ最高権力者であった哲人が書く人生訓である。セネカは最高権力者に上り詰めるが、所詮は、暴君のネロの掌の上でもがく弱い人間でしかなかった。時に8年間も地の果てに左遷させられた身、常に身の後ろに死の影を見ながら生きた哲学者であった。最後はネロに自殺を強いられる運命に弄ばれる。それを予感した所感や心情が彼の記述から見えてくる。しかし彼はうろたえることなく毅然として死に就く。そうさせた彼の思想がこの書に表されている。

 哲学とは思考ではなく、行動であることを示唆してくれる書であった。行動がないと何も始まらない。行動から思考が生まれる。セネカは最高の仕事師であった。だから、思考の達人として、人生哲学を究めことが出来たと思う。彼は、一日を一生として、全力で生きた人なのだ。

 一日一日を全力で生きる人間に変わらない限り、どんなに悩んでも、どこへ旅行しょうが、事態は変わらない。なぜなら、同じ原因を自分内部で内在して生きる限り、何をしようとも同じなのだ。自分を変えるには、まず動きなさいとセネカは言う。一日一日が一生の縮図、今日一日が最後の日と思い、全力で生きる。そうすれば神になれる、と。神は細部に宿る、と同義語である。徳と元気に溢れる人は、神に似ているという。神とは自分の内に内在する存在である。セネカは理性に従って生きることを推奨している。内なる理性や自然に従うことが神であるともいう。

 有限の時間を意識したセネカの言葉は重い。そういった思いでセネカの言葉を読むと、死を意識した哲学者の言葉は重く伝わってくる。生が永遠に続かないことが啓発され、生きる意味を考えさせてくれる書でもある。私は愛読書のベストテンに入れた。

                              

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2023-02-23  久志能幾研究所通信 2623  小田泰仙

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2023年2月21日 (火)

経典を読む、哲学書を読む

 

 この40年間、私はほぼ毎日、読経で朝のお勤めをしている。1年365日×40年で累計14,600回の読経である。40年間も読経を続けて、やっと仏教の説く哲学がおぼろげに分かってきた。

 私はこの10年程は、ほぼ毎日写経をしている。写経と言っても毎日2行だけである。約10日間で、一枚の般若心経の写経が完成する。そうしないと続かないと馬場恵峰先生に教えられた。般若心経を全部写経すると優に1時間はかかる。毎日2行だけなら5分ですみ、継続できる。

 読み、書くから、体に仏教の教えがしみ込んでくる。その目的は、自分の生き方を探すためである。私には仏教の経典は哲学書である。

 釈迦は、来世が有るとも無いとも言われなかった。現世での修行だけを説かれた。釈迦が死ぬ時も、弟子達には「怠るな、だだ精進せよ」だけを言い遺された。

 だから仏教の経典は極楽浄土に行くためのおまじないではない。それを理解すると、新興宗教に騙されることはなくなるだろう。

 仏教の経典を読むとは、自分の人生を考えることだ。自分が体験し、経典に照らして考えて歩んだ自分史がオダブツ教の経典である。私は自分自身の経典を書いている。

 

仏教

 哲学とは、生の存在、死の意味と時間を考える学問である。そういう意味の哲学を説いた宗教は仏教だけである。

 仏教の経典とは、釈迦が人生の中で考え、悩み、実践した認識を弟子たちに説いた説教を、後世の弟子たちがまとめたのが経典である。

  (石原慎太郎著「人間の一生とは、なんだ」『プレジデント2022.4.1号』)

キリスト教

 聖書はキリストの一代記である。聖書は、人間に対する愛、虐げられたユダヤ人への共感を説いている教えである。そこには哲学はない。後からギリシャ哲学を援用してきて、神学が出来上がったにすぎない。

  (石原慎太郎著「人間の一生とは、なんだ」『プレジデント2022.4.1号』)

イスラム教

 イスラム教は、唯一絶対の神(アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下したとされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。その教えは、法律、道徳、倫理を含んだ社会規範である。その絶対的存在として神が存在する。神は死後の天国地獄の行き先を決めるだけで、生前中の善悪への罰則は、イスラム教の経典が決める。それは神の仕事ではない。

