i-修身 Feed

2021年12月30日 (木)

死への準備

 

 下記は私が前職で、2005年頃に新入社員と中堅社員に「修身」の講座で話した内容である。それからの人生で、私が得た新たな知見を追加する。

 

定年と言う死

 30年後、新入社員の皆さんは必然的に定年という「会社生活」の「死」を迎える。

 トヨタでは昇格時、別の部署に異動しなくてはならない。それはその部署での「死」である。次の部署ではゼロからの再スタートである。それでやって行ける能力があるかを、会社は試している。

 もっと大きな死が定年である。

 

老後の終わり(定年・死)

 その前提で、人事異動で次の世界(定年後の20年)で生きていくために蓄える財産は何か?

 その時までに、貴方はどんな資産作り(財産目録)をするのか?

 実際に会社を離れて生きていくために、財産(金ではなく)は何か?

 何の報酬を当てに生きていくのか?

 

人生のバランスシート

有形の資産  お金、株、土地・家、保険、美術品、モノ

        価値は不安定

        モノは減価償却でどんどん価値が下がる

 

無形の資産  肩書、地位

          退職すれば価値はゼロ

        経験・能力・資格、広い交遊関係、信用

        健康、自分というブランド、自由時間

          無形の資産が次の資産を生む

 

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生涯現役

 その一つの理想回答が生涯現役である。生涯現役であれば、老後という期間は存在しない。今年の1月1日に亡くなられた馬場恵峰先生は、その模範解答を背中で示されて旅立たれた。理想は、福沢諭吉翁が言うように「一生涯を貫く仕事を持つことである」

 

 「生きるという人生」があるわけではない。「仕事という人生」や「余生と言う人生」があるわけではない。人生で一番大事な時期、体力も充実している時期で、1日の大半の時間を過ごす「仕事」という時間を有意義にすごさないと、人生そのものが無に帰する。どんなモノにも終りは有る。だからこそその死を意識して仕事を全うせよ。

 

慈愛に満ちた眼

 恵峰先生は、今は雲の上から観音様のように慈愛に満ちた眼で、お弟子さんたちを見守っている。

 師の戒名は「慈眼院孤雲禅筆居士」である。「慈眼」とは、観音経に出てくる言葉である。「禅」という漢字は、お寺さんに関係した人の贈られる尊い漢字である。孤雲とは、日本書道界とは隔別して、書道の神髄を求めた禅師であることを表している。雲の上からお弟子さんたちを見守っているとの意味である。

 馬場恵峰師は、今の書道界が金で、段や師範格や書道展の入選が決まることを嘆かれて、拝金主義に染まった日本の書道界とは距離を置いておられた。

 

死後の評価

 死んだ後に評価されるのは、どれだけ集めたかではなく、どれだけ与えたかである。

 大金を死後に残しても、ウジみたいに金に群がる輩が発生する。下手に金を残しても、遺族間で醜い財産争いが発生するし、税金でも吸い取られて、役人どもが無駄遣いをしてしまう。そうならないような財産の残し方が望ましい。

その時に、何のために生きてきたかが問われる。

 

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 馬場恵峰書 

 

2021-12-30  久志能幾研究所通信 2254号  小田泰仙

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2021年12月29日 (水)

働かないIT音痴オジサン、本当に2万日も生きてきたの? 

 

 成人になって社会人として80歳まで生きると、21,900日間である。成人から還暦まで会社に勤めて、14,600日間である。

 入社後、毎日一回、40年間、成長の努力を継続すれば定年までに14,600回の繰り返し訓練で、能力が高まったはずだ。生まれてからなら18,250日も時間があったのだ。なぜ、それで成果が出ないのか。なぜ定年近くになると「働かないIT音痴オジサン」に落ちぶれてしまうのか。それは、成果を出すための方程式を知らないからだ。

 

成果の方程式

 成果の値は、掛け算である。足し算ではない。ゼロをいくら2万回かけても成果はゼロである。マイナスの思考なら、結果はマイナスである。

 麻原尊師を信じて、死に物狂いの努力をして教団の最高位の上り詰めても、絞首台に上ったオウム真理教信者もいたではないか。彼らは将来を嘱望された優秀な青年達であった。私より優秀な青年達であった。全ては考え方が間違っていたからだ。下記の「α」(佛の力)を間違って解釈したのだ。

 

