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2017年11月

2017年11月 2日 (木)

明徳を観る

 信心深い人が、必ずしも徳がある人ではないことを知った。信心深いのは、己の利益のための方便であったのを発見したのは、良き学びであった。オウム真理教の教徒や新興宗教団体の信者も、信心深かったが、それが利己的な妄信であったことに思い至った。

 

明徳の露見

 日本の未来を背負う子供達にための音楽会を河村先生が企画をされて、お手伝いとして私がその協賛金のお願いをするため、あるお店の主人を訪問した。それがケンモホロロに断られてしまった。お願いしに行ったのにはワケがあり、近直に息子のために数百万円のホンダのスポーツカーを買い与え、自身はこの夏(2015年)に欧州に、100万円の予算で10日間の写真撮影旅行に行くのである。裕福な家であるので、家族のためにお金を使うのは良いことだが、その1%でも日本の子供の未来のために、お金を出してもらえば徳になると思ったからだ。私はそのお店の常連で、贈答品を含め年間でかなりの額の商品を購入している。しかし、私に人を見る目がなく、今回空振りをした。彼が信心深いのは、あくまで自分の幸せのためであり、世の人のためではないことを発見した。利己のためだけの信心しかなく、義理やご縁を大事にしない人と付き合うと、当方もその悪い影響を被ることになると思い、以後、付き合いとそのお店で購入することを止めた。

 

佛の目で人を観る

 自分が佛様の立場になって観ると、どんな人に幸せを授けたいかが分かる気がしてきた。魂の浄化をした人で、世のため人のために尽くす人にこそ、佛縁が授かるのではと思う。そんな人には、倍返しでご恩のお返しをしたいと思う。我が家の家系図を見て、遺産の独占や、教育の機会を独占した結果として、他の兄弟を戦争に送り出すことになった家族の悲惨さが、顕在化している。佛様は50年単位でその閻魔帳の収支決算をされているようだ。

 

お陰様のご縁と魂の成長

 明徳とは、己に備わった徳に光(ご縁)が当てられて、その徳が明らかになることである。多くの人が光を当てられるご縁に出会っても、その縁を遠ざけて、光らせずに人生を送る人が多い。まるでブラックホールのように、光を吸収するだけである。それで幸せにしてくださいでは理に合わない。「お陰様」とは、真っ暗な宇宙の56億7千万年後の未来から、佛様が照らす光明がご縁として届き、陰が出来てその真の姿が浮かび上がることである。光に当てられなければ、陰はできない。真っ暗なままである。その光とは出会ったご縁である。そのご縁とは、その人ならば、と期待をして訪ね来るご縁である。その期待を裏切るのは、裏切り者である。怖いのは、そのご縁が黙って去っていくこと。二度とは帰ってこない。魂の成長とは、全ての人を許す清濁併せ呑む佛心になることであるが、まだ私はそこまで達していないことが分かったのは成長である。

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2017-11-02

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年11月 1日 (水)

人生の奥の細道を歩く

 2010年8月末に37年5ヵ月間を勤めた会社を定年退職し、故郷の岐阜県大垣市(県下で岐阜市に次ぐ第二の都市、人口16万人)に活動拠点を移してから、朝の日課として「四季の路」を現在まで歩き続けていた。最初の4年間は、雨の日も風の日も欠かさず歩いていた。松尾芭蕉が半年で踏破(1日13 km)した奥の細道の2400kmを、私は毎日5km で1年半かけて達成した。現在は(2015年)、時間帯を夕刻に変えて、雨の日を除いて毎日歩いている。

 「四季の路」は、大垣市が俳聖松尾芭蕉の『奥の細道』の旅で詠まれた俳句の碑を市内中心部の水門川沿いに建立し、「ミニ奥の細道」として整備した遊歩道である。早朝の人通りのまばらな街を横切り、川沿いの静寂な散歩道を歩いて、考えたことは、今までの人生の歩みと今後の35年(予定)の道のりである。60年間の総括として人生を振り返ると、人生は旅だなぁとつくづくと感慨にふけさせられる。『奥の細道』の冒頭の一節が自分の人生に重なる。

 