 イスラム教は砂漠を中心として厳しい環境で生まれた宗教だから、その教えの経典の内容は厳しい。また現実的である。だから「目には目を歯には歯を」という教義である。

 ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじ、それが維持されるための教えである。

 一般には法律と見做される領域まで教義で定義している。イスラム教では、信者の内心は問われない。教義では、正しい行いをしているかを問うだけだ。天国に行けるかは神が決めることであるので、一般の司祭はそれには関知しない。その行為が、死ぬまでは、人間の間で問題にされないなどの点で、仏教やキリスト教徒は大きく異なる。

 つまりイスラム教の教えは、社会を運営するための法律を含めた道徳的な社会規律の教えである。そこにも人間としてあるべき哲学はない。

 この項、wikipedia「イスラム教」を編集加筆

 

2023-02-20  久志能幾研究所通信 2621  小田泰仙

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2023年2月18日 (土)

待つ人生から仕掛ける人生へ。シュールからリアルに

 

 私が山路徹個展「絵・詩」で、山路徹先生スケッチ画「骨まで待つわ」を見て感じたことは、いとしいことを待つだけでは、シュール、死ゆる、であった。待っているだけでは、死の状態だ。私はまだ「リアル」に煩悩にまみれて生きていきたい。

 「シュール」とは、「現実離れ」「非現実的」という意味である。「シュール」には、そのほかに「不条理」「極めて独創的」「非日常的で理解不能」などの意味も含む。

 

仕掛ける人生

 この歳まで生きてきて、思うことは、人生で待つだけの時間を作ってはならない、だ。黙って待っているとは、何かに洗脳された状態だ。人生で待っている時間を過ごすよりも、それを仕掛ける時間にするべきだと思う。

 仕掛けるとは勉強することだ。充電することだ。動くことだ。勉強すれば、動けば、何かが変わる。何もしないでも、生命は冷酷に死に向かって老化がすすむ。普通は80年で命が尽きる。待っているだけでは、骨になってしまう。骨になっても、80年も経てば土に還って消えてしまう。それだけは避けたい。

 

天中殺

 長い人生では、何をしても報われない時期がある。その期間はただ待つだけで時間が過ぎている。占いの世界ではそれを空亡(四柱推命)、天中殺(算命学)、『六星占術』の「大殺界」という。

 私も若い頃は占いに凝り、空亡や天中殺に振り回されは、人生の決断を誤ったこともある。今思うと占いに「洗脳」されたのだと気が付いた。自分が弱いと、人生の選択で占いに左右される。それも麻疹のような経験だと、今にして醒めた眼で回想できる。私も煩悩にまみれた凡人だから仕方がない。

 

共産党という洗脳

 今でも共産党を支持する老人世代が1%ほど存在する。50年前の学生運動で全共闘活動を見て過ごした世代である。その洗脳がまだ溶けていないようだ。先進国では共産党の設立が法律で禁止されている。それなのに、日本では国政選挙で共産党を支持する人が1%もいるとは、狂気である。その団塊の世代は50年前の洗脳が融けていないようだ。洗脳とは、かように怖しい。そんなに共産党が素晴らしいと思うなら、中国、北朝鮮に移住すればよい。

 つい最近も、ある共産党党員が党首の選挙を民主化して選ぼうと提案したら、その人が除名されたというニュースで世間が湧いている。

 オウム真理教の信徒でも、いまだその洗脳が融けていない人が多くいるようだ。統一教会も洗脳という手段で信徒を縛っている。多くの新興宗教は同じ手口である。

 

「骨になるまで」

 私待つわ

 骨になるまで待つわ

 私、待つわ 待つわ

 いとおしい

 あなたを待って

 夜明けのダンスを

 踊るため

 骨になるまで

 待ち尽くす

 ああ、私の魂が

 水のように

 流れ出した

 悲しい海へ

   山路徹作詞

 

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 山路徹画

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 馬場恵峰書

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シュールの風景 山路徹個展「絵・詩」

日時  2023年2月4日~2月28日

    11;00~17:00(最終日は16:00まで)

    水・木定休 19日臨時休業

場所  画廊 Sagan

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2023-02-18  久志能幾研究所通信 2619  小田泰仙

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2023年2月16日 (木)

