c-馬場恵峰師の書・言葉 Feed

2021年9月 6日 (月)

福禄寿の法(3) 私の顔相占い、動く墓石を観察

 

動くお墓

 墓標のような風体で世間を歩くべからず。

  顔を見れば、どれだけ苦労、学問をしたかが、顔の刻みでわかる。

 体を見れば、怠慢、飽食で過ごしてきた過去が、刻まれている。

 話し方を聞けば、どれだけ脳を鍛えてきたか、露見する。

 話しの内容を見れば、教養が滲みている。

 何を育ててきたかが、脳の溝に刻まれている。

 それが話に出てくるから、隠しようがない。

 態度を見れば、どれだけ教養を養ってきたかが分かる。

 顔に家の書棚が透けてみる。

 

玄関に骸骨(がいこつ)

 顔は人生の客を迎える玄関である。それなのに、偉そうに見せるため苦味走った顔を晒していては、まるで骸骨を玄関先にぶら下げるようなものだ。まるで動く墓石である。福沢諭吉翁は「学問のすすめ」で、その件を警告する。それでは人は寄ってこないし、人生を拓けない。笑顔のない顔はゾンビの人生である。福は笑顔からである。

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 私は馬場恵峰先生の「笑い」の字にほれ込んだ。象形文字として笑いをそのまま素直に表現した形である。

 

私の顔相占い

 顔にはその人の思想、歴史が刻まれている。それを見て、付き合い方を考えることは、自分の福禄寿を向上させてくれる。自分の人生の危機管理にもなる。

 人の顔を見て鑑定するうえで、ほうれい線は一つの判断基準である。ほうれい線とは、鼻から両側の口先に伸びた皮膚の線を言う。この線のハッキリ具合で、その人の歴史が分かる。

 ほうれい線は、多くの場合、40歳代になるとハッキリとしてくる。ほうれい線が明瞭にくっきり出ている人は、仕事が正確緻密にできる。仕事運がよく、天職に就き、やりがいのある仕事に携わる。反面、厳しいところもあるため、付き合いづらい面もある。

 それに対して、 40代になってもほうれい線がぼやっとハッキリしない人は、地に足が付かない生き方で、責任感もあまりないようだ。ある意味自由奔放に生きているようだ。

 ほうれい線が出来るかどうかは、人に会って笑顔を見せるとか、顔の表情を変化させる筋肉訓練をして来なかったためだと私は推察する。要は使わない器官は退化するである。ほうれい線の薄い人は笑顔を作る筋肉を使わなかったのだ。人に対して冷たかったのだ。

 

顔の責任を持て

 リンカーン大統領が、推薦されたある人の採用を断った。その理由は、顔が気に食わなかったという。リンカーンは「40過ぎたら顔に責任を持て」といったのは意味深長である。顔に人格と生きざまの全てが出る。

 

趣味は人間ウォッチング

 私の趣味は人間ウォッチングである。事件がありマスコミを賑わすと、その顔写真をファイルしてデータベース化している。それで顔をじっくりと眺めて、事件と顔を記憶にとどめる。長年、それを続けてきた。それから得られる感性が、私の人を見る目を養ってきた。それで得はないが、損をさせる人物や危険人物の感知はできた。君子危うきに近寄らず、である。

 

2021-09-06   久志能幾研究所通信 2143  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年9月 5日 (日)

福禄寿の法(2) 印鑑は0番目のご神体

 

 印鑑には上下の目印を付けないこと。自分の名を刻んだ印鑑は自分自身の象徴である。それに目印を付けるとは、自分の身に傷をつけるのと同じである。目印がないため印鑑の上下をしっかり確認して、慎重に押す習慣となるからよいのだ。

 そんな焦って印を押してどうするの? 押印は慎重にしよう。ハンコ一つで人さえも殺せる。法務大臣の押印で、死刑執行がされるのだ。印に上下に目印がないのは、安易な押印を避けるための先人の知恵である。

 印鑑は自分の城を守るご神体である。幸せを守るため、「禄(財産)」を脅かすものに最大の注意が必要だ。

 

保証人

 昨年、偶然のめぐり合わせで別宅の事務所が手に入った。それは仏様の導きとしか思えない。神様仏様ご先祖様に感謝である。その事件は前所有者が、保証人として印を押したために起きた。その相手の会社が倒産して、前持ち主はその家を手放さざるを得なくなった。その家の建設費、リフォーム工事費を計算すると、二束三文で手放したようだ。家に限らず、どんな物件でも売る時は二束三文である。