松下電器教

 成功の方式を正しく解釈して、己の力を万倍にしたのが、松下幸之助翁であった。松下幸之助翁の学歴は小学校卒で、体が弱く、身よりもない身であった。彼は、その条件下で、松下電器(現パナソニック)を世界の電器会社に育てた。松下幸之助翁は、自分は運がいいと信じていた。彼は宇宙根源の理(根源様?)を信じて経営を行った。それが持てる力を万倍にしたと推定される。

 松下幸之助翁は、会社の迎賓館である「真々庵」の庭に「松下真々庵根源社」を建て、悩みがあると、その前で一人長時間祈っていたという。

 それと同じ「松下真々庵根源社」のミニ版が、京都PHP本社の最上階に作られている。私も、松下幸之助経営塾で学んだ折、松下幸之助翁の成功にあやかろうと、お参りさせていただいた。

【経営セミナー】松下幸之助経営塾|PHP研究所

https://www.php.co.jp/seminar/m-keieijuku

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熱意

 松下幸之助翁が京都の財界人を集めて講演をしたとき、「成功の秘訣はなんですか?」との質問があり、その答えが「強く熱望することです」で、あまりの予想外の返答で、会場は笑いの渦となった。しかし、一人だけ笑わず、感銘を受けた人がいた。それが、京セラの稲盛和夫氏であった。稲盛氏はこの熱意で、小さな京都のベンチャー企業を世界規模の会社に成長させた。

 

オダブツ教の成功方程式

【成果】=【α】×【考え方】×【熱意】×【能力】×【環境】×【IT】

      

 α: 神仏のバックアップ力

   (鰯の頭も信心から。オダブツ教を信じよう?)

 考え方: 価値観、教育レベル  

 熱意: 情熱の高さ

 能力; 運命・宿命、自分の強み

 環境: 環境は自分で作り出すもの、変えるもの

 IT: IT化、意図×方法

     インテリジェンステクノロジーは智力でもある。

     ITは単なる道具であるが、智力は人格である。

                   

稲盛和夫氏の考えた成功方程式

 【成果】=【考え方】×【熱意】×【能力】

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 馬場恵峰書、東山魁夷作の「道」のポスター

2021-12-29  久志能幾研究所通信 2253号  小田泰仙

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2021年11月17日 (水)

社長の後姿、会社の基礎、人生の基礎

 

 先年、一緒にMK経営塾の研修を受けた仲間が、脳内出血で倒れてしまった。下記は、その人をお見舞いに行ったら、人生模様のお経にであった。人間は行動すると、人だけでなく、お経にも出会う。

 「経」とは糸偏に、機織り機の意味のツクリから成る。糸偏は面々と続くご先祖からの歴史の流れである。機織り機は、この世の人生模様を織りなす創造者である。

 そのお経が良いか悪いかは、織りなした基礎の出来不出来に依存する。

 

脳出血の原因

 彼の会社は、大層威勢が良い会社で急成長を遂げていた。彼を研修中に身近に見た感触では、彼が倒れた原因は、食べ過ぎによる高血圧、だらしなさ(不摂生)からくる歯と眼の不調、タバコ、酒等に見られる不健康生活からきたのは明白である。

 社長は全従業員の生活に責任を負っている。そのために社長自身の健康管理は責務なのだ。

 社長がいくら高尚な経営理念を唱えても、己の体の経営さえ出来ない社長では、会社の経営が出来るとは部下は信じない。社員は社長の後姿を見つめている。「己の体の放漫経営のため病気で倒れたあんたに、そんなことは言われたくない」が社員の本音である。

 

己を支える基礎細胞

 だれのお陰で37兆個の細胞が己を還暦まで生かしくれたのか。だれが会社を支えてくれたのか。誰のお陰で今日があると思うのか。その感謝の意識が薄いことが、社長自身が冒頭で発言するイケイケドンドンの社報から伝わってくる。

 後日、山本賞の式典会場で彼の姿を見た。車椅子姿で痛々しいが、病から回復して、威勢は元のように元気になったようだ。しかし彼の会社発行の社長通信から見ると、己を支える基盤(身体、社員、社会)への感謝の意識が薄く、生かされていることに認識不足があるようだ。前のめりで高尚な言葉を会社通信に列挙しているが、足元が固まっていない。土台から崩れるのではと危惧している。

 

手抜き工事

 大地震が起こると土台基礎工事の手抜きが発覚する。阪神淡路大震災時に、ビルや市内高速道路が倒れてしまったのは、その基礎が不出来か、もしくは手抜き工事であったためだ。その証拠を消すため、十分な調査もせず、大慌てで残骸を撤去してしまったのは、後世への汚点である。まるで中国の新幹線事故で、早々に事故列車を埋めてしまったと同じだ。我々は中国を笑えない。

