i-修身 Feed

2019年11月28日 (木)

狂った世相、その真因と対策

 狂った食事が癌を誘発するように、狂った精神教育が、狂った人間を生み、それが狂った世相を生み出す。1960年頃、私が小学生の頃、下記の事件や世相はなかった。これは日本の戦後の精神教育が狂っているためだと私は思う。

 

真因

 全ての事象は、拝金主義、利己主義、グローバル経済主義が蔓延したためではないか。ホリエモンのように、全ては金で換算できるという人間が世に蔓延してきたためではないか。かれは株式分割という違法手法で金を儲け、それで失敗した投資家が自殺までしている。ホリエモンはそれに罪悪感を覚えていない。

 昔の精神教育が充実した日本を破壊する教育が戦後、蔓延した。太平洋戦争で、特攻、玉砕、徹底抗戦等で日本の恐ろしさを痛感した米国による日本精神破壊工作だと私は思う。アメリカも昔は豊かであったが、現代は精神が荒廃して自己中毒症に罹り、1%の富裕層が、99%の富を独占する格差社会に落ちぶれてしまった。その波が日本に押し寄せている。

 欧米の価値観に侵されて、日本人の持つ精神構造が、動物の脳に支配され争いしか起こさなくなった。「爬虫類の脳」が「足る知る」を忘れ、欲望のまま暴走し始めたのだ。DNAに刻まれた日本人の尊い精神構造を取り戻さないと、日本人は滅びる。

 

対策

 その対策で、日本には「修身」教育の復活が必要だと思う。見えない敵からの精神破壊工作を防ぐのが目覚めた人間の義務である。その抵抗をしないと日本は滅びる。私はその警鐘をこのブログで鳴らしている。その身近な危機が、小川敏の大垣市政である。このままでは大垣は滅びる。

 

狂った世相

 死刑になりたいから誰でもいいと無差別殺人事件が氾濫。

 親による子殺し

 子による親殺し

 若者による友人の残虐殺人

 2人に一人の癌患者(昔は癌は珍しかった)

 60歳以上は2割の認知症患者(昔は認知症は聞かなかった)

 1%の富裕層が、99%の富を独占。格差社会の実現

 ゲームに没頭する若者

 ゲーム作成者になることが、将来の若者の夢?

 引きこもり中年の増加

 パワハラの増加

 鬱病の増加

 スマホにかじりつく若者

 高学歴である高級官僚の汚職

 狂った野党、それを指示する狂ったサヨク国民

 狂ったマスコミ

 狂った食物をCMで垂れ流すテレビ

 食べ物を粗末にする番組の氾濫

 大食い大会を推奨するテレビ番組

 電車の中で本を読む人が激減。スマホばかり。

 隣国が狂って日本の安全保障が危機に瀕しているのに、それを報道せず、それから目を逸らすように愚劣な事件を大きく報道する日本のマスコミ。

 増税すれば、景気が悪くなるのが自明なのに増税に血道を上げる財務省。その理由は天下り先の確保である。そんなレベルの人間が高級官僚になり、堕ちてしまった。

 円安を喜ぶ経済官僚がのさばるようになった。円安とは日本が貧乏になること。経済が分からない人間が、経済を支配している。

 移民を入れれば、欧州のように将来、混乱が起きるのが必然なのに、保身のため移民を推し進める高級官僚。

 日本は世界屈指のやる気後進国に落ちぶれた。日本には熱意ある人が6%%しかいない。それは米国の5分の一以下。やる気のない社員は70%の割合で跋扈する。

 真面目に働くのが悪であるかのような教育体制、社会体制。

 休め、休めの大合唱。

 上司の叱咤激励をパワハラとして訴える社員の氾濫。

 働く目的を、「楽しい生活」に求める若者。

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馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」久志能幾研究所刊より

 2019-11-28 久志能幾研究所通信 No.1410  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月22日 (日)

大垣の地価下落は、大垣市長の無能経営が原因

市長の使命

 リーダ(社長、市長)の使命は、任された組織(企業、都市)の価値を上げること。組織(都市)の価値は下記で評価される。その評価値が減れば、付加価値も下がる。その評価は、企業では株価であり、都市では基準地価である。それは万人が評価する神のような評価である。いわば商売の神様からの通信簿である。己と言う人間も、その組織の経営のやり方で、世間から評価される。

 

組織の価値

 各都市の19年基準地価が発表された(2019年9月20日)。中部圏の主要な都市の中で、大垣市だけが地価下落である。他の主要都市はリニア景気で全て上昇である。大垣市長・小川敏氏の経営能力がない為である。それが、神の声として公開された。要は50年前のテストの成績(記憶力)が良かっただけで、経営能力のない人が大垣市の市長で君臨したため、大垣市が没落した。この50年で経済の価値観が変貌したのだから、現代に必要とされるトップの能力項目も変わった。

小川敏氏は市長として経営能力なし

 小川敏氏は時代に取り残された旧態依然たる化石のような人物である。その人物が市長の座に18年も居座るから、大垣市民が巻き添えで被害を受けた。地価が半分に暴落した。大垣市経済が没落した。子供たちへの教育投資が県下最低レベルとなった。それに対して小川敏市長は、都市の経営能力がなく、なす術がない。なにせ18年間も、連続で地価が下がり続けているが、間違った手を打ち続け、その悪手の反省もせず、それを恥じず、諫言を退け、市長の座に居座っている。

 

基準地価2年連続上昇、中部圏で上昇、下落の2局化

 岐阜市や多治見市、中津川市など利便性が良い都市の地価が上昇した。それに対して、大垣市だけは、18年間、連続で下落である。大垣市長の都市経営の無能さが数値に現れている。

 名古屋圏では、商業地が3.8%、名古屋市は7.5%、知立市は3.8%、刈谷市は3.4%、高山市は4.5%、の上昇である。大垣市だけが下落である。

大垣市の地価推移(2019年、2018年)

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上図は今年と昨年の基準地価。単位:一㎡当たり千円、2019年9月20日、日本経済新聞より

自分の価値

 人間を人間たらしめる要素として、本質的要素と付属的要素がある。本質的要素とは、徳性である。徳性とは、明るさ、清さ、人を愛す、人に尽くす、恩に報いる、誠実、正直、勤勉である。付属的要素とは、徳性の発露を助ける要素で、知識、知能、技能である。(安岡正篤著『人物を修める』より)

 付随的価値である知識力が高いだけで、若い時に自惚れて人生を歩むと、その後の人間的な成長が出来ない。いくら記憶力が良くても、高学歴でも、それは経営能力とは別の能力である。

 人は学び続けなければ、人間でなくなってしまう。学び続けないと、人間は、本質的な動物のレベルに堕ちてしまう。安岡正篤師の言葉である。人前でギネス水饅頭の共食いを自慢する人間に落ちぶれる。それは爬虫類の脳に支配された動物の行為である。だから全国で笑いものになる。

