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2017年11月24日のエディオン人気アクセスランキングで、「ドローン墜落人身事故の責任は大垣市」が18位にランクされました。
11月28日20時現在の累積閲覧回数は、14,173回です。
2017-11-28 久志能幾研究所 小田泰仙
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2017-11-28 久志能幾研究所 小田泰仙
上記の資料は、私の定年退職4~6年前に、新入社員の教育用に作成したプレゼン資料である。「自分の体は自分で守れ」というメッセージを込めて作成した。組織にとって、一人の死は、「西部戦線異状なし」の相当する些細な事象なのだ。当時、勤続30年間で事故や病気で亡くなった仲間が多くいたので、新入社員に教訓として資料を作ったが、還暦を迎えてその数が増え、65を迎えて更にその数が急増するとは想像外であった。合併でのストレスやグローバル競争社会に侵蝕されたのが影響しているようだ。合併でグローバル経済教に侵された状況を見せつけられ、ますますその感を強くした。前職の会社の合併は、対等合併との話ではあったが、実質的には吸収合併であり、私も含めて多くの社員がストレスを感じたようだ。
新会社になって、この教育講義は、近視的視野で、短期の己の成果しか見ない拝金主義者のD役員とM部長に禁止をされた。「技術以外の余分なことは教えるな」である。合併前の会社では、5年も継続してきた新人向けの修身の講座であった。新会社の役員は、修身などくそ喰らえで、金儲け一本道である。最近は、ブラック企業の不正事件、捏造事件がマスコミでオンパレードである。物質文明に取りつかれた日本の人心が病んでいる。
無事の有難さ
「無事」であることは、いかに「有難い」ことかは、事故や死に直面しないと悟れない。「今日無事」の意味を、65年間の経験を積んで初めて体得した自分の愚かさを今感じる。今日無事でも明日は分からない。
私の定年退職までに一緒に仕事をした仲間や縁あった仲間が数多くの鬼門に入った。列挙するとその多さに愕然とする。自分も自殺を考えなかったことがないわけではない。自分が無事に65歳を越えたことに、仏様ご先祖・両親のご加護を感じる。以下は自分にご縁があったビジネス戦士の墓碑銘。合掌。
仕事をするとは、生きる意味とは
下記の墓標を見ると私の勤めた会社はブラック企業であったのかもしれない。しかし、私にとって多くの職場と世界の舞台で、私を育ててくれた会社でもあった。多くの仕事仲間と上司が私を育ててくれた。当時、徹夜も厭わず深夜まで働いていたが、それが苦痛とは思わなかった。
友人によると、私の勤務した会社は採用時に、次男や親兄弟のない青年を多く採用していたそうで、入社した人間は嫌でも働かざるを得ない状況にしていたとも聞く。どんな環境でも人によって、受け止め方は異なる。極楽浄土みたいな職場では、人は育たないのかもしれない。『夜と霧』を執筆したヴィクトル・E・フランクルは、アウシュビッツで己の生きる意味を見つけて、死の収容所から生還した。若く元気な青年が生き延びたわけではない。何の為に生きているのか、生かされているのかを分かったものだけが地獄から生還した。1945年のシベリア抑留でも同じである。父が生きて生還したから、今の私の命がある。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」(ニーチェ)。「生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていてもなんにもならないと考え、自分の存在価値をなくし、がんばり抜く意味を失った人は、(いくら若く頑強な体でも)、あっけなく死んでいった。」(「夜と霧」ヴィクトル・E・フランクル)
戦友の墓標
1973年 4月1日の入社当日の夜 大学の学友・Sが自殺。(別の会社に入社)電気コードを体に巻いてタイマーをかけて自殺。自殺理由は不明。同じ機械科で物静かで優しい性格で、成績はクラスで2番の優秀な子であった。
1987年 K係長(享年40歳前後・生産技術部)米某自動車工場に機械納入中の現場で、心臓発作で死去。私の担当した機械の開発試験で直々に厳しい指摘でお世話になった方。私も開発に携わった機械の納入時の事故である。
1997年頃 T主任(享年40歳前・知財部)が寮の一室で朝、死去。バブル崩壊後の不況で、特許室から現場応援に出され、三河の寮に単身で勤務していた矢先のこと。子供もまだ幼い。葬儀場で奥さんの顔を直視できなかった。たぶん無理な現場での心労が重なったのか。1994年にミシガン大学に研修にいった時、現地で大変お世話になったのに。