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 阪神淡路大震災で傾いたビル

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会社の実態

  この会社から定期的に宣伝メールが届く。以上の経過で、内容が信用できないので、うっとおしく配信停止を連絡した。しかし全くそれが通じず、メール配信は止らない。仕方がないので迷惑メールに自動振り分けすることにした。その一件でも社長の経営方針が分かる。頭隠して尻隠さず、である。

閻魔帳への中間報告

 この社長とは研修時の席が隣り合うご縁もあったので、東京以遠の土地で、駅からも遠い病院へタクシーを飛ばしてお見舞いに行った。しかし元気になっても礼状一つ来ない。再会しても、礼一つ言わない。

 彼が脳出血で倒れた原因を見れば、人間性が分かる。あとは押して知るべし、である。良き人間観察の勉強ができたと思うべきだ。人生の周りでは声なき経が聴こえている。その経を自分に当てはめて考えるかどうかである。

 

 ご縁の貸借対照表に人生の歩みが表われる。縁の残高が少ない経営者が人生で躓く。人は山には躓かないが、小さな蟻塚に躓く。佛様は全てを閻魔帳に記載して、己の体の病気を通して閻魔帳の中間報告をされる。その時が人生の岐路である。多くの人が佛の御心も知らず、地獄への近道へ足を向ける。人生曼荼羅には全てが描かれている。人生経営での学びである。他人様は自分の鏡である。心しよう。

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 馬場恵峰書

 

2021-11-17  久志能幾研究所通信 2211  小田泰仙

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2021年11月13日 (土)

ん億円の豪邸!? 何故仏壇がないか?

 

 YouTube のお家探索ツアー動画で、多くの家を見て新家建設の研究している。そこで発見した事実が、金持ちの大邸宅には仏壇がない家が多いことだ。大手住宅メーカのモデルルームにも仏間がない、である。

 知人に美術品を商う人がいる。その人の話では、訪問した豪邸でも仏壇のない家が結構あるそうだ。美術品を買うのだから、その家は裕福なはずだが、仏壇がないのだ。

 

 中にはゴルフ練習機械まである豪邸があった。大スクリーンの映画が鑑賞できる部屋は許せるが、リビングルームにバーカウンターまであるのは、やりすぎだ。それでいてご主人の書斎や書棚がないのだ。それでその人の知性が分かる。その人のご先祖様に対する考え考えが分かる。要は成金そのものなのだ。

 

 本来、家の外の娯楽設備を家に持ち込めば、子供の教育上で良くないだろう。そんな家で育った子供が心配だ。子供は親の言う事は聞かない。子供は親の背中を見て育ち、親のやっていることを真似る。金遣いの荒い家からは、金遣いの荒い子供が育つ。金持ちの家が三代続かないのには、理由がある。

 

墓参り

 話題のKK母子のニュースで、KK氏がこの2か月程、日本に一時帰国したが、その間で実父の墓参りに行かなかった。これは母親のKK氏が墓まいりや法事をやっていなかったため、息子のKK氏にそういう発想が起きなかったと思われる。K家にはそういうご先祖や亡くなった親を祀る習慣がないようだ。

 

薫習

 KK氏が母親の日頃の振る舞いに影響を受けないはずがない。30年間、薫習として徳のない振る舞いの影響を受けていたはずだ。そうでないとあれだけの非常識さも生まれない。あれだけのバッシングには、普通の神経では耐えられない。

 霧の中を歩めば、自ずと衣が濡れる。黒い霧の中を歩めば、心身共に黒く染まる。だから、子供を正しく躾けるには、親がしっかりしていなければ、ダメなのよ。今の日本の衰退は親の責任である。

 

不良の家庭環境

 不良になった子や考えがいじけた子供の家には、間違いなく仏壇や神棚がないようだ。見えないものを敬う精神が、人を不幸から遠ざける。此の世はプラスマイナスゼロの世界である。プラスが大きければ、相応したマイナス(見えない世界)がある。富豪の家に潜む見えないサムシングは、普通の家より大きいだろう。それを考えないと、ドツボに嵌る。

 

2021-11-13  久志能幾研究所通信 2207  小田泰仙

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2021年10月24日 (日)

新型コロナに負けた佛様。人は佛を目指せ、神になってはダメ

 

 私はおだ仏教の佛様になることは目指すが、おだ神教の神になろうとは思わない。それは人間の持つ真理に反するからだ。

 人は誰でも佛になれる。人は誰しも心に佛性をもっている。しかし人の心の中には、鬼も住めば、佛も住む。鬼にならないためには、佛道を学ぶしかない。それが成仏である。

 