 大垣市長の小川敏氏は、付随的な要素の記憶力は良くても、人間として本質的な要素が劣ると言えるのではないか。人間的な学びをしていないのではないか。小川敏市長は18年間も市長に居座って、大垣市を没落させた。それを認識もせず、責任も感じず、18年間も無様な姿をさらしたのだから、残りの任期2年間で挽回など夢の夢。

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   「修身」のテキストより

 

企業価値の評価項目

 収益性

 安定性 

 将来性

 給与 

 働きやすさ

 

都市の価値の評価項目

 観光の魅力度

 工業の生産額(生産地としての魅力)

 商業の売上高(商売の魅力)

 住居の魅力(利便性)

 子育ての魅力

 小学中学校の教育体制

 日本遺産の魅力

 スポーツの魅力

 芸術の魅力

 グルメの魅力

  大垣市は全ての項目で落第となった。小川敏市政以前は良かった。

 

自分と言う「人間組織」の評価項目

 本質的要素 心の徳性

 付随的要素 知識、知能

 体の健康要素

  五臓六腑の支配者が己

  五臓六腑を作る37兆個の細胞の支配者が己

 心の健康要素

 

大垣市の地価推移(2001年以降)

 2001年の地価を100として2018年の地価は

  (公示地価、基準地価の総平均)2001年より小川敏氏が市長就任

 大垣市  49.5

 岐阜市  64.4

 一宮市  75.0

 名古屋市 145.1

 大府市  90.2

 刈谷市  107.2

 安城市  99.0

 岡崎市  94.3

 

        大垣市地価平均    前年比  変動率

2001年[平成13年]   12万4222円/m2  -7.98%  下落

2002年[平成14年]   10万8425円/m2  -10.10%  下落

2003年[平成15年]   9万6470円/m2   -9.65%  下落

2004年[平成16年]   8万3482円/m2   -8.56%  下落

2005年[平成17年]   7万3836円/m2    -7.04%  下落

2006年[平成18年]   7万2277円/m2    -4.20%  下落 

2007年[平成19年]   6万8535円/m2   -1.85%  下落

2008年[平成20年]   6万9942円/m2   -0.16%  下落

2009年[平成21年]   7万1687円/m2   -1.40%  下落

2010年[平成22年]   6万7237円/m2   -2.82%  下落

2011年[平成23年]   6万5702円/m2    -2.36%  下落

2012年[平成24年]   6万3941円/m2    -2.41%  下落

2013年[平成25年]   6万3216円/m2    -2.13%  下落

2014年[平成26年]   6万1898円/m2    -1.31%  下落

2015年[平成27年]   6万1495円/m2   -0.78%  下落

2016年[平成28年]   6万0585円/m2    -0.57%  下落

2017年[平成29年]   6万0692円/m2    -0.50%  下落

2018年[平成30年]   6万1540円/m2    -0.39%  下落

2019年[令和元年]    6万2036円/m2     -0.47% 下落

 大垣市の公示地価・基準地価マップ・坪単価 - 土地代データより 

 ※変動率は、各地点の変動率の平均となります。(平均地価の変動率ではありません)

  https://tochidai.info/gifu/ogaki/  

 

 

大垣市の経済の没落

 小川敏市長が、自己満足の無能な作業を18年間も続けるので、

 大垣市の平均地価が50.2%減った。

 大垣市の人口密度が58.3%減った。

 小売商店数は35.7%も減った。

 (2018年には46.7%も減ったと推定(回帰分析))

 小売商店従業員は30.4%が消えた。

 (2018年には39.8%が消えたと推定(回帰分析))

 教育・学習支援の従業員の58.8%が消えた。(8年間で)

 小売業商品販売額が16.6%減った。

 (2018年には21.7%も減ったと推定(回帰分析))

  (以上は2001年~2014年 大垣商工会議所のデータ)

20190821

各市の教育費比較

 大垣市の教育は県下最低レベル

          一人当り予算   児童生徒数 

         千円  大垣100で   人

 多治見市    735    158    8,862  

 岐阜市     529    114    32,074  

 可児市     517    111    8,352   

 大垣市     465    100    14,400  

 各務ヶ原市   445     96    12,525   

 刈谷市(愛知県)918    197    11,120  

 

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 大垣市の救世主よ、出でて大垣を救いたまえ。

 

2019-09-22   久志能幾研究所通信No.1345 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月12日 (木)

人間性分析 2/2  小川敏市長の分析

人間の徳性

 人間を人間たらしめる要素として、本質的要素付属的要素がある。

 本質的要素とは、徳性である。徳性とは、明るさ、清さ、人を愛す、人に尽くす、恩に報いる、誠実、正直、勤勉である。付属的要素とは、徳性の発露を助ける要素で、知識、知能、技能である。(安岡正篤著『人物を修める』より

 

生きる目的

 人は、人間として何のために生きるのか。自分として(組織)、吾として(神仏)、私として(利己)、どのスタンスで生きるかで、その生きざまが変わる。それが己の価値観である。組織の一員として生きるなら、組織の為に価値あるものを組織に提供する人生となる。神仏に帰依するなら人類に対する働きとなる。利己に生きるなら畜生の人生となる。

 

大村智博士の人生

 大村智博士は、ノーベル賞を取ろうとして研究をしたわけではない。世のために儲かるはずのない微生物を研究者として45年間研究したら、100種以上のワクチンを発見でき、結果として人類に貢献できるワクチンが発見できただけである。世界中で年間3億人以上の人々が感染しながら、それまで治療薬のなかった疥癬症に対するワクチンを開発して、年間数百万人を失明の危機から救っている。それが評価されてノーベル賞を受賞された。

 

田中角栄の人生

 田中角栄は、学歴があったわけではない。学歴がなく苦労したから、人の機微を熟知して、組織のリーダーとして人の心を掴んだ。組織の中で生きる術を駆使して首相に上り詰めた。田中角栄元首相は「人は努力をすれば、必ず成功する。成功しても、それをひがむ人間がいることに注意せよ」と諭している。苦労した人しか言えない言葉である「成功しても、決して僻む側の人間になってはならない」とも言う。「自分」の人生に生きた人の言葉である。

 

菅直人の人生

 菅直人首相(当時)は、福島原発事故の際、原発の知識は東工大卒として、俺が一番だと思い、福島原発事故の現場に乗り込んで、「イラカン」の一番悪い状況を発揮して、指揮系統を大混乱させて、福島原発事故を大混乱の危機に陥らせた。その傲慢さが、彼に史上最低の首相との烙印を押した。「私」として、自己満足を優先としたから、無様な結果となった。

 