1998年頃 K主任(享年40歳前後)宴会後、サウナで寝込んで死亡。技術部の設計仲間。この事故後、保養所の宴会後のサウナは禁止された。
1998年頃 N主査(享年55歳前後・ソフト開発)白血病で死亡。私の開発に携わった機械のソフト開発で大変お世話になった次長さん。
1998年頃 S元部長(享年60歳余) 糖尿病の併発病で死去. 研究開発部で私の直属の上司。定年退職後の早すぎる死。デミング賞を取るために無理な生活を強いられて病気になられた。奥様が夫のためにと作った栄養過多な食事を、夜遅く取り続けた結果が、糖尿病である。
2003年 D主担当員(享年54歳・営業) 病没. 私の1年後に同じ設計課に入ってきた仲間である。机を並べて、仕事をして、一年先輩として色々と情報を教えた仲である。欧州に赴任して苦労をしたようで、その影響で病気になったようだ。私がパリに出張したとき(1991年)に会ったが、元気がなかった。現地法人で心労ある激務であったようである。彼は技術屋で営業には向かないタイプである。上司Uに逆らったので、海外に飛ばされたと聞いた。
長年、当社は仏の現地法人に食い物にされ、赤字を垂れ流していた。後に清算してやっと出血が止まったが、遅すぎた経営判断であった。経営者の決断が遅れると、社員の命に影響する事例である。営業に向かない性格を知りながら、また現地の厳しさも知りながら、異動させたのは推定殺人だと思う。そういう冷酷な人が上司であると、部下は不幸である。経営者は、資源(人モノ金)の最適配分を考える責任がある。それを人の好き嫌いで差配するのは、経営者失格である。一流大学大学院を出ただけでのエリートが、優れた経営者ではないことの実例である。
この事例では、上司に嫌われた場合の悲哀を見せ付けられた。サラリーマンが嫌なら独立することだ。それができないなら、嫌われないように保身するのがサラリーマンの智慧である。私の両親は、上司への盆暮の心づけを欠かさなかったので、私はその危機を避けられた。今にして思うのは、これは危機管理上の保険であった。両親のご恩に改めて感謝している。この写真で彼を見ると、明らかに、疲れていることが見て取れる。またこの中にもう一人、私の仲間がいて、メンタルで倒れている。海外勤務は、精神面でタフでないと勤まらない。
2003年頃 I社長死去 50歳過ぎ 突然死. 機械の外注設計の社長。20年来のお付き合いで、腕のいい設計社長であった。お宅にも泊めて頂いたことがある。突然の訃報を聞いて、驚いた。
2004年 Y社長 出張先ホテルのシャワー室で突然死。 壮絶な戦死である。合併の段取りで心身ともご苦労をされたようだ。Y社長からはIT戦略会議の場で何回も厳しい指導を頂いた。葬儀では駐車場の交通整理でお手伝いをさせて頂いた。葬儀は身内のみとのことであった。身内とはグループ会社の社長を意味し、葬儀場のお寺に黒塗りのセンチュリー、レクサスの高級車が60台も集結して壮観であった。グループ会社の社長にとって、戦友を亡くしたが、明日はわが身との思いがあったろう。グループ会社は、グローバル競争の嵐に巻き込まれ、Y社長の死は5000人規模の会社の統廃合が始まる前兆であった。優良会社A社は上場直前であったが、分割吸収され消滅した。氏は親会社の役員から当社に社長として来られたので、生きて合併を推進すれば、悲惨な身内の死はもっと減ったと思う。この死で合併は相手のペースで進んだ。社長の死は、合併への仏さまからの警告だったと今にして思う。
2006年 新会社発足。建前は対等合併だが実質は吸収合併。
5000人規模の会社の死である。会社にも70年の寿命があった。
2007年 S主査(享年55歳前後・営業) 突然の死去. 朝、体調が悪いといって、病院に行きそのまま帰らぬ人となった。大阪に単身赴任。合併での犠牲者である。家族は会社と断絶状態である。奥様は会社からの葬儀参列も霊前花も一切拒否。峻烈な意思表示をされた。彼には教育部主催の篠田教授のテクニカルライティング講座、秘書室での対応、営業部での仕事等で、色々とお世話になり親しかった。
2008年 S室長(享年50歳前後・設計) 過労死。 技術部の仲間。合併での犠牲者だと私は思う。賢明な奥様は、夫の過酷な勤務状況・勤務時間を克明に記録していて、会社に突きつけた。自分の身を守るのは記録である。しかし、記録では夫の命を守れなかったのは哀しい。
2009年 Y主担当員(享年59歳 技術部) 癌で死亡。進行性の癌。合併での心労による犠牲者。新会社になり仕事がしんどいと話していた。私の開発した機械の見積もりを担当。優しい性格の仲間。
2012年4月 学友・F(享年63歳) 癌発病後4ヶ月で死去
同じ卒研仲間で某自動車に入社。定年後の再雇用で、そろそろ自分の時間が欲しいとの元気な姿の写真の入った年賀状を頂いた矢先のこと。「食事でもどう?」と家に電話をしたら先日亡くなったと……