 だからモノを買うなら、それと心中する覚悟で買うべきだ。その物件が自分の一部となって、己の人生を助けてくれるのかを考えて買うべきだ。保証人になるなら、「相手を見極め、自分の身のほどを考えた上、相手と心中してもよい」と考えないと印を押してはダメである。

 

借金の保証人を頼まれたら

 先人の知恵で、借金や保証人を請われたら、相応のお金を進呈して断った方がよい。その金は返ってこないものとして贈呈すればよい。相手の債務を全て被るよりもましである。

 私は借金が嫌いで、ローンも組んだことがない(ボーナス払い、クレジットは別)。いつもニコニコ現金払いである。今までの高額商品購入は、全て現金一括払いである。今回の別宅も現金一括払いである。本当はローンにしたかったが、無職の高齢者に金を貸してくれる銀行はない。だから資金繰りが大変であった。それが現実だ。だから自分の城は自分で守る。

 

保証人なしの決断

 トヨタの中興の祖であった石田退三氏は親戚の児玉一造氏から、「悪いことに使うのでなければ、金は何とかなる。金を惜しんで、時期を失することほど愚かなことはない」と教えられた。氏はその教えを守って、ケチに徹して経営を進めたが、貧乏な(当時)トヨタに不相応な大きな設備投資をしてトヨタを大きくした。トヨタの経営は、小さな無駄を地道に省くことを継続して(カイゼン)、金を溜め、大きな投資をする、である。

 私は今回の別宅を買うにあたって、その教えを信じて決断した。要は「無駄を省いて贅沢を」である。だから後悔はしていない。

 

恵峰先生の借金

 馬場恵峰先生も保証人を頼まれたことが数多った。しかし、それをほとんど断ったようだ。断ったのが正しい道であった。恵峰先生に保証人を頼みに来た人の殆どが破産しているという。金のない馬場恵峰先生に保証人を頼みに来るのがおかしい。

 馬場恵峰先生は日中文化資料館を建てるため、60歳の時、1億円の借金をされた。実家の家屋敷を担保にいれ、生命保険をかけて銀行から金を借りた。それを24年かけて返済をされた。完済時は84歳である。今では銀行はこんな融資はしないという。それだけ馬場恵峰先生には徳があった。仏様が応援した。またその返済の苦労を知っているから、敢えて保証人の印を押さなかったのだろう。

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2021-09-05   久志能幾研究所通信 2142  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年9月 4日 (土)

福禄寿の法(1) 表札は0番目の墓標

 

 表札とは、人生の本陣で掲げる錦の御旗である。錦の御旗として、正しい表札を掲げよう。自分の名前とは、両親がこういう人間になって欲しいと願って付けた名前であり、出世して欲しいと願って付けた名前だ。だから表札に字を彫ってはいけない。それは墓石と同じである。墓の字は、本人が死んだからもう変わることがない。だから名前を石に彫る。碑文も過去のことで変わらないから、永遠に変わらないことを石に字で刻む。

 

出世

 人が生きていれば、名前も変わる。名前が変わるとは出世である。だから表札に名前を墨で書くのがよい。彫らなければ、印刷でも構わない。歴史を見ても、出世して名前を変えた有名人は多い。名前を変えたから出世したともいえる。斎藤道三も名前を何回も変えた。それで京都の一介の油売りが美濃の国の主に上り詰めた。要は国を盗んだ。それは司馬遼太郎著『国盗り物語』に詳しい。お魚だって、名前が変わるのは、出世魚である。ブリは出世魚の代表である。

 「出世」とは仏語で、仏が衆生を救うためこの世に現れること。

 

ブリの出世

 ブリの呼び名は成長に合わせて、次のように変わる。

 モジャコ、ワカシ、ワカナゴ、ツバス、イナダ、ハマチ、フクラギ、ワラサ、メジロ、ブリ

 

出世としての雅号、芸名、戒名

 人生で名前を変えるのが、出世である。それが戒名しかないのは情けない。せめて会社を辞めて第二の人生を歩むとき、雅号を持って新しい道を歩もう。

 雅号や第二の名で世の為に尽くすことは、仏が衆生を救うためこの世に現れることと同じである。私は馬場恵峰先生に出会い、雅号を頂いたのは幸せであった。

 

街の表札

 街中を見て回って、石の表札に刻印してある玄関を見ると、墓を玄関に据えているように見えて気の毒になる。

 当家も昔は、石塀に埋め込まれた石の表札に、字が刻印してあった。リフォームした折、塀を取り除き、馬場恵峰先生に揮毫をして頂いた木の表札に変えた。何か人生が変わった。

 その表札の字は、伊勢神宮の御神水で磨墨した墨で書いて頂いた。そのお水は、伊勢神宮の雅楽殿の水場で手に入れた。還暦後に、この歳まで生かせてもらったお礼の奉納をしたときに手に入れた。

 

2021-09-03   久志能幾研究所通信 2141  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年8月31日 (火)

人生道で背負う袋は、生活袋? 堪忍袋?