小川敏氏の人生

 小川敏市長の今までの行動を観察するに、「私」が前面に出た行動が目につく。彼は付属的要素の知識の面だけは秀でているが、徳性が秀でているとはとても思えない。そうでない事例だけは、数多く目にした。智慧がある行動がない。

 常盤神社での居眠り不敬、濃飛護国神社前でのギネス水饅頭の共食い行事で英霊への無礼、食べ物を粗末にしたギネス水饅頭の共食いの行事を含めて、彼はハチャメチャの大垣市制100周年記念行事で、無意味な100の数に拘り3億5千万円の市民税を浪費して、殿のご乱行として強引に100の行事を実施した。自己防衛目的で、その公金の使用用途をマル秘扱いにできる条令の制定等もした。

 岐阜新聞、中日新聞でも、人を押しのけて過剰に新聞紙上に顔を出している。天皇陛下から叙勲を受けた人を押しのけてまでして、自分が中央になる写真撮影を強制する。

 自分を崇める人間以外は、小川敏市長は相手にしないとも噂に聞く。なんでも自分が前面に出ないと収まらない性格では、組織として、人に任せる運営ができない。それでは人が育たない。まるで功名心の権化である。

 本来、裏方であるべき人が、表舞台にしゃしゃり出て大垣市長として活動したのが、大垣市の不幸であった。彼ほど市民から愛されない無能市長も珍しい。だから大垣駅前商店街が崩壊した。大垣市の地価が半値以下に暴落して、都市として没落した。未来を支える大垣の子供達の教育体制が崩壊寸前である。

 

事例

 下図は藍綬褒章を受章された木曽義尚さんと緑綬褒章を受章された藤井和子さんが、ノーネクタイの大垣市長をど真ん中にしている写真である。まるで市長が章を拝受したように見える。こういう類の写真が地方紙に頻繁に掲載される。小川敏市長の「私」が突出した行動である。大垣市民として恥ずかしい。こんな写真を掲載することを恥とも思わない地方紙がのさばっているのが恥ずかしい。子供の教育上で道徳が破壊される。

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  2018年5月30日、岐阜新聞西濃地域欄

 

小川敏氏の経歴

 彼の過去を見ると、利己として、何が何でも東大出でなければ、気が済まなかったようだ。1969年、安田講堂事件が起きて東大入試が中止になった年、彼は京大に合格した。しかし彼は翌年、東大に入りなおしている。東大卒業後、超一流の伊藤忠商事に入社したが、わずか6年で退社して、超零細企業の家業を継いでいる。何が哀しくて、東大卒として将来が約束されたはずの超一流の商社を辞めねばならかったのだ。

 伊藤忠商事の初代の伊藤忠兵衛は、典型的な近江商人で、その経営哲学「三方よし」の精神で、事業を発展させた。「三方よし」とは「売り手よし」、「買い手よし」、「世間よし」である。「世間よし」は、幕藩時代に、近江商人がその出先で地域の経済に貢献し、「世間よし」として経済活動が許されたことに起因する。それは「企業は株主との間でバランスの取れた事業を行うべき」との現代ビジネスの源流ともいえる。(近江商人博物館資料より)

 初代忠兵衛の座右の銘は「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」で、高い道徳性と精神性が現れている。それこそ「自分」「吾」の思想である。

 その経営理念が伊藤忠商事に浸透している。それと小川敏氏の「私」が色濃い考え方と合わなかったのではないか。推察すると、伊藤忠商事の退社は性格的に伊藤忠商事の社風に合わず、退社せざるを得なくなったか、性格が災いして閑職に追いやられて、嫌気がさして辞めたと推定される。

 

大垣に帰郷後の小川敏氏

 その後の経過を見ると、小川敏氏が家業経営に没頭したとは思えず、家業はその後、小川敏氏なしで経営されている。その家業は今でも超零細企業の状態である。なぜ東大を出た小川敏氏が、家業を発展させられなかったのか。だから小川敏氏に経営能力があるとは思えない。高学歴と経営能力とは別である。大垣市が没落したのも、経営能力のない小川敏氏が市政の舵を取ったのが原因である。たまたま2001年、前市長の小倉満氏が現役で亡くなられて、小川敏氏が選挙に出たのが、大垣の運の暗転であったようだ。

 

小川敏氏の総合評価

 小川敏氏は、裏方の事務局長としてなら優秀である。しかし組織を統率する政治家としては、不向きであると私は思う。一番の問題は、それを本人が自覚していないこと。謙虚でなければ、徳は現れない。傲慢では、健全な組織のリーダーは務まらない。

 

2019-09-12   久志能幾研究所通信No.1336 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月11日 (水)

人間性分析 1/2  総論

 人間性とは、人生と組織の運命を左右する。その理論をもとに、田中角栄、菅直人、大村智博士、小川敏現大垣市長を実例で検証する。

 

自分とは何か(組織論)

 「我」とは稲(禾)を刃先がぎざぎざしたほこ(戈)で刈って、自分のものにしている様を表わす。「私」とは稲(禾)を腕(ム)で自分のものとして抱える姿を表している。「自分」とは、何者かによって生かされている全体の中で、「自ら」の「分」である。己は世の中の一部として考える姿である。その反対が「利己」である。己のことだけしか考えないから、囚われの闇の世界に落ちていく。自分の一族の中での位置づけを考えよう。

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自分とは何か(人間として)

 人間を人間たらしめる要素として、本質的要素付属的要素がある。本質的要素とは、徳性である。徳性とは、明るさ、清さ、人を愛す、人に尽くす、恩に報いる、誠実、正直、勤勉である。付属的要素とは、徳性の発露を助ける要素で、知識、知能、技能である。(安岡正篤著『人物を修める』より)

 人は知識でその人間の偉さを選別してきたのが、今までの偏差値教育である。それで人に順位付けをして、組織の構成をしてきた。人間の属性的要素(知識、学歴)だけを尊重した人間評価で組織を動かすから、往々に組織が壊死してしまう。その悪例が、東電、三菱自動車、日産、タカタ、三菱重工、大垣市の行政である。

 人は不完全な存在であるからといって、完全なる神を目指してはなるまい。それでは人でない存在を目指すこと、人でなし、になってしまう。あくまでも人間として欠点もありながら、それを人間味として、徳性を育成して角熟した人間に昇華した人生を目指したいと思う。本質的要素と付属的要素をバランスよく成長させる。その過程で自分の発見がある。

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新人教育資料「修身」 2004年  小田

 

自分とは何か(神仏鬼神として)

 自分とは何かを追及すると、己の心には佛も住めば鬼も住む。神を住めば魔モノも住む。それを超越して自然と佛と一体になること、それが仏教である。それを目指すのが人間であることに行き着いたのが、弘法大師である。