新型コロナに負けた佛様

 この10月29日から、長野市の「ながの東急百貨店」で「大仏師松本明慶佛像彫刻展」が開催される。それに行く準備をしていて、合わせて善光寺にお参りすることを思いついた。今年は善光寺の秘仏が7年ぶりの御開帳となる年である。

 ところが、今年はコロナ禍の影響で、その御開帳が中止となったと聞こえてきた。つまり佛様が新型コロナに負けてしまったのだ。

 これは秘佛様が「秘神」であるなら、こんな御開帳中止などにはならないはずである。だって全能の神様であるなら、完全無欠で何事も予定通りにされてしまう。私は、これが佛の存在意味を象徴する出来事であると感じた。

 

神と佛

 「神」は示偏である。「神」とは、漢字の語源でも、目には見えない存在を示している。神とは「人ではない」存在である。つまり人でなし。だから人は、己の欠点を無くして完全無欠な人間を目指してはならない。それは神を目指すことだ。神は絶対の存在で、完全無欠である。

 

 「佛」は人偏である。「佛」は、人間が進化した姿を、漢字でも表現している。佛は人が修行をして成仏した形をしめす存在である。だから人は、修行をしても神を目指してはならない。完全無欠の存在の神を目指しては、「ひとでなし」になってしまう。人間として、欠点を持ったまま成長するのが正しい修行である。大きく成長すれば、それがその人の持つ欠点を覆い隠し、欠点が人間味として、人格に色を添える存在となる。人は欠点を持ったまま(角を持って)成熟すれば、「角熟」として成長する。人は、そんな精神の成長を目指すべきだ。

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2021-10-23  久志能幾研究所通信 2188   小田泰仙

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2021年10月22日 (金)

ピアノ騒音殺人事件 1/11  (改定)

 

 私の家作りで、一番大きな影響を与えた事件は「ピアノ騒音殺人事件」である。それにより私がピアノを始めるのが40年間も遅れてしまった。家作りでも、防音対策で1千万円以上をつぎこむことになった。その因縁の事件がピアノ殺人事件である。

 

 この事件が明らかにしたのは、日本人の精神の劣化である。敗戦により、マッカーサー進駐軍の命令で、日本人の精神を破壊する政策が次々となされた。マッカーサーが日本人の精神を破壊したい目的は、二度と米国にはむかうことなくすることである。それだけアメリカは、日本の滅私奉公や特攻、玉砕という米国人には理解不能な精神構造を恐れた。その対策政策の一つが「修身」教育の廃止である。それと家制度の廃止である。進駐軍は、旧日本軍再来の恐怖心から、徹底的にその根絶を図った。それにより日本人古来の他人を慮る美しい心や利他の精神が破壊され、欧米の個人主義、権利意識の拡大、利己主義の教育が蔓延した。

 

 その精神の破壊工作の結果、起きたのがこのピアノ殺人事件だと思う。日本人は自分の欲望だけ満足できれば、他人のことは知ったことではないという精神構造になってしまった。また欲望として見せびらかし精神が氾濫して、ウサギ小屋にピアノを入れて、自慢げに娘にピアノを弾かせる精神にまで落ちぶれたのが遠因である。

 

 その流れで、携帯電話やスマホを回りの迷惑を考えず、傍若無人に使う現象は、1974年に起きたピアノ殺人事件と本質は同じである。

 

殺人事件

 1974年8月28日朝、神奈川県平塚市でピアノの騒音を理由として、母子3人が殺害された。3日後、逮捕されたのは一家の上の階に住む無職の男(当時46歳)だった。階下から聞こえてくる子供のピアノの音に悩まされての犯行だった。事件の前から何度も相手先とやり合っていたが、被害者宅が犯人をおかしな人として、まともに相手にしなかったのが遠因となった。事件の数日前、被害者の室のドアに「子供が寝ていますので静かにしてください」という張り紙が貼ってあるのを犯人は見かけ、「なんと自分勝手な!」と改めて殺害を決意し、刃渡り20.5センチの刺身包丁を購入した。

 

 この事件以降、騒音などによる事件や訴訟が頻発しており、多くの専門家はこの事件を「日本人の騒音に対する考え方が劇的に変化した事件」としている。ピアノ製造・販売店にも大いなる危機意識を与え、音量の抑制可能なピアノや防音材などの研究が進み、防音設備やサイレント楽器が開発された。

 