人生は托鉢の旅

 人生とは空の器を持って、僧が托鉢をする修行と同じである。器を上向けに捧げて歩かない限り、ご縁は入ってこない。来る日も来る日も、雨の日も風の日も同じ道を歩く。同じ道を歩いていても出会う縁は毎日違う。その前を毎日通過しても、4年目でしか実が結ばないご縁もある。どれだけご縁に対して意識がそこに向くかで、そのご縁との出逢いがある。

 

人生は縁を求める旅

 人生の旅は、縁を求めて歩く旅である。用があるのではない、用を作りに出かける旅でもある。犬も歩けば棒に当たる。歩かなければ、ご縁に出会でない。多く出会いの中から、真珠の出会いが生まれる。無駄な出会いがあるから、真の出会いがある。散歩の途中にある恒久平和の碑の裏側に記載された父の名前は、4年間、毎日その横を通っても気が付かなかった。同じように、気づかずに通り過ぎていったご縁がどれほどあることか。

 半生を振り返り、遭遇した多様な縁を見つめる時、よくぞ無事にこの歳まで生きてきたかとの思いにふけさせられる。無事にたどり着けなかった仲間がなんと多いことか。そのビジネス戦士の戦死の現実を見ると愕然となる。

 

「全てを受け入れる」を悟る旅

 水門川の澄んだ清流を観ながら、早朝の水辺を歩くと大変清清しく、気持ちのよさは格別である。水門川の川底まで澄んだ水の流れは、気候によっては泥水を含んで濁り、日によっては大量のゴミが流れてきて、日々その様相を変えるのも、人生を感じる。「海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり(修証義)」という言葉がよく思い浮かぶ。来る縁を拒否するから、軋轢を生じさせる。相手を拒否せず、全てを受け入れ、それを己に同化させればよいのだ。そうすれば時間がかかっても、最後は己のものになる。その悟りを得るために、60年という長い時間がかかった。それを体得するのが人生である。

 

旅の終わり

 どんな旅にも終わりがある。95歳まで歩くと決意していても、一年前から腰を痛めて、この1年間は歩けなかった(2017年)。いくら歩こうと言う意思があっても、加齢による脊椎の骨の老化で、歩けなくなったのだ。日暮れて道遠し、を痛感させられた。「命には限りがある」ことを思い知らされたこの1年間であった。元気な時は、それをすっかり忘れていた。最近やっと痛みも和らぎ、ぼちぼちと散歩を再開した。己の命の限界を見据えて、人生計画で列挙した夢は早く実現しようと決意を新たにした。それが今回の大きな学びである。

 

図1~4 「四季の路」の風景

図5 四季の路の地図(大垣市作成 「四季の路」道中に掲示)

図6 馬場恵峰書「奥の細道」冒頭の書

  「馬場恵峰書『奥の細道全集』」より(「2017年12月発刊予定」)

 

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2017-11-01

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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機内映像がローマ帝国終末を彷彿とさせる

 私は年に12回ほど、恵峰師書の写真撮影と通院のため、中部国際空港と長崎間を航空機で往復している。その航空機の機内放映の内容が、退廃したローマ時代末期の飽食の様を見るようで辛い。ローマ帝国の滅亡は、外敵の侵略のためではない。ローマ人が退廃して内部から崩壊したのだ。飽食に明け暮れ、飽食を宣伝し、TVグルメ番組が幅を利かす日本の現状は、ローマ時代末期の飽食の様と同じではないのか。日本は金儲け主義の企業が、日本人を衰退の道に追いやっている。航空会社の企業使命は、乗客を安全・安心・快適に目的地に運ぶこと。この機内放映行為は会社理念に反している。現在は、安全・安心・不快適である。これは現在のテレビ番組も同じである。

 