 

 松下幸之助翁は「人生は90%までが、いわゆる人知を超えた運命の力によって既に決まっている。人間の知恵才覚で左右できるのは、残りの10%に過ぎない。そう考えれば、人生、得意のときも、淡々と素直に謙虚に、わが道を歩んでいくことができよう。」と運命を断じた。しかし今回のお墓作りとご先祖探しの旅で、私は人知を超えた運命の力は90%どころか、99%にも及ぶことを感じた。人間の人生とは、運命を運ぶ大黒天に背負われた大黒袋ではないかと思うようになった。

 

授けられた生活袋

 人は生まれたときに、天より人間という形の生活袋が授けられる。その袋は運命を運ぶ大黒天によって担がれて、ひたすら死という終着地に向かって運ばれてゆく。人間にその行き先を拒否はできない。人生旅の終着地に着いたとき、大黒様はその袋を火葬場にお役目として放り込む。お釈迦様を含めて一人の例外もない。袋としての人間に、死後で残るのは僅かな灰でしかない。人間として生きた証として、運んでもらっている間に、その袋の中に何を入れ、それをどう昇華するかが問われる。袋に入れて集めた多寡が問われるのではなく、集めたものをどう活用したかが問われる。

 還暦を過ぎ、人生の終わりが見えてこれば、生活袋の中のものを少しずつ下ろしていくことが求められる。それを怠ると、遺族が大迷惑をする。多すぎる遺産なら、遺族を不幸にさえする。使いきれない財産が残れば、遺族が財産争いをするだけだ。隣国では、総帥の死後、兄弟間で財産争いの裁判沙汰、長男は刑務所行きである。何のために必要以上の汗を流して稼いだのかと、死ぬに死ねまい。

 人生の下り坂を降りるときになれば、少しずつ荷物を下ろしていく。天はそのために体を少しずつ弱らせて、負荷を減らせと教えている。80歳になり20歳の若者と同じ元気さでは、無念で死ぬに死ねないだろう。

 

生活袋と堪忍袋

 人間の多くは、欲望が多く詰まった生活袋を担ぐ。生活袋の中には、人生を送るのに必要な道具一式とそれにまつわる欲望が入っている。

 それに対して弥勒菩薩の化身と言われる布袋様は、堪忍袋を担ぐ。堪忍袋には「無価珍」という計り知れないお宝が入っている。それが飛び出さないように、布袋様は堪忍袋の口をしっかりと握りしめている。それが人間様と違うところ。少しは布袋様を目指して精進しよう。

 

袋は伸縮自在

 幸いなことに、その生活袋は人間の成長に合わせて伸縮自在に変貌する。その変貌の程度は自己鍛錬に依存する。その袋の中に何を入れて、何を入れないか、入ってきた縁の整理整頓清潔清掃(4S)ができるかである。入ったものをどう昇華するかが問われる。その如何によってその袋が宝袋にも劇薬袋にもなる。

 

袋の強度

 その袋の布は、血も肉も通う生身の生命体である。その袋に過度な美食美酒を入れすぎて、袋がアルコール侵蝕されて穴があくこともあろう。その袋は天からのリース物件である。大事に使わないと、契約途中で天から解約通知が舞い込む。大事に使っても、最長100年後には、天に返さねばならぬ。自分の体はご先祖が手配してくれたリース物件である。それを忘れて、酒池肉林、甘味飽食に溺れるから、契約違反としてリース途中で解約となる。

 

 その袋に分不相応に財を入れすぎて、袋の底が破れ、破綻することもあろう。己の器の大きさを自覚せずに、棚ボタの財宝を入れすぎたためだ。集めることだけを考えて、利他で分けることを忘れた天罰である。

 その袋を目掛けて飛んでくる試練という矢で傷つき、破損することもあろう。どれだけ袋の表皮の強度を上げる鍛錬をしたかである。試練という鍛錬をしない限り、か弱い袋のままでは、価値あるものを袋に入れられない。天は心という器だけは、傷つきやすい裸のままに創られた。それを自覚して人生を歩まねば、言葉と言う凶器で心が傷つけられる。その自覚なき人生では道半ばで沈没する。

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  人生の生活袋

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布袋 松本明慶大仏師作(「仏心」小学館より)

 松本明慶仏像彫刻美術館の掲載許可を得ています。

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 布袋 馬場恵峰書

 

2021-08-31   久志能幾研究所通信 2137  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年8月27日 (金)

