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2018年5月 5日 (土)

日下部鳴鶴書の伝承者

 馬場恵峰先生は、原田観峰師の一番弟子である。原田観峰師(1911~1995)は日本習字の創立者である。原田観峰師は、窯元12代目の馬場恵峰師(当時43歳)を見込んで、窯元当主を廃業させ、京都に単身赴任で呼び寄せて一番弟子として修行をさせた(昭和45年)。それで今の馬場恵峰先生がある。

 当時20名の窯元の社長の身から、修行の弟子扱いになり、給与はうん分の一の7万円に急降下である。ボーナス無し、深夜まで働いても残業手当なしの生活である。週に二回は徹夜の日々である。当時、原田観峰師は独裁者で、口答えは許されず、多くの同僚が辞めたという。今でいうブラック企業並みである。だから恵峰師は、京都では良い思い出がないという。それ以来、師は京都には足を運んでいない。当時、先生が、京都から九州に帰ると旅費だけで3万円が飛んでしまう。だから2年間、帰郷もせず京都で頑張られたが、体を壊して九州に帰られた。その間、三根子先生が九州で5人の子供を抱えて、書道を教えながら家庭の生活を支えられた。頭が下がる。多くの塗炭に満ちた苦労があり、今の恵峰師がある。単に字が上手かったから、今の書道の腕が出来上がった訳ではない。

 ほぼ同じ時期(昭和48年)、私は前職のトヨタ系の会社に入社して、初任給は7万6千円、残業代も多大で賞与もありの生活である。先生のそれと比較すると自分の恵まれかたに対して、先生に肩身が狭い。

 

原田観峰師の功績

 原田観峰師は、明治44(1911)年3月21日、福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)に生まれる。幼少期より筆をとり、卓越した書の才能をすでに見せ、勉学も優秀であったという。明治の三筆と言われた日下部鳴鶴の書を学んで、日本習字の元となる字体を作った。昭和28(1953)年、同地で西日本書道通信学会(公益財団法人日本習字教育財団の前身)を創立し、「正しい文字・美しい文字」の普及活動を展開した。日下部鳴鶴の書が、芸術の字ではなく、誰でもどこでも、何時でも読める字を書いてきた。だから原田観峰師の字もだれでも読める明快な字である。原田観峰師は、平成7(1995)年に亡くなるまで、多くの受講者のため、手本執筆と講習会等に奔走し、その半生を書道教育に尽くした。

 

弟子の相伝

 日下部鳴鶴は馬場恵峰先生の宗師に当たる。だから、恵峰先生がよく「俺の字は、日下部鳴鶴の字とそっくりだろう」という。2018年4月12日、馬場恵峰師を彦根市の長松院にご案内して、井伊直政公出陣の掛け軸をお見せしたら、揮毫された日下部鳴鶴の字を示して、「「英」と「春」の字は俺(恵峰先生)の字とそっくりだろう」と説明された。それが師弟関係での字の相伝だという。確かに、私の家にある馬場恵峰先生の掛け軸の字とそっくりである。弟子の相伝を納得した。

1p1100350  馬場恵峰師 長松院にて  2018年4月12日

2p1060924 日下部鳴鶴書  「東作」は若い頃の雅号

31img_4428 馬場恵峰書 「英」に注目

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 馬場恵峰書 「春」に注目

 

2018-05-05

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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