文句を言わず、行動  慈工程完結

馬場恵峰師の人生

 どんなことでも文句を言わない。試練として受け入れる。

 行動を伴なわないお祈りをしないと成就しない。祈ると同時に、それにふさわしい行動を取ること。

 自分が変わらないと周りも変わらない。自分が変わろうとしない限り、何も変わらない。 

   明徳塾で 馬場恵峰師  2006年5月28日

 

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 馬場恵峰師 明徳塾にて 2006年6月28日

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トヨタの生産

 トヨタ生産システムでは、「前工程は神様、後工程はお客様」という。前工程から流れてきた部品は、文句を言わず、作業指示書通りに作り、後工程に流す。神様に文句を言っても無駄である。自工程で完璧にしないと、後工程に迷惑をかける。

 自分達の工程で問題があれば、自分達でカイゼンに取り組んで、問題を無くす。自工程完結である。後工程に不良品を流さない。それがトヨタ生産システムの原則である。

 

 KK問題は、後工程という日本社会に人間の不良品を流したと同じである。その製造責任者に責任がある。親の責任である。

 

私の人生

 出会った事件や降りかかった事件は、自分を成長させてくれるご縁である。その事件では、みんな同じ条件である。文句を言わず、その事件を解決する知恵を出して、対処する。その回数が多ければ、その分、大きく成長する。私はそうやってきた。回避したり、文句を言うだけで、何もしないのが一番悪い。その事例を避けても非難されない事例をも受け入れるが、人生修行である。

 大きな社会現象では、微力な自分ではなんともできない。しかし自分の範囲内(自工程)で、出来ることは当然として、できない事にでも最大限の努力をする。できなくてもよい。それの対策を考え続け、対策を打つだけでよい。大河に一滴を注ぐつもりで、成果が出なくてもよい。他からの援助が無くてよい。覚悟して取り組む。私の哲学「自工程完結」である。

 

大垣行政

 大垣行政に不満があれば、市役所に意見を出せばよい。お祈りしても大垣行政は良くならない。市民が黙ったままで行動しないから、汚役人はやりたい放題につけあがる。ゴミ袋有料化政策が良い例だ。

 ゴミ袋有料化議案に賛成投票をした市会議員に、次回の選挙で投票しなければよいのだ。議員の誰が市民の敵かを見極めよう。それが多くの市民のための慈しみの行動である。それが慈工程完結である。

 

2023-02-16  久志能幾研究所通信 2617  小田泰仙

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2023年2月14日 (火)

言志四録 吾が心を礼拝す

 

 幸せになりたいと神にアーメンと祈る。極楽に行きたいと仏様に念仏を唱える。しかし、何度も祈っても、何千回も唱えても、神佛は見守っているだけで、何もしてくれない。他力本願では幸せになれない。自分を幸せにするのは、吾である。

 その幸せは自分の心が決める。幸せになるための行動は、自分の心が決める。それなのに、どうしてその吾が心を拝まないのか。その行動を決めるのは自分だ。その行動が、幸せになるために、「それでよいか、良いか」と自分に問い、反省を繰り返すべきなのだその反省もせず、猪突猛進するから墓穴を掘る。

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    馬場恵峰書『佐藤一斎著「言志四録」五十一選訓集』久志能幾研究所刊

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吾とは

 「口」は神様へのお祈りに使う器、「五」は木の枝を交差させて2重に重ねた蓋を表す。ここから「吾」には「(祈りの効果を)とどめる、防ぐ」の意味がある。

 

六根清浄

 六根(仏語)は人間の認識の根幹である。心的作用にはたらく六つの器官を言い、対象に応じた認識思惟の作用のある器官をいう。その6つとは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根である。それが我欲などに囚われては、正しい道(八正道)を往けない。そのため我欲を断ち、心を清めることを六根清浄と言う。そのためには、不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じない、を実践することだ。そのために、修行として俗世との接触を絶つ山籠もり等が行なわれる。

 

八正道

 八正道とは、涅槃に至るための8つの実践徳目である。その8つとは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。八正道は釈迦が最初の説法において説いたとされる。

 

正見

 「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」と釈迦は説かれた。トヨタ生産システムで言えば現地現物である。松下幸之助翁が説いた「素直な目で視よ」である。

 

 

思惟

 正思惟とは、正しく考え、判断すること。出離(離欲)を思惟し、無瞋を思惟し、無害を思惟する、である。逆に避けるべき思考は、邪思惟である。

 