 東洋の思想では、人は全て佛性を持つとされる。悪人でも閻魔大王の前で、地蔵菩薩が弁護人として救済してくれるとの思想が生まれ、地蔵菩薩信仰が生まれたという。それゆえ東洋の宗教には救いがある。悪があるから善が映える。人間である以上、一度も罪を犯さなかった人はいまい。それに目覚めさせてくれるのが懺悔する心であり、ご先祖に手を合わせる環境である。

 

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 松本明慶先生作「童地蔵菩薩」

 

 

吾は権現様・佛様である

 「吾」とは、神のお告げと神具で使う器具の象形からなる文字で、「われ」を意味する。吾の「口」とは神のおつげの意味。音符の「五」は、棒を交差させて組み立てる器具の象形である。神のおつげを汚れから守るための器具のさまから、「ふせぐ」の意を表す。そのさまを借りて、「われ」の意味を表す。漢字を創った古代人は、人間には佛性があることを知っていた。

 修証義に曰く「佛祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は佛祖ならん(釈尊および歴代の祖師のその昔は我々であった。我々の将来は祖師である)」。佛はどこにもいない。己の内に存在すると道元禅師は言う。己の内なる佛の声は聞こえるが、それに耳を塞ぎ、欲に負けて、やってはいけないことを犯し、食べすぎ、飲みすぎ、集めすぎ、貯めすぎの強欲に走る人間の弱さから来る業を、罪という。「足る知る」を理解しながら、それが自制出来ない弱さの鬼性と、神の御告げに耳を傾ける佛性の両方を持つのが人間である。

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ご先祖

 自分の運命は、己に流れるご先祖の血が左右している。己の無意識の行為に、ご先祖様の姿がある。家系図でご先祖の後姿を見れば、己の血が分かる。善も悪もご先祖様の教えである。ご先祖はやってはいけないことの結末を、30年後に孫に見せている。その行動の全ては、すべて遺伝子に書き込まれる。それは「天網恢恢疎にして漏らさず」の結果となる。

 ご先祖様は家系図内で人生劇場を演じている。そこには平家物語もあれば方丈記、リア王の物語もある。東西の宗教の差や宗派の違いは、単なる派閥争いの類で、手を合わせ自省することは、宗派を超越した行為である。

 

人生の螺旋階段

 西洋では神が完全無欠の絶対的存在であるので、不完全な人間は悪でしかない。最期の審判で、人は天国と地獄に行き先を振り分けられる。敗者復活戦はありえない。その最期の審判を凝視する姿がロダン作「考える人」である。

 地獄の前で最期の審判を見なくても、家系図を見ればその人が分かる。自分の考え方を見れば、人生の結末が観える。両親の教育を見れば、人の行く末が観える。

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 「考える人」 大垣市興文地区センター前

 

運命を決める遺伝子

 最近の凄惨な無差別殺人の多発がそれを象徴している。自分の考え方、親の教育次第を見れば、人生の螺旋階段を昇るのか、地獄へ下るかは、おおよそ見える。親が子供へ与えるメッセージが子供の遺伝子に影響を与える。自分のこどもの将来は、親が握っている。

 人は組織として疎外感に苛まれて、起こす事件である。「利己」ではなく、「自分」という考えを持てば、そんな凄惨な事件は起すまい。全て利己が起こす事件である。人間として知識だけで評価されて、社会の底辺の突き落とされて起こす事件である。人間として、ご先祖を敬う躾を受けなかった咎で起きる事件である。

 

2019-09-11   久志能幾研究所通信No.1335  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月 1日 (日)

お金で智慧を買う

 お金を使って手に入れるのは智慧である。そのお金を使えるのが幸せである。使えるのは健康であることが前提である。その上で、体力も気力も夢もないと使えない。余命1年と宣告された病身では、お金は使えないし使う気にもなれない。

 お金を使える幸せを大事にしよう。そのうち使えなくなる日がやってくる。

 

自分を買う

 単にモノを買うのでは、お金を使ったことにならない。それは単にお金がモノに変わっただけである。価値あるモノを売れば同じ金額が返ってくる。安いものではそうは行かない。安もの買いの銭失いである。お金でモノを買うとは、自分を買ってくるのだ。その過程で智慧が付く。

 

利用限度

 美味いものを食っても限度がある。立って半畳、寝て1畳、死ぬまで飲んでも1升、食べて丼1杯である。人間の体では知れたもの。それではお金を使い切れない。食べ過ぎ飲みすぎれば、病気になり、早死にである。持てる人生の時間内に、どれだけ有効にお金を使えるかを問われている。

 

経験を買う

 お金を使うとは、体験への出費である。体験で智慧が湧く。それには時間も体力も必要だ。智慧を得うるための出費が、お金を使う行動である。学ぶ費用、師に会うための交通費、受講料、稀少価値の品の購入に智慧を費やす行動、出費が相当する。その過程で智慧を出す訓練が出来る。お金を賢く使うために受け入れる器を大きくすることだ。

 貯めるばかりの人生は、小さな器の人生。入ってきたお金を世間に旅ださせて、そのおこぼれをあずかる気持ちで丁度よい。それを自分の所で止めて、貯めるからお金が腐ってくる。お金は生鮮食品である。気持ちよく旅出させてあげれば、お友達をつれて帰ってくる。目先に囚われて、出し渋りをすれば、相手も嫌気がさして去っていく。損をして得を取れである。

 

夢を買う

 高いものにはワケがある。高いものには創った人の魂がこもっている。お金を使うとは、自分の夢の実現のための投資行動である。20年後を夢見て、今の自分に投資をする。そのためには学びの器を大きくすること。学びに限度はない。学んで成長すれば、器も自然と大きくなる。不健康な器では、何も入らない。

 

失敗の買い物

 良くない買い物はあるが、失敗の買い物はない。良くない品物、ご縁に接したら、それは良くないことが分かっただけ、智慧が付いたと感謝すべきである。私は、二度とその品物、お店、ご縁に近づかない。それだけで十分にお釣りがくる智慧を得たことになる。

 

智慧の披露

 学んで一杯になった器は、世間に披露しないといけない。日々、その舞台で自分の学んだ智慧が試される。会社での各場面が能舞台であり、仲間が観客である。果物屋の店頭が人生舞台で、来客がご祝儀である。そこでどんな演技をするのか、そこに自分の器に入れてある智慧が試される。商売では、その演技に失敗すると客は二度と来てはくれない。

 智慧は出し惜しみしてはダメである。どうせ持ってはあの世に行けない。智慧は出せば出すほど、自分にご褒美として帰ってくる。智慧を出す能力が磨かれる。

 