 このピアノ事件により、騒音問題が浮き彫りにされた。この事件について多くの音楽関係者が沈黙する中、作曲家・團伊玖磨はエッセイの中で日本の住宅事情内にピアノを持ち込む行為を「根本的誤り」として、次のように断じている。

 「日本の小さな部屋でピアノを弾いている情景は、正直判りやすく言えば、バスの中で大相撲を、銭湯の浴場でプロ野球を興行しようとする程の無茶で無理なことなのである」(「アサヒグラフ 1974年10月25日号」)

 

私のピアノ騒音被害体験

 私も中高校生の時代(1965年ごろ)、会社の社宅の団地暮らしの中、隣のピアノ騒音に苦しめられたことがあるので、犯人の心境がよく分かる。住んでいた団地は、事件のあった団地の構造とほぼ同じである。昔の建築構造では、どうしても上下左右の部屋の音が聞こえる。会社の社宅のため、普通以上に気を使っての生活が強いられる。この事件と同じように上の階の住民が、娘のためピアノを入れた後、ピアノの練習音が聞こえてきて、私の受験勉強の妨げになったことがある。私の受験勉強姿を見守っている母が、怒って上の階に聞こえるように襖を大きな音を立てて閉めるのを繰り返したのを今も覚えている。社宅内の人間関係では、せいぜいやれるのはこの程度の抗議である。そんな構造のアパートにピアノを持ち込むのはどう考えても異常であると今でも思う。

 

音には暴力性があることの証明

この殺人事件のあと、似たような殺人事件が頼発する。

1976年5月2目 鳥取市 『ステレオの音を注意されて』

1976年7月21日 東京大田区 『印刷機の騒音』

1977年4月27日 大阪市 『子供の走り回る音を叱責されて』

1981年2月26日 東京目黒区『老人ホームで同室者のいびきの音を腹を立てて』

1981隼7月17日 兵庫県・龍野市 『オルガシの音がうるさかったから』

1981年9月12目 川崎市 『ステレオの音』

1982年9月8日 兵庫県・加西市 『カラオケの音』

1985隼7月5日 和歌山市 『バイタの騒音』

1997年11月10日 浜松市 『バイクの騒音」

 

 上の挙げた殺人事件は氷山の一角に過ぎず、80年代に入ると近隣とのトラブルでの暴行・傷害・器物破損は年間250件にも達している。いかに人は騒音を暴力とみなしているかの証である。この事件が音は暴力であることを教えた意義は大きい。今までは音の暴力に対して泣き寝入りであった。

 

芸術の名を借りた暴力

 音楽は聴く人にとっては芸術でも、音楽に興味の無い人には騒音の暴力でしかない。いくら世界的な名ピアニストが弾いても、興味がなければ騒音の暴力である。犯人は美しい音楽も、興味ない人には騒音の拷問と感じることを日本社会に知らした役目を果たしたことになる。犯人は控訴もせず死刑を希望し最高裁でも死刑が確定したが、なぜか事件から40年以上経った2017年現在、死刑を執行されていない。死刑待機の最年長者でもある。それを考えると、犯人は仏様の使命を帯びた鬼の化身ではないかとも思ってしまう。

 

 厚さ12㎝の床を挟んで、下から聞こえてくる乱暴な子供のピアノ音は騒音の拷問である。本来、ピアノは30畳位の部屋で鳴らす前提で作られている。それを当時の防音を考慮されていない団地の3畳間に入れ、うちにもピアノが入ったと誇らしげに鳴らすこと事態、異常な状況にあった。子供もそんな親の顔色を伺って自慢げに弾いたのであろう。それが日本の高度成長期が軌道に乗って豊かになったという驕りが生んだ悲劇である。豊かになったと思い込んでいたのが当時に日本社会である。ピアノの騒音が直接響かない家庭は救いがあるが、そうでなく直接、ピアノ騒音が薄い壁を通して突き刺さる家には、悲劇である。貧しいとどうしても一点豪華主義となる。貧乏なため回りの備品や環境造りには金が行かない。いかなくても他人に迷惑を掛けなければ良いのであるが、ピアノは騒音暴力として猛威を振るう。豊かさとは一点豪華主義ではない。分相応の豊かさに満足して、全体バランスを考えて豊かさを一歩一歩実現していけば悲劇は生まれない。しかし、当時の高度成長時代は、国民全体が背伸びをしていた。そこから生まれた悲劇である。昔あった日本人の他人を慮る心が破壊されていたために起きた悲劇である。 

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事件を報道する新聞(朝日新聞)

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 当時、私が住んでいた社宅(事件の団地とほぼ同じ構造)