 

正語

 正語とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、離間語(陰口,仲違いさせる言葉)を離れ、粗悪語(誹謗中傷,粗暴な言葉)を離れる、である。

 

正業

 正業とは、殺生を離れ、盗みを離れ、非梵行(性行為)を離れることをいう。五戒の不偸盗、不邪婬に対応する。この二つは正思惟されたものの実践である。

 

正命

 正命とは、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むこと。命は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす。

 

正精進

 正精進とは、四正勤、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践である。現代風に言えば、危機管理、再発防止、予防保全である。

 

正念

 正念とは、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に現在の内外の状況に気づいた状態が「正念」である。トヨタ生産システムで言えば、5S(整理整頓清掃清潔躾)、現地現物である。

 

正定

 正定とは、正しい集中力の完成である。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られる。いわばカンバン方式のジャストインタイムである。

 

唯我独尊

 自分が神仏になって、八正道を実践すれば幸せになれる。誰にも頼らず、神仏にも頼らなくて済むので、ストレスなく生きていける。超楽ちんである。それが唯我独尊である。トヨタ生産システムで言えば、自工程完結である。

 「世界で尊いのは、この世の存在する全てである。我々は、ここに生まれてきたが、再びは生まれない。この広い世界に生れてきた我々には、各人に与えられた尊い使命がある。そのために我々が解脱する。それが唯我独尊である」と釈迦は説かれた。

 

 

2023-02-14  久志能幾研究所通信 2615  小田泰仙

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2023年2月 6日 (月)

人生劇場「生活芸」を育てる  緩慢なる洗脳殺人

 

 武智先生に受けた薫陶の中で、「一番いいものを見て一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなる」とよくおっしゃっていた。

 中村雁次郎著『私の履歴書⑨』日本経済新聞 2005年1月10日

 

 人生劇場で主人公として、良いものの中で育たないと自分の演ずる芸が貧しくなる。下品に洗脳されると、生活芸が貧困化して、人格が殺される。

 

 これは物理の法則である。「物理」とは物の「理」を学ぶ学問である。朱に交われば赤くなる。赤の絵の具と白の絵の具を混ぜれば、赤くなる。宇宙根源の理である。

 

一番良い親の背中

 子供は親のいうことは聞かない。親のやっている通りになる。子供は親に染まるのだ。私は両親の働く姿を見て育った。内職までして働いている両親を見て、私は遊んでいるわけにはいかない。

 

一番良い上司の影響

 いい上司の下で育つと、仕事の仕方が豊かになる。悪い上司の元で働くと、仕事の芸が貧しくなる。私は会社時代、多くに部長の下で働いたが、親会社から出向してきたО部長に感銘を受けた。その薫陶を受けて、私の仕事芸が変わった。

 今まで多くに上司に仕えてきた。私が間違い(上司に気に喰わない事)をすると、多くは感情に任せて怒ってきた。しかしО部長は叱るのだ。怒ると叱るとは違う。

 親会社では使い物にならない人間が、子会社に部長として出されてきた。その部長は部下を怒りまくり、多くの中間管理職を鬱病にしていった。それこそ緩慢なる洗脳殺人である。私は管理部署の職制として、その心が壊れた基幹職を受け入れた。また「管理部署は閑だろう」と、他の部署の課長が、心の壊れた若手(その課長が追い詰めたのだ)を多く送り込んできた。

 人は言葉一つで殺せるのだ。それは緩慢なる洗脳殺人である。

 

一番良い佛像彫刻を見て育つ

 私はこの10年間で、300体×2回×10年=6,000体の松本明慶佛像を見てきた。松本明慶佛像彫刻展は年間2回開催される。一回当たり、約300体の佛像が展示される。それが開催さると、私は東奔西走で必ず出向いて佛像を鑑賞した。お陰で佛像を見る眼が育った。

 「佛」とは「人」と「非」からなる象形文字で、人にあらずと書いて「佛」である。人ではない存在を形にした造形は、人の理想の形を心に刻む。

 