自分は能役者

 人生では人が仮面を被って人生劇場の役者を演じている。ある人は教師を、ある人は警察官の仮面を被って演じている。その仮面をペルソナという。ペルソナとはラテン語で仮面と言う意味である。この語源でパーソナリティと言う言葉が生まれた。個性とは、人が被る仮面のキャラクターである。人はその仮面を見て、その人の役割を期待する。その仮面を被ったら、その役割を演じなければ人の期待を裏切る「裏切り者」である。

 

人生舞台

 人生の舞台とは、幕が上がっている間だけが舞台ではない。幕が上がるまでの血みどろな練習時間、舞台の段を上がる時の挙動、舞台を下りるときの挙動も全て人生劇場の演技時間である。観客に見せる舞台での演技は一コマに過ぎない。一刻たりとも気を抜けない。観客は見ていなくても、神様仏様そして内なる己という仏が見つめている。

 一局を舞い舞台を下りて初めて「人生織物」での横糸の一本が完成する。人生とはその連綿とした行動の積み重ねである。観客が見ている時だけが、舞台ではない。

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  2005年『修身』

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     馬場恵峰書

 

2019-09-01   久志能幾研究所通信No.1325 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年8月27日 (火)

新入社員に教える「死への準備」

 私が入社したばかりの新入社員に、「修身」の講義で問うたことは、死への準備である。サラリーマンには、定年が人生の一区切りとしての「死」である。その死である定年までの働き方を問うた。

 

死を意識して働こう

 今を必死に生きるために、死を意識しよう。万物には必ず死がある。期限がある。人生の半分を占める会社生活にも、定年と言う「死」がある。入社したら、38年後に訪れる死(定年)を見据えて仕事をしよう。それが時間創造である。そう新入社員に教えた。

 定年があるから、組織の新陳代謝が進み企業が成長する。100年前の先輩がいつまでも居座っていては、部下は閉口である。人間の手も、母親のお腹の中で指と指の間の組織が死ぬことで、指のある手に成長する。死なくして成長はない。過去の自分を殺すことで、自分も成長する。

 組織として成長できない企業が倒産する。会社の寿命は30年である。長寿会社は常に変化成長している。成長しない企業には、競争社会で倒産と言う自然淘汰が待っている。

 個人的に定年と言う死を迎えるには、38年間の仕事のやり方が、定年後の時間の創り方に影響する。定年までの時間の過ごし方で、会社に残す付加価値で差を生み、定年後の時間価値を決める。

 貴方がたは、入社後、勤続38年間(13,870日)もの時間をかけて、どんな資産を創っていくのか。「老いて」何を後進に「置いて」行くのか。定年後の30年をかけて、どんな価値を残して、あの世に逝くのか。考えて仕事をして欲しい。

 技術者として、やってきたことを記録に残さないと、何もやらなかったと同じになってしまう。私は、そう思って記録に残すことを心がけてきた。それでこの講義が成立した。

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      新入社員教育テキスト「修身」2005年

 

管理職としての「死」の意識

 私が先輩から教えてもらった管理職の心得は「その職場の長としての任期は4年間。1年目は職場の観察、2年目は何をやるか決めてその種を撒く、3年目はその成果の回収、4年目は後進を育てて、後を託す」であった。

 

定年後

 定年と言う「死」を迎えて、会社時代の肩書や地位は、退職すれば無価値になる。なまじっかプライドがあると、負の遺産となる。会社時代に、人生の価値を創れなかった元エライさんが、老人ホームで「私の上席はどこですか?」とKY語(空気の読めない語)を発し、周囲の失笑をかうのだ。定年後の家で、妻から粗大ゴミ扱いをされるのだ。そうなっては、人生はお終いです。

 

定年後の粗大ごみ扱い

 先日、名刺を整理していたら、30年前、仕事でお世話になった業者の人の名刺が出てきて、懐かしくなり、その場で相手の自宅に電話をかけた。電話に出た相手の妻は、夫に「オダって人から電話!」と不機嫌そうな、迷惑そうな声で夫に声をかけた。その声は私に丸聴こえである。それで彼の家での妻からの扱いが分かってしまった。だからそれ以降、その家には電話をかける気がしなかった。再会する気にもなれなかった。それは彼が38年間をかけて、積み上げた負の財産である。彼が退職した会社でも、その価値が分かるような気がした。

 

余命宣告

 私も今年、癌で余命宣告を受けて、死を身近に見て、人生の残り時間を意識させられた。死を意識するから、やるべきことが浮かび上ってくる。緊張感をもって生きることが出来る。日暮れて途遠し、を痛感させられた。

 

「人生の短さについて」   

 人生は短いわけではなく、我々は十分な時間を持っているのだ。ただそれを多くの人は空しく浪費しているだけだ。

 彼らに共通するのは、真に自分に属しているものに頼らず、彼らの権内にない外なるものをあてにし、それに依存していることだ。今を生きないで、未来のよい生活を夢みて今を犠牲にしていることだとし、そういう人間は生きているのではない、ただ生存しているだけだと断言する。 p 32

 

時間の浪費

 その原因はどこにあるのか? 君たちはあたかも自分は永久に生きられるかのように今を生きていて、自分のいのちの脆さに思い致すことは決してない。いかに多くの時間がすでに過ぎ去ったかを意識しない。時間なぞ無尽蔵にあるもののように君たちは時間を浪費している。そうやって君たちがどこの誰かに、あるいは何らかの事に与えているその日が、実は君たちの最後の日であるかもしれないのに。死すべき者のように君たちは全てを怖れ、不死の者であるかのようにすべてを得ようとしているのだ。      p 35

  中野孝次著『ローマの哲人 セネカの言葉』岩波書店2003年より

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  馬場恵峰書

 頂いた命をただひたすらに活かして生きる。そこから始めないと仏様のご加護も始まらない。命を粗末にして人生は拓けない。みほとけが求められているのは、命を最大限に活かして生きること。それが世のため人のためになる。そうしないと世の中の迷惑な存在に成り下がる。「一日一生」の心がけで生きる。

 

2019-08-27   久志能幾研究所通信No.1319  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月 6日 (火)

生きよう、今日も喜んで

 これは、平澤興語録『生きよう今日も喜んで』(致知出版社 1995年1000円)の題名である。これは私が病気になった知人に、いつもお見舞いとして贈る図書である。

 今年、私は癌を患い、手術後の療養中に、この書を久しぶりに読み直して、元気をもらった。病気とは、無理があって起こる体の故障である。その故障は軽くはなかったが、修復不能ではないのが、不幸中の幸いであった。病気に気付き、治療の機会に恵まれたのは、ありがたいことであった。

 病気というのは、無理をせずに長生きをする一つの過程である、と平澤師は言う。癌を患い、つくづくとそれを実感した。病気にならないと、本当の健康の意味は理解できない。

 本当にものを知るとは、賢くなることではなく、しみじみと自らの愚かさを知り、世の不思議を感じて、それに感謝をすることだと知った。格物致知の世界である。

 