2012年 総務部のO元課長死去(享年62歳くらい)
工場のフェステバルで一緒に会場運営準備をした仲間である。
2013年 元部下のO君死去(享年40歳前後)
2014年 元部下のY君死去(享年55歳)
私の同期24名中、退職時に在籍していたのは8名のみ。後は退職、転籍。その他、部下でうつ病になったのが3名。精神異常が1名。周りの職場を見るとうつ病者は数知れず。私も退職前の一時期、陰湿ないじめでうつ病寸前になった。病院に行けばうつ病と診断されるのが明白であったので、関係の本を読み漁り自力で直した。
グローバル経済で拝金主義が横行し、社員が不幸に陥る現実を直視しないといけない。それが責任者の勤めである。役員・部長は成果主義に染まり10年後のことは眼中に無い。会社がおかしくなれば、日本国もおかしくなる。現代の日本の姿である。私の勤務した会社が吸収合併されて消滅したのは、亡くなった戦友達の怨念かもしれない。
母の遺言
1991年、母は脳溢血で倒れ、一度は手術が成功して回復したが、その後、脳梗塞が進行して、1992年7月に市民病院に再入院した。そして、だんだんと意識が薄れていき4ヶ月ほど植物人間状態になり、12月に息を引き取った。お盆過ぎの日、自宅に帰る前に病院に寄ったが、意識が大分錯乱状態であったようで、私に「○○(私の元上司)は、ひどいやつだ。気をつけろ」と何度も何度も私につぶやいた。そんなことはないよと、なだめるのに大変だった。当時は、脳梗塞の進行がそんな言葉を発していると考えていた。
今にして当時を振り返ると、何か鬼気迫る雰囲気であった。20年経って仲間の墓碑銘を見つめると、その言葉が迫ってくる。母の潜在意識が、この世に残していく最愛の息子へ発した叫びであったようだ。母は苦労をしたが故、人の本質を見抜く力を持ち、それが薄れていく意識の中で口に出たようだ。母は地元の中小企業社長(入社時の私の保証人)が、一目も二目も置いていた女傑であった。この社長と対等にやりあえる人はざらにはいない。旧家の10人兄弟の長女として采配を振った賢明な母であった。しっかり者過ぎて、私は煙たかった。母は○○の高卒の妻の存在を、夫が役員になったのでそれを鼻にかけていると見抜き、私に注意を喚起していた。結果はその通りとなり、妻の言動で夫が影響を受ける会社人事の事例を冷静に観察できた。妻に影響されるような役員は、経営者失格である。
私はその上司から離れてから(飛ばされて)運勢が向上した。1991年、会社創立50周年記念論文で最優秀賞(賞金100万円)を獲得した。その報告が母への最後の親孝行となった。1993年、課長に昇格はしたが、上司夫妻に嫌われていたため昇格が遅れたため、喜んでもらうはずの母は、この世を去っていた。
ご縁があったその会社も、2010年4月(定年5ヶ月前)、大手に吸収合併されて消えた。前の会社の消滅4年後のことである。
2007年、馬場先生から頂いた板書。「今日無事」の言葉は重い。今日無事でも明日は分からない。
2017-11-28
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
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著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。
2017年11月27日、今日は名古屋・伏見・電気文化会館で、小坂井聖仁さんの「ヴァイオリン・リサイタル(ドイツより完全帰国の記念に)」(田村響さんとのピアノ協奏)の撮影会でした。14時30分に現地に着いて、約6時間の撮影をこなし、22時20分に帰宅して、お風呂を浴びて(その前にほんの少しのピアノ練習をこなし)、今原稿を書いています。
私にとって、9月の大垣音楽堂でのTIMMコンサートに続いて、プロによる本格的なホールでの演奏会撮影とビデオ撮影は、今回が二回目の体験でした。やはり場数を踏まないと、撮影の腕は上がらない。その前に、河村義子先生の演奏会での撮影で場数を踏んでいるのがためになっている。今はお金ではなく修行として演奏会の撮影をしている。このために、今回は無音シャッターのフルサイズ一眼レフSonyα9と100~400mmの望遠レンズをそろえての段取りで、今回がそのデビュー戦でした。やはりこの音楽の演奏会の分野は機材がモノをいう世界です。
今日は、無音シャッターであったのと、撮影専用の小部屋の提供を受けたので、観客の回りに気兼ねなく、15時から21時まで、ほとんど休みなしで約1000枚の写真(連写ではなく、一枚ずつのシャッターで)と5時間のビデオ撮影をこなした。今回は小坂井さんも田村さんも力が入っていて、リハーサルの時間が長かった。私は老体を鞭打ち、体力的にもフトコロにもきつい労働であったが、楽しい仕事でもあった。やはり新しい挑戦は楽しいもの。ボケ防止には良い仕事であるが、ボケ防止にはお金がかかるのです。今日の詳細は、別原稿で報告します。