一番良い絵を見て育つ

 私はいままで世界の80館以上の美術館・博物館を回った。お陰で名画と呼ばれる作品を直接鑑賞することが出来きて、鑑賞眼が育ったようだ。

 私の名画の定義は、「捕まっても良いから盗んで、自宅に飾りたい絵」である。残念ながら、海外にはそんな絵は無かったので、盗まず、捕まらずに済んでいる。何億円の絵でも、バカでかくゴテゴテした古い油絵は日本家屋に似合わない。

 

一番良い友人と共に育つ

 日頃付き合う友の影響は大きい。自分と価値観の合った友人でないと切磋琢磨ができにくい。価値観の合わない人と一緒に居ると、どうしても相手に迎合することもあるから、自分の芸が目減りする。孟母三遷の教えで、良き友を選ぶのが大事だ。

 進学校で皆が必死に勉強をしている中、一緒に学び育つと自然と学ぶという「芸」が磨かれる。皆が遊び惚けている学校で育つと、その「学習芸」が貧しくなる。

 

一番良い師の元

 良い師が自分を育ててくれる。三年かけて師を探せ、である。師からの教えは薫陶である。霧の中を歩けば、自ずと衣が濡れるのだ。それと同じで、師と行動を共にすれば、その考えが伝わってくる。

 

一番いい言葉

 言葉の影響を受けるのは、自分である。人に吐く言葉でも、一番大きく影響を受けるのは自分だ。良い言葉を吐けば、自分が励まされる。悪い友と付き合い、後ろ向きの言葉を浴びれば、どうしてもマイナスの影響を受ける。それは人生芸の貧困化である。 

 

CMでの悪い影響

 毎日、ファストフードのCMを見せつけられれば、自然とその食品に手を出してしまう。体に良い食事への感性が鈍くなり、健康を考えて食べるという「喰う芸」が貧しくなる。食が豊かになり、日本人が総グルメになった。その結果が、2022年度の医療費44.2兆円越えである。しかし不健康病を併発した。「喰う芸」の貧しさが原因である。

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2023-02-06  久志能幾研究所通信 2607  小田泰仙

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2023年1月31日 (火)

30年間のハニートラップ、免疫力を壊滅、がん激増

 

 2023年1月30日、半年ぶりに久留米の真島消化器クリニックに定期検診に行ってきた。血管内プラークの状態の検査である。その結果は2勝1敗1引分けである。血管内プラークの状態はかなり改善されたが、まだまだ課題が山積である。

 そのプラークとは過去30年間、悪い食生活で積み重なって出来た毒の山である。対策を打っても、一朝一夕で改善されるわけではない。30年かけて出来たものは30年かけないと無くならないようだ。地道な正しい食生活、正しい生活習慣を続けるしか治療法がない。

 

ハニートラップ

 狂った食生活、狂った生活習慣を過ごしたため、私は肥満、高血圧になり、記憶力が低下し、認知症寸前になり、最後はガンになってしまった。この30年、食品メーカから、美味しいものをCM洗脳されて、無意識に食べてきた報いである。それは食品メーカが仕掛けたハニートラップであった。

 

 私は味の極楽ポイントを付加した食品に負けた。食べ始めたら「止められない止まらない」であった。極楽ポイント付きの食品は激美味しいのだ。

 

腸内環境が破壊される

 今回、真島院長から指導されたのは、腸内環境の改善である。腸内環境を左右する善玉菌の活動を妨げる食品の制限である。その食品が健康を害する。腸内環境が破壊され、善玉菌が激減すると、免疫酵素の敵地攻撃力が激減する。

 

 例えば、酢である。健康のため酢は良い食材と信じられているが、それが腸内環境を破壊する。酢は農林水産省では、農薬として認定されている。酢は除草剤としてもホームセンタで売られている。酢は殺菌作用が強く、飲みすぎると腸内環境を破壊する。

 

 人工甘味料は静菌剤で、腸内環境を破壊する。人工甘味料はノンアルコールビールにも大量に入っており、健康に悪い。もともとアルコールは腸内善玉菌には殺菌・静菌剤である。だから健康には禁酒が一番である。

 納豆菌も強力な殺菌・静菌剤で、腸内環境を破壊する。食べ過ぎは健康に悪い。

 

 我を滅ぼすのは我である。自分の我慢できない食欲の強さで、自制心が負け、食べ過ぎで病気になり、死ぬのだ。

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2023-01-31  久志能幾研究所通信 2601  小田泰仙