本書を自宅に在庫

 この書は、字が大きく、小冊子で、病気の人でもすぐ読めて、読んだら元気になれる言葉が一杯書かれている。私はいつも病気見舞い用に10冊単位で購入して、家に在庫している。約20年前から、そうしている。自分が人生で悩んだ時、この書が勇気を与えてくれる。この書は、心の常備薬である。

 平澤興氏は、元京大総長で、本来ならノーベル賞を貰っても不思議でない業績を上げられた。

 

以下、その抜粋

ものを知る

 本当にものを知るということは、普通に考えるように、いわゆる賢くなることではなく、むしろしみじみと自らの愚かさを知り、世の不思議を感じて、心からそれに頭を下げることだと思う。(p13)

 

朝に希望 夕に感謝

 今日一日の実行こそが、人生のすべてである。(p20)

 自ら燃える人は、人を燃やす力がある。思い切って遠慮せずに、人々に情熱を与えなさい。 (p25)

 

人生に無駄はない

 人生に無駄はない。しかし無駄にするか、しないかはその人の心がけによる。

 無駄の多い人ほど、苦労のし甲斐のない苦労をする。(p33)

 独創とは、いいつけられたことをやるだけではない。それはたんなる経験では駄目で、寝ても覚めても考え、ひたすら仕事に対して一層よりよきことを考え出すことである。

 ただ一生懸命に真面目にやるとか、熱心に仕事をするだけでは駄目で、独創とは与えられた仕事に生命をかけてよりよき道を見つけることである。

 絶えず新たしい事を考えて創造せよ。(p44)

 実行とは、覚悟をきめ、肚を据えて、目標に向かって進むことである。

 かしこいことを言うだけではだめである。実行が出来なければなにもならぬ。結局実行により成就する。(p44)

 

仕事は祈り

 仕事は祈りであるということは、自らの最善を尽くして、それ以上は神に祈るということである。

 仕事は祈りである。仕事は人生を内容づけ、価値づけるもので、人生の目的そのものといわれよう。(p48)

 

一流の人は明るい

 くよくよする人は、ストレスがたまって早死にをする傾向がある。(p70)

 大人は日に新たに、日々に新たに成長するものである。(p71)

 

道というもの

 人生は不思議そのもので、自分の工夫で生きておるのではなく、生かされて不思議な生命を生きておるのである。(p85)

 

生かされて生きる

 修養と人生、仕事と人生は一つである。

 人生をはなれた修養はない。また仕事をはなれて人生はない。(p91)

 

自己との対話

 自己との対話は、よく考えることである。

 よく考えることは、感謝することであり、拝むことである。(p106)

 

自らを拝む

 今日一日の生活、実行こそが人生のすべてである。

 この実行こそが、われわれに絶えざる希望と、道を求めてやまぬ情熱を湧きたたせてくれるのである。(p114)

 健康だけでは健康はわからない。一度その健康をこわして、しみじみと健康がわかる。健康のありがたさが本当にわかるのである。(p115)

 

一日生涯

 一期一会とは静かであっても、生命のかかった、そのうしろには燃えるような火があってこそ一期一会である。

 仕事でもよい、お茶を喫するのもよい、後ろに燃えている火がなければならない。

 明日のことはわからない。只今に生命をかけて打ち込む情熱が大事ある。

 自らを礼拝し、自らの心に頭を下げて、言葉を超えた無限のものにひたすらに頭を下げることである。(p123)

 

四苦即四喜

 病とは、無理があって起こる故障である。治療、修繕の出来る病気でなければ、故障即ち死ということになって大変である。

 そうではなく、故障の軽い中に病気に気付き、治療のチャンスがあたえられることはむしろありがたいことではないか。(p136)

 病気とはいうのは、無理をせずに長生きをする一つの過程と思われる。(p137)

 私は糖尿病のおかげで、そのため注意をしているので長生きをしているように思われる。病気は困るというより、考え方によれば、与えられた生命を無理なく長生きさせるためのものであり、それは喜びであり、感謝である。(p137)

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   馬場恵峰書

 

2019-08-06   久志能幾研究所通信No.1286  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年8月 2日 (金)

姨捨山への地獄道を再開発 = 死に体から蘇生

人は3度死ぬ

 人生での一度目の死は、会社の定年退職であるが、人生の使命が終ったわけではない。

 二度目の死は、肉体的な死であるが、それまでにはかなりの時間がある。それまでに、やるべきことをやり遂げるのが、人生の総仕上げである。

 三度目の死は、縁あった人たちの記憶から、その人の記憶が無くなる時である。その時を少しでも伸ばすための仕事が、定年後の仕事である。それからが本当の人生である。それは自分で全て取り仕切れる仕事である。

 

この世の仕事の仕上げ

 その仕事に嫌な上司の干渉はない。その時期に完成させた仕事が世に長く残るとは、その人が永遠に生きることだ。その作品を見る度に、後世の人がその人に思いを馳せる。その人の作品が語りかける。そんな風に命が永らえる作品を残して旅立ちたい。だから定年後だからと、おちおち棺桶で寝ていられない。

 

第二の人生の生

 第二の人生で、何に己の命を捧げるのか、還暦までの38年間の修行をどう生かすのか。単に命の糊をしのぐために働くのか。第二の人生は、お金の為ではない。今まで培った能力を世のために使うべきなのだ。

 

出版業の出会い

 それを探して私は5年間もさ迷い、瓢箪から駒みたいに出版業という鉱山に突き当たった。IT技術の発展が、私みたいな素人でも出版業に携われる時代に変化した。幸せなことだ。金脈ではないのが残念だが、後世に残す仕事してはやりがいがある。今は手さぐりで鉱山を掘っている。

 

音楽写真家という職業の出会い

 50年間、趣味で飛行機の離着陸写真を撮り続けていたら、ピアニストの河村義子先生から演奏会の写真撮影の依頼がきた。飛行機の着陸時の一瞬を切り取ってきた技が、音楽家の演奏中の顔の一瞬を撮る技に役立った。

 何が人生で役立つか、分からないものだ。朝起きてまだ息をしていれば、まだまだやるべきとはあるとの仏さまのメッセージである。

 

第二の人生の死 -- 姨捨山への地獄道

 第二の人生では、自分という大地を耕し続けないと、使用済み核燃料の処理の問題のように、使用済み徘徊老人や寝たきり老人になって、家族や社会のお荷物になる。それは第二の人生の死である。

 やることがなく無為に生きる人が溢れる時代である。大型ショッピンモールに行けば、朝から老人たちが、ベンチに座り込んでお喋りで時間を潰している。仕事を選ばなければ職はあるのに。そんな生活をすれば、病気にもなりがちだ。