2017-11-27
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
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2017年11月26日、名古屋モーターショーに初めて行ってきた。出かけることで多くのご縁に出会うことを再確認した。犬も歩けば棒に当たる。東京モーターショーには、仕事では何回も行っているが、名古屋で、私用での見学は初めてである。久しぶりのモーターショー見学で少し疲れた。何時のように大変な人出である。運慶展や国宝展とは客層と演出が全く異なり、疲れ方も全く違う。こちらは肉体的疲労が甚だしい。
今回の見学目的は、今度購入したい新車の下見である。車歴17年の車を更新したいが、良い車がなく悩んでいる。私の好みのFRでセダンの良き車がないのだ。いまはFFやワンボックスカーばかりである。走りのこだわると、FFやワンボックスカーでは不満なのだ。ボケ防止には車も良いものだ。
昔の仲間の動向
そこでばったりと昔の仲間に出会って、しばし話しこんでしまった。その私がいた部署で一緒に働いた昔の仕事仲間の動向を聞いて、改めて考えこんでしまった。その仲間の多くが冷遇されていたのだ。中国に二名、タイに二名、チェコに1名(2回)、米国に1名と当時の基幹職全員が、海外のそれも発展途上国に飛ばされていた。その多くは赴任して帰国後、定年か、そのまま子会社に出向である。エゲツナく下品と噂のあった通りの相手先会社の仕打ちである。会社人事では人の能力は関係がない場合が多い。私は、その部署の仕事レベル全体をみて、私の所属した部署の人間の方が優秀と見ていた。それが偏向人事で全員が飛ばされた。
私の前職の会社の合併は、旧T社(私の勤務した会社)と旧K社(合併先会社)と名目は対等合併であったが、3対4の出資比率であったので、人事では吸収合併扱いで、私の前職の会社の人間は冷遇をされた。合併の比率で1%でも多い方が、合併後の人事で主導権を握る。異動で二つの会社に同等の人材がいれば、大比率会社の人間が国内で偉くなり、それに相当した海外部署に小比率会社の人間が出されるという図式である。元部下の一人だけは理事にはなったが、そこで定年になり終わりである。本来役員になっても不思議ではないのだが。他に役員になった人がいるが、当時からなぜあんな人間が役員かと皆が疑問を感じた人間である。どうも上層部が、彼を使って旧T社の人間をまとめるのに重宝したようで、その役員会で上にもいけず、出されるわけでもなく、飼い殺しのように平の役員を勤めている。会社の人事は、人間の仕事能力は二の次で、如何に上層部に気に入られるかである、を再確認した。
悲劇の原因
前職の会社が吸収合併された悲劇の原因は、旧K社の社長、役員の責任である。ぬるま湯的な経営で、学閥内での出世、親会社によりかったぬるま湯的経営で、決めるべきことを決めない経営であった。そのツケがまわって、創業65年で吸収合併をされる身となった。その被害は、社員に及ぶ。会社が無くなったことに責任ある社長、役員達は退職金、顧問手当でぬくぬくとしている。
先の太平洋戦争でも、兵士は優秀であったが、軍部の上層部は愚かで、同じ間違いを何度も繰り返していた。米軍や英軍は同じ過ちを何度もするパタン―ンを見抜き、対策を打って日本軍を玉砕に導いた。その時代から日本経営は少しも進歩をしていないようだ。
私の学び
いつの世も、悲劇を見るのは下々である。役員とはdirectorで、方向を示す人との意味である。その責任ある人が、経営に岐路で正しい決断をしない。決断もせず、間違った方向を示した。そんな人たちが会社を潰した。経営者の仕事は決断である。それが出来なかった。その反面教師として、私は決断が早くなった。周りの人が呆れるほど。前職の会社の消滅は、よき学びであった。
その会社に入社する選択権は我々にはない。私が入社した当時は、不況で会社に入れて頂いた扱いである。そのよき会社の縁を選ぶのは、種々のご縁の錯綜から生まれるようだ。その会社も寿命は30年である。どのように人生を送るか、自分の役割に全力を尽くすしかないと悟ってきた。
勤めた会社のご縁、住む所のご縁
会社の選択は、己の責任であり、理不尽な扱いを受けるのが世の常である。最近も、知人が理不尽な人事でその会社を辞めることになった。世の中は、ブラックや不正業務で捏造がまかり通る社会に落ちぶれてしまった。グローバル経済主義の弊害だと私は思う。そうならない経営をするべきである。