   取り壊される直前。新築当時は、人もうらやむピカピカの住宅でした。

   今は新興住宅地に変貌している。

 

2017-07-05 初稿

2021-10-23改定  久志能幾研究所 2187  小田泰仙

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2021年10月19日 (火)

コロナ菌バラマキ賊団と遭遇して怒り心頭

 

 今日(2021年10月19日)、半年ごとの定期検診のため、愛知県がんセンターに出向いた。その途中の電車内で、新型コロナ菌を拡散させるが如き行動を取る非常識人たちに遭遇した。それとの遭遇戦記である。

 新型コロナウイルス対策では、各人の衛生観念と他人に迷惑をかけまいという公共心(道徳心)の高さが、最大の効果がある。それが日本と外国の感染状況の差だと思う。

 

ケース1

 常識ある人は、電車内での会話を控えるか、小さな声で話すのが新型コロナウイルス対策の常識マナーである。車内アナウンスでも、それのお願い放送が頻繁である。それなのに、大垣から名古屋までのJR電車内で、隣の列に座った二人連れの中年ビジネスマンが、マスクはしていても喋り通しで、不愉快になった。

 一ノ宮駅までは、二人の話し声は小さかったので我慢したが、急に興が乗ったのか、大きな声で喋りだした。思い余って、「すいません」と頭上に掲げられた「車内のマナー」ポスターを指さして睨んでやった。流石にビジネスマンなのか、効果ありで黙った。偶然と言うか、丁度よい場所にそのポスターがぶら下げてあった。神仏のご加護である。

 

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 私の座った席の頭上にあったポスター 

ケース2

 今度は、地下鉄で名古屋駅から本山駅まで行くとき、私は優先席に座った。ところが私の頭の上で、二人の恰幅のよい2人の外人がマスク越しに大きな声で話をしだした。人相の悪そうな外人だったので、「コリャ、注意してもダメだわ」と観念して、別の車両に退散した。

 日本ではコロナ感染状況は収束に向かっているが、英国では感染状況が再拡大に向かっている。日本でも、ワクチン接種が行き渡ったようだし収束傾向だが、まだほとんどの人がマスクをしている。

 ニュース番組で英国の風景を見ると、ワクチン接種が行き渡ったようで、ほとんどの人がマスクなどしていない。外人と日本人の衛生観念(道徳心)の差が、日英の感染状況の差を生んでいると思う。

 

ケース3

 帰路の名古屋から大垣のJR車内での事態。二人づれのオバンが対面かけの席に座って、名古屋から大垣まで、ずっと大きな声で喋りまくっていた。私はその席から4列ほど離れていたので、注意もできず、見ているだけであったが、同じ車両内で、気分が悪かった。喋りまくっているオバタリアンの前に座っているのは、中年のおじさんと若い女性であった。二人がオバタリアンに何も言わないのが、もどかしかった。通勤時間帯となり、車内が満席状態で、席の移動もままならない状態である。

 日本の公共心を破壊するのは、中年のオバタリアンたちである。今のままでは、子供への躾が台無しである。大人なら、言うべきことを言わないと、日本が駄目になる。私は少し恥ずかしい気はするが、勇気を持って注意の声を上げている。

 私は、そういう小さな行動の積み重ねが日本を良くすると信じる。

 「一燈を掲げて暗夜を行く」。そういう心構えで生きていきたい。

 

4k8a18761s 馬場恵峰書

2021-10-19  久志能幾研究所通信 2184   小田泰仙

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2021年9月28日 (火)

おだ仏教団、新型コロナワクチンを開発

 

 開発したのは、「己の持つ免疫酵素こそが最高の新型コロナワクチンである」との考え方である。

 生活習慣(運動、睡眠、お風呂)と食生活を見直して自分の持つ免疫力を向上させる取り組みこそが、新型コロナワクチンである。それは同時に、がん対策、認知症対策、万病対策にもなる取り組みである。それが守銭奴生活、餓鬼生活、奴隷生活、洗脳生活からの脱却である。自分の内なる力を信じよう。それがおだ仏教の教義である。

 

調律

 人としてあるべき姿から逸脱するから、コロナ菌にスキを突かれて、感染と言う負けを喫する。生活を律して、正しい状態に戻せば、コロナに負けない身体になる。

 生れてから、親から躾けられ、学校の集団生活で学び、実社会で人間関係を鍛えられてきた。しかし何時しか、その正しい規律が乱れてしまった。ピアノでも、工場出荷時から時間がたつと音程が崩れてきて、調律が必要になる。乱れやすい心をもった人間は、世間の誘惑に負けて乱れた生活となる。だから自分を律し直す機会をもつべきだ。