痴呆番組を見せる拷問

 機内放送の映像では、食べるシーンばかりのCM映像を何度も何度も流す。僅か小一時間内に、多い時は10~20回も、である。「うまい、うまい!」といって恍惚の表情を浮かべる痴呆的な顔の映像を、何度も繰り返し見せるのは映像暴力である。見るに耐えられず不愉快になる。機内で身動きが取れないので、目に飛び込んでくるのを拒否もできない。身動きもできず、見たくないものを強引に見せられるのは拷問である。新幹線や他の乗り物では、こんな拷問はない。テレビなら消せばよいが機内放送では、それもできない。海外の航空会社でもこんな拷問はない。いつから日本は、人の食べる姿を見せつける下品な会社が跋扈する国に成り下がったのだろうか。

 

金儲けの果ての姿

 最近の日本は隣国のように段々と下品になってきている。日本人の品格下落の助長を日本を代表する航空会社がやっている。金儲け万能の会社と思わざるを得ない。日本人は食いすぎで病気になり、30年前は10兆円であった医療費が40兆円になり、その負担を国民に強いている。その一因が、あまりに多い食物関係、特にファーストフード・清涼飲料、加工食品関係のTVのCMではないだろうか。その延長線上の病状が、肥満、ガン、認知症患者の増加である。金儲け主義のグローバル経済主義の果てが、1%の富裕層と99%の貧困層の格差社会への転落なのだ。テレビという洗脳教育兵器の恐ろしさに、目が覚めないわが国民が情けない。最近は、そのテレビも偏向報道、フェイクニュースを平気で流す媒体にまで堕落した。そのマスコミは、良識から指摘があってもそれに対して居直る恥知らずである。早く我々が目を覚まさないと日本が滅亡する。

 

サブリミナル効果という犯罪

 映画のフレームの中にポップコーン等のジャックフードの画像を挿入すると、映画放映の休息時間に、無性にその食べ物を食べたくなるのをサブリミナル効果という。それは法律で禁止された手段である。それと同じことを、堂々と機内放送で実行しているのが現在の国内航空会社である。テレビなら消せばよいが、機内では如何ともしようがない。中部国際空港から長崎への便は限定される。客は航空会社を選べない。これは、陰でこそこそするサブリミナル効果どころではなく、堂々としたメインリミナル効果である。これは暴力である。

 教養の高い人は公衆の面前で、生理現象である食べる姿は見せない。痴呆的な表情で食べ続ける姿を、「金儲けのため」に乗客に見せる企業行動は狂気である。そのために高い航空運賃を払っているのではない。繰り返し飽食の映像の放映は洗脳教育の一種で、日本人の愚民化に手を貸している。これは日本を代表する航空会社の企業ブランド毀損悲劇の事例である。経営診断での興味深い「失敗事例」にはなる。私は今、執筆中の本の事例に、本件を追加する予定をしている。

 

サブリミナル効果

 1900年、米国の心理学教授Dunlapは瞬間的に見せるshadowがMüller-Lyer illusionの線の長さの判断に影響する、と述べた。20世紀半ばにはマーケティング業者が広告にその技術を用い始めた。1973年には、ゲーム「Hūsker Dū?」の宣伝にサブリミナル刺激が用いられ、それが使われたという事実がウィルソン・ブライアン・キイの著書で指摘されたことで、米国連邦通信委員会で公聴会が開かれ、サブリミナル広告は禁止されることになった。日本では1995年に日本放送協会(NHK)が、1999年に日本民間放送連盟が、それぞれの番組放送基準でサブリミナル的表現方法を禁止することを明文化した。

 現在、映画やテレビ放送などではほとんどの場合、使用を禁止されている。

 当初は心理学、知覚心理学だけの領域であったが、現在は広告研究、感情研究、社会心理学、臨床心理学など幅広く様々な関心から研究されている。

 1957年9月から6週間にわたり、市場調査業者のJames M. Vicaryは、ニュージャージー州フォートリーの映画館で映画「ピクニック」の上映中に"実験"を行なったとされている。ヴィカリによると、映画が映写されているスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写(フィルムのフレームを差し替えたと信じている人が多いが誤解である)したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことであった。しかし、ヴィカリは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、この実験の内容と結果についての論文を発表しなかった。

   この項、wikipediaより編集

 

図1 機内のどこからもで食べるシーンを見せつけられる。

   嫌やでも目に飛び込んでくる。拷問である。

図2~7 食べるシーンが繰り返し繰り返し放映される

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2017-11-01

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