住む場所は往々に両親とか別の縁で決まる場合が多い。しかし選挙権でその義務を果たすことができる。その住む都市の行政の責任は、国の社長は首相であり役員は国会議員である。市の社長は市長であり、その役員は副市長、市議達である。間違った方向に走りがちの行政で、国民・市民が正しく行政をチェックしないと、国や市の行政は迷走する。その被害は、国、市の経済状態と、国民、市民、商店の店主、中小企業経営者の生活に及ぶ。またその子供たちの未来にも影響を及ぼす。国、市の経営者の責任は重い。
市民・国民の義務と反省
国の行政も市の行政の出来不出来は、我々が選んだ議員によって決まる。なんでも反対する党に投票する人がいる。世界の民主主義国家で、共産党が存在するのは日本だけだ。それに投票をする人もいる。日本を共産国家にしたいのだろうか。信じがたい選択である。不倫を働いた元議員に再選のお墨付きを与えた甘い選挙民を騙して、その女性議員はまた不倫を働いて平然としている。これは投票をしたその地区の選挙民が、人を見る眼がなく愚かとしか言いようがない。選んだ議員、市長、議員が適正な行政をしているかは、見守らないと、我々が被害を受ける。言うべきことをきちんと言わないと、行政に殺される。子供たちがかわいそうだ。前のめりで少し勇み足になっても、及び腰で何も言わない市民にはなりたくない。
上図は2017年11月24日、馬場恵峰師宅を写真撮影のため訪問したおり、師に揮毫して頂いた色紙。文面は私の作です。
2017-11-26
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
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2017年11月25日のブログで、大垣城の外堀の石垣は、400年前と報告しましたが、大垣の歴史の専門家に再確認をしたところ、間違いであることが判明しましたので、お詫びと訂正をいたします。
大垣城の内堀は石垣で積んだのですが、水門川を利用した外堀の土手は、江戸時代までは自然の泥壁であったとのこと。現在は、内堀が埋め立てられています。水門川を利用した外堀は、治水として明治・大正・昭和初期に石垣が整備されたようです。詳細は不明とのこと。この外堀の石垣は、今見ても緻密な石組みで、現在の職人で、これを再現するのはかなり困難であると推定されます。何とか外見だけでも、この100年間程、大垣を支えたの歴史遺産として残して欲しいものです。すぐそばに高層ビルの市庁舎を建てるので、その建物の圧力で今の泥の構造の壁のままでは、耐荷重が持たないようです。
今回の事例で写真を眺めると時代考証に少し疑問点が湧いてきましたので、再検証するため、100~400㎜の望遠レンズとフルサイズのカメラで石垣を再撮影した。その写真を詳細に確認して、昨夜から今夕に掛けて、市の有力者・専門家の5名ほどを訪ね歩き、根ほり葉ほり聞きまくって上記のことが判明しました。「400年前の石垣」という伝聞は、歴史の素人(市の有力者)からの話しで、それが誤報であり、それをそのまま信じた私の責任です。歴史事実の裏を取るのは専門家に確認する必要があります。今回の誤報に対してお詫び申し上げます。
2017-11-26
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
運慶展のような混雑した会場では、リュックサックは禁止すべきと思う。リュックサックを背負っていると、往々にして後ろの人への気遣いが疎かになる。今回もリュックサックを背負った人が、無神経に振り向いて私にリュックサックをぶつけた。その御仁は、それも気づかず向こうに行ってしまった。そんな人は仏を鑑賞する資格がないと思うのだが。
京都国立博物館での国宝展では、館内アナウンスでリュックサックを前で抱えるようにと注意があったが、それを守っている人は少なかった。
友との別れ
5年ほど前に、このリュックサックの件で40年来の友と別れる事件があった。私はリュックサックの意見を友に伝えたのだが、友はリュックサックの利点を持論として滔々と展開した。問題は、その持論が正しいかどうかではなく、相手がどう思うかである。自己の意地ではなく、社会の意思がどうなのかである。その持論の正否は時代、環境、個人の思想で頻繁に変わる。その気配りのない人柄を見せつけられて、嫌気がさして別れる決断をした。今でも正しい決断であったと思う。最近のなんでも反対の野党や不倫政治家は、正論もどきの言い訳を滔々と展開するが、国民がどう思っているかには、考えが及ばない。その結果が先の総選挙の結果だと思う。
己が背負う業
己は永年生きてきて、多くの業を抱え背負っている。前に抱えた業はわかるが、背負った業は自分では見えない。それを教えてくれるのが、師であり友なのだ。その声を真摯に聴かないと人生は開かれない。芥川龍之介作の「蜘蛛の糸」で己の下にぶら下がってきたのは罪人ではなく、己が背負う業なのだ。それを軽くしない限り、天が授ける幸運の糸はすぐ切れてしまう。それを再確認させて頂いた運慶展であった。