 今日(2021年9月28日)、3年ぶりにピアノの調律をしてもらった。かなり音程が乱れていた。人間様も同じで、定期的に師から、自分の生きざまを修正してもらうべきだと感じた。

 

自律

 自律神経とは良く名付けられた名称である。体の自律神経が働き、体を正常に保っている。意識しなくても体が、体内に侵入した外敵に対して、異常を検知して免疫酵素が出撃して戦っている。その免疫力を弱めてしまう原因が、「狂った生活」、「狂った食事」である。誰のせいでもない。己の自堕落な生活が、コロナに負けてしまう体制を作ったのだ。自律した生活を維持する心掛けが、真のコロナ対策である。

 自律や規律を無視して、集団で長時間の宴会をすれば、感染して当然である。そんな異常事態の状態では、免疫酵素の戦力半減である。

 

自分教

 人生は、おだ仏教に帰依すれば救われる。おだ仏教でなくても、各人の正しい「自分教」に帰依すればよい。私は、おだ佛教で自分を律している。それだけである。そうすれば救われる。

 人として生まれた以上、最低一人は迷いから救い、幸せにする義務がある。その一人が自分である。己が教祖として、自分を導くべきだ。現代社会は、その自分と言う教祖が、マスコミや世間の狂祖から洗脳されて「狂った生活」の地獄道をさ迷っている。

 

 人間という輩は、自分の体内に免疫酵素があることを意識もせず、金儲けに熱中して、新型コロナワクチンを有難がり、体内の免疫酵素に感謝などサラサラしない。

124k8a10911s  馬場恵峰書「佐藤一斎著 言志四録」より

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 松本明慶大仏師作 虚空蔵菩薩坐像

 虚空蔵菩薩は、寅年の守り佛である。

 

2021-09-28  久志能幾研究所通信 2163   小田泰仙

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2021年9月23日 (木)

学びの舎を整備

 

 先日(2021年9月21日)、別宅に100インチスクリーンの設置が終わって、学びの舎の仮設置が完了した。まだ内装が未整備で、机や椅子が仮設置で不統一であるが、形としては収納人員15人が集会できる場が完成した。その活用を模索している。

 

備品

  資金不足の関係で、机は寄せ集めである。2つの机は「やまじ工房」の山路先生が無償で提供してくれた。一つは某旅館で長年使われていたトチの一枚ものの机である。一つだけが新作の机である。クラッシックな椅子は高級飛騨製で中古である。6脚セットを1万円で分けていただいた。本来なら30万円はするはず。残りはパイプ椅子の借り物で済ませた。

 このトチの机を見た方は、みんな机の立派さに驚かれる。トチの木の一枚もので、オーダーメイドである。すこし鼻が高い。

 

スクリーン

 100インチスクリーンとプロジェクターは本宅で使っていたのを移設した。100インチは自宅8畳の居間では大きすぎたが、30畳のこのホールでは程よい大きさである。100インチスクリーンは、自宅居間で3メータ離れて見ても、長く見ていると船酔いのような気分になってくる。画面は大きければよいわけではないことを思い知った。

 

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  仮完成の学びの舎

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「学び」とは

 学びの要素として、場が必要である。「學」とは、「子」が学びの舎(ワ)の屋根の下で、喧々諤々の議論をしている様の象形文字である。舎の場の上で、互いに向き合い、議論として「××」は言葉が飛び交っている様である。

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 この部屋の状態を見て、20年前に、前職の新入社員教育で、「修身」の講義をしたことを思いだした。多分、修身の授業は会社でも会社創業以来はじめてのことのはず。当時、よく思い切ってやったと自分で自分を褒めたあげたい。その10年後に、定年の挨拶まわりで各部署に回った時、今は中堅社員に成長した女性から、そのお褒めの言葉を頂き、嬉しかった。

 

Img_0590s1  新入社員教育で「修身」の講義中の著者 2003年

 この舎からの生成物を楽しみにしている。まず道具の整備として一歩は前進した。それで満足である。あせらずボチボチとやっていく予定である。学びの場の提供は、世のためには少しは貢献するだろ。私のモットーは「千里の道も一歩から」。

 

2021-09-23  久志能幾研究所通信 2158  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年9月20日 (月)

堪忍袋の緒を切り、「うるせい、この糞ばばあ」と怒鳴りつけ

 