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 姨捨山ベンチ

  2019年7月31日、10:02  大垣の大規模小売店舗のベンチコーナ

  この老人達は買い物をするわけでもなく、朝の10時からベンチにたむろっている。

 

第二の人生を徘徊して姨捨山へ

 定年退職後、年老いて寝込めば、誰かが介護をしなければならない。介護に疲れて妻が夫の首を絞め、子供が介護の親を殺す時代である。親の介護のため子供が会社を辞め、そのため妻との喧嘩が絶えず、生活が崩壊することもある。己の体の維持管理の怠慢がわが子を不幸のどん底に突き通す。

 認知症のかなりの部分が、自身の快楽(タバコ、美味飽食、運動不足、痴呆TVの閲覧)に起因する。それが家族を地獄に追いやる。昔の姨捨山風習がまだ合理的であった。昔の貧しい時代は、そうしないと家が崩壊してしまう。姨捨山風習は貧しい時代の生きる術であった。それを豊かな時代の我々は非難をできない。

 

第一の人生で死に損ない

 いつまでも第一の人生にしがみ付いて、その権力の座を離さない餓鬼がいる。名経営者でも、年老いれば、若い時よりも体力はなくなり、頭も働かず、気力も失せる。スズキの鈴木修会長、セブンイレブンの元鈴木会長、日産のゴーン被告と、一時は名経営者と持てはやされても、老いれば醜態をさらす。

 何時までも権力の座に居座るのは、老害である。それは、社会の新陳代謝を阻害する毒である。モノには限度がある。

 それで成果を上げていれば問題がないが、大垣市のように、小川敏市長の無為無策、無能の為、大垣市が衰退し、地価が半値まで下がってしまった。市民税の無駄遣いの行事ばかりをするようになったのは、社会的公害である。それに本人の自覚がない症状は危険な状態である。認知症やアルツハイマー型認知症は、自分でもその症状が分からないのだ。過去の市長としての活動状況を実証すると、小川敏市長は、認知症の疑いがある。

 69歳の小川敏市長が、今から挽回策を取っても、その政策が実現するころに生きている保証は限りなく低い。政策の実現には時間がかかるのだ。老いた政治家では、仕事ができないのは、世の常識である。なおかつ18年間も市政を担当して、プラスの実績がない政治家など、もうお呼びでないのだ。

 

この世の地獄・戦前

 戦前の日本は貧乏で、昭和東北大飢饉(1930年、1934年)で、・親を姨捨山へ捨てる風習、子供の間引き、娘の売り飛ばしが横行した。それが遠因で戦争の時代に突入していく。今の豊かな時代は、まだこの40年間ほどだけである。その現実を忘れて現代人は飽食、放蕩を尽くしている。それは天が仕掛けた落とし穴である。その天罰が、ガン、認知症、贅沢病(痛風、高血圧、肥満)、精神の荒廃の増大である。

 

この世の地獄・戦前

 寝たきり老人の介護は使用済み核燃料の扱いのようである。寝たきり老人を施設に預け、家族の誰も「放射能」を恐れるかのように近寄らない。自分が寝たきりになってベッドに縛り付けられ、食欲のないのに胃瘻をされて、生かさず殺さずにされたら生き地獄である。意思表示もできず、寝返りも、かゆいところもかけない。死にたくても自分では死ねない。自分なら餓死での自殺を選ぶが、ベッドに縛り付けられればそれも叶わない。それは地獄である。

 スウェーデンでは寝たきり老人はごくまれで、人権無視の延命治療はあまりされていない。胃瘻やベッドへの拘束は虐待扱いとされる。先進国のはずの日本がこの医療体制を執っているので、スウェーデンからは呆れられている。

 

生涯現役が家族と社会への愛情

 自分が健康で人生を全うすることが、家族と社会への愛情表現である。心も体も健やかであることが条件である。介護の為に、わが子から人生を奪ったら鬼である。認知症で社会に迷惑をかけたら犯罪である。そんな鬼にはなりたくはない。佛として成佛したい。佛が無理なら、せめて人間として尊厳ある死を選びたい。それが私の死生観である。

 

この世で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つ事である。

寂しいことは、仕事のないことである。

                       福沢諭吉翁の訓言

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   馬場恵峰書

 

2019-08-02   久志能幾研究所通信No.1280  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月 1日 (木)

小川敏市長は素人の道化政治屋。プロではない。

 大垣市長のプロの政治家としての役割は、市民の命を守り、市民の財産を守り、市民を幸せにして、大垣市を繁栄させること。

   小川敏市長はこの4項目に、無為無策、無能であった。

 小川敏氏は大垣市長として18年間も取り組んでも成果が出ない。それは、彼が政治のプロではなく、ド素人のコメディアンであったためである。彼はこの18年間、喜劇の主役を演じた。それは大垣市民には悲劇であった。

 前市長の小倉満氏が残した大垣の負債を無くすことは、ゴーン被告がコストカッターとしてやったように「切れ」ば、誰でもできる簡単なことである。大垣市政として、必要であったのは、健全に市を発展させる政策であった。しかし小川敏市長は、無為無策であった。責任者は、やったことは当然であるが、やるべきことをやらなかったことにも責任が問われる。

 

プロとして市民や子供の命を守らない

 水害から市民や子供の命を守れなかったら、市長失格である。大雨が降れば室村町アンダーパスが水没するのは、自明なのに対策を取らなかった。危機管理として完黙を通し、何をやっているかを、市民には公開しない。

 ドローン墜落人身事故では、違法な飛行を犯すことを業者に指示し、市民の命を危険に晒した。死者がでなかったのは不幸中の幸いである。

 大垣市長として、子供の命を危険に晒すことは犯罪である。36度の炎天下の中、元気ハツラツ市や芭蕉楽市のステージで、大垣市長名で幼稚園長に対して招集命令を出して園児を強制的に踊らせるのは、政治家である以前に人間として犯罪である。これが10年近く続いている。園児虐待の確信犯である。園児の顔が火傷である。それは人間失格、市長として無能である。こども虐待が日本一である。

 この殺人的な夏の暑さで、小学校のエアコン設備率が、2.1%という県下最低である現実は、小川敏市長が、子供たちの命を守る意識がないとの証明である。岐阜県下の他市は、ほとんど100%のエアコン設備率である。子育て日本一を目指すは、大嘘である。何故、財政豊かな大垣市がこの低落なのかは、18年間も無為無策であった市長に原因がある。

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芭蕉楽市で、園児を踊らせるのは、園児虐待。大垣市は幼児虐待の日本一

2018年8月4日10:00 奥の細道むすびの地記念館前で

 

プロとして市民の財産を守らない

 大垣市民の不動産価値を上げるどころか、その価値を半分に減らすのはアマチュアの政治家の所業である。大垣市の土地価値を半分にしたら、市長として経営力がなく無能である。他市では、土地の価格は上昇しているのだ。東海道線沿いで、地価の下落率が最悪なのだ。時代が車社会へ移行しているのに、大垣市の対応が無為無策であった。