2017-11-24
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角熟
人は人を目指して、人となる。人は神や佛を目指してはならない。人を救うのは、人であり神佛ではない。己の心に巣くう鬼を、別の慈佛が見守り、己を救う。それが悟りの世界である。邪悪な鬼心と清らかな佛心の両方があり、その二つの鬼佛の自制レベルを高める修行が、人間の成長である。
人は精神面と知識面の二つの世界を持つ。それが人間の幅である。精神面の浄化と技術面の両方の成長を目指して修行をするのが、人間の修行である。人が完全無欠の人間になってしまったら、「人でなし」になってしまう。それは、神であり「成佛」である。人は角張った欠点を抱えたままでよい。角のある欠点を補う長所を伸ばすのが、正しい成長である。それが「角熟」で、そうなれば欠点が人間味となる。人は角張っていてよい。角が柔らかであればよいのだ。
図1 人の成長
曼陀羅
「成佛」の姿である大日如来は、曼荼羅の中心に位置して、回りの菩薩がそれを取り囲んでいる。曼荼羅とは、サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は「本質、中心、真髄などを持つもの」を表し、佛教では佛の悟りとその世界を意味する。特に密教においては、聖域、佛の悟りの境地、世界観などを佛像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表した図をいう。
図2 東寺講堂 立体曼陀羅配置図
東寺弘法市HPより http://www.touji-ennichi.com/info/koudo_j1.htm
菩薩
菩薩とは成佛を目指す修行中の佛である。曼陀羅の世界には、天や邪鬼、阿修羅、菩薩が存在し、多くの佛が大日如来を支えている世界が現実の世界の象徴として存在する。すべて佛の姿の現れである。人の内なる心には、慈佛の心もあれば鬼の心もある。両方を兼ね備えて人である。片方だけの人はありえない。曼荼羅には、微笑みの金剛波羅密多菩薩と憤怒の不動明王が左右に配置されている。口を開いて一喝している増長天があれば、口を閉ざして睨んでいる広目天が陰陽の対で存在する。この世は全てプラスがあればマイナスがある。良いことばかりの世界など存在しない。地獄があってこそ極楽がある。地獄から極楽に向かう修行が菩薩行である。
立体曼荼羅
人の心を表した姿として佛像がある。弘法大師が京都の東寺講堂に、立体曼荼羅として人の心の世界が佛像を介して再現された。高野山の根本大塔の内部にも同じ立体曼荼羅が極彩色で再現されている。己は曼荼羅の世界で、何処に位置するのか、それが問われている。内部は撮影禁止なので、ご自身の目でご覧になることをお勧めします。または図録か画像検索で参照してください。
図3 京都 東寺 講堂
図4 高野山 根本大塔
2017-11-22
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「運慶様は神様です」?
日本の佛像彫刻界には運慶をネタにしてメシを食べている人たちがいる。その人たちにとって「運慶様は神様です」である。だから、絶対に批判、悪口は言わない。その人たちが解説する運慶評には、「運慶佛は国宝の佛像だ」との色眼鏡があり、「運慶様は神様です」との固定観念があるので、それを打破して素直な目で運慶佛を見ないと、真の運慶像は見えてこない。
佛像造りの素人の私から見て、今回の運慶展で見た運慶作の佛像の造形で、ダイヤ、衣、邪鬼、手相、足元、の造りに、違和感を覚えた。
ダイヤさん
ダイヤとは台屋さんのことで、佛像を支える台の模様を彫る佛師である。当時の佛師の集団の中で、台だけを作る専門家がいたかどうかは定かでない。多分、鎌倉時代は、運慶が佛像本体から光背、台までの全てを一人で作っていたと推定される。一人で佛像の全てを彫るのは大変である。今は佛像造りの工房として、各部品が分業で、佛像造りが行われ、台屋さんという佛師が佛像を載せる台を製作している。その彫り方は精緻を極める。現代のダイヤさんの作品と比べると、運慶作の台の彫りが荒いと感じてしまう。
私も、30年ほど前に、佛像彫刻の通信教育を申し込み、その教材を入手して取り組んだことがある。その最初の課題が、台に彫る模様彫りであった。その後、本業が忙しくなり、佛像彫刻どころではなくなってしまった。また素人が手に負えるものではないことも悟り、佛像は買うものと納得した。
邪鬼の意味づけ