 先日の日曜日、町内の公園の草取り行事があった。それに私が参加中に、83歳の老婆が寄ってきて、「おい、電灯保全係! あそこの街灯が切れている」とその老婆が私に命令調に指示したので、それを無視した。そうしたら、「あんた耳が遠いのかね」と言う。それで表題にように怒鳴り返した。

 堪忍袋の緒が切れたのではない。意志を持って切ったのだ。堪忍袋には無価珍という計り知れないお宝の知恵が入っている。それを放出するため、私は堪忍袋の緒を切り、「うるせい、この糞ばばあ」と怒鳴り付けた。

  何故か、その後が爽快な気分なのだ。何故、もっと早くこの叱りつけをしなかったのかと、反省までした。言うべきことを言わないと、相手は何時まで経っても愚人のままである。それは世のために良くない。その間、その洟垂れ婆が、害毒を社会に流しているのだ。住民の皆が迷惑をするのだ。上司としてド叱るのは義務である。

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老婆がボスとして君臨

 モノには言い方がある。頼み方がある。古希を超えた長に言うべき話し方ではない。それで、言い返した。そのくらいしないと人品卑しい老婆は目が覚めない。多分、それでも目が覚めないだろう。今まで町内老人会のボスとして君臨しているので、逆らう町内住民は誰もいないのだ。

 

 うちの町内には人品卑しい老婆が権勢を奮っている。私がこの町内に移住して、1年程、私が毎朝、出会って挨拶をしても、その老婆から全く無視をされ、挨拶の返しなどなかった。1年程、我慢したが、それ以来、私もその老婆を無視した。

 この老婆は、町内のボスとして老人会を取り仕切っている。私から見て、どうしようもない人間である。

 

自治会の公金

 町内自治会の公金さえ、自分達の町内老人会で使い放題である。会計報告もデタラメである。コロナ禍で行事が無くなり、金が余ったからと、「厚生費」という名目にして、めだたないようにして、老人会の全員に品物を配った。姑息なやり方である。予算内で金を使うのだから非難はされないが、守るべき道義からは外れている。その行動が常識という範囲から外れるから、異様に見える。

 町内の他の子供会、運動部会等は、コロナ禍で行事や会合が出来ず、お金が余ったからと自治会に返金している。それに比較すると、町内老人会の下劣さが目立つ。それでは子供会等に示しが付かないだろう。その指示をしたのがそのボス老婆である。その件もあり、私は腹に一物を持っていた。

 

老害

 このボス老婆は83にもなり、体が不自由になったのに、ボスの座を手放ささない。醜態である。やはりボスとは利権があるようだ。政治の政界でも同じだし、老人会の世界も娑婆の縮図のようだ。65歳以上は15%が認知症である。75以上は25%が認知症である。行動を見ると認知症まがいである。そんなボスに町内の老人たちは唯唯諾諾である。情けない。

 

老人が尊敬されるワケ

 昔は、老人は尊敬された。それは人数も少なく、仁徳あふれた人が多かったのだ。昔は、人品卑しい老人は、健康管理ができず、早死にしていた。ところが現在は、医療が進んで、どうしようもない下劣老人までもが生き永らえて、その数が溢れている。社会問題である。観察していると、その家の子供もその悪影響を受けているようだ。社会の大問題である。

 

敬老の日

 長く生きたからと言って、それが尊敬に値するわけではない。長く航海した船長は尊敬されるが、出航した後、嵐に襲われて湾の中で長く波に翻弄されても、長い航海をしたとはいえまい。狭い世界で権限を振るっても経験豊かとはいえないと同じである。

 9月20日は敬老の日であるが、現在の日本で敬老に値する人は少ない。新聞紙上では、老人の犯罪、痴行が連日報道されている。

 先日は勲章までもらっていた90歳の飯塚被告が、池袋でアクセルとブレーキを踏み間違えて暴走死傷事故を起こした。その非をトヨタ車の故障だと言って、自分の罪と認めない醜態を演じたばかりである。

 昔はそんなことはなかった。どんな社会でも2・6・2の比率で人が存在する。敬老に値する人格者は2割だけである。下の2割に相当する下劣な老婆が長寿会でボスになると、その会は悲惨である。他の老人たちは人格者だから、何も言わない。ボスのやりたい放題である。

 

対処

 老いたら、愚かな老人を他山の石として、自分の行動を省みたい。

 狂った老人は、社会の常識が認知できないのだから、幼児と同じである。怒鳴りつけて教えるしかない。情けない時代になったものだ。

 老人の認知症問題は、世界一の老人大国・日本の大きな課題である。

 

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  馬場恵峰書

2021-09-20   久志能幾研究所通信 2155  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。