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2023年1月27日 (金)

観音菩薩が見る、観る、視る

 

 彩色佛師が最大の注意を払うのが、仏師が目として彫り上げた部分に、目を画くことだ。仏師が意図して彫り上げた点から一分もずれてはならない。目は口以上に心を表している。

 観音菩薩様の目は、慈しみの目で拝む人を観ておられる。しかし横から見た観音菩薩様の目は、拝む人を厳しい目で視ておられた。真正面から見る観音菩薩様の目と、横から見る観音菩薩様の目は違っていた。菩薩とは、如来になるため仏道を修行中の佛様である。そのため人を観る眼を養い、修行しておられる。優しいだけでは佛の座に就けないのだ。

 その目を表現した「瑠璃観音菩薩像」を松本明観さんに解説してもらった。その目を描くのは、仏像彩色師・岩田明彩さんである。

 瑠璃観音菩薩とは、東の瑠璃浄土を守る薬師如来に仕える観音菩薩である。薬師如来は瑠璃壺を携えている。瑠璃壺は薬を入れる壺である。つまり薬壺である。西の浄土を守るのが、大日如来様である。東は生れてくる世界、西は死んでいく世界。その東を守っているのが薬師如来、西の浄土を守っているのが大日如来である。

 場所は2023年1月22日、福井市西武百貨店で開催されていた「松本明慶仏像彫刻展」会場である。

 

 

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 慈しみの目で拝む人を観ておられる

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  衆生を厳しい目で見つめる観音菩薩様
 

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  瑠璃観音菩薩像 松本明慶大仏師作

 

 

現地現物、選択と決断

 現地現物とは、問題が起きた時、自分で現地に行き、自分の目で、良く見て、観て、視て、素直な心で状況を完全に把握することである。そして多くの選択肢から一つを選択して、実行を決断する。それに対して罵詈雑言を浴びても、それに忍耐することである。何時かは真実が明らかになる。忍耐の「忍」とは、自分の心に刃を向け、「それでよいか、よいか」と自分に問うことである。

 現地現物はトヨタ生産方式の基本である。

 

 馬場恵峰先生は過去に5回も保証人になる依頼を断ったという。保証人を頼みに来た人たちは、後日全て破産した。

 彼らは、仏の恵峰先生なら無条件で保証人になってくれるはずと思っていた。依頼人に「なぜ私に保証人を頼むのだ」と聞いたら「もう馬場恵峰先生しか頼むところが無い」であった。

 恵峰先生は、相手を良く見て、観て、視て、素直な心で決断し、保証人になることを断った。その後、その5人の依頼人は、全員破産した。もし馬場恵峰先生が保証人を引き受けていれば、先生も破産していた。先生のその後の人生は無かっただろう。日中文化資料館も消えていただろう。

 人生の荒波を航海するには、人を見る眼が大事である。お人好しだけでは難破する。お釈迦様でも全ての人を説法はしなかった。

 

 赤い羽根共同募金活動でも、善意の裏で蠢くどす黒い邪心を良く観ないと、自分の人生も社会も破綻する。観音菩薩様の目で、良く見て、観て、視て、素直な心で状況を完全に把握することである。

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P10506591s 馬場恵峰書

 

見る、観る、視る

 「見る」は、無意識で、受動的である。

 「観る」には、前提として動植物や自然、試合や芸能などの対象を見きわめようという意識や行動がある。能動的である。

 「視る」は「調査をする時など気を付けてよく見る時」に用いる。「視点」や「視線」と使われることからも分かるように、「どこかに行って、目的物をみる」、「目の前にある物に視線を集中させてみる」、「一点に集中して見る、一ヵ所を注意深く見る」と、能動的な意味を表している。

 

四苦八苦

 娑婆から聞こえてくる「音」は、心して観なければ、真実には到達できない。だから耳は二つあるのだ。

 「目」の字の四方八方に枝が伸びて「耳」である。

 「目」を横にすれば「四」である。四苦八苦の「四」である。

 

 四苦八苦とは、仏教における苦(ドゥッカ)の分類である。根本的なドゥッカを生・老・病・死の四苦とする。

 生苦とは、衆生の生まれることに起因する苦しみである。

 老苦とは、 衆生の老いていくことに起因する苦しみで、体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる苦しみである。