四天王に踏みつけられている運慶作の邪鬼の造りがあまりの貧相なのである。高野山に納佛された松本明慶大佛師作の邪気と比べると、邪気の位置づけとその解釈の差とその出来栄えが違うのである。運慶作の邪気の貧相さは、運慶の解説者は誰も口を閉ざして言わない。言えばその業界から「殺される」とのうわさもあるとか。「運慶様は神様です」が業界の掟であるそうだ。そういった事例は、世には多いもの。そういう洗脳教育を受けていては、芸術品を見る眼が養えまい。運慶展の入場者数は10月24日には20万人、11月14日に40万人を超えたそうで、それから推定すると11月26日の最終日には、50万人を超えると推定される。多くの人は、「運慶様は神様です」という洗脳教育をされて展覧会を見学していると言っても良いだろう。
その四天王に踏む付けられている邪鬼を、松本明慶師は四天王を支える脇役に昇格させた。邪鬼は誰でもない、己の心の中に住む鬼である。劣等感、妬み心、怒りの心の象徴である。それを抑えて人生の晴れ舞台に立つのが人間である。その前に、己が脇役として主役を下から支える。立派な役である。それを松本明慶師は、高野山に納佛された四天王・広目天と増長天を支える邪鬼に表現した。岩田明彩師の描く邪鬼の眼は輝いている。運慶の時代に生まれた邪鬼の像と隔絶の差である。
手相
運慶作の阿弥陀佛の手相を見て、考えてしまった。その手相に運命戦が無かったのだ。運命線がない人とは、そういう運命とか宿命に無頓着であると手相学ではいう。それに対して明慶師が制作した佛像では、運命線が真っ直ぐに伸びている手相で表現されている。手相までを研究して、佛像を作る松本明慶師のこだわりである。
私も若い頃の一時期、落ち込んで運命学、人相、手相に凝ったことがある。その時に学んだ知識である。それの知識での見解である。
目の視線
運慶作の佛像で、目の視線の先が異様な作品がある。その視線では武の佛像として佛敵に対して、構えがおかしいと感じてしまった。
源頼朝用の佛像造りのレベル
運慶は鎌倉武士の代表・源頼朝より佛像造りを依頼され、多くの佛像を納佛している。その佛像のレベルが、奈良のお寺から依頼された佛像のレベルと差があるのである。運慶は、所詮、戦いには長けても佛像関係には教養の薄い武士に対して、すこし低いレベルの細工で対応したようだ。それが四天王像等の戦う佛像造りに現れている。少し荒い細工の彫刻が目に付く。
足元の造形
運慶の佛像の足元の表現がのっぺらぼうなのだ。運慶の子の康弁作の天燈鬼立像と龍燈鬼立像の鬼の足は、血管と筋肉の盛り上がりが生々しく表現されている。それと比較すると、どうしても運慶作の佛像の足元の造形が見すぼらしいのだ。それが時代と伝統の進化なのだろう。佛像の足元には、靴を履いている佛像もあるが、その靴の表面の彫刻が簡単なのである。
彩色塗装
四天王の造形は素晴らしいが、当時の色彩をそのままにしてあるので、かえって塗装が剥げた部分が顔の造形を異様な姿に映している。全て取ってしまった方が、造形の美が映えて、見栄えはすると思う。家の障子や寺院の柱の朱でも、時代が代われば塗りなおすもの。そのままにして展示がよいのか疑問に思う。
佛像の衣の表現
童子の佛像の手が衣を握りしめて、その先が絞られた状態の表現で、少し不自然で違和感のある造形を発見した。まだまだ運慶の技術が成熟途中の作品と観察をした。運慶は天才かもしれないが、全ての作品が完璧な作品ではあるまい。天才ピカソも、生涯に7万点ほどの油絵を残しているが、傑作も多いが駄作も多い。どんな天才でも、作る作品が全て傑作というわけではない。それを踏まえて観察しないと、全てに絶賛のヨイショの鑑識眼ゼロの目になってしまう。
情報という付加価値
運慶の佛像は古典としての存在価値がある。あの鎌倉時代に、新しい付加価値を佛像に創造したことにある。それを今と同じ価値観で見ると違和感を覚える。あくあまでも古典としての佛像である。文明が進化するように、佛像も時代の技術進歩にあわせて、進化する。
昔の情報網から得られた知識で佛像を創造するのと、世界の彫刻美術の情報と加工技術の粋を研究した佛像彫刻品のレベルが同じであるはずがない。佛像を見る眼、作る技術は進化している。運慶作の佛像は、あくまで800年前の鎌倉時代での佛像造りの傑作である。その価値と現在の評価価値は同じではない。また佛像を作る佛師の心の問題は別問題である。
図1 松本明慶師作の佛台
図2 松本明慶師作の邪鬼(高野山納佛) 2014年10月8日撮影
図3 松本明慶師作の邪鬼と四天王の足元(高野山納佛)
松本工房にて 2014年10月8日撮影
2017-11-22
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。
没落への道とは、節約と称して使うべき金を使わず、未来への投資をせず、知恵なき貧者の歩む道。人間の尊厳性に関する金までもケチり、整理・整頓・清潔・清掃のできない金の使い方で、行政が非効率、不潔、下品になり無駄ばかり。あげくの果てにドローン墜落人身事故で、責任を全て業者に押し付ける非道ぶりに落ちぶれる。大垣市の事例は、貧乏物語。