感染爆発は問題ではない。役人モラル低下が問題(3/3)

日本政府、新型コロナ感染爆発に油を注ぐ

 

被害は身近に迫る

 近所で、この23日に現役の美容師の老女が亡くなられた。弔問に行き、事情を聞けば、末期のがんであったが、このコロナ禍のおり、病院の都合で入院ができず、自宅で亡くなられたと言う。政府の無策ぶりの被害が近所まで及んでいる。安心して病気にもなれない。病気になれば自宅で野垂れ死にである。国民は政府の無策に殺される。

 

 日本政府は、河川の治水を疎かにしたように「治菌」も疎かにして、新型コロナ感染爆発(大火)を起こした。その大火の消し方も、各部門の利権が優先して、全体的にちぐはぐの対応になり、結果として感染爆発に油を注いだ。政府の各政策は、相矛盾した愚策ばかりである。組織や人は、極限状態に置かれると、その本性が露見する。要は、非常事態でも本気にならない無能な指導者たちであった。その対策施策は、感染拡大防止とは真逆の政策であった。政府や地方行政は狂っている。

 

 丸山五輪相は、8月19日の参議院内閣委員会の閉会中審査では、新型コロナウイルスの感染者急増と、五輪開催が関係ないという見解の根拠として、「オリンピックの開会式は56.4%、閉会式が46.7%と、高い視聴率を記録」と、なぜかテレビ視聴率を読み上げた。

 だが、共同通信が8月16日に公表した世論調査では、59.8%が「五輪開催がコロナ感染拡大の一因」と回答。(「女性自身」2021年9月7日号 より)

 現実が見えず、国民の声を無視する議員など、お払い箱にすべきだ。

 

 それは誰の問題か。何が問題かである。それを明確にすれば、解決は簡単である。後は実務部隊に「人モノ金」を十分に与えて対処ばよいのだ。それを曖昧のままに放置するから、対策が対処療法に終始するだけとなる。それで混乱に拍車をかけ感染爆発が起きた。それが今の姿だ。

 

Go Toトラベル、Go Toイート

 人を故意に国内を移動させて感染者を移動させ、会食を進めさせ、感染の確率をあげている。空気感染が原因である新型コロナが、人の移動の増大と密面会の拡大で拡散して当然である。全ては日本旅行協会のドンである二階俊博の利権のためであるようだ。

 

オリンピック強引開催、パラリンピック強引開催

 菅内閣の支持率回復のための姑息な手である。本来、コロナが猛威を振るっている(大雨・台風が来ているのだから、自宅待機である。松下幸之助翁は、雨が降ったら傘をさせ、という。宇宙根源の理に反している)

 結果としてペルーの選手がデルタ菌を持ち込んだが、安易に放置したため、国内に感染が広がり感染爆発が起きた。政府はひた隠しであった。それが露見して官房長官が各部署の連携が悪かったと言い訳である。

 

緊急事態宣言の乱発

 緊急事態宣言を五月雨式で乱発するから、国民は慣れて、効果が少しもでないし、逆効果である。孫子の兵法で、小出しの戦術はもっとも拙い戦法である。強制力、罰則のない規制は効果がない。外国は法律に基づくロックダウンである。そういう状況を踏まえて、法律の整備に手を付けるべきだが、政府は無為無策である。

 

医療体制の崩壊

 政府が非常事態として、全医療機関を国が統括すれば、医療崩壊などしない。英国では、政府の統括でコロナ患者の受け入れを命令して、混乱は起きていない。日本の中小病院が、経営上の理由で、診療拒否、入院拒否をしているにすぎない。一部の悪党病院経営者は、補助金だけ貰って診療拒否である。今の政府には危機状態での統括能力がないのだ。

 

パラリンピックの児童生徒の強制観戦

 政府は無用な外出を避けよと国民を強制させながら、無力な児童生徒を強制観戦させるのは、感染防止の真逆の対応である。生徒は逆らえない。

 

修学旅行の禁止通達

 その状況で、なぜパラリンピックの観戦を生徒に強制するのか。委員も親も反対しているではないか。政府も東京都も狂っている。

 

増税

 アメリカ政府は減税で、景気回復である。日本は真逆の対応で増税である。経済を分かっていない官僚がのさばっているのが原因である。だから景気対策に正しい対策が打てず、失われた30年が過ぎた。

 

ワクチン販売の推進

 ここまで感染が爆発したのだから、その治療に力を入れるべきである。長尾医師会会長もイベルメクチンの推奨をし始めた。政府の対応が遅い。政府からは、利権と縄張り争いで少しも前向きの政策が出てこない。