 そうだ、大垣市では子育てをすのを止めよう。子育てを大垣市でしては、子供に残す財産が半減するのだ。

 小川敏市長は、付き合いたくないタイプの人間である。私は、大垣市民になったため、小川敏市長のせいで両親が遺してくれた不動産財産が半分に目減りした。もとの三河の勤務地に住んでいれば、財産額が10%程も上昇したのにと悔いがある。

 

 2001年の小川敏氏が大垣市長に就任したのが、没落の始まりで、それ以降一度も地価は上昇しない。疫病神である。他市は上昇している。

        大垣市地価平均    前年比

2001年[平成13年]   12万4222円/m2  -7.98%  下落

2002年[平成14年]   10万8425円/m2  -10.10%  下落

2003年[平成15年]   9万6470円/m2   -9.65%  下落

2004年[平成16年]   8万3482円/m2   -8.56%  下落

2005年[平成17年]   7万3836円/m2    -7.04%  下落

2006年[平成18年]   7万2277円/m2    -4.20%  下落 

2007年[平成19年]   6万8535円/m2   -1.85%  下落

2008年[平成20年]   6万9942円/m2   -0.16%  下落

2009年[平成21年]   7万1687円/m2   -1.40%  下落

2010年[平成22年]   6万7237円/m2   -2.82%  下落

2011年[平成23年]   6万5702円/m2    -2.36%  下落

2012年[平成24年]   6万3941円/m2    -2.41%  下落

2013年[平成25年]   6万3216円/m2    -2.13%  下落

2014年[平成26年]   6万1898円/m2    -1.31%  下落

2015年[平成27年]   6万1495円/m2   -0.78%  下落

2016年[平成28年]   6万0585円/m2    -0.57%  下落

2017年[平成29年]   6万0692円/m2    -0.50%  下落

2018年[平成30年]   6万1540円/m2    -0.39%  下落

 大垣市の公示地価・基準地価マップ・坪単価 - 土地代データより 

  https://tochidai.info/gifu/ogaki/  

 

プロとして大垣市民を幸せにしない

 市民税を無駄遣いして、水饅頭の共食いで僅か2週間しかもたないギネス記録を誇示するのは、アマチュアのコメディアンである。水饅頭共食いのギネス記録は、金さえ出せば、どの団体でも取れる記録である。昔のお大尽の道楽遊び、芸者遊びの類である。その金が市民税であるので、税金泥棒である。その恥さらしな記録を、大垣市役所に垂れ幕で1年間も誇示するのは、痴呆現象である。大垣市民として、こんな市長を戴くのは全国に対して恥ずかしい。

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サルにもとれるギネス記録で得意満面。これで市民税900万円の無駄遣い。監査役であるべき市会議員議長まで痴呆的な超協力体制なので、誰も止められない。大大垣帝国の没落の象徴行事であった。

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 2週間後に記録が破られても、この垂れ幕を1年間も大垣市役所内に掲示する神経が恥ずかしい

 

小川敏市長は、五医ではなく五異

 大垣市長は五医の思想に反して五異の行動を取っている。

異法:大垣死政100執念記念業示でも、あれもやりたいこれもやりたいと、無理無駄無為な行事まで無理やり作り、くだらない100もの行事を強行した。それで3億4千万円の無駄遣いである。その会計報告さえマル秘扱いにして市民に公開しない。異法である。

異雅:それは小川敏市長の躁(がさつさ)を顕示しただけである。異雅である。

異様:省くべき業務を省かず無駄なことばかりをするから、市民税が高くなる。大垣市の税金は、大垣と同レベルの刈谷市よりも年間12万円も市民税が異様に高い。

異道:諫言を行ってくれる優秀なブレーンを首にして、ヒラメの腰巾着の取り巻きばかり集めるから、政策が正道を外れ、出鱈目な施策で大垣市が衰退した。

異理:忙しい忙しいといいながら、全ての行事に出て演説するから、考える時間も無くなって、痴呆のようになる。そのため小川敏市長が演説する話には、論理構成がなく、支離滅裂である。その演説の録音を聞いて分析すると聞くに堪えない内容である。

 

2019-08-01   久志能幾研究所通信No.1279  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年7月30日 (火)

「五医」:修身の基は健体康心

 身を修める前に、体が健康でなければ、修身はあり得ない。健康とは、健体(すこやかな体)と康身(やすらかな心)の両面が成立して健康である。体を健やかに保つこと。それはご先祖から命を与えられた人(ヒト・霊止)の務めである。

 

五医

一.  欲を少なくして惑いを医す 

    動物界の頂点に立つ人間でも、グロバーバル経済主義教に侵されると、集めても集めても、食べても食べても満腹感に達しない餓鬼道に落ちてしまう。それは畜生にも劣る存在である。癌の発病原因の第一は、大食いである。日本人に癌が急増しているのは、グローバル経済主義教に犯されて、餓鬼道に堕ちているからだ。テレビを見れば、食え喰えのCMばかりである。利他少欲が、人生の名医である。

二.  静座して躁(がさつさ)を医す  

  忙しい、忙しいと走る回り、手帳の予定表が真っ黒になっているのを誇るのは滑稽である。何のために走り回っているのか。忙しいのが善なのか。なぜその雑用を部下に任せられないのか。人を信用できないタイプなのか。なぜ考える時間が取れないのか。「働き1両、考え10両」と言った昔の人は偉い。

三.  事を省いて忙を医す 

  忙しさを誇り、やらなくても済むことまで、予算を取り、その完全消化を狙うから、無理無駄な仕事が増える。その仕事が本当に必要か、何故なぜ何故と5回繰り返して、それが必用かどうか、考えるべし。動けば、1分100円の費用が発生する。忙しさとは、心を亡くすと書く。「忙」の漢字を作り出した賢人の爪の垢を飲むべし。

四.  友をえらんで迂(にぶさ)を医す

   朱に交われば赤くなる。孟母三遷の教えを実行に移すべし。悪運は、悪友が運んでくる。私は、私の価値観に合わない人や、迷惑をかけた人は、切ることにしている。

五.  書を読んで俗を医す

   限られた人生で、自分で全ての経験をすることは不可能である。多くの師を訪ねることは無理である。それがわずか1000円チョットで、本を読む事で可能になる。自分が経験するなら2,3年かかる事象を、師を訪ねるなら百万円はかかることを、本はすぐ教えてくれる。本代をケチるべからず。本からの学びは心と頭の治療薬である。

「五医」とは安岡正篤師の言葉である。

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  馬場恵峰書   修身の基本は、健康と学びである。

 

2019-07-30   久志能幾研究所通信No.1277  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。