繁栄への道とは、知恵を使って無駄を省き、浮いた金で未来に投資するのが、知恵ある富者の歩む道。無駄を省いて使うべき金を、ドンと使う。ますます金持ちになる。その事例が、世界で名古屋より有名になった豊田市物語。
本件を自分の生き方の反面教師として、自分の人生を見直したい。
2017-11-22
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一円が集まり五円となる。一縁が集まり五縁となり、ご縁となる。一発勝負で宝くじのような縁を漁って歩いても、却って身の毒となる。一円、されど一円である。一縁を大事にする心構えが多くのご縁を頂くことになるのを65の年輪を重ねて、7世代の家系図を作って実感した。宝くじに当たって不幸になった人は多い。家の財産を独り占めにするのは宝くじにあたるようなもの。その結果として、家を衰退させた親族も多い。小さな器に、溢れんばかりのご縁、財宝を入れても器が破綻するかこぼれるだけである。器以上には水は入らない。溢れた水は凶器となる。まず己の器作りから、ご縁は始まる。
自分創り
己の器作りとは、自分の人間性、人格の育成である。それをせずに、金儲けや、地位を先に求めるから、人生で失敗する。己の能力以上に地位を求めると、多くに人に迷惑をかける。学歴が高い、頭がいい(記憶力が高い)のを、人間性・実務能力が高いと勘違いすると、失敗する。人生経営で必要な能力は苦い経験から生まれる智慧である。全ての運命に、順う素直さである。上に立つ人間で必要な能力は、できない己をサポートしてくれる人材の発見と活用である。自分一人がガンバっても成果には限界がある。人のご縁と神仏の加護がないと、いくら才能やお金に恵まれても、世の中で押しつぶされる。それが我が家のお墓つくりの過程と我が家系図と大垣市政を俯瞰して得た私の智慧である。
涙と血の汗の経験
日本の最高学府を出て、有名大商社に就職したが、わずか6年で退職して地元に帰った人がいる。我慢、忍耐が足りないのか、実務で使いものにならなかったのかである。
入社6年目と言えば、やっと仕事を覚えて、仕事と会社の状況の回りが見えてくる時期である。私が主任に昇格したのは、やっと11年目であった。私が今にして、前職に就職して良かったと思うのは、大きな会社であったので、色んな部署の人と付き合えたことだ。技術部と研究開発部に配属されたので、会社の最先端の情報と多くの人に出会えた。海外経験もさせてもらえた。それが大企業で長く勤めたメリットであったと回想できる。
それが6年間しか大企業で我慢ができない性格では、経営者として使い物にならないのではないか。その大事な経験という財産を放棄して、実務経験が不十分のまま、地元地方都市で東京の最高学府を出たというブランドだけで、市商工会等でちやほやされたのが、彼の不幸の始まりであったようだ。苦労もせず、若くして高台に登るというのは、人生三大不幸の一つである。市商工会等は、所詮サロン活動で経営のままごと遊びの世界である。涙と血の汗とを流す生々しい実務経営の勉強は、経営者仲間のお遊びサロン活動では経験できまい。
京セラの創業者稲盛和夫氏や松下幸之助翁は、人生の辛酸を舐めて経営の経験を積んだ。仲良しクラブのサロン活動をして会社を大きくしたのではない。同じ汗と血の混じった涙を流した仲間が稲盛氏や幸之助翁を助けて、会社を大きくした。失敗や屈辱が、二人を大きくした。地方都市のサロンでちやほやされた人間には、理解できない経験である。
地方の名人といわれた剣士でも、江戸の町道場主と勝負をすれば、簡単に討たれるという。それが地方では、多くの剣士との勝負の経験が積めないからだ。どんな分野でも、多くの血の滲む経験が無くては、名人にはなれない。
名経営者の墓標
鉄鋼の町、ピッツバーグに眠る鉄鋼王カーネギーの墓石に刻まれた言葉;
Here lies one who knew how to get around him men who were cleverer than himself.
「己より優れた部下を持ち、共に働ける技を知れる者 ここに眠る」
Andrew Canegie (1835-1919)
アメリカの実業家。英国スコットランドからの貧しい移民で、線路工夫から身を起こす。後に世界最大の鉄鋼会社となるユナッテッド・スチールを創業する。アメリカ資本主義発展期を代表する企業家、鉄鋼王とも称される。晩年、ニューヨークに音楽殿堂といわれるカーネギーホールを建設するなど公共事業に力を注いだ。
私は、いつの日かカーネギーの墓所で、彼の魂の謦咳に接したいと思う。
2017-11-21
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