 病苦とは、 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる仏教問題である。

 死苦とは、 死への恐怖、その先の不安などの自覚である。衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみなどである。

 

 根本的な上記の四つの苦に加え、下記の4つを含めて四苦八苦という。

 愛別離苦とは、親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。愛する者と別離する苦しみである。

 怨憎会苦とは、怨み憎んでいる者に会う苦しみである。

 求不得苦とは、求める物が思うように得られない苦しみである。

 五蘊盛苦とは、五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみである。

 

 

2023-01-27  久志能幾研究所通信 2598  小田泰仙

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観音菩薩像の撮影許可は、松本工房より頂いています。

 

2023年1月24日 (火)

蟹一杯で36,000円 口は一つ、耳二つ 😿で諦め

 

 2023年1月22日、福井市西武百貨店で開催されている松本明慶仏像彫刻展に出かけた。帰りに蟹を食べようと思ったが、あまりの値段の高さに恐れをなし、蟹を食べずに、駅弁で済ませて帰ってきた。

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皇室献上

 5年程前、福井市で蟹を食べたが、その時は2万円ほどであった。確かに美味かったが、今、冷静に考えると一回の食事代で2万円は考えてしまう。それから私も大病をした。またウクライナ戦争も発生した。それで今は蟹の値段も爆上げとなっていた。福井駅の蟹販売店では、一杯3万6千円で売られていた。その上段に置かれた極上品の蟹には、「皇室献上」と書かれ、5万6千円の値札が付いていた。

 

 商売として、「皇室献上」と書かれた看板をそれみよがしに掲げるのは、何か下品と感じた。特に最近は、穢れた話題ばかりが流れる皇室関係である。お店も常識ある商売をして欲しいと思った。それを見て、その店でおみやげ品まで買う気が無くなった。仏様が耳元で「止めとけ、やめとけ」と囁いたようだ。食品関係の商売は、味だけでなく、感性や佛性が大いに影響する。なにせ他の命を頂いているのだ。

 

喰いの悟り

 蟹に一杯3万6千円の金を出すなら、地元大垣で5千円のメシを7回食べた方が良いと判断して、蟹は諦め、昼食は駅弁で済ませた。その駅弁は釜めしであったが、容器がプラスチックであった。駅弁の冷めた釜めしを食べるくらいなら、温かい蕎麦の方がよかったと後悔した。

 どんな極楽品でも一度試すと、ああこんなもんか、と悟りが得られる。その同じ極楽を何度も試すのは愚か者である。人間の感覚はすぐ麻痺をするものだ。

 

さるおん方のゲテモノ食い

 さる高貴なA御方は、税金を使っての飽食に飽きて、国際条約で保護された動物カピバラをゲテモノ食いされていた。ゲテモノ食いをすると、誇りも羞恥心も遵法精神も消えるようだ。それが世間に明るみになり、国民の批判の嵐に晒されている。人が驕りで贅沢三昧をした場合の末路である。反面教師として国民の模範になるはお笑いである。KK問題は起こるべくして起きたようだ。それを因果応報という。

 

智慧と賢さ

 人は食べて1合、飲んで一升、寝て1畳、立って半畳である。それ以上を望むと、地獄の落し穴が待っている。お天道様の下で、人間として健康に、謙虚に暮らすのが最高の生き方である。

 私は今までは美味いものを大食いしていた。その結果、私は大病を患い死線をさまよった。私は何度も愚かな試行錯誤を経て、やっと悟りに境地に達した。やはり人間は痛い目を経験しないと知恵がつかない。

 

誘惑の多い娑婆で生きていくために必要なのは、知識と賢さである。

知識泥棒では人は大成しない。実体験で得た智慧しか役に立たない。

口から多すぎる食料を入れるから、病気になる。

 だから仏様が口は一つで十分と制限した。

頭に入れる栄養が、長生きをさせてくれる。

 だから仏様が両耳で法話をしっかりと聞けと二つにされた。

 

大事を恐れることなかれ、小事を侮るなかれ。

 大事とは大病である。小事とは日々の食事である。

 大事とは使命である。小事とは日々の生活姿勢である。

 

 