 そのせいで、病床のひっ迫である。新型コロナは現在エボラ熱と同じ1類に分類されているから、混乱に拍車がかかっている。インフルエンザ並みの5類に変更すれば、一般病院でも治療が出来るので、軽病者の重症化が防げるはずだ。それをしないから、自宅で重症化して死亡する人が絶えない。すべて厚生省のメンツを重んじたための醜態である。

 もとはと言えば、日本政府がワクチン開発へ金を出すのを出し渋ったための結果である。

 

水際作戦のルーズ化

 なぜ外人の入国の水際作戦でルーズな対応をするのか。それが感染爆発の原因だ。欧米は都市封鎖のロックダウンの厳しい対応である。日本は、せめて入国時の水際作戦を徹底すべきだ。しかし特例とかで、中韓の慮両者をルーズに入国管理をしている。

強行したオリンピックで、感染していたペルー関係者の入国管理がずさんだった。ばっか会長に銀座漫遊を許した政治体制は最たる悪行だ。

 

真因

 こんな悲惨な状況に追い込まれた原因は、政治家のモラルの低下、道徳の欠如である。なにせ世界汚職度(クリーン度)では、日本は18位で、先進国中で最下位である。いくら対策を出しても、役人の根性が腐っていて、保身と利権に惑わされて取り組みが本気でないので、効果が出るわけがない。だから失われた30年が過ぎ、年々、国民の年収が下がっている。我々が出来ることは、声を上げ、選挙でそういう議員に投票しないことしかない。棄権が一番よくない。棄権率が下がって、横浜市長選挙では、結果が出た。具体的に動けば、何からの具体的な答えが出るのだ。

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 馬場恵峰書 2006年

2021-08-27   久志能幾研究所通信 2133  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年8月26日 (木)

私も言われた「生涯後悔するぞ!」(裁判官を威嚇した言葉)

 

 これは工藤会総裁の野村被告が裁判官から死刑判決を受けて、退廷するときに吐いた言葉だ。その言葉を我々は笑えまい。野村被告は、自分の世界で総裁として闇の世界に君臨し、裁判官さえ自由になると思い込んでいた。我々も科学文明の支配者として、甘く美味しい顔をした「美食の暴力団」を手なずけ、自分だけは病気にならないと思い込んでいた。その陰で、多くの身内の内臓の細胞を殺していた。病気になれば現代医学で治せばよいと思っていた。それで美食に溺れ、暴飲暴食の飽食を繰り返してきた。それで肺の細胞が死に、肝臓の組織が死に、脳細胞が死んだ。

 

人間の驕り

 本来の自然界にはない嗜好性の高い美食を、科学技術の力で開発し(金儲けのため)、人を麻薬依存症のようしてしまった。その結果、癌や認知症やアレルギーの昔はなかった病気が蔓延して当然である。新型コロナウイルス感染の蔓延も、これが影響しているのだろう。一連の異常事態は、食で暴走した人間への自然界からの逆襲だと思う。

 

 その「美食の暴力団」が、貴方の命を狙う。私はあの世の閻魔大王様に「この事で生涯後悔するぞ」と密かに言われ続けてきた。それに耳を貸さなかった。聞こえないふりをしていた。食の闇に無知の為、聞こえなかった。自分に下された最後の審判は、還暦後に訪れた。その審判では、認知症、ガン、肺炎等の死刑判決や、余命宣告である。

 

タバコ

 タバコを飲み、肺の細胞を殺した。肺の細胞は他の細胞と違い、一度死ぬと二度と再生しない。その咎は人生の終末期に、肺の機能低下等で己を苦しめる。その時になって、後悔しても遅いのだ。

 新型コロナウイルスに肺が侵されると、肺の組織が死ぬ。肺の細胞は再生しない。肺の機能が低下すると、溺れるような苦しさを引き起こす。そのように肺の機能低下は致命傷にある。

 私は職場でタバコの副煙流の被害で、長い間、苦しめられた。

 私の両親は喫煙をしなかった。そのお陰で私はタバコを吸わない。背中で両親に感謝である。多くの仲間は両親がタバコを吸い、子供である仲間もタバコを吸う習慣となる。タバコ飲みは、自分殺し、妻殺し、子殺しの大罪である。

 

飲酒

 酒を飲むと、肝臓の細胞を殺す。食べものは胃で消化されるが、酒は薬物の分解と同じプロセスで、肝臓でしか分解・無毒化ができない。その過程で会うコールの分解に携わった細胞は死ぬのだ。肝臓の細胞は分裂を繰り返して、死んだ細胞を再生するが、一定回数の細胞分裂を繰り返すと、それが止る。その時は、肝硬変、ガンになってしまう。

 私は数年前に完全禁酒にした。

 

美食

 脂ののった高級なお魚や天婦羅、脂肪分たっぷりの菓子類、砂糖漬けのお菓子を食べると、血管内の内側にプラークが堆積する。それは大食・飽食でも同じ結果となる。その堆積分が血管内径を細め、血流を妨げ、高血圧になり、毛細血管の末端まで血が行かなくなる。血には栄養素と免疫酵素が含まれるが、それが体の末端まで行かないと、体の末端の組織や、脳内細胞が死に、認知症や癌になる。体の組織の末端に免役酵素が行かないから、病気やがんになって己が死ぬ。

 私は食事で、断油、断糖、断脂、「ノー・パン」生活を心がけている。

 

死刑判決

 耳をすまして閻魔大王の死刑判決を素直に聞こう。死刑判決を聞いたら、反省して改心しよう。誘惑の「一口」の連続が死刑判決を招く。ご用心ご用心。

 私は癌になり死刑判決を受けた。死刑執行前に改心して、狂った食生活と狂った生活を改め、死刑執行猶予となった。残された時間を大事に使いたい。そのために健康が最優先である。

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2021-08-26   久志能幾研究所通信 2132  小田泰仙

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2021年8月25日 (水)

78年前は学徒出陣、今はコロナ戦線に生徒出陣、政治屋の犠牲に

 

 現在の新型コロナ戦争で、政治屋はオリンピック開催の正当化のため、「学校連携観戦プログラム」の虚名錦旗を掲げ、参加拒否の抵抗できない児童生徒をパラリンピックに集団観戦に強要している。新型コロナ戦争の最前線に生徒出陣である。感染爆発が起きている時の集団観戦は、コロナ戦場で集団感染への危険性がある。東京都を始め各地に非常事態宣言を出し、不要不急の外出を控えろと叫んでいるくせに、パラリンピックへ児童生徒の強制観戦である。何時からこんなに政治は劣化したのだ。

 オリンピックは無観客と決定したのに、なぜ児童生徒を動員するのか。なぜ韓国みたいにゴールポストを動かすのだ。ダブルスタンダードである。

 小池知事も菅総理も狂っている。危機管理とは、非常事態を想定して、行動を変えること。それを無視して猪突猛進とは、墓穴への道だ。

 子供は民族の宝なのだ。それを自分の人気取りの道具に使い、子供の命を危険に晒すとは、政治家の風上にも置けない。亡国の輩である。

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2021-08-25   久志能幾研究所通信 2131  小田泰仙

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2021年8月22日 (日)

「北欧の経営方針」 ご縁の成就と新型コロナ対策を

 

 北欧は、自然環境が厳しく、また人口も少なく、グローバル経済的には不利と思われがちだ。しかし実際は世界的に有名な企業が多い。北欧の企業は世界的に活躍している。北欧の厳しい環境が強さを生んだ。

 北欧の代表的な国であるスウェーデンでは、人の働きかたや生き方は、日本人と価値観がまるで違う。それを35年前に実体験して驚嘆した思いがある。ある時、納入した機械が故障して、その対応で徹夜をしたら、現地の担当責任者から You are crazy. と呆れられた。「機械は壊れて当然、それを修理のために徹夜など気ちがい沙汰だ、人間性尊重に反している」と言うわけだ。

 それで納得して暫らくスウェーデン式労働環境で働いて快適さを堪能した。しかし日本に帰国後、忙しさにかまけて元のモーレツサラリーマンに戻ってしまい、その感動を忘却してしまった。

 いま当時を振り返り、またこの新型コロナ禍の折、命には限りがあることを思い知り、生き方の見直しをしている。再度、スウェーデン人の生き方を観察し直そうと思う。

 

北欧の企業経営方針

 1 人口が少なく、最初から世界志向

 2 企業が絶えず新陳代謝する国策

 3 北欧デザインで高い付加価値あり

 4 ローカライズはほとんでしない

 5 カリスマ経営者は必要ない

   週刊ダイヤモンド「北欧に学べ」 2015年3月14日号より

 

 それを自分の活動に照らして、参考にするとよいようだ。自分の活動範囲が狭いと嘆くことなかれ。正道で歩めば、世界的なご縁も手に入る。

 