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 松本明慶大仏師作 文殊菩薩

  衆知を集め、文殊の知恵を出せと教える佛様。

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 松本明慶大仏師作 普賢菩薩

  多くの選択肢から正しく選択し、賢く決断せよと教える佛様。

 

 

2023-01-23  久志能幾研究所通信 2595  小田泰仙

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2023年1月16日 (月)

磨墨智324 自分の評価価値を知ろう - 改

 

遅刻は、自分に対する軽視表現

 相手の自分への認識価値を確認しよう。人は潜在意識で行動する。それがそのまま約束時間での行動に現れる。

 

 自分の時間を大事にする以上、他人との約束時間、特に待ち合わせ時間を守るのも、間接的に大きな時間節約である。人さまの時間を尊重しない人間に、自分の時間の大切さは分からない。

 曰く「遅刻は最大の拒否表現」

 それは人とのご縁を大事にすることだ。私は、人の評価にこの待ち合わせ時間の正確さである程度判断している。その人の持つ人格、人生思想、自分への評価(自分がどの程度大事に思われているか)に、高い相関係数がある。

 

縁起説

 仏教の縁起説では、人生は縁の出会いで始まる。良い出会いが、良い縁を招く。だから良き出会いを求めばならぬ。またその出会いを良いものにする努力をしなければならない。それが、待ち合わせ時間を厳守する心掛けである。

 

未来の損失を防ぐ

  あと36年しか生きられない、残り少ない人生で(?) 、付き合う人物を選別することは人生の密度を高くする。時間にルーズな人から将来受けるであろう時間損失を考えると恐怖である。時間は命なのだ。

 またこのことの、私は自分へのけじめとして、待ち合わせで、電車で行く場合は必ず予定の一本前の電車で行く。そうすれば一つ乗り遅れても慌てなくて済む。現地で時間があれば、することはいくらでもある。

 

 私は待ち合わせ場所を、なるべく本屋ですることにしている。ここは早く行っても、待ちぼうけを食っても、時間を有効に使える場所だ。また人を待たせると、どうしても受け身になる。人生では主体性が大事である。私は、人を待たせるより、待つほうが性にあっている。

 

出入り禁止

 ある知人(経営研究会仲間)が会いたいと言うので、時間を指定した。相手の都合により、指定時間より1時間も早い時間で約束時間が決った。そのため私は図書館から帰宅する時間を1時間早めて帰宅した。当時、私は国家試験受験のため、図書館で毎日勉強をしていた。ところがその約束時間に自宅で待っていると、相手から電話がかかってきて、「今から1時間後に行っていいですか」という。時間に遅れることの謝罪はない。怒り心頭であったが、黙っていた。当日は大した用事でもない話で終わり、そつなく話をして別れた。私は彼の行動に呆れて、その知人とは黙って交際を絶った。

 その御仁は、後日、私ががんで入院したとき、私の不在の家に、とんでもない不始末をしでかした。それで私は電話口で怒鳴りつけて、「二度と来るな」と通告した。そういう人は言わねば分からないのだ。

 私がそんな立場なら、営業マンとして常識的に即刻お詫びに飛んでいく。最低でもお詫びの手紙を書く。しかし彼にはそんな気配もなく、その御仁とはそのまま絶縁となった。そんな気配りもできない心掛けでは、営業成績も上がるまいし、経営研究会に入会している意味もない。その人の行動一つで、その人の能力が分かる。

 

慶弔での待ち合わせ

 特に大事な慶弔関係で出発する場合は、電車を1本か2本前の電車にしている。先日も慶弔関係で遠方に出かけたが、2本前の電車をめがけて行ったので、不都合があっても間に合った。それは当日が休日で、予定した電車のホームライナーが運休の思い違いだった。しかしそのミスには、全く影響を受けず、予定の電車に乗れた。これも予定より早めに行動をしたお陰である。

 その話を相手にしたら、その法事に対してそこまで気を使ってくれたと、大層喜ばれた。そういうことに感じてくれる人は、付き合って心地よい。

 

----15分前の余裕----

 「私の生涯の成功の全ては、他人より15分早く行動したことにある。」

  19世紀初頭、ナポレオンのフランス艦隊をトラファルガー沖で壊滅させたイギリスの名将ネルソン提督の言葉

 

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2023-01-16  久志能幾研究所通信 2590  小田泰仙

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