 ご縁を絶えず新陳代謝。付加価値の少ないご縁は横に置いて(老いて)、新しいご縁を探そう。

 価値観も環境に合わせて変えていこう。日本は余りに固定化が行き過ぎた社会である。官僚の頭の固さは不変である。そのため日本は停滞している。

 その弊害が、今回の新型コロナ感染大爆発での官僚の不手際である。官僚は、ワクチン接種一本やりでしか、対策を進めない。考え方が新陳代謝しないのだ。新型コロナとの戦いは、状況が刻一刻と激変している。それを現在の役人たちは、太平洋戦争当時の玉砕戦法一本やり戦法であったように、考え方を変えようとしない。なぜ負けたかの反省もしない。「欲しがりません勝つまでは」と、政府は精神論で緊急事態宣言戦法ばかり押し付ける。

 

 まず自分の人生を設計(デザイン)しよう。人生の良き設計図なくして、良き人生の家は創れない。自分はどういう人生を送りたいのか、それを明確にしなくては、よき人生は作れない。我々は犬猫ではないのだ。

 

 自分の価値観を普遍的にしよう。当たり前を当たり前に精進できる人間になろう。

 カリマスのよう立場になる必要はない。

Img_63991s 馬場恵峰書 2006年

2021-08-22   久志能幾研究所通信 2128  小田泰仙

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2021年8月21日 (土)

「母の死」 その教えの自戒と自壊

 

10年前の自戒(2010年)

 私は母を42歳のときになくした。享年69歳、平均寿命からいえば早すぎる死であった。母は太っていて、私が健康上から、もっと痩せろと口すっぱく言っても、母は「食べたいものを食べずに、長生きなどしたくない」と聞く耳を貸さなかった。

 

 結果的に肥満からくる高血圧で、脳内出血で倒れ、その一年後、脳梗塞になり亡くなった。

 1992年のお盆に大垣市民病院に入院して、そのまま意識が薄れて行き、亡くなる前の5ヶ月間は、食物人間状態で、12月初に眠るがごとく逝ってしまった。

 この間、私は就業後の深夜、刈谷から大垣市民病院まで(80kmの距離)車を飛ばして通ったのだが、意識のない母を見舞うほど、辛く情けないことはない。面会しても意識のない母の顔を見るだけ。全く反応がない。看護していた父はもっと辛かったろうと今にして思う。こんな見舞い甲斐のない、辛い見舞いはない。見舞いに行っても母の反応があれば、まだ慰めがあるのだが、全く反応のない母の顔を見るのは辛いものでした。そんな姿を家族には見せてはならないとの教えであった。

 

 親としての健康管理は家族・子供に対する責務である。特に肥満は発病の大きな原因の一つで、突然死や脳溢血の発生率が数倍に跳ね上がる。だから肥満の解消と健康管理は、親としての責務なのだ。

 親の早死にほど、子供にとって不幸なことはない。還暦を過ぎて、両親が健在の友人をみると羨ましくなる。親として子供がかわいければ、自分が健康管理をして、長生きしてあげるのが、最大の「孝行」である(「孝」の字は、大人を意味する「老」と「子」から構成されている)。子供に残して喜ばれるのは、財産よりも親の健康と長生きである。親を失って初めて、また還暦の歳を迎えてその価値がわかる。でも、その時には遅いのだ。(2010年12月9日 記)

 

現在の自壊(2021年)

 母の死から約20年経って私が定年退職になった。それから多くの病気が噴き出して対応に追われた。加齢により免疫力も低下して、体の各所が壊れてきたのだ。その真因を探ると、全て己の食生活、生活習慣の悪さがなせることだった。

 今、母の歳まで生きて、多くの気付きを得た。何とか母親の歳以上に生き長らえられたのを喜ぼう。5年前の中学校の同窓会では、同じクラス仲間が20%も亡くなっているのを知らされ愕然とした。明日は我が身なのだ。

 

母の教え

 母の死の教えは、「あんたも何時かは病気になって死ぬのだよ。私の死に方を見て、生活せよ」であったようだ。子供は親と同じような生活習慣で生きている。同じような病気になって死ぬのも当たり前である。

 母の死は、生活習慣、食生活の間違いを明確に教えてくれていた。幸い、意識して危機管理として健康管理をしてきたので、大事に至らなかったが、加齢で体力が落ち(免疫力の低下)、病気が表面化した。会社勤めの激務で、その対策が十分ではなかったようだ。母の死がなく、無為に健康に無頓着に過ごしていれば、今頃、死んでいたと思う。

 その対策は不十分であったことを、定年後に思い知った。長年の狂った生活の咎は10年後にくる。定年後7年が経ってやっと病気頻発の真因が見つかり、それから対策を打って現在、4年目でやっとその効果が出て生きたところである。

 

真因

 その原因は、狂った食生活、狂った生活習慣による血管の劣化であった。それが原因で、血管内部にプラークが溜まり、それが原因で各種の病気を起こしていた。高血圧になり、白内障になり、網膜静脈閉塞症になり、癌になり、もう少しで脳梗塞、心筋梗塞で死ぬ寸前であった。幸い、久留米の真島消化器クリニックの真島先生の診察で真因が見つかり、食事療法指導で、快方に向かっている。

 何ごとも元を絶たなきゃダメなのよ。それが分かるまでに長い年月を要した。人は愚かな存在だと、つくづくと思い知った。

 

エピソード

 知人の奥さんが、私の見立てでは、まさに血管内プラークが溜まり、怖ろしい病気になる寸前であると推察した。それで久留米の真島消化器クリニックに行くことを助言した。しかし忙しいとかで、半年たっても検査に行ってくれない。人は痛い目に会わないと、足が動かないようだ。私の母はそれで命を落とした。

 それが人の習性だ。多くの人は、私だけは大丈夫と思っている。検査を受けるのも、子供の為と思えば動けるはず。病院に行く意味を考えよう。健康で長生きすれば、子供が喜ぶのだ。それが親の生きる功徳である。健康に長生きして、一人でも喜んでくれる人がいるだけ、生きる価値がある。

 

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 馬場恵峰書 2006年

2021-08-21   久志能幾研究所通信 2127  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年8月20日 (金)

お経の暗唱はダメ、読経を。読経より写経を。

 法要では僧侶は必ず読経である。たとえそれを暗唱できても、僧侶は、目の前に経典を置いて、読経として「お経」を「読んで」いる。暗唱ではない。

 お経を読んでいると、一字一字が目に焼き付いてくる。声で心に響いてくる。読経の目的は、自分自身への説法である。自分が仏として、お経に書いてあることを一心同体で実現するための教えとして読む。現世で己が佛となり(成仏)、世の中に利他の心で奉仕をするためである。それが読経の目的である。それが暗唱では、その力が弱いのだ。

 

偲ぶ会で般若心経を暗唱に絶句

 ある人の偲ぶ会で、ある弟子が師の思い出を語ったが、その冒頭で般若心経を暗唱した。その時間が、約3分間も要した。多くの人が時間を無駄にした。私は偲ぶ会にふさわしくないと違和感を覚えた。なにか般若心経の暗唱を自慢しているかのようにも思えた。

 偲ぶ会に参列した人は、僧侶でない素人からの般若心経の暗唱など聞きたくはない。僧侶は修行をして得度をしている。その僧侶の暗唱ならまだしもである。その僧侶でもお墓等の場所以外では、お経の暗唱などはしない。偲ぶ会では、葬式ではないので読経はやらない。ましてや般若心経の暗唱などもってのほか。それよりも、偲ぶ会なのだから、その時間を参加者のために師の想い出話に充てて欲しかった。

 

写経

 読経より良いのは、写経である。一字一字を丁寧に書いていると、その意味や響きが心に響く。それが故人への一番の供養となる。

 

命を頂く

 我々が日常的に仕事や個人的に面会の約束を取り付け、面談する相手とは、仏さまである。一期一会で会う仏さまである。もう二度と会えないかもしれない仏様である。その佛様のような相手と面談するとは、相手から有限の時間(命)を私のために頂くのだ。だからその佛様とは、心して向き合うべきだ。それをスマホの画面に気を取られて会話をするから、ご縁が結ばない。面談中にスマホをいじる人は、面談者のお話し(お経)を読んでいないのだ。それは相手との会話を上の空で、暗唱しているようなものだ。暗唱なら上の空でも唱えることが出来る。相手の言うことを一言一言、読まねば、心は読めない。そういう人では、幸せを掴めまい。私は、面談中に私の目の前でスマホをいじる人とは一線を引いている。

 

芸術と仏道

 演奏会の公式ピアノ演奏では、必ず暗譜である。私は河村義子先生からそう指導を受けた。その書かれた楽譜(お経)を頭に叩き込み、自分の解釈を盛り込んで演奏する。楽譜を見ながら演奏しては、楽譜に振り回された顛末となり、芸術の演奏ではなくなるからだ。だから芸術に教科書はない。

 「芸術」の「芸」の字は、草冠(匂い草)に、「云(立ち上る)」で構成された会意象形文字である。匂いは時代や環境、人によってその評価が変わる。だからこそ芸術である。

 お経を読むとは、宗派を開かれた導師の教えを忠実に従う事である。時代が変わっても真理は変わらず、一つである。その道から外れれば、外道である。しかし芸道は解釈が無限にある。それが仏道と芸道の違いである。

 自分が今、創っているものが、芸術品か規格品(真理)かを考えよう。

 

P10504321s_2 馬場恵峰書

2021-08-20   久志能幾研究所通信